Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2012年 05月 21日
山本覚馬建白(4)~「拙見申上候」2/3
「時勢の儀に付き拙見申し上げ候、書付」の二回目。慶応三年(1867)に大政奉還が行われた後、幕府が統制力を失っていたことをいう。文脈的には大政奉還から以降のことなのだが、前年のことにも言及するなど、内容的には時系列が前後する。


昨卯年九月」政権返上相成候処幕吏并(1)諸藩士井蛙管見輩(2)ニ至り候ニモ(3)因循姑息」私論相立慶喜公於寡君も無拠取扱兼候廉も有之畢竟幕府者軽」浮柔懦ニ流弊弊藩(4)は山野ニ生育頑愚固陋之風俗御藩之如キハ(5)西」陸之一大國ニ而萬國時情も疾ニ御通し公明正大御卓見も彼(6)為在候儀ニ(7)」有之併幕府者(8)勿論弊藩桑藩ニ至り候而も(9)為國家焦思苦慮罷」在候得共事情齟齬従何となく確執形を生し(10)天下之物議ニ渉リ候儀も」有之哉ニ付萬事一洗彼此嫌疑冰解仕度奉存候ニ付昨卯(11)六月私儀」赤松小三郎を以御藩小松氏西郷氏エ其段申述候処御同意ニ付幕府」監察エ(12)も申談候得共更ニ取合不申

---------------------------------------
(1)并-並  (2)輩-ノ輩  (3)ニモ-テハ
(4)弊弊藩-弊藩  (5)如キハ-如キ  (6)彼-被
(7)儀ニ-儀  (8)者-有  (9)も-者
(10)生し-生ミ  (11)卯-卯年  (12)エ-ヱ
(数字)は青山霞村『山本覚馬』所引「管見」との異同



【読み下し】
昨卯年九月、政権返上相成り候処、幕吏并ならびに諸藩、井蛙せいあ管見の輩に至り候にも因循姑息、私論相立つ。慶喜公、寡君にも、拠よるところ無く取り扱ひかね候廉かどもこれ有り、畢竟ひっきょう、幕府は軽浮柔懦けいふじゅうだに流れ、弊弊藩は山野に育成、頑愚固陋がんぐころうの風俗。御藩の如きは西陸さいりくの一大国にて万国時情も疾はやくに御通じ公明正大、御卓見も為され候儀にこれ有り。併しかしながら幕府は勿論、弊藩桑藩に至り候ても、国家のため、焦思苦慮罷り在り候へども、事情齟齬そごより何となく、確執、形を生じ、天下の物議に渉わたり候儀もこれ有るかに付け、万事一洗、彼此かれこれ嫌疑氷解したく存じ奉り候に付き、昨卯六月、私儀、赤松小三郎を以て御藩小松氏西郷氏へその段、申し述べ候処、御同意に付き、幕府監察へも申し談じ候へども、さらに取り合ひ申さず。


【語釈】
昨卯~返上:二条城で大政奉還の号令が発せられたのは10月14日。「九月」とあるのは覚馬の誤りか。なお「土佐藩大政奉還建白書」の日付は九月になっている(建白提出は10/3)
井蛙管見輩:「井蛙」は「井の中の蛙」。管を通して物を見るような狭い考え方という意味の「管見」と同義。
因循姑息:旧来のやり方に固執することに伴う、事なかれ主義的な態度や考えを批判する際に用いられる言葉。幕末の開明派が保守勢力に向けて頻りに使った。
畢竟:いろいろな経過をたどった挙げ句の「最後に、結局」という意味と、物事を要約していう時の「要するに」という意味がある。ここでは後者の意味で解釈しておく。
軽浮柔懦:「軽浮」はうわすべりで軽々しい様子、「柔懦」は弱々しい様子。
山野ニ生育:粗野で洗練されていないことをいう比喩。
頑愚固陋之風俗:習慣的に頑固で保守的な土地柄だということ。この句の後ろに文末を明示するものがあれば分かりやすいが、それはない。しかし、ここで一文を切らないと意味が通じない。
御藩~:これ以降の記述では、大政奉還以後の混乱をいう文脈に固定せず、時系列を遡らせる必要があるか。
西陸:西国。あるいは九州に限定するものか。用例不詳。
万国時情:世界情勢。
彼為:「彼」は「被」の誤り。青山版「管見」に従う。
併幕府~有之哉ニ付……:形式的には文が切れないので分かりづらい。保守的な幕府や会津、桑名でも天下国家のことを憂慮していたこと、薩摩や長州への応対で確執が生まれたこと、などの内容が一文で記されている。
昨卯六月私儀:慶応三年六月。覚馬が赤松小三郎に時勢に対する見解を託して、薩摩と接触を図った件は不詳。
赤松小三郎:信州上田藩士。山本覚馬との接点は不詳。なお赤松は慶応三年(1867年)九月、薩摩藩士中村半次郎、後の桐野利秋によって暗殺されている。
小松氏西郷氏:小松帯刀と西郷隆盛。
幕府監察エも申談候:具体的な事跡は不詳。


