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Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 02月 04日
御池大橋西詰の「療病院址」碑~木屋町をあるく(5)
御池大橋西詰の「療病院址」碑~木屋町をあるく(5)_a0029238_115147.jpg
御池大橋西詰の植え込みに潜む「療病院址」碑

木屋町通も御池まで出てくると、ようやく「明治」の痕跡が見えてくる。まずは御池大橋の西詰から見てみよう。御池通の南側にある漱石句碑も明治といえば明治の話なのだが、ここでは北側に置かれた「療病院址」碑を取り上げるべきだろう。というのも、今回の木屋町シリーズでの大きなトピックは明治一桁代の京都なのだが、療病院はその「怪時代」を特徴づける一つだからである。

明治一桁代の京都は、日本史的な観点からはあまりスポットが当てられないのは以前の記事でも触れた通りだが、最初から目線の先を京都に固定してしまえば、この時代の独自性がよく見えてくる。その時代相を端的にあらわす言葉が「京都策」というものだろう。幕末の動乱と東京遷都によって致命的な打撃をうけた京都に活気を取り戻すべく施された政策を総称して「京都策」と呼ぶのだが、多岐にわたるそれらは第一期から第三期に分けて検討される。今回の木屋町シリーズで向き合うのは「第一期京都策」であり、それが明治一桁の時代と合致するのである。
第一期京都策については、京都経済同友会のサイトのコラム「京都再発見」がわかりやすい。2012.09に掲載されたプロローグから月イチのペースで連載されている。
総論的なところは上記のコラムや概説書にゆだねておきたいが、今回は御池大橋西詰に置かれている「療病院址」碑からのこの時代へアプローチしてみる。療病院とは、平べったい説明でごまかすとすれば公立病院の先駆けであり、現在の京都府立医科大学および同附属病院の濫觴である。しかし、第一期京都策の流れの中で見れば、面白い一面も浮かび上がってくる。それに関わるのが、またしても山本覚馬である。

もちろんスタンダードな解説なら覚馬以上に明石博高の存在が強調されるだろう。明石自身が医師であり、具体的に療病院の設置を建議したのが明石なので、歴史的評価はそれで正しい。しかし、それを知ったうえでなおかつ当方が覚馬の存在を強調するのは「山本覚馬建白」における「救民」の編目で記されている内容の実践版が、明治初期の京都に開かれた医療施設であると考えられるからである(山本覚馬建白「救民」)

「救民」の編目では、天然痘の話がいつの間にか梅毒の話にすり替わっているご愛嬌もあるのだが、天然痘であれ、梅毒であれ、深刻な悪疾対策をしない国の無策が非難されている。男の娼窟通いを咎めるのではなく、娼窟の存在を必要悪として認めた上で、それに十分な安全対策を施さねばならないとの主張である。「救民」の編目は、悪疾に対する予防と治療の制度を整えることは「億兆おくてうの人民を救ひ、人材を育いくする一助となるべし」というメッセージで締められているのだが、「建白」の中で繰り返し提唱される人材育成という文脈に、医療機関が組み込まれているのである。人材育成という観点から京都策を論じる場合、全国に先駆けて京都から始まった小学校制度が注目されることが多い。しかし、療病院という形で像を結んだのも人材育成を重んじる思想なのである。医師の立場で建議した明石博高の功績が大きいのは言うまでもないが、それも含みこんだ上での山本覚馬流の富国強兵論、すなわち、人づくりこそが国づくりであるとする思想が認められる。

ところで、明治初期の京都における公立の医療施設は二カ所に設けられている。一つは木屋町御池に仮診療所を開き、粟田口の青蓮院宮旧邸に移転して本格的に業務を始めた療病院である。もう一つは、のちに八坂病院と改称される施設であり、こちらは療病館と呼ばれ、祇園の花街に設けられた。療病館および療病院の沿革は『明治文化と明石博高翁』(田中緑紅著,明石博高翁顕彰会,1942年)に詳しいが、それによれば覚馬の思想を反映して最初に設置が進められたのが祇園の療病館の方で、明治三年(1870年)七月に娼妓黴毒治療所として設置されている。木屋町から粟田口へと移った療病院の方はというと、その翌年(明治四年,1871年)の二月に「完備せる病院を設立し時代も経過せしこととて外国人教師を雇入れて教師とし治療に従事せしむると共に、医学校を興し子弟の教育に当たらしむる案」が明石によって建議されたことに始まる。この療病院の設置が正式に決まったのが明治四年十月で、すぐに木屋町に仮診療所が置かれ、翌月には青蓮院宮旧邸への移転となっている。

祇園の療病館だけでなく、加えて療病院の設置が建議された時には、最初は金銭面での理由から府の当局も二の足を踏んでいたらしい。それが一転して、それいけどんどんとばかりに押し進められたのは明石博高の行動力によるものだろう。もとより京都出身ということも利したと思われるが、洛中の有力寺院から資金や施設建築の用材など多くの協力を取り付けている。長州出身で木戸孝允に太いパイプを持つ槇村正直と、会津出身で広範な知識と視野を有する山本覚馬と、京都の地元出身で方々に顔の利く明石博高によるトロイカ体制は、さまざまな事案を実際的に進めるうえで絶妙の取り合わせになっていたのだろう。




(プロローグ)木屋町界隈をあるく / (1)高山彦九郎像 / (2)三条大橋西詰の高札場 / (番外)赤松小三郎と山本覚馬 / (3)佐久間象山遭難碑、大沢商会 / (4)木屋町の寓居碑 / (5)御池大橋西詰の「療病院址」碑 / (6)河原町御池・幕末から明治へ / (7)河原町御池その後 / (8)木屋町二条、島津の作業場 / (9)明石博高と舎密局 / (10)「木戸邸」の碑 / (11)丸太町の女紅場 / (12)鴨東の牧畜場 / (13)荒神橋の京都織物会社本館 / (エピローグ)第一期京都策の時代 /


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by office34 | 2013-02-04 23:54 | 京都本・京都ガイド