Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
■■NOTICE■■
記事の写真(含・画像)は縮小表示されています。
写真をクリックすれば別ウィンドウが開き、原寸でごらん頂けます(別ウインドウのサイズは手動で調整してください)。
別ウィンドウは写真上でクリックすると自動で閉じます。
about 京都クルーズ
本丸はこちらです。


カテゴリ
検索
以前の記事
タグ
その他のジャンル
最新の記事
京都景観賞
at 2014-02-23 23:05
仁丹町名看板「下椹木町通千本..
at 2014-02-21 19:58
レプリカ仁丹
at 2014-02-19 14:18
曾根崎心中・道行き(通釈)
at 2014-02-15 01:07
曾根崎心中・道行き
at 2014-02-13 05:15
漢字の読み方
at 2014-02-11 06:03
鬼めぐり
at 2014-02-08 14:26
鬼の話
at 2014-02-05 23:22
献灯の刻名 ~山国隊(6)
at 2014-01-31 23:29
葵公園
at 2014-01-29 02:24
山国隊スタイル ~山国隊(5)
at 2014-01-22 21:34
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
at 2014-01-20 23:17
桜色?
at 2014-01-18 23:39
戊宸行進曲 ~山国隊(3)
at 2014-01-16 20:50
雪の木の根道
at 2014-01-12 16:55
山国隊灯籠 ~山国隊(2)
at 2014-01-09 19:01
山国隊(1)
at 2014-01-07 22:03
祇園閣・京都タワー・時代祭 ..
at 2014-01-04 03:43
時代祭、大いなる仮装行列 ~..
at 2013-12-30 16:58
本物でないということ ~キッ..
at 2013-12-28 15:48
なんとなく四字熟語
推奨ブラウザ
・Mozilla Firefox
・Google Chrome
・Opera

インターネットエクスプローラではコンテンツの一部が正確に表現されない可能性があります。
カテゴリ:京都本・京都ガイド( 240 )


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
2014年 02月 08日
鬼めぐり
鬼の話にふれたついでということで、街歩きツアーでの鬼巡りをするとすれば、どんな感じだろう。絶対に外せないポイントで挙がるのは一条戻り橋である。有名すぎるとかなんとかの声が出るかも知れないが、晴明神社とセットにしての一条戻り橋、これは目玉商品にせねばならない。

次に挙げるとすれば、北野天満宮である。前回の文章でも紹介したように、渡辺綱vs茨木童子で、茨木の腕を切り落としたあと、綱が落っこちた場所が北野天満宮であり、境内には渡辺綱が奉納したと伝わる灯籠もある。また朝比奈義秀伝説だろうか、鬼との力くらべをモチーフにした絵馬が絵馬所に掛かっていることも忘れられない(参考までに)。さらにいえば、鬼の範疇を魔物全般にひろげるのなら土蜘蛛塚が楼門前の境内摂社あるのも要チェックである。ほかの有名スポットを加えるには、距離的な問題がネックになってしまうので、天神さんと晴明神社・一条戻り橋を軸にするのがベターである。そしてこの二つをつなぐのに、百鬼夜行の通り道、一条通を使えばOKである。

あと補足的な肉付けで、大内裏それ自体が鬼スポットであったことを念頭において、千本丸太町上ルの「大極殿址」、さらに千本出水西入の「宴の松原」といったあたりを加えておく。そして平安京の全体像をあらかじめチェックするという意味で京都アスニー内の平安京創生館に展示されている「平安京復元模型」。これらをずらっとつないでみれば、コースとしてもまとまりが出てくるはずである。つまり、こんな具合に。

1・平安京創生館(スタート)
    ↓
  丸太町通(経由)
    ↓
2・大極殿址
    ↓
  千本通(経由)
    ↓
3・宴の松原
    ↓
  七本松通・御前通(経由)
    ↓
4・北野天満宮
    ↓
5・一条通(経由)
    ↓
6・晴明神社・一条戻り橋(ゴール)

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-02-08 14:26 | 京都本・京都ガイド
2014年 02月 05日
鬼の話
鬼の話を少しばかり。というのも節分会の行事のいくつかを見ておこうと思いつつ行きそびれてしまい、結局どこへも行かなかったから。もう少し正確にいうと、ちょっとした勘違いから、大空振りをしてしまったから。

ターゲットにしていたのは吉田神社の方相氏だった。吉田神社の節分会では節分前日の追儺式に鬼が登場、続いて方相氏が登場する、というところまではきちんと事前にチェックしていた。ところが何を勘違いしたのか、追儺式の時間と節分の日に行われる火炉祭の時間とを間違って覚え込んでいた。追儺式は2/2の午後6時より、火炉祭は3日の午後11時より。お目当てのイベントが行われるのが2日であると考えるところまではよかったのだが、時間を間違っていたので2日の10時過ぎにのこのこと出かけていくというお粗末をやらかしてしまったのである。人気のイベントの割には人出が少ないなと思いつつ、気がついた時にはすでに後の祭り……、それで嫌気がさして、次の日の2/3はどこにも出かけずお終い。

それでも、あとで調べてみて分かったのだが、30分や1時間の余裕をもって出かける程度では境内にも近づけないらしい。そもそも吉田神社の境内が狭いというのが最大の原因なのだが、10時過ぎにのこのこというのでは最初から×だったと慰めるしかなさそうだ。

とヘマ談義はこのくらいにしておいて、鬼の話である。といっても新しく書くものではなく、実は以前に頼まれて書いたものである。「京都の鬼をあれこれ紹介したい」という形での依頼だったはずだが、没になったのか、実際に使われたのかさえ聞いていない。書きっ放しというのもアレなので、とりあえず「再掲」ということにしておく。
--------------------------------------------------------


