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Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2010年 05月 11日
京の大仏
 とりあえず、ペタっと一枚貼ってみる。
京の大仏_a0029238_1733875.jpg

 このところ、古い地図をつらつら眺めまわしているわけだが、あれこれ物色していたら大正10年版の「帝国都会地図3 最新京都市街地図」(発行者大淵善吉、発行所駸々堂旅行案内部)なるものが手に入った。これがなかなか秀逸で、地図の上にワンポイント的なカットや、その場所にちなむ俳句川柳だの見どころだのが書き込まれて面白い。地名にみる時代色や現代的な観光情報ではヒットしないネタなどが盛りだくさんとなっているのだ。その中から、洛東は正面橋~正面通のあたりを切り出してみた。目玉は、一目瞭然、大仏つぁんだ(写真クリックで拡大)。

 京の大仏というと、京都的小ネタではよく取りあげられるものの一つだろう。大仏なんかないのに、「大仏前」という地名があるのはこれいかにとか、正面通やら正面橋やら言うのは何の正面なんだとかの話である。よく紹介されているネタなので、答えも有名になっているだろうが、念のために紹介するなら、これは豊臣秀吉が築いた大仏が方広寺にあって、それにちなむ地名ということになる。手許にあるネタ本の中で面白いのをピックアップすれば、こんな感じだろうか。かなり長くなるが、五条橋の話や国家安康事件など、関連する重要ネタにも及んでいてわかりやすい。
 清水寺の十一面観音なんか、ふるくさい。あんなものに祈っても幸せはこない、方広寺の大仏に祈るのが幸せになる近道だ--(注:主語は豊臣秀吉)言うだけではこころもとないから、清水参詣の専用橋の五条の橋をずっと南、平安京の六角坊門小路にああるところに掛け替え、名前だけはそのまま五条橋にした。この結果、五条橋の位置が『梁塵秘抄』の時代と現代とで違うことになってしまったのだ。
 それでも足りないと思ったらしく、新五条橋よりもっと南、平安京の七条坊門小路にあたる道を大仏正面通と名づけて整備し、あたらしい橋の正面橋をつくった。
 いまの方広寺と豊国神社、京都国立博物館や博物館の東の阿弥陀ヶ峰の頂上までの広大な区域が当時の方広寺の敷地だったといっていい。方広寺を中心とするこの区域は市民のいこいと歓楽と信仰のセンターとして栄えるはずだったが、秀吉が死に、秀頼が徳川家康の政治力の前に屈服してほろびてからは荒れるにまかされる。
 秀頼は父のあとをうけて大仏殿を完成したのだが、大仏殿の鐘に鋳造した銘文の「国家安康」と「君臣豊楽」の部分に徳川方が言いがかりをつけた。「国家安康」には家康の名前を分断して呪いをかけようという邪悪な意図がある、「君臣豊楽」は豊臣家だけの繁栄を願うものだという理屈である。これが大阪の陣のひきがねになり、豊臣家の没落になったのはなんとも皮肉なことだった。
 方広寺の伽藍も大仏もいまは焼けてしまって影も形もないが、鐘だけは、したがって鐘の銘文だけは本物がのこっていて、問題の二ヶ所には白い塗料がぬってあるからすぐにわかる。
 大仏が落雷(天火)で焼けたのは寛政一〇年(一七九八)のことだ。豊臣家の記憶につながるもっとも重要なものが、ついに京都から姿を消してしまったのである。
 正面橋から東を見ても、大仏はない。
 しかし、うしろには、だれかがいるのではないか、なにかがあるのではないか--「うしろの正面、どなた?」--豊臣家の人々は、どこへ行ってしまったのか?
『文学でめぐる京都』(高野澄、岩波ジュニア新書、1995)
 さて、こうした大仏殿(方広寺)なのだが、今ではそこに大仏つぁんはいない。大仏つぁんはいないけど、「大仏前」という地名のみが残っているというのがポイントなのである。そういう前提で「最新京都市街地図」を見ると、奈良の大仏さんのようなブツがいかにもそこに鎮座していそうなカットがついていて、思わずプッと吹きだしてしまうわけである。

 こうした歴史的な背景があるので、この地図の大仏についてもいろいろと考えさせられる。真っ先に思い付くのは、この地図にカットを入れたデザイナーが、「大仏前」という名前に釣られて、大仏があるものと思いこんでいたということである。あるいは地図といっても厳密なものではなく、今風に言えばイラストマップなのだからイメージの世界を紙上に再現しているにすぎないと言うこともできる。「大仏前」という地名が残っているのは事実だし、この界隈が豊臣家と大仏の名残の地のような雰囲気があるのも歴史的には頷ける。「大仏前」という地名がそれを象徴すると考えると、実体的な大仏の姿を方広寺の上に幻視するのも悪くはないのだ。それにこの地図では、五条大橋の上で牛若丸と弁慶らしき人物が戦っていたり、御所の蛤御門の近くにハマグリのカットが入れられていて「焼て口あく蛤ごもん」と書かれていたりするので、イメージ重視、ビジュアル重視の傾向が窺えなくもない。

 そんなこと、こんなこと、あれこれ考えつつ、京の大仏について調べていると、予想外の情報にぶつかってしまった。実は、大仏は存在しないという大前提が違っていたのである。秀吉が建造し、豊臣家滅亡の引き金となった大仏は焼失しており、いまや「大仏前」という地名だけしか残っていない。しかし、大正10年の話であれば、事情が違っていた。
 大仏殿(方広寺)は同所(注:豊国神社のこと)北隣にある。豊臣秀吉が天正十四年(一五八六)に、奈良東大寺の大仏殿に倣って高野山の木食応其等をして造建せしめたもので、創建当初の大仏は木像で高さ約一九米、奈良の大仏より遥かに大きく、仏殿もまた宏壮であった。しかるに慶長元年(一五六九)の地震に倒壊し、秀吉の死後秀頼はその遺志を継いで再興につとめたが、その後累時の災害に罹って寺運は次第に衰微し、今は僅かに本堂、鐘楼等を有するにすぎない。現在、本堂に安置する半身の大仏は、天保十四年(一八四三)に尾張国の有志者の寄付による。
『新撰京都名所図会1』(竹村俊則、昭和33年、白川書院)
 どのくらいの大きさなのかは分からないが、昭和33年時点には天保14年に奉納された大仏が存在しているのである。ということは、当然ながら大正10年には、実体としての大仏つぁんがそこに鎮座していたわけである。過去に焼失したという事実、いま現在存在していないという事実、その二つの事実から、焼失以来今までずっと存在していなかったと決めつけていたのだが、それが間違いだった。思いこみは恐ろしいということの教訓にでもして誤魔化すことにしよう。

 ちなみに、天保年間に奉納されたという大仏は、昭和48年に大仏殿ともども焼失しているとのこと(京都市歴史資料館「京都市歴史年表 都市のすがた」「大仏殿」の項目より)


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by office34 | 2010-05-11 17:22 | 京都本・京都ガイド