Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2012年 05月 15日
葵祭2012
五月十五日は葵祭の日である。もし朝からスカっと晴れていたら、そんなことにも気づかずに一日を過ごしたことだろう。そして夜のニュースあたりで「たくさんの観光客が優雅な王朝絵巻に見とれていました」とかいった具合の、取って付けたようなコメントを聞いて、ああそういえば今日が葵祭だったかなと思ったに違いない。当方にとっては、それくらい、どうでもいい祭事なのである。

ところが今日は朝からの雨模様。そうなると普通なら意識を過ぎることもない葵祭のことが気になってくる。いわゆる天邪鬼根性がムクムクと動き出すというヤツだ。昼過ぎに観光協会のサイトで確認してみると、案の定、雨天順延の告知が出ている。続いて京都新聞のサイトをみると、15年ぶりの延期だとか。

そうしたことが分かると、心の天邪鬼はさらに活性化するらしい。例年どおりのイベントならどうでもいいのだが、雨で順延となったら現場はどうなっているのだろうということが気になってくるのである。というわけで、本来なら行列が到着する頃を見計らって上賀茂神社へ出向いてみた。

まず目に留まったのは、中止だろうとなんだろうとお構いなしにやってきているツアーバスがけっこう多いという事実。上賀茂神社前の駐車場には3~4台ほどの大型バスが駐車されていた。また何の行事もない日に比べると、境内の人出も格段に多いのを見ると、中止を知った上でのツアー客がそれだけの数がいたということなのだろう。行列、つまり路頭の儀は当日の朝に空と相談して催行か延期かの決定もできるが、ツアーの方はそうはいかないらしい。もちろん、申込みを受ける段階で雨天順延の可能性もありますがそれでも15日にツアーが実施されますと断っているのなら問題はないことである。それに、イベント自体が無くても、祭りの前日ということでそれなりに見どころはある。たとえば舞殿の飾り付けなど。祭儀用の簾が掛けられ、そこに賀茂社のシンボルである双葉葵が飾られる。いかにも葵祭の日なんだと実感させられる眺めである。
木製ベンチの有料席も雨ざらし、明日までに乾けばいいが……

また延期となる前提としては、その日が雨だからなのだが、雨なら雨の日らしい見どころもある。茅葺き屋根と雨の取り合わせだの、雨露に濡れる青モミジだの云々。そんな中、モミジの種なるものがあることに気づいた。というか、まわりの人たちが、そう言っていたので、当方も覗いてみただけのことなのだが、春から初夏にかけてモミジの木に注目していると、目に留まるシロモノらしい。そんなものがあること自体、知らなかったので、ちょっと得した気分である。ともあれ、久しぶりに葵祭とまともに向き合ってみたかなという一日だった。
右端に写っているプロペラや竹とんぼに喩えられるものが「種」らしい

【おまけの1枚】
そんなに早くから染まらなくても……






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by office34 | 2012-05-15 23:12 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 05月 14日
源光庵ふたたび
昨年の秋、鷹峯の源光庵について苦言を呈したことがある(以前の記事)。もちろん、源光庵自体が悪いというわけではなく、観光物件として人気を集めた時に集まってくる人たちの挙動についての話である。観光シーズンのピーク時に訪れて、いい思いができなかったのは致し方ないと諦めねばならない話なのだが、あまりにも印象が悪かったのでツラツラと戯れ言を並べてしまった。

その後、改めて訪れようと思いつつ、その機会を逸していた。狙いは雪が積もった頃だったのだが、横着虫が強くなっていて、気が付くと桜のシーズン。そうなると、再びの修羅場が想定されるのでパスするにしかず、ということで以来ずっと見送り続けてしまったのである。

ところがこのほど北山郷の菩提の滝を訪れる機会があったので、帰途を鷹峯方面にとって、源光庵にも寄ってみた。ゴールデンウィークが終わって、人の波も一段落した感じの時期である。さらに訪れた時間帯が午後の四時前ということもあって、ほとんど貸し切り状態での拝観を楽しむことができた(正確には他のお客もいるにはいたが……)。それで、前回、問題となった煩悩の窓、もとい、悟りの窓だが、今回はきちんと正対ポジションでの撮影もできたし、迷いの窓との並びを一つのアングルで捉えるポジションも、他の客をいれずに、確保できた。他に人がいないのだから、まあ、当然である。

