Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2008年 12月 11日
大田垣蓮月のこと


 前回に書いた内容は、大田垣蓮月とは何者ぞという話であり、現在広く行われている「幕末期の女流歌人」という評価を検証してみようということだった。正直のところ、あれこれ云々できるほど調べ上げたわけではないが、かつては「烈女蓮月尼」という認識が広くあり、近年になって学問的に見直される流れの中から「女流歌人大田垣蓮月」という姿が浮かびあがってきているのではないかという見通しである。

 その後、少し調べものが進んだので修正を含めて贅言を重ねておこうと思う。なお、今回の書き込みでは引用が多くなる。しかも、キーを握るのは一冊であり、それは昭和十八(1933)年に上梓された成瀬慶子の『大田垣蓮月』という本である。蓮月没後およそ半世紀ほどして出た評伝であり、リアルタイムで大田垣蓮月と接していた人の話も踏まえられているほか、半世紀ほど経って、評価がどのように動きつつあるのかも窺われる一節もあって、非常に興味深い本である。

 さて本題。大田垣蓮月が西賀茂神光院で八十五年の生涯を閉じたのは明治八(1875)年のこと。当方が現時点で見つけることができた資料の中で、これにもっとも近い時点で記された人物評は『平安通志』の中の一文である。後年の資料に引用として出てくるものはいくつかあるが、出典として明示できるものとしては、これになる。『平安通志』は、平安遷都千百年記念事業の一環で編纂された書物で、明治二十八(1895)年の刊。

 そこには「尼蓮月 和歌ヲ善クシ別ニ機軸ヲ出ス、高雅風流、其名甚高シ、明治初年歿」とある。「別ニ機軸ヲ出ス」の箇所は意味不明。斬新な詠風を開いたという歌論的なところに踏み込んでの発言とは思えないので、単純に新しい歌集を出版したという意味合いなのだろうか、よく分からない。この点は措くとして、和歌をよく嗜んだという点と「高雅風流」の点で評判が高かったという点は、思うに同時代的な評価だったろう。

 ただ、これとほぼ同じ時代と見ていいのだが、明治三十二(1899)年に東京で刊行された本では「歌人」としての位置づけがはっきりなされている。それは佐々木信綱編による続日本歌学全書『明治名家家集』(上巻)で、蓮月尼の歌集「海人の刈藻」が収載されている。「歌人」という肩書きと、歌集が出版されたという経歴が必要十分の関係であると言っていいのかどうかは議論も必要にもなるところだが、没後数年にして「歌人」として評価は固まっていたと考えておきたい。ちなみに『続明治名家家集』における「海人の刈藻」の解題では、蓮月尼の経歴やエピソードが詳しく紹介されている。とりあえずその一節。

尼世わたるたづきにもとて陶器作る事を学び、陶器を製して、これに日頃よみし歌を仮初に彫りしに、文字の雅致なると陶器の風致あるとによりて、買ふ者少なからねば、思の外に世を安く送りて、父は七十八歳にて身まかりぬ。のち東山の寺院のあきたるに身を寄せて、一鍋一椀の外身つくる事なく、陶器を売りて得たる銭は、はつかに饑を凌ぐのみ。其余は尽く貧しき者にとらせ、身に一銭も蓄ふる事なし。又謙遜辞譲にして人に驕る色なかりしと云。

 陶器を焼き、そこに自詠の歌を刻んだものを売って日々の糧を得るというのは、いわゆる「蓮月焼」と呼ばれて珍重されるに至る陶器類の話なのだが、蓮月焼の作り手というのであれば「歌人」というより「陶芸家」というべきなのかも知れない。しかし実は積極的に「陶芸家」と呼んではいけない事情が存在している。それは、多くの評伝で紹介されているエピソードなのだが、蓮月焼が評判になるにしたがってニセモノが出回るようになった時のことである。陶器自体は市井の職人が容易に真似できる程度のものだったが、そこに刻みつけられる歌や筆跡は再現できないので、贋作者たちは自分たちの焼いた陶器に歌を刻んでくれるよう、蓮月尼を訪れては頭を下げて頼んだ。これは贋作の公認を求めたということである。それに対して蓮月尼は、焼き物については素人の手慰みだからどうでもいいこと、自分の歌や手跡が入り用ならいくらでも書きますよと快諾した……というのである。このエピソードは、些事にこだわらないおおらかな人となりを伝えるものとして引かれるところだが、蓮月焼が珍重されたからといって当人は陶芸家としての意識は持っていなかったことも読みとれる。では、だからといって「歌人」と呼んでいいのかどうかというと、実はそれについても疑問符を付けねばならない。ここで成瀬慶子『大田垣蓮月』の一回目の登場となるわけだが、そこに引かれているエピソードの中に次のようなものがある。