【はじめに】
 桓武天皇によって平安京が造営されたのは、西暦794年のことでした。以来、京都は政治と文化の中心地として輝きを放ち続けます。しかし、都に暮らす人々が作り出したものは、雅という言葉で括られる明るいものばかりではありませんでした。生活のすぐそばにあるおぞましいもの、おどろおどろしいものをも紡ぎだしていたのです。まばゆい光のもとでは見えないのに、ひとたび日が沈み、夜のしじまがあたりを支配するようになったときにうごめき出すもの、それもまた京都という巨大都市が生み出したものでした。そんな目に見えないものに対して、人々は一つの名前を与えました。平安時代の学者、源順は、それは隠れるという文字、オンが訛ったものであるといいます。姿を現さないように隠れているところからそう呼ばれるようになったのであると。そう、鬼です。
 昔の人々は、目に見えないはずの鬼たちの姿を、ときには物語の文章に、ときには絵巻物の上に書きとどめました。そして鬼たちが現れる場所をさまざまに伝えてきたのです。そうした鬼スポットをめぐってみてはどうでしょう。それもまた、京都を知るための切り口です。怖くないかって? さあ、どうでしょう?、明るい昼間に訪れるのなら、たぶん大丈夫なんじゃないでしょうか。でも鬼スポットへ行ってみて、変なものを連れて帰るようなことがあると……、その先は言うのを止めておきましょう、言葉にすると本当になるということもありますので。ともあれ、昔の人々が見てしまった百鬼夜行、魑魅魍魎の世界をちょっと覗きにいってみましょう。


【1 一条戻り橋】
 京都の鬼スポットとして、つとに有名なのは一条戻り橋でしょう。一条通が堀川を越える場所にあるこの橋は、現代の京都を基準にすると、交通量の多い堀川通の喧噪に紛れて見落としてしまうくらいちっぽけな存在です。しかし、平安時代の戻り橋は実際の大きさとは別の重みをもって意識されていました。京の北の端にあること、目に見える境界線である堀川を越えること、そして宮廷からみて丑寅の方角にあること、これらの理由から異界との通路であるかのように感じられていたのです。都市の規模が膨張することで町並みに飲み込まれたとしても、この橋の周辺では不思議な噂が語られるようになっていたのです。
 たとえば、こんな話があります。十世紀の初頭、朝廷では三善清行という宰相が活躍していました。その清行が亡くなった折、息子の浄蔵大徳は、修行に出かけていて親の死に目に会うことができませんでした。浄蔵がそれを悲しんで祈ったところ、棺の中から清行が蘇って親子の別れを果たしたといいます。そして、この奇跡の起きた場所が一条戻り橋であり、「戻り橋」の名前は、宰相のよみがえる故であると伝えられているのです。また十一世紀の歌人、和泉式部には「いづくにも かへるさまのみ わたればや もどりばしとは 人のいふらん」という歌が伝わっています。帰り道にだけ渡る橋だからだろうか、みんなは戻り橋と呼んでいるようだ、というこの歌からは、当時の人々が一条戻り橋に抱いていた思いを感じとることができるのではないでしょうか。この他に、戻り橋で百鬼夜行に遭遇した男の話や、安倍晴明が戻り橋の下に式神を隠していろいろな術に使っていたという話など、戻り橋にまつわる伝説は、数え切れないほど伝わっています。
 しかし、多くの伝説の中でも、とりわけスペクタルに富むものといえば、渡辺綱と茨木童子の対決です。時は十一世紀、源頼光という武人がいました。頼光と聞いただけで鬼神たちも怯えたという剛の者でした。頼光の家来には、四天王と呼ばれる武士たちがおり、その筆頭に挙がるのが渡辺綱です。ある夜、綱が主人の使いで一条大宮に出向いた、その帰り道のことでした。綱が戻り橋に差しかかったところ、年の程二十歳くらいの女がたった一人で歩いていました。時が時なら、場所も場所、不審に思った綱が声を掛けると、女は送っていって欲しいと言います。綱の方も、そのつもりで声をかけたので、軽く応じて女を馬に乗せます。しかし、しばらく歩んでいたところ、女はいきなり鬼の姿となり、綱の髻を掴んだのです。そして「わが行くところは愛宕山ぞ」と叫んだかと思うと、天空へと駆け上がりました。髪をつかまれたまま空中へ連れ去られた形になったのですが、そこは頼光がもとにその人ありと言われる渡辺綱です。たまたま主人より預かっていた伝家の宝刀、髭切を一閃。すると綱のからだは北野天満宮の上に放りだされたのです。そうして地上に降りたってみると、髻には髪をがっしりと握りしめたまま、どす黒い鬼の腕がぶら下がっていたといいます。
 この話には後日譚があります。腕を切られた鬼は綱の養母に化け、ふたたび綱の前に現れては、まんまと腕を取り返しているのです。さながら痛み分けとなった形なのですが、平家物語などに語られるこの戦いは、そののち御伽草子「酒呑童子」にも取り込まれます。そこでは、かつて都で綱と渡り合ったのは茨木童子だったと名が明かされ、酒呑童子が頼光に討ち取られた後、猛り狂った茨木童子が「主を討った奴らに我が力を見せてやる」と叫ぶと、「貴様の手の程は先刻承知」と綱が応じて、三たび相まみえる様子が描かれています。宿命の対決を繰り返すこととなる渡辺綱と茨木童子、時代が下ると歌舞伎や新劇などの舞台、あるいは小説や現代のマンガなどにも再生産される二人の関係は、この一条戻り橋から始まっているのです。

【2 宴の松原】
 さて、鬼スポットの代表格である一条戻り橋ですが、宮廷からみると、ほんの近い場所でした。宮廷の東の端が大宮通ですから、二筋ほど、現代風にいえば二百メートルそこそこの距離です。平安京が造営された頃は北の端だったのですが、人家がさらに北へ東へと拡張していったからです。これは宮廷の目と鼻の先で鬼たちがうごめいていたことを意味しています。しかし、それだけではありません。鬼たちは実は、宮廷の中へも入りこんでいたのです。今昔物語集が伝える、一つの事件をお話しましょう。とある役人が朝勤めの政務に出向いた時のことです。夜が明けきる前に出勤するきまりでしたが、その日はいつもよりすこし遅くなってしまいました。通用門のところには上役の牛車がとまっており、すでに出勤しているようです。急いで庁舎の建物に入ってみると、火も灯されていなければ、人の気配もありません。不思議に思って、人を呼び、灯りを点けさせてみると、床の上には血まみれになった頭髪がところどころに散らばっていたのです。扇や沓など、その上役の身の回り品も血に染まった形で近くに残されていました。当時の人々は、鬼に喰われたのだろうと噂したとのことです。庁舎の中においてでさえ、こうしたことがおきるのですから、宮廷の中といえ、もっと人気の少ない場所になると、さらに奇怪な出来事があります。国家の歴史書として公式に編纂された書物にも、こういう記録が残されています。光孝天皇仁和三年八月十七日のこと、武徳殿の東側、宴の松原と呼ばれる場所を三人の女房が歩いていたところ、松の木陰に見目かたちの麗しい男が立っていました。その男は、女の一人を誘って木の陰へ連れていったのですが、しばらくしても戻らない、それどころか物音も消えてしまいました。残りの二人が様子を窺いにゆくと、女の腕と足が地面に落ちていたのでした。警護の者たちが改めて探しても頭とからだは見つからなかったとのことです。この出来事は、のちの時代の説話集にも引き継がれ、宮廷内の鬼スポット「宴の松原」を名前を決定づけています。なお現代では、千本通出水の交差点を西へ入ったところに、小さな石碑が当時の場所を伝えているにすぎません。