さて、どうだろうか。季節が秋ではないし、源光庵の庭が紅く色づいていないからといってつまらないとせねばならないのだろうか。負け惜しみではないが、案外、青紅葉の季節というのも良いような気がする。源光庵同様、紅葉の季節になるとごった返してしまう高雄周辺にしても、青紅葉の頃はけっこう見映えのする季節でもある。単純に緑といってしまうのではなく、まぶしいぐらい鮮やかな緑なのである。そこに日射しが少しずつ強くなってくる頃だから(今年は雰囲気が違っている?)、鮮やかさの印象度がさらに強まってくる。秋の印象を貶めるつもりはこれっぽっちもないが、やはり人混みの煩わしさによって損なわれる要素を考えると、ゴールデンウィーク明けの頃はかなり好ましい季節なのである。

混んでいる季節なら、こんなアングルを狙うと確実に余所の人が入ってしまう

菩提の滝から鷹峯方面に戻ってくる途中、千束のあたりで見かけた土塀の上の青紅葉






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by office34 | 2012-05-14 23:02 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 04月 28日
大原雑魚寝
唐突に「大原雑魚寝」の話をしてみる。そもそも「大原雑魚寝」とは何なのかと言われると、よく紹介されるのは井原西鶴『好色一代男』の一節だろう。そこには、次のようなくだりがある。
まことに今宵は。大原の里の、ざこ寝とて。庄屋の内義、娘。又、下女下人にかぎらず。老若のわかちもなく。」神前の拝殿に。所ならひとて。みだりがはしく。うちふして、一夜は何事をも、ゆるすとかや。いざ是よりと。朧なる清水。岩の陰道。小松をわけて。其里に行て。牛つかむ計の。闇がりまぎれにきけば.まだいはけなき姿にて。逃まはるもあり。手を捕えられて、断をいふ女もあり。わさとたはれ懸るもあり。しみしみと語る風情。ひとりを、二人して。論ずる有様も、なを笑し。七十におよぶ。婆々おどろかせ。或は姨を。のりこえ。主の女房をいやがらせ。後には、わけもなく。入組。なくやら。笑ふやら。よろこぶやら。きゝ伝えしより。おもしろき事にぞ。暁近く、一度に。帰るけしき、さまさま也」
岩波文庫による
句読点の使い方など現代とは感覚が異なる近世の文章をそのまま活字に起こしているようなので、とにかく読みづらい。いくぶん想像で補わざるを得ないのだが、だいたいこういう感じだろうか。

[試訳]
さて、そういえば今夜は大原の里の雑魚寝とかいうのがある夜だった。庄屋の内儀であれ、娘であれ、はたまた下女や下人、老若の区別なく、女どもが神前の拝殿にうち伏すのである。土地の習俗だといって、しどけない格好で横になり、この一夜に限っては何があっても許すとかの話なのだ。世之介はそれを聞いて、それなら出かけてみようと大原へ向かう。これがかの「朧の清水」、こちらが「岩の懸け橋」などなど言いつつ、小松をかき分けながら大原の里に到る。牛を掴むばかりの(真っ暗で何も見えない)暗がりに声を聞くと、まだ幼い様子で逃げ回っている者もいれば、手を捕らえられて断りを入れている女もいるようだ。かと思うと、わざと男の上に倒れかかっているらしいものもいる。こちらではしんみりと語らっている風情、あるいは一人の女を二人の男で奪い合っているのも面白い。中には七十におよぶ老婆を驚かせてみたり、あるいは年増女の上を乗り越えて、主家の女房にちょっかいを出してみたり、そのうちわけもわからずに組んずほぐれつの大騒動。あちらこちらで泣くやら笑うやら喜ぶやらで、噂に聞いていた以上の面白さである。そうして空が白んでくると、みんな一斉に家路につくのだが、その様子は一夜に起きた出来事さながら、人それぞれ、さまざまなのである。

こうした叙述が西鶴によってなされたことをもって、「大原雑魚寝」なる風習が近世まで大原に残っていたと語られることがある。裏付けを得る手立ては思いつかないのだが、辞典類の説明をみても、こういう風習の存在が前提となっている。一例として『日本国語大辞典』を見てみよう。
毎年節分の夜、山城国大原(京都市左京区)の江文(えぶみ)神社の社殿に村民が参籠する行事。古代乱婚の遺風。一説に正月一四日の夜という。おはらのざこね。《季・冬》*浮世草子・好色一代男(1682)三・四「一夜の枕物(まくらもの)ぐるひ。大はらざこ寐(ネ)の事」 *俳諧・清鉋(1745頃)一二月「大原雑喉寝(サコネ)節分の夜大原さこね堂へ男女通夜する事也」*続春夏秋冬(1906-7)<河東碧梧桐選>冬「これをなん大原雑魚寐と申すなり<夏風>」
用例として挙がっている中でもっとも古いものが西鶴なのはポイントだろう。吉井勇のエッセイ「雑魚寝」(青空文庫参照)では、『好色一代男』を引いたうえで「今も猶俳句の季題には、古りし昔の年中行事として残つている『大原の雑魚寝』のこと」とあるのだが、季語として定着するために『好色一代男』が決定的な役割を果たしたことが窺われる。『日本国語大辞典』が用例にあげる「俳諧・清鉋」「続春夏秋冬」は、たぶんに西鶴の影響下のものと思われる。

