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Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2011年 12月 20日
「大西郷月照碑」補足 ~清閑寺(4’)
50年前の雑誌であり、ジャンル的なことも考えると今となっては読むこともままならないだろうと思っていたが、10年ほど前に復刻版が出版されていた。昨日の「大西郷月照碑」のところで触れた「奇術研究」という雑誌の件である。そして記事をつらつらと読んでみたところ、松旭斎天一は明治四十五年(1912年)六月に世を去っているとのこと。そうなると、当方が提示した見通しは完全に的はずれとなってしまうのだが、同誌によって他の可能性も出てきた。それは天勝の師匠である天一でないにしても、天一の名前を襲名した弟子による建碑である可能性である。

「奇術研究」26号には、「追憶の奇術(二)~二代目天一の話~」という記事も載っている。「松旭斎」の号は養子であり、弟子の天二が引き継ぎ、二代目松旭斎天一として大正期に活躍したとのことである。その二代目天一こと松旭斎天二も42歳(45とも)で早世しているが、それが大正十一年(1922年)なので、大西郷月照碑の大正八年と齟齬することはない。

もちろんこれとても可能性の一つにすぎない。たとえ二代目であったとしても、その本姓は確認できていないし、二代目天一その人が建碑したのであれば松旭斎つかうのが本筋だろう。さらにいえば襲名者であれば「元祖」というあたりにもややひっかかりを感じてしまう。結局のところ未確認事項ばかりで何も分かっていないのだが、松旭斎天勝と二代目天一が耳目を集める中での、ニセモノ天一による建碑である可能性も濃くなってきた気もする。

以下、参考までに(長文引用失敬)
天一は健康を害して、明治四十三年暮、赤坂の演伎座出演を最後に一座を解散した。そして福島の飯坂温泉へ転地療養したが、四十五年六月に他界した。天一が最後の舞台となった演伎座は、大正十五年一月二十日に焼失している。
 天一が一座を解散してからは、天二と天勝の二派に分裂するが、天勝は明治四十四年四月に、浅草ルナパ-クの帝国館で、一座結成の旗揚げ公演をした。天二は天一一座の残党で固め、大正二年にはロシヤのペテログラードその他へ遠征している。
 なお天二(二代目天一)の一座も天勝の一座も、明治の代には歌舞伎座に出ていない。天勝の一座は、大正にはいって、三年三月六日初日、六年五月三日初日、八年三月八日初日と、各十日間、出演している。
 天二は大正十一年(一九二二)、四十二才で死去して一座が解散した。天勝は昭和九年三月、新橋演舞場引退の披露公演をした。
 なお、初代天一がアメリカから帰国して、歌舞伎座に初登場した明治三十八年頃は演劇の革新期で、新劇の抬頭となるが、奇術の革新期と時を同じくしているのはおもしろい。
 坪内逍遙らの文芸協会が、発足したのが明治三十九年一月、その第一回の「ベニスの商人法廷の場」、その他の公演が、同年十一月の歌舞伎座である。また、左団次らの自由劇場の第一回公演が、明治四十二年十一月の有楽座であった。
「奇術界のゼネラル松旭斎天一 明治三十九年前後の天一一座の活動(1)」平岩白風(「奇術研究」26号,1962年,力書房[2001年刊行の復刻版より])

(続)


「歌の中山清閑寺」をめぐって~清閑寺(1) / 謡曲にみる「歌の中山」~清閑寺(2) / 「歌の中山」の語義 ~清閑寺(3) / 西郷隆盛とプリンセス・テンコー ~清閑寺(4) / 「大西郷月照碑」補足 ~清閑寺(4') / 清閑寺総括 ~清閑寺(5)


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by office34 | 2011-12-20 18:26 | 京都本・京都ガイド