Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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カテゴリ:明治人物志( 69 )


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2013年 07月 21日
二丁塚読解・まとめ ~山中静逸(10)
一応、総括的なものを出して一連の記事の〆としておく。繰り返してきたように、翻字のレベルからして覚束ないし、解釈に至っては強引すぎるところが多々ある。しかし、誰も手を出さず放置しておいてよい類いのものでもないので、たたき台程度にでもなればとの考えから触ってみた。適正な処置をしていただける方がおられれば、ぜひお知恵を拝借したく思っております。


[碑文翻字(案)]
此芭蕉翁句直下花字澹乎若無遠起雅切即十五字皆霊活洵為絶碣戸諸名勝有翁句則■名以傳此勝無三為憾乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山相古渠之回方同忘者得若干資都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡


[訓読(案)]
の芭蕉翁の句、直下たる花の字、澹たんなるか。雅切がせつより起はなれて遠きは無きがごとし。即すなわち十五字皆みな霊活れいかつにして、洵まことに絶碣ぜっけつり。戸(凡そ)諸名勝に翁の句有り。則すなわち■名は以もって傳つたふるに、此の勝に無し。三(三の字、不審)。憾かんり。乃すなわち大悲閣主角倉関岳と俳諧■(者)流、邨上碩水、遠藤雨村、岡如山、小山■山、相古渠之、回方して同忘(志)者若干の資を得。都上とじょう千人、某それがしも亦た頗すこぶる助じょするところ有り。以もってこれに迷いつつ、且つ此の閣に登のぼるの道標どうひょうと為す。
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡(撰)

[解釈(案)]
この芭蕉翁の句は、簡単に用いられている「花」の字に淡い味わいがある。(一見して工夫がなさそうでも)風雅なフレーズとかけ離れているわけではなさそうだ。(「ばせを」の三文字を含めた)十五字すべてに生命感がみなぎっていて、実に素晴らしい句碑なのである。そもそも(「凡そ」による解釈)各地の景勝地には翁の句碑があり、その名声が伝えられているというのに、この景勝、嵐山にはそれがなかった。残念なことである。そこで大悲閣の主である角倉関岳と俳諧をたしなむ人々、村上碩水、遠藤雨村、岡如山、小山■山、相古渠之らが諸方を尋ね、彼らと思いを等しくする人々(「志」による解釈)は若干の建碑費用を調達した。賛同した人々はしめて千人ほどであり、小生もまたわずかながらの援助をしている。そして大悲閣に至る道に迷いつつ、そこへ至る道標としてこの句碑を置くことにした。
明治十一年三月 信天翁 山中獻記す(「撰」による解釈)



a0029238_0131187.jpg
二丁塚の碑陰



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by office34 | 2013-07-21 00:38 | 明治人物志
2013年 07月 19日
二丁塚読解・その5 ~山中静逸(9)
此芭蕉翁句直下花字澹乎若無遠起雅切即十五字皆霊活洵為絶碣戸諸名勝有翁句則■名以傳此勝無三為憾乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山相古渠之回方同忘者得若干資都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡


「大悲閣主角倉関岳」が人名であること確かで、村上碩水も確認できたところまではいいのだが、それ以降はわからない。「遠藤雨村」「岡如山」「小山■山」と、人名らしき並びが続き、「相古渠之」ももしかすると人名?とは思うものの根拠は得られない。というか、人名としておかないと、可能性のある解釈も浮かばない。以前に紹介した『芭蕉塚』なる本には「角倉関岳及碩水雨村如山等によつて建てられた由来が信天翁山中静逸の筆でしるされてある」(参考までに)とあった。「雨村如山」の間に一字入っているから、翻字も恣意的に行われているのかも知れないと思っていたが、碩水、雨村、如山の名前の部分を並べているとすれば辻褄も合うわけで、そうであれば、「遠藤雨水」と「岡如山」については一歩前進といったところになるのかも知れない。

ともあれ、この人名らしき並びの箇所は確定できない。とはいえ、そうばかり言ってもいられないので「相古渠之」以降に目を移す。仮に「相古渠之」が人名であるとすればという前提に立ってのことになるのだが、角倉関岳以下の面々が何をしたのかと記す動詞の部分が続くはずである。また「得若干」云々のところも動詞臭いということを踏まえると、「回方」が動詞に相当する気がする。「同忘者」の箇所も読めないのだが「忘」は「志」ではないかと言われると、そんな気もするし、「志」だとすれば「志を同じうする者」と読めてしまって都合がいい。
解釈ありきの翻字が邪道なのはいうまでもない。厳密に筆の運びを見ると、「志」よりは「忘」の方が蓋然性が高いし、その旨のアドバイスも得ている。


