Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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  • 新河原町通と先斗町
    [ 2012-02-29 15:25 ]
  • もひとつ、女紅?or女工?
    [ 2012-02-28 23:14 ]
  • 女紅場? 女工場?
    [ 2012-02-25 12:17 ]
  • 女紅場
    [ 2012-02-18 02:28 ]
  • まとめにかえて ~「京都新聞」(11)
    [ 2012-02-16 20:00 ]
  • 汁講の約・読解私案 ~「京都新聞」(10)
    [ 2012-02-15 09:00 ]
  • 汁講の約 ~「京都新聞」(9)
    [ 2012-02-14 23:59 ]
  • 明治5年の地名表記 ~「京都新聞」(8)
    [ 2012-02-13 23:59 ]
  • 明治5年1月の褒賞 ~「京都新聞」(7)
    [ 2012-02-12 15:00 ]
  • 「小学開校」の記事より ~「京都新聞」(6)
    [ 2012-02-07 23:41 ]


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2012年 02月 29日
新河原町通と先斗町
「新河原町通」の話は、前振りを何度もしてしまったので鮮度が落ちたかも知れない。気の早い方ならネットで検索をかけて、先斗町のことであるというところまで突き止めていることだろう。「先斗町」に関する説明では、地名の由来で先端を意味する地形説やポルトガル語の転訛説と併せて、「新河原町通」なる名前を紹介するものも少なくないからである。そうした情報の出典は、おそらく『京都事典』あたりかと思うのだが、実際には、出典に触れずに手軽なガイドブックやウィキペディア等へ引き写された記述を、ネットでコピーして拡散というパターンだろう。

当方も辞典類や概説書の説明を嫌っているわけではないし、頻繁に利用するクチである。しかしそれでも、その手のモノの本に依ったのなら出典を明記するのがマナーと考えている。字数制限の厳しい印刷物では厳密なことができないのも分からないではない。また出典がどうこういった話を始めると一般読者に嫌われるから黙っておくに越したことはないとする風潮があることも知っている。だが無責任で不作法な引き写しをしているだけなのに、私はこんなことを知ってますよという訳知り顔で書いている記述に辟易しているのもまた事実である。「新河原町通」に関して調べていたところ、細かいテニヲハまで酷似した説明が少なからず転がっているのに接して小言つらつらモードになっているのだが、他人様のすることにイチャモンをつけても建設的ではない。ここは本論に入るべきところだ。

「新河原町通」、『京都事典新装版』には「寛文一〇年(1670)鴨川が改修され、新河原町筋ができて先斗町のもとがおこった」とあり、「新河原町」の名で呼ばれた通りに沿ってできた茶屋街が、いつしか先斗町と呼ばれるようになったとのことである。新撰京都叢書所収の「京都先斗町遊郭記録」は、「先斗町遊郭の起因」と題して
正徳二年西石垣斎藤町より依頼により並池洲株なるもの差許されしより新河原町通り三条より四条までに茶屋旅籠を営み茶立女を差置れたりとの記録は斎藤町にあり。
と記す。斎藤町の文書は確認できないが、遊郭の始まりを伝えるこの記述は『国史大辞典』にも引かれるところとなっている。また遊郭とは別に、町並みとしての沿革をいうのであれば、『京都事典』がいうところの寛文10年云々の説明もどうやら「京都先斗町遊郭記録」に依拠しているようで、
寛文十年といふに加茂川に添へて石垣等の普請あり。続きて延宝二年二月に若松町に初めて五軒の建家を許されたり。(好色一代男天和二年版にぽんと丁とあり)
とある。さらに「先斗町」という名前と「新河原町」という名前の関係についても「京都先斗町遊郭記録」は言い及んでおり、
元禄十五年の板なる万宝節用集町名鑑の中の樵木町の条下に東川筋三条下る所より四条をぽんと町といふとあれば元禄年度を先づ初めとして置くも敢て差支あらざるべし
新河原町の名称は文政開板なる扁額規範二篇の中に三条の南より四条の北半町ばかり迄を新川原町ママといふ。人これを称へずして先斗町といふとあれば新河原町の名称は先斗町よりも古きものと知らるゝ也。
等の記述が見られる。

少々情報が錯綜気味なので整理した方がいいだろうか。キーとなる年代は寛文延宝年間(1670年頃)、元禄年間(1700年頃)、正徳年間(1710年頃)といったあたり。寛文延宝の頃に護岸の石垣上に家並みが現れ始め、元禄の頃には「先斗町」という名前が見受けられるようになり、そして「新河原町通り三条より四条まで」が茶屋街としての体裁を整えたのが正徳の頃、といったあたりだろうか。「先斗町」の旧名を「新河原町通」とするのが現在では一般的な解釈のようだが、前後関係は意外に明確ではなさそうだ。

