人気ブログランキング | 話題のタグを見る
Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
■■NOTICE■■
記事の写真(含・画像)は縮小表示されています。
写真をクリックすれば別ウィンドウが開き、原寸でごらん頂けます(別ウインドウのサイズは手動で調整してください)。
別ウィンドウは写真上でクリックすると自動で閉じます。
about 京都クルーズ
本丸はこちらです。


カテゴリ
検索
以前の記事
タグ
その他のジャンル
最新の記事
京都景観賞
at 2014-02-23 23:05
仁丹町名看板「下椹木町通千本..
at 2014-02-21 19:58
レプリカ仁丹
at 2014-02-19 14:18
曾根崎心中・道行き(通釈)
at 2014-02-15 01:07
曾根崎心中・道行き
at 2014-02-13 05:15
漢字の読み方
at 2014-02-11 06:03
鬼めぐり
at 2014-02-08 14:26
鬼の話
at 2014-02-05 23:22
献灯の刻名 ~山国隊(6)
at 2014-01-31 23:29
葵公園
at 2014-01-29 02:24
山国隊スタイル ~山国隊(5)
at 2014-01-22 21:34
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
at 2014-01-20 23:17
桜色?
at 2014-01-18 23:39
戊宸行進曲 ~山国隊(3)
at 2014-01-16 20:50
雪の木の根道
at 2014-01-12 16:55
山国隊灯籠 ~山国隊(2)
at 2014-01-09 19:01
山国隊(1)
at 2014-01-07 22:03
祇園閣・京都タワー・時代祭 ..
at 2014-01-04 03:43
時代祭、大いなる仮装行列 ~..
at 2013-12-30 16:58
本物でないということ ~キッ..
at 2013-12-28 15:48
なんとなく四字熟語
推奨ブラウザ
・Mozilla Firefox
・Google Chrome
・Opera

インターネットエクスプローラではコンテンツの一部が正確に表現されない可能性があります。
2011年 09月 21日
芭蕉顕彰碑@金福寺(2) 芭蕉略歴
芭蕉顕彰碑碑文の1行目から2行目まで。
芭蕉翁以諧歌聞於海内諧歌即世所謂俳諧者 翁之履歴人往往詳之盖伊賀人罷仕隠於 江戸又住江之大津遷於摂而終 翁没七十余年高士韻人与夫諧歌者流思慕稱賛不已
碑文は冒頭に芭蕉の略歴を記す。一読する限りでは簡単そうだが、「諧歌」「俳諧」をどう解釈するかが大きな課題。「諧歌」は俳諧の謂いで俳句と同じ、という説明でも、一応は間に合うが、もっと概念語的な次元で解釈するべきだろう。通り一遍の文学史でも、貞門や談林の風を脱して新境地を開いたのが松尾芭蕉とされるところであるが、その詩風がどのようなものであったのか、あるいは同時代的にはどのように認知されていたのかといった問題意識に直結するからである。ちなみに、『去来抄』や『三冊子』など芭蕉門下による俳論には、「俳諧」の定義をめぐる論説が何かの形で載せられている。以下試読。

芭蕉顕彰碑@金福寺(2) 芭蕉略歴_a0029238_11402227.jpg芭蕉翁、諧歌[かいか]を以て海内[かいだい]に聞こゆ。諧歌は即ち世の俳諧[はいかい]と謂ふ所のものなり。翁の履歴は人[ひと]往々[おうおう]にしてこれを詳[つまび]らかにす。盖[けだ]し、伊賀の人、仕[し]を罷[や]めて江戸に隠る。又、江[がう]の大津に住み、摂[せつ]に遷[うつ]りて終る。翁没して七十余年、高士[かうし]韻人[いんじん]とその諧歌者流[かいかしゃりう]、思慕[しぼ]称賛[しょうさん]すること已[や]まず。