【3 貴船神社】
 こうした宴の松原の人喰い鬼のように、その素性がわからないものに対して、生身の人間が鬼と化した話もあります。京の奥座敷こと、洛北は貴船を舞台にした謡曲「鉄輪」は、信じていた夫に裏切られた女が悲痛な思いを抱えて貴船神社に詣でるところから始まります。「あまり思ふも苦しさに、貴船の宮に詣でつつ、住むかひもなき同じ世の、中に報ひを見せたまへ」。男に対する恨み言はおのずと呪いの文言へと変わってゆきます。それを聞きつけたのか、貴船神社で告げられたのが、頭に鉄輪をいただき、その足に火をともして祈れば、呪いは果たされるだろうとのお告げでした。浅ましい心を恥じた女は、それは自分のことではありませんと否定したものの、顔色は赤みを帯び、髪は逆立ち、すでに鬼の姿となっていたのです。そして口をついて出た言葉は「恨みの鬼となって、人に思ひ知らせん」でした。丑の刻詣りとか、呪いのわら人形とかの形で世に広く知られているのは、丑三つ時、午前の二時過ぎに、憎い相手に見立てたわら人形を杉の木に釘で打ちつける呪術行為です。しかし、その作法を少し詳しく言うと、頭に鉄輪を逆さまに載せ、その足に蝋燭を結わえ付けるとか、赤い顔料で顔を染めるとかのことが含まれています。それらは、謡曲「鉄輪」に描かれた、神のお告げと重なっています。貴船神社は、賀茂の水源を守る水の神として古くから朝廷の篤い信奉を受けてきた神社です。しかし、室町時代のあたりからでしょうか、呪いの丑の刻詣りを行う場所としても、その名をとどろかせるようになっていったのです。
 謡曲「鉄輪」によれば、鬼となった女は、もとの夫を呪い殺そうとしますが、安倍晴明によって調伏されることになっています。近世になると、このストーリーに尾鰭がつき、呪い返しを受けた女が苦しんで身を投げたという井戸も語り伝えられるようになりました。堺町通松原を下がったところにある鉄輪井がそれです。現在では水も枯れているのですが、かつては縁切りに効き目のある霊水としても知られていたといいます。

【4 宇治橋】
 ところで、「鉄輪」の鬼には、そのモデルとされる鬼がいます。「宇治の橋姫」と呼ばれる鬼女です。橋姫は、古くは橋を守る女神に対する呼び名でした。十世紀の初頭に成立した古今和歌集や、十一世紀の源氏物語では、男の訪れを寂しく待つ女のイメージとして橋姫が呼び出されていましたが、時代が下がるにつれて違った姿で描かれるようになりました。平安時代末期にまとめられた和歌の手引き書には「橋姫の物語」として、このような話が紹介されています。ある男が二人の妻をめとっていました。最初の妻が病の床についた時、男は妻の求める七色の海草を探しに出かけます。ところが男はそのまま行方知れずとなり、帰ってきませんでした。男を探していた妻が、浜辺のとある小屋に泊まった夜のこと、「さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫」と歌いつつ、消えた男が姿を現したのです。そうして自分は海の神にさらわれたのだと、帰れない事情を話して一夜をともにするのですが、夜が明けると男は再び消えてしまいます。その話を伝え聞いた二番目の妻は、同じように浜辺の小屋で男を待ちます。すると同じように「衣かたしき」の歌を歌いつつ、男が現れるのですが、二番目の妻は男の心変わりを詰ってつかみかかります。すると、その瞬間、男の姿も浜辺の小屋もたちどころに消えてしまったのでした。この段階では、鬼こそ出てきませんが、女のうちの一人が嫉妬の炎にとらわれていることになっています。この炎は、平家物語の描く橋姫になるとさらに燃えあがってくるのです。すなわち、嫉妬に狂った女が貴船の神に、自らを鬼となして憎い相手を殺させて欲しいと祈るのです。そうして女は、頭には松明を結わえた鉄輪を乗せ、口にも松明をくわえて両端に火を灯し、その姿で都大路を駆けて宇治川に浸ること二十一夜、ついに本物の鬼となったのでした。そして平家物語は、これが宇治の橋姫であるというのです。ここに描かれた鬼女橋姫の姿が、「鉄輪」の女につながってゆくのは明らかでしょう。源流をたどれば、古今和歌集に詠み人しらずとして載せられている「衣かたしき」の歌になる孤独な橋姫だったのですが、中世にはいると、貴船神社に籠もり、炎をたぎらせつつ宇治橋を目指して駆け下る鬼女へと変貌してゆくのでした。