もちろん、西鶴より古い時代で、大原雑魚寝に言及するものがないわけではない。原典は未確認ながら、WEB上に紹介されているところでは、大原雑魚寝に触れたもので西鶴以前の記述としては『八雲御抄』がある参考までに。紹介されているのは中山太郎の『日本婚姻史』という本なのだが、『日本婚姻史』が引用する範囲では「性的祭事」とするだけで、中身に関する具体的な言及はない。また『八雲御抄』とほぼ同じ時代と考えられる「東北院職人歌合」も持ちだして、大原に「特殊な土俗」があることをほのめかすものの、西鶴が書いたほど明確な内容のものにはなっていない。当方にしても、もっともらしいことが言えるくらいに調べが進んでいるわけではないのだが*、『八雲御抄』『東北院職人歌合』『好色一代男』を並べた範囲(しかも前の二つは原文未見)でいえば、西鶴が読み物としてオモシロ可笑しく潤色を加えているのではないかと思うのだが、はたしてどうだろう。
*京都叢書で江文神社関連を調べてみたところでは、この雑魚寝の風習について触れたものは見あたらなかった

要するに、まとめるとこういうことである。大原に、古代の歌垣に通じる、集団婚の痕跡を残した風習があったのかも知れないが、それが西鶴が描くようなものだったかどうかは定かではない、ということである。ましてや『日本国語大辞典』の説明にあるような「乱婚」という形で言い切るのは離れ業であるのは言うまでもない。

『好色一代男』の挿絵(岩波文庫より)




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by office34 | 2012-04-28 02:06 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 04月 04日
御所の桜
桜の話題を取り上げた翌日、京都でも開花宣言があった模様。なんでも、今年は二条城のソメイヨシノが標本木になっていたとか。例年は京都気象台の敷地内に植えられているものを開花の目安としているのだが、この標本木というのは時々変わったりするものなのだろうか。かつて、というか、当方の勘違いかも知れないのだが、数年前までは円山公園の一本が標本木だとばかり思っていたこともあって、今年は二条城と言われた時に、おや??と気になってしまった。このあたりは事情通の方に教えを請わねばならない。

ともあれ、京都にもようやく桜の季節がやってきたことになる。いわゆる爆弾低気圧がどう影響するかは知らないが、手近な場所では京都御所がかなりいい感じになっているようだ。折しも、春の一般公開が始まったようなので、ちょっと足を延ばしてみた。

御所に到着して、最初は桜松の様子を窺ってみる。かぶりものキティではないが、桜のくせに松のかぶりものをしている変わり種である。御所の桜が一足早く開花となっていたようだが、桜松はまだ蕾のままだった。なおこの桜松、正確には、
京都御所の東側、建春門前の学習院跡には、倒木を貫いていくつもの根を張るヤマザクラがあります。まだ元気な頃のマツの木に落ちた、ヤマザクラの種が芽を出して生長したもので、その姿からサクラマツと呼ばれています。
 マツは枯れて倒れてしまいましたが、ヤマザクラは生長を続け、毎年淡いピンクの花を咲かせます。
との説明になるのだが、「桜が松の表皮を被っている」ようにしか見えないのがご愛敬といったところ。

続いて、近衛邸跡ゾーンへ。このあたりが御所の桜のメーンエリアである。目玉商品である糸桜をはじめ、軒並み見ごろを迎えている。台風(並み)一過の好天も幸いしてか、人気観光地のかきいれどきを思わせるくらいの賑わいである。きっと一般公開の初日だったこともあり、そちらを目的に訪れた人たちがその足で近衛邸跡ゾーンへなだれ込んできているのだろう。実際、普段の状況以上にインターナショナル度が高かったようだ。

ともあれ、こちらもそれなりに楽しませてもらった後、四時もまわろうとした頃になっていたので簡単に御所の中を覗くぐらいしておこうと、特設入口へ向かう……あれ、誰も並んでいない?。見ると、公開時間が九時から三時半までとのこと。お粗末さまでした。


松をかぶっているとしか見えない桜松


近衛邸跡の桜はいまが見ごろ







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by office34 | 2012-04-04 21:13 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(2)
2012年 04月 02日
上賀茂神社の願い筒
あちらこちらで桜の開花宣言が話題となっているようなので、京都はいかに?と思って調べてみると京都新聞「桜情報」、軒並み、つぼみで、咲き始めがちらほらといった程度。

例年が三月末あたりに開花宣言が出て、四月の第一週が一応の見ごろというのが相場なのだが、今年は一週間ぐらい遅れているようだ。といった次第で、まだ時期尚早との結論が出ているのだが、近場での確認ぐらいはしておこうとのノリで上賀茂神社を覗いてみた。

結果は案の定というか、見渡す限りの蕾の梢ばかりである。上賀茂神社は一応は京都における桜名所の一つにカウントされており、固有名詞のついている木が何本もあるのだが、これではどうにもならないといったところか。フライングをしている木がないわけでもないが、桜がお目当てなら、もう少し辛抱しなければならなそうだ。
フライング桜と楼門


そんな中で、ふと目に留まったものがある。上賀茂神社のニューアイテムなんだろうか、「願い筒」なるものが売られていた。なんでも、願い事を書いた紙(「願い紙」というらしい)を筒に入れて、境内の木に結わえるとのこと。鰯の頭もなんとやらという言葉もあるから、その気になって信じれば気持ちも楽になるのだろう。

ここでふと思ったのだが、「筒に入れる」というのは、ある意味、現代的かも知れない。というのは、何をするにしてもプライバシーがどうのこうのいうご時世、お願いごとの一つをとっても他人様には知られたくないという風潮に合致していると思ったからである。そんなに深く考える事もないのかも知れないが、なんとなくせせこましいかなという印象がないわけでもない。確かに、御金神社(西洞院御池上ル)に大金を無心したり、藤森神社(深草)でWIN5ゲットを祈願したりするのは、あんまり知られたくない類のお願いだろうが、ここは上賀茂神社、そこまで浅ましい無理難題を神様に求めているとも思えない。とすれば、プライバシー重視の風潮に応えた新商品ということなのだろうか。ちなみに摂社の一つ、片岡社の絵馬は個人情報保護を前面に出していて、願い事を書いた上に貼り付けるシールも用意している。ここは縁結びを謳っているわけで、これについては、その手の秘匿シールが必要になる理由も分からないではない。

いずれにせよ、願い筒については、無神論者の当方は、なんか面白そうなものを売り出したなという程度にしか見えてこないのだが、一つ褒めるとすれば、この願い筒を結わえた枝は見映えがいいということだろう。

願い筒と楼門

願い筒をズームイン





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by office34 | 2012-04-02 23:11 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 03月 06日
「京都新聞」の先斗町
このところペースダウンの気配が濃厚となっている。ひとえに西京新聞社版「京都新聞」にかかずらってからのことだ。というのも、この資料は読めば読むほど面白いネタを提供してくれるのだが、その扱い方が難しく、紹介の仕方が一筋縄ではいかないからである。

ペタっとコピーを貼り付けるだけでは明治初期の文献を直接示しているだけで意味をなさない。かといって細かい解説を始めようものなら、マニアックモードに陥って話はどんどん細かい方へと流れることとなり、結果、たくさんの方に読んでもらえる文章とはならない。それでさてどうしたものかと思案しているうちに、時間ばかりが過ぎているのである。

確かに、コ難しい話を軽やかに語るのも文章力とはいうが、その考え方には疑問を持っている。ジャンルはどうであれ、難解な内容を分かりやすく噛み砕いた文体なるものの多くが、実は強引にして乱暴な単純化しかしていないように思っているからである。ともあれ、グチグチと愚痴をこぼしたところで何も始まらない。諦めて新河原町通・先斗町の話を続けることにしよう。

以前にも触れたが、「新河原町通」なる通り名が出ていたのは「京都新聞」16号(明治5年1月)の褒賞記事だった(参考までに)。新河原町通四条上ルの加茂川筋を通りがかった折りに云々という形で記された、某氏による人命救助を褒賞する内容である。「新河原町通」が「先斗町」と同じ場所を指しているのは、すぐに分かったが、「先斗町」という言い方と「新河原町通」という言い方の関係が、当方の関心事となった。一般には先斗町の旧名であるかのごとく扱われている。ウィキペディア「先斗町」のページ(2012.03.05現在)にある「もともとは鴨川の州で、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた」とする記述などは、その代表的なものだろう。しかし、江戸時代の資料でみるかぎり、明確な前後関係はわからない。

