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Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2014年 02月 05日
鬼の話
鬼の話を少しばかり。というのも節分会の行事のいくつかを見ておこうと思いつつ行きそびれてしまい、結局どこへも行かなかったから。もう少し正確にいうと、ちょっとした勘違いから、大空振りをしてしまったから。

ターゲットにしていたのは吉田神社の方相氏だった。吉田神社の節分会では節分前日の追儺式に鬼が登場、続いて方相氏が登場する、というところまではきちんと事前にチェックしていた。ところが何を勘違いしたのか、追儺式の時間と節分の日に行われる火炉祭の時間とを間違って覚え込んでいた。追儺式は2/2の午後6時より、火炉祭は3日の午後11時より。お目当てのイベントが行われるのが2日であると考えるところまではよかったのだが、時間を間違っていたので2日の10時過ぎにのこのこと出かけていくというお粗末をやらかしてしまったのである。人気のイベントの割には人出が少ないなと思いつつ、気がついた時にはすでに後の祭り……、それで嫌気がさして、次の日の2/3はどこにも出かけずお終い。

それでも、あとで調べてみて分かったのだが、30分や1時間の余裕をもって出かける程度では境内にも近づけないらしい。そもそも吉田神社の境内が狭いというのが最大の原因なのだが、10時過ぎにのこのこというのでは最初から×だったと慰めるしかなさそうだ。

とヘマ談義はこのくらいにしておいて、鬼の話である。といっても新しく書くものではなく、実は以前に頼まれて書いたものである。「京都の鬼をあれこれ紹介したい」という形での依頼だったはずだが、没になったのか、実際に使われたのかさえ聞いていない。書きっ放しというのもアレなので、とりあえず「再掲」ということにしておく。
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【はじめに】
 桓武天皇によって平安京が造営されたのは、西暦794年のことでした。以来、京都は政治と文化の中心地として輝きを放ち続けます。しかし、都に暮らす人々が作り出したものは、雅という言葉で括られる明るいものばかりではありませんでした。生活のすぐそばにあるおぞましいもの、おどろおどろしいものをも紡ぎだしていたのです。まばゆい光のもとでは見えないのに、ひとたび日が沈み、夜のしじまがあたりを支配するようになったときにうごめき出すもの、それもまた京都という巨大都市が生み出したものでした。そんな目に見えないものに対して、人々は一つの名前を与えました。平安時代の学者、源順は、それは隠れるという文字、オンが訛ったものであるといいます。姿を現さないように隠れているところからそう呼ばれるようになったのであると。そう、鬼です。
 昔の人々は、目に見えないはずの鬼たちの姿を、ときには物語の文章に、ときには絵巻物の上に書きとどめました。そして鬼たちが現れる場所をさまざまに伝えてきたのです。そうした鬼スポットをめぐってみてはどうでしょう。それもまた、京都を知るための切り口です。怖くないかって? さあ、どうでしょう?、明るい昼間に訪れるのなら、たぶん大丈夫なんじゃないでしょうか。でも鬼スポットへ行ってみて、変なものを連れて帰るようなことがあると……、その先は言うのを止めておきましょう、言葉にすると本当になるということもありますので。ともあれ、昔の人々が見てしまった百鬼夜行、魑魅魍魎の世界をちょっと覗きにいってみましょう。