【5 老ノ坂峠】
 ここまで、いろいろな鬼を見てきたわけですが、現代のわたしたちが「鬼」といわれて一番先に思い付くのは、大江山の鬼こと酒呑童子ではないでしょうか。茨木童子を含め、赤鬼、青鬼、その他たくさんの鬼たちをたばねた首領、鬼の中の鬼、それが丹波の大江山を根城とした酒呑童子だったのです。それと同時に、源頼光とその家来の四天王によって退治され、頼光の武勇伝を際だたせる悪の代表にもなっています。そうした大江山の酒呑童子ですが、その拠点は丹波ではなく、洛西は老ノ坂峠付近だったという説もあります。中世の御伽草子では「丹波国大江山には鬼神の住みて」となっていて、それ以降に成立した物語や絵巻物、あるいは近代の唱歌でも鬼退治の舞台は丹波の国です。酒呑童子伝説を観光PRに活用する福知山市大江町の場合も、そうした流れをうけてのことでしょう。
 ところが万葉集の時代にさかのぼると、「丹波路の大江の山」は洛西の大枝、つまり現在の京都市西京区大枝のあたりと考えられているのです。洛西の大枝は、大きな枝と書いてオオエと読むので、サンズイのエで表される大江山の酒呑童子とは結びつきづらいのは確かです。それでも、老ノ坂峠が西国と山城をつなぐ古くからの交通路だったので、山賊集団の姿が酒呑童子のイメージになったのだとすれば、洛西説にも説得力が出てきます。また洛西の大枝に対して、サンズイのエを用いている文献があることも、こちらの説を後押ししているといえるでしょう。
 国道9号線や京都縦貫自動車道の通る現在の老ノ坂峠からは、昔の街道らしさは感じられませんが、道路を離れて山道に入ってみると、酒呑童子の首を埋めたと伝える首塚大明神が祀られています。伝えるところによれば、丹波の国で酒呑童子を討ち取った頼光一行がこの峠にさしかかった時、酒呑童子の首が突然重みを増して運べなくなり、仕方なくこの場所に埋めたとされています。大江山丹波の国説を前提にした伝説ですが、老ノ坂峠で酒呑童子伝説が語られるようになった背景には、なにがしかの意味合いがあるように思えてなりません。

【まとめにかえて】
 京都には、さまざまな鬼スポットがあります。今回ご案内したものは、その中のごく一部です。紀長谷雄が鬼から碁の勝負を挑まれたというのは宮廷の正面、朱雀門でした。また平安京の正門である羅城門も、鬼の出現スポットとして有名な場所です。これらについて、一つひとつお話をしてゆくとなると、おそらく時間はどれほどあっても足りなくなってしまいます。しかし、それは表面的には煌びやかに装われることの多い京都の歴史が、一皮めくってみるだけでその裏側に、底の見えない暗闇を抱えている証にもなるのではないでしょうか。コワいもの見たさの気持ちからでも、それをほんの少し覗いてみるのも、面白いことでしょう。ただ、くれぐれも注意してください。本当の鬼には、けっして出会わないでくださいね。

a0029238_2326416.jpg

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-02-05 23:22 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 31日
献灯の刻名 ~山国隊(6)
山国隊による献灯の件、少し補足。

先に紹介した折(参考まで)、「『隊員名を刻んだ』とあるが、これについては詳細不明」と書いた。このほど改めてチェックする機会があったのだが、確かによくよく確認すると下から二段目の台座に文字らしきものが刻まれている。しかし彫りがかなり浅いこともあって、文字として解読できるものは一字もない。そこに名前が刻まれていると指摘されれば分からなくはないが、自然に気づく類いのものではない。したがって、もし文字を認めることができるとすれば「藤野斎」か「水口市之進」ぐらいはチェックしておこうという目論みは、むなしく崩れてしまった。いずれ機会を作って京北町の山国護国神社に行くつもりにしているのだが、その際に瑞垣に戦没者名が刻まれているという話なので、そちらの方で我慢することにしよう。
a0029238_2327737.jpg
灯籠の台座(下から二段目)。肉眼で見ればかろうじて漢字っぽいものがわかる程度

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-01-31 23:29 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 22日
山国隊スタイル ~山国隊(5)
“祭りの花形”というと、どういう存在を思い浮かべるだろうか。岸和田のだんじりで、あのだんじりの上で飛び跳ねるように音頭を取っている人は、まさに「花形」というに値する。しかし、同じように屋根の上に乗っていても祇園祭の屋根方は「花形」ではなさそうだ。曳手であったり音頭取の方がずっと注目されやすい。そもそも「花形とは?」と問いかけられるとすれば、目立っているかどうかというあたりが大切になってくるからである。さらにいえば、イベント全体の中での意義というか、位置づけみたいなものが、たとえ脇役であったとしても、目立っていさえすれば「花形」であるかのように思われてしまう場合もある。

たらたらと回りくどいことをいうのは止めて単刀直入に行こう。京都の時代祭についての話である。時代祭の花形といえばなんだろう。神事としての性格を重んじるのなら、神幸列の御鳳輦でなければならない。しかし、それに注目している観光客は、はっきり言って皆無である。ほとんどの人は先導する仮装行列に目を奪われる。そうして一番目立っている、もっとも注目されているという基準からいえば、先頭を進む「維新勤皇隊列」を挙げておけばいいだろう。中には江戸時代や中世の女性列、あるいはものものしい出で立ちの武者行列やコミカルな徳川城使列のパフォーマンスに注目している人もいるだろうが、多数決で決めるとすれば、勤皇隊列の方に軍配が挙がる。

そうすると、維新勤皇隊列は時代祭のシンボルであるとも言えるのだが、かの衣装については少々ツッコミがあってもいいだろう。というのは、時代祭の解説をするにあたって、黒の羽織と紺の袴が維新軍の標準であり、それを再現している云々といったルーズな説明も出回っているからである。勤皇隊列の目立ち方を思えば、勢い余ってそう言ってしまいたくなく気持ちは分からなくはない。しかし、もちろんのことながら間違いである。かの装束は、維新軍、正確には新政府軍または東征軍というべきだが、その軍に付き従った農兵隊の「山国隊」に由来している。そもそも新政府軍といっても、慶応四年(明治元年)の時点では新政府には正規軍はなく、薩長を中心とした諸藩の軍隊の寄せ集めである。実質的な行動は各藩ごとに指揮系統があり、兵の出で立ちは洋式の軍服が主流になっていたはずである。羽織・袴に胴巻きなどの武具をつけるのは、軍制改革ができていない旧式部隊のものであり、新政府軍というよりは、むしろ旧幕府勢力に多く見られたはずだ。