大意は以下の通り。

芭蕉翁は諧歌で天下にあまねくその名を響かせた。諧歌とは、世にいう俳諧のことである。翁の履歴は人々が詳述している。そもそも纏めるに、伊賀の国の人で官を退き、江戸に隠居した。その後は江州は大津に住み、摂津に移って生を終えた。翁が没して七十余年が過ぎたが、世の高士韻人と俳諧の流れを汲む者たちは、翁を慕い、業績を称賛するばかりである。

諧歌:「諧謔」の「諧」で解釈すれば、滑稽な歌、おどけた歌という意味。しかし、「諧」には「和らぐ」や「調和させる」等の意味もある。五七五の十七音からなる定型詩を指していることは揺るがないが、清田絢がどのようなニュアンスをこの言葉に籠めたのかは、類例を検証しなければ分からない。
世所謂俳諧者:「世之所称歌仙者[世の歌仙と称する所の者]」(日本詩史序)を参考にして訓む(注)
俳諧:歌論の世界では、古今和歌集が「誹諧歌」と用いた例が古い。そこでは、滑稽な歌、ふざけた歌という内容に解されるのが普通で、時代が下ってくると「誹諧」と「俳諧」を同義とするようになった。元禄期の芭蕉が活躍するころには、連歌の世界で「俳諧の連歌」がすでに一つのスタイルとして確立されており、「俳諧師」なる言葉も用いられていた。
人往往詳之:芭蕉伝の古いものがどれになるかは未調査。手許に資料のある範囲でいえば森川許六編『風俗文選』(刊年は宝永三年[1706]、芭蕉没は元禄七年[1694])。「芭蕉翁ハ伊賀ノ人也。武名ハ松尾甚七郎。藤堂家ニ奉仕ス。壮年ノ時、官ヲ辞メ武州江戸ニ遊ブ。風雅ヲ業ト為シ、桃青ト号ス。乃チ誹諧正風体中興ノ開祖ナリ。嘗テ世ニ功ヲ遺サンガ為、武ノ小石川ノ水道ヲ修メ、四年ニ成ル。速カニ功ヲ捨テ深川芭蕉庵ニ入テ出家ス。年三十七。天下、芭蕉翁ト称ス。東西南北ニ遊ビ、風雅ヲ説キ、諸門人ヲ助ク。国中悉ク芭蕉風ニ帰ス。一タビ難波津ニ遇シテ病ニ伏ス。終ニ卒ス、年五十一。江州義仲寺ニ葬ル。」(風俗文選、作者列伝)
:発話の語。
罷仕:「伹余罷仕八年於茲[伹ただわれここニ仕ヲ罷メテ]」(詩史凡例)
翁没七十余年:芭蕉が没した元禄七年(1694)より数えて建碑の安永六年(1777)は八十三年目。数字のズレが干支の巡りで数える際の誤差なのか、なにがしかの意識の現れなのかは不明。
高士韻人:高士は「志高く節を持することの堅い人、品行の高尚な人、または在野の隠君子[管子・法法]凡そ人を論ずるに、古遠く、高士無きなり。」(大漢和辞典)。韻人は風流を解する人。「高士」と「韻人」を並べて連語風に使っているのは、この二つに共通するところがあると見なしているからだろう。「竹林の七賢」のように、世俗に染まらず風雅に心を酔わせることに理想を求めているものと思われる。
諧歌者流:諧歌をつくる者たち。「和歌者流始擅芸柄[和歌者流、始めて芸柄ゲイヘイを擅ホシイママにし]」(詩史序)
不已:碑文は「不巳」

(注)近世の詩文でよく用いられる言い回しなのかも知れないが、碑文の訓読には江村北海『日本詩史』に参考となる箇所が多い。江村北海は樋口道立の実父であり、清田絢の兄である。それぞれ別姓を名乗ってはいるものの、知的バックボーンに共通するところが多いのは容易に推測できる。

(1)概略 / (2)芭蕉略歴 / (3)建碑の経緯 / (4)俗流と翁風 / (5)本朝の大詩人 / (6)樋口道卿 / (7)銘に曰く / (8)まとめ



トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2011-09-21 03:24 | 歌碑・文学碑など