Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 06月 09日
祇園小唄と嵐山小唄~『観光の嵐山』より(1)
月はおぼろに東山
霞む夜毎よごとのかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
「祇園小唄」(一番のみ)である。円山公園にはカラフルな歌碑も建っているし、この歌詞を紹介する京都本も少なくはない。でも、ふと立ち止まって小唄ってなんだろうということも考えてしまう。お座敷芸の一種で三味線の伴奏でゆるゆると口ずさむ楽曲みたいなイメージがある一方で、「お座敷小唄」や「海軍小唄(ズンドコ節)」のように、毛色がまったく違うのに"小唄"を名乗っているものもある。厳密な定義を求められるとすればお座敷芸になっている楽曲がメーンを張ることになるのだが、こまかいことをゴチャゴチャいうのは抜きにして、ちょっとしたはやり歌程度を意味する小唄もあるということなのだろう。

ところで、祇園とならぶ京都の一大観光スポットといえば、有無を言わさず嵐山だろう。その嵐山をテーマとした「嵐山小唄」なるものも、かつては存在していたらしい。だがその「嵐山小唄」の記憶は現代にはほとんど残っていないようだ。「祇園小唄」と同じく、長田幹彦作詞によるものなのだが、嵐山の場合、祇園と違ってお茶屋がないというのが忘却に至る大きな原因なのかも知れない。小唄の本分がお座敷芸にあるとすれば、祇園とは異なって嵐山には実演の場に恵まれていないからである。それはさておき、とりあえず歌詞を紹介してみる。
嵐山小唄
長田幹彦氏作詩
橋本國彦氏作曲

霞がくれの嵐山
[色?]もほのかに夕ざくら
春の愁ひを紅帯に
日傘かざそよ渡月橋

晴れる村雨雲とほく
峰の青葉に虹の橋
さつきつゝぢの露わけて
保津の早瀬の下り舩

[かく]も歌ふか山峡の
紅葉照りそふ瀧■[瀬?]に
秋を織りなす唐錦
きせて■はせん山姫に

風に■れゆく峯つゞき
鐘も寂しき大悲閣
別れともなき盃に
泣いてさゝやく夜の露


google先生に聞いてみると「嵐山小唄 しぐれ茶屋」なる映画が関連しそうな気配なのだが、正確なところはわからない。上の引用は、このブログでもすでに何度か登場している観光パンフレット『観光の嵐山』からのものである。一部、翻刻に苦しむ文字が含まれているが、だいたいこんな感じでいいかと思う。
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by office34 | 2013-06-09 02:57 | 京都本・京都ガイド
2013年 05月 02日
5月の神泉苑
神泉苑が面白そうだという噂を聞いたので覗きに行ってみた。5/3が神泉苑祭で、1日~4日には境内の狂言堂で神泉苑大念仏狂言が行われているとか。とはいえ、行われる法要に興味があるわけでもなし、面白そうだという声がちらほら聞こえてきたから、イベントの雰囲気でそれっぽくなっているに違いない境内を覗くぐらいはしてみようか程度の魂胆である。

それで実際に訪れてみると、ちょうど見頃を迎えているツツジや、神輿の前に立てられている剣鉾など、それなりの見どころは確かにある。また天邪鬼向けには「やる気がほとんど感じられない露店」など、ツッコミどころにも事欠かない。そうした意味で、面白いといえば、確かに面白い部類に入れていいだろう。「面白そうだ」といった人が、果たしてどういうニュアンスでの面白さを期待していたのかはわからないが、きっと満足できたと思う。それはさておき、当方の関心にヒットした部分を言うとすれば、やはりなにやら意味深な「石」の存在が挙げられる。それが墓標であることは、形の上からもほぼ間違いなのだが、なぜこんな場所にこんな墓標が?といった方向で興味が刺激されたのである。

具体的に見てみよう。幸い、神泉苑の公式サイトがあり、そこに境内の見取り図があるのでそれを参考にしてもらえればわかりやすい。その墓標らしきものがあったのは、弁天堂に向かって右手、鎮守稲荷社の方向へ歩いてすぐのところである。池のほとりにツツジの咲く植え込みがあり、そのすぐ横に祠と、その基部に小さな墓標が二基置かれていた。神泉苑の歴史的なところをいえば、平安時代云々の話はこの際、関係ないと明言しておくべきである。王朝時代にたびたび饗宴が催された後院の「神泉苑」とは別に、その名前を掲げて江戸時代の初期に再興された寺院の神泉苑を念頭に置く必要がある。そうすると、寺院であれば塋域をもっていても不思議ではないのではないかという話も出てくるだろう。しかし、今回、目に止まったそれは、たいていの寺院に見られる墓園ではなかった。その祠と二基の墓標だけがポツンと道ばたに置かれて、他には何もないのである。檀家を供養する云々の場所ではないということである。それで、なんだろう、これ?と視線が引き寄せられて、おもわずへぇ~と呟いてしまったのが「元禄十五午年」という年代が確認できたからである。さらに呟きが、ほぇ~に変わってしまったのが、そこに刻まれていた名前が「幻生童子」なるものだったからである。

