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京都景観賞 |
at 2014-02-23 23:05 |
仁丹町名看板「下椹木町通千本.. |
at 2014-02-21 19:58 |
レプリカ仁丹 |
at 2014-02-19 14:18 |
曾根崎心中・道行き(通釈) |
at 2014-02-15 01:07 |
曾根崎心中・道行き |
at 2014-02-13 05:15 |
漢字の読み方 |
at 2014-02-11 06:03 |
鬼めぐり |
at 2014-02-08 14:26 |
鬼の話 |
at 2014-02-05 23:22 |
献灯の刻名 ~山国隊(6) |
at 2014-01-31 23:29 |
葵公園 |
at 2014-01-29 02:24 |
山国隊スタイル ~山国隊(5) |
at 2014-01-22 21:34 |
鏡ヶ原 ~山国隊(4) |
at 2014-01-20 23:17 |
桜色? |
at 2014-01-18 23:39 |
戊宸行進曲 ~山国隊(3) |
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雪の木の根道 |
at 2014-01-12 16:55 |
山国隊灯籠 ~山国隊(2) |
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山国隊(1) |
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祇園閣・京都タワー・時代祭 .. |
at 2014-01-04 03:43 |
時代祭、大いなる仮装行列 ~.. |
at 2013-12-30 16:58 |
本物でないということ ~キッ.. |
at 2013-12-28 15:48 |
京の大仏
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清水寺の十一面観音なんか、ふるくさい。あんなものに祈っても幸せはこない、方広寺の大仏に祈るのが幸せになる近道だ--(注:主語は豊臣秀吉)言うだけではこころもとないから、清水参詣の専用橋の五条の橋をずっと南、平安京の六角坊門小路にああるところに掛け替え、名前だけはそのまま五条橋にした。この結果、五条橋の位置が『梁塵秘抄』の時代と現代とで違うことになってしまったのだ。さて、こうした大仏殿(方広寺)なのだが、今ではそこに大仏つぁんはいない。大仏つぁんはいないけど、「大仏前」という地名のみが残っているというのがポイントなのである。そういう前提で「最新京都市街地図」を見ると、奈良の大仏さんのようなブツがいかにもそこに鎮座していそうなカットがついていて、思わずプッと吹きだしてしまうわけである。
それでも足りないと思ったらしく、新五条橋よりもっと南、平安京の七条坊門小路にあたる道を大仏正面通と名づけて整備し、あたらしい橋の正面橋をつくった。
いまの方広寺と豊国神社、京都国立博物館や博物館の東の阿弥陀ヶ峰の頂上までの広大な区域が当時の方広寺の敷地だったといっていい。方広寺を中心とするこの区域は市民のいこいと歓楽と信仰のセンターとして栄えるはずだったが、秀吉が死に、秀頼が徳川家康の政治力の前に屈服してほろびてからは荒れるにまかされる。
秀頼は父のあとをうけて大仏殿を完成したのだが、大仏殿の鐘に鋳造した銘文の「国家安康」と「君臣豊楽」の部分に徳川方が言いがかりをつけた。「国家安康」には家康の名前を分断して呪いをかけようという邪悪な意図がある、「君臣豊楽」は豊臣家だけの繁栄を願うものだという理屈である。これが大阪の陣のひきがねになり、豊臣家の没落になったのはなんとも皮肉なことだった。
方広寺の伽藍も大仏もいまは焼けてしまって影も形もないが、鐘だけは、したがって鐘の銘文だけは本物がのこっていて、問題の二ヶ所には白い塗料がぬってあるからすぐにわかる。
大仏が落雷(天火)で焼けたのは寛政一〇年(一七九八)のことだ。豊臣家の記憶につながるもっとも重要なものが、ついに京都から姿を消してしまったのである。
正面橋から東を見ても、大仏はない。
しかし、うしろには、だれかがいるのではないか、なにかがあるのではないか--「うしろの正面、どなた?」--豊臣家の人々は、どこへ行ってしまったのか?
『文学でめぐる京都』(高野澄、岩波ジュニア新書、1995)
大仏殿(方広寺)は同所(注:豊国神社のこと)北隣にある。豊臣秀吉が天正十四年(一五八六)に、奈良東大寺の大仏殿に倣って高野山の木食応其等をして造建せしめたもので、創建当初の大仏は木像で高さ約一九米、奈良の大仏より遥かに大きく、仏殿もまた宏壮であった。しかるに慶長元年(一五六九)の地震に倒壊し、秀吉の死後秀頼はその遺志を継いで再興につとめたが、その後累時の災害に罹って寺運は次第に衰微し、今は僅かに本堂、鐘楼等を有するにすぎない。現在、本堂に安置する半身の大仏は、天保十四年(一八四三)に尾張国の有志者の寄付による。どのくらいの大きさなのかは分からないが、昭和33年時点には天保14年に奉納された大仏が存在しているのである。ということは、当然ながら大正10年には、実体としての大仏つぁんがそこに鎮座していたわけである。過去に焼失したという事実、いま現在存在していないという事実、その二つの事実から、焼失以来今までずっと存在していなかったと決めつけていたのだが、それが間違いだった。思いこみは恐ろしいということの教訓にでもして誤魔化すことにしよう。『新撰京都名所図会1』(竹村俊則、昭和33年、白川書院)
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