Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
■■NOTICE■■
記事の写真(含・画像)は縮小表示されています。
写真をクリックすれば別ウィンドウが開き、原寸でごらん頂けます(別ウインドウのサイズは手動で調整してください)。
別ウィンドウは写真上でクリックすると自動で閉じます。
about 京都クルーズ
本丸はこちらです。


カテゴリ
検索
以前の記事
タグ
Skypeボタン
最新の記事
山本覚馬建白(4)~「拙見申..
at 2012-05-21 18:29
山本覚馬建白(3)~「拙見申..
at 2012-05-20 23:32
山本覚馬建白(2) ~「近年..
at 2012-05-19 20:00
山本覚馬建白(1) ~「管見..
at 2012-05-18 20:00
落合橋など
at 2012-05-17 03:43
芭蕉句碑2基@清滝川
at 2012-05-16 04:22
葵祭2012
at 2012-05-15 23:12
源光庵ふたたび
at 2012-05-14 23:02
埋め草
at 2012-05-13 17:27
角倉了以ツアー
at 2012-04-30 23:07
大原雑魚寝
at 2012-04-28 02:06
いちおう百人一首歌碑だけど
at 2012-04-19 23:16
とある詩碑、あるいは仁丹大王?
at 2012-04-18 09:00
大悲閣道にて
at 2012-04-17 12:12
百人一首歌碑いろいろ
at 2012-04-08 17:13
紫式部歌碑@廬山寺
at 2012-04-06 09:00
紫式部歌碑@上賀茂神社
at 2012-04-05 23:12
御所の桜
at 2012-04-04 21:13
上賀茂神社の願い筒
at 2012-04-02 23:11
薬王坂弥陀二尊板碑(疑義)
at 2012-03-27 23:28
最新のコメント
なんとなく四字熟語
推奨ブラウザ
・Mozilla Firefox
・Google Chrome
・Opera

インターネットエクスプローラではコンテンツの一部が正確に表現されない可能性があります。
2009年 10月 20日
大津事件
 大津事件とは、明治二十四(1891)年の五月十一日、訪日中のロシア皇太子ニコライを滋賀県の一巡査が斬りつけた事件である。事件の起きた大津市の名を冠して大津事件と呼ばれ、日本史の教科書にも出てくる有名な事件である。教科書的な観点は、明治日本の政治と法律の拮抗状況を物語るエピソードとしての捉え方で、明治天皇以下宮家皇族たちの動向や、伊藤博文ら政府重鎮らの取った態度などが注目されるところである。

 この事件、日本史的な意味合いが大きいのは言うまでもないが、京都ネタという視点からすると、中心からは外れていそうだ。少なくとも、当方はそのように考えていた。ところが、あながちそうとも言えない一面もあることを知らされた。

 というのは、先般、大沢善助の話に触れた流れから、大沢善助の回顧録を読んでいたのだが、その中でこの事件に触れるくだりがあり、その記述によれば、ほとんど京都で起きた事件であるかのように描かれていたからである。そもそも当日のニコライの行程は琵琶湖と疏水の見物に宛てられており、宿舎は京都ホテルだった。加えて大沢が疏水関連での説明役でも任されていたのだろうか、この日の行程に浅からぬ形で関係していたらしいのである。大津事件が日本の近代史にどのような意味合いを持っているのかという、現代の歴史解釈とはまったく関係のないことだが、実際の出来事と近い立場にいた人物の発言を聞くと、京都での事件ということにしてもいいようにも思えてきたのである。

 それともう一つ、大沢の回顧録で面白く思った点、それは、大沢がそれぞれの時代の風俗を思い出しつつ語っているところである。これはコンパクトにまとめられた歴史事典の類ならあまり教えてくれないことだろう。大津事件に触れたくだりもその一例で、本格的に電話事業が始まるに先立って、一部で先行的に導入されていた電話がどのようなものだったかが描かれていて興味深い。以下、皇太子一行の到着を待っていながら、なかなかやってこないことを不審に思って関係部署に問い合わせようとしたところ、電話の混線から事件を知ったという大沢の発言を紹介してみる。出典は『回顧七十五年』(伝記叢書、大空社、平成十二年[原著は昭和四年刊の非売品])である。
 私が京都市の参事会員であり疏水工事の常務員であつた時代、露国の皇太子が日本内地漫遊に来られて京都ホテルに宿泊せられ滋賀県大津に御越しになつて琵琶湖を見物の上疏水工事を御覧になる事になつて居つた、それで京都市は歓迎の為に種々の準備をして居たが、私は朝から水利事務所につめて種々指図をして居つた。然るに最早や御越しになる時刻が来て居るのに一向に来られないので余り待ち遠くて大津へ電話で問ひ合すために電話口に立つた。其の頃は電話と云つても特設のものばかりで、この電話は水利事務所とつないであつた処が、この電話線は京都府の警察署と滋賀県の警察署との電話線と同一の電柱に架設してあつたので、私が電話機を耳に当てた処が、大津の警察署と京都の警察署と頻りに話をして居るのが何処かで混線してよく聞きとれた。それ故、話の済むまで待たねばならぬけれども、其の警察の話がよく聞えるから興味半分に話を聞きながら待つて居つた。
 話は露国皇太子が三井寺から滋賀県々庁へ行かれる途中に、道路の警戒に出て居つた津田三蔵と云ふ滋賀県の巡査が皇太子の人力車が通過されると直ちに抜刀して後から車に近寄り一刀斬りつけた。皇太子は後頭部に傷を受けられた。この時、京都ホテルの車夫二名が其の巡査の足をとらへて引き倒した。供奉の露人は車から飛び降りて抜剣して巡査の背中を斬つたと云ふ意味の報告であつた。
 大変な事だ!これでは最早疏水の見物どころではないからと、事務所を片づけて直ちに市役所に戻つて来た。暫らくすると皇太子は頭部に繃帯をしてホテルに帰られた。
 この時分に日本人が露国を見る事は欧洲に於ての強大国であつて、ニコライ帝と云へば閻魔大王の様に思つて居る時代であつたので、上下の驚きは一方ではなかつた……(以下略)
 この手の回顧録や自伝は、厳密な意味でのリアルタイムとは言えないし、立場や関係者への配慮から時には誇張や美化(あるいは歪曲)が含まれることもあるだけに、正確さを担保するとは言い難い。それでも、このくだりに関していえば、そこまで警戒して読む必然性もなさそうだし、単純に初期的な電話の姿が髣髴されて面白く思えたのである。




トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2009-10-20 02:13 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://office34.exblog.jp/tb/9128653
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
名前 :
URL :
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード