Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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カテゴリ:歌碑・文学碑など( 100 )


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2013年 10月 01日
豐烈曜後之碑
大雲院の境内に置かれたもう一基、扁額にいう「豐烈曜後之碑」は、なかなかの難物である。まず文字数が圧倒的に多い。しかし、幸いなことに、書き取ってくれている方がおられるようなので、そちらの資料を拝借することにしたい。

ただし注釈が必要で、「道明の古文書及び金石文」と題されたそのサイトには「宮崎の歴史的資料です」とのサブタイトルがあるところから明らかなように、宮崎県内の石碑等の資料なのである。そのサイトに掲載されている事柄と大雲院とを結びつきを理解するには、「豐烈曜後之碑」の近くに置かれた副碑を見なければならない。その碑文を書き出すと以下の通り。
この、佐土原藩戦没者招魂塚および顕彰碑は、百有余年の風雪に耐えながら、中京区寺町通りの一角に、地元有志や崇敬者に温かく見守られていたが、碑石の風化荒廃甚だしく今まさに朽ち果てようとしていた。
 佐土原町は、郷土先人の遺業を顕彰し、これを後世に伝えるため、当大雲院の協力を得て、この地に碑石を復元移転しその霊を慰めるものである。
昭和五十八年十月
宮崎県佐土原町長 戸数繁樹
宗教法人 本山龍池山大雲院
「豐烈曜後之碑」の本体は、大雲院が寺町にあったころ、その境内か門前に立てられていたに違いない。しかし、その状態が悪かったらしい。そして、大雲院が現在地に移転するに伴って、ともに移された……わけではなさそうだ。副碑がいうところによれば「復元移転」されているのである。普通に考えれば、レプリカを作ってそれを現在地に置いたということだろう。それでは、本体はいずこに、となるのだが、先の「道明の古文書及び金石文」には、碑文に続いて
石塔者、京都市四条大雲寺境内に建立せしを、
昭和五十八年十二月十七日貰い受け、 
佐土原町高月院境内に移し建立されている。
昭和五十九年四月十五日伊豆道明採拓
平成元年一月十四日写之
平成二十年九月二十七日校正

と記されている。この情報と、現在の大雲院境内にある副碑を付きあわせれば、おおよその顛末は見えてくる。オリジナルは宮崎県佐土原町の高月院に移築され、大雲院にはそのレプリカおよび招魂塚が立てられ、合わせて事情を記した副碑が置かれた(昭和58年)、ということだろう。なお大雲院の移転は昭和48年なので、あるいは10年間は寺町に取り残されていたのかもしれない。このあたりは詳細未詳である。