現在、「先斗町」と呼ばれている通りを、かつては「新河原町通」と呼んだことがあり、その名前は現在では使われていないことを指して、「旧名」というのなら間違いには当たらない。そもそも何年何月何日をもって呼称を切り換えるとの決め事がなされたはずはないのだから、こだわるほどのことではあるまいというのも確かである。しかし、なんとなく呼称に前後関係があるかのような理解が流布しているように思えて抵抗を感じているのである。

当方の考えは、両方の名前が併用されていたとする立場である。資料を広く探し求めて、厳密に整理・比較するなら早い遅いの微妙な違いは出てくるかも知れない。しかし、それでも一時は「新河原町通」が優勢だったが、いつしか「先斗町」と呼ばれるようになったというものではなく、ケースバイケースで、あるいは人によって、「新河原町通」とも「先斗町」とも呼ばれていたのではないかと思うのである。

ことの発端になった「京都新聞」16号の記事だが、歓楽街としての性格を前面に押し出した記述ではなく、空間表示としての使い方である。そのため(と限定するのも問題だが)「新河原町通」という呼称が用いられたとは考えられないだろうか。ちなみに、同じ「京都新聞」でも、18号(明治5年3月)に掲載されている「遊楽園地」という記事では「先斗町」という記述が使われている。この記事は、御所の南西隅エリアの九条家邸内に「遊歩宴楽の場」が設けられたという記事であり、同様のリラックスゾーンが「元薩邸」や「先斗町の裏」にも設けられたことを伝えている。

この記事は、京都における「公園」の起源を円山公園をもってするという常識をひっくり返すもので、その事自体がものすごく興味深いのだが、ここでは「先斗町」という言葉の使い方のみに着目する。
扨又先斗町ポントテウノ裏ウラニハ数十株ノ桜を栽ヘ立タテ芳野嵐山ノ面影オモカゲヲ加茂川ノ清キ流ニ写ウツサントシ夜ハ数百ノ灯ヲ輝カヾヤカシ陰カゲニ名妓ノ来往スルハ吉原ヨシハラノ夜桜ニモ劣ルマシキ風情ナリ
(小文字は傍訓)
「先斗町の裏」に設けられたこのエリアの具体的な規模や実態は分からない。しかし桜を植えて云々と言ったあと、吉原の夜桜を引きあいに出す口吻からは、このエリアを歓楽街とする認識が窺える。「新河原町通」ではなく、「先斗町」となるのも、そうした認識の上にあるものと思う。

「京都新聞」16号と18号の記事からいえることは、明治の初期、一ヶ月の差があるとはいえ、同じ性格の資料に「先斗町」と「新河原町通」の使い分けが見られるということである。記者に深い考えがなく、その時の気分で書いたとみる理解もナシではないが、文脈を比べれば「先斗町」が出てくるところと「新河原町通」が出てくるところでは違いは歴然としている。仮に記者が意識せずに書いたとすれば、むしろその方が、使い分けが浸透していたことの証といえるかも知れない。






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by office34 | 2012-03-06 16:56 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 29日
新河原町通と先斗町
「新河原町通」の話は、前振りを何度もしてしまったので鮮度が落ちたかも知れない。気の早い方ならネットで検索をかけて、先斗町のことであるというところまで突き止めていることだろう。「先斗町」に関する説明では、地名の由来で先端を意味する地形説やポルトガル語の転訛説と併せて、「新河原町通」なる名前を紹介するものも少なくないからである。そうした情報の出典は、おそらく『京都事典』あたりかと思うのだが、実際には、出典に触れずに手軽なガイドブックやウィキペディア等へ引き写された記述を、ネットでコピーして拡散というパターンだろう。

当方も辞典類や概説書の説明を嫌っているわけではないし、頻繁に利用するクチである。しかしそれでも、その手のモノの本に依ったのなら出典を明記するのがマナーと考えている。字数制限の厳しい印刷物では厳密なことができないのも分からないではない。また出典がどうこういった話を始めると一般読者に嫌われるから黙っておくに越したことはないとする風潮があることも知っている。だが無責任で不作法な引き写しをしているだけなのに、私はこんなことを知ってますよという訳知り顔で書いている記述に辟易しているのもまた事実である。「新河原町通」に関して調べていたところ、細かいテニヲハまで酷似した説明が少なからず転がっているのに接して小言つらつらモードになっているのだが、他人様のすることにイチャモンをつけても建設的ではない。ここは本論に入るべきところだ。

