Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 08月 20日
嵯峨野さやさや(1975) ~イメージの嵐山(8)
「嵯峨野さやさや」がリリースされたのは1975年である。1970~71年のあたりを京都歌謡の全盛期とみるなら、これも「雨の嵐山」(1977年)と同じく、遅れてきた京都歌謡といっていい。またリリースされた時にはそれほどのヒットには結びつかなかった点も共通している。この「嵯峨野さやさや」が広く知られるようになったのは、愛染蔵のイメージソングに採用されてテレビで盛んに流されたことによるものだろう。CMの放映開始が何年になるのか正確には調べていないが、たぶん1980年代の後半ぐらいかと思う。要するにはこの曲は今でこそ広く知られているものの、リバイバルヒットのような形で有名になったものである。

そんな10年遅れで注目されるようになったものを取り上げるのは、歌詞が秀逸を極めているからである。ここ数年のスパンで書かれたとおぼしき感想をたどってみても、この歌詞に対しては「本当に京都らしい歌です」といったコメントが少なからず寄せられているようだ。その手の感想は内容の適否を云々するものではなく、そうした反応を喚起しているという事実が大切なのである。つまり、イメージ裡に描かれた京都・嵯峨野を巧妙に歌詞へ吸い上げているのが「嵯峨野さやさや」であるということである。

あるいは、こういう評価も可能かと思う。それまで「an・an」や「non-no」を通して断片的にまき散らされていた、京都をめぐるポエム的な描写を、歌謡曲の詩という形で一つに集約してみせた、と。もう少し別な言い方をするなら、曖昧に拡散していたイメージを明確な言葉のもとに結晶させたということである。もちろん、こうしたポエム的なものがそのまま文芸的な意味での出来不出来と重なるわけではない。それでも商品としての完成度という見方をすれば、秀逸という評価には値する。そのあたりは、数多くの商用歌謡を手掛けてきた伊藤アキラの腕前といったところだろう。

もっとも、実際にヒットしたかどうかとなると、先にも触れたように不発弾に終わったようだ。だがそれは販促戦略等々、種々の巡り合わせによるものかと思われる。曲や詩の完成度が十分でもヒットするわけでなければ、その逆、なぜこんないい加減な歌が売れるの?といったことが起こるのも現実の世界である。ただ、10年ほど遅れたとはいえ、ひとたび注目を集めるようになると、詩の完成度=イメージの結晶度の高さはいやましにも強調される。遅ればせながらも「京都らしい」というコメントを集めるようになっているのも、そうした側面の現れではないだろうか。

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ところで、余談を少しばかり。80年代の前半か後半、あるいは90年代ぐらいにかけてテレビCMや有線を通してしきりに耳にしたものの、しばらく曲名が分からずモヤモヤ感に苛まされていた歌が3曲ほどある。今なら教えて系のサイトがたくさんあるので、そういったところに書き込めば即座に答えが返ってくるのだが、当時はそういうものもなく、座りの悪い感覚がずっと尾を引いていた。「嵯峨野さやさや」は、まさにそのうちの一つだった。愛染蔵のCMはよく目にしていたので曲は諳んじるぐらいになっていたが、肝心の曲名は不明だった。それが、とあるラジオ番組で紹介されたことをきっかけに「タンポポ」というグループ名が分かり、そこからすぐに曲名も導かれることとなった。これと同じように、かなり長い間、曲名不詳で耳の底にこびりついていたのがタンゴヨーロッパの「桃郷シンデレラ」。こちらは有線でよく耳にしていたが情報が得られないでいた。当方より少しだけ事情通の友人に尋ねたところ、「シンデレラの夢~」というフレーズがサビのところに出てくる云々といった流れから飯島真理の「シンデレラ」だろうとかの脱線もあったが、これもまたしばらくして何かの偶然でアーティスト名、曲名を知ることができた。

そしてもう一つがクリフ・リチャードの「幸せの朝」である。これは、どういう経緯があってのことかは知らないのだが、地元の中学校では伝統的に三年生になるとフォークダンスで踊らされるのがこの曲と決まっていた。学校の授業で強制的に踊らされるダンスなどにマジメに取り組むわけでもなし、当時は「幸せのなんとか」というタイトルでの英語の歌、その程度の理解だったのだが、80年代の終わりか90年代になってからかの頃に、某建材会社のCMで聞き覚えのあるその曲が流れたところからフラッシュバックが起きて、やたら気に掛かるようになってしまったのである。その後、時には意識の浅いところへ浮かび上がってくることもあれば、深いところへ潜ってしまうこともある等々を繰り返していたのだが、ネット経由での調べ物ができるようになってから曲名も確定されたという一曲である。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-20 03:51 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 19日
雨の嵐山(1977年) ~イメージの嵐山(7)
嵐山と嵯峨野のイメージを流行歌の世界から見るとすれば、触れておきたい歌が二曲ばかりある。一つは、長渕剛が黒歴史として自らのディスコグラフィから抹消した(?)との噂がある「雨の嵐山」(1977年)。もう一つはタンポポというフォークデュオが歌ったらしい「嵯峨野さやさや」(1975年)。