「京都先斗町遊郭記録」が引く資料でいえば、「扁額規範」なる刊本に「新河原町の名称は先斗町よりも古きものと知らるゝ也」とあるわけだが(前掲)、文政の頃の一般呼称に「新河原町」があり、世間の人々がその名前を使わず「先斗町」と呼んでいるという事実から、一足飛びに前後関係をいうのは難しいように思うのだが、どうだろう。むしろ併用されていたとみて、住所の指示など地図記載風にいうなら「新河原町通」で、紅灯の巷としてのカラーを前面に出す時に「先斗町」という名前が使われた、とは考えられないだろうか。『京町鑑』(新修京都叢書所収)の「○新川原町通 俗に○ぽんと町と云」という記述も、名称が併用されていたことを窺わせる。






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by office34 | 2012-02-29 15:25 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 28日
もひとつ、女紅?or女工?
「新河原町通」ネタを始めたいところなのだが、またしても、気になるデータと遭遇。どうも、マニアックスパイラルに陥っているような気配がする。とはいえ、見てしまったものは仕方ないということで、簡単に報告だけしておこう。

テーマは、もちろん「女紅場」である。一般に言われている設置時期、つまり明治6年より早い時点での記述であり、かつ施設名が出てくる資料である。出典は、これまた、またしてもなのだが、西京新聞社版「京都新聞」である。その廿五号壬申四月(明治5年4月)版に次のような記事があった。
○女紅学校
前号ニ概略ヲ記シタル丸太町新学校ノ教師ハ英国人トーマスホルンビーイヴァンス同妻エミリーイヴァンス両名ナリ当月九日ヨリ御雇ニナリ夫ハ語学婦ハ女工ノ教師ニ命セラレシカハ之ニ就テ教授ヲ受ント欲スル者甚盛ニシテ女生徒タケニテモ未タ数日ヲ歴ヌ内既ニ百二十余人ニ及ヘル由当所ハ元来繊縫等ノ事ニ取テハ別シテ天下ノ最タル地ナレハ外国流女工ニ於テモ亦諸府県ノ魁トナルヘキ兆キサシ爰ニ見エタリ尚ナヲ学ブ人ノ勉励ハゲミヲ企望キボウスルノミ
「前号に概略を」云々とあるのは、24号に「御布令」とのタイトルで、「女学開校」との記事があったことを指す。その記事と、上掲25号の記事と併せて、女子教育施設の名前については、設置時点ですでに「女紅」という言葉が使われていたと言えそうだ(「女紅場」と言わず、「女紅学校」だった点は、少し強調してもいいのだが、論点がぼやけるので軽くスルーしよう)

また「女工」という言葉は、25号の記事にも出ているし、実は24号の「御布令」にも用いられている(「和洋ノ女工」という表現)。意味するところは「女工哀史」等の使われ方で知られる女性労働者を意味するものではなく、女性向け教養といった意味のようだ。女学で履修すべき科目の一つに「女工」があることから、具体的な中身はさておき、イマ風にいう「家庭科」みたいなものだろう。あるいは上掲記事における「女工ノ教師」や「外国流女工」とかの用法を思えば、ladies mannerといったあたりかとも考えられる。さてどうだろう。以前に引用した『明治文化と明石博高翁』では「女の手芸を指す語」とあるのだが、25号の用例を考えると裁縫だけに限定していいのかどうか、少し心もとない。






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by office34 | 2012-02-28 23:14 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 25日
女紅場? 女工場?
女紅場に触れ、「紅」「工」の字でゴチャゴチャやっていたが、ゴチャゴチャついでにもう少しゴチャっとやってみる。というのは、「京都新聞」(西京新聞社)からのスピンオフでもう一つの課題として考えていた「新河原町通」絡みでの調べ物をしていた時に、面白そうな記事が目に留まったからである。

問題を引き起こしてくれたのは「京都先斗町遊郭記録」(『新撰京都叢書』第九巻所収)にあった一節で、いわく
女工の工の字をいつの程にか紅と粋に変へたり。
というものである。「京都先斗町遊郭記録」とは、解題によれば「倉田保之編。翻印の底本は大塚隆氏所蔵本、一冊、昭和八年写。京都における遊郭の起源から筆を起こし、先斗町花街の成立と沿革、維新以後明治四十一年にいたる年代記を収めた記録である」とのこと。そして「巻末の筆写者識語によれば、底本は先斗町廓事務所所蔵の原本を写したものであるが、筆写者未詳である」とも記されている。要するに、この資料は、少なくとも明記されている昭和8年までは遡ることができ、なおかつ中身から明治41年以後いずれかの時期に記されたと判断できる。

そうした年代を想定しておいたうえで、引用の一節にあたるわけだが、興味深いのは「紅」と「工」が単に通用するというだけではなく、本来は「女工」であったところを「粋」な計らいで「紅」に変えたということである。仮にこうした視点が正しいとすれば、現在、一般に用いられている概説書で「女紅場」と書かれている名称そのものの根拠を問い直さねばならなくなる。はっきり言って、これは一大事だ。これはなんとしても「女紅場」が設置された時にはどう記述されていたのか、ということを確認しなければならない。

