Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2011年 02月 11日
鳥羽離宮跡公園
 あまり足が向かない南の方の話をしてみる。お題は「鳥羽離宮跡公園」である。

 世の中には「名は体を表す」という俚諺があるらしいが、これはどういう意味なのだろう。辞書的な説明としては「名はそのものの実体を表している。名と実は相応ずる」(大辞泉)あたりが広く受け入れられているような気配だが、後半部分などは英語の諺「Names and natures do often agree」を訳したもののようにも感じられる。ここで「名」が先か「体」が先かなんて話へもっていった日には、神学者と哲学者と科学者と占い師と詐欺師が口から泡を飛ばしながらの大論戦を展開するにきまっている。そうした修羅場には近づきたくないので、何も見なかったことにしておいて、ここでは「鳥羽離宮跡公園」なる名前と、そうした名前を持つ伏見区の都市公園を取りあげる。

 まず「鳥羽離宮跡公園」という名前から。名前だけを見るとご立派な響きですねぇと呟いてしまう。城南宮のあたりに、かつて壮大な離宮が営まれていたことは一般的なガイドブックや歴史の入門書でもよく触れられている。それ自体は驚くには当たらないが、その名前をストレートに拝借していることについては、仰々しいなという印象を持ったのである。確かに鳥羽離宮の跡地にある公園なんだから、「鳥羽離宮跡公園」といってウソ偽りではない。ただ何となく釈然としないものが残った。何だろう、あえて言えば、わずかでもつながりがあれがOKなのか?、そんな牽強付会的なネーミングが許されるのか?といったあたりだろうか。

 ところがである。実際に鳥羽離宮跡公園を訪れてみて、それからあれこれ調べてみるうちに否定的印象は一変してしまった。なるほど、これなら「鳥羽離宮跡公園」という名前がもっとも相応しい、と思うようになったのである。そうした変化をもたらしたもの、それは何かというと、公園の敷地内にあった一つの築山である。

 築山の説明に先立って、公園の概要を紹介しておこう(googleマップで「鳥羽離宮跡公園」を検索すればピンポイントで示されるので、それを参考にしてもらえればわかりやすい)。場所は名神高速京都南インターの南西。南北二面のグランドからなる縦長の長方形で、およそ150メートル×300メートルの規模を持つ。北側のグランドは周囲がランニング用のトリムコースに整備されていて一周約2~300メートル程度だろうか。またその東端は都市公園お約束の遊具ゾーンで、西端にも遊具と東屋を備えたちょっとした苑池が設けられている。そしてグランドの北端、そこが小さく盛り上がっていて小振りな林の様相を見せる。こういう感じの公園なのだが、苑池があって林があって散策もできるわけだから「池泉回遊型庭園」だと言えないわけではない。

 そんな鳥羽離宮跡公園だが、問題の築山とは北端にある盛り上がりのことである。現地で見る限りは、少し敷地面積の広いところなら普通にありそうな園内の構造物としか見えない。公園整備にあたった造園家の意匠で、池を造ると同時に山も造った、そう説明されたとしても疑ったりはしないだろう。そのくらい、公園内のごく普通の風景なのである。戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いに興味があって、築山の上に設けられた石碑には注目したのだが、築山それ自体に対しては、現場ではこれぽっちの興味も湧いてこなかった。だが帰ってから調べているうちに、その築山が鳥羽離宮の遺構らしいことを知ったのである。

 当初は伝承のレベルだった。比較するにはタイプが違うが、鉄輪の井戸のような感じで、いつからともなく言われ始めた語り伝えだったのだろう。活字となっているところで紹介してみる。たとえば『新撰京都名所図会5』(竹村俊則、昭和38年、白川書院)では、「秋の山」という項目が立てられて、
秋の山は京阪国道をへだてて城南宮(伏見区中島御所ノ内町)の西の田畑の中にある。一堆の封土からなる小丘で、丘上には樹木が生い茂っている。もと鳥羽離宮の中にあった庭園の築山といわれ、四季の山になぞらえた四つの山の一つとつたえる。
となっている。鳥羽離宮跡公園が整備された経緯は調べていないので正確には分からないのだが、この記述を読む限りでは、昭和38年時点では公園ではなく、「秋の山」とよばれる自然(?)地形だったようだ。ちなみに、現在では鳥羽離宮跡公園の北側に「中島秋ノ山町」という町名が残っている。

 引用をもう一つ。京都本の古典『京都』(林屋辰三郎、1962年、岩波新書)の一節である。
城南宮のあたりには、鳥羽南殿・北殿の御所があって、證金剛院・成菩提院・金剛心院などの御堂の数々がたてられていたわけだが、これらはもとより今みる術もない。ただ秋の山とよばれた、形ばかりの築山が往時の跡としてつたえられるばかりである。
 初版が1962年(昭和37年)なので、先に引いた『新撰京都名所図会5』と同じ頃の記述だ。ここでもやはり公園の姿は浮かんでこない。おそらく公園整備がまだなされておらず、「一堆の封土」とか「形ばかりの築山」と記される、なんとなく意味ありげな盛り上がりが認められたというだけのことだったのだろう(そのてっぺんに明治四十五年の石碑が据えられていたから、「なんとなく」という曖昧なものではなかったかも知れない)

 この盛り上がり地形が遺構なのかどうかについては考古学の範疇である。ここで公園内に設置されている説明板「鳥羽離宮南殿跡」に目を移してみる。そこには、
この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、十一世紀の末、応徳三(1086)年に造営されたものを、昭和三八年から四二年にかけ調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる。
とあって、考古学的な裏付けも出てきたことを窺わせる。具体的にどのような発掘がなされたのかなどは知らないので、この解説板やフィールドミュージアム京都の解説シート「鳥羽離宮」へのお任せモードなのだが、どうやら「つたえられる」という他力本願的な動詞で処理される次元を越えている気配である。

 以前、河原院について触れた折、考古学調査によって河原院の遺構と推定されるものが発掘されたことにも言及したが、河原院の場合は確定までには至らなかったようだ(参考までに)。それに比べると、鳥羽離宮の場合は、たぶんに確定されているのだろう。一般向けの説明板が「当時の庭園の築山にあたる」と断言しているあたりにも自信のほどが窺われる。ともあれ、昭和三十年代の後半に刊行された書籍レベルでは「つたえられる」とするしかない、それこそ伝承だった「秋の山」が、都市公園に姿を整えて一般に開放される段階には、南殿の庭園の築山、その確たる遺構としての地位に押し上げられていたのである。

 こうしたことを踏まえると、「鳥羽離宮跡公園」という名前も、なるほどと頷かざるを得ない。ちょっと仰々しいんじゃないですか?なる印象は、詳しい事情を知らない者の僻目だったようだ。まさしく、名は体を表すといったところだったわけである。
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鳥羽離宮跡公園内にある「秋の山」。左手奥に見えるのが明治に置かれた鳥羽伏見の戦いに関する石碑。手前の碑も同じく鳥羽伏見の戦いに関するものだが、こちらは平成モノ。

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by office34 | 2011-02-11 01:32 | 京都本・京都ガイド