| 山本覚馬建白(4)~「拙見申.. |
| at 2012-05-21 18:29 |
| 山本覚馬建白(3)~「拙見申.. |
| at 2012-05-20 23:32 |
| 山本覚馬建白(2) ~「近年.. |
| at 2012-05-19 20:00 |
| 山本覚馬建白(1) ~「管見.. |
| at 2012-05-18 20:00 |
| 落合橋など |
| at 2012-05-17 03:43 |
| 芭蕉句碑2基@清滝川 |
| at 2012-05-16 04:22 |
| 葵祭2012 |
| at 2012-05-15 23:12 |
| 源光庵ふたたび |
| at 2012-05-14 23:02 |
| 埋め草 |
| at 2012-05-13 17:27 |
| 角倉了以ツアー |
| at 2012-04-30 23:07 |
| 大原雑魚寝 |
| at 2012-04-28 02:06 |
| いちおう百人一首歌碑だけど |
| at 2012-04-19 23:16 |
| とある詩碑、あるいは仁丹大王? |
| at 2012-04-18 09:00 |
| 大悲閣道にて |
| at 2012-04-17 12:12 |
| 百人一首歌碑いろいろ |
| at 2012-04-08 17:13 |
| 紫式部歌碑@廬山寺 |
| at 2012-04-06 09:00 |
| 紫式部歌碑@上賀茂神社 |
| at 2012-04-05 23:12 |
| 御所の桜 |
| at 2012-04-04 21:13 |
| 上賀茂神社の願い筒 |
| at 2012-04-02 23:11 |
| 薬王坂弥陀二尊板碑(疑義) |
| at 2012-03-27 23:28 |
| kisomitakeさま.. |
| by office34 at 00:13 |
| お久しぶりです。 桜が.. |
| by kisomitake at 22:15 |
| kisomitake様、.. |
| by office34 at 13:04 |
| 初めまして。 以前に検.. |
| by kisomitake at 03:21 |
| idecchi_2006.. |
| by office34 at 23:05 |
| 女工場、女紅場の名称、き.. |
| by idecchi_2006 at 19:33 |
| タフ様、情報ありがとうご.. |
| by office34 at 23:44 |
| 古地図を調べましたら19.. |
| by タフ at 15:13 |
| JA様、ご覧いただきまし.. |
| by office34 at 01:38 |
| 初めまして。「京なび」で.. |
| by JA at 18:32 |
正徳二年西石垣斎藤町より依頼により並池洲株なるもの差許されしより新河原町通り三条より四条までに茶屋旅籠を営み茶立女を差置れたりとの記録は斎藤町にあり。と記す。斎藤町の文書は確認できないが、遊郭の始まりを伝えるこの記述は『国史大辞典』にも引かれるところとなっている。また遊郭とは別に、町並みとしての沿革をいうのであれば、『京都事典』がいうところの寛文10年云々の説明もどうやら「京都先斗町遊郭記録」に依拠しているようで、
寛文十年といふに加茂川に添へて石垣等の普請あり。続きて延宝二年二月に若松町に初めて五軒の建家を許されたり。(好色一代男天和二年版にぽんと丁とあり)とある。さらに「先斗町」という名前と「新河原町」という名前の関係についても「京都先斗町遊郭記録」は言い及んでおり、
元禄十五年の板なる万宝節用集町名鑑の中の樵木町の条下に東川筋三条下る所より四条をぽんと町といふとあれば元禄年度を先づ初めとして置くも敢て差支あらざるべし
新河原町の名称は文政開板なる扁額規範二篇の中に三条の南より四条の北半町ばかり迄を新川原町ママといふ。人これを称へずして先斗町といふとあれば新河原町の名称は先斗町よりも古きものと知らるゝ也。等の記述が見られる。
