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大田垣蓮月のこと |

尼世わたるたづきにもとて陶器作る事を学び、陶器を製して、これに日頃よみし歌を仮初に彫りしに、文字の雅致なると陶器の風致あるとによりて、買ふ者少なからねば、思の外に世を安く送りて、父は七十八歳にて身まかりぬ。のち東山の寺院のあきたるに身を寄せて、一鍋一椀の外身つくる事なく、陶器を売りて得たる銭は、はつかに饑を凌ぐのみ。其余は尽く貧しき者にとらせ、身に一銭も蓄ふる事なし。又謙遜辞譲にして人に驕る色なかりしと云。
ある書林から尼の歌集を出版したいといふ交渉を受けた。名聞嫌ひの尼は頑としてそれに応じなかつた。その中に和歌を蒐集して無断刊行を企てた者があることを尼は伝へ聞いて、早速鉄斎を使としてその中止交渉をさせた。その時既に版木も半以上出来上つてゐたので書林の損失も少なくない。書林の主人もしきりに懇願するので鉄斎は一応帰つて尼にその事情を報告したが、尼はその版木の損失は弁償するから断然中止させてくれと主張するので、鉄斎はまた書林に引返して遂に主人を納得させたとのことである。
それから幾多の歳月を経て、明治の初めに尼の歌集「海人の刈藻」といふのが出版されたが、これも尼の発企ではない。
尼容貌うるはしかりければ、書をおくりて挑む者あり。尼打泣きて、かゝる事聞くもかたちにこそよるなれとて、釘抜もて自ら歯を抜とりしに、其音きしきしと鳴りて、血出る事おびたゞし。媒する者大に恐れてのがれ去りしと云
又依田学海の伝には、
容貌美はしければ、人皆これを見て心を動かし、文など送りて挑む者あり。尼うち泣きてかゝる事聞くもかたちにこそよるなれ、やうこそあれと、釘抜というものをもて、自ら歯を抜き取りしに、其音きりきりと鳴り……人其操節に感じて後は自ら敬ひ尊みてみだりなることを言ふ者無かりき。
林鶴梁長孺の記に、
然るに天然の美容、故態尚ほ存す、狡佻の少年或は艶書慇懃を送る。烈婦乃ち千斤の秤を引き自らの歯を抜く、一歯を抜く毎に粛々声あり。滴々血を迸らす、観者大いに驚き、皆曰く烈婦烈婦と。これより敢て挑む者なし。(原漢文)
これで見ると、尼は前歯を幾本も抜いたようである。
又「菅政友の記」には、
されど美しき匂ひの尚残りて、いたづら人の心動かす者少なからず、或いは玉章に心の程を知らせ、あるは人無きをりのかごとのいと繁くして、逃れ難く覚えたれば、ある日竊かにいと重き秤々もて己が歯にかけて抜く、歯の抜けし声と、血の迸る音を聞きつけて、人皆つどひつゝ驚きあへけり。
とあり、これも一、二本は抜いたように聞こえる。
はしがき
畏くも光明八紘を照らします 天照大神は、御武勇絶倫の御方であらせられたが、平時は極めて御優しく在して、常に機殿にお籠もり遊ばされ、織り紡ぎの業にいそしみ給うと承る。
この御徳の流れを汲む、わが日本女性は、鞏個なる意志と、純美なる感情をと兼備した特質を持つて居る。
大田垣蓮月尼は、明治維新の大業成る前後の、動静はげしい時代に人となつた女性である。その紛乱の巷であつた一隅に住んで、名利を求めず、富貴に願はず、自詠の和歌を書いた風雅な陶器を焼き、それをたづきのわざとして、他に尽くすこと厚く、自らは乏しくつゝましく暮して来たのであつた。
尼はまた勤王の志士達から、慈母の如くに敬はれ慕はれながら、聊も表立つことなく静かに時勢の推移を見つめて生きて来た。おほどかなその態度は、内に勇気と仁愛があればこそである、
尼は女性としてあらゆる悩みを味ひつくし、受けはたしてきた素直な雄々しい人であつた。多難を砥して自己を磨き上げてきた寂光の人であつた。日本女性伝統の諸徳が、尼を通して燦然と輝いてゐる。この精神は現代の私共日本女性の、骨髄の中にも流れて通つてゐる筈である。
