Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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カテゴリ:橋のはなし( 43 )


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2013年 10月 25日
ひさしぶりに葵橋
祭の日葵橋ゆく花がさのなかにも似たる人を見ざりし
シチュエーションが分からないから、意味もなかなか見えてこない。

時代祭の話に触れて三条大橋を取り上げたついでみたいな感じなのだが、葵祭の方に視線をもっていくとピックアップされるのは葵橋である。もっとも現在の葵橋は出町橋-河合橋のさらに上流に架かる橋の名前なのだが、祭の行列が通った葵橋となると、今でいうところの出町橋-河合橋のはずである。上に引いた一首は、与謝野晶子の歌で明治37年刊行の「恋衣」に載るものだから(上記引用は岩波文庫『与謝野晶子歌集』)、明治の終わり頃の事情に照らして考えねばならない。現在の葵橋の場所に橋が架かったのは、正確には覚えていないが、もう少し遅くなるはず。過去に取り上げているネタだから、ブログ内の過去の記事を調べれば、少しは確定的なことが言える気もするが、「もう少し遅かったと思う」という言い方でごまかしておこう。ともあれ、上の歌にある「葵橋」はデルタのところを横切る橋のはずである。

出町柳のどのあたりかは分からないが、あの付近で行列を眺めつつ詠んだ歌という前提で考えると、ではどうなるだろう。シチュエーション次第で解釈が替わるのは「似たる人」である。探している人に似ている人なのか、自分と同じような気持ちでいる人なのか、それとも『源氏物語』を念頭において光源氏に似た人とでも言っているのか、いろいろ可能性は浮かびはするが、そこで打ち止めである。シチュエーション次第で替わるということは、要するにシチュエーションが分からないと解釈もお手上げになるからである。

時代祭ネタからのついでで煮え切らないお題を一つ、埋め草として。
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by office34 | 2013-10-25 03:13 | 橋のはなし
2013年 10月 19日
ナゾの石材、新たに出現
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植え込みの中からつきだした石材・・・これはもしや?と閃いたのは、この場所が五条川端下ルだったから。旧五条大橋の橋脚ではないだろうか。三条大橋に関しては、西詰や平安神宮境内、国立博物館前庭のものがよく紹介されるが、それ以外にもあちらこちらに橋脚とおぼしき石材が残されている。

当方が知り得た範囲でいえば、上記のもの以外では、といったあたりだろうか。見た目は橋脚の石材であっても、厳密に三条大橋のものなのか五条大橋のものなのか(あまり言われることがないが四条大橋である可能性も……)は分からない。それでも、置かれている場所から推測して、今回のものは五条大橋ではないかと考えているのだが、はたしてどうだろう。

とはいえ、今回の石材はよくみると、埋め込まれている鉄骨が頭を覗かせている。これは三条大橋西詰や夷川ダム前のものには見られない特徴なので、全く別の場所で用いられていた新しいものなのかも知れない。あまり情報があるわけではないので判断しかねるのだが、市中に転がるナゾの石材リストにまた一つ項目が増えたようだ。
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by office34 | 2013-10-19 19:00 | 橋のはなし
2013年 02月 16日
徳成橋の親柱
徳成橋の話は以前にも書いたはずと思っていたが、検索をかけてみると記事が見あたらない。どうやら勘違いだったようだ。ということで、今回は徳成橋を取り上げてみる。

昨日の記事は、知恩院門前の白川、つまり門前橋のたもとに古い橋脚と思われる石材が置かれていることを取り上げた。石材の素性はつかめないのだが、市内各所で時折、目に留まる旧三条大橋の橋脚ではあるまいか?と色めきだってしまったのだが、冷静に考えると、白川畔だから白川に掛かっていた橋の一部が保存されているとするほうが可能性は高そうだ。実際、そうしたケースの事例としてあるのが徳成橋である、・・・・・・という主旨の内容である。