まず「雨の嵐山」(歌詞参照)から。この歌に注目するのは、嵐山を知らない長渕がイメージだけで歌詞を作ったことが窺える点である。長渕を悪し様にいう文脈ではよく取り上げられるネタのようだが、歌い出しの「雨の降る京都の嵐山を二人、息をきらしながらのぼり始めてゆく」の部分。ターゲットになるのは「嵐山」を「のぼる」場所として描いている点であり、解説風にいえば嵐山は地名であって山の名前ではないというツッコミである。嵐山は元来は山の名前だったとか、嵐山と名づけられた標高382mの水準点が存在しているとか、実はモンキーパークを目指していたんだろうといった逆ツッコミを認めたとしても、「嵐山にのぼる」というフレーズは特殊であり、平均的な京都の常識に照らせば実地を知らない者の言葉として片付けられる。1977年リリースの歌なので、いわゆる「京都歌謡」の全盛期からは少し遅れてはいる。それでも歌詞に京都の地名を入れておき、メランコリックな印象に仕上げておけば形になると考えられていた時代を引きずっているとすれば、こうした歌詞が"生産された"ことも理解できる。

もっとも歌詞の間違いを弄るだけでは揚げ足取りで終わってしまう。問題はそうした歌詞が書かれて実際にレコードが販売されたという事実の方だろう。レコード会社がルーズな体質だったとか、新人歌手だからケアがほとんどされなかったとか、妙な歌詞のままプレスされた原因はいろいろ考えられるのだが、状況判断を優先させると70年代後半には「嵐山」という地名がデートスポットとして一人歩きしていた風潮が影響していそうだ。しかも細かいところは抜きにしてイメージだけで語られるスポット、文字面での「嵐山」はすでにそんなスポットになっていたのではないかと思われる。また本来の嵐山が景勝地であることをセールスポイントにしていたとすれば、ここに登場する文字面の「嵐山」はすでにそれとは異質なものであることも重要だろう。実地の嵐山を知らずして書かれた歌詞なので細かいところをつついても意味がないのだが、嵯峨野との混濁の果てに生まれたイメージに導かれているようにも思われる。

この「雨の嵐山」は粗製濫造された歌謡曲の一つだったに違いない。後に長渕が有名になって、その幻のデビュー曲といった見方をされることで知る人も増えたとのことだが、本来は売れなければそのまま闇から闇へ葬られる一枚だった。そんなレコードに記された歌詞であるがゆえに、逆にイメージの普遍性を窺うこともできる。斉藤光氏が「『アンノン族の京都』から『彼氏と行く京都』へ」というエッセイの中で、雑誌「an-an」の誌上に書き捨てられたコピーを手がかりに、イメージの京都がどのように変わっていったのかを追求しているのだが、その手法に倣うとすれば「雨の嵐山」の歌詞に注目する必然性は認められる。本来であれば、世間の記憶に残ることなく消えてしまう運命にあっただけに時代の実情を伝えているようにも思えるのである。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-19 06:19 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 09日
祇園歌謡と京都歌謡 ~イメージの嵐山(6)
京都を歌った流行歌のなかで、1966年の「女ひとり」が指標的な意味をもつといった主旨のことを先に書いた。花街一辺倒だったそれまでの傾向を脱したという意味では画期的であるし、加えて"京都をテーマにした歌はこんな感じ"といった方向性を示したという意味で重要であると考えている。たとえ、そこで示された傾向が従来的は枠組み、すなわち"女の側からの満たされぬ恋物語"というところを継承するものだったとしても、である。

未練たらたらの恋情といっても、そうしたテーマだからこそ物語になるのであって歌になるのだといった指摘も大切である。脳内お花畑のルンルン系では歌になりにくいというのが前提であれば、「女ひとり」が示した方向性も、その意義を割り引かねばならない。しかし、京都の歌の代表格として現在でも口ずさまれているのが「女ひとり」や「京都慕情」(歌詞参照)だというのなら、それらに共通するイメージは強調してもいい。

ところで「女ひとり」は「にほんのうた」というシリーズ企画の中の一曲である。この企画が進められた時代、1960年代後半は地方への関心も高まりつつあった時代のようだ。実は、1970年に開始されたディスカバージャパンのキャンペーンが中央志向を転換させたと考えていたのだが、かのキャンペーンはすでに顕在化していた潮流に対してわかりやすい名前を与えたにすぎない、とするのが妥当な解釈のようだ。高度成長が一定のステージに到達し、人々の心にレジャーを考えるゆとりが生まれてきた時、その視線も東京のみに向かうものではなくなっていたのだろう。日本各地の旅情を歌う「にほんのうた」シリーズは、そうした動きを捉えたものだったように思える。

そこで、改めて「♪京都、大原、三千院~」の「女ひとり」である。非・東京の一つである京都に世間の眼差しが向かうのは時代の必然だったとしても、また歌詞が花街を離れる斬新さを見せたとしても、その歌詞を通して打ち出されたイメージが従前的な"祇園歌謡"を踏襲しているのが興味深いのである。ちなみに"祇園歌謡"とは当方の勝手な造語であり、花街を舞台にして舞妓の切ない恋心をテーマにしたものと定義しておく。そういった"祇園歌謡"の基調が「女ひとり」に継承されているということは、裏を返せば"祇園歌謡"が獲得していたイメージが強大だったことの証とも言えるし、結果から言えば、花街ならでは色恋沙汰を、大原や栂尾や嵐山など京都の観光名所に拡散させたとすることもできそうだ。そして、ひいては、その絵柄が歌の世界における京都のイメージになったのではないか。「京都慕情」ぐらいになると河原町だの桂川だの、観光地枠をも取っ払って京都市内の地名であればまずはOKであり、恋の哀しみを歌うという基調を踏まえていれば、一応の形になるとの判断で書かれているようだ。