【大意】
昨年の九月に大政奉還が行われたものの、幕吏や諸藩の狭量な連中は旧習にこだわった勝手な議論を重ねました。慶喜公も会津侯もそれらを扱いかねたのですが、要するに幕府は弱腰な対応に流れ、我が会津は粗野で頑迷な考えしかできなったのです。(思えば)貴藩は西国の雄、世界事情にも通じ、公明正大にしてすぐれた考えもわかっております。しかし幕府にしても、会津や桑名にしても、国家を思ってのことなのです。すれ違いから確執が生じ、それが天下国家の議論に及ぶようにもなったようでした。それらの疑念を一掃しようと、昨年の六月、この私が赤松小三郎を遣って、貴藩の小松氏と西郷氏に事情を申し上げましたところ、ご同意いただきました。それで幕府の監察にも話を通したのですが、こちらはまったく取り合ってもらえませんでした。

山本覚馬建白
「管見」と「建白」 / 「近年世上紛々」 / 「拙見申上候」1/3 / 「拙見申上候」2/3 / 



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# by office34 | 2012-05-21 18:29 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)
2012年 05月 20日
山本覚馬建白(3)~「拙見申上候」1/3
建白書の最初に付された二つ目の前書き。標題に「時勢の儀に付き拙見申し上げ候、書付」とある。文末には「辰三月」、「御執事中」とある(「中」は「宛」と同じ)。以下、全文を三回に分けて紹介する。


   時勢之儀ニ付拙見申上候書付  山本覺馬(1)
先般御取押相成重大之罪(2)萬死を不免深奉恐入候儀ニ付謹而御所」置相待居申候過日御藩渕邉直右衛門殿エも(3)申逑(4)候通り私儀兼而為」國家聊心ヲ盡し居候ニ付假令囚虜之身たりとも素志徹底仕度奉」存當正月騒擾後も滞京罷在候儀ニ御座候先年来時勢紛擾既往」之儀は萬ゝ御洞見之通(5)於元幕府」天朝御尊奉外國交際等其外件々不行届之廉有之然ル処去ル子年以」来長州御所置之義(6)ニ付幕臣勝安房守申上候(7)は長州無罪不可討且」御藩之儀は従来為國家御厚配被為在候処幕府時情迂闊ニして」却而疑惑を生し候(8)(9)ニ付御藩決而不可疑於弊藩モ私并(10)両三輩同」論申立候え共貫徹不仕遂ニ不都合之始末ニ至リ其後土藩・(11)國家大本御」立直し之儀ニ付 王政復古之建白有之(12)於御藩も御同論之儀慶喜公於」寡君は宇内形勢も熟知皇國一新挽回之機会と奉存

---------------------------------------
(1)山本覚馬-[ナシ]  (2)重大之罪-重大罪之罪  
(3)も-[ナシ]  (4)逑-述  (5)通-候  
(6)義-儀  (7)候-候ニ  (8)候-[ナシ]
(9)義-儀  (10)私并-私共并  (11)・-ヨリ  
(12)有之-[ナシ]
(数字)は青山霞村『山本覚馬』所引「管見」との異同