徳成橋とは、東大路通が疏水を越えるところに掛けられている橋である。幹線道路の一つである東大路通と疏水の幅を比べると致し方ないのだが、橋というよりは道路の一部として受け取ってしまう。それでも四月になって桜が散り始めるタイミングには、疏水に舞う桜吹雪を眺めるには格好のポジションを提供してくる。そんな徳成橋だが、東大路通と一体化してしまったのは、東大路通が拡幅されて幹線道路の一つになった時からだろう。それ以前はもっと橋らしい雰囲気もあったに違いない。それを窺わせるかのように、現在の徳成橋の北東のあたりに、掛け替えられる前の親柱が残されているのである。道路が拡幅され、車がぶんぶん通るようになり、みなが諸手をあげて「便利になったぞ、ばんざ~い」と言っているのだとすれば、こんな感じで古い親柱が保存されることはないだろう。あれこれの事情で道を太くせねばならないのはやむを得ない、それに伴って風景に馴染んでいた古い橋が消えるのも・・・・・・残念だけど仕方ない、そんな感傷めいた気分から親柱の保存が図られているのではないだろうか。

以上は、あくまでも想像にすぎないのだが、徳成橋でそうしたことがあったのだとすれば、白川畔の橋脚めいた石材に似たような文脈があっても不思議ではない。
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奥の大通りが東大路通。手前に旧橋の親柱が置かれている

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by office34 | 2013-02-16 23:33 | 橋のはなし
2013年 02月 15日
三条大橋の"アレ?"かな
「木屋町をあるく」シリーズのスタートは三条大橋だった。その三条大橋ネタとしてよく紹介されるものの一つに、秀吉時代に築造された橋脚がある。摂津国御影から切り出されたとされる橋脚で、天正十七年云々の刻字が認められるものは記念品的に重宝がられ、西詰や平安神宮などに飾られている。しかし、橋脚を構成していたすべての石材に刻字が施されていたわけではなく、刻字のないもの、すなわち素性は判然としないものは、橋が架け替えられた後には単なる産廃とならざるを得ない。おそらく大部分は、具体的にどういう形でかはわからないが、しかるべき方法で「処理」されたに違いない。

ところで「処理」されたに違いない橋脚の残骸?が時折、意外な場所に残っていたりすることもある。有名なものを挙げるとすれば、平安神宮の蒼龍池に設けられた飛び石だろう。臥龍橋と名付けられているのだが、その素性は池の中に埋め込まれた橋脚群である。斎館前に鎮座している天正十七年云々の刻字のあるものとは別に、平安神宮の一部に生まれ変わった三条大橋橋脚である。ちなみに灯籠や庭石など石材のリサイクルは、平安神宮の神苑を設計した小川治兵衛が好んだ手法としてよく指摘されていることであり、円山公園の日本庭園にも、橋脚かな?と思わせる石材が地面から顔を覗かせていたりする。

さて、そうした事情を頭の片隅の置いておくと、なんということのない街角で、これってもしかして?と思ってしまう石材と出会うこともある。この京都クルーズ・ブログでも何回か取り上げているのだが、またしてもその「あれ?」と出会ってしまった。場所は知恩院古門前の、白川べりである。知恩院前の交差点から知恩院方面へ進み、ちょうど太鼓橋を越える場所である。橋のたもと北側にさりげなく立っているのは、まさしくかの石材である。

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厳密にいえば、三条大橋というところまでの特定はできないし、天正のものかどうかなどもわからない。なんとなく細いかなという気もしなくはないし、堀川に掛かっていた松原橋の橋脚がどうたらこうたらという話も頭の片隅には残っている。そのあたりは刻字のないものについては共通することなので致し方ない。しかし、大胆に総括するとすれば三条大橋に代表される石の橋脚のなれの果てであることは間違いない。知恩院の門前の橋の傍らは、漬物を作るわけでもなし、機能的にその石が必要となる場所ではない。どうみても記念品的に鎮座しているとしか思えないのである。そして石材の形状に注目すると、太さといい、ジョイント部の突起といい、かつては鴨川の真ん中で踏ん張っていた柱の一部をなしていたブツと思えてしまうのである。