ある書林から尼の歌集を出版したいといふ交渉を受けた。名聞嫌ひの尼は頑としてそれに応じなかつた。その中に和歌を蒐集して無断刊行を企てた者があることを尼は伝へ聞いて、早速鉄斎を使としてその中止交渉をさせた。その時既に版木も半以上出来上つてゐたので書林の損失も少なくない。書林の主人もしきりに懇願するので鉄斎は一応帰つて尼にその事情を報告したが、尼はその版木の損失は弁償するから断然中止させてくれと主張するので、鉄斎はまた書林に引返して遂に主人を納得させたとのことである。
 それから幾多の歳月を経て、明治の初めに尼の歌集「海人の刈藻」といふのが出版されたが、これも尼の発企ではない。

 このエピソードはどう解釈するべきだろう。歌集の編纂と出版を当人に無断で行おうとしたことに対して怒ったのではなく、「名聞嫌ひ」がゆえの行動なのである。銭を払ってでも出させないというのだから、その度合いは相当なものだったのだろう。ここでわずかでも職業歌人としての意識があったなら、おそらく違った対応になっていたのではないだろうか。先に上げた蓮月焼の贋作の話で、真贋の違いを論じない点で「陶芸家」と呼べないとするのであれば、自らの詠草を纏める意志を持たない点において「歌人」とは呼べないという論理も成り立つはずである。確かに税所敦子の言葉として「……都門の歌壇に名高かつた大田垣蓮月尼、高畠式部……」というものがあったことは成瀬慶子の本にも紹介されているが、周囲より歌人と見做されていたとしても、当人にはそういう意識はなかったのに違いない。

 比較としてはやや乱暴だが、『源氏物語』を書いたからといって紫式部を「作家」といってよいかどうか、『枕草子』をもって清少納言を「随筆家」と呼べるかどうかという話にも通じてくる。紫式部にせよ、清少納言にせよ、当人の意識としては中宮に仕える女官という自覚だったと思われる。その上での余技、その一つの筆遊みが好評を得たに過ぎない。少なくとも専門職としての作家意識などはなかったと思われるのである。蓮月尼に即するなら、こういうことである。当時の教養として、嗜みの一つで身についた詠歌の才が他人様に喜んでもらっているにすぎない、自分自身は歌人でもなければ陶芸家でもない、単に手遊びでの焼物や詠歌を弄んでいるにすぎない。そこにあるのは、肩書きや職業意識としての「歌人」とはほど遠い感覚だったと思われる。

 それでは「歌人」と呼ばないのであれば、蓮月尼をどう呼べばいいのか。突き詰めれば、蓮月尼は蓮月尼に過ぎないとなってしまうのだが、あえて何かを被せるのなら「江戸末期から明治初期に生きた尼僧」とするしかない。さらに説明の文言に相当するものが必要なら「江戸末期から明治初期に生きた尼僧で、自ら詠んだ和歌を刻んだ焼き物『蓮月焼』で評判を得る」とするあたりが妥当ではないだろうか。そして、ここへプラスαの属性が一つ、また一つと重ねられていく。

 プラスαの属性、その一つめとしては「清貧」という点が挙げられる。上に引用した『明治名家家集』の中でも「一鍋一椀の外身つくる事なく、陶器を売りて得たる銭は、はつかに饑を凌ぐのみ。其余は尽く貧しき者にとらせ、身に一銭も蓄ふる事なし。又謙遜辞譲にして人に驕る色なかりしと云」とあり、蓮月焼の贋作問題も性格のおおらかさというだけでなく、見方を変えれば、名利をゼニカネに結びつけなかったとなるわけだから、清貧の人なりと見做すことができる。もっとも高家の出身であることや若くして仏門に入ったことなどから、下層民が否応なく直面するぎりぎりのところでの餓えとは無縁の、いわゆる高踏的な次元での清貧だったのは間違いない。