1970年と71年は京都を歌う流行歌にとっても大きな転換期となる。「京都慕情」のリリースは71年だが、世の中ではすでにディスカバージャパンのかけ声が盛大に行われていた。ディスカバージャパンが始まったのが1970年10月。国鉄がキャンペーンをスタートさせたのが10/14でも、タイアップ企画である読売テレビ「遠くへ行きたい」は月初めより放送されており、毎日新聞日曜版のグラビアページ「アングル'70」のサブタイトルに「DISCOVER JAPAN」が入った1回目は10/4付けである。なお平凡出版が「an・an」を創刊したのが同年の3月でディスカバージャパンに先立つわけだが、同誌上で国内旅行が大きく取り上げられたのは71年になってからで、京都がクローズアップされたのは72年2月の47号になる(注)
(注)古本販売サイト「Re-Make/Re-Model」掲載の目次より確認。記事本文未見。an・anには創刊時より旅を取り上げるページがあったが「女性の海外旅行」という連載だった。71年9月発行の36号に「ユリとマリの軽井沢感傷旅行:夏のかげぼうし~詩:岸田衿子~」という記事が載ったのが国内旅行に目を向けた最初だろうか。

そんな70年と71年の空気を伝える一曲が「なのにあなたは京都へゆくの」(歌詞参照)ではないだろうか。「てんとう虫のサンバ」でその名前がほぼ永久に記憶されることになるチェリッシュのデビュー曲である。この歌詞に注目するのはサビで繰り返される「京都の町はそれほどいいの、この私の愛よりも」の部分。ベタな御託を並べるなら、比較する二つのカテゴリーが違いすぎないか?と首を傾げるところであり、穿った読みをすればここでいう「京都」とはストレートに都市名をいうものではなく、京都に暮らすもう一人の女の象徴云々とかの話になる。要するにヒット曲であるのは知っていても、よくよく考えるとワケの分からない歌詞ということなのである。

ところが、よく似た疑問は他の人も抱いていたらしく、教えて系のサイトに質問が投稿されていた(参考までに)。それに対する面白い回答があり、要約すれば、字面どおりの「京都の町」と「私の愛」との比較ではなく、「京都での暮らし」と「私と暮らす名古屋での生活」が比べられているとのこと、そして当時は"とりあえず京都へ行ってみよう"という風潮だったとのこと。実際の感覚がどうだったかはともかく、歌詞の中のフィクションで捉えればそういうことなのだろう。しかし、立ち止まって考えれば、そうした内容の歌詞が共感を呼んだことの方が面白く思える。もちろん「京都」という地名を塗しておいてメランコリックな印象に仕上げておけばOK、歌詞の厳密な中身など考えられていないんじゃないかという解釈もアリだが、歌は世に連れ人に連れというのなら、それが何となくといった次元であったとしても、京都への関心が高まっていた時代ということは言えるだろう。


<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-09 03:26 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 08日
哀しみの系譜 ~イメージの嵐山(5)
馬場俊明氏の「京都歌謡曲考現学」(「現代風俗'85」,現代風俗研究会年報・通巻9号,1985年)には、とある歌謡全集から抽出したものとして、京都を歌った歌謡曲が列挙されている。「できごと」「世相・風俗」「京都文学」との対比もできるように、年表形式にまとめられているのだが、ここでは発表された年次と曲名を抜き出してみる。
S28.祇園ブギ/S37.祇園姉妹/S38.舞妓はん/S39.お座敷小唄/S40.月の舞妓はん/S41.女ひとり/S42.京都の夜/S43.加茂川ブルース/S43.京都神戸銀座/S45.京都の恋/S46.京都慕情/S46.なのにあなたは京都へゆくの/S46.雨の夜京都に帰る/S46.春の舞妓/S46.京都から博多まで/S47.京のにわか雨/S47.木屋町の女/S48.泣いて京都へ/S49.京都ブルース/S49.ひとり囃子/S52.恋の河原町/S59.京都ろまん
これらのほかにも「男の夜曲」「京都ながれ花」という曲も挙がっているが、年代不詳とのことで年表からは外されている。また年表には含まれていないが、論文の中で歌詞が紹介されているものでは「祇園小唄」(S5)がある。

こうした形で歌謡曲を列挙したのは、イメージ形成の問題との関わりからである。このところ、嵐山や嵯峨野のイメージがどうやって作られ、どう変わっていったのかを考えているわけだが、嵐山に限らず、京都のイメージ形成に流行歌が大きく影響しているのは、よく指摘されている。何かのきっかけにイメージが作られ、そのイメージに沿った歌詞が後からさかんに作られたのか、流行歌によってイメージが過剰に増幅していったのか、そういったことも厳密に区別せねばならないが、京都を歌った歌謡曲は、他の地域に比べて多いというのは京都の特徴として指摘できるようだ。