さて、こうした話を前提にして、前回の最後に触れておいた藤野斎『征東日誌』の記述である。
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。
山国隊の人々は士農工商の身分制度に当てはめれば農民なのだが、時代劇で固定的なイメージのもとに描かれがちな貧困層ではない。農村や山村に隠然とした支配力をもっていた名主階級、つまり富裕層である。出征の費用も自前でまかなうことができるぐらいの階級だったから山国隊という部隊も実現させ得たわけである。とはいえ、戦闘のプロでない以上、軍装は寄せ集め品が多かったらしい。因幡藩の指揮下に入ることで旧式銃が貸し与えられているが、上記の引用にあわせて注目したいのが隊の装束である。二月二十二日、藤野のもとに届けられたのは、隊の制服となるはずの注文品だろう。「『胴腹』『三才羽織』等」とあるうちの「胴腹」とは胴丸と腹巻つまり武具のことで「三才羽織」は三斎羽織か。「シヤモの仕立方」云々とある「シヤモ」は股引のような袴の一種らしい(参考)。これらを纏った姿は、洋式軍服と並べるとかなり時代がかったものに見える。日誌に続けて記されている「且つ不恰好なり。一同、大いに不満心なるも、やむを能わずして着服す」というのも、「こんな関ヶ原みたいな格好するのか?」とかいう類いの不満だったのではないか。

仲村研氏は、このくだりを「その晩、京都から胴腹、三才羽織などがとどき、隊員に配布されたが、仕立がわるく不恰好で、全員ぶつぶつ不平をこぼしながら着用した」とまとめ、その上で藤野が京都へ送った手紙を紹介している。そこには
(さりながら)(あつら)へ通リトハ一向粗末ナル仕立様ト申、約束トハ大ニ違ヒ、三才ノ袖ノ行短ク、夫々(それぞれ)一向不揃(ふぞろい)ニテ困リ入申候……
とある。仕立て方が雑だ云々だけでなく「それぞれ一向不揃い」だのといった文句も並べられており、考えていたものとの隔たりが途方もなく大きかったことが窺われる。想像するに、制服になるはずのこれら衣類は新しく仕立てられたというよりは、形の似たものを適当にかき集めてきた?みたいな感じだったのではないか。山国隊にはのちに「(さきがけ)」の文字をあしらった熊毛の陣笠が支給されている。これが山国隊のシンボルになると同時に、隊士はその陣笠を意気に感じていたらしい。しかし三斎羽織に股引のような袴を穿き、頭に熊毛の陣笠を乗せた姿は、見る者には滑稽にも映ったようだ。『征東日誌』の慶応四年四月十七日条には、
一隊彼黒毛陣笠ヲ着シ意気鷹揚然トシテ進軍。人見テ、ガワタロウ隊ト云リ
との記述がみえる。「ガワタロウ」とは河太郎、すなわち河童のことである。カッパ隊だと笑われたと記しているのである。

この山国隊スタイルがどの時点で義経袴に変わったのかは分からない。仲村研氏の『山国隊』には、日露戦争後まもなくの頃という集合写真が掲載されている。それをみればすでに裾の広い義経袴である。実戦面での都合を考えるとシャモの方が動きやすいように思えるので、あるいは時代祭参加にあたって見映えのする姿に改めたのかも知れない。仮に三斎羽織と義経袴の組み合わせが時代祭に合わせて用意されたものであるとすれば、その姿は歴史上のいずれかの時点を再現していることにはならない。さらにいえば、現在の時代祭に登場する維新勤皇隊列は、三斎羽織と義経袴だが、山国隊のシンボルだった熊毛の陣笠は被っていない。山国隊の奏楽を改めて戊宸行進曲を作ったのと同じように、忠実に山国隊を写すのではなく、新規に維新勤皇隊列なるものを編成するという意識が働いたのだろうか。もしもそうだとすれば、維新勤皇隊列は、三斎羽織と義経袴の山国隊に輪を掛けて歴史ばなれをした架空のものということになってしまうわけだが、そこまでいうのは言葉が過ぎるだろうか。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-01-22 21:34 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 20日
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
はるか遠い昔、京都の難読地名ネタで「一口」だの「上終町」だのを取り上げた記憶があるのだが、いわゆる難読地名はその難読度が上がるとネタとしての面白さが高まり、その結果、いろいろな形で紹介されることになる。そうすると、実際は難読でありながら周知の地名となって、難読度が下がる。いわばジレンマみたいな状況に立ち至るのである。たとえば北海道の「長万部」。知らないと「おしゃまんべ」とは読めないが、おそらく知らない人の方が少ないので、誰でも普通に「おしゃまんべ」と読む。そういった類いのことなのだが、そもそもこんな話を持ち出したのは、有名だから大抵の人が読めるはずの難読地名「各務原」に関連してのことである。

各務原。読み方は当然、「かがみがはら(かがみはら)」である。読み方の由来は古代の鏡作部(かがみつくりべ)にあることや、「鏡が『かかみ・かかむ』から『各務』となった」との説が、wikipediaに紹介されているのだが(「各務原市」のページ,2014.1.20現在)、要するに「鏡が原」が地名「各務原」の根っこにはあるようだ。と、こういった書き方をすると、周知のことをもったいぶって書いているようだが、予備知識をもたずに「鏡が原」という字面に出くわすと、聞いたこともないどこかのマイナー地名であるかのように思ってしまう。このところ、こだわっている山国隊関連の資料を読んでいた際、その「鏡が原」が出てきていたのだが、現実的な地理空間とは結びつかず、たらたらと読み流してしまったのである。そして、あとから「鏡が原」なる地名は謂われの一つ二つを持っていそうな気配だけどどうなんだろうという方向で調べ始めて、ようやく岐阜県の各務原と結びついたのである。
(慶応四年二月)廿二日。晴。六ツ刻発陣。河渡川大激流。洪水ニテ舟流レ、渡シニテ一隊々々ヲ渡ス。両岸ノ群人立錐ノ地ナシ。加納宿兵粮。新加納宿小休。此辺ハ安藤対馬守領地処、被召上尾州侯御預領地ト成ル也。此ノ間ニ鏡ヶ原ト言広野アリ。東西二里許、南北三里ト。中央ニテ野立陣休憩。近江不取敢、○赤心(マスラオ)の心を尚も磨き立鏡ヶ原にうつ里行人ト。鵜沼駅浅野彦右衛門本局泊。
『征東日誌』(仲村研氏・宇佐美英機氏編、S55年・国書刊行会)
山国隊のリーダー、藤野斎の日記『征東日誌』である。仲村研氏『山国隊』が紹介している隊の足跡は、基本的にはこの日記に準じている。二月二十二日に該当する箇所では「二十二日、晴、早朝出発。夜来の大雨で増水している河渡川の激流を渡り、加納駅で中食し、鏡ヶ原を通って鵜沼駅に宿陣した」とある。実は、仲村氏の文章を読んだ段階では「鏡ヶ原」にはまったく注意が向かなかった。それでも、この直後に出てくる装束についての記述が気になっていたので、原文との対照を試みたのである。