 歌の才があり生き様も清貧でありとなると、話は出来過ぎではないかとの方向に傾くのが普通である。加えて蓮月尼には美貌という属性も備わっていた。これだけのプラス要件が並ぶと、そこに傷を求めたくなるのはいつの時代でも同じだろう。現代のタブロイド紙や女性誌のような、それをもっぱらとすることに対する世間様からの風当たりはあるにしても、その手の与太話を面白がるのもまた世間様である。この蓮月尼についても、この手の与太話的な話柄は、早い時期から出ていたようである。『明治名家家集』の中でも、実は引用しなかった部分に、剃髪後にも言い寄ってくる男がいたので自らの歯を抜き取って云々という、以前の書き込みで取り上げた『京男・京おんな-京都人の気質と意識』の中にあるエピソードが紹介されている。没後二十数年の時点において概略的に人生を紹介する記述の中に取り上げられるくらいだから、相当インパクトが強く、言い方を変えれば、面白可笑しく喧伝された話なのだろう。一応、確認の意味も含めて『明治名家家集』における文言を引用しておく。

尼容貌うるはしかりければ、書をおくりて挑む者あり。尼打泣きて、かゝる事聞くもかたちにこそよるなれとて、釘抜もて自ら歯を抜とりしに、其音きしきしと鳴りて、血出る事おびたゞし。媒する者大に恐れてのがれ去りしと云

 先日引いたところの、「烈婦すなわち千斤の秤を引き云々」とは文言が異なってはいるのだが、『明治名家家集』の言い回しについては、その出所は推測可能である。昭和三十三(1958)年刊行の『蓮月尼之新研究』(徳田光圓、三密堂書店)には、非常に近い文言でこのエピソードが紹介されている。それによると、

又依田学海の伝には、
容貌美はしければ、人皆これを見て心を動かし、文など送りて挑む者あり。尼うち泣きてかゝる事聞くもかたちにこそよるなれ、やうこそあれと、釘抜というものをもて、自ら歯を抜き取りしに、其音きりきりと鳴り……人其操節に感じて後は自ら敬ひ尊みてみだりなることを言ふ者無かりき。

とある。これを比べると、依田学海(天保四[1833]年~明治四十二[1909]年)あたりが下手人かともなるところだが、確固たる証拠となるものは得られていない。依田学海の著作のうち、「譚海」「談叢」などの中で人物評らしきところでは蓮月尼に関する記述を見つけることはできなかった。それに文言が厳密に一致するというわけでもないので、同じ資料に基づいて依田学海と佐々木信綱が蓮月尼伝を書いたとも考えられる。むしろ、その可能性の方が高いかも知れない。というのは、『蓮月尼之新研究』の中では、このエピソードについては、三つの資料が提示されており、依田学海によるものは、その一つに過ぎないのである。あとの二つとは、

林鶴梁長孺の記に、
然るに天然の美容、故態尚ほ存す、狡佻の少年或は艶書慇懃を送る。烈婦乃ち千斤の秤を引き自らの歯を抜く、一歯を抜く毎に粛々声あり。滴々血を迸らす、観者大いに驚き、皆曰く烈婦烈婦と。これより敢て挑む者なし。(原漢文)
これで見ると、尼は前歯を幾本も抜いたようである。

続けて

又「菅政友の記」には、
されど美しき匂ひの尚残りて、いたづら人の心動かす者少なからず、或いは玉章に心の程を知らせ、あるは人無きをりのかごとのいと繁くして、逃れ難く覚えたれば、ある日竊かにいと重き秤々もて己が歯にかけて抜く、歯の抜けし声と、血の迸る音を聞きつけて、人皆つどひつゝ驚きあへけり。
とあり、これも一、二本は抜いたように聞こえる。

とあって、依田学海以外にも、林鶴梁や菅政友あたりが誹謗中傷発信の容疑者として浮かびあがってくるのである。ともに原典は未確認につき重要参考人程度の扱いなのだが、蓮月尼とは年代的に重なってくる人々に嫌疑が掛かってくるということは、ゴシップ的な話柄は生前から語られていたと考えていいだろう。それに現代の風潮と重ねてしまうわけだが、これも有名税なるものの一種とすれば「清貧の尼僧、美貌の裏側に血塗られた過去」とでも題した与太話が方々で語られたとしても十分に頷けてしまうのである。なお、調べが行き届いてはいないのだが、依田学海にしても林鶴梁にしても菅政友にしても、いずれの場合においても蓮月尼との直接の交流があった痕跡は見出せていない。いわば無責任に書き散らせる立場でもあったと考えられる。