回方同忘者得若干資
ではどう解釈するか。実際のところ、翻字も覚束ないし、「回方」という動詞の用例も見つからないのであれば、ムリに解釈を施すことの妥当性が問われるレベルである。近世の和製漢文には、純正漢文ではお目にかかれないユニークなフレーズが見られることがあるとはいえ、このくだりについては、素直に分からない、読めないという方が正しい。それでもあえて何か書けというのなら「回方」を”方々を回めぐる”の意味にしておいて、志を同じうする者とともに若干の資(=建碑費用)を得たという方向に持って行ってみる。

都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
強引すぎる力業の連続だが、以下も同じである。「都」は”すべて”を意味する副詞で、賛同してくれる人々しめて千人といった感じか。千人って数字は多すぎないか、誇張があるんじゃないか云々の議論は、それ以前に翻字や解釈の妥当性が問わねばならないので却下である。「某」は一人称の代名詞で、「頗」は”少し”の意味の副詞。現代語なら「すこぶる」=”たくさん”といったニュアンスになるが、ここは謙譲の意味なので、少し援助しておいたとする方がいい。「迷之」の扱いも困りものである。しかし「為登此閣之道標」は「この閣に登るの道標と為す」で落ち着くので、「これに迷いつつ、かつ~」としておく。

明治十一年三月 信天翁 山中獻諡
「明治十一年三月」以下はほぼ大丈夫か。「諡」という一字が「贈」と同じ意味で使えるのかどうかのあたりだろう。「諡」に”おくる”の意味があるとはいえ、普通は死者に名前を送る時に使う文字だからである。「山中」の下の二文字は、当初は「静逸」と考えたのだが、一字目はどうも見てみても「静」ではなさそうだ。むしろ信天翁の名である「獻」と読めそうだということもあって、保留にしておいた。そこで二文字目が碑文の〆に使うスタイルで合致する文字があれば万々歳だった。ということで「撰」はどうだろう、ムリかな?、サンズイorゴンベンがあって旁の方はハチガシラみたいだから「諡」?


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by office34 | 2013-07-19 12:35 | 明治人物志
2013年 07月 15日
二丁塚読解・その4 ~山中静逸(8)
ここまでの復習。翻字や読み下しに幾ばくか保留付きである前提でご覧ください。
此芭蕉翁句直下花字澹乎若無遠起雅切即十五字皆霊活洵為絶碣戸諸名勝有翁句則■名以傳此勝無三為憾乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山相古渠之回方同忘者得若干資都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡

この芭蕉翁の句、直下たる花の字、澹たんなるか。雅切より起はなれて遠きは無きがごとし。即ち十五字、皆みな霊活れいかつにして洵まことに絶碣ぜっけつたり。諸名勝に翁の句有り。則ち■名は以て傳つたふるに、此の勝に無し。憾かんり。

[釈案]この芭蕉翁の句「花の山 二丁のぼれば 大悲閣」は、簡単そうに使われている「花」の字にほのかな味わいがある。風雅な表現と隔たったところにあるわけではなさそうだ。碑の表に刻まれている十五文字のすべてに生命力が漲っていて、非常に優れた石碑なのである。そもそも各地の名勝地には芭蕉翁の句が置かれている。それによって翁の名が後世に伝わっているというのに、この嵐山には句碑がない。残念なことである。


さて、問題が多発するのは、これ以降の箇所である。おおよその雰囲気では、句碑がないことを残念に思った関係者が建碑した云々ということだと考えているのだが、実際、そうしたラインで読むことができるかどうか、非常に心許ない。

乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流
大悲閣千光寺は角倉家とゆかりが深い。厳密なところを問うて「大悲閣主」という言い方が適切かどうかは検討の余地があるが、当時の角倉家当主(か?)の関岳が中心になって建碑を企画したのだろう。「俳諧」の後に続く二文字は、当初は「数」「流」を崩して「する」と読んでみたのだが、仮名文字が混じるのは変だとの指摘にしたがって不明としておく。それでも二文字目が「流」で間違いないとすれば「俳諧者流」という言い回しが候補として浮かび上がるが、果たしてどうだろう。
邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山
「邨上」以下は人名。うち「邨上碩水」(村上碩水)は『平安人物志』(慶応3)に名前が確認できる(参考)。他の「遠藤雨村」「岡如山」「小山■山」は不明であるだけでなく、人物名の区切り箇所も怪しい。さらに言えば、後続の四文字「相古渠之」もあるいは人名かも知れないというオマケ付きである。つまり「角倉関岳」と「邨上碩水」は裏が取れる(厳密には「角倉関岳」は取れていない)からともかくとして、他はどうも人名っぽいというだけで、それ以上は進めないのである。必然的に、それ以降の解読も手詰まりとなってしまう。

以上、一応のところという条件付きで、
すなわち大悲閣主・角倉関岳と俳諧■流、邨上碩水・遠藤雨村・岡如山・小山■山・相古渠之・・・・・・
と読んでみる。要するに角倉関岳と村上碩水と、その他の面々が集まって、ナニかをしたということである。そのナニの中身はさていかに。



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by office34 | 2013-07-15 07:26 | 明治人物志
2013年 07月 14日
二丁塚読解・その3 ~山中静逸(7)
二丁塚を続ける。

洵為絶碣戸
「洵為絶碣」についてはすでに案を示しておいたが、続く「戸」の一字が浮いたままになっている。「碣戸」なる言葉があれば丸く収まるのだがムリっぽい。実は、この一字、当初は「凡」と読んでいた。「凡」であれば、「絶碣」で文を切ればいいだけの話だが、文脈ありきで文字を決めるのは本末転倒である。加えてくずし方のパターンからいえば「戸」に見えるけどとのことで、とりあえず「戸」にしているのだが、それならそれで解釈が止まってしまう。
諸名勝有翁句
最初は「勝」の字がわからなくて困っていた箇所である。ところが「名勝」だろうとの教示を受けると、スラスラと解釈も進んでくれる。「憾」のところまで一つ続き文脈。
則■名以傳
判読のできない文字が一字残っているが、芭蕉の評判をいう文言だと思う。最初、「神」かなとも思ったが、「神名」では行き過ぎだろう。それでも隠れることのない評判というニュアンスになるはず。
此勝無三為憾
「此勝」は嵐山のこと。「無」の下の「三」はやや不審。レンガ(「無」の部首、下の四つ点)の部分を縦長に書くくずし方もあるので、もしかすると「無三」ではなく「無」の一字なのかも知れない。解釈の上ではそちらの方が都合がいい。

とりあえず、「戸」の一字はどうにもならないが、以下は、
諸名勝に翁の句有り。則ち■名は以て傳つたふるに、此の勝に無し。憾かんり。
としておく。



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by office34 | 2013-07-14 22:13 | 明治人物志
2013年 07月 10日
二丁塚読解・その2 ~山中静逸(6)
とにもかくにも、十分には読めないという現実は変わらない。大悲閣下の二丁塚碑陰についてである。ルーズな理解でもガンガン言い立てればそれっぽく聞こえてしまうといったことを書いたが、デタラメをごり押しすることが本意であるはずはない。山本覚馬関連の怪しげな記述が目立つ風潮に辟易としていたので、それに対するイヤミのつもりだったのだが、アイロニーと理解してもらえないようでは元も子もない。ということで、わかっている部分、わからない部分を明確に切り分けて、改めて二丁塚の碑文を取り上げてみる。

此芭蕉翁句直下花字澹乎
「この芭蕉翁の句は」云々という最初の五字はほぼ確定。しかし「直下花字」はわかりづらい。位置関係でいう"直下(すぐ下の意)"ではなさそうだが、ではどういう意味かと言われると、これといった候補は思いつかない。「直下たる花の字」と読んでおいて、簡単な花という言葉云々とすればいいのだろうか。そうすれば、一見すれば工夫のない単純な語だが実は「澹」である、すなわち薄味な面白さがあるという方向で解釈することもできなくはない。