女紅場の設置に関しては、漠然と明治の初期と理解していたが、少なくとも明治6年にはそうした名前の施設が確認できる(「京都新聞」明治6年5月)。いくつかの辞典類にあたった結果、比較的早い時期を特定するものとしては『京都大事典』が挙げられる。
明治六年二月下京十六区(島原)、三月下京十五区(祇園)、上京六区(上七軒)、四月下京二十区(宮川町)、六月下京六区(先斗町)と次々に開業した婦女職工引立会社が、同七年四月女紅場と改称、これらを総称して遊所女紅場と呼んだ。
これに従えば「婦女職工引立会社」が明治7年に改称されて「女紅場」となったことになるのだが、これでは明治6年の記述として確認される「女紅場」の説明にはならない。そうなると辞典類はパスして、資料を直接渉猟せねばならない。ただテーマが明確であることや時期的に絞られていることは救いである。実際、いきなり引っ掛かってきた「婦女職工引立会社取立願書」なるものに重要な記述を見出すことができた。
第二条 此社ヲ名付テ婦女職工引立会社トイフハ、従前浮業遊職ノ婦女娼婦芸妓ニ至ルマテニ各種ノ女紅ヲ教習セシムル儀ニシテ、其事務ハ第四条是ヲ掲グ
『京都府誌』上巻所引(京都府刊、大正四年)
「婦女職工引立会社取立願書」は、同会社の設置を京都府に申し出るもので明治5年10月付である。「女紅場」との完全一致ではないが、「女紅」なる言葉が使われていることに注目したい。明治5年の時点で「女紅」が確認できるのだから、「女工」を「粋に変」えて「女紅」としたというのは、どうやら後付けの説明といえそうだ。結局のところ、現状としてまかり通っている「女紅場」という名称は、あえて検討しなおすには及ばないというところが結論となる。大山鳴動してなんとやらみたいな結果になったが、ほっと一安心といったところである。





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by office34 | 2012-02-25 12:17 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(2)
2012年 02月 18日
女紅場
京都新聞ネタは打ち止めを宣言したのだが、興味深い情報がたくさんあったので、うちいくつかをSPIN-OFF扱いで取り上げてみる。その一つが「女紅場」である。

明治に開かれた女学校ということで、たいていの概説書にも触れられているのだが、最終回の「まとめにかえて」で取り上げた付図と関わるので注目してみる。

まず「女紅場」についてのアウトラインだが、手許にあるモノの本から引いておこう。
女紅場 (にょこうば) 明治前期の女子教育機関。女紅場には三種類あって、その一は中流・上流階級の子女に中等普通学科と手芸・家事を教え、良妻賢母を養成する学校で、新英学校女紅場や同志社女学校がこれである。新英学校は英女学校、京都府女学校と改称され、京都府立第一高等女学校になった。その二は一般民衆子女の日常生活や生産と結びついた教育の場で、小学区ごとに区内の民費で設立され、裁縫や手芸が教授されて「物産繁殖の一端」を開くことが目的であった。その三は遊所女紅場で、島原・祇園・先斗町・上七軒などすべての遊所に設立され、遊女芸者や浮業の鑑札を受ける者は必ず入らなければならなかった。この女紅場は現在も存続しているものが多く、女性の一般教養が施こされている。(辻)
『新装版 京都事典』(村井康彦氏編、東京堂出版、平成5年)
祇園に関連するのは、このうちの三番目のものであるのは言うまでもない。説明がやや時代がかった感もあるが、『京都事典』の初版が刊行された昭和54年現在の記述である。なお執筆者は辻ミチ子氏である。

今回、注目するのは2点。まずは先日の記事で保留としておいた「紅」と「工」の通用について。ウィキペディアの記事(2012.2.18現在)によれば「『女紅』とは『女工』とも表記し」とのことなので、通用は認められるようだ。ただ厳密なところをいうのなら、記事自体が京都の女紅場に限定したものではないところが引っ掛かる。京都の女紅場について、当方のところで確認できる古い記述となると、田中緑紅の文章だろうか。『明治文化と明石博高翁』(田中緑紅著、明石博高翁顕彰会、昭和17年)に収載されている説明文である。そこでは「女紅、女工、女巧皆同義で女の手芸を指す語」(「女子教育の先鞭女紅場」)と記されていて、通用を認めている。内容は『京都事典』にいうところの一つ目の女紅場のことなのだが、文字の使い方に関しては、昭和17年の記事と明治5年の実例とをつきあわせたうえで、通用と認めてもいいだろう。

二つ目は女紅場の場所について。京都新聞の付図によれば花見小路の角にあることになっている。ここは現在の一力のある場所に他ならない。四条通の拡幅に合わせて一力の玄関が北側から西側へ替えられたことが『京都事典』には触れられているのだが、建物が移転したとかの話は聞かない。大石内蔵助が遊んだ云々はフィクションだとしても、江戸時代から続く茶屋で、祇園遊郭の象徴でもある。移転どうこうの事情があったとすれば、たぶんにそれ自体が歴史的記述として残るはずなので、移転は考えがたい。だとすれば京都新聞の付図はどういうことなのだろう。