【1 一条戻り橋】
 京都の鬼スポットとして、つとに有名なのは一条戻り橋でしょう。一条通が堀川を越える場所にあるこの橋は、現代の京都を基準にすると、交通量の多い堀川通の喧噪に紛れて見落としてしまうくらいちっぽけな存在です。しかし、平安時代の戻り橋は実際の大きさとは別の重みをもって意識されていました。京の北の端にあること、目に見える境界線である堀川を越えること、そして宮廷からみて丑寅の方角にあること、これらの理由から異界との通路であるかのように感じられていたのです。都市の規模が膨張することで町並みに飲み込まれたとしても、この橋の周辺では不思議な噂が語られるようになっていたのです。
 たとえば、こんな話があります。十世紀の初頭、朝廷では三善清行という宰相が活躍していました。その清行が亡くなった折、息子の浄蔵大徳は、修行に出かけていて親の死に目に会うことができませんでした。浄蔵がそれを悲しんで祈ったところ、棺の中から清行が蘇って親子の別れを果たしたといいます。そして、この奇跡の起きた場所が一条戻り橋であり、「戻り橋」の名前は、宰相のよみがえる故であると伝えられているのです。また十一世紀の歌人、和泉式部には「いづくにも かへるさまのみ わたればや もどりばしとは 人のいふらん」という歌が伝わっています。帰り道にだけ渡る橋だからだろうか、みんなは戻り橋と呼んでいるようだ、というこの歌からは、当時の人々が一条戻り橋に抱いていた思いを感じとることができるのではないでしょうか。この他に、戻り橋で百鬼夜行に遭遇した男の話や、安倍晴明が戻り橋の下に式神を隠していろいろな術に使っていたという話など、戻り橋にまつわる伝説は、数え切れないほど伝わっています。
 しかし、多くの伝説の中でも、とりわけスペクタルに富むものといえば、渡辺綱と茨木童子の対決です。時は十一世紀、源頼光という武人がいました。頼光と聞いただけで鬼神たちも怯えたという剛の者でした。頼光の家来には、四天王と呼ばれる武士たちがおり、その筆頭に挙がるのが渡辺綱です。ある夜、綱が主人の使いで一条大宮に出向いた、その帰り道のことでした。綱が戻り橋に差しかかったところ、年の程二十歳くらいの女がたった一人で歩いていました。時が時なら、場所も場所、不審に思った綱が声を掛けると、女は送っていって欲しいと言います。綱の方も、そのつもりで声をかけたので、軽く応じて女を馬に乗せます。しかし、しばらく歩んでいたところ、女はいきなり鬼の姿となり、綱の髻を掴んだのです。そして「わが行くところは愛宕山ぞ」と叫んだかと思うと、天空へと駆け上がりました。髪をつかまれたまま空中へ連れ去られた形になったのですが、そこは頼光がもとにその人ありと言われる渡辺綱です。たまたま主人より預かっていた伝家の宝刀、髭切を一閃。すると綱のからだは北野天満宮の上に放りだされたのです。そうして地上に降りたってみると、髻には髪をがっしりと握りしめたまま、どす黒い鬼の腕がぶら下がっていたといいます。
 この話には後日譚があります。腕を切られた鬼は綱の養母に化け、ふたたび綱の前に現れては、まんまと腕を取り返しているのです。さながら痛み分けとなった形なのですが、平家物語などに語られるこの戦いは、そののち御伽草子「酒呑童子」にも取り込まれます。そこでは、かつて都で綱と渡り合ったのは茨木童子だったと名が明かされ、酒呑童子が頼光に討ち取られた後、猛り狂った茨木童子が「主を討った奴らに我が力を見せてやる」と叫ぶと、「貴様の手の程は先刻承知」と綱が応じて、三たび相まみえる様子が描かれています。宿命の対決を繰り返すこととなる渡辺綱と茨木童子、時代が下ると歌舞伎や新劇などの舞台、あるいは小説や現代のマンガなどにも再生産される二人の関係は、この一条戻り橋から始まっているのです。

【2 宴の松原】
 さて、鬼スポットの代表格である一条戻り橋ですが、宮廷からみると、ほんの近い場所でした。宮廷の東の端が大宮通ですから、二筋ほど、現代風にいえば二百メートルそこそこの距離です。平安京が造営された頃は北の端だったのですが、人家がさらに北へ東へと拡張していったからです。これは宮廷の目と鼻の先で鬼たちがうごめいていたことを意味しています。しかし、それだけではありません。鬼たちは実は、宮廷の中へも入りこんでいたのです。今昔物語集が伝える、一つの事件をお話しましょう。とある役人が朝勤めの政務に出向いた時のことです。夜が明けきる前に出勤するきまりでしたが、その日はいつもよりすこし遅くなってしまいました。通用門のところには上役の牛車がとまっており、すでに出勤しているようです。急いで庁舎の建物に入ってみると、火も灯されていなければ、人の気配もありません。不思議に思って、人を呼び、灯りを点けさせてみると、床の上には血まみれになった頭髪がところどころに散らばっていたのです。扇や沓など、その上役の身の回り品も血に染まった形で近くに残されていました。当時の人々は、鬼に喰われたのだろうと噂したとのことです。庁舎の中においてでさえ、こうしたことがおきるのですから、宮廷の中といえ、もっと人気の少ない場所になると、さらに奇怪な出来事があります。国家の歴史書として公式に編纂された書物にも、こういう記録が残されています。光孝天皇仁和三年八月十七日のこと、武徳殿の東側、宴の松原と呼ばれる場所を三人の女房が歩いていたところ、松の木陰に見目かたちの麗しい男が立っていました。その男は、女の一人を誘って木の陰へ連れていったのですが、しばらくしても戻らない、それどころか物音も消えてしまいました。残りの二人が様子を窺いにゆくと、女の腕と足が地面に落ちていたのでした。警護の者たちが改めて探しても頭とからだは見つからなかったとのことです。この出来事は、のちの時代の説話集にも引き継がれ、宮廷内の鬼スポット「宴の松原」を名前を決定づけています。なお現代では、千本通出水の交差点を西へ入ったところに、小さな石碑が当時の場所を伝えているにすぎません。