【読み下し】
   時勢の儀に付き拙見申し上げ候、書付    山本覚馬
先般、御取り押さへ相成り、重大の罪、万死ばんしを免るべからず、深く恐れ入り奉り候儀に付け、謹んで御処置、相待ち居り申し候。過日、御藩、渕辺直右衛門殿へも申し述べ候通り、私儀、かねて国家のため聊いささか心を尽くし居り候に付き、仮令たとひ囚虜の身たりとも素志徹底したく存じ奉り、当正月騒擾後も滞京罷り在り候儀に御座候。先年来、時勢紛擾、既往の儀は万々御洞見の通り、天朝御尊奉、外国交際等、その外、件々不行き届きの廉かど、これ有り。然るところ、去る子年以来、長州御処置の儀に付き、幕臣勝安房守申し上げ候は「長州無罪、討つべからず」と。且つ御藩の儀は「従来国家のため、御高配なされ在り候ところ、幕府、時情迂闊うかつにして却って疑惑を生じ候儀に付き、御藩、決して疑ふべからず」と。弊藩にも私並びに両三輩、同論申し立て候へども貫徹仕らず、遂に不都合の始末に至り、その後、土藩より国家大本御立て直しの儀に付き、王政復古の建白これ有り。御藩にも同論の儀、慶喜公、寡君には宇内うだい形勢も熟知、皇国一新挽回の機会と存じ奉る。


【語釈】
御取押相成:慶応四年一月、鳥羽と伏見で会津桑名両藩を主力とする幕府軍と薩長軍の衝突が起きる。開戦時、すでに視力を失っていたことや、若い塾生らの軽挙妄動を諌めていたなどの理由で、大坂に下った会津藩士らとは別行動を取っていた覚馬だったが、戦端が開かれた旨を聞いて下坂を試みる。ところが、大坂への道はすでに塞がれており、覚馬も会津の残党として薩摩軍に捕縛され、二本松(現・烏丸今出川)の薩摩屋敷に収容されることとなる。
渕邉直右衛門:薩摩藩士。二本松の屋敷の留守居か、あるいは屋敷での捕囚管理の責任者だろうか。青山霞村『山本覚馬』には、次のような記述がある。「先生(山本覚馬のこと)の名はすでに他藩にも知られていたから、幽囚中でも待遇は極めて丁重であった。先生が引かれてくると、淵部某がきてお互い仕官する身としては止むを得ないことだと慰め、黒羽二重の紋付一襲を出し、これは上役某の贈物だから、寒中のことであり、粗末ながら着てもらいたいと言い伝え、何分にも軍中のことで万事不行届の点は許してもらいたいが、御用があれば遠慮なく番人も申し付けていただきたい、できる限りは取り計い申しますとあいさつした。」この記述を信じるなら、淵辺直右衛門のおおよその地位は推察できる。
申逑:「逑」は「述」の誤。
私儀~居候:「山本覚馬翁略伝」*によれば、禁門の変に関する記述に続いて「已にして先生公用人に挙げられ幕府及び諸藩の名士と交り議論を上下す」とある。このあたりの交流、あるいは洋学所を開いて後進の教育に当たっていたことを指すか。*補注;覚馬の葬儀に際して浜岡光哲が門人代表として朗読した文章、初出「同志社文学」第六十二号[M26.1]、『改訂増補山本覚馬伝』等に転載
當正月騒擾:鳥羽伏見の戦い
滞京:「滞京罷かり在り御座候」とあるが、時系列はやや分かりづらい。大政奉還の後、会津藩士の多くが松平容保に従って大坂に下った際に、京都逗留を続けたのは覚馬の自主的な判断になるのだが、鳥羽伏見の戦いの後であれば薩摩藩の捕囚となっていたので「滞京」は強制されたものとなる。
時勢紛擾:時勢が混乱を極めていること。「先年来」というので、広く考えて嘉永の黒船来航以後の動乱全部を指すと考えておく。
既往之儀:全般的なことをいう「先年来、時勢の紛擾」を受けて、「既往の儀」というのであれば、具体的な事件を指していると思われる。薩摩藩が鍵を握った点を重視すると、八月十八日政変(文久三年、1863年)だろうか。あるいは、その後に薩摩藩の対長州の姿勢が一転したことを指すのかも知れない。原因は薩長同盟(慶応二年、1866年)の締結によるものだが、密約の薩長同盟がこの時点でピンポイントにイメージされていたとは思えないので、同盟に基づく薩摩藩の行動を指すと考えるのが適当だろう。
去ル子年:元治元年(文久四年,1864年)のこと。具体的には禁門の変を指す。
長州御所置:禁門の変に続く対長州政策。第一次長州征伐。
勝安房守:勝海舟。元治元年の夏頃であれば軍艦奉行も罷免されていたが、先進知識人として一定の影響力はあった。
長州~不可疑於:どこまでを勝海舟の発言と考えるかは分かりづらい。短くとれば「長州無罪不可討」だけになるが、長くとれば、薩摩に言及する部分も含む。文体的には間接話法になっているので形の上からの確定はできない。内容的に考えて、薩摩との協調を重視する点で、「且御藩~不可疑」までを勝海舟の言葉に含めて考えておきたい。
両三輩同論:「両三輩」は二三人の意味。少人数ということを漠然と示すものだろう。仏教用語の「一七日」「二七日」のように考え、「両三」を六とする意見もあるが、ここでは採用しない。
不都合之始末:両次の長州征伐(元治元年[1864年]と慶応元年[1865年])をいう
王政復古之建白:慶応三年九月に土佐藩主山内容堂の名で提出された「土佐藩大政奉還建白書」。文書名が「大政奉還建白書」であり、現代の歴史解釈でも大政奉還と王政復古は区別するのが普通だが、文中に「皇國數百年ノ國體ヲ一變シ、至誠ヲ以テ萬國ニ接シ、王政復古ノ業ヲ建テサルヘカラサルノ一大機會ト奉存候」との一節があり、覚馬の立場では大政奉還=王政復古とする純粋素朴な認識だったと考えられる。
慶喜公於寡君:「於」の用法やや不審。主格に軽く敬意を込める用法だが、慶喜は敬意の対象外か。慶喜と寡君を主格に並列させるくだりはもう一個所あるが、そこでも「慶喜公・於寡君」となっている。
宇内形勢:「宇内」は世の中の意味。ただ漠然と世の中、すなわち国内の形勢というだけでなく、諸外国も視野にいれたうえでの「世界情勢」と考えてみたいが、どうだろう。


