S | M | T | W | T | F | S |
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
京都景観賞 |
at 2014-02-23 23:05 |
仁丹町名看板「下椹木町通千本.. |
at 2014-02-21 19:58 |
レプリカ仁丹 |
at 2014-02-19 14:18 |
曾根崎心中・道行き(通釈) |
at 2014-02-15 01:07 |
曾根崎心中・道行き |
at 2014-02-13 05:15 |
漢字の読み方 |
at 2014-02-11 06:03 |
鬼めぐり |
at 2014-02-08 14:26 |
鬼の話 |
at 2014-02-05 23:22 |
献灯の刻名 ~山国隊(6) |
at 2014-01-31 23:29 |
葵公園 |
at 2014-01-29 02:24 |
山国隊スタイル ~山国隊(5) |
at 2014-01-22 21:34 |
鏡ヶ原 ~山国隊(4) |
at 2014-01-20 23:17 |
桜色? |
at 2014-01-18 23:39 |
戊宸行進曲 ~山国隊(3) |
at 2014-01-16 20:50 |
雪の木の根道 |
at 2014-01-12 16:55 |
山国隊灯籠 ~山国隊(2) |
at 2014-01-09 19:01 |
山国隊(1) |
at 2014-01-07 22:03 |
祇園閣・京都タワー・時代祭 .. |
at 2014-01-04 03:43 |
時代祭、大いなる仮装行列 ~.. |
at 2013-12-30 16:58 |
本物でないということ ~キッ.. |
at 2013-12-28 15:48 |
本園ハ昭和十五年二月大澤徳太郎氏ヨリ金貳萬圓ノ寄附ヲ得テ之ヲ工費ニ充テ官府有地參千五百餘坪ヲ劃シ專ラ体教散策ニ資センガ爲曩ニ三井家ニ於テ植栽セル黒松ニ加ヘ公園施設ヲ計畫シ昭和十五年三月起工同年六月竣工ス茲ニ公園ノ一隅ニ碑ヲ建テ記念トス
昭和十五年七月
京都府
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。山国隊の人々は士農工商の身分制度に当てはめれば農民なのだが、時代劇で固定的なイメージのもとに描かれがちな貧困層ではない。農村や山村に隠然とした支配力をもっていた名主階級、つまり富裕層である。出征の費用も自前でまかなうことができるぐらいの階級だったから山国隊という部隊も実現させ得たわけである。とはいえ、戦闘のプロでない以上、軍装は寄せ集め品が多かったらしい。因幡藩の指揮下に入ることで旧式銃が貸し与えられているが、上記の引用にあわせて注目したいのが隊の装束である。二月二十二日、藤野のもとに届けられたのは、隊の制服となるはずの注文品だろう。「『胴腹』『三才羽織』等」とあるうちの「胴腹」とは胴丸と腹巻つまり武具のことで「三才羽織」は三斎羽織か。「シヤモの仕立方」云々とある「シヤモ」は股引のような袴の一種らしい(参考)。これらを纏った姿は、洋式軍服と並べるとかなり時代がかったものに見える。日誌に続けて記されている「且つ不恰好なり。一同、大いに不満心なるも、やむを能わずして着服す」というのも、「こんな関ヶ原みたいな格好するのか?」とかいう類いの不満だったのではないか。
とある。仕立て方が雑だ云々だけでなく「それぞれ一向不揃い」だのといった文句も並べられており、考えていたものとの隔たりが途方もなく大きかったことが窺われる。想像するに、制服になるはずのこれら衣類は新しく仕立てられたというよりは、形の似たものを適当にかき集めてきた?みたいな感じだったのではないか。山国隊にはのちに「乍レ去 誂 へ通リトハ一向粗末ナル仕立様ト申、約束トハ大ニ違ヒ、三才ノ袖ノ行短ク、夫々 一向不揃 ニテ困リ入申候……
一隊彼黒毛陣笠ヲ着シ意気鷹揚然トシテ進軍。人見テ、ガワタロウ隊ト云リとの記述がみえる。「ガワタロウ」とは河太郎、すなわち河童のことである。カッパ隊だと笑われたと記しているのである。
(慶応四年二月)廿二日。晴。六ツ刻発陣。河渡川大激流。洪水ニテ舟流レ、渡シニテ一隊々々ヲ渡ス。両岸ノ群人山国隊のリーダー、藤野斎の日記『征東日誌』である。仲村研氏『山国隊』が紹介している隊の足跡は、基本的にはこの日記に準じている。二月二十二日に該当する箇所では「二十二日、晴、早朝出発。夜来の大雨で増水している河渡川の激流を渡り、加納駅で中食し、鏡ヶ原を通って鵜沼駅に宿陣した」とある。実は、仲村氏の文章を読んだ段階では「鏡ヶ原」にはまったく注意が向かなかった。それでも、この直後に出てくる装束についての記述が気になっていたので、原文との対照を試みたのである。無立錐ノ地ナシ。加納宿兵粮。新加納宿小休。此辺ハ安藤対馬守領地処、被召上尾州侯御預領地ト成ル也。此ノ間ニ鏡ヶ原ト言広野アリ。東西二里許、南北三里ト。中央ニテ野立陣休憩。近江不取敢、○赤心 の心を尚も磨き立鏡ヶ原にうつ里行人ト。鵜沼駅浅野彦右衛門本局泊。『征東日誌』(仲村研氏・宇佐美英機氏編、S55年・国書刊行会)
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。
ファン申請 |
||