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表面には何か刻まれていたようにも思えるが、摩滅が著しい。文字の痕跡と言われると、そのようにも思えるし、自然にできた文様と言われるとそう思えなくもない。




[参考]
三条大橋西詰、平安神宮、京都国立博物館前庭以外では
鴨川べり(三条京阪下ル)
夷川ダム前
木屋町五条
円山公園




[追記:2013.0216]
なんとなく、行者橋とか門前橋とか、白川に掛かっていた橋の古い橋脚にも思えてきた。だとすれば、ここにあっても不思議ではないか。徳成橋の旧親柱が残されているみたいな感じで・・・・・・
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by office34 | 2013-02-15 20:52 | 橋のはなし
2012年 09月 04日
行くは帰るの橋
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『撰集抄』という説話集がある。その本に面白い記述がある。
源氏の宇治の巻に行くは帰るの橋なりと申たるは、是なりとぞ、行信は申されしか。宇治の橋と云はあやまれる事にや侍らむ。
巻七・第五「仲算佐目賀江水掘出事」(岩波文庫より)
これのどこか面白いのかというと、ここで触れられている内容がまったくの幻であるという点である。

『源氏物語』にかくかくの記述があるとの情報があると、しかもそれが古典籍なんかの中で見られた日には、ついつい鵜呑みにしてしまう。しかし、少し立ち止まってウラを取ろうとすると、奇妙なことに気づかされる。まず「源氏の宇治の巻」というが、そんな巻は、現在普通に享受されている『源氏物語』には存在しない。橋姫~夢浮橋までを宇治十帖と通称することをもって、宇治十帖のどれかを指していると考えるまでは許されるが、そこから「行くは帰るの橋なり」云々にまで立ち入ると、もうアウトである。現在普通に享受されている『源氏物語』には、存在しない言い回しなのである。

『撰集抄』の記述は戻り橋に関するものであり、源氏物語のある場面で「行くは帰るの橋」という言葉が使われていて、それは戻り橋のことである、と言っているように理解できるのだが、解釈以前に、「行くは帰るの橋」なる文言自体が存在しないのである。

話がここで終わるのなら、ちょっとしたコネタ程度なのだが、そうは問屋が卸さないとなってくるのが、出所が『撰集抄』であるという点である。『撰集抄』自体、謎の多い本である。しかも問題の文言は、『撰集抄』の伝本の中でも、有るものと無いものがある。伝本の系統でいうところの、広本系には「源氏の宇治の巻に」云々以下があるが、略本系にはその一節がまるまる欠けている。成立にも謎が多いが、広本系と略本系の関係になるとさらに分からない。最初に広本系の原型があって、そこから抄出されて略本系の原型が作られたのか、あるいは略本系の原型に増補する形で広本系の原型ができたのか分からないのである。

「源氏の宇治の巻に」云々の言い回しは、取って付けたような印象もあるので、この箇所だけを見ていると、後世の書き加えではないだろうかとも思われるのだが、全体に目配せすると、そう単純に結論が出せる話ではないらしい。さらに、まだまだ問題が複雑になる要素がある。それは『撰集抄』の性質と照らし合わせると、そこに書かれている内容を真に受けていいのかという問題である。「源氏の宇治の巻に」云々に即していえば、それが『撰集抄』成立段階のものなのか、後からの作為なのかは分からないが、意図的に架空の巻名と架空の文言をでっち上げているのではないかという疑いを差し挟むこともできるということである。

『撰集抄』は、古くは西行法師が自らが記した随筆であるかのように読まれてきた。近代以降の研究によって西行に仮託した書きぶりと結論づけられているのだが、江戸時代までは西行の息づかいを伝えるものと思われていたのである。確かに、『山家集』などと照らし合わせて、いかにも西行らしいと思える記述もあって、長らく西行自記を装い続けていた仕掛けにも頷いてしまうのだが、その一方で、トンデモ級の内容も含まれる。たとえば、こういう話。ともに風流を語る友人が都へ去った後、高野の山中に一人残った西行は寂しさを紛らわすべく、ある行為に出た。それは
おなじ憂き世を厭ひし花月の情をもわきまへらん友こひしく侍りしかば、おもはざるほかに、鬼の、人の骨をとり集めて人につくりなす例、信ずべき人のおろおろ語りはべりしかば、そのまゝにして……
巻五・第十五「西行於高野奧造人事」
人恋しさゆえに、ふとした時に小耳にはさんだ秘術を試したというのである。それは人骨を集めて、人として蘇生させること。