ただし馬場氏の論文によれば数の多さでは東京が群を抜く。最初に東京と東京以外と区別してもいいくらい、圧倒的な多さである。東京の場合、おそらく土地柄を歌うという枠組みには収まらない別の要素があるからだろう。したがって問題は、東京以外の中でのことになるのだが、馬場氏の数え方によれば、東京のあとは大阪・北海道・長崎と続き、五番目が京都だとのこと。歌の選定基準も分からないし、対象地域の広さもあるだろうから、数だけでは論じられないのはいうまでもないが、広島とか静岡とか、その他の地方都市を考えた場合、京都を歌った歌は相対的に多いということぐらいはいえそうだ。もっともそういう言い方をするのなら、京都より長崎の方が特徴が際立ちそうだが、本題からズレるので触れないでおく。

さて、今回はイメージ形成という視点からの話である。そんな見方をすると、指標的な意味合いをもつのはデューク・エイセス「女ひとり」だろう(歌詞参照)。馬場リストの歌が京都を歌った歌謡曲のすべてではないにせよ、おおよその傾向を示すとすれば「女ひとり」以前では作詞家のまなざしは京都の街というよりは、京都の花街に向いている。そこにあるのは京都=祇園(含・先斗町etc)という認識である。それが「女ひとり」によって花街しばりから解放される。しかし強調してよさそうなのは、地域的にフリーになっても悲恋のイメージは依然として引きずったままであるということである。

ここで改めてS28「祇園ブギ」以下を眺めてみよう。挙がっている一番古いのがこれなのは困りものだが、悲恋のイメージを念頭においていると池眞理子「祇園ブギ」は例外である。歌詞を聞き取った範囲では徹底的に明るい。ブギだから当たり前で、笠置シヅ子『東京ブギウギ』、同『買物ブギー』あたりを引き合いにだしておけば分かりやすい。要するにああいう感じの曲である(後掲)。次のS37「祇園姉妹」。これがどういう歌でどういう歌詞なのかは確認できていないが、溝口映画「祇園の姉妹」の世界観に立っていそうな匂いがする。予想が正しければ明るい歌ではあるまい。花街のどろどろした因習がモチーフなのではないか。S38「舞妓はん」(歌詞参照)とS40「月の舞妓はん」は橋幸夫が歌ったシリーズで、ここに「花の舞妓はん」(歌詞参照)というのも加わってくる。「月の舞妓はん」は歌詞未確認だが、哀しい身の上話か、思いに任せぬ恋心か、そのあたりを扱っての同工異曲だろう。そして「お座敷小唄」(歌詞参照)。曲は底抜けに明るくても歌詞のモチーフは悲恋であるのはよく知られたとおり。以上、大ざっぱに流してみたところ、花街を舞台とした恋物語が歌のベースにあり、花街で生きるがゆえの哀しみを歌うものとまとめることができそうだ。リスト以外にも「加茂川夜曲」(S26,久保幸江)などは比較的知られた歌ではないかと思うが、そこでも花街の哀しみという大きな枠組みを窺うことができる。

昭和20年代~30年代がこうした傾向にあるとすれば、花街を離れた点で「女ひとり」は特筆に値する。また歌詞の主人公「恋に疲れた女」は和服を着てはいても舞妓芸妓と決める要素はどこにもない。それでも100%まったくの新種と考えることができないのは、恋の悲しみを引きずってきている点である。「京都」という響きがこの手の哀感を潜在的に併せて持っているのだろうか。というのも、この「女ひとり」は日本各地をテーマにしたシリーズ企画の中の一曲であり、最初から用意されているのは「京都」という地名のみだったからである。作品をどういう風合いに仕立てるかは、いずみたく(曲)と永六輔(詞)に委ねられていたわけだから、二人がその気になれば、例えば同じ「にほんのうた」シリーズの中で現代でも歌い継がれている「いい湯だな」のようなノリノリの雰囲気に持ってゆくこともできたはずだが、そうならずに「恋に疲れた女」の線でまとめられた。さしずめ「京都」という地名が要求する雰囲気に流されたといったところか。

こうして見てみると「女ひとり」は空間的には新機軸だったが、歌詞の内容を問うなら"祇園歌謡"の流れに囚われたままなのである。そして、そこへ主人公に少しずつアレンジを加えていくと、アンノン族時代に全盛期を迎えるいわゆる"京都歌謡"へと連なっていくのは想像に難くない。ということは、"京都歌謡"が歌う哀しみの祖先は、花街にあったといえそうだ。





    [祇園ブギ]
♪月は朧ろに東山
 ちょいと姐さん この辺は
 祇園狸がいるそうな
 可愛い舞妓はん化けてでる化けてでる
(セリフ)こんばんわ、へえおおきに
♪歌えブギ 踊れブギ
 祇園ブギウギ よいのさっさっさ

♪花見小路ででちょいと逢瀬
 鴨の河原のランデブー
 あとで?????????
 浮気するなら今のうち今のうち
(セリフ)すんまへん、かにんどす
♪歌えブギ 踊れブギ
 祇園ブギウギ よいのさっさっさ

♪恋と意地との色街に
 娘十八帯しめて
 ??が踊ればひも跳ねる
 面倒臭いこと嫌いどす嫌いどす
(セリフ)しんきくさァほっといて
♪歌えブギ 踊れブギ
 祇園ブギウギ よいのさっさっさ
ニコ動から聞き取り