即座に人物と結びつく名前ではない。おそらくは夭逝したか、あるいは流れたかした子供の戒名か何かだろう。しかし、たとえそうだったとしても「幻生童子」とは何とも意味深ではないか。パブ犬的に霊幻道士のキョンシーの姿が頭をよぎったものだから、必要以上に意味深に捉えてしまった部分もあるが、それでもやはり「幻生童子かぁ。ほぇ~・・・・・・」である。

ちなみに、その隣にあったもう一つの墓標は、中央の名前は解読が難しいが、文化元甲子と読める文字列が確認できた。元禄の幻生童子と年代的に離れすぎているとところから考えて、後世のいずれかの時期に、この場所に並べておかれたものに違いない。

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ツツジの季節、この眺めは素直に褒めるべきだろう


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わずか数本とはいえ、神泉苑と剣鉾の組み合わせは悪くない


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手作りスマートボール? 一等に入ればたこ焼き6個だそうな


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亀に碑を背負わせる(亀趺碑)にしても、ニュアンスが違う気がする


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蕪村句碑発見、かなり新しそう


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霊幻道士ならぬ幻生童子の墓、元禄モノでござる

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by office34 | 2013-05-02 23:54 | 京都本・京都ガイド
2013年 04月 03日
北白川の忠孝碑
北白川の丘の上に「石工共和組紀念碑」というものがある。これは明治時代に結成された石工さんたちの組合を記念するもので、少し調べるとそれなりの情報も出てくる。またその側には「照高院宮址」と刻された碑もある。読んで字のごとく、照高院宮という今は亡き宮家を追慕するもので、これまた調べればそれ相応のことはわかる。ところが、共和組碑と宮碑の間にある一基、これはどうだろう。
a0029238_12363288.jpg

達筆すぎて解読不能・・・・・・となっていたのだが、よくよく調べてみると、いしぶみデータベースの照高院宮址碑のページに情報が記されていた。同ページでは「照高院宮址」と刻んだ碑を正面から撮った写真と、もう一枚、側面から撮ったものを並べて掲載しているのだが、「照高院宮址」と刻したものを乙碑、もう一つ(上掲のくずし字の碑)を甲碑と呼び分け、側面から撮ったかのように見える写真はその二基、共和組紀念碑と併せれば三基が並んでいることを伝える1枚であるらしい。

照高院宮址碑の方はページのタイトルにもなっているので、一番最初に確認する情報源だったのだが、実はそのページ内に、もう一つ詳細不明としていた碑に関する情報も記されていたというわけである。

ということで、改めて書き出してみる。碑面のくずし字は、明治元年に照高院宮を継いだ智成親王の文字を刻んだもので「事君不忠非孝也(君に事へて忠ならざるは孝にあらざるなり)」と読む。『曾子』の一節で「曾子曰く、身なるものは親の遺体なり、親の遺体を行ふ、敢えて敬つつしまざらんや。居処荘うやうやしからざるは、孝にあらざるなり、君に事つかへて忠ならざるは、孝にあらざるなり、官に莅のぞみて敬つつしまざるは、孝にあらざるなり、朋友に信ならざるは、孝にあらざるなり、戦陳に勇なきは、孝にあらざるなり、五者遂らざれば、災親に及ぶ、敢えて敬つつしまざらんや」と続く箇所に出る。儒学イデオロギーの中でしきりに強調された忠孝を説くフレーズである。

碑の設置は、いしぶみデータベースがいうところの乙碑、つまり照高院宮址碑の方が明治三十五年で、智成親王手跡碑いわゆる甲碑(以後、忠孝碑と仮称)がその七年後の明治四十二年となっている。照高院宮址碑は東京遷都にともなって北白川の地が故地となったのち、その由緒を偲んで建立されたもので、忠孝碑はさらにのちに並べて建てられたもの。ということは性格的には異なっていることになり、別物として区別するべきだろう。いしぶみデータベースのように、同じページで「甲碑」「乙碑」として処理するのでは誤解も招きかねないということである。もちろん、誤解が生じたとき、誰が悪いかというと、同ページには備考で「甲乙の二碑あり」と明記されているのだから、斜め読みしかせずに忠孝碑の情報を見落としてしまう読み手の責任である。しかし世の中「とりあえず新井さんが悪い」じゃないけど、何か不都合が起きたときには他者に責任を求めたくなるのも常道、というわけで、あと少しだけ親切にしてほしかったかなという愚痴の一つをこぼしてみただけである。お粗末様。
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by office34 | 2013-04-03 12:47 | 京都本・京都ガイド
2013年 03月 30日
猿田彦神社にて
昨日の熊野神社に続いて、もう一つ、鳥居ネタを。今度は山ノ内の猿田彦神社。と言っても場所が分からないかも知れない。観光スポット的な意味での有名どころではないから致し方ない。簡単に説明するとすれば、三条通をどんどん西へ西へと進んでいって、天神川に出る手前にある小さな郷社、といった感じか。