『撰集抄』がどれほどの信憑性を伴って西行自記と読まれていたにしても、この下りを実話として理解した読者は少なかったろう。むしろ、花月を愛でつつ友と語りあう西行の美意識のみを受け入れて、他はそこから脱線した冗談というふうにでも読まれていたのではないだろうか。このような章段もあることを含みにいれておくと、『撰集抄』の内容は、事実と受け取る前にワンクッションいれることを習慣づけておいた方がいいようにも思えてくるのである。

「源氏の宇治の巻に」に即していえば、「宇治」なる巻が存在しないことは誰しも知っている、そういう前提でわざとそんな巻名を挙げているのではないか、いわばちょっとした遊び心から書かれた一節ではないかとも思えなくはないということである。それに、この章段自体、どうなんだろう。体裁としては醒ヶ井の湧水伝説を語るものとなってはいるが、高僧の評判高い仲算大徳と浄蔵大徳が願力によって醒ヶ井の地に水を湧かさしめたとの内容は、どこかに典拠の求められる話なのだろうかということも気に掛かる。もしかすると、創作伝説?ではないかとも考えてしまう。その流れで、ありもしない「宇治」の巻が登場してくるとすれば、手の込んだ冗談といっていいのかも知れない。

ところで、どういう形であれ、次の二つは明確に区別しなければならない。それは、情報を事実として受け取るということと、その情報が存在していることを事実として認めるということ、その違いである。今回の話でいえば「源氏物語に『行くは帰るの橋』という文言があって、それは戻り橋のことらしい」という情報は、そうした情報が存在しているのは事実なのだが、中身は要注意ということである。

京都全般の話に広げた場合にも、これと類似の事例にはよく出会っている。たとえば、このブログでもたびたび登場している緑紅叢書。緑紅叢書に収録されている話は、精力的に収集された巷間説話であって、非常に魅力的なものばかりである。しかし、だからといって、その内容を無批判に受け入れることはできない。田中緑紅が採集した話として、かくかくしかじかのというものがある、ということは事実として示し得ても、そのことは内容の確からしさを担保するものではない。

一般的な傾向として、とある筋より提供された話題が、受容者にとって都合のいい内容なら、ついついそれを事実であると認めたくなる。そして、それに基づいて別のストーリーを組み立てる必要がある時には、さらに面白い話ができるというものである。しかし面白いか否かではなく、事実か否か、信じるに価するかどうかという基準で接する場合は、情報が存在するという次元で留まるべきところのものが、いつしか勢いや雰囲気で客観的事実とされていないかに注意を払うべきだろう。

少々、煩わしい方向へ流れすぎたようだが、このところ関心を向けている北白川天神宮の歌碑についても、もしかすると、これと近い話になるかも知れない気配もある。まだグレーな部分が多いという段階であって、単にこちらの勉強不足というオチになるかも知れないが、もしかすると伝説の一人歩きがスゴイことなっているんじゃないかという結論が待っているかも知れないのである。
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by office34 | 2012-09-04 01:31 | 橋のはなし
2012年 05月 17日
落合橋など
保津峡から清滝までの間は、距離的には短いながら、見どころはけっこう多かったというのが当方の印象である。それらのいくつかをつらつらと並べてみよう。

ルートはJR保津峡駅で降りて府道50号をたどることになるので、舗装路をたらたら歩かねばならないことを最初はつまらなくも思ったのだが、しばらく行くと木立が切れて視界が広がり、保津川に掛かる鉄橋が見える。最初はたんなる鉄橋としか見なかったのだが、実はこれが、今し方降りてきた保津峡駅であった。武庫川をまたぐ形で駅舎がつくられている阪神武庫川駅のことを、以前、神戸新聞で記事にしたことがあったが参考までに、川の上の駅が京都にもあったことになる。
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JR保津峡駅