<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-08 06:34 | 京都本・京都ガイド
2013年 07月 31日
初期段階のディスカバージャパン ~イメージの嵐山(3)
検証したいのは、ディスカバージャパンのキャンペーンが動き始めたときの、リアルタイムでの雰囲気である。チーフプロデューサーである藤岡和賀夫氏の回顧録的な文章はさまざまな形のものが目に留まるが、それがリアルタイムの意識であったかどうかは確証が得られない。たとえば、次のような文章がある。国鉄からのキャンペーン依頼を受けて会議が持たれたときの様子、
さっそく会議を始めたものの、出てくるのは「万博の代りに東北三大まつりを宣伝しよう」「4人がけのボックスシートを割引で売ろう」というありきたりな案ばかり。
 私は「旅」の意味に立ち返るしかないと思った。人間にとって旅とは何か。それは景色や事物を見ることではなく、それを見ている自分が何物かを知ることではないか。60年代を鮮やかに彩ったのはテレビの登場であった。だが、テレビにうつる風光明媚な景色を見ても、自己を発見することはできない。だからこそ「旅」の意義があるのだ。
 真っ先に思いついたフレーズは「ディスカバー・マイセルフ」、私自身を発見しようというわけだった。
『DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ』
(藤岡和賀夫編著,2010,PHP研究所)より
初出「ディスカバー・ジャパン仕掛け人」(文藝春秋2005年6月号)
このあと、英単語の認知度(当時)の関係などから「ディスカバー・ジャパン」が導かれ、補足的なサブタイトルの「美しい日本と私」が生まれた経緯が語られる。ディスカバージャパン誕生を語る重要な一文であるには違いない。しかし、これがリアルタイムのものだったかを考えるとどうだろう。

文章自体は2005年に書かれたものである。したがって回顧であることが大前提である。その点はやむを得ないにしても、キャンペーン依頼をうけての会議でいきなり抽象論が話題になったのだろうか。東北三大まつりや割引シートの件であれば十分に理解できる。それに対して藤岡氏は違和感を抱いたのだろう、求められているのはそうした具体案ではあるまいと。数回、あるいは数十回かも知れないが、何度も重ねられたはずの企画会議の総括しての文章であることを割り引いたとしても、現実に展開されたディスカバー・ジャパン、あるいは1970年代を語る時代のキーワード「ディスカバージャパン」との間には、まだまだ大きな溝があるように感じられる。

『DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ』という本が刊行されている。そこには回顧文も含め、興味深い資料が多く収録されている。その中の一つ、キャンペーン企画の「お寺の宿」に関する文章に次のような一節がある。
私はたじろぎましたね。彼のお説の通りなのです。もちろん、このキャンペーンはある意味ではイメージ・キャンペーンですから、敢えて方法論は求めなくてもいいという論法はあります。しかし、彼に指摘されるまでもなく、このキャンペーンをイメージ以上に確かな手触りで盛り上げるよい方法があるのなら、私はその方法論を探していた、と言っていてもよい。
初出『藤岡和賀夫全仕事・第一巻ディスカバージャパン』(1987年)
ここに登場する「彼」とは、「お寺の宿」企画の素案を持ちこんだ利井明弘氏のこと。キャンペーンが行われた時代よりおよそ15年後の文章だが、ディスカバージャパンがイメージキャンペーンだったと振り返っている点が興味深い。当初の会議では国鉄からのキャンペーン依頼に対して具体的な企画がいろいろ発案されたが、それらを統合するコンセプトが欠けていたところから藤岡氏の違和感は生じていたのではなかったか。会議を重ねた結果、電通が国鉄に対して提示した答えは、個別の企画は二の次にしたコンセプトであり、そのコンセプトを端的に表現するコピーが「ディスカバージャパン」だったといえるのではないか。

それでは、その最初の段階で提示されたコンセプトはどのようなものだったのだろう。これも『40年記念カタログ』所載の資料だが、毎日新聞1970年10月7日付けの記事が参考になる。記事は国鉄がディスカバージャパンのキャンペーンを開始することを発表したときのものである。
国鉄は六日、役員会を開き、十四日の鉄道記念日から「DISCOVER JAPAN」(日本発見)のキャンペーンを全国で展開することに決めた。ポスト万国博の乗客減を防止する対策で、海外に奪われがちな国民の目をもう一度国内の自然美、伝統、人情などに向けさせ、鉄道旅行のブームを呼ぼうという企画。
 「単に増収だけがねらいでなく、かくれた日本のよさをみんなで発見し、それを守り育てようというキャンペーンだから、公害追放の国策にも共通する」というのが国鉄の解説。ノーベル賞作家の川端康成氏もこの趣旨に賛成し、キャンペーンの副題に「美しい日本と私」と名づけた。
国鉄がおこなった記者発表に基づいた記事かと思うが、一連の流れは以下のようなものだったろう。(1)国鉄から電通へのキャンペーン依頼→(2)電通内部での数次にわたる企画会議→(3)電通から国鉄へのプレゼンテーション→(4)国鉄内での検討~採用決定→(5)国鉄・電通による具体的な肉付け→(6)記者発表。なお上記の記事では、具体的な企画の内容に「記念スタンプの設置」「記念入場券の発売」「"D・J列車"の運転」「季刊誌の発行」といったものが挙げられている。