 さて以上の歯抜きエピソードだが、ただ美しき清貧の才女という評判の代償だったというだけなのだろうか。自らの歯を抜くというのは具体的な行動なのだが、結果として伴われるのは「烈婦」というラベルである。このラベルを導くために、でっち上げられた話が歯抜きのエピソードだったとは考えられないだろうか。だとすれば、「烈婦」なる評判を導きかねない素地は他にあったのではないかと思われるのである。そこで浮かびあがってくるのが、蓮月尼の交流や経歴である。成瀬慶子『大田垣蓮月』の「はしがき」をそのまま引用してみる。

はしがき
 畏くも光明八紘を照らします 天照大神は、御武勇絶倫の御方であらせられたが、平時は極めて御優しく在して、常に機殿にお籠もり遊ばされ、織り紡ぎの業にいそしみ給うと承る。
 この御徳の流れを汲む、わが日本女性は、鞏個なる意志と、純美なる感情をと兼備した特質を持つて居る。
 大田垣蓮月尼は、明治維新の大業成る前後の、動静はげしい時代に人となつた女性である。その紛乱の巷であつた一隅に住んで、名利を求めず、富貴に願はず、自詠の和歌を書いた風雅な陶器を焼き、それをたづきのわざとして、他に尽くすこと厚く、自らは乏しくつゝましく暮して来たのであつた。
 尼はまた勤王の志士達から、慈母の如くに敬はれ慕はれながら、聊も表立つことなく静かに時勢の推移を見つめて生きて来た。おほどかなその態度は、内に勇気と仁愛があればこそである、
 尼は女性としてあらゆる悩みを味ひつくし、受けはたしてきた素直な雄々しい人であつた。多難を砥して自己を磨き上げてきた寂光の人であつた。日本女性伝統の諸徳が、尼を通して燦然と輝いてゐる。この精神は現代の私共日本女性の、骨髄の中にも流れて通つてゐる筈である。
 明治維新の変動にも劣らぬ大変動である今日、この心深い歩み方をしてきた、偉大なる先人の足跡をふりかへりたいと考へて、この伝と歌と文とを蒐集して一巻とさせてもらつた次第である。

 いかにも戦前に書かれたことを窺わせる時代がかった口吻はそれだけでも面白いのだが、それは別問題である。ここで注目するのは、第四段の「尼はまた勤王の志士達から、慈母の如くに敬はれ慕はれながら」という点、さらに第五段の「尼は女性としてあらゆる悩みを味ひつくし、受けはたしてきた素直な雄々しい人であつた」という点である。まず後者から。これは経歴の問題である。結婚生活の破綻、子供すべての夭逝という悲劇の主人公でもあった蓮月尼なのだが、それでいて清貧に生きたことで、逞しさや、成瀬慶子の言葉を借りれば「雄々しさ」を感じさせるということなのだろう。前者は、勤王の志士たちとの交流という事実があって、そこから醸し出されるイメージが勇猛な姿だったということではないだろうか。実際、交流のあった志士たちとなると、成瀬慶子は梁川星厳や春日潜菴の名前を挙げている。しかし、実証の必要のない噂の世界であれば、三傑(桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通)らとの勇ましいやりとりが想像されたとしても不思議ではない。歯抜きエピソードと同じレベルでの、面白可笑しく都合のいい空想譚である。事実、『京男・京おんな-京都人の気質と意識』にあった西郷隆盛に歌を送ったという話は、成瀬慶子によれば官軍が三条大橋に差しかかった時、一人の尼が群衆の中から飛び出してきて西郷に短冊を渡したという内容の伝説があるとして紹介されており、二人が知己の関係だったとはなっていない。時代がくだって、この伝説がさらに改変され、二人の距離がいっそう接近したものと考えられる。

 林鶴梁らに嫌疑の掛かっている歯抜きエピソードは生前より語られていたとも思われるが、志士との交流という事実が勇ましい形に脚色されたのもかなり早い段階だったように思われる。その点に関しても成瀬慶子がコメントしている部分がある。かなり長くなる部分ではあるが、重要なので引いておく。