推測されるのは、単純ミスの可能性はともかくとして、一力が邸内に場所を提供していたのではないかということである。現在の甲部歌舞練場の裏側、祇園女子技芸学校(舞妓さんや芸妓さんが舞踊などの技芸を習っている施設)がある場所に、いずれかの時点で移転したのだろうと思うが、女紅場として開設された当初は一力に間借りする形となっていたのではないだろうか……というあくまでも推測である。






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by office34 | 2012-02-18 02:28 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 16日
まとめにかえて ~「京都新聞」(11)
かなりダラダラと「京都新聞」(西京新聞社版)論議を続けてしまったようだが、「汁講の約」を出したあたりで打ち止めである。最後に一つだけ、なぜこの明治5年1月の「京都新聞」が目に留まったのかというところに触れておこう。

そもそもの発端は『京都市都市計画街路・道路』という報告書にある。平成12年に京都市が発刊したもので、まえがきによれば「本書は、歴史の都・京都の都市計画街路・道路の記録を残すためにまとめた」となっており、公報や各種工事に伴う法令など、明治以降に出された道路関係の法令をまとめたものである。その巻頭に引用されていたのが、明治6年の京都新聞だった。そして「そんな時代に京都新聞?」という反応をしてしまったのは、先に触れたとおりである。

それでは、この報告書に引かれていた記事はどういうものだったか。一連の「京都新聞」シリーズはまとめるにもマトメがつかない形になってしまったので、その代わりに発端となった記事を紹介する形でシリーズの締めとしておきたい。

新京極や祇園界隈に新しい街路が開かれ、街の様子が変わりつつある時代の様相を伝える記事である。記事の最後には当時の祇園界隈の地図も付されていて興味深い(地図は前掲報告書には未掲載)。ざっと書き起こすと以下のような具合になっている。先に挙げた明治5年1月における地名表記のスタイルと同様、いますぐ何かに役立つわけではないが、いずれは?程度の情報として出しておきたい。
○方今府下人心開化ノ域ニ進歩セルニ従ツテ道路ノ間モ大ニ闢ケ社寺ノ林藪ヲ伐リ開キ市井ノ隙地ヲ画シ各所ニ新路ヲ造リ以テ庶民ノ往来ニ便ス其一二ヲ挙テ云フニ新京極通 [寺町ヲ云] ノ東北三条通ヨリ誓願寺錦天神四条道場等穿チ南四条通ヘ透トヲスコレヲ新京極町ト称シ此街ニ営ム劇場シバイ其他見セ物前ニ十倍シ極メテ繁昌ナリ又下京第十五区八坂新地ノ内祇園町女紅場 [旧万亭宅] ノ西ニ並ナランデ新路ヲ開キ下河原或ハ建仁寺境内ニ続ケル市街ヲ造リ其町名ヲ花見小路南園小路青柳小路初音小路ト号シ又建仁寺塔頭正伝院外ニ三ケ寺ヲ買得シ女紅場ノ分局ヲ設ケ養蚕製茶或ハ療病■[一字墨滅]/傍書:館等ヲ置キ又ハ歌舞伎場ヲ造リ園街ノ芸妓都踊リノ所作ヲナシ其体裁頗ル美ニシテ他ニ並ブナシ又正伝院庭中小ママ田有楽斎好ミノ茶室ニ芸妓ヲ集メ売茶アリ爰ニ男子来リ大ニ愉快シ蓋シ開路市街ハ大略左ニ図ノ如シ

[左図]

A:八坂神社 B:万亭 C:下十五校ママ小学校 D:女工場 E:旧正伝院,下京十五区女工場分局,製茶場,小ママ田有楽斎好茶室ニテ芸妓手前売茶 F:下京十五区,療病館,旧福寿院 G:下京十五区女工場分局養蚕場 H:旧清住院園街ノ芸妓都踊,歌舞伎場 I:建仁寺塔頭 J:建仁寺塔頭 ①祇園町 ②八ケン ③神幸道 ④ナンエン小ジ ⑤青ヤギ小ジ ⑥花見小路 ⑦ハツネ小ジ
「京都新聞」(西京新聞社)74号,明治6年5月
地図中にある「女工場」は「女紅場」のこと。「紅」と「工」の通用があったか否かは不明、あるいは単純誤字かも知れない。また②の「八ケン」は現在の東大路あたりの街路のようだが、詳細は不明である。
(了)



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by office34 | 2012-02-16 20:00 | 京都本・京都ガイド | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 15日
汁講の約・読解私案 ~「京都新聞」(10)
[1]
汁ハ知の義ニとり人々ともに打集り一ツ鍋の汁を
斟ミ世間有益の物語なとなしつゝ互ニ切磋の
力をすゝめ世の形勢人情の方向を定めて其智
慧を開て太平ニして人を交親せしむる基
を知らしむるは此しる講の趣意たり