それはさておき、肝心の本文。「道明の古文書及び金石文」に乗っかかる形になっているわけだが、一応、写真にも収めているので、それと付きあわせたうえで以下に掲載する。

-碑文-
豐烈曜後之碑
余職於史官纂修時事毎至叙戰死士之事未嘗不閣筆而歎也鎗刀電撃彈丸雨注遇而避之者人之常情恐死在前」也然而蹈屍★血奮進勇往以身殉難視死如帰者雖三百年養士之効使之然未嘗不由義勇英烈氣之所致也自□」朝廷定大中小三等之藩佐土原固列於小藩之等而其士之勇強戰没之多反出於大中藩之右語兵之強者輒曰薩」長土曰大垣佐土原者雖其士之勇強使之然亦未嘗不由□藩公平素訓練之所致也奥羽北越之戰佐土原藩大小」七十餘戰其死事之臣擧而言之則後四月三日死於下總國船橋驛之戰者三人戰兵蓑毛直行夫卒巳之助常吉也」五月十五日死於武藏國上野之戰者半隊長能勢陣善也十六日死者戰兵青木宣雪也廿日死於筥根之戰者豆相」軍監屬御牧篤行也廿二日傷於武藏國飯野之戰而七月三日死於常陸國平瀉者小隊長谷山清理也六月廿八日」死於新田坂之戰者戰兵酒匂景道也七月十三日死於陸奥國岩城平之戰者六人戰兵牧野田成繼児玉實行壱岐」廣信夫卒新吉嘉十庄吉傷而後死者戰兵圖師秀實也廿八日死於二本松之戰者夫卒甚袈裟也八月廿三日死於」會津之戰者二人戰兵伊集院珍信夫卒萬吉也九月十五日死於青木村之戰者十九人長官新納久暢監軍検本成」及鶴田祐業分隊長籾木武徳戰兵池田直道植村從善厚地助利瀬戸口貞盈立山義方大町吉之佐藤信良間世田」儀政原能思谷山純實児玉義員工藤祐紀宇宿州治従士林清吉夫卒千太郎鐵藏也同日死於出羽國久保田境村」之戰者四人戰兵上山徳明黒木武敏成合實武間世田儀象也十六日死於上淀川之戰者四人戰兵長友貞直夫卒」冨藏徳藏龜吉也十七日死於會津之戰者四人監軍三雲種方戰兵郡司盛苗夫卒吉藏幸之助也凡十三戰而死者」四十有九人嗚乎可謂多矣〓也會津之謝罪乞降也□官軍總督賜褒状而署於薩長土大垣四藩之列也盖□公之」平素訓練也曰吾藩以祖先之功受宗藩之分封於今三百年及於吾躬未嘗顯著繼紹之績方今内訌外虞并至天下」日多事吾可報之秋至矣汝臣僚克體此意勿敢逸遑其出師也又令曰宗藩之兵勇武甲於天下伏見鳥羽之戰以徳」川氏之強大挫之於三戰之間使大坂之雄城不獲保於頃時可不謂強哉吾藩為之支族天下之所共注視而萬一兵」弱取敗非特無辭於祖先又足以辱宗藩取笑於天下是役也汝曹勉矣堂下之士皆泣既而俯伏對曰臣等之報國唯」此時為然戰而不勝國之辱也敗而奔臣等之罪也辱罪在身生還亦何為臣等雖至愚不以一生代二者也吾□公少」寛意焉又泣然則其士之勇武果□公訓練之力而巳□公聞其死也設祭諭告曰傳不言乎死於王事則賞之能執干」戈以衛社稷則賞之使爾等生而列余左右其為忠為良無容疑矣猶是臣子之常兮百官之職司其溘焉以死數尺之」碣四時之奠鬼而不餓而巳今
天子下□命朝有死事之報夕則賜葬資聞葬之畢則有賑恤之遺而祠之神之故汝等之死於余雖如失四支汝等死」而有光輝矣盖戰死士之享此祭也非特忠魂獲所依帰而為之父母妻子者亦當忘其悲哀而其幸而不死者以不死」為憾矣□公之振士氣不以術詐而以至誠者如此今又為建招魂之碑題曰豐烈耀後之碑親命余為撰其文謹案□」朝廷褒賞之□詔誥叛賊之顛末與勝敗之詳苦戰之状記於太政官日誌録於史官故不復叙而記□公之使士義勇」英烈至於此之由如此」
    明治元年戊辰十二月 徴士議政官史官薩摩水本成美撰

★:アシヘンに蝶の旁  〓:ワカンムリ+旦  □:闕字  」:行末


訓読を最初だけちょこっとやってみると、こんな感じだろうか。
余、史官に職して時事を纂修するに、戦死せし士の事を叙ぶるに至るごと、未だ嘗て擱筆せざるにあらずして歎くなり。鎗刀の電撃、彈丸の雨注、遇ひてこれを避くるは人の常情、死の前に在るを恐るるなり。然るに屍を蹈み、血を★み……


ともあれ、訓読および通釈はおいおいそのうちにということで。


a0029238_2138544.jpg
豊烈曜後之碑(右)と招魂塚(左)


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副碑

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by office34 | 2013-10-01 23:09 | 歌碑・文学碑など
2013年 09月 29日
高誉上人顕彰碑
誰も顧みることのない石碑だが・・・・中身はかなり重い気がする。