次に目が留まったのは、そこからすぐのところに現れたトンネル。ほんの数メートルの短いヤツだが、疏水の石額のように、なにやらの文言が書かれている。雑草によって十分には見えないのだが、近寄って観察すると「平安乾域へいあんけんいき」と読める。なるほど、京域の北西境がここと言っているようだ。ちなみにトンネル自体の名前は、反対側に「鵜飼隧道」と出ている。なお、このルート上のトンネルは、もう一つ、落合橋の手前にもあるのだが、その落合隧道には「竭誠盡敬けつせいじんけい」とある。「竭」「盡」はともに「つくす」の意味なので、「誠をつくし、敬をつくす」との意味である。「傍若無人」とか「我田引水」とかが掲げられていたら大変なことになるのだが、それでもこの言葉がトンネルに掲げられている、その心は果たして如何に? 
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右:鵜飼隧道[平安乾域]  左:落合隧道[竭誠盡敬]

ところで、このJR保津峡駅から清滝までの間での一番の見どころは?と尋ねられると、さてどうなるだろう。人によっては保津峡の岸壁を推すだろうし、あるいはトロッコ保津峡駅を推す人もいるかも知れない。保津峡の岸壁は、落合隧道の手前にある展望スポットから眺められる。舗道からほんの少し逸れて脇道に入ったところで岩頭上から保津川を広く眺め渡すことができるのである。また下に降りる踏み跡もあるので、水辺にまで出ることもできる。トロッコ電車の駅はというと、道中のちょっとした寄り道というか、アクセント程度の話。それでも乗り物ファンにしてみれば、それなりに面白い場所だろう。駅が吊り橋を渡った対岸にあることや、線路をまたぐ高架橋があって列車を上から眺めおろすことができるなど、マニア向けの構造となっている。それぞれの趣味によって目の付けどころもかわってくるだろうが、当方の場合は、落合橋それ自体についても少し動くものがあった。赤い欄干のアーチ橋が木立の中にあるなど、ちょっと粋な雰囲気だったりしないだろうか。
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構図が微妙すぎるが、木立の中の落合橋

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by office34 | 2012-05-17 03:43 | 橋のはなし
2012年 03月 08日
消えた欄干と擬宝珠
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よく似た写真を2枚並べてみた。どうだろう、同じ場所だということが分かってもらえただろうか。目立っているのが中央の駒札で、それが上下ともにあることから、同じ場所っぽい雰囲気はただよっている。そんな印象のもとで細かく比較すると、奧に写りこんでいる本堂らしき建物の形だの、右手にかすかにみえる道祖神めいた石像だの、その上の掲示板のようなものだのと共通点が何ヶ所か見つかるはずだ。

ところが同じ場所かな?と思いつつ、違うかも知れないぞといった疑いの方が大きかったら、2枚の間での違いはたくさん見つかる。上のド真ん中に写っている「おひなさま」なんちゃらの看板がその最たるものだが、それ以外にも上の写真に比べて、下の写真の方が全体的にこざっぱりとしたイメージを与えているのではないだろうか。上の写真を小汚く見せているいくつかの物体が、下の写真には見あたらず、花壇風なものになっているからである。

さて、まわりくどい話はヤメにして本題に入る。よく似た2枚の写真ということだが、同じ場所すなわち千本えんま堂(引接寺)を撮ったものである。アングルもほぼ同じと言いたいのだが、厳密に一致するわけでないのは見ての通り。上の写真が昨年の3月だから、1年前のもので、下の方が最近通りがかった時に撮ったもの。この2枚で何が問題になるのかというと、下の写真で消えている「小汚いものども」についてである。それらは五条大橋の擬宝珠と欄干(伝)であり、それの説明をしているらしい判読不能の駒札だったのである。