「汁講」の「汁」は「知る」の意味に解する。人々が一緒に集まって一つの鍋の汁(すなわち知識のこと)を酌み交わしては世の中のためになる談話をするのである。そこではお互いに鍛えあって世の中の情勢や人心の動向を見定め、その見識を高める。争いのない平和な世の中において、人々をつなぎ合わせる基礎を理解するのは、まさに汁講の趣意なのである。

[2]
会日ハ月の朔日十六日を以て会す素より□しき
交を表するなれハ一品の汁を用いて外の佳肴を
要せす午の時半ニ集り申の時□散す

会合は毎月の一日と十六日とする。もとより????(慎ましい?)付きあいを表すものなので、一品の汁を使って、それより他のご馳走は必要ない。正午に集まって五時散会とする。

[3]
社友は招くも速かさるも知る人も知らさる人も世の
益になる□□見込を書ニつゝり□にもて来て述
□をまつ別に会□玉と云てあらねはともと
来りて助けよかし

このパラグラフ読解不能
社友には案内を送るが、招待状のない者も(原文:速ママかさるも、「速」は誤字?)、知り合いもそうでない人も、世に有益な□□見込(意見?)を文書にまとめ、・・・・・・助けてもらいたい。

パラグラフの大意は、「招待されているかどうかや面識があるかどうかにこだわらず、広く意見を求めているので、こぞって参加してほしい」といったあたりか。


[4]
右の見込を集りたる人ゝの評にかけ益となる
□力の及ひたる事柄ハ講中ニ絶て行ひ拡め
て世間の人も知て採ることを庶幾ふなり

                 汁講社中

右の意見に対して会に参加している人々で評し・・・・・・我等の力が及ぶものであれば、当会で実践するなり宣伝するなりして、世間の人々がそれを採用するように強く願うものである。
汁講社中


こちらで原版コピーをご確認ください。
なお、[1]~[4]のパラグラフは、目安のため私に設けたものです。

(続)



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by office34 | 2012-02-15 09:00 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 14日
汁講の約 ~「京都新聞」(9)
明治5年1月の京都新聞(西京新聞社版)を遅々たるペースで扱ってきたが、最大の難関は紙面の最後に掲げられている「汁講の約」の読解である。結論から言うなら、まったく読めませぬチャンチャンとなるのだが、それでもいじってみたくなる何かが漂っている。

「汁」と「知る」をかけた「汁講」なるサークルの趣意説明文のようである。内容は相互の親睦と知見の研鑽をはかる会合のような雰囲気に読めるのだが、かなり当方の思いこみが先行している気もする。とりわけ、後半部分は文字の解読がままならぬ箇所が続き、文意にいたっては覚束ないどころの話ではない。と、言い訳を並べたところでなんの進展もない。ここは一つ、恥を承知で当方の試読をたたき台として出してみる。

汁講の約
[1]
汁ハ知の義ニとり人々ともに打集り一ツ鍋の汁を
斟ミ世間有益の物語なとなしつゝ互ニ切磋の
力をすゝめ世の形勢人情の方向を定めて其智
慧を開て太平ニして人を交親せしむる基
を知らしむるは此しる講の趣意たり
[2]
会日ハ月の朔日十六日を以て会す素より□しき
交を表するなれハ一品の汁を用いて外の佳肴を
要せす午の時半ニ集り申の時□散す
[3]
社友は招くも速かさるも知る人も知らさる人も世の
益になる□□見込を書ニつゝり□にもて来て述
□をまつ別に会□玉と云てあらねはともと
来りて助けよかし
[4]
右の見込を集りたる人ゝの評にかけ益となる
□力の及ひたる事柄ハ講中ニ絶て行ひ拡め
て世間の人も知て採ることを庶幾ふなり

                 汁講社中


こちらで原版コピーをご確認ください。
なお、[1]~[4]のパラグラフは、目安のため私に設けたものです。

ともあれ、百ウン十年前の汁講に一品供してみようかとお考えの奇特な方が現れ、解読および読解のご教示をお寄せいただければ幸いである。
(続)



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by office34 | 2012-02-14 23:59 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 13日
明治5年の地名表記 ~「京都新聞」(8)
仁丹の町名看板がきっかけとなって、地名表記の方法やその古態などが気になっていた時、そういう関心なら古い新聞記事を見るのが一番だろうというアドバイスをもらったことがある。「東今出川」の問題を扱っていた時のことだったろうか。現在の「出町柳駅前通り」がかつては東今出川通と呼ばれていたのではないかとの推測を立て、それの裏付けになる事柄を探していた時だった。駅前通りに貼られた仁丹の町名看板に「東今出川」の名前が出ているのだから、それ自体が証拠には違いない。しかし唯一の事例から導かれる事柄を一般論風に言い立てるのは、けっして望ましいものではない。古くから「今出川通」と呼ばれた道は鴨川にぶち当たって終わっており、そこから川を越えてさらに東、知恩寺方面へ進む道は現在の駅前通りと重なるのは古地図からも推測できるが、その道がどう呼ばれていたかを示す同時代史料を探していたのである。それで、そうした内容をとある知人に持ちかけたところ、一撃即答「そんなの簡単だ、当時の新聞でも虱潰しに読めば何か出てくるはずだ」。