-碑文-
連年凶荒諸民流離終至饑死者不可勝計我師高誉上人坐
不忍見之救済之意念頻発然一杯之水不能救一車薪之火
茲得十万信檀之助縁天和二年正月八日始開場於当寺凡
三十有九日之間方来之饑民不論男女老少月日毎一人与
孔方十二銭其数合二十六万六千二十九人也於是建一塔
婆為二世利益之供養欲使施者受者有縁無縁並已死未死
之輩共超困苦之海同到安養之界是老師之志願也
  天和二壬戌年 三月十五日 大雲院第九世光誉真龍建


-訓読-
連年、凶荒して諸民流離し、終に饑死する者、勝へて計るべからず。我が師、高誉上人、坐してこれを見るに忍びず、救済の意念、頻りに発る。されども一杯の水は一車薪の火を救ふに能はず。茲に十万信檀の助縁を得。天和二年正月八日、始めて当寺に開場し、凡そ三十有九日の間、方来の饑民、男女老少月日を論ぜず、一人ごとに孔方十二銭を与ふ。其の数、合はせて二十六万六千二十九人なり。ここに一塔婆を建て二世利益の供養と為し、施す者、受くる者、有縁無縁、並びに已死未死の輩をして共に困苦の海を超え、同じく安養の界に到らしむ。是れ老師の志願なり。

   天和二 壬戌年 三月十五日 大雲院第九世光誉真龍、建つ




布施の功徳を自己満足的に謳っているのではなく、「施す者、受くる者、有縁無縁、並びに已死未死の輩をして共に困苦の海を超え、同じく安養の界に到らしむ」の一節はキュンとくるかも。


a0029238_2134060.jpg
高誉上人顕彰碑

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by office34 | 2013-09-29 23:46 | 歌碑・文学碑など
2013年 09月 28日
大雲院の石碑群
このところ、いろいろあれこれがあって沈黙モードが続いていた。それはそれで仕方のないことでもあったが、今日、大雲院・祇園閣を訪れる機会があったので、少しだけ書いてみる。

といっても大雲院の来歴や祇園閣の紹介だったら、他でもたくさん出ているのでパスするつもりでいる。というのも、今回のお目当ては大雲院の敷地内にある石碑だったからである。前回に訪れた時にも目には入っていたが、詳しくチェックせずに放置しておいたものである。この大雲院、普段は非公開で特別公開の時にしか入れない。そんな場所にある石碑なのだから、せっかくの機会は大切にせねばならなかったはずである。ところが前回は「いしぶみデータベース」あたりを探せば出てくるだろうとタカを括って帰ってきてしまっていたのである。結果、なにかゴチャゴチャ書いた石碑があったなという感想だけが残ってしまっていた。

それが三年前だったか、四年前だったか、そのくらいの話である。そんな大雲院・祇園閣がこの夏の特別公開のラインナップに加わっていた。夏タームは七月から始まっていたが、例によってズボラをかましているうちに、九月末のタイムリミットが迫ってきていたものだから、このたび出向いてみたという次第である。

以上が前振りで、ここからが本題。

大雲院の敷地内にある石碑ということだが、目についていたのは三基である。拝観入口となっている南門から本堂前に向かう参道に一基(A)、本堂前に一基(B)、そして祇園閣の北側に一基(C)である。このうち、BとCには扁題がついているので、(B)「豊烈曜後之碑」、(C)「祇園閣碑」と呼んでいいはず。これらに対して(A)は時代が一回り古く、天和二年(1682年)建立の旨が記されている。内容をみたところ、大雲院の高誉上人が飢饉で苦しむ人々に救済を施した云々との内容のようなので、高誉上人顕彰碑と呼べばいいだろう。次回以降、これらの三基について碑文の確認しながら見ていくことにする。

あと、これらの石碑以外に、山口誓子句碑もあったことも言い添えておこう。


a0029238_2134060.jpg
高誉上人顕彰碑


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豊烈曜後之碑(右)、実はレプリカ


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祇園閣碑、扁題は西園寺公望


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洛中のいづこにゐても祇園囃子 誓子

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by office34 | 2013-09-28 21:42 | 歌碑・文学碑など
2013年 05月 12日
廣羣鶴かな?
北野天満宮に菅原道真詩碑があることは以前に紹介したことがある(参考までに)。碑面に刻まれているのは『菅家文草』からのもので、一応、問題は解決していたつもりだったが、そうは問屋が卸さないとなったようだ。

