Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2008年 12月 05日
「蓮月尼」と「太田垣蓮月」
 歴史学者の近藤秀樹が『宮崎滔天・北一輝』(中公バックス日本の名著)の解説で、次のような文章を書いている。宮崎滔天や北一輝があまり知られていないという文脈に続く一節である。

滔天、北一輝はともに日本史では今だに二流ないしは傍流の人物視されているというのが実情である。具体的な例をあげれば、家永三郎著『検定不合格日本史』(三一書房)は、もともと高等学校用の日本史教科書として書かれた著書であるが、二・二六事件は当然のこととして触れられているが、そこに北一輝の名はない。まさか文部省によって削られたわけでもあるまいが。
 となると、これからの日本の後継世代は北一輝などという人物とどこでいつめぐりあうこととなるのであろうか。ついに北一輝とはめぐりあうこともなく、ある日突然に第二、第三の“北一輝”と対面する、日本の歴史はそういう具合に進行するものなのであろうか。
 そうであっては困る、それはふたたび歴史学徒が若い世代を賊うことになりかねない。誤り導くことになりかねぬ、という危惧が、この解説を引き受けた立場である。

 現在より遡ること三十年近く昔に書かれた文章なのだが、当時でさえすでに宮崎滔天は言うに及ばす、北一輝の名前も忘れられつつあったようだ。第二第三の北一輝を生み出さないために云々と続く、歴史家の使命感を熱く語る口吻は措くとしても、時代の風潮によってクローズアップされる人物、忘却される人物がいることを知らされて興味深い一節でもある。

 堅苦しい書き出しになってしまったが、こういうところから始めたのは、先日触れた西賀茂神光院の関連で太田垣蓮月について少し触れてみようと思ったからである。太田垣蓮月を紹介することに関しては、近藤氏のような使命感に駆られているわけでもないが、放っておくのは少々もったいない。というのは、太田垣蓮月を追いかけてみると、図らずも「時代によって変わる人物像」という視点が浮かびあがってきて面白いからである。

 まず、大前提としての概要、すなわち現在広く行われている人物像だが、太田垣蓮月は幕末から明治初期に活躍した女流歌人とされている。新装版『京都事典』(東京堂出版、1993年)では「幕末期の歌人」となっており、京都で活躍した歴史上の人物を紹介する『千年の息吹[京の歴史群像]』上・中・下(京都新聞社、1993~94、上田正昭・村井康彦編)には、杉本秀太郎氏の文章によって下巻に掲載されている。そのタイトルは「太田垣蓮月 多芸-才色兼備の女流歌人」で、ここでも太田垣蓮月は歌詠みなのである。実はこのブログの本丸でもある京都クルーズでも蓮月尼はすでに取り上げていて、そこでも「江戸時代末期から明治初期に生きた女流歌人」となっている。

 私家集もあり、歌人であることには違いないのだが、歌人である側面ばかりがクローズアップされるようになったのは、実は最近のことなのではないだろうか。もちろん、最近といっても、新装版『京都事典』や『千年の息吹』があるのだから、1990年代あたりを意識してのことであり、おおよそ80年代か90年代かそのあたりで「女流歌人太田垣蓮月」との認識が定着したのではないだろうか。厳密にいつごろからどう変わったと追跡するのは困難であるにしても、少し時代をさかのぼったところでこの人物に触れる文章をみると、「歌人」とは異なる部分が強調されている。

 それはいわゆる「烈婦」としての側面である。『京男・京おんな-京都人の気質と意識』という本があり、昭和四十三年に京都新聞に掲載された記事を一冊の本に纏めた同書には、「幕末の烈婦で歌人」として紹介されている。「烈婦」の方が「歌人」の前に来ているのは、チェックを入れておいてもいいだろう。それにこの記事自体がかなり興味深い記述でもある。以下に引用しておく。

蓮月尼
 幕末の烈婦で歌人。二度結婚に破れ、子供も二回死なせた。三十三歳で黒髪を切り、亡夫と来世の契りをむすぶ。だが、絶世の美ぼうをしたい、いい寄る男が絶えない。このため「烈婦すなわち千斤の秤を引き、自らの歯を抜く。一歯を抜くごとに粛々声あり。滴滴血ほとばしる……」
 つまり、亡夫への貞節を誓って、クギ抜きで一本一本、自分の歯を抜き取り、自らの美ぼうを傷つけたのだ。俗念を払うため、自分の両耳をそぎ落とした明恵上人の例はあるが、日本女性では珍しい。彼女は余生を和歌、陶芸、社会事業にささげた。
 慶応四年(1868年)、幕府追討の官軍が、まさに京を立とうとした時、蓮月尼は西郷隆盛に、つぎの一首を短ざくに書いて渡した。
  あだみかた勝つもまけるも哀れなり
  同じ御国の人と思えば
 おかげで江戸城は、無血開城されたという。