確かに仰せの通り! ナクヨうぐいすの頃ならいざ知らず、大正昭和の頃だから、たかだか百年程度しか経っていない。依るべきものが消滅や散逸の危機に瀕している時代ではない。問題はそれを適切に料理する力量や見識があるかどうか、あるいはそうした膨大な作業を始めるだけの気合いや度胸があるかどうかだけである。結局、東今出川問題はその名回答によってペンディングモードに入ってしまったのだが、今回、明治5年1月の「京都新聞」を読む機会があったのに刺激されたのか、昔の話が思い起こされた。

というわけで、明治5年1月「京都新聞」に見られる地名を具体的に書き出しておく。かねてからの懸案である東今出川問題と直結するものではないし、ここから何か画期的な見解が飛び出すわけでもない。それでも、いつかは何かの参考にもなるだろうぐらいの心づもりはあるので、コネタ程度に眺めていただければ幸いである。
  • 下京二五番組油木町
  • 下京三拾番組芳野町
  • 下京廿七番組清水町三丁目
  • 下京廿五番組夷町
  • 同組三条白川橋東入四丁目
  • 上京四番組中筋智恵光院西入
  • 下京三十三番組祇園町
  • 上京廿一番組鏡屋町
  • 下京四番組堀之上町
  • 上京一番組姥ヶ榎木町
  • 下京六番組鍋屋町
  • 新河原町通四条上ル加茂川筋
  • 下京廿一番組七条油小路西入町
  • 同六番組四条裏寺町
  • 下京九番組油小路御前通下ル町
  • 堀川木津屋橋上ル町
番組制度がはじまってほどなくのことなので「○○番組××町」というのが、このころの基本スタイルで、いわゆる碁盤の内側では通り名による表記が行われることもある……個々の事例についてコメントするだけの用意はないが、おおざっぱにいえば、こんな感じだろうか。

取りたてて言うべきものでは「七条油小路西入町」のように、通り名で記した後ろに「町」をつけるスタイル、これが明治の初頭に見られたことは抑えておいてもいいだろうか。少し時代がくだった頃のものであれば、時折、目にしていたので興味は持っていたが、そこそこ古くからある表記スタイルのようだ。他にもネチネチやってみると、なにか面白いネタになりそうなものもある雰囲気だが、とりあえず事例の紹介のみで止めておこう。なお「新河原町通」については、ちょっと粘着したいので機会を改める。
(続)



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by office34 | 2012-02-13 23:59 | 町名看板 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 12日
明治5年1月の褒賞 ~「京都新聞」(7)
小学校始業式の記事以外もそれなりに面白い。たとえば褒賞記事に清水亀七や清水六兵衛の名前が見える点などである。亀七に対する褒賞は明治になって開拓の始まった童仙房へ窯業を移植しようとした件であり、六兵衛は「洋製敷瓦焼」を成功させたことへのご褒美のようだ。「洋製敷瓦焼」とはいま風にいうタイルのことで『近代京都を生きた人々・明治人物誌』(杉田博明,京都新聞社,1987)では、明治に入ってからは窯業の技術革新を訴えたという文脈で「自ら(六兵衛のこと)も洋製敷瓦(タイル)の開発を手がけた。舎密局で使用される硫酸壺、碍石の製造にもあたり、理化学の研究発展を支えた」とあるところと符合する。

ちなみに耳馴染みとはいえないのは「碍石がいし」なるものだが、これはかつての電気工事で配線を支えるためによく使われていたパーツで、絶縁性をもたせるため陶製のものが一般的だった。タイル製作は瓦製作の延長線上にくるが、研究機材を作り始めたあたりは異分野のことだから、明確に業務拡張である。

他に名前の挙がっているところを列挙すると以下の通り。
  • 加藤伝七と小林宗兵衛:「外国向ノ陶器製造」の件
  • 丹山青海:「外国形必用之陶器」を「製造ノ上諸国ヘ輸出」の件(詳細な中身不明)
  • 和田安兵衛:「外国製必用之絹類」の件(詳細不明)
  • 辻重三郎:「外国料理」および「食器其外席上要具相求遠客引請」の件(洋食をつくり、テーブルウエアを取揃えて外国客を接待したことか?)の件 [参考]
  • 中川吉右衛門:「(食器関連)外国製必用之品ヲ模作シ諸国ヘ輸出」の件
  • 遠藤茂平:「器械其外緻密之諸図等模写」の件(詳細不明)
  • 鳥原利右衛門:「(織物関連)精密之模様ニ工夫ヲ凝ラシ就中外国人ノ賞誉ヲ受」けた件
となっている。これらは等し並みに事業者で「家業出精」「土地繁栄ノ一端」「蕃殖之趣意」「開化之趣意」等の言葉で讃えられている。こうしたあたりにもまた、時代の空気が感じられる。