するとどうだろう、直後の装束関連もさることながら、鏡ヶ原に触れる箇所が何となく面白げである。一番、気になったのは、このくだりで送り仮名がひらがなになっている点。『征東日誌』の文体は訓読調の仮名交じり文で、送り仮名はカタカナなのだが、このあたりではひらがなが用いられている。深く考えずに読み流していて、なんだろう?と不思議に思ってしまったわけだが、改めてゆっくり読み直すと「そこで一首」といった感じのようだ。要するに藤野が和歌を詠んでいるのであり、和歌の言葉を地の文と区別するために送り仮名でひらがなを使っているのである。
赤心(マスラオ)の 心をなほも 磨き立て
鏡ヶ原に うつりゆく人
移動する意味の「移る」に「映る」を掛けて、さらに「磨く」「映る」「鏡」を縁語仕立てにするなど、修辞も利かせている。内容的には、後の時代の壮士調というか、いきり立っている感じに満ちあふれているが、官軍の名の下に出征していることに気持ちも高ぶっているのだろう。

ほかにも、この加納宿から新加納宿のあたりでは、この地域がかつては安藤氏の所領だったのに尾州侯の預かりとなっている云々など、山国隊の行動とは直接的に関わらないエピソードにも触れられている。そうしたところにアンテナが反応して、そもそも「鏡ヶ原」とは?という形で調べてみたところ、「各務原」と出くわしてしまった次第。

と、余談が少々長くなった。本題はこのくだりに続く、同日(二月二十二日)条の装束に関する記述である。前もって本文を挙げておく。
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-01-20 23:17 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 16日
戊宸行進曲 ~山国隊(3)
時代祭の鼓笛隊すなわち朱雀学区の維新勤皇隊を取り上げて「山国隊を模した」と書いたが(参考までに)、正確ではなかったようだ。山国隊の存在を知らない場合はともかくとして、時代祭の風俗行列について調べたことがある人なら山国隊から朱雀学区の維新勤皇隊へという流れがあることはわかっているはずである。京都検定の公式テキストを標榜する本*の記述を見れば「山国隊は現在の京北町からの奉仕であったが、明治三十五年から五年に一回の奉仕となり、大正十年から現在の朱雀学区が山国隊を継いで『維新勤皇隊列』に加わるとともに第八社となった」とある。仲村研氏の『山国隊』でも、冒頭で「毎年十月二十二日、秋の日ざしをあびて、京都の都大路をねりあるくのは時代祭の行列である……必ずその先頭を切るのは、例の『錦の御旗』をいただいた山国隊である」と書き出しておき、復活版の山国隊が時代祭への参加を辞退するに至る流れのところで「けっきょくのところ、京都市内に新山国隊を結成し、代役をだすことで解決した」と記す。
(*)初版第四刷、『京都・観光文化検定試験公式ガイドブック』(森谷剋久氏監修・京都商工会議所編,淡交社,2004年)は第一回検定が実施された時に刊行されたものだが、内容の間違いや誤植が数多く指摘された。この時代祭の記述については訂正情報は出ていない。

こうした説明を見れば、旧山国村から出張していた復活版・山国隊をコピーするように、装束や軍楽を継承したと思ってしまうのは当然かも知れない。しかし、厳密にはそのままのコピーが行われていたとは言えないようなのである。装束についてはかなり忠実に再現されているのかも知れないが、少なくとも軍楽については整理しておかねばならない。

京都府立資料館に『山国隊軍楽の謎と維新勤皇隊軍楽に連なる音楽』(仁井田邦夫氏著・刊、1986年)と題された小冊子が保存されている。それに昭和二年頃に「元京都女子音楽学校長 奥村静」**という方が勤皇隊理事に宛てて書いた手紙が掲載されている。
近歳は山国隊の曲を模楜せし曲を行進に使用然る時は山国隊の支部と名誉ある勤王隊を下落せしめてあるは如何なる事情あるは○(1)維新勤皇隊として貴学区(2)名誉と洪誉り(3)とする作曲がありながら山国隊を模写せしか預って(4)要領を得(5)是には(6)種々苦心あるは貴学区の名誉となるべき御話も多く有るは御尽考として申上侯……
(1)不明,(2)は,(3)不明,(4)預て,(5)不明,(6)是れに
手紙の原版に加えて、その翻刻と現代語訳も載っているのだがいくぶん不審な箇所がないでもない。上記引用は手紙の主題に触れる部分の翻刻で下線部が翻刻の疑問箇所。そして、このくだりの解釈は「近頃山国隊の曲を真似て行進をしているが山国隊支部と名誉ある勤皇隊をバカにしているのは何故か。維新勤皇隊として朱雀学区には、ほこりと名誉ある曲がありながら、山国隊の真似をしている事についてなっとくがいかないとのことを聞いている。色々と苦心があると思いますが、貴朱雀学区にも名誉となるべき多くの話しも聞いております……」となっている。しかし、この解釈では奥村氏のところに不評のいくつかが届いており、それも含めて相談したい旨に読めるのだが、どうだろう。当方が考える限りでは、「近歳は~行進に使用」することが山国隊支部と勤皇隊をおとしめることになるようだが、貴学区ではどう思っているのか、という形で奥村氏ご自身の疑問がぶつけられているように思う。

手紙の前提として、この奥村氏が勤皇隊が組織されるにあたって、当時の市長代理安川助役より作曲の依頼を受けたという事実ある。それを踏まえれば、その曲が実際に演奏されていないことに対するクレームと読めばいいのではないだろうか。もっとも、この手紙を紹介するのは「山国隊より受け継いだ頃は、全て山国隊軍楽の真似をしていたようで大変悪い批判を受けている。次に挙げる、昭和2年頃に差し出したと思われる奥村静女氏 (ママ)からの手紙で、その当時の事がよくわかる」という文脈なので、山国隊以来そのままの楽曲が使われていることに対する不評が出ていたことを示す資料と解釈すれば、大きな問題にはならない。
(**)「京都女子音楽学校」および「奥村静」については未調査。上掲冊子では女性として紹介されているが、ここでは詳細不明としておく。