明治維新の変動にも劣らぬ大変動である今日、この心深い歩み方をしてきた、偉大なる先人の足跡をふりかへりたいと考へて、この伝と歌と文とを蒐集して一巻とさせてもらつた次第である。
文久三年八月十九日の未明、妙法院をあとに雨ふりしきる中を、ひそかに西に向つて落ちてゆく七卿が、竹田村を通過する時路傍の木蔭に身を隠すやうにして一人の尼がよそながら見送つてゐた、それは蓮月であつたと云ひ伝へられてゐる。
さりともの頼みもきれて絲すゝきみだれゆく世の秋ぞかなしき
といふ歌はその時尼が詠んだ歌であるといふ。
尼は単なる世捨人ではなかつた、時勢の推移に深い関心を寄せ、やがて来るべき維新の黎明を心秘かに待望してゐた一人に相違ない。しかし、尼は飽くまでも、つゝましやかな人である。被を深くかぶり、雨にぬれつゝ、木蔭に身をひそめてよそながら七卿を見送つたといふところに、却つて燃ゆる情熱を胸に秘めた、いかにも日本女性らしい謙虚な姿を発見して一層尼の人格がなつかしくなる。
ところが、それに引きかへて、別にかういふ一つの伝説がある。
鳥羽伏見の戦に大勝した官軍が、破竹の勢をもつて江戸を焼打にするといふ噂の高い時であつた。
有栖川征討総督宮の率ゐ給ふ官軍が、隊伍堂々と三条の大橋にさしかゝつた時、群衆の中から蓮月尼が出て来て、時の参謀西郷隆盛に、
うつ人もうたるゝ人も心せよおなじみ国のみ民ならずや
といふ歌を書いた一葉の短冊をさし出したといふのである。そしてその歌が西郷の胸を打つて、やがては皇軍先鋒の諸将を動かし、遂ひには幕臣山岡鉄舟、勝海舟などをも動かして、江戸城明渡しの折衝に大きな影響を与へたといふ。一寸芝居がゝつた話である。
いかに国を憂ひ人を思ふの余りとは云へ、謙虚な物静かな尼が、それほど積極的な行動に出たとは思へない。
然しこの歌には信仰深い尼の差別感を越えた同胞愛が盛られてゐる。うつ人もうたるゝ人も一天万乗の大君の赤子ではないか、赤子同士が相討つことは大に宸襟を悩ませまつることゝなる。何とかして戦はずして済ましたいをいふ止むに止まれぬ念願が脈打つてゐる。
当時尼は、梁川星厳、春日潜菴等の志士と交際をしてゐたことであるから、その短冊が何等かの伝手で西郷に送られたかも知れない。そしてその歌のこゝろが西郷の心を動かし、やがて国事の上にもそれが隠然として動いたかも知れない。何にしても、もつと穏当な方法で西郷の手に渡つたものと思ひたい。
兎に角これも幕末史の挿話として、劇的に修飾されて人口に膾炙されるに至つたのであらう。
今一つこれは尼が美人であつたことゝ、尼が道心堅固であつた事とを証せんが為めに作られた話柄であらうと思ふ。それは、
尼の容貌が余り麗はしいので、髪をおろしても尚何時までも若く見えて、世の浮薄な男性達が心を寄せて困るところから、自ら前歯を引き抜いてわざと顔に傷をつけたといふ話である。如何に心ない男性がうるさいからとて、こんな残酷なことまでしなければその誘惑から逃れる事が出来ないやうな、尼はそんな小人ではなかつた筈である。
尼をえらく見せやうが為めに、ともすれば、烈女扱ひにしたがる人がある。けれどそれはむしろ贔屓の引倒しである。幾多の家庭的苦難に逢うても、取り乱すことなく、社会的動乱の時代にあつても、騒ぎ迷ふことなく、凛然としてあくまでも日本女性らしく静かに清く高く生きぬいてきた尼である。そこに尼の真実がある、そこに尼は光つてゐる。その偉大なる尼を単に小さな烈女型にはめ込んでしまふことは、尼のたゞさうした一面だけを眺めてゐるに過ぎない人のひがめである。
現代人で蓮月尼に関心を持つのは、どういう経緯があってのことだろうか。いわゆる研究者としての王道的アプローチなのか、紅葉の名所としても知られる神光院の紹介から大田垣蓮月の名を知ってそれをきっかけに調べ始めた口なのか、あるいは料亭の蓮月茶屋に行ったことがきっかけで意識するようになったのか、それともまだ明治を意識できるご高齢の御仁か、さまざまなパターンが考えられるが