【大意】
    時勢についての上申書    山本覚馬
このほど逮捕され、ご処置を謹んで待っておる次第でございます。
先だっては、貴藩の渕辺直右衛門殿へもお伝えした通り、私はかねてより国家のために考えてまいりましたので、捕囚の身となっても素志を貫徹したく、この正月の騒乱後も京に留まっております。ここ数年のことはお察しの通りです。朝廷に対する振る舞いや外国との交易などで、幕府には落ち度が多くありました。去る子の年以来、長州の処置について勝安房守がいうには「長州には罪はない、討伐してはならない」とのことです。貴藩についても「薩摩藩は国家のことを考えている。幕府が時勢に疎くて疑惑を生んでいるだけで、薩摩を疑ってはいけない」とのことです。わが会津でも私と他二三名は同じ意見でしたが、まわりを説得できずに不都合な事態を引き起こしてしまいました。その後、土佐藩より国家の根本を立て直すべく王政復古の建白が上申され、貴藩においても賛同されたところです。慶喜公や会津侯は世界情勢を理解しているので、これを皇国一新挽回の機会と考えたのです。


山本覚馬建白
「管見」と「建白」 / 「近年世上紛々」 / 「拙見申上候」1/3



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# by office34 | 2012-05-20 23:32 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)
2012年 05月 19日
山本覚馬建白(2) ~「近年世上紛々」
前書きの一つ目。「管見」では二つ目の位置に置かれたもので、「御役所」が宛先。二本松の薩摩屋敷に囚われているときに、屋敷の管理責任部署に宛てたものだろう。もう一つの前書きである「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」に比べると、内容に具体性が乏しく、ひたすら謹慎平伏の態度を強調する。細かいことは抜きにして、恭順の姿勢を見せることは、いかにも仲介者に宛てた文書らしい。今回の範囲でも触れているが、この文書と「管見」と呼ばれる個別の提案とが別な形で独立したものだったとすれば、この文書は前書きというよりは、添え状のようなものと考えられる。現状では「山本覚馬建白」という一冊の綴本の中での一連の文章となっているが、本来は別々のものであり、筆写段階で一枚の紙葉に続けられたのではないだろうか。