「前号に概略を」云々とあるのは、24号に「御布令」とのタイトルで、「女学開校」との記事があったことを指す。その記事と、上掲25号の記事と併せて、女子教育施設の名前については、設置時点ですでに「女紅」という言葉が使われていたと言えそうだ(「女紅場」と言わず、「女紅学校」だった点は、少し強調してもいいのだが、論点がぼやけるので軽くスルーしよう)。○女紅学校前号ニ概略ヲ記シタル丸太町新学校ノ教師ハ英国人トーマスホルンビーイヴァンス同妻エミリーイヴァンス両名ナリ当月九日ヨリ御雇ニナリ夫ハ語学婦ハ女工ノ教師ニ命セラレシカハ之ニ就テ教授ヲ受ント欲スル者甚盛ニシテ女生徒タケニテモ未タ数日ヲ歴ヌ内既ニ百二十余人ニ及ヘル由当所ハ元来繊縫等ノ事ニ取テハ別シテ天下ノ最タル地ナレハ外国流女工ニ於テモ亦諸府県ノ魁トナルヘキ兆キサシ爰ニ見エタリ尚ナヲ学ブ人ノ勉励ハゲミヲ企望キボウスルノミ
女工の工の字をいつの程にか紅と粋に変へたり。というものである。「京都先斗町遊郭記録」とは、解題によれば「倉田保之編。翻印の底本は大塚隆氏所蔵本、一冊、昭和八年写。京都における遊郭の起源から筆を起こし、先斗町花街の成立と沿革、維新以後明治四十一年にいたる年代記を収めた記録である」とのこと。そして「巻末の筆写者識語によれば、底本は先斗町廓事務所所蔵の原本を写したものであるが、筆写者未詳である」とも記されている。要するに、この資料は、少なくとも明記されている昭和8年までは遡ることができ、なおかつ中身から明治41年以後いずれかの時期に記されたと判断できる。
明治六年二月下京十六区(島原)、三月下京十五区(祇園)、上京六区(上七軒)、四月下京二十区(宮川町)、六月下京六区(先斗町)と次々に開業した婦女職工引立会社が、同七年四月女紅場と改称、これらを総称して遊所女紅場と呼んだ。これに従えば「婦女職工引立会社」が明治7年に改称されて「女紅場」となったことになるのだが、これでは明治6年の記述として確認される「女紅場」の説明にはならない。そうなると辞典類はパスして、資料を直接渉猟せねばならない。ただテーマが明確であることや時期的に絞られていることは救いである。実際、いきなり引っ掛かってきた「婦女職工引立会社取立願書」なるものに重要な記述を見出すことができた。
第二条 此社ヲ名付テ婦女職工引立会社トイフハ、従前浮業遊職ノ婦女娼婦芸妓ニ至ルマテニ各種ノ女紅ヲ教習セシムル儀ニシテ、其事務ハ第四条是ヲ掲グ「婦女職工引立会社取立願書」は、同会社の設置を京都府に申し出るもので明治5年10月付である。「女紅場」との完全一致ではないが、「女紅」なる言葉が使われていることに注目したい。明治5年の時点で「女紅」が確認できるのだから、「女工」を「粋に変」えて「女紅」としたというのは、どうやら後付けの説明といえそうだ。結局のところ、現状としてまかり通っている「女紅場」という名称は、あえて検討しなおすには及ばないというところが結論となる。大山鳴動してなんとやらみたいな結果になったが、ほっと一安心といったところである。『京都府誌』上巻所引(京都府刊、大正四年)
女紅場 (にょこうば) 明治前期の女子教育機関。女紅場には三種類あって、その一は中流・上流階級の子女に中等普通学科と手芸・家事を教え、良妻賢母を養成する学校で、新英学校女紅場や同志社女学校がこれである。新英学校は英女学校、京都府女学校と改称され、京都府立第一高等女学校になった。その二は一般民衆子女の日常生活や生産と結びついた教育の場で、小学区ごとに区内の民費で設立され、裁縫や手芸が教授されて「物産繁殖の一端」を開くことが目的であった。その三は遊所女紅場で、島原・祇園・先斗町・上七軒などすべての遊所に設立され、遊女芸者や浮業の鑑札を受ける者は必ず入らなければならなかった。この女紅場は現在も存続しているものが多く、女性の一般教養が施こされている。(辻)祇園に関連するのは、このうちの三番目のものであるのは言うまでもない。説明がやや時代がかった感もあるが、『京都事典』の初版が刊行された昭和54年現在の記述である。なお執筆者は辻ミチ子氏である。『新装版 京都事典』(村井康彦氏編、東京堂出版、平成5年)