ところで褒賞記事はもう一件あり、それは次のようなものである。
上田太三郎手代常七
其方事当正月三日四字比新河原町通四条上ル加茂川筋通リ掛リ候処同所仮橋カリハシヨリ誤アヤマツテ水中ニ落入候モノ有之候ニ付早速引揚ケ候処右ハ河村甚之助母リウト申モノニテ彼是世話致シ居候内近辺ノ者ヨリ相知ラセ甚之助駈付カケツケ候ニ付引渡候段一人ノ人命ヲ助ケ候次第奇特之事ニ候依以下同文[以下同文の内容:為褒美金二円五拾銭遣之]

[大意]あなたは正月三日四時[字は時と同じ]ごろ、新河原町通四条上ルの加茂川筋を通りかかったところ、仮橋から落ちた人を助け上げた。その人は河村甚之助の母親でリウという者であり、知らせを受けて駆けつけた甚之助に引き渡した。人一人の命を助けたことは天晴れで、ここに褒美金2円50銭を与える
京都に陰謀とテロリズムが渦巻き、市街が戦火に包まれてから、まだ5~6年ぐらいであることを思えば、どこかほのぼのとした気分にもしてくれる内容である。同じ紙面には政府の転覆を画策していたことで捕縛された外山光輔の自尽申し渡しのこともあるので、人命救助で褒賞金というのも、大きな目でみれば、これまた「時代」にこじつけることができなくもない。

なお、これらの記事を通して、もう一つ気になったのが地名表記のあり方である。そのあたりを次回に取りあげてみよう。
(続)



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by office34 | 2012-02-12 15:00 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 07日
「小学開校」の記事より ~「京都新聞」(6)
明治五年刊の「京都新聞」から具体的に記事を拾ってみる。「正月十五日庚子小学六十四校ノ開校アリ」と始まる「小学開校」の記事では、知事や参事など官員が列席したことや神酒のふるまいがあったことなど、始業式の模様が記されている。あと三~四年もすれば、政府に抗った政論を展開する「大新聞おおしんぶん」が世の花形になってくるのだが、明治五年の「京都新聞」にはそんな兆しは感じられない。「神酒ヲ諸組ニ頒ワカタマハリ」という書きぶりからも、お上への敬意が伝わってくる。

そんな前提で「小学開校」の記事を読むことになるのだが、それなりに時代の空気を感じさせる部分もある。「文明開化」を高らかに謳うくだりだ。
次ニ上京第八区ノ句読師瀬田明大学ヲ講シタリ其明明徳新民ヲ講スルヤ従来コレマテノ儒生ガクシヤガ注ヲ読ミ疏ヲ拾ヒロフノ旧習キウジウ/フルキクセヲ脱ダツ/ヌケシテ智識チシキヲ開ヒラキ才芸ヲ研クヲ以テ明徳ヲ明ニスルトシ固陋ノ俗ヲ一新シ文明開化ニ進ムヲ以テ新民ヲ作ストシ古訓ヲ掲ケテ今日ノ時務ヲ知ル事ヲ勧奨告諭シケレハ聞者開悟感動セサルハナカリシトソ
「句読師・瀬田明」が、四書の一、「大学」を講読するにあたって、冒頭の解釈を開化の時流に合わせたものにしたので聴衆はみな感じ入ったというのである。ちょっと読みづらいところもあるので、二三、注釈を入れながら見てみよう。

まず句読師だが、福沢諭吉「京都学校の記」には「一所の小学校に、筆道師ひつどうし・句読師くとうし・算術師、各一人……」とあり、小学校で文字の読み方を指導した教師のことと推測できる。小学校の授業で四書の講義?と思うかも知れないが、幼童を座らせて「子曰く、朋あり遠方より来る、また楽しからずや」とやっては、経学ではなく字の読み書きを教えた寺子屋の風景をイメージすれば、明治の小学校で「大学」が出てきても不思議ではない。

問題はその次のくだり。「其明明徳新民ヲ講スルヤ」の部分である。「其それ」は発話の助辞とみていいのだが、続く文言は「大学」の本文と見るのが普通である。ところが「大学」にあたってみると該当する文言は見あたらない。当方がチェックしたのは『十三経注疏』の「礼記正義」、その巻六十「大学」である。その冒頭を書き出すと「大学之道。在明明徳。在親民。在止於至善」となっている。記事に掲載されている文言と似ているが、微妙に違っているのである。

この違いに対しては、最初は開化賛美のために句読師の瀬田明がわざと本文を改変したのだろうと考えた。それで、その推定から話を進めてみたが、「大学」の本文には「作新民」という文言も登場するらしい……というあたりから一気に迷走モードへ。たまたま『十三経注疏』が手許にあったものだから、その本文を基準にしたのがケチのつきはじめだったようだ。というわけで、とりあえずの作業は、明治五年の時点で一般に認知されていた「大学」がどのような本文をもっていたのかということの確認である。