若無遠起雅切
これもまた難解。翻字からして覚束ないが、書に詳しい方からこうではないかとのアドバイスもあったので、この形で解釈に進む。解釈上のネックは「遠起雅切」。古典語の範囲ではお目に掛からない言い回しである。明治の文章なので明清時代の近世語が影響しているとも考えられるし、あるいは実質的には和文だが体裁だけを漢文っぽくした文章(和製漢文というべきか?)と考えねばならないのかも知れない。もしそうだとすれば、どういう可能性があるか。「雅切」を雅な隻句としておき、そこから「遠い」ものは「無さそうだ(若無)」といったあたりか。

即十五字皆霊活
「十五字」とあるのは、碑面の「花の山 二丁のほれは 大悲閣」に「はせを」の三文字を加てのことか。数の上では合致するが、そうした数え方が妥当かどうかは心許ない。文字の数をいうのであれば、注目されているのは句の中身ではなく、筆の運び、すなわち字体ということになってくるからである。碑文はそうした方向での関心とは読めないので、「十五字」云々が気になる。とはいえ、「霊活」の箇所は間違いないと思うし、1行目からの流れで考えれば、句全体に生命感がみなぎっている云々という主旨に捉えておいていいだろう。

洵為絶碣
「絶碣」の意味がわかりづらい。「絶」には保留マークを付けるにしても「洵まことに●碣??けつたり」といい、石碑の出来映えを褒めているのだろう。

とりあえず、最初のフレーズは、
この芭蕉翁の句、直下たる花の字、澹たんなるか。雅切より起はなれて遠きは無きがごとし。即ち十五字、皆みな霊活れいかつにして洵まことに絶碣ぜっけつたり
と読んでおく。



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by office34 | 2013-07-10 11:38 | 明治人物志
2013年 07月 07日
二丁塚読解・その1 ~山中静逸(5)
『八重の桜』の影響もあって、山本覚馬に言及する記事が激増している昨今である。しかし、中には「管見」あるいは「建白」を読んでいるとは思えない記述も目に付く。覚馬の先進的思想を強調したいという気持ちはわからなくもないが、「建白」を厳密に検討すれば三権分立に対する理解が覚束ないと評価せざるを得ないにも拘わらず、三権分立の思想を日本で初めて提唱した云々といった文章もちらほら。もちろん時代的な制約があるわけだから、そうした点において覚馬を貶めるのは不当である。それに当時の国際情勢を冷静に分析できている眼力には鋭いところがあるのは間違いないし、くり返し強調されている人材育成こそが急務とする思想などは、まぎれもなく先進的である。ところがそうした側面を見ずして議会制や三権分立云々という方向を持ち上げるのは基礎資料さえ読まずに書いているのだろう。そして、残念なことに、そうしたことが堂々とまかり通ってしまうらしい。

さて、今回のテーマは山本覚馬論ではない。ズボラな知識でも言った者勝ちが許されるのだとすれば、二丁塚についても同じことができるはず、ということが言いたかっただけである。二丁塚に触れるからには、最終着地点は碑文の解釈なのだが、本文が確定しないことには解釈も何もできたものではないという現実が目に前に横たわっている。幾ばくかは解読が進んだとはいえ、信憑性を問われるならモゴモゴと言葉を濁さざるを得ない。しかし、そうした曖昧な部分に頬被りをさせておいて、いかにも真実が判明したかのごとく振る舞ってみるのも面白い。ここぞ大言壮語の出番である。とはいえ、一語ずつ取り上げるとボロが出る。頬被りをする時は、バクっとした要約風に処理するに限る。わかっている部分とわかっていない部分をごちゃ混ぜにしておいて、全体を曖昧にごまかすには打って付けの方法である。ということで・・・・・・

書き出しは芭蕉吟に対する批評のようだ。「花の山 二丁のぼれば 大悲閣」という吟、現在では存疑とみなされているのだが、明治の初期はまだ芭蕉吟として疑われることもなかったのだろう。花の字に淡泊な味わいがあるだけでなく、全体がいきいきと躍動している云々。そして続いて、嵐山のこの地に今まで碑が置かれなかったことを残念に思う旨が述べられる。全国の名勝地には芭蕉吟の碑があり、その名を後世に伝えているのに、この勝地、嵐山にはそれがなかったと云々。そこで大悲閣主人角倉関岳ら俳諧を愛する人々が協力しあい、また諸方からの援助を取り付けて、この大悲閣にいたる道しるべとして碑を置いた云々。明治十一年三月、信天翁山中獻がこの文章を記し、贈るところである。ざっとまとめると、こんな具合だろうか。