これを今回のテーマに引きつければ、現在の維新勤皇隊が演奏している楽曲は山国隊のものとは別の楽曲である、ということになる。そして、その曲というのは、この冊子に譜面も掲載されている「戊宸行進曲」というものらしい。現在の維新勤皇隊の演奏は「宮さん宮さん」であるとの記述も見かけることもあるが、トコトンヤレ節に品川弥二郎が詞を付けたとする「宮さん宮さん」とはかなり雰囲気が違っていて、そのアレンジでもない。奥村静作曲「戊宸行進曲」という、まったく別の楽曲のようなのである。

なお山国隊の中でトコトンヤレ節が歌われたこともあったようだが、それを演奏しながら凱旋をしたことは資料的な裏付けはなさそうだ。山国隊凱旋にあたっては、入洛時にも山国村に帰郷する際にも軍楽を伴っていたことは、藤野斎の『征東日記』からも確認できるにしても、曲の中身まで確定できるわけではない。ちなみに時代祭に山国隊が参加した頃に演奏していた楽曲というのであれば、山国隊軍楽保存会というところが継承するものがある。京北町の秋祭りとして行われている「山国さきがけフェスタ」で演奏されているのがそれかと思うのだが、当方はその演奏は聞いたことがない(これだろうか)
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-01-16 20:50 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 12日
雪の木の根道
a0029238_17225958.jpg


鞍馬寺奥の院、通称「木の根道」である。堅い岩盤によって木の根が地中に入ることができず云々との解説が多くのガイドブックにも紹介されているところなのだが、この木の根道へは雪が降ったあとはぜひ訪れておきたい場所である。木の根がただでさえ奇妙な文様を描いているのに加えて、その上に雪が置かれることによってコントラストが引き立てられるからだ。

9日の夜に降雪があり、翌10日は金閣寺も雪化粧といった報道がなされていた。そして11日からの3連休は冷え込むとの天気予報。というわけで11日に木の根道へ入って撮ってきたのが上の1枚。

木の根道へ行くのはこれが最初ではないし、降雪を見計らって訪れたこともある。しかし「ちょうどいい感じ」には巡り会えていない。3年前の正月などは雪が多すぎて真っ白け。木の根が全部雪に隠れてしまって、元も子もない。それに比べると、今回はまだ積雪が少ないのは山門をくぐる時点から明らかだったので期待はしていた。しかし、結果からいえば、まだ少し多すぎたようだ。もう少し黒い部分が目立っていた方がよかったか。結局、見映えという点では、ほんの気持ち程度白いものが上にのっているぐらいがいいようだ。

ちなみに、こちらが3年前の正月。
a0029238_16491970.jpg


参考までにこちらもどうぞ


【おまけ】
a0029238_17115293.jpg

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-01-12 16:55 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 09日
山国隊灯籠 ~山国隊(2)
a0029238_18442779.jpg

山国隊が奉納した灯籠である。4段重ねの台座の一番上に「山国隊」と大きく刻まれている。北野天満宮に山国隊の灯籠があることは、かねてより聞いてはいた(「京都の映画文化と歴史」)。しかし、それが境内のどこにあるのかは知らなかった。探すには探してみたのだが北野天満宮である。灯籠は無数にあるといっていい。一の鳥居から楼門を経て、三光門の前あたりまでは一つずつ見ていたのだが、見つからないものだから諦めていた。それが、仲村研氏の『山国隊』を読んでいると詳しく紹介されているくだりがあり、初めて実物を見ることと相成ったというわけである。
北野天満宮と山国隊
明治二年元旦の早朝、山国隊は北野天満宮に参拝した。隊員にとってはなつかしいところである。東征準備のため、この近辺にある椿寺前の茶畑ではげしい調練を繰りかえしたが、その往反にはかならず天満宮へ敬礼をして行ったものである。出陣がきまったとき、武運長久を祈願したのも、この天満宮であった。
 正月二十九日に藤野らは千燈を奉納した。十人の奉納者のなかに「牧野家内」の名があり、この人が牧野省三の母親であることはまちがいない。こののち二月五日(ママ)、八十六両を投じて隊員名を刻んだ石燈籠を同宮に奉献したのは、大願成就のお礼の意味であった。今日でもこの石燈籠は天満宮北西のすみにひっそりと立っている。
『山国隊』(仲村研氏,学生社,昭和43年)
仲村研氏の『山国隊』は、写真をカットする形で中公文庫にも入っているのだが、今回は図書館から借りてきて初版の学生社版で読んでいる。学生社版の方には石灯籠の写真も添えられており、そのキャプションには「北野天満宮本殿北西隅にある山国隊の献燈」とある。山国隊の灯籠の件を初めて知った「京都の映画文化と歴史」を改めてみてみると「北野天満宮の境内奥に」となっているので、一の鳥居や楼門まわりは最初から無視しておいて、いわゆる「奥」の方から探せば見つかったのかも知れないが、ともあれ「本殿北西」とピンポイントで教えてもらって、ようやく実物にたどり着けた。

ところで石灯籠が奉納された日だが、仲村氏は「二月五日」と記している。ところが灯籠には「二月念五建之」と刻まれている。そして図書館で借りてきた本には、ご丁寧に「明治二己巳歳春 二月念五建之 念=廿である」との書き入れがなされている。確かに「念」には「廿」の意味があるのだが、以前にこの本を読んだ方が現地で確認して書き込んだのだろう。なお「隊員名を刻んだ」とあるが、これについては詳細不明。台の一段目か二段目あたりにあって摩滅していたのだろうか、現地では見ることができず、撮ってきた写真でもよくわからない。

[正面(東側)]常夜燈(棹) 山国隊(台)
[右(北面)]明治二己巳歳 春二月念五建之(棹)
[左(南面)]御師 森川勘解由(棹)
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-01-09 19:01 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 07日
山国隊(1)
仲村研氏『山国隊』(学生社,昭和43年)。キッチュ論議の中で時代祭に触れた流れからこの本を手に取ってみた。

