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Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 07月 31日
初期段階のディスカバージャパン ~イメージの嵐山(3)
検証したいのは、ディスカバージャパンのキャンペーンが動き始めたときの、リアルタイムでの雰囲気である。チーフプロデューサーである藤岡和賀夫氏の回顧録的な文章はさまざまな形のものが目に留まるが、それがリアルタイムの意識であったかどうかは確証が得られない。たとえば、次のような文章がある。国鉄からのキャンペーン依頼を受けて会議が持たれたときの様子、
さっそく会議を始めたものの、出てくるのは「万博の代りに東北三大まつりを宣伝しよう」「4人がけのボックスシートを割引で売ろう」というありきたりな案ばかり。
 私は「旅」の意味に立ち返るしかないと思った。人間にとって旅とは何か。それは景色や事物を見ることではなく、それを見ている自分が何物かを知ることではないか。60年代を鮮やかに彩ったのはテレビの登場であった。だが、テレビにうつる風光明媚な景色を見ても、自己を発見することはできない。だからこそ「旅」の意義があるのだ。
 真っ先に思いついたフレーズは「ディスカバー・マイセルフ」、私自身を発見しようというわけだった。
『DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ』
(藤岡和賀夫編著,2010,PHP研究所)より
初出「ディスカバー・ジャパン仕掛け人」(文藝春秋2005年6月号)
このあと、英単語の認知度(当時)の関係などから「ディスカバー・ジャパン」が導かれ、補足的なサブタイトルの「美しい日本と私」が生まれた経緯が語られる。ディスカバージャパン誕生を語る重要な一文であるには違いない。しかし、これがリアルタイムのものだったかを考えるとどうだろう。

文章自体は2005年に書かれたものである。したがって回顧であることが大前提である。その点はやむを得ないにしても、キャンペーン依頼をうけての会議でいきなり抽象論が話題になったのだろうか。東北三大まつりや割引シートの件であれば十分に理解できる。それに対して藤岡氏は違和感を抱いたのだろう、求められているのはそうした具体案ではあるまいと。数回、あるいは数十回かも知れないが、何度も重ねられたはずの企画会議の総括しての文章であることを割り引いたとしても、現実に展開されたディスカバー・ジャパン、あるいは1970年代を語る時代のキーワード「ディスカバージャパン」との間には、まだまだ大きな溝があるように感じられる。

『DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ』という本が刊行されている。そこには回顧文も含め、興味深い資料が多く収録されている。その中の一つ、キャンペーン企画の「お寺の宿」に関する文章に次のような一節がある。
私はたじろぎましたね。彼のお説の通りなのです。もちろん、このキャンペーンはある意味ではイメージ・キャンペーンですから、敢えて方法論は求めなくてもいいという論法はあります。しかし、彼に指摘されるまでもなく、このキャンペーンをイメージ以上に確かな手触りで盛り上げるよい方法があるのなら、私はその方法論を探していた、と言っていてもよい。
初出『藤岡和賀夫全仕事・第一巻ディスカバージャパン』(1987年)
ここに登場する「彼」とは、「お寺の宿」企画の素案を持ちこんだ利井明弘氏のこと。キャンペーンが行われた時代よりおよそ15年後の文章だが、ディスカバージャパンがイメージキャンペーンだったと振り返っている点が興味深い。当初の会議では国鉄からのキャンペーン依頼に対して具体的な企画がいろいろ発案されたが、それらを統合するコンセプトが欠けていたところから藤岡氏の違和感は生じていたのではなかったか。会議を重ねた結果、電通が国鉄に対して提示した答えは、個別の企画は二の次にしたコンセプトであり、そのコンセプトを端的に表現するコピーが「ディスカバージャパン」だったといえるのではないか。

それでは、その最初の段階で提示されたコンセプトはどのようなものだったのだろう。これも『40年記念カタログ』所載の資料だが、毎日新聞1970年10月7日付けの記事が参考になる。記事は国鉄がディスカバージャパンのキャンペーンを開始することを発表したときのものである。
国鉄は六日、役員会を開き、十四日の鉄道記念日から「DISCOVER JAPAN」(日本発見)のキャンペーンを全国で展開することに決めた。ポスト万国博の乗客減を防止する対策で、海外に奪われがちな国民の目をもう一度国内の自然美、伝統、人情などに向けさせ、鉄道旅行のブームを呼ぼうという企画。
 「単に増収だけがねらいでなく、かくれた日本のよさをみんなで発見し、それを守り育てようというキャンペーンだから、公害追放の国策にも共通する」というのが国鉄の解説。ノーベル賞作家の川端康成氏もこの趣旨に賛成し、キャンペーンの副題に「美しい日本と私」と名づけた。
国鉄がおこなった記者発表に基づいた記事かと思うが、一連の流れは以下のようなものだったろう。(1)国鉄から電通へのキャンペーン依頼→(2)電通内部での数次にわたる企画会議→(3)電通から国鉄へのプレゼンテーション→(4)国鉄内での検討~採用決定→(5)国鉄・電通による具体的な肉付け→(6)記者発表。なお上記の記事では、具体的な企画の内容に「記念スタンプの設置」「記念入場券の発売」「"D・J列車"の運転」「季刊誌の発行」といったものが挙げられている。

『40年記念カタログ』の前書きには、藤岡氏が行ったプレゼンテーションに対して馬渡一眞営業課長(当時)が「今日はアラカルトを食べるつもりが、フルコースを頂戴しました」という感想を述べたとのエピソードが紹介されている。同じエピソードは、同書の別のところで「私たちは軽食堂でカレーを頼んだつもりだったのに、全国キャンペーンなどというフルコースのメニューが出てきて驚いた」という形で紹介されているのだが、そこから推察するに「(1)国鉄から電通へのキャンペーン依頼」の部分は、乗客減を補う単発的なキャンペーンの提案といった程度のものだったのだろう。それが全国規模のプロジェクトという形で返ってきたものだから、驚きと戸惑いになったのに違いない。そして初期の段階で提示されたコンセプトは、記者発表の文章に反映されているものだったと思われる。すなわち「かくれた日本のよさをみんなで発見し、それを守り育てよう」である。藤岡氏の回顧するところによれば、旅を通しての自己発見という要素が初期段階から意識されていたように書かれるのだが、その部分については上記の新聞記事からでは読みとれない。裏付けの資料がない以上、推測の域を出るものではないが、旅と自己発見をつなげるのはキャンペーン主体が当初から仕掛けたものではなく、集客キャンペーンを進めるうちに形を見せ始めた社会の新しい需要だったのではないだろうか。仮にそうだったとすれば、キャンペーンに伴う後発的な企画がそうした需要に応える風合いのものになっているのも頷ける。


<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」



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by office34 | 2013-07-31 05:08 | 京都本・京都ガイド