「神製」と題が掲げられ、二編の詩からなる本文と建碑のいわれを記した副文からなるわけだが、今回、再考が必要になったのは、一番最後に刻まれている石工の名前である。写真で撮ってきたものを見たままに読んで「東京 廣羣鵬刻」としておいたのだが、ここに問題が起きた。「廣羣鶴」ではないのかということである。
江戸時代から続いた店石屋で、その内容を多少なりとも聞けたのは広群鶴(東京都台東区谷中)だけであった。「群鶴は江戸一の大石屋」と谷中育ちの古老や明治生まれの職人達がいうように、関東でも一二を誇る大きさの石屋であったらしく数多くの碑の字掘りを手掛けている。
『碑刻』(森章二氏,2003年,木耳社)


森章二氏の『碑刻』という本を読んでいて、初めて「廣羣鶴」の名前を知ったのだが、その時にひらめいたのが、そういえば天神さんの道真詩碑にそんな名前があったような?ということだった。それで確認してみると、記事には「鶴」ではなくて「なお碑の右下には小さな文字で『東京 廣羣鵬刻』とある。石に刻んだ彫り師の名前だろう」と書いてしまっている。改めて写真をチェックしても、やはり「鵬」と読めてしまうのは、異体字に対する知見の乏しさかも知れない。あるいは、似たような屋号でまったく別人ということなのかも知れない。ともかく、よくわからないのだが問題発生ということで、写真の拡大版を出しておこう。ささやかな問題提起のつもりである。
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by office34 | 2013-05-12 03:53 | 歌碑・文学碑など
2013年 05月 06日
香淳皇后歌碑(再確認)
およそ一月前にくに荘前に置かれている香淳皇后歌碑に触れたことがあった(参考までに)。その際、和歌の後に添えられている一行がよく読めないと書き、改めて確認してくるようなことを書いた。しかも近い場所だから、すぐにちょいちょいと行って見てくるみたいな書きぶりをしてしまった。ところが、その後、近くを通ることはあっても、何度もスルーしてしまうという有様、それであれこれするうちに結局一ヶ月が過ぎてしまったようである。その香淳皇后歌碑、このほどようやく再確認ができたので、簡単に報告だけしておこう。

まず結論からいえば、文末の一行はなんてことない揮毫者の署名である。「二条恭仁子謹書」となっている。一ヶ月前に訪れて撮った写真はどうみても名前とは思えない雰囲気なのだが、改めて現物の前に立ってみると、どうみても名前にしか読めない。なぜこれが読めなかったのだろうと不思議になるくらいである。前回のものはやや斜めから撮っているとか、少し光量が足りなかったとかのゴタクを並べることはできるのだが、原因はそればかりではあるまい。これが写真のトリックというものか、立体感がなくなると、こうもイメージが変わるものかと呆れるばかりである。

ともあれ、今回、改めて撮ってきた写真を貼っておこう。一ヶ月前のものとは打って変わって、背景の華やかさが際立つようになっている。
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ちなみに「二条恭仁子」なる人物だが、久邇宮多嘉王のご息女とのこと。朝彦親王からみれば孫にあたり、香淳皇后からみれば従姉妹にあたる方のようだ。
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by office34 | 2013-05-06 23:05 | 歌碑・文学碑など
2013年 04月 23日
嵐山の二丁塚(続)
二丁塚 同市嵐山 大悲閣門前
表 花の山 二丁のほれは大悲閣 はせを
裏 明治十一年角倉関岳及碩水雨村如山等によつて建てられた由来が信夫翁山中静逸の筆でしるされてある
『芭蕉塚』(出口対石,長崎書店,昭和18年)