このブログでも取りあげたことがある話題なので、あらためてリンクを張っておこう。


はっきり言って、見てくれはよろしくなかった。よろしくなかったから撤去となったところでやむを得ない。しかし、擬宝珠には「文禄五年」とあったから、状態が悪いとはいえ、いい加減に扱われるべきものではなかったはずである。もちろん、撤去されたからといって、即座に廃棄と決まったわけではない。ただいつ撤去されたのかもわからない、要するに人知れず消えてしまったことが気になって仕方ないのである。願わくば、ただ単に別の場所に移しただけとか、管理してくれる施設に保存を委託したとか、最悪でも倉庫に眠っているというオチであって欲しい。
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by office34 | 2012-03-08 09:00 | 橋のはなし
2011年 12月 09日
歩道橋からの眺め
歩道橋談義を始めるきっかけとなったのは堀川高校前歩道橋なのだが、何が当方の心に響いたのかというと、歩道橋に上った時に見える眺めが地上のものとまったく違うという事実だった。詳しくは堀川高校前歩道橋の記事を参照してもらえればよいのだが、その後、歩道橋の近くを通るたびに、別段反対側に行く用事がなくても、とりあえずの儀式のように、その上に上ってみるようにしていた。

目線が高くなるだけで景色の見え方が一変するのは、そう言われてみると当たり前なのだが、実際に自らで体験するとかなり新鮮なものがあった。ところが、そのこともたびたび繰り返していると、鮮度も落ちてくるというもので、目新しく思う感覚も無くなっていった。と、その段階で放置していると歩道橋ネタも続きがなくなるので、断片的ながら印象に残ったものを紹介してみよう。

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[有隣横断歩道橋]
五条高倉にある歩道橋。チェックポイントは東山方面がよく見えるということか。東山の眺め、とりわけ山中に清水の三重の塔が見えるという点が乙。ただその点を強調するのなら、実は同じ五条通には大和大路と東大路の中間にある歩道橋からの眺めの方が一枚上手を行っている。遥か昔にそこからの眺めを見た記憶もあり、写真も撮ったはずだが、探してみても見つけられなかった。それでせめてもの代用品として、次に東山に近いところの有隣横断歩道橋を挙げておく。



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[醒泉横断歩道橋]
歩道橋のスタンダードな形状は1本の車道を跨ぐだけのものなのだが、交通量の多い道路が交わるところになると複雑になる。交差点を鋏んで東西または南北の2箇所に跨線部があるパターン、あるいは跨線部が3箇所のコの字型パターン、そしてさらに交通量の多い幹線道路同士の交差点になると、跨線部が4箇所、すなわち地上に降りることなくクルクル一周出来てしまうものが登場する。堀川通と五条通の交差点にある醒泉横断歩道橋がそれである。九条西大路や九条油小路の歩道橋もなかなか複雑な形状だが、空中回廊を造っているのは、当方が知る範囲では醒泉横断歩道橋だけである。橋の上からはどの方向を眺めても同じ橋が見えることになり、そうなるとやはり作ってみたくなるのが扇状のヒラメ的視界が全開となる180度パノラマだろう。
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左手に京都駅方面、正面に西京極方面、右手に上京方面がくる

ちなみに360度パノラマが意味をなすのは山のてっぺんのような一点から全方位を見渡すことのできるシチュエーションで、空中回廊であればその中央地点の高みから俯瞰する必要がある。



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[養徳歩道橋]
東大路通を北上して東鞍馬口通を越えたあたりに掛かる歩道橋である。この歩道橋の上は、見ての通り、送り火スポットとしてカウントすることが許されるはずだ。「大」ではなくて「法」か、つまらんという人には、この歩道橋の東側階段の真ん中あたりへ立ってもらおう。角度は微妙だが、「大」もきちんと見える。



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[寺之内歩道橋]
同志社が旧来の敷地の北側に新キャンパスを建設しているのだが、地上にいてはその工事現場は、防塵カバーの奧に隠されて眺められない。しかし、歩道橋に上がると……どんな作業をしているのかが気になる土木フェチな方はぜひ足を運んでもらいたい。もちろんこうした眺めが楽しめるのは今だけのことで、工事が終わるとどういう景観となることやら。ちなみに奧に見える森めいたものは相国寺である。
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by office34 | 2011-12-09 09:00 | 橋のはなし
2011年 12月 08日
有隣鳳徳尚徳養徳醒泉
有隣鳳徳尚徳養徳醒泉……とゴチャゴチャした漢字を並べるところから始めてみよう。