『40年記念カタログ』の前書きには、藤岡氏が行ったプレゼンテーションに対して馬渡一眞営業課長(当時)が「今日はアラカルトを食べるつもりが、フルコースを頂戴しました」という感想を述べたとのエピソードが紹介されている。同じエピソードは、同書の別のところで「私たちは軽食堂でカレーを頼んだつもりだったのに、全国キャンペーンなどというフルコースのメニューが出てきて驚いた」という形で紹介されているのだが、そこから推察するに「(1)国鉄から電通へのキャンペーン依頼」の部分は、乗客減を補う単発的なキャンペーンの提案といった程度のものだったのだろう。それが全国規模のプロジェクトという形で返ってきたものだから、驚きと戸惑いになったのに違いない。そして初期の段階で提示されたコンセプトは、記者発表の文章に反映されているものだったと思われる。すなわち「かくれた日本のよさをみんなで発見し、それを守り育てよう」である。藤岡氏の回顧するところによれば、旅を通しての自己発見という要素が初期段階から意識されていたように書かれるのだが、その部分については上記の新聞記事からでは読みとれない。裏付けの資料がない以上、推測の域を出るものではないが、旅と自己発見をつなげるのはキャンペーン主体が当初から仕掛けたものではなく、集客キャンペーンを進めるうちに形を見せ始めた社会の新しい需要だったのではないだろうか。仮にそうだったとすれば、キャンペーンに伴う後発的な企画がそうした需要に応える風合いのものになっているのも頷ける。


<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-07-31 05:08 | 京都本・京都ガイド
2013年 07月 28日
嵐山と嵯峨野 ~イメージの嵐山(2)
「嵐山へ行ってきた」という言い方で嵯峨野周辺をイメージするのは自然な展開だろう。というより「嵐山」云々と言って嵯峨野を持ち出している人に対して、「嵐山と嵯峨野は違うし」とやる方が野暮というものだ。厳密には違っていても、厳密に言わないのが普通だからである。そういう意味では「御所」と「京都御苑」を区別する野暮さに通じるところもある。

といったわけで、渡月橋周辺から野宮および奥嵯峨一帯、さらには鳥居本のあたりまで含めて「嵐山」という言い方をすることもあるのだが、そのこと自体は慣習の範囲と理解している。しかし「嵐山」の範囲がそこまで広がっていった過程というものは、ちょっとつついてみたい話でもある。「嵐山」あるいは「嵐の山」という言葉は、山名として王朝時代から使われていたものなので、そこから始めると印象の変化を示す事例は多くなりすぎるし、相互関係も複雑を極める。それに重箱の隅をつっつきすぎるのもどうかと思うので、渡月橋界隈を嵐山と呼ぶようになったあたりからスタートしてみる。

昭和11年刊の「観光の嵐山」の巻頭には「嵐山」と題して、
天下の名勝嵐山は 大堰川の清流その麓を流れ 山水相映じ風光明媚真に一幅の書画なり。
と始まる一文を載せる。この一文のみに限定すれば、「(大堰川が)その麓を流れ」とあるので、山の名前として扱われている。しかし英文による序文には、
Arashiyama,situated in the western outskirts of Kyoto, is one of the most popular resorts of the city.
とあり、エリア名として使われている。明治時代の後半から終わり頃には、嵐山温泉株式会社や嵐山電車軌道が登場しているので、すでに「嵐山」はエリア名として認知されていたようだ。

この明治末から昭和初期の見方を一つのあり方とすれば、そこでいうエリア名「嵐山」の範囲はどうだったろうか。前掲パンフレットでは「天下の絶景 四季の嵐山」と銘打って大堰川畔で撮った四季の写真を載せる。次ページからは紹介範囲が広がっていき、最終的には清滝や愛宕山あたりまでカバーされるのだが、「天下の絶景 四季の嵐山」が指すと考えられる渡月橋周辺と大堰川畔こそが「嵐山」だったようだ。そんな嵐山が、嵯峨野との境界線を曖昧にしていくのはいつ頃か。当初、思い描いていたのは1970年代、つまりディスカバージャパンとアンノン族の時代であり、観光客の視線が嵯峨野に向けられるようになったことでイメージの嵐山が拡大されていったという筋書きだったのだが、そこまで単純な話ではなさそうだ。

というのは、嵯峨野へ向かう観光客の増大は、どうやら1970年以前に遡りそうな気配なのである。ディスカバージャパンのキャンペーンがアンノン族を生んだとする解釈には反対なのだが、時期が重なるのは間違いない。ディスカバージャパンのキャンペーンがそれまで注目されていなかった土地を観光地に仕立て上げたこと、そうした新興観光地にアンノン族が出没したこと、嵯峨野がアンノン族好みだったこと、こうしたことは事実でもそれらを直截的な因果関係で結びつけるのは短絡すぎる。