 文久三年八月十九日の未明、妙法院をあとに雨ふりしきる中を、ひそかに西に向つて落ちてゆく七卿が、竹田村を通過する時路傍の木蔭に身を隠すやうにして一人の尼がよそながら見送つてゐた、それは蓮月であつたと云ひ伝へられてゐる。
  さりともの頼みもきれて絲すゝきみだれゆく世の秋ぞかなしき
といふ歌はその時尼が詠んだ歌であるといふ。
 尼は単なる世捨人ではなかつた、時勢の推移に深い関心を寄せ、やがて来るべき維新の黎明を心秘かに待望してゐた一人に相違ない。しかし、尼は飽くまでも、つゝましやかな人である。被を深くかぶり、雨にぬれつゝ、木蔭に身をひそめてよそながら七卿を見送つたといふところに、却つて燃ゆる情熱を胸に秘めた、いかにも日本女性らしい謙虚な姿を発見して一層尼の人格がなつかしくなる。
 ところが、それに引きかへて、別にかういふ一つの伝説がある。
 鳥羽伏見の戦に大勝した官軍が、破竹の勢をもつて江戸を焼打にするといふ噂の高い時であつた。
 有栖川征討総督宮の率ゐ給ふ官軍が、隊伍堂々と三条の大橋にさしかゝつた時、群衆の中から蓮月尼が出て来て、時の参謀西郷隆盛に、
  うつ人もうたるゝ人も心せよおなじみ国のみ民ならずや
といふ歌を書いた一葉の短冊をさし出したといふのである。そしてその歌が西郷の胸を打つて、やがては皇軍先鋒の諸将を動かし、遂ひには幕臣山岡鉄舟、勝海舟などをも動かして、江戸城明渡しの折衝に大きな影響を与へたといふ。一寸芝居がゝつた話である。
 いかに国を憂ひ人を思ふの余りとは云へ、謙虚な物静かな尼が、それほど積極的な行動に出たとは思へない。
 然しこの歌には信仰深い尼の差別感を越えた同胞愛が盛られてゐる。うつ人もうたるゝ人も一天万乗の大君の赤子ではないか、赤子同士が相討つことは大に宸襟を悩ませまつることゝなる。何とかして戦はずして済ましたいをいふ止むに止まれぬ念願が脈打つてゐる。
 当時尼は、梁川星厳、春日潜菴等の志士と交際をしてゐたことであるから、その短冊が何等かの伝手で西郷に送られたかも知れない。そしてその歌のこゝろが西郷の心を動かし、やがて国事の上にもそれが隠然として動いたかも知れない。何にしても、もつと穏当な方法で西郷の手に渡つたものと思ひたい。
 兎に角これも幕末史の挿話として、劇的に修飾されて人口に膾炙されるに至つたのであらう。
 今一つこれは尼が美人であつたことゝ、尼が道心堅固であつた事とを証せんが為めに作られた話柄であらうと思ふ。それは、
 尼の容貌が余り麗はしいので、髪をおろしても尚何時までも若く見えて、世の浮薄な男性達が心を寄せて困るところから、自ら前歯を引き抜いてわざと顔に傷をつけたといふ話である。如何に心ない男性がうるさいからとて、こんな残酷なことまでしなければその誘惑から逃れる事が出来ないやうな、尼はそんな小人ではなかつた筈である。
 尼をえらく見せやうが為めに、ともすれば、烈女扱ひにしたがる人がある。けれどそれはむしろ贔屓の引倒しである。幾多の家庭的苦難に逢うても、取り乱すことなく、社会的動乱の時代にあつても、騒ぎ迷ふことなく、凛然としてあくまでも日本女性らしく静かに清く高く生きぬいてきた尼である。そこに尼の真実がある、そこに尼は光つてゐる。その偉大なる尼を単に小さな烈女型にはめ込んでしまふことは、尼のたゞさうした一面だけを眺めてゐるに過ぎない人のひがめである。