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by office34 | 2013-07-07 12:14 | 明治人物志
2013年 07月 03日
二丁塚碑陰 ~山中静逸(4)
さて信天翁山中静逸の話もいよいよ佳境へ入る。大悲閣下にある、俗称「二丁塚」についてである。以前に触れた際(参考までに)、とにもかくにも碑陰が読めないということで放置モードにあったわけだが、かろうじて「信天翁」なる人物が書いたもののようだというあたりまでが捉えられていた。それがきっかけとなって信天翁とは何者か?、山中静逸なる人物のプロフィールは?といった方向に関心が広がったのが今回の流れである。

この信天翁山中静逸、幕末から明治前期に掛けて活躍した文人であることがわかり、嵐山に少なからずの縁があることもわかった。そうした情報によって二丁塚碑陰の文章が彼のものである必然性は十分に高まった。難読を極める刻字の翻刻も、書に詳しい方からのアドバイスも頂いて、以前よりはかなり見通しが利くようにはなっているのだが、それでも文章としての理解にはほど遠い。断片的な字句から推測して、おおよそこういった内容だろうというあたりが関の山なのである。

ともあれ、二丁塚の碑陰を再掲しておき、2013年7月現在での読解(案)を出しておこう。

a0029238_0131187.jpg
二丁塚の碑陰


a0029238_18391219.jpg



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by office34 | 2013-07-03 14:47 | 明治人物志
2013年 06月 29日
対嵐山房 ~山中静逸(3)
信天翁山中静逸の話をもう少し。山中が嵐山に居を移したのは明治十年頃のようだ。場所は大堰川左岸(渡月橋北側)の上流域、現在の嵐山に当てはめれば「吉兆」や「らんざん」のあるあたり。
いしぶみデータベースによれば「明治天皇行在所山中邸阯」という石碑が建つという(現物未確認)。データベースには「京都年金基金センターらんざん内」とあり、これは現在の「ご清遊の宿らんざん」のこと。

嵐山は、小沢魯庵の歌にも詠まれていることからわかるように(参考までに)、江戸時代にはすでに行楽の場所として認知されていた。現在のような喧噪の巷ではなかったろうが、下鴨に比べると賑わいはあった場所と思われる。つまり、より静かなところへ隠棲したというわけではなく、嵐山の情景を求めてこの地に転居したということだろう。山中の営んだ対嵐山房に関する記述には次のようなものがある。
翁、既にして嵯峨に卜居す。邸外低く土堤を繞らし、上にさゝやかなる生垣あり、外より俗塵の侵すに由なく、内より花葉の眺めを遮らぬほどの心しつらひと知られたり。若し夫れ、山房の園に入れば、春暖うして芳草階に盈ち、秋寒うして落葉扉を敲き、庭には芝生の緑濃きところ、奇石の塊然たるあり、松樹の偃蹇たるあり、径尽きて室雅に、窓明にして机浄く、書剣豪興を遣り、詩画清韻を楽む、客至れば則ち園後の木瓜もて醸せる木瓜酒をすゝめ、報国の丹心を披瀝して、高風真に欽すべし。さて又、月挙ぐれば、嵐山の佳景宛ら一幅の書画の如く、淡冶咲ふが如きもの、蒼碧滴るが如きもの、浄潔〓ふが如きもの、瀟散睡るが如きもの、一望の下眸中に入り来たりて、情景述ぶべからず、はた、記すべからず。
〓:コメヘンに女、「粧」と同義。
『信天翁』(大正四年,信天翁会編)
対嵐山房の詳細を正確に報告する文章なのか、文章を記した人間が己の筆に酔っているのか、判別しがたいところ無きにしも非ずだが、近世の遺風を継承した明治の文人らしさはよく伝わってくる。

そうした対嵐山房であるが、山中は時が経って屋敷が失われることを気に掛けていた。明治天皇の行幸を迎えた場所、すなわち聖跡が汚されることを望まなかったということなのだが、明治18年に宮内省に屋敷の譲渡を申し出ている。この申し出は、結局受け入れられることはなく、そればかりか、その上京の途次に病を得て本人も死んでしまうのだが、山中本人にとって思い入れの深い場所であった。