「新河原町通」、『京都事典新装版』には「寛文一〇年(1670)鴨川が改修され、新河原町筋ができて先斗町のもとがおこった」とあり、「新河原町」の名で呼ばれた通りに沿ってできた茶屋街が、いつしか先斗町と呼ばれるようになったとのことである。新撰京都叢書所収の「京都先斗町遊郭記録」は、「先斗町遊郭の起因」と題して
正徳二年西石垣斎藤町より依頼により並池洲株なるもの差許されしより新河原町通り三条より四条までに茶屋旅籠を営み茶立女を差置れたりとの記録は斎藤町にあり。
と記す。斎藤町の文書は確認できないが、遊郭の始まりを伝えるこの記述は『国史大辞典』にも引かれるところとなっている。また遊郭とは別に、町並みとしての沿革をいうのであれば、『京都事典』がいうところの寛文10年云々の説明もどうやら「京都先斗町遊郭記録」に依拠しているようで、
寛文十年といふに加茂川に添へて石垣等の普請あり。続きて延宝二年二月に若松町に初めて五軒の建家を許されたり。(好色一代男天和二年版にぽんと丁とあり)
とある。さらに「先斗町」という名前と「新河原町」という名前の関係についても「京都先斗町遊郭記録」は言い及んでおり、
元禄十五年の板なる万宝節用集町名鑑の中の樵木町の条下に東川筋三条下る所より四条をぽんと町といふとあれば元禄年度を先づ初めとして置くも敢て差支あらざるべし
新河原町の名称は文政開板なる扁額規範二篇の中に三条の南より四条の北半町ばかり迄を新川原町ママといふ。人これを称へずして先斗町といふとあれば新河原町の名称は先斗町よりも古きものと知らるゝ也。
等の記述が見られる。

少々情報が錯綜気味なので整理した方がいいだろうか。キーとなる年代は寛文延宝年間(1670年頃)、元禄年間(1700年頃)、正徳年間(1710年頃)といったあたり。寛文延宝の頃に護岸の石垣上に家並みが現れ始め、元禄の頃には「先斗町」という名前が見受けられるようになり、そして「新河原町通り三条より四条まで」が茶屋街としての体裁を整えたのが正徳の頃、といったあたりだろうか。「先斗町」の旧名を「新河原町通」とするのが現在では一般的な解釈のようだが、前後関係は意外に明確ではなさそうだ。

「京都先斗町遊郭記録」が引く資料でいえば、「扁額規範」なる刊本に「新河原町の名称は先斗町よりも古きものと知らるゝ也」とあるわけだが(前掲)、文政の頃の一般呼称に「新河原町」があり、世間の人々がその名前を使わず「先斗町」と呼んでいるという事実から、一足飛びに前後関係をいうのは難しいように思うのだが、どうだろう。むしろ併用されていたとみて、住所の指示など地図記載風にいうなら「新河原町通」で、紅灯の巷としてのカラーを前面に出す時に「先斗町」という名前が使われた、とは考えられないだろうか。『京町鑑』(新修京都叢書所収)の「○新川原町通 俗に○ぽんと町と云」という記述も、名称が併用されていたことを窺わせる。






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by office34 | 2012-02-29 15:25 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 28日
もひとつ、女紅?or女工?
「新河原町通」ネタを始めたいところなのだが、またしても、気になるデータと遭遇。どうも、マニアックスパイラルに陥っているような気配がする。とはいえ、見てしまったものは仕方ないということで、簡単に報告だけしておこう。