【3 貴船神社】
 こうした宴の松原の人喰い鬼のように、その素性がわからないものに対して、生身の人間が鬼と化した話もあります。京の奥座敷こと、洛北は貴船を舞台にした謡曲「鉄輪」は、信じていた夫に裏切られた女が悲痛な思いを抱えて貴船神社に詣でるところから始まります。「あまり思ふも苦しさに、貴船の宮に詣でつつ、住むかひもなき同じ世の、中に報ひを見せたまへ」。男に対する恨み言はおのずと呪いの文言へと変わってゆきます。それを聞きつけたのか、貴船神社で告げられたのが、頭に鉄輪をいただき、その足に火をともして祈れば、呪いは果たされるだろうとのお告げでした。浅ましい心を恥じた女は、それは自分のことではありませんと否定したものの、顔色は赤みを帯び、髪は逆立ち、すでに鬼の姿となっていたのです。そして口をついて出た言葉は「恨みの鬼となって、人に思ひ知らせん」でした。丑の刻詣りとか、呪いのわら人形とかの形で世に広く知られているのは、丑三つ時、午前の二時過ぎに、憎い相手に見立てたわら人形を杉の木に釘で打ちつける呪術行為です。しかし、その作法を少し詳しく言うと、頭に鉄輪を逆さまに載せ、その足に蝋燭を結わえ付けるとか、赤い顔料で顔を染めるとかのことが含まれています。それらは、謡曲「鉄輪」に描かれた、神のお告げと重なっています。貴船神社は、賀茂の水源を守る水の神として古くから朝廷の篤い信奉を受けてきた神社です。しかし、室町時代のあたりからでしょうか、呪いの丑の刻詣りを行う場所としても、その名をとどろかせるようになっていったのです。
 謡曲「鉄輪」によれば、鬼となった女は、もとの夫を呪い殺そうとしますが、安倍晴明によって調伏されることになっています。近世になると、このストーリーに尾鰭がつき、呪い返しを受けた女が苦しんで身を投げたという井戸も語り伝えられるようになりました。堺町通松原を下がったところにある鉄輪井がそれです。現在では水も枯れているのですが、かつては縁切りに効き目のある霊水としても知られていたといいます。

【4 宇治橋】
 ところで、「鉄輪」の鬼には、そのモデルとされる鬼がいます。「宇治の橋姫」と呼ばれる鬼女です。橋姫は、古くは橋を守る女神に対する呼び名でした。十世紀の初頭に成立した古今和歌集や、十一世紀の源氏物語では、男の訪れを寂しく待つ女のイメージとして橋姫が呼び出されていましたが、時代が下がるにつれて違った姿で描かれるようになりました。平安時代末期にまとめられた和歌の手引き書には「橋姫の物語」として、このような話が紹介されています。ある男が二人の妻をめとっていました。最初の妻が病の床についた時、男は妻の求める七色の海草を探しに出かけます。ところが男はそのまま行方知れずとなり、帰ってきませんでした。男を探していた妻が、浜辺のとある小屋に泊まった夜のこと、「さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫」と歌いつつ、消えた男が姿を現したのです。そうして自分は海の神にさらわれたのだと、帰れない事情を話して一夜をともにするのですが、夜が明けると男は再び消えてしまいます。その話を伝え聞いた二番目の妻は、同じように浜辺の小屋で男を待ちます。すると同じように「衣かたしき」の歌を歌いつつ、男が現れるのですが、二番目の妻は男の心変わりを詰ってつかみかかります。すると、その瞬間、男の姿も浜辺の小屋もたちどころに消えてしまったのでした。この段階では、鬼こそ出てきませんが、女のうちの一人が嫉妬の炎にとらわれていることになっています。この炎は、平家物語の描く橋姫になるとさらに燃えあがってくるのです。すなわち、嫉妬に狂った女が貴船の神に、自らを鬼となして憎い相手を殺させて欲しいと祈るのです。そうして女は、頭には松明を結わえた鉄輪を乗せ、口にも松明をくわえて両端に火を灯し、その姿で都大路を駆けて宇治川に浸ること二十一夜、ついに本物の鬼となったのでした。そして平家物語は、これが宇治の橋姫であるというのです。ここに描かれた鬼女橋姫の姿が、「鉄輪」の女につながってゆくのは明らかでしょう。源流をたどれば、古今和歌集に詠み人しらずとして載せられている「衣かたしき」の歌になる孤独な橋姫だったのですが、中世にはいると、貴船神社に籠もり、炎をたぎらせつつ宇治橋を目指して駆け下る鬼女へと変貌してゆくのでした。