とりあえず読めない碑という形にしているが、どうも放置しておいてはいけない雰囲気だ。というのも、碑文の揮毫者がタダモノではないからである。前回の投稿では『芭蕉塚』なる戦前の本を引用してアウトラインを紹介したが、その段階でも「山中静逸」の名前が出てきている。それが問題の人物なのである。ただ、当方が資料を書き写す段階で間違ったのか、著者の間違いなのか再確認が必要なのだが、「信夫翁山中静逸」ではなく、正確には「信天翁山中静逸」である。他にも文中に出てくる「雨村如山」なる名前も「村」と「如」の間にも、「岡」だろうか、一字入っているように読める。また肝心の「山中静逸」も「獻逸」に読める(山中静逸の名は「獻」だが、「獻逸」なる号は未確認)

ともあれ、山中静逸なる人物は高名な文人(とりあえずウィキペ2013.04.23現在)であり、富岡鉄斎(参考まで)や長尾雨山(参考まで)らと並べて検討されるべき人物のようなので、作品をいくつか並べたうえで字体の類似からさぐっていくぐらいのことはせねばならない。けっこうたいへんな作業だが致し方ない。

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----[追記 2013.04.25]---------------------------------------

「信夫翁」は当方の誤写。原著には「信天翁」。
「雨村如山等」は原著どおり。
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by office34 | 2013-04-23 23:37 | 歌碑・文学碑など
2013年 04月 22日
嵐山の二丁塚
嵐山の大悲閣道にある芭蕉句碑について。以前に一度取り上げたことがあったのだが(参考)、碑陰が読めずに保留していた。このところ、ネタがなくなっていたこともあって再チャレンジ。書き出しが「此芭蕉翁句」であることや「明治十一年三月」という年次、そのほかいくつかの語句が読み取れるものの、文脈はわからない。それでWEBで情報を探してみたのだが、めでたく空振り。

だが、その一方でおもしろい話にも遭遇した。それは、この句碑の主役である「花の山 二丁のほれは 大悲閣」なる吟が、どうやら芭蕉のものではないらしいというお話。専門的な立場で調べると、世に芭蕉作として伝わっている中にもマユツバなものはかなり混じっているようだ。マユツバとまでいかなくても、芭蕉の真作であるとの確証が得られない吟は相当数になるらしい。いわゆる「存疑」の句である。嵐山は大悲閣道に建てられている「花の山 二丁のほれは 大悲閣」は、まさにそうした存疑の一つなのである。

以前、金福寺の芭蕉顕彰碑に触れた時、言うところの「芭蕉庵」は松尾芭蕉ゆかりのものではないことを、蕪村ら夜半亭の人々はいずれかの段階で気づいていながら、そこを舞台とする顕彰活動を推進したのではないかという趣旨のことを書いた(参考)。それに象徴されるように、芭蕉の没後百年の前後には顕彰活動がさかんに行われている。時代のムーブメントとして特筆されるぐらいのものである。そして、思うに「芭蕉=俳聖」なる認識が一般に浸透したのは、そうした一世紀後の顕彰活動の結果なのではなかったろうか。生前あるいは没後ほどなくの間についていえば、門人たちの間ではもちろんのことながら篤く崇められていたはずである。しかし門人という枠を越えるとどうだったか。限定的なグループの枠にとらわれることなく、尊敬のまなざしが世間に広く通用するものになったのが、一世紀後の顕彰活動の結果だったのではないかと思うのである。

また、そのくらいの結果を導くためには、関係者はかなりのエネルギーを費やしたはずだ。現在、「存疑」という扱いになっている吟が数多くピックアップされたのも、そうした背景があってのことではないか。本来であれば、場の芸術の宿命に従って埋もれてしまう吟に「芭蕉作」なる〝極札〟がつけられ、世間に喧伝されたと思うのである。かの芭蕉庵が松尾芭蕉ゆかりの地として喧伝されたのと同じような具合に、である。