テーマは、もちろん「女紅場」である。一般に言われている設置時期、つまり明治6年より早い時点での記述であり、かつ施設名が出てくる資料である。出典は、これまた、またしてもなのだが、西京新聞社版「京都新聞」である。その廿五号壬申四月(明治5年4月)版に次のような記事があった。
○女紅学校
前号ニ概略ヲ記シタル丸太町新学校ノ教師ハ英国人トーマスホルンビーイヴァンス同妻エミリーイヴァンス両名ナリ当月九日ヨリ御雇ニナリ夫ハ語学婦ハ女工ノ教師ニ命セラレシカハ之ニ就テ教授ヲ受ント欲スル者甚盛ニシテ女生徒タケニテモ未タ数日ヲ歴ヌ内既ニ百二十余人ニ及ヘル由当所ハ元来繊縫等ノ事ニ取テハ別シテ天下ノ最タル地ナレハ外国流女工ニ於テモ亦諸府県ノ魁トナルヘキ兆キサシ爰ニ見エタリ尚ナヲ学ブ人ノ勉励ハゲミヲ企望キボウスルノミ
「前号に概略を」云々とあるのは、24号に「御布令」とのタイトルで、「女学開校」との記事があったことを指す。その記事と、上掲25号の記事と併せて、女子教育施設の名前については、設置時点ですでに「女紅」という言葉が使われていたと言えそうだ(「女紅場」と言わず、「女紅学校」だった点は、少し強調してもいいのだが、論点がぼやけるので軽くスルーしよう)

また「女工」という言葉は、25号の記事にも出ているし、実は24号の「御布令」にも用いられている(「和洋ノ女工」という表現)。意味するところは「女工哀史」等の使われ方で知られる女性労働者を意味するものではなく、女性向け教養といった意味のようだ。女学で履修すべき科目の一つに「女工」があることから、具体的な中身はさておき、イマ風にいう「家庭科」みたいなものだろう。あるいは上掲記事における「女工ノ教師」や「外国流女工」とかの用法を思えば、ladies mannerといったあたりかとも考えられる。さてどうだろう。以前に引用した『明治文化と明石博高翁』では「女の手芸を指す語」とあるのだが、25号の用例を考えると裁縫だけに限定していいのかどうか、少し心もとない。






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by office34 | 2012-02-28 23:14 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 25日
女紅場? 女工場?
女紅場に触れ、「紅」「工」の字でゴチャゴチャやっていたが、ゴチャゴチャついでにもう少しゴチャっとやってみる。というのは、「京都新聞」(西京新聞社)からのスピンオフでもう一つの課題として考えていた「新河原町通」絡みでの調べ物をしていた時に、面白そうな記事が目に留まったからである。

問題を引き起こしてくれたのは「京都先斗町遊郭記録」(『新撰京都叢書』第九巻所収)にあった一節で、いわく
女工の工の字をいつの程にか紅と粋に変へたり。
というものである。「京都先斗町遊郭記録」とは、解題によれば「倉田保之編。翻印の底本は大塚隆氏所蔵本、一冊、昭和八年写。京都における遊郭の起源から筆を起こし、先斗町花街の成立と沿革、維新以後明治四十一年にいたる年代記を収めた記録である」とのこと。そして「巻末の筆写者識語によれば、底本は先斗町廓事務所所蔵の原本を写したものであるが、筆写者未詳である」とも記されている。要するに、この資料は、少なくとも明記されている昭和8年までは遡ることができ、なおかつ中身から明治41年以後いずれかの時期に記されたと判断できる。

そうした年代を想定しておいたうえで、引用の一節にあたるわけだが、興味深いのは「紅」と「工」が単に通用するというだけではなく、本来は「女工」であったところを「粋」な計らいで「紅」に変えたということである。仮にこうした視点が正しいとすれば、現在、一般に用いられている概説書で「女紅場」と書かれている名称そのものの根拠を問い直さねばならなくなる。はっきり言って、これは一大事だ。これはなんとしても「女紅場」が設置された時にはどう記述されていたのか、ということを確認しなければならない。

女紅場の設置に関しては、漠然と明治の初期と理解していたが、少なくとも明治6年にはそうした名前の施設が確認できる(「京都新聞」明治6年5月)。いくつかの辞典類にあたった結果、比較的早い時期を特定するものとしては『京都大事典』が挙げられる。
明治六年二月下京十六区(島原)、三月下京十五区(祇園)、上京六区(上七軒)、四月下京二十区(宮川町)、六月下京六区(先斗町)と次々に開業した婦女職工引立会社が、同七年四月女紅場と改称、これらを総称して遊所女紅場と呼んだ。
これに従えば「婦女職工引立会社」が明治7年に改称されて「女紅場」となったことになるのだが、これでは明治6年の記述として確認される「女紅場」の説明にはならない。そうなると辞典類はパスして、資料を直接渉猟せねばならない。ただテーマが明確であることや時期的に絞られていることは救いである。実際、いきなり引っ掛かってきた「婦女職工引立会社取立願書」なるものに重要な記述を見出すことができた。
第二条 此社ヲ名付テ婦女職工引立会社トイフハ、従前浮業遊職ノ婦女娼婦芸妓ニ至ルマテニ各種ノ女紅ヲ教習セシムル儀ニシテ、其事務ハ第四条是ヲ掲グ
『京都府誌』上巻所引(京都府刊、大正四年)
「婦女職工引立会社取立願書」は、同会社の設置を京都府に申し出るもので明治5年10月付である。「女紅場」との完全一致ではないが、「女紅」なる言葉が使われていることに注目したい。明治5年の時点で「女紅」が確認できるのだから、「女工」を「粋に変」えて「女紅」としたというのは、どうやら後付けの説明といえそうだ。結局のところ、現状としてまかり通っている「女紅場」という名称は、あえて検討しなおすには及ばないというところが結論となる。大山鳴動してなんとやらみたいな結果になったが、ほっと一安心といったところである。





