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カテゴリ:京都本・京都ガイド |
ところが今日は朝からの雨模様。そうなると普通なら意識を過ぎることもない葵祭のことが気になってくる。いわゆる天邪鬼根性がムクムクと動き出すというヤツだ。昼過ぎに観光協会のサイトで確認してみると、案の定、雨天順延の告知が出ている。続いて京都新聞のサイトをみると、15年ぶりの延期だとか。
まず目に留まったのは、中止だろうとなんだろうとお構いなしにやってきているツアーバスがけっこう多いという事実。上賀茂神社前の駐車場には3~4台ほどの大型バスが駐車されていた。また何の行事もない日に比べると、境内の人出も格段に多いのを見ると、中止を知った上でのツアー客がそれだけの数がいたということなのだろう。行列、つまり路頭の儀は当日の朝に空と相談して催行か延期かの決定もできるが、ツアーの方はそうはいかないらしい。もちろん、申込みを受ける段階で雨天順延の可能性もありますがそれでも15日にツアーが実施されますと断っているのなら問題はないことである。それに、イベント自体が無くても、祭りの前日ということでそれなりに見どころはある。たとえば舞殿の飾り付けなど。祭儀用の簾が掛けられ、そこに賀茂社のシンボルである双葉葵が飾られる。いかにも葵祭の日なんだと実感させられる眺めである。




まことに今宵は。大原の里の、ざこ寝とて。庄屋の内義、娘。又、下女下人にかぎらず。老若のわかちもなく。」神前の拝殿に。所ならひとて。みだりがはしく。うちふして、一夜は何事をも、ゆるすとかや。いざ是よりと。朧なる清水。岩の陰道。小松をわけて。其里に行て。牛つかむ計の。闇がりまぎれにきけば.まだいはけなき姿にて。逃まはるもあり。手を捕えられて、断をいふ女もあり。わさとたはれ懸るもあり。しみしみと語る風情。ひとりを、二人して。論ずる有様も、なを笑し。七十におよぶ。婆々おどろかせ。或は姨を。のりこえ。主の女房をいやがらせ。後には、わけもなく。入組。なくやら。笑ふやら。よろこぶやら。きゝ伝えしより。おもしろき事にぞ。暁近く、一度に。帰るけしき、さまさま也」句読点の使い方など現代とは感覚が異なる近世の文章をそのまま活字に起こしているようなので、とにかく読みづらい。いくぶん想像で補わざるを得ないのだが、だいたいこういう感じだろうか。岩波文庫による
毎年節分の夜、山城国大原(京都市左京区)の江文(えぶみ)神社の社殿に村民が参籠する行事。古代乱婚の遺風。一説に正月一四日の夜という。おはらのざこね。《季・冬》*浮世草子・好色一代男(1682)三・四「一夜の枕物(まくらもの)ぐるひ。大はらざこ寐(ネ)の事」 *俳諧・清鉋(1745頃)一二月「大原雑喉寝(サコネ)節分の夜大原さこね堂へ男女通夜する事也」*続春夏秋冬(1906-7)<河東碧梧桐選>冬「これをなん大原雑魚寐と申すなり<夏風>」用例として挙がっている中でもっとも古いものが西鶴なのはポイントだろう。吉井勇のエッセイ「雑魚寝」(青空文庫参照)では、『好色一代男』を引いたうえで「今も猶俳句の季題には、古りし昔の年中行事として残つている『大原の雑魚寝』のこと」とあるのだが、季語として定着するために『好色一代男』が決定的な役割を果たしたことが窺われる。『日本国語大辞典』が用例にあげる「俳諧・清鉋」「続春夏秋冬」は、たぶんに西鶴の影響下のものと思われる。

京都御所の東側、建春門前の学習院跡には、倒木を貫いていくつもの根を張るヤマザクラがあります。まだ元気な頃のマツの木に落ちた、ヤマザクラの種が芽を出して生長したもので、その姿からサクラマツと呼ばれています。との説明になるのだが、「桜が松の表皮を被っている」ようにしか見えないのがご愛敬といったところ。
マツは枯れて倒れてしまいましたが、ヤマザクラは生長を続け、毎年淡いピンクの花を咲かせます。