【5 老ノ坂峠】
 ここまで、いろいろな鬼を見てきたわけですが、現代のわたしたちが「鬼」といわれて一番先に思い付くのは、大江山の鬼こと酒呑童子ではないでしょうか。茨木童子を含め、赤鬼、青鬼、その他たくさんの鬼たちをたばねた首領、鬼の中の鬼、それが丹波の大江山を根城とした酒呑童子だったのです。それと同時に、源頼光とその家来の四天王によって退治され、頼光の武勇伝を際だたせる悪の代表にもなっています。そうした大江山の酒呑童子ですが、その拠点は丹波ではなく、洛西は老ノ坂峠付近だったという説もあります。中世の御伽草子では「丹波国大江山には鬼神の住みて」となっていて、それ以降に成立した物語や絵巻物、あるいは近代の唱歌でも鬼退治の舞台は丹波の国です。酒呑童子伝説を観光PRに活用する福知山市大江町の場合も、そうした流れをうけてのことでしょう。
 ところが万葉集の時代にさかのぼると、「丹波路の大江の山」は洛西の大枝、つまり現在の京都市西京区大枝のあたりと考えられているのです。洛西の大枝は、大きな枝と書いてオオエと読むので、サンズイのエで表される大江山の酒呑童子とは結びつきづらいのは確かです。それでも、老ノ坂峠が西国と山城をつなぐ古くからの交通路だったので、山賊集団の姿が酒呑童子のイメージになったのだとすれば、洛西説にも説得力が出てきます。また洛西の大枝に対して、サンズイのエを用いている文献があることも、こちらの説を後押ししているといえるでしょう。
 国道9号線や京都縦貫自動車道の通る現在の老ノ坂峠からは、昔の街道らしさは感じられませんが、道路を離れて山道に入ってみると、酒呑童子の首を埋めたと伝える首塚大明神が祀られています。伝えるところによれば、丹波の国で酒呑童子を討ち取った頼光一行がこの峠にさしかかった時、酒呑童子の首が突然重みを増して運べなくなり、仕方なくこの場所に埋めたとされています。大江山丹波の国説を前提にした伝説ですが、老ノ坂峠で酒呑童子伝説が語られるようになった背景には、なにがしかの意味合いがあるように思えてなりません。

【まとめにかえて】
 京都には、さまざまな鬼スポットがあります。今回ご案内したものは、その中のごく一部です。紀長谷雄が鬼から碁の勝負を挑まれたというのは宮廷の正面、朱雀門でした。また平安京の正門である羅城門も、鬼の出現スポットとして有名な場所です。これらについて、一つひとつお話をしてゆくとなると、おそらく時間はどれほどあっても足りなくなってしまいます。しかし、それは表面的には煌びやかに装われることの多い京都の歴史が、一皮めくってみるだけでその裏側に、底の見えない暗闇を抱えている証にもなるのではないでしょうか。コワいもの見たさの気持ちからでも、それをほんの少し覗いてみるのも、面白いことでしょう。ただ、くれぐれも注意してください。本当の鬼には、けっして出会わないでくださいね。

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by office34 | 2014-02-05 23:22 | 京都本・京都ガイド