1969年12月3日付の京都新聞に「にぎわう嵯峨野路の冬」という記事が載っている。
【右京】住宅開発が急な区内にあって、昔変わらぬ静かな叙情を残す嵯峨野路は、ここ数年前からこがらし吹く冬季でも散策の「風流人」たちでにぎわっている。五、六年前までの嵯峨野路の冬は、ひっそりとしてさびしい「枯れた小径(こみち)」の風情だったが、いまでも(引用者注:12月になった今でも、の意味)行楽シーズンとほぼ変わらぬほどの「嵯峨野ファン」がひきもきらない。
という。そして「特に最近の特徴として若い女性の姿が目立っているという。一部に俗化した嵯峨野路を嘆く人もあるが、ミニスカートやパンタロン姿の女性がほの暗いイメージの嵯峨野をめぐる光景が目新しい」ともある。この1969年の記事に描かれる「風流人」「嵯峨野ファン」は、3~4年後に「アンノン族」の名で脚光を浴びる人々の姿を先取りしているのは言うまでもない。大阪万博が開催され、ディスカバージャパンのキャンペーンが始まった1970年が大きな潮目になっているのは事実である。しかし嵯峨野に関していえば、70年代の新しい傾向として注目される現象は、60年代の後半にはすでにその萌しを見せていた。潜在的なそうした動きに燃料を投下したのがディスカバージャパンのキャンペーンであり、「an-an」や「non・no」の誌上で繰り返された京都特集だったのではないか。

この69年の記事に描かれているわけではないが、旅行のスタイルが修学旅行や地域・職場の団体旅行といったパッケージ型から個人型へ移行していくのもこの頃である。個人、あるいは友人や家族といった小さな単位での旅行が増えたのは大阪万博を契機とするのだが、嵯峨野はその受け皿の一つとなっていた。そして従来型の団体旅行が得意としていた嵐山(=渡月橋周辺)での景勝観覧との混成も、この頃に進められると考えていいのではないか。

現代の用法を考えた場合、嵐山と嵯峨野はどう扱われているのだろう。大ざっぱにいえば区別しないのは冒頭にいった通りだが、すこし厳密にいえば、京都の外からのまなざしで「嵐山」という時には広範囲の認識になり、渡月橋など嵐山圏内にはいってエリアを細かくいう必要がある時には、野宮だの奥嵯峨だの鳥居本だのと区別するのが普通ではないか。あるいは圏内で細分化した場合でも「嵐山」といわずに「渡月橋周辺」というとすれば、「嵐山」とは全体に対する呼称とみるべきかも知れない。

ちなみに、いわゆる京都歌謡の定番とされる「女ひとり」(作詞:永六輔,1966年)の歌詞では「京都、嵐山らんざん大覚寺~」となっていて、大覚寺が嵐山にカウントされることになる。「観光の嵐山」でもスポット的には入っているので「女ひとり」で打ち出された新機軸というわけではない。それでも嵐山の範囲が1960年代の半ばには拡張していた明確な事例とみていいだろう。なお大覚寺の山号は嵯峨山さがさんである。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-07-28 12:36 | 京都本・京都ガイド
2013年 07月 24日
ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と ~イメージの嵐山(1)
しばらく嵐山の二丁塚にこだわってきたわけだが、その過程での副産物というか、嵐山の印象が時代によって変わっていることが見えてきた。『観光の嵐山』(昭和11年刊)に見られる"景勝地・嵐山"をアピールするのが一つのあり方であるとすれば、昭和期後半、おもに昭和50年(1975年)前後をピークに流行したアンノン族好みの嵐山は、それとはまったく違ったものだったようだ。現代の嵐山は、アンノン族の頃とはまた趣を変えて、"1/nの観光地"となっていることは否めない。『るるぶ』や『まっぷる』に代表されるガイドブックによるカタログ化に組み込まれた観光地、多くの中の一つという位置づけである。

景勝を謳った戦前の嵐山、アンノン族好みの嵐山、カタログ化された現代の嵐山、これらは直線的な推移をみせるのではなく、分析者の視点に応じて複雑に絡み合う。しかし極めて大ざっぱに扱うことを許してもらうとすれば、嵐山が見せる局面の代表的なものといってよさそうである。

これらの中で、大きく取り上げてみたいのは、やはりアンノン族好みの嵐山だろうか。「~族」という呼称は、「カミナリ族」だの「カニ族」だの、あるいは「タケノコ族」だの、いろいろな造語がある。しかし、それらの中でも「アンノン族」は異彩を放っているように思う。それぞれに時代の一局面をうまく切り出した言葉であるように言われるが、「アンノン族」ほど時代全体とシンクロするものはないからである。世相史を学問的に扱う立場からの発言もいくつか見られるように、高度成長期が一段落を迎え、がむしゃらに上ばかりを見ていた人々の視線が等身大の個人に向けられた時、世の中に「アンノン族」の名で呼ばれる女性の一群があふれていたらしい。