これらを一瞥するだけで、内容の方向性に想像が働くとすれば、ある程度、京都の地元事情に通じている方かと思う。そしてそういう人なら、これら文字列を[有隣][鳳徳][尚徳][養徳][醒泉]と区切って読むはずである。ただそれらが何を意味するかとなると、微妙に分かれてくる。ある人は学区名だといい、ある人は小学校名だといい、またある人は小学校名も学区名も同じだよというに違いない。確かに、京都の学校史を繙けば、地域の自治と一体化した小学校建設が全国に先駆けて明治の初期に始まっている事実が浮かびあがり、そうした流れで開校された番組小学校が現在の市立小学校の起源ともなっているので、これらの指摘はすべて正しい。しかし、今回のテーマが何かという問題になると、ことごとくハズれている。

最初に記した文字列をさらに伸ばすとすれば、真如堂宝ヶ池公園花園新宮瀬戸川寺之内……と続く。これらが地名なのはおおよそ見当もつくことだろうが、最初に挙げた学区名(小学校名)等々と共通するところは?。

つまらない引き延ばしは切り上げて答えを書くと、これらは歩道橋の名前なのである。有隣横断歩道橋、鳳徳歩道橋、尚徳横断歩道橋、真如堂歩道橋、宝ヶ池公園横断歩道橋、新宮歩道橋、嵯峨歩道橋、寺之内歩道橋……となる。これらはそれぞれの設備に据えつけられている橋名板を書き取ってきたもので、「横断歩道橋」と「歩道橋」の違いが見られるが、設置時期の違いなどなにがしかの事情があるのだろう。

さて今回、こういう話を持ちだしたのは、歩道橋の名前に学区名が使われていることに興味をもったのが第一である。四書五経の文言を学区名に宛てるなどは明治人らしい発想だが、それが反映されるのは、よく言われるように小学校の名前……に留まらず、戦後にも引き継がれて実に歩道橋の名前にまで及んでいたことが面白く思えたのである。もちろん歩道橋と学校との関係は不可分である。子どもたちの通学の便を考えて設置が進められたのが歩道橋であるとすれば、学区名をバックボーンとする小学校名、その磁場に歩道橋の名前が引き寄せられているのは、なんら不思議な話ではない。

ただ時代が進むにつれ、小学校以前に触れた「堀川高校前歩道橋」もあるので、中高もいれていいかも知れない)だけに留まらなくなったのが、宝ヶ池公園歩道橋のような命名かと思う。さらには真如堂歩道橋や瀬戸川歩道橋など、主要な利用者の属するところを想定してではなく、単に地名を拝借しただけというものも混じる。これらまで含めて考えると、厳格な分析ではない大雑把な方向性に留まるのだが、京都における学区意識が意外なところにも浸透していた事例として、歩道橋の名前なるものを挙げることもできるのではないだろうか。

ところで何を調べていた折のことだったかは覚えていないのだが、何かのついでにふと目が留まってスクラップをとった新聞記事がある。昭和45年1月18日の京都新聞なのだが、そこで目を惹いたのは「歩道橋が林立」「一・五㌔の間に11本も」という見出しである。新たに始まった工事によって、九条通の油小路~西大路間に実に11本もの歩道橋ができるとの内容である。詳しくみると、交差点を囲むコの字型のものであれば3本にカウントしているので設備の総数としては少なくなるが、それでも6本の歩道橋が架かることになりけっして標準的な数字ではない。大阪万博を目に前にしてそれいけドンドンだったころの一挿話である。ちなみに、現在の九条油小路~西大路間はというと、九条油小路(3)、京阪国道口(3)、九条七本松(1)、九条西大路(2)の4箇所(カッコ内の数字は跨線部の数)で上記記事での数え方に合わせると9本になる。

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S45.1.18の京都新聞。左端の見出しも気になるところ。東大路通の京大前には、現在は歩道橋はないが、すでに撤去されたのか、それとも認可されなかったのか?