古本屋の店頭で和綴じ本が平積みになっていることがある。ほぉと思って漁ったりするのだが、そうした形で店頭にさらされているのは、謡本うたいぼんか、戦前に刊行された初学者向けの教本がほとんどである。そうした形で刊行された教本がどんな本文を持っていたかを知らねば先へは進めないのである。広く調べて統計でも取らねばならないところなのだが、府立資料館で「大学」と題された蔵書のうち、明治や幕末に刊行されているものを二三点めくってみると、だいたいのところが見えてきた。それは朱熹の「四書集註」を底本として校訂されたもの、そして「林家正本」のお墨付きを掲げているものである。

そうした形で刊行された「大学」は、「大学章句序」「朱熹章句」が最初にあり、続いて「大学之道在明明徳在親民在止至善」の本文がくる。そして数行の後、「其所薄者厚未之有也」の後に、段下げで「右経一章。蓋孔子之言。而曾子述之。其伝十章則曾子之意而門人記之也。旧本頗有錯簡。今因程子所定而更考経文。別為序次如左」(注)とある。本文、割り注、段下げ注などを使い分けることによって、孔子の言葉、曾子やその弟子が編述した部分、あるいは程顥・程頤や朱熹の後代注を区別しているようだが、見ようによっては性質の違う記述が混在していることにもなる。ともあれ、江戸~明治期に一般教養として流布したものは『十三経注疏』の本文(朱熹注がいうところの旧本?)ではなく、「四書集註」のようである。
注:(大意)右の経の一章は孔子の言葉で、曾子が編述したもの。伝の十章は曾子の考えるところで弟子たちが記したものである。旧本には綴じ間違いや写し間違いが多く、程子が整理した本文を基本としつつ考察を加えて以下の通りにする。

それでは「四書集註」の「大学」には、「明明徳新民」が出てくるのだろうか。実は、これでもまだ否である。「明明徳」はさておき、「作新民」の部分がここでもすんなりとはいかない。ただし「四書集註」版では、孔子の言葉と見なされている経の「在親民」に付された程子注で「親、当作新」(親は、まさに新に作るべし)とあり、さらに十章からなる伝、つまり曾子注とみなされている文言の二つめに「康誥曰、作新民」(康誥曰く、作新民と)とある。文言としての「康誥曰作新民」のみなら『十三経注疏』本でも本文にも紛れ込んではいるので、目を皿にして探せば見つかるのだが、それが伝のものであり、かつそれに先だって「親当作新」という程子注を掲げているところが、「四書集註」による整理なのだろう。

かなり煩雑なところへ迷い込んでしまったが、「京都新聞」の記事にいうところの「明明徳新民」という一続きの文言は、『十三経注疏』版でも『四書集註』版でも見出すことはできない。しかし『四書集註』の整理にもとづいて考えると、完全一致でないにしても、「在明明徳。在親民」と並置しても構わない程度の文言と見なすこともできる。もちろん訓古を厳密に行うのであれば「明明徳新民」と一続きで言ってしまうのは、恣意的な改変になる。しかし、小学校という場所は訓古学演習の場でないし、むしろ児童教導の観点から「作新民」を最前面に押し出すのは十分認められるはずである。

以上の内容を踏まえて記事に戻る。そもそも「明明徳新民」は、どう読み、どう解釈するのがいいのか。読み方の方は『四書集註』の和刻本に付されている訓点や送り仮名に従って「大学の道は明徳めいとくを明らかにするにあり、新たにするの民を作おこす」といったあたりだろう。「作新民」については記事の方にこれといった振り仮名がなく、後ろの方で「新民ヲ作ス」とあることを思えば、あるいは素直に「新民しんみんを作さくす」とするのがいいのかも知れない。

続いて解釈。こちらは「明徳」の概念がネックである。朱熹注を引くなら「明徳者人之所得乎天而虚霊不昧以具衆理而応万事者也。但為気稟所拘人欲所蔽則有時而昏。然其本体之明則有未嘗息者。故学者当因其所発而遂明之以復其初也」だが、当方のような凡俗にはついて行けない。しかし、先哲の思想に固執するのではなく、記事では鮮やかな新解が呈示されている。すなわち「智識チシキヲ開ヒラキ才芸ヲ研ク」ことだというのである。同様に、「新民を作す」も「固陋ノ俗ヲ一新シ文明開化ニ進ム」ことだとする。ここでは、どの語をどう理解すれば、こんなウルトラCができるのかといったツッコミを入れるところではない。一語一語の処理に汲々するのは、「注を読み、疏を拾ふ旧習」として、すでに却下されているのである。そうして、こうした離れ業こそが「古訓ヲ掲ケテ今日ノ時務ヲ知ル事」(古典籍の古い文章を素材としながら今日的課題を理解すること)として、記者をはじめ、始業式に参列した人々の共感を誘ったということなのだろう。
(続)



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by office34 | 2012-02-07 23:41 | 明治人物志 | Trackback | Comments(0)