なお嵐山の句碑は、詳しい方々の間では「二丁塚」と呼ばれているようだ。「塚」という言葉はお墓の印象が強いが、金福寺の芭蕉庵の傍らにも、樋口道立による「塚」が建てられた旨が碑文に記されていたように、「塚」を記念碑程度のニュアンスで理解しておけば、「二丁塚」なる命名にも納得はいく。そんな「芭蕉塚」をめぐっての本が、今回の記事では参考になっている。具体的には『芭蕉塚』(出口対石,長崎書店,昭和18年)と『京都の芭蕉句碑』(福井要氏,私家版,平成9年)である。そして、これらの情報をもたらしてくれたのが『花供養と京都の芭蕉』展の図録(PDF版、WEBで公開)であったことも言い添えておこう。

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二丁塚の碑陰

二丁塚 同市嵐山 大悲閣門前
表 花の山 二丁のほれは大悲閣 はせを
裏 明治十一年角倉関岳及碩水雨村如山等によつて建てられた由来が信夫翁山中静逸の筆でしるされてある
『芭蕉塚』より

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by office34 | 2013-04-22 00:17 | 歌碑・文学碑など
2013年 04月 15日
くに荘前の香淳皇后歌碑
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以前より歌碑の存在は聞いていたが「中庭に設置」といった形だったものだから、てっきり外部から覗くことができないものと思い込んでいた。それがKKRくに荘の香淳皇后歌碑(昭和天皇の皇后)である。ところが、たまたま前を通りかかってみると、見えないどころか、敷地真っ正面に建てられていた。これなら、さっさと見に行くべきだった。中庭云々は何かの聞き違いだったか。

それはさておき、くに荘と香淳皇后歌碑のつながりというと、現在のKKRくに荘は久邇宮家の京都邸があった場所に建てられたもので、その久邇宮家こそが香淳皇后の実家という関係である。ゆかりはそうした事情になるわけだが、それ以上に決定的なのは皇后の歌に「荒神橋」が読み込まれていることだろう。
鴨川のほとりにいでてながめやる
   荒神橋はなつかしきかも
語句的に難しい解釈が求められるところはないので、くだくだしい説明は必要ないと思う。歌自体はそれで済むのだが、歌碑として眺めるとどうだろう。この歌碑、一行目にあるのは「皇后陛下御歌」で、二行目から六行目までが本文である。で、最終行・・・・・・う、読めない。a0029238_1725321.jpg例によって、また現場での確認を怠って帰ってきてしまったのだが、写真を見るだけでは文字が判然としない。皇后の歌を文字に書き取って碑の原稿を作った書家さんの署名とかだろうか。文字の大きさが歌本文と同じくらいだから、本文に準じる添え書きのようなものかも知れない。ともあれ、現状ではよく分からないのだが、改めての出直しが必要になるらしい。まあ、すぐに行ける場所だから構わないのだが。





余談。
天皇・皇后の諡号
 明治天皇・昭憲皇后
 大正天皇・貞明皇后
 昭和天皇・香淳皇后

先日、京都御所の一般公開を見に行った折、どこかのガイド氏らしき人物が「平成天皇が・・・・・・」と言っている声が雑踏の中から聞こえてきた。おっと、やべ、Xデーはまだ来ていないんだから、そんな名前でお呼びしてはいけませぬ。
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by office34 | 2013-04-15 16:57 | 歌碑・文学碑など
2013年 04月 10日
滝口寺の歌石碑
滝口入道と横笛のエピソードは有名なので繰り返さないが、滝口寺にある歌石碑、その側面に刻まれている歌についてはデータが見当たらない。ということで試読・・・・

うたかきし血しほのあとは残のこらねと
あかき心こころそ千代ちよも消えせぬ 吉明
横笛が指を切って血で歌をしたためたというその痕跡は残っていないけど、彼女の丹心(嘘偽りのない誠の心)は永世にわたって消えることはない