マスメディアを利用した大規模な広告戦略が関与したのは事実である。高度成長期の到達点を象徴するのが大阪万博expo'70だったすれば、たびたび指摘されていることだが、万博終了後の客足鈍化を見据えて展開された国鉄による「ディスカバージャパン」キャンペーンと「アンノン族」の発生は見事に重なっている。しかし、それだけをもって「ディスカバージャパン」が「アンノン族」を生み出したというのは短絡的だろう。「ディスカバージャパン」は、電通の藤岡和賀夫氏らの当事者たちがリアルタイムで意識できていたか否かとは関係なく、時代の流れとたまたま重なり合うものだったのではないか。たまたまと言うとすべてを結果論に委ねてしまうことになるので、藤岡氏ら関係者の功績を過小評価することになるのだが、後の研究者が指摘するほどのタイムリー性が、同時代的に狙いすまされたものだったかどうかは定かではない。社会史の分野だけでなく、後代から見れば"時代を象徴する"と呼ばれる事象でありながら、同時代的にはその意味合いは気づかれていなかった、そうしたケースは少なくない。時をほぼ同じくして進行した「ディスカバージャパン」キャンペーンと「アンノン族」の発生、そして個に目覚めた消費者層の形成も、その一つであるように思う。

こうした視点から嵐山を検討するには、「an-an」や「non-no」の誌上で展開された京都特集がどういう調子のものだったか、あるいはそれら以外に材料を求めるとすれば、瀬戸内晴美(現在の寂聴さん)など当時の時代精神を担った作家の小説に見られる文章がどういうものだったかといった具体的な材料が必要になる。現在、当方の手許にはそうした資料がないので、ここまでの話は、おもに既刊のエッセイ等に依存するものである。それでもかなり面白そうな材料なので、今後資料を集めつつ、話を展開できれば続けてみたい。
<主要参考文献>
・馬場俊明氏「京都歌謡曲考現学」
(「現代風俗'85」現代風俗研究会会報・通巻9号,1985年)
・斉藤光氏「『アンノン族の京都』から『彼氏と行く京都』へ」
(『京都ディープ観光』所収,裏京都研究会編著,1996年,翔泳社)
・石川真作氏「さすらうこころは京都に集う-京都歌謡の隆盛と衰退」
(『京都フィールドワークのススメ』所収,鵜飼正樹氏ほか編,2003年,昭和堂)
・「ディスカバー・ジャパン」の衝撃、再び。
(新井満氏と藤岡和賀夫氏の対談,PHPビジネスオンライン衆知2011.2.7付,)



<余談>
ディスカバージャパンのキャンペーンについて調べていると、キャンペーンで用いられたキャッチコピーの一つに、「目を閉じて……何を見よう」というのがあることを知った。その時、閃いたのがディスカバージャパンの後続キャンペーンで用いられたCMソングが「いい日旅立ち」であり、作詩作曲が谷村新司、そして谷村新司の最大のヒット曲といえば「昴」で、その歌い出しが「目を閉じて何も見えず、哀しくて目を開ければ・・・・・・」。

ディスカバージャパン、ディスカバーマイセルフ、でも何も見つかりませんでした、とでも言っているような。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-07-24 23:56 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 14日
【PDF】『観光の嵐山』(昭和11年、嵐山保勝会)




著作権について
この冊子は「嵐山保勝会」が刊行したものであり、同会は現在も存在しています。ただし団体名義の創作物で、公表後50年(1986年)をもって著作権の保護期間は終了しています。
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by office34 | 2013-06-14 02:10 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 11日
はしがき ~『観光の嵐山』より(3)
昭和一桁代に刊行された嵐山の観光パフレット『観光の嵐山』には、「嵐山小唄」の歌詞ともう一つ、翻刻が必要になるページがある。「はしがき」と題された序文である。解読できない文字が少なからず残っているのだが、四季折々の魅力を言っているに違いない内容は、楷書で書かれた序文や英文Prefaceと比べれば推測できる。内容的に強調せねばならないところは少ないが、全ページ公開した時点での取りこぼしとなるのも胸くそ悪いので一応の作業として提示しておこう。
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a0029238_2414362.jpg
拡大

はしがき

新来の春は嵐山に明けて、あたり一帯の
名所古跡に妍爛たる桜色を賞し初夏
の頃ともなれば新緑と清[溪?]の■とに涼を
味ひ秋は楓が紅に染むる山々を探り、[雪?]に
は清[澤?]の粧をならべる。この四時の絵巻を遊
覧のしるべにとて、こゝに「観光の嵐山」と
題する案内記を弘く頒つことゝせり。
観光者の伴侶ともならば幸である。
嵐山保勝會

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by office34 | 2013-06-11 02:37 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 10日
嵐山小唄 ~『観光の嵐山』より(2)
昨日の記事で「観光の嵐山」に掲載されていた「嵐山小唄」の翻刻をしておいたのだが、原版を出さないことには検証もできない。ということで原版を貼ってみる。いずれPDFにして全ページ紹介するつもりではいるが、まだその作業ができていないから、当該ページの当該箇所のみ。
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翻刻再掲
嵐山小唄
長田幹彦氏作詩
橋本國彦氏作曲

霞がくれの嵐山
[色?]もほのかに夕ざくら
春の愁ひを紅帯に
日傘かざそよ渡月橋

晴れる村雨雲とほく
峰の青葉に虹の橋
さつきつゝぢの露わけて
保津の早瀬の下り舩

[かく?]も歌ふか山峡の
紅葉照りそふ瀧[は瀬?]に
秋を織りなす唐錦
きせて[舞?]はせん山姫に

風に暮れゆく峯つゞき
鐘も寂しき大悲閣
別れともなき盃に
泣いてさゝやく夜の露

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by office34 | 2013-06-10 05:43 | 京都本・京都ガイド