・・・・少し話がかわって、「嵐峡」という言葉は、やはり信天翁の書画に用いられていた。
   嵐峡舟中
尋花共酌一壺醇 両扇篷窓對故人
紅雨峰頭雲氣合 東風峡口鳥聲頻
狂波拍堰如雷吼 恠石當舟似鬼瞋
回棹又逢明日霽 重看萬樹更妝春
内容はややわかりづらいところもあるが、大堰川で舟遊びをした折りのものと考えて、おおよそ間違いない。大堰川に舟を浮かべて故人を憶う、峰には雲がかかり雨が花を濡らしている、砕ける波の音は雷のごとし、舟にぶつかる怪石は鬼の怒れるさま、棹を返して明日の晴天を期待する、晴れれば山の木々は春の装いとなるだろう・・・・・・ってかなり胡散臭い解釈のような気がするが。調べ直して、後日、少しはマシな通釈と訓読を示す予定。


耳慣れぬ地名/耳慣れぬ地名・その2/対嵐山房/二丁塚碑陰/二丁塚読解・その1/二丁塚読解・その2/二丁塚読解・その3/二丁塚読解・その4/二丁塚読解・その5/二丁塚読解・まとめ/
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by office34 | 2013-06-29 08:40 | 明治人物志
2013年 06月 25日
耳慣れぬ地名 ~山中静逸(2)
山中静逸は明治政府が置かれるに伴って登用され、いくつかの事務官を務めていた。岩倉具視のブレーンというか、部下の一人だったようだが、経歴を見れば、内国事務局権判事(慶応4年2月)、会計官駅逓司知事(同閏4月~7月)、御東幸御用掛(同9~10月頃?*明治改元は9月)、奥羽府県取調(同11月)、東京在勤・弁官事(同12月)、民部省(明治2年4月)、桃生県権知事(同7月)、登米県知事(明治3年9月,同月依願退職)といったところが確認できる。短いスパンで転々としているのは制度自体が確定していなかったからだろう。また明治2年になって戊辰戦争の戦火が収まった東北方面*への派遣も行われているが、職務の実態は不明。
*桃生県は現在の石巻市のあたり、設置後ほどなくして登米県に編入。山中が登米県の知事を辞したのは前任者に退職を強いての知事着任を潔しとしなかったためとされる。このあたりは儒者的な倫理観によるものか。

細かい部分はともあれ、山中静逸の履歴においては、新政府発足に伴っての1~2年はその下での地位があったのは確かである。そして政府の仕事を辞した後は宮家の家令に収まっている。伏見宮、閑院宮、北白川宮などがその奉職先として挙がっているわけだが、明治6年をもってそれらも辞めて京都に戻る。「円山勝会図録序」に「自東京病帰於糺林」とあるのは、病気を理由に東京での仕事を辞し云々ということで、このあたりの事情を指す。なおこの一節に「東京」とあって、奥羽方面の地名が出ていないのは山中の意識に桃生県での職務が占めるウエートが小さいことの現れだろう。1年ほど桃生県に派遣されたが、実質的には天皇遷御に随行した東京で、政府および宮家に仕えていたという意識である。

さて、こうした流れを踏まえての本題、もう一つの耳慣れぬ地名「嵐峡」である。"耳慣れぬ"がキーワードになってはいるが、鴨水や糺林に比べると、嵐峡にはまだ馴染みがあるかも知れない。「嵐峡館」という老舗旅館があったからである。100年にわたる歴史に幕を下ろしたとはいえ(2007年休業、2009年星のや京都に再生)、嵐山にある名だたる温泉旅館であった。もちろん当方のごときシモジモが利用できるクラスではなかったが、俵屋とか柊屋とかと同じように、その名前を聞くだけで条件反射的に京都の旅館と返すことのできる一軒だった。

