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Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 02月 07日
河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)
槇村正直、山本覚馬、明石博高らによる、いわゆる「第一期京都策」は、いくつかの功績も残している。大きなところを挙げるとすれば教育制度の整備だろう。地域共同体と表裏の関係をなす小学校制度(学区制)の構築である。それらは積極的に評価されてしかるべきなのだが、勧業策の多くは、覚馬が「建白」の中で思い描いていたところとはほど遠い結果となった。もちろん制度設計の不備にばかり原因を求めることはできない。時代の趨勢にうまく合致しなかったこともあるだろうし、実務担当者の能力不足や関係者の思惑といった人間的な要因によって事業がうまく進まなかった側面もある。しかし現象のみでみれば、槇村の後任で北垣国道が府知事になるとともに、ほとんどの事業が中止もしくは民間への払い下げとなっているのである。第一期京都策のコントロールセンターであり、シンボル的な施設だった勧業場も明治十四年(1881年)に民間に払い下げられ、舎密局にいたっては明石が経営を引き受けたものの、事業としては立ち行かず、ほどなく消滅している。

さて、河原町御池の北東角の土地についてだが、勧業場の跡地を手に入れたのが神戸で観光事業を成功させた前田又吉という男だった。神戸の諏訪山(ビーナスブリッジのあたり)に温泉を開いたことを皮切りに、各地でリゾート産業を展開していた人物である。その前田が、明治二十三年に河原町御池で開業させたのが「常磐ホテル」で、前田の死後に経営者が替わって「京都ホテル」となる。京都ホテルオークラのサイトに掲載されている「京都ホテル100年ものがたり」には、そのあたりの事情も含め、河原町御池の歴史が興味深く紹介されている。

ところで、長州屋敷→調練場→勧業場→常磐ホテル→京都ホテルと変遷をたどったこの一角に、それぞれの痕跡をさぐるとすればどうなるだろう。長州屋敷に関しては、西側の河原町通に面したところに置かれている桂小五郎像を取り上げるのも面白いが、南側エントランスの柱の裏側に長州屋敷だったことを示す石碑がこっそりと建てられている。またそれと向き合うかのように勧業場址の碑があるので、日銀京都支店の敷地南西隅の織工場跡の碑と併せてこちらの方に注目しておこう。

常磐ホテルについてはどうか。せちがらい態度をとるとすれば、商売敵でもあった以前の経営者を顕彰するような痕跡は残さないところだろうが、京都ホテルは事業の先達に対する敬意は払っているらしい。敷地北側の押小路通に面したところに、前田又吉に関連する二基の石碑が置かれているのである。「又吉泉記碑」と「前田又吉銅像記之碑」である。いしぶみデータベースにも詳細な解説(*)があるので、詳細はそちらに委ねておくが、あまり目立っていないぞ云々は措くとして、京都ホテルの度量に敬意の一票は投じておきたい。
*「又吉泉記碑」「前田又吉銅像記之碑」。前田又吉関連の二基はいしぶみデータベースの地図検索からは辿れない。いしぶみデータベースでは地図やテーマから絞り込んで石碑を検索することができるが、地図からのリンクが存在しないデータも含まれているからである。碑の名称や関連する人物名が最初からわかっていれば「全件一覧」ないしは「人名一覧」から辿ることが可能なのだが、地図から探せないものがあるのは、素性の判然としない碑がたまたま目に留まったような時には、問題がありそうだ。

河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)_a0029238_1122526.jpg
桂小五郎像

河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)_a0029238_1121990.jpg
長州屋敷跡の碑

河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)_a0029238_1122254.jpg
明治天皇行幸所勧業場阯

河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)_a0029238_1121655.jpg
明治天皇行幸所織工場阯

河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)_a0029238_112889.jpg
又吉泉記碑

河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)_a0029238_1121298.jpg
前田又吉像之碑

河原町御池その後 ~木屋町をあるく(7)_a0029238_1395893.jpg
河原町御池周辺の石碑(幕末~明治初期関連)


ちなみに、(6)の記事で紹介した明治八年の地図からわかるように、現在の市役所前広場のあたりは栽培試験場であり、御池通の南側に山本覚馬宅と槇村正直宅、さらにその南側に勧業事業の一つである製靴場があったようだが、これらを示す碑は建てられていない。





(プロローグ)木屋町界隈をあるく / (1)高山彦九郎像 / (2)三条大橋西詰の高札場 / (番外)赤松小三郎と山本覚馬 / (3)佐久間象山遭難碑、大沢商会 / (4)木屋町の寓居碑 / (5)御池大橋西詰の「療病院址」碑 / (6)河原町御池・幕末から明治へ / (7)河原町御池その後 / (8)木屋町二条、島津の作業場 / (9)明石博高と舎密局 / (10)「木戸邸」の碑 / (11)丸太町の女紅場 / (12)鴨東の牧畜場 / (13)荒神橋の京都織物会社本館 / (エピローグ)第一期京都策の時代 /


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by office34 | 2013-02-07 23:50 | 京都本・京都ガイド