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by office34 | 2012-02-25 12:17 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(2)
2012年 02月 18日
女紅場
京都新聞ネタは打ち止めを宣言したのだが、興味深い情報がたくさんあったので、うちいくつかをSPIN-OFF扱いで取り上げてみる。その一つが「女紅場」である。

明治に開かれた女学校ということで、たいていの概説書にも触れられているのだが、最終回の「まとめにかえて」で取り上げた付図と関わるので注目してみる。

まず「女紅場」についてのアウトラインだが、手許にあるモノの本から引いておこう。
女紅場 (にょこうば) 明治前期の女子教育機関。女紅場には三種類あって、その一は中流・上流階級の子女に中等普通学科と手芸・家事を教え、良妻賢母を養成する学校で、新英学校女紅場や同志社女学校がこれである。新英学校は英女学校、京都府女学校と改称され、京都府立第一高等女学校になった。その二は一般民衆子女の日常生活や生産と結びついた教育の場で、小学区ごとに区内の民費で設立され、裁縫や手芸が教授されて「物産繁殖の一端」を開くことが目的であった。その三は遊所女紅場で、島原・祇園・先斗町・上七軒などすべての遊所に設立され、遊女芸者や浮業の鑑札を受ける者は必ず入らなければならなかった。この女紅場は現在も存続しているものが多く、女性の一般教養が施こされている。(辻)
『新装版 京都事典』(村井康彦氏編、東京堂出版、平成5年)
祇園に関連するのは、このうちの三番目のものであるのは言うまでもない。説明がやや時代がかった感もあるが、『京都事典』の初版が刊行された昭和54年現在の記述である。なお執筆者は辻ミチ子氏である。

今回、注目するのは2点。まずは先日の記事で保留としておいた「紅」と「工」の通用について。ウィキペディアの記事(2012.2.18現在)によれば「『女紅』とは『女工』とも表記し」とのことなので、通用は認められるようだ。ただ厳密なところをいうのなら、記事自体が京都の女紅場に限定したものではないところが引っ掛かる。京都の女紅場について、当方のところで確認できる古い記述となると、田中緑紅の文章だろうか。『明治文化と明石博高翁』(田中緑紅著、明石博高翁顕彰会、昭和17年)に収載されている説明文である。そこでは「女紅、女工、女巧皆同義で女の手芸を指す語」(「女子教育の先鞭女紅場」)と記されていて、通用を認めている。内容は『京都事典』にいうところの一つ目の女紅場のことなのだが、文字の使い方に関しては、昭和17年の記事と明治5年の実例とをつきあわせたうえで、通用と認めてもいいだろう。

二つ目は女紅場の場所について。京都新聞の付図によれば花見小路の角にあることになっている。ここは現在の一力のある場所に他ならない。四条通の拡幅に合わせて一力の玄関が北側から西側へ替えられたことが『京都事典』には触れられているのだが、建物が移転したとかの話は聞かない。大石内蔵助が遊んだ云々はフィクションだとしても、江戸時代から続く茶屋で、祇園遊郭の象徴でもある。移転どうこうの事情があったとすれば、たぶんにそれ自体が歴史的記述として残るはずなので、移転は考えがたい。だとすれば京都新聞の付図はどういうことなのだろう。

推測されるのは、単純ミスの可能性はともかくとして、一力が邸内に場所を提供していたのではないかということである。現在の甲部歌舞練場の裏側、祇園女子技芸学校(舞妓さんや芸妓さんが舞踊などの技芸を習っている施設)がある場所に、いずれかの時点で移転したのだろうと思うが、女紅場として開設された当初は一力に間借りする形となっていたのではないだろうか……というあくまでも推測である。






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by office34 | 2012-02-18 02:28 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)