扨又先斗町ポントテウノ裏ウラニハ数十株ノ桜を栽ウヘ立タテ芳野嵐山ノ面影オモカゲヲ加茂川ノ清キ流ニ写ウツサントシ夜ハ数百ノ灯ヲ輝カヾヤカシ陰カゲニ名妓ノ来往スルハ吉原ヨシハラノ夜桜ニモ劣ルマシキ風情ナリ「先斗町の裏」に設けられたこのエリアの具体的な規模や実態は分からない。しかし桜を植えて云々と言ったあと、吉原の夜桜を引きあいに出す口吻からは、このエリアを歓楽街とする認識が窺える。「新河原町通」ではなく、「先斗町」となるのも、そうした認識の上にあるものと思う。(小文字は傍訓)
正徳二年西石垣斎藤町より依頼により並池洲株なるもの差許されしより新河原町通り三条より四条までに茶屋旅籠を営み茶立女を差置れたりとの記録は斎藤町にあり。と記す。斎藤町の文書は確認できないが、遊郭の始まりを伝えるこの記述は『国史大辞典』にも引かれるところとなっている。また遊郭とは別に、町並みとしての沿革をいうのであれば、『京都事典』がいうところの寛文10年云々の説明もどうやら「京都先斗町遊郭記録」に依拠しているようで、
寛文十年といふに加茂川に添へて石垣等の普請あり。続きて延宝二年二月に若松町に初めて五軒の建家を許されたり。(好色一代男天和二年版にぽんと丁とあり)とある。さらに「先斗町」という名前と「新河原町」という名前の関係についても「京都先斗町遊郭記録」は言い及んでおり、
元禄十五年の板なる万宝節用集町名鑑の中の樵木町の条下に東川筋三条下る所より四条をぽんと町といふとあれば元禄年度を先づ初めとして置くも敢て差支あらざるべし
新河原町の名称は文政開板なる扁額規範二篇の中に三条の南より四条の北半町ばかり迄を新川原町ママといふ。人これを称へずして先斗町といふとあれば新河原町の名称は先斗町よりも古きものと知らるゝ也。等の記述が見られる。
「前号に概略を」云々とあるのは、24号に「御布令」とのタイトルで、「女学開校」との記事があったことを指す。その記事と、上掲25号の記事と併せて、女子教育施設の名前については、設置時点ですでに「女紅」という言葉が使われていたと言えそうだ(「女紅場」と言わず、「女紅学校」だった点は、少し強調してもいいのだが、論点がぼやけるので軽くスルーしよう)。○女紅学校前号ニ概略ヲ記シタル丸太町新学校ノ教師ハ英国人トーマスホルンビーイヴァンス同妻エミリーイヴァンス両名ナリ当月九日ヨリ御雇ニナリ夫ハ語学婦ハ女工ノ教師ニ命セラレシカハ之ニ就テ教授ヲ受ント欲スル者甚盛ニシテ女生徒タケニテモ未タ数日ヲ歴ヌ内既ニ百二十余人ニ及ヘル由当所ハ元来繊縫等ノ事ニ取テハ別シテ天下ノ最タル地ナレハ外国流女工ニ於テモ亦諸府県ノ魁トナルヘキ兆キサシ爰ニ見エタリ尚ナヲ学ブ人ノ勉励ハゲミヲ企望キボウスルノミ
女工の工の字をいつの程にか紅と粋に変へたり。というものである。「京都先斗町遊郭記録」とは、解題によれば「倉田保之編。翻印の底本は大塚隆氏所蔵本、一冊、昭和八年写。京都における遊郭の起源から筆を起こし、先斗町花街の成立と沿革、維新以後明治四十一年にいたる年代記を収めた記録である」とのこと。そして「巻末の筆写者識語によれば、底本は先斗町廓事務所所蔵の原本を写したものであるが、筆写者未詳である」とも記されている。要するに、この資料は、少なくとも明記されている昭和8年までは遡ることができ、なおかつ中身から明治41年以後いずれかの時期に記されたと判断できる。
明治六年二月下京十六区(島原)、三月下京十五区(祇園)、上京六区(上七軒)、四月下京二十区(宮川町)、六月下京六区(先斗町)と次々に開業した婦女職工引立会社が、同七年四月女紅場と改称、これらを総称して遊所女紅場と呼んだ。これに従えば「婦女職工引立会社」が明治7年に改称されて「女紅場」となったことになるのだが、これでは明治6年の記述として確認される「女紅場」の説明にはならない。そうなると辞典類はパスして、資料を直接渉猟せねばならない。ただテーマが明確であることや時期的に絞られていることは救いである。実際、いきなり引っ掛かってきた「婦女職工引立会社取立願書」なるものに重要な記述を見出すことができた。
第二条 此社ヲ名付テ婦女職工引立会社トイフハ、従前浮業遊職ノ婦女娼婦芸妓ニ至ルマテニ各種ノ女紅ヲ教習セシムル儀ニシテ、其事務ハ第四条是ヲ掲グ「婦女職工引立会社取立願書」は、同会社の設置を京都府に申し出るもので明治5年10月付である。「女紅場」との完全一致ではないが、「女紅」なる言葉が使われていることに注目したい。明治5年の時点で「女紅」が確認できるのだから、「女工」を「粋に変」えて「女紅」としたというのは、どうやら後付けの説明といえそうだ。結局のところ、現状としてまかり通っている「女紅場」という名称は、あえて検討しなおすには及ばないというところが結論となる。大山鳴動してなんとやらみたいな結果になったが、ほっと一安心といったところである。『京都府誌』上巻所引(京都府刊、大正四年)
女紅場 (にょこうば) 明治前期の女子教育機関。女紅場には三種類あって、その一は中流・上流階級の子女に中等普通学科と手芸・家事を教え、良妻賢母を養成する学校で、新英学校女紅場や同志社女学校がこれである。新英学校は英女学校、京都府女学校と改称され、京都府立第一高等女学校になった。その二は一般民衆子女の日常生活や生産と結びついた教育の場で、小学区ごとに区内の民費で設立され、裁縫や手芸が教授されて「物産繁殖の一端」を開くことが目的であった。その三は遊所女紅場で、島原・祇園・先斗町・上七軒などすべての遊所に設立され、遊女芸者や浮業の鑑札を受ける者は必ず入らなければならなかった。この女紅場は現在も存続しているものが多く、女性の一般教養が施こされている。(辻)祇園に関連するのは、このうちの三番目のものであるのは言うまでもない。説明がやや時代がかった感もあるが、『京都事典』の初版が刊行された昭和54年現在の記述である。なお執筆者は辻ミチ子氏である。『新装版 京都事典』(村井康彦氏編、東京堂出版、平成5年)