どうだろう、かなり覚束ないので、解読のできる方はぜびご教示のほどをお願いします。

a0029238_1155029.jpg

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by office34 | 2013-04-10 01:24 | 歌碑・文学碑など
2012年 12月 07日
故蓮月尼紀念碑@西方寺
先月の22日と今月の1日に大田垣蓮月に関する記事を投稿しておいたのだが、ふと気がつくと、両方とも同じ文章になってしまっていた。いったい、何が起きたのか分からないが、どこかで混乱が生じたのだろう。本来であれば、小谷墓地を管理する西方寺で「故蓮月尼紀念碑」なる石碑を見かけたことに触れたのが11/22付の記事であり、神光院の茶所に掲げられている桜井知足の額および西方寺の記念碑の碑文を紹介したのが12/1のものである。それなのに、両方ともが茶所の額と西方寺の碑文、つまり12/1に投稿した文章になっていた。

事情はよく分からないが、とりあえず記事のバックアップに原稿が残っていたので、11/22の方をもとの文章に差し替えておいたのだが、同一文章が異なる日付に二カ所に出ていたのだとすれば、あまり格好のいいものではない。それをこの一週間ほど気づかずにやっていたということなのだろうか。ま、終わったことは仕方ない。

ともあれ、西方寺の「故蓮月尼紀念碑」の文章が放置モードになっているので、片づけておこうと思う。この文章で問題になるのは、きちんと読みとれない文字がいくつか残っていることを除けば、蓮月尼辞世歌が一般に言われているものと異なっている点だろう。蓮月尼の伝記等でよく紹介されるのは以下のストーリーである。
尼が七十時代かと憶ふ。白木綿で一反風呂敷を製し、それに月と蓮とを畫けと命ずるから、言ふがまゝに描くと、只だ疊んで仕舞つて置く。何にするのかと、其のまゝ忘れてゐた。處が歿くなつた時、村の者が尼の遺骸を湯灌して、さうして彼の風呂敷を出して包む。見ると月と蓮との間に自筆で辭世「願くはのちの蓮の花の上にくもらぬ月を見るよしもがな」が書いてある。そこで拙者も方ママめて解り、成程自分の名の如く始終を完うして、今世も後世も、身も心も清く潔く、高く明らけくあらんと念願したものである。而して此念願は、一朝一夕の念願でなく、十數年前より其念願で、此支度、此辭世が出來てゐたのである(鐡齋翁直話)
増補『蓮月尼全集』(村上素道編、昭和55年増補復刻、同朋社)


三条大橋でのエピソードや七卿都落ちを見送ったとする話同様、蓮月尼に関するエピソードの中では、これまた有名な部類らしく、他での引用も多々見受けられる。それに対して、西方寺の「故蓮月尼紀念碑」では「辞世」と明記して「露塵も心に懸かる雲もなし今日を限りの夕暮れの空」を記している。このあたりの事情がどうなっているのか、というのが大きな課題となりそうな気配なのである。

ということで、さしあたっての作業として、「故蓮月尼紀念碑」の碑陰を読み下しておく。本文は、その後、いしぶみデータベースに登録されていることが判明したので、そちらを参照
尼、初め名を誠のぶ、太ママ田垣伴左衛門光古てるひさの女むすめなり。光古、旧鳥取藩士にて来りて京師に住み、知恩院に仕ふ。子無ければ彦根藩士古川重次郎を得て、誠の配とするを以て嗣と為。子女を多く挙ぐれど、皆夭わかじにし、夫も亦尋ついで歿ぼつす。乃すなはち与ともに薙染ていしし、父は西因と号し、誠は蓮月と号す。常に国歌を好み、武技を能くす。旁かたはら、陶器を造り、詠む所を以て彫る。極めて韻ゐん有れば、久しく争ひこれを求む。尼、その煩を厭ひ、終つゐに洛北神光院中に移る。明治八年十二月十日歿。年八十五。西鴨小谷に葬る。尼、歿するに先だち辞世有り。今、刻して以て銘に代ふ。贅を復たとせずして曰く、
露塵も心に懸かる雲もなし今日を限りの夕暮れの空

結局のところ、碑が建立されるにあたって、蓮月の辞世歌に別伝みたいなものが語られていたと思うしかなさそうである。
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by office34 | 2012-12-07 18:48 | 歌碑・文学碑など