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by office34 | 2011-12-08 21:00 | 橋のはなし
2011年 08月 30日
堀川高校前歩道橋
堀川通蛸薬師のところに歩道橋が架かっている。「堀川高校前歩道橋」というようで、その名のプレートも設置されている。名前からして、通学の便を考えて設置されたのだろう。

さて、そんな堀川高校前歩道橋だが、日常的に使っている人にしてみれば、歩道橋の上から眺める風景もさほど珍しくは思わないはずだが、ここが生活圏に入っていない者にしてみると新鮮味がある。当方の場合は、堀川通は使わないわけではないが、バスの車内にいるか、両サイドの歩道を歩いているかである。そのためと言えばいいのか、歩道橋に上がってみると、相応の高度があって眺めるアングルが変わり、見なれた景色とはまったく違うものに見えてくる。それが印象の違いとなっているようだ。

と、こんなことを言い始めたのは、三条大橋絡みのことである。三条大橋についてタラタラ書き連ねておいたが、それからも関連するネタはいくつかチェックしている。そうした中で、今は亡き、三条大橋歩道橋なるものの存在が気になってきたのである。三条大橋東詰にあって、京阪の地下化に伴って撤去された設備なのだが、歩道橋が写っている写真や、歩道橋の上から写したと思われる大橋の写真などを見ていると、現在、そうした景観を見ることができないだけに、妙に新鮮に感じられてしまった。そんな流れもあって、ふと、堀川通で歩道橋を見かけた際に、用もないのに上にのぼって周辺を眺めまわしてみたのだった。

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四車線道路もこういう角度でみると広さが分かる……というか、ハッピーバスだと言って騒ぐところだろうか

ところで、現在も頑張っている歩道橋というと、どのくらいあるのだろう。五条通と堀川通は車線の多い大動脈なのでいくつかの歩道橋が掛けられているのは知っているが、それ以外の場所となると、あまり浮かばない。南部エリアはほとんど知らないこともあって、除外しているのだが、適当に列挙してみる。
[五条通]
東山五条西入、高倉五条、新町五条、堀川五条、壬生川五条、新千本五条、五条春日、五条天神川上ル、同西入、……桂川より西はパス、太字は重複
[堀川通]
堀川小柳(北山~北大路の間)、堀川紫明下ル(天神公園前)、堀川今出川上ル、堀川蛸薬師(堀川高校前)五条堀川九条油小路*、……九条以南はパス、*京都駅より南は堀川通=油小路
[新丸太町通]
丸太町通花園(木辻通西入)、法金剛院前、双ヶ岡、嵯峨中バス停前、清滝道
[九条通]
九条河原町西入、九条油小路、京阪国道前(東寺前)、九条七本松、西大路九条(吉祥院の交差点)、西大路西国街道、……これより南はパス
[その他]
烏丸寺之内、宝ヶ池駅前、東大路通東鞍馬口、白川通真如堂

ざっと、こんなところだろうか。見落としもあるだろうし、それ以前にもっと南へ下がったり、桂や山科の方を視野に入れたりするとさらに増える。とりあえずは京都の旧市街とその周辺の範囲に絞って、googleマップから拾ってみたところ、上のような具合になったまでの話だ。五条や堀川に多いのは知っていたが、それ以外のところにも案外あるものだなというのが率直な感想である。宝ヶ池や真如堂前のものなど、知らなかったわけではないが、強くは意識していなかっただけに、そういえば……といったところだろう。また機会があれば、それぞれの歩道橋の上から、地上目線では見えない景色を拝んでみるのも面白いかも知れない。
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三条大橋東詰の定食屋、篠田屋に飾られている写真。97年ごろのものらしいが、歩道橋の残骸が写っている。ちなみに写真右隅に見える赤い看板(COCACOLA)の店が篠田屋。

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by office34 | 2011-08-30 09:31 | 橋のはなし