 この記述は、「京おんなの恋」という章の中で触れられているものであり、歴史的にも京都の女性は芯が強いということを言いたいようだ。引いている事例が、小督局、常磐御前、祇王、横笛、袈裟御前、静御前と、かなり偏っているわけだが、平家物語を中心にピックアップしてきたように見受けられるラインナップに対して、いきなり蓮月尼が加わってくる。事例の正当性や、それ以前に主張の妥当性にコメントをするつもりはない。ただ蓮月尼についての一節に関しては、いくつか注目に値する内容が含まれている。

 まず「」付きで引かれている「烈婦すなわち云々」の部分、ここに関しては出所の調べはついていないが、恐らくは講談か立川文庫のような形で巷間に流布していた話ではないかと思われる。そして、仮に講談系の読み物で取り上げられる話だったとすれば、昭和の中頃には烈婦としての性格付けが一般であったこと、蓮月尼という存在自体が一般の意識と近い場所にいたことなどが窺われる。これらは明らかに現代の太田垣蓮月の人物像とは異なっている。冒頭に触れた「傍流の人物視されている」北一輝の事例ではないが、現代風にいえば坂本龍馬や土方歳三といったレベルでの身近さを持っていた、つまり誰しもが知っていた「烈婦」だったのかも知れない。

 また、最後に付加的に添えられている西郷隆盛との一件であるが、蓮月尼のおかげで江戸城の無血開城が行われたという文脈になっている。「という」と付いているので、これが文章の筆者の歴史認識というわけではない。むしろ巷間に流布していた見方の一端がこうした文章に窺われるという捉え方をするべきだろう。そうすると、世間一般が持っていたと思われる蓮月尼に対する近しさの裏付けであるようにも読める。

 現代では、それこそ積極的に調べ物という意識で取り組まないと出会うことも無くなっている感じのある太田垣蓮月だが、それこそ半世紀ほど時計の針を巻き戻すと、烈婦蓮月尼として、もっと身近な場所に鎮座していたと思われるのである。

 ちなみに、西郷隆盛と蓮月尼の交流についてであるが、これは島原の角屋を舞台に展開されたサロンにおけるものだろう。西郷隆盛が角屋に出入りしていたこと、島原サロンの中で蓮月尼が重要なポジションにあったことなどは、角屋に残されている調度や短冊などから窺われるらしい。これについては、曖昧な記憶なのだが、かつて角屋を見学したおりに、そういう主旨の説明を受けた覚えがある。

 さて、現代では「歌人太田垣蓮月」として、ある種の好事家や文学研究者が意識するところなのだが、誰もが知っている「烈婦蓮月尼」だった時代もあった、ということを言いたいのだが、実は当方としても、そこまで言い切るほど調べ上げているわけではない。むしろつまみ食い的に断片的な資料を漁っているにすぎない。したがって足りない部分は空想妄想あるいは思いこみという万能接着剤を使っている。それを白状した上で続けるのなら、つまりはこういうことである。

 世間の人々が明治を身近に感じていたうちは、維新の英雄たちも人々の意識の中で生き生きと活動していた。講談風に脚色されたものも含めると、その生き様は、憧憬や憎悪など、さまざまな心の動きとも一体化しうるものでもあった。そして、彼らの周囲にいた人々にもそれなりの役割としかるべき場所が与えられていた。しかし時間が経って明治の影が薄れていくにつれ、一人また一人と忘却されていった。「烈婦蓮月尼」などはまさにそうした形で消えていった一人である。この人物に再び脚光が当てられた時、そこに浮かびあがったのは研究者が研究対象として取り上げる「歌人太田垣蓮月」という、かつての姿とは別のものであった。

 西賀茂神光院には、晩年の蓮月尼が過ごしたという茶所が残されている。現代人で蓮月尼に関心を持つのは、どういう経緯があってのことだろうか。いわゆる研究者としての王道的アプローチなのか、紅葉の名所としても知られる神光院の紹介から太田垣蓮月の名を知ってそれをきっかけに調べ始めた口なのか、あるいは料亭の蓮月茶屋に行ったことがきっかけで意識するようになったのか、それともまだ明治を意識できるご高齢の御仁か、さまざまなパターンが考えられるわけだが、思うに第二のケースが一番多くなっているのではないだろうか。もちろん自分自身を含めた上での、あくまでも思いこみの話である。

写真は神光院境内にある「蓮月尼舊栖之茶所」の碑(クリックで拡大)




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by office34 | 2008-12-05 04:13 | Trackback | Comments(0)
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