時代祭の風俗行列、その先頭を歩くのがお馴染みの鼓笛隊である。正式の名称は「維新勤王隊列」というのだが、この行列が深く関わるのが「山国隊」である。黒の羽織に紫紺の袴、時代祭の写真といえばコレとなるくらいにシンボリックな存在に思われているこの行列が再現するのが山国隊の姿である。しかし、他の風俗行列とは同等に扱うわけにはいかない。偽物であるという点では他と同じであったとしても、「本物」の延長線上にあるのである。

他の風俗列、たとえば徳川城使上洛列や江戸時代婦人列を見てみよう。これらは装束の上では考証に基づいての正確な再現がなされている。しかし江戸時代に幕府より朝廷へ派遣されていた実在の城使、あるいは出雲の阿国や和宮らのご本人らとのつながりが云々されるとすれば、そういう要素は当然ながら微塵もない。その他、豊公参朝列や織田公上洛列、あるいは室町幕府執政列や楠公上洛列等々を取り上げても事情は同じである。それに対して維新勤王隊列は、明治28年に時代祭が始まった時点では、新政府軍による旧幕府勢力征討に従軍していた人々やその係累が参加しており、名前もそのまま「山国隊」だった。

山国隊とは山国村(現在の右京区京北町)で組織された農民兵の部隊であり、時代祭の山国隊は、平安講社の呼びかけに山国村が応じて従軍部隊を再現、参加させたものである。鼓笛の演奏は、錦の御旗を掲げて帰村した時の模様を再現するものだったとのこと。ところが経済的な負担その他の事情から山国村では毎年継続的に派遣することが難しくなり、隔年にするとか五年ごとにするとかの協議がなされ、最終的には完全に代役に任されることになった。したがって朱雀学区の人たちが演じる現行の維新勤皇隊は山国隊の偽物だが、他の風俗行列とは違って本物と接点を持っているのである。神幸の本列(神幸列)に供奉する白川女献花列には、白川女保存会が直接携わっている。実物ではなくても当事者が関わっている点で本物に準ずるとすれば、山国村から派遣されていた頃の山国隊はそれと同じ性格を持っていたといえる。そうして装束や楽隊の演奏などを、その本物に準ずる山国隊から引き継いでいるのだから、朱雀学区の演じる勤皇維新隊列は本物の延長線上にある……と言えなくはないはずである。

もっとも当方は上掲本を読み始めたばかりであり、山国隊の実像についても正しく理解できているわけではない。もしかするとあれこれ書いてわりには、とんでもない勘違いをしているかも知れない。しかしそれでも、いわゆる仮装行列との誹りを受けがちな他の風俗行列とは、その由緒からして違っているぐらい発言は許されると思う。
a0029238_21394459.jpg
山国隊を模した維新勤皇隊列の鉄砲隊と錦の御旗(2013年)

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2014-01-07 22:03 | 京都本・京都ガイド
2013年 10月 14日
峰の嵐か松風か ~大堰川の小督塚(5)
先の記事では、小督伝説の広まりには『平家物語』以上に謡曲「小督」が大きな力となったのではないかとの話を書いた。その中では、「峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か」という詞章がシンボリックなものであることにも触れたのだが、文言自体は謡曲「小督」が初出ではなく、『平家物語』にも登場する。
亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、片折戸したるうちに、琴をぞひきすさまれける。しばしひかへて聞きければ、まがふべうもなき小督殿の爪音なり。「楽はなにぞ」と聞きければ、「夫を思ひて恋ふ」とよむ「想夫恋」といふ楽なり。
新潮日本古典集成『平家物語』(中)より
伝本によって微妙に文言は変わっているようだが、「峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か」の部分に限定すれば、大きく変わるものではない。それもそのはずというべきか、新潮日本古典集成の頭注には、『和漢朗詠集』(*)にも載る本歌があるとの指摘がある。
(*)藤原公任が編集したアンソロジー。シチュエーションに応じて口ずさむべき詞章を和歌や漢詩から引いて紹介したもの。現代でいえば、スピーチ用のカッコいいフレーズやここ一番での口説き文句をまとめたアンチョコ本みたいなもの。
もっとも、『朗詠集』の「管弦」セクションに「琴のねに峯の松風かよふなりいづれのをよりしらべそめけむ」が載るのは事実だが、この本歌が直接的に広まっていたかどうか。むしろ『平家物語』に取り込まれることによって、さらに謡曲「小督」の詞章として切り出されることによって、「峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か」の形で人口に膾炙したとみるべきだろう。

「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」の広まりを実感させるのは、この詞章が黒田節の歌詞となっていることを挙げれば十分である。福岡県の民謡で「酒は飲め飲め、飲むならば~」で始まる有名な曲である。この「黒田節」は福岡男児の猛者ぶりを歌ったものと思われがちだが、そうした理解が通用するのはどうやら一番だけのようだ。一般に紹介されている歌詞(たとえば)をみても、二番が「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か 駒をひかえて聞く程に(駒ひきとめて立ち寄れば) 爪音つまおとしるき(たかき)想夫恋そうぶれん」となっているので、酒豪ぶり猛者ぶり云々とは結びつかない。このあたりは、いわゆる「博多民謡・黒田節」なるものが世間に紹介された経緯と関わるらしく、黒田節と命名されたのは福岡地方に伝わる複数の俗謡を一曲に整理した結果だったようだ。その一番に据えられた「酒は飲め飲め飲むならば~」ばかりが有名になり、そのイメージが全体を代表するようになっているが、「峰の嵐か松風か」は他ならぬ小督伝説の詞章であり、他にも『平家物語』月見の段に引かれている今様が歌詞に取り入れられていたりする。ここから窺い知れるのは、要するに「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」の詞章が独立した今様として切り出されていたということである。それが九州にも伝播して在地の俗謡化していったのだろう。

すこし話が脱線してしまったが、小督伝説は「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」の詞章によって広く知られるようになっていたのは確かだろう。オリジナルである『平家物語』の文章として親しまれていただけでなく、謡曲「小督」の中でも“謡われ”ていたはずだから、長唄や小唄といった謡い物にもそれ相応の影響を与えていたに違いない。そして謡い物がポピュラーな芸能・娯楽だった時代には、現代人が想像するよりずっと広い範囲で「峰の嵐か松風か」の詞章は口ずさまれたものと思われる。



プロローグ / 芭蕉の見た小督塚 / 小督桜/ 謡曲「小督」 / 峰の嵐か松風か
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-10-14 23:46 | 京都本・京都ガイド