 歯抜きエピソードなどは結果的には蓮月尼の身持ちの堅さをいうことにはなるにせよ、狙いはウケ以外の何物でもないと考えているので、成瀬慶子のいう「えらく見せやうが為めに」云々とは解釈が違ってはいる。しかし、目的がどうであったかはさておき、蓮月尼を「烈女扱ひにしたがる人がある」という指摘は重要である。史実を検証するのではなく、死後数年のうちに、それぞれが考える都合のいい形の蓮月尼像が作り始められていたのである。「烈女蓮月尼」というのは、そうした偶像化の中で、広く受け入れられたものの一つだったのではないだろうか。

 そんな偶像の話をするとすれば、たとえば角屋の係員の人から聞いた話として紹介した、蓮月尼が島原歌壇の中での中心人物だった云々という件、実はあれも伝説色が濃いように思える。角屋に蓮月尼の短冊が残っているのは事実だが、だからといって蓮月尼がたびたび角屋に出入りしていた……となるのだろうか、大いに疑問が残る。

 近年「歌人大田垣蓮月」という姿がクローズアップされつつある。それは「烈女蓮月尼」という偶像があまりにも一方的に膨らみすぎたことに対する揺り戻しであるかのようだ。確かに歌集や消息文などの一次資料に依拠して大田垣蓮月なる人物の姿を再構築することが重要だというのは的を射た指摘ではある。しかし、その一方で、伝説の中を縦横無尽に歩いていた蓮月尼なる存在もいたわけで、その足跡を辿ってみるのも、違う分野からのアプローチとしての可能性を孕んでいる。

 ところで、先日の書き込みで、一番最後に

現代人で蓮月尼に関心を持つのは、どういう経緯があってのことだろうか。いわゆる研究者としての王道的アプローチなのか、紅葉の名所としても知られる神光院の紹介から大田垣蓮月の名を知ってそれをきっかけに調べ始めた口なのか、あるいは料亭の蓮月茶屋に行ったことがきっかけで意識するようになったのか、それともまだ明治を意識できるご高齢の御仁か、さまざまなパターンが考えられるが

と書いた。そう書いた時、実はまったく頭に浮かんでいなかったことで、重要な事実があった。失念していたとかの次元ではなく、まったく知らなかったのである。しかもそれは京都の歴史に直結する問題でもある。それは、何なのか。時代祭の登場人物、である。時代祭の風俗行列は、当方としては、単純に各時代の装束を再現した時代絵巻と解していた。確かにそうなのだが、もう一つ重要な要素がある。それは、時代ごとに具体的な登場人物がいるという点である。これはすべての時代についてではなく、幕末志士列、江戸時代婦人列、豊公参朝列、織田公上洛列、中世婦人列、平安時代婦人列に限っての話なのだが、誰を選んでいるのかというあたりに嘴を突っこむと、面白い問題が浮かびあがる。

 昨年からだったか、「朝敵」の足利某が加わって云々と話題にもなったが、古くから選ばれていた人物の一人に蓮月尼が入っていたのである。江戸時代婦人列の中の一人であり、それすなわち蓮月尼は江戸時代を代表する女性の一人だった、少なくともそう考えられていた時代があったということである。この風俗行列を漫然とではない見方をしていたのなら、「誰あれ?」「どちらさん?」「何した人?」などの形で意識の中に飛び込んでくるはずだったが、残念ながら以前に見た折にはそこまで意識はまわらず、ふうん仮装行列か……としか見ていなかった。

 参考までに江戸時代婦人列の登場人物を列挙しておくと、以下のとおり。皇女和宮/大田垣蓮月/中村内蔵助の妻/玉瀾/梶/吉野太夫/出雲阿国  選ばれた時点では、「江戸時代を代表する女性たち」のはずなのだが、どうだろう。どういう意味で代表しているのか、果たして即座にわかるだろうか、現代的な感覚に即すると、その有名度もかなり危なっかしくなってしまうのではないだろうか。和宮、出雲阿国はともかく、あと吉野太夫あたりはまだしも、その他は……、正直、かなり苦しい。もしかすると、蓮月尼だけでなく、他の人々も現代的な感覚からは縁遠くなってしまっているのではないだろうか。この辺りの話も、いろいろな方向に広がっていきそうなので、また機会を改めて触れてみたい。

 最後に余談を一つ。成瀬慶子の『大田垣蓮月』を読んでいると、栞が挟まっていた。押し花のように干からびた四つ葉のクローバーだった(写真クリックで拡大)。





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by office34 | 2008-12-11 04:50 | Trackback | Comments(0)
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