「嵐峡」という言葉をそのまま使っていた嵐峡館だが、実はこれも山中静逸と縁が深い。
翁、常に大工宇八を愛しぬ。或る時、相倶に、嵐山の峡谷を〓〓し、會會、礦泉の出づる所に遇へり。乃ち、爲に謀りて、宇八に温泉場を起こさしめぬ。名づけて花の湯といひ、遊人の入浴に供す。これ今の嵐峡館の前身なり。
〓〓はギョウニンベンに尚、ギョウニンベンに羊,読み「ショウヨウ」。「逍遙」と同義
大正四年刊の追悼集『信天翁』所載の逸話である。嵐山の桜を愛して下鴨より居を遷していた山中だったが、散策のおりに会々(たまたま)源泉を発見したという。発見の日時はわからないが、日記の明治10年10月3日の条には関連する記述が見られる。
大悲閣の下、礦泉に付、地所、下桂村、風間八左衛門、三百坪二百箇年借取、家内名前、十圓渡す、二十兩宇助へ、普請の爲渡す。
下桂在住の風間八左衛門から300坪の土地を200年契約で借り受けて賃貸料10円を支払ったということだろうか。この温泉場が旅館となるのは、明治末年のことだから、山中の死(明治18年)からかなりが経過してのことである。200年契約はどうなったのか、所有権が転々としたあげくに営業旅館となったらしい。

話が少々、煩雑なところに迷い込んでしまったが、「嵐峡」という言葉も山中静逸の周辺に見られるということである。その言葉を用いている文献を具体的に挙げることはできないのだが、山中の書画等をことこまかに見ていくと、一つぐらいは「嵐峡」を用いているものがあるに違いない。なお、下鴨から嵐山に居を遷したと書いたが、下鴨時代の屋敷は「二水荘」といい、嵐山に営んだものを「対嵐山房」といった。「二水荘」というのは、高野川と賀茂川の二つが合流するところという意味で、「対嵐山房」というのは川を隔てて嵐山に向き合うという意味である。

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嵐峡館の広告(『観光の嵐山』より、昭和11年)






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by office34 | 2013-06-25 21:43 | 明治人物志
2013年 06月 24日
耳慣れぬ地名 ~山中静逸(1)
場所それ自体は有名なのだが、こういう言い方をされるとハテ?と思ってしまう地名。「鴨水おうすい」「糺林きゅうりん」「嵐峡らんきょう」etc。それぞれ現代の言い方に直すと、「鴨川」であり、「糺の森」であり、「嵐山」である。三番目の嵐峡と嵐山については、着目点の関係で完全一致とはいかないが、おおよそは重なる。そういった細かい問題はあるにせよ、要は有名な地名でも、時には耳慣れない言い方で表現されることもあるという話である。

さて、こうした耳慣れない地名表記、これらの出所には共通点がある。いわゆる漢文系の文章なのである。少し厳密にいえば近世の日本漢文というべきか。朱子学が国家の学問に位置づけられ、漢文の読み書きが教養とされた時代、純然たる日本的な地名にも漢文風でいかにもそれっぽいものがあてがわれていた。鴨川を「鴨水」と呼ぶあたりはまだ分かりやすいが、鴨川のほとりを指して鴨崖だの鴨沂だのとされるとやや戸惑ってしまう。「糺の森」という言葉が地名として普通に使われるようになったのがいつ頃かは調べていないが、「糺の神」が鎮座在すところという認識は古く平安時代から行われていたのは、よく知られている。下鴨界隈を指して「糺林」というのも、その延長線のものだろう。「嵐峡」というのは、嵐山の麓を流れる峡谷というニュアンスだから、厳密には大堰川のことであり、範囲を広めにみてもその流域だろう。現代の嵐山はエリア名として使われるのが普通だから、嵐峡=嵐山となるわけではないのだが、行楽地の嵐山を象徴するのが渡月橋界隈、中之島や亀山のあたりというのであれば、バクっと捉えて同じと言っても許されるだろう。

こうした話を持ち出してみたのは、とある文章と出会ったからである。
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一瞥するだけで目まいがしそうな漢文だが、これは明治八年に書かれたもので、明治の京都復興に尽力した鳩居堂主人熊谷直孝の追善煎茶会の図録に寄せられた序文である(円山勝会図録序)。執筆は山中信天翁静逸。直孝との出会いやその人となりを語った後、府庁を辞した直孝との付き合いを語るくだりが
(熊谷酔香翁は)神楽岡に室を築き、以て隠る。余、亦東京より糺林に病帰す。神楽岡と僅か鴨水を隔つのみ。
と描かれている。直孝が神楽岡に別宅を営んで隠居した頃、ちょうど信天翁も職を辞して京都に戻り、下鴨に居を構えたということで、しきりに行き来があったようだ。



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by office34 | 2013-06-24 03:07 | 明治人物志