近年世上紛々騒擾ニ至候は寡君抔不行届従起り殊ニ當春之挙」動不可遁之大罪窮竟於私共モ不行き届之儀深奉恐入候爾来國」家之御動静は毫モ不相弁ヶ樣之身上ニ而 御國體エ関係之儀申」上候ニ(1)(2)越俎至極重々奉恐縮候得共御時節故兼而時勢ニ付若(3)」慮罷在候管見別紙ニ相認備高覧候間御不都合ニ無之候ハゝ其」筋エ御差出し被下度尤追々文明維新之御制度御變革右等ハ」必然蛇足ニ属し候儀と奉恐察(4)候得共萬一御採用之廉有之献芹之」野志相貫候ハゝ上は 御國恩を報し下は寡君之罪状を償ふ一端」ニモ相成可申歟と奉存候間格別之御垂(5)憐を以可然御取扱被成下候ハゝ」難有仕合奉存候以上」
辰六月」
山本覚馬」   
   御役所」

---------------------------------------
(1)ニ-テ  (2)も-者  (3)若-苦  (4)察-棄  
(5)垂-乗
(数字)は青山霞村『山本覚馬』所引「管見」との異同


【読み下し】
近年、世上紛々、騒擾に至り候は、寡君かくんなど不行き届きより起こる。殊に当春の挙動、遁のがるべからざるの大罪、窮竟くっきょう、私どもにおいても不行き届きの儀、深く恐れ入り奉り候。爾来じらい、国家の御動静は毫も相弁へず、ヶ様かやうの身上にて、御国体へ関係の儀、申し上げ候にも越俎えっそ至極、重ね重ね恐縮奉り候へども、御時節ゆゑ、兼ねて時勢に付き若慮罷り在り候。管見、別紙に相認したため、高覧に備へ候間、御不都合にこれ無き候はば、その筋へ御差し出し下されたし。尤もっとも、追々、文明維新の御制度、御変革、右等は必然、蛇足に属し候儀、恐れ察し奉り候へども、万一、御採用の廉かどこれ有りて、献芹けんきんの野志、相貫き候はば、上かみは御国恩を報じ、下しもは寡君の罪状を償ふ一端にも相成り申すべきかと存じ奉り候間、格別の御垂憐すいれんを以て、さるべき御取扱成し下され候はば有り難き仕合はせ、存じ奉り候。以上。
辰六月
山本覚馬   
   御役所

【語釈】
寡君:自らの主君をへりくだっていう言葉。ここでは会津藩主松平容保。
當春之挙:慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いにつながる上洛行動を指す。
窮竟:究竟と同じ。
ヶ樣之身上:薩摩屋敷で捕囚となっている状態をいう。
御國體:幕末動乱期以来、「尊皇」「攘夷」「佐幕」「倒幕」などの言葉で語られたイデオロギーを総称する概念。国家の根幹となる体制のこと。
越俎:与えられた職分を逸脱する行為。
御時~ニ付:「時節ゆえ」とあるのは、幕末期に、ほとんどの藩で身分の上下に関わらず、国家のあり方を議論することが流行していたことを指すか。
若慮:青山版「管見」では「苦慮」。時勢について苦々しく思うところがある、との内容では文章全体の趣旨に合わないので、「建白」の「若慮」を採る。自説に対する謙遜。
管見~相認:「政体」以下の項目にわけて列挙されている提案を指すか。とすれば、「建白」のように一冊に綴じられた形ではなく、それらが別の文書として独立していたとも考えられる。
追々~候儀:この個所意味不明。「追々」は次々にの意を表す副詞なので、「文明維新之御制度」「御変革」までに掛かるものだろう。また、このままの形では「必然蛇足」の個所で解釈が苦しくなるが、「文明維新~御変革」を「必然」に対応させておいて一度文章を切り、「蛇足」は覚馬自らの意見を指すものと考えておく。
献芹之野志:忠誠心
辰六月:慶応四年(戊辰)六月

【大意】
このところの世の乱れより、わが会津侯も兵を起こしたのですが、とりわけ、今春の行為はこの上ない大罪、深く恐れ入り申し上げます。以来、国体を語るは僭越と控えてまいりましたが、かねてよりの未熟な思いもないわけではありません。別紙に記したものがそれで、もし差し障りがないようでしたら、しかるべき筋へお届けいただきますようお願い致します。もちろん、このところの新制度やご変革は時代の必然であり、拙論がごときを加えるのは蛇足と存じ上げますが、万一ご採用くださいますところがあれば、御国への報恩にもなり、会津侯の贖罪にもなろうかと思っておりますので、何卒ご高配賜りますようお願い致します。
辰六月
山本覚馬   
   御役所

山本覚馬建白
「管見」と「建白」 / 「近年世上紛々」






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# by office34 | 2012-05-19 20:00 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)
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