○方今府下人心開化ノ域ニ進歩セルニ従ツテ道路ノ間モ大ニ闢ケ社寺ノ林藪ヲ伐リ開キ市井ノ隙地ヲ画シ各所ニ新路ヲ造リ以テ庶民ノ往来ニ便ス其一二ヲ挙テ云フニ新京極通 [寺町ヲ云] ノ東北三条通ヨリ誓願寺錦天神四条道場等穿チ南四条通ヘ透トヲスコレヲ新京極町ト称シ此街ニ営ム劇場シバイ其他見セ物前ニ十倍シ極メテ繁昌ナリ又下京第十五区八坂新地ノ内祇園町女紅場 [旧万亭宅] ノ西ニ並ナランデ新路ヲ開キ下河原或ハ建仁寺境内ニ続ケル市街ヲ造リ其町名ヲ花見小路南園小路青柳小路初音小路ト号シ又建仁寺塔頭正伝院外ニ三ケ寺ヲ買得シ女紅場ノ分局ヲ設ケ養蚕製茶或ハ療病■[一字墨滅]/傍書:館等ヲ置キ又ハ歌舞伎場ヲ造リ園街ノ芸妓都踊リノ所作ヲナシ其体裁頗ル美ニシテ他ニ並ブナシ又正伝院庭中小ママ田有楽斎好ミノ茶室ニ芸妓ヲ集メ売茶アリ爰ニ男子来リ大ニ愉快シ蓋シ開路市街ハ大略左ニ図ノ如シ地図中にある「女工場」は「女紅場」のこと。「紅」と「工」の通用があったか否かは不明、あるいは単純誤字かも知れない。また②の「八ケン」は現在の東大路あたりの街路のようだが、詳細は不明である。
[左図]
A:八坂神社 B:万亭 C:下十五校ママ小学校 D:女工場 E:旧正伝院,下京十五区女工場分局,製茶場,小ママ田有楽斎好茶室ニテ芸妓手前売茶 F:下京十五区,療病館,旧福寿院 G:下京十五区女工場分局養蚕場 H:旧清住院園街ノ芸妓都踊,歌舞伎場 I:建仁寺塔頭 J:建仁寺塔頭 ①祇園町 ②八ケン ③神幸道 ④ナンエン小ジ ⑤青ヤギ小ジ ⑥花見小路 ⑦ハツネ小ジ「京都新聞」(西京新聞社)74号,明治6年5月
番組制度がはじまってほどなくのことなので「○○番組××町」というのが、このころの基本スタイルで、いわゆる碁盤の内側では通り名による表記が行われることもある……個々の事例についてコメントするだけの用意はないが、おおざっぱにいえば、こんな感じだろうか。
- 下京二五番組油木町
- 下京三拾番組芳野町
- 下京廿七番組清水町三丁目
- 下京廿五番組夷町
- 同組三条白川橋東入四丁目
- 上京四番組中筋智恵光院西入
- 下京三十三番組祇園町
- 上京廿一番組鏡屋町
- 下京四番組堀之上町
- 上京一番組姥ヶ榎木町
- 下京六番組鍋屋町
- 新河原町通四条上ル加茂川筋
- 下京廿一番組七条油小路西入町
- 同六番組四条裏寺町
- 下京九番組油小路御前通下ル町
- 堀川木津屋橋上ル町
京都に陰謀とテロリズムが渦巻き、市街が戦火に包まれてから、まだ5~6年ぐらいであることを思えば、どこかほのぼのとした気分にもしてくれる内容である。同じ紙面には政府の転覆を画策していたことで捕縛された外山光輔の自尽申し渡しのこともあるので、人命救助で褒賞金というのも、大きな目でみれば、これまた「時代」にこじつけることができなくもない。上田太三郎手代常七其方事当正月三日四字比新河原町通四条上ル加茂川筋通リ掛リ候処同所仮橋カリハシヨリ誤アヤマツテ水中ニ落入候モノ有レ之候ニ付早速引揚ケ候処右ハ河村甚之助母リウト申モノニテ彼是世話致シ居候内近辺ノ者ヨリ相知ラセ甚之助駈付カケツケ候ニ付引渡候段一人ノ人命ヲ助ケ候次第奇特之事ニ候依レ之以下同文[以下同文の内容:為褒美金二円五拾銭遣之]
[大意]あなたは正月三日四時[字は時と同じ]ごろ、新河原町通四条上ルの加茂川筋を通りかかったところ、仮橋から落ちた人を助け上げた。その人は河村甚之助の母親でリウという者であり、知らせを受けて駆けつけた甚之助に引き渡した。人一人の命を助けたことは天晴れで、ここに褒美金2円50銭を与える
次ニ上京第八区ノ句読師瀬田明大学ヲ講シタリ其明二明徳一作二新民一ヲ講スルヤ従来コレマテノ儒生ガクシヤガ注ヲ読ヨミ疏ソヲ拾ヒロフノ旧習キウジウ/フルキクセヲ脱ダツ/ヌケシテ智識チシキヲ開ヒラキ才芸ヲ研クヲ以テ明徳ヲ明ニスルトシ固陋ノ俗ヲ一新シ文明開化ニ進ムヲ以テ新民ヲ作ストシ古訓ヲ掲ケテ今日ノ時務ヲ知ル事ヲ勧奨告諭シケレハ聞者開悟感動セサルハナカリシトソ「句読師・瀬田明」が、四書の一、「大学」を講読するにあたって、冒頭の解釈を開化の時流に合わせたものにしたので聴衆はみな感じ入ったというのである。ちょっと読みづらいところもあるので、二三、注釈を入れながら見てみよう。