さて、その猿田彦神社なのだが、ここの鳥居がこれ。

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パッと見では、何が面白いのか分からない。だが例によって裏にまわって銘を探してみると、あった。
曰く「日獨平和記念」。そりゃま、国際平和は大切なことなんでしょうけど、旧字を使っているところからみるといつの話?ってことになる。それで反対側の柱に目を遣ると「大正九年献之」とのよし。

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大正九年・・・・・・1920年か。第一次大戦の戦後処理の時期のようだ。この年の1月に国際連盟が成立して、いわゆるウィーン体制に入っているわけだから、日本は戦勝国ヅラしてブイブイいわせていた頃だろう。したがってナチス云々のきな臭い時代には、まだなっていない。

ともあれ、こういう年次入りのブツを見れば、あれこれと想像も膨らんでくるというもので面白かったりする。

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by office34 | 2013-03-30 23:58 | 京都本・京都ガイド
2013年 03月 29日
家内安全、貸家繁昌
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東山丸太町の熊野神社で見かけた灯籠にて。

願掛け文でセットになるものは、おおよそパターン化されているものと思っていた。「家内安全」とくると、普通は「商売繁盛」だろう。内と外の両方でうまくいってくださいなという、虫のいいお願いである。ところが熊野神社の奉納灯籠は少し違っていた。文化年間に奉納された旨の銘が確認できるこの灯籠、「家内安全」はともかくとして、「貸家繁昌」とはお願いをした方(施主さん)が家賃収入で生活をしていたか何かの事情があるのだろう。

ちなみに、この熊野神社は昨年はNHK大河の関係もあってにわかに注目されたが、今年はそうした待遇は続いていないようで、観光客もあまり目を留めない。しかし意図的に目を向けてみると、面白げなものがたくさんある。当方の関心でいえば、灯籠であったり、狛犬であったりの石造物になるのだが、さほど広くない境内であるにも関わらず、確認できる銘には元禄あり、天保あり、文化、文政、寛文といった具合にさまざまな元号と出会える。

その中で、特に気になったのが南側の石鳥居である。元禄の銘が確認できるのに、上からベタっと白く塗装されているのだ。化粧地蔵のように、石造物の宿命といってしまえばそれまでなのだが、パっと見では時代的価値というものがほとんどわからないからだろう。

もしかすると江戸時代ぐらいの元号など珍しくもなんともないとの判断があったのかも知れないが、やはり百年前、二百年前、場合によっては三百年前のものであれば、しかるべき待遇があってもよさそうなのだが・・・・・・。
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by office34 | 2013-03-29 23:53 | 京都本・京都ガイド
2013年 03月 28日
観光の嵐山
愛宕山談義を続けてきた流れから、どうしても触れたくなるのが『観光の嵐山』。嵐山保勝会が昭和11年(1936)に刊行したパンフレットである。手許にある関係上、過去にも部分的に取り上げてはいるのだが、改めて眺めてみると新しい発見が出てくる。石碑や歌碑など石造記念碑に残る時代の証言もさることながら、この手のパンフレットにも、なるほどそういう時代だったかとの思いを起こさせてくれる記述が見つかることは少なくない。

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今回、紹介するのは、嵐山電車と嵐山バスの広告ページ。嵐山電車は明治末期開業の鉄道会社だが、大正期に京都電燈会社が吸収し、戦時統制で京電が解散する際に京福電鉄となった。京福の愛称「嵐電」は現在も普通に使われているが、事業主体とは関わりなく、嵐山電車時代から定着していたものと思われる。嵐山バスの方は未調査。それでも現在の京都バスの路線と重なる部分が多いことを思うと、嵐山界隈をカバーしていた地域バスが京都バスに吸収されたものだろう。

これらアクセスマップを眺めてみて面白いのは、観光の目玉スポットが現代のそれとかなり違っていることだろう。嵐山電車の広告が典型的で、「観桜・観楓」に先立って「御陵参拝」があり、地図には宇多野の点在する御陵が詳細に記されている。また山ノ内の近くに記されている「角ノ坊」、これは親鸞上人往生の地とされる場所で敬虔な信徒にとっては聖跡・聖地になるのだが、現代の観光雑誌で取り上げられることはまずない。あるいは映画関連のものからも時代相を見ることができる。帷子ノ辻周辺に「プロダクション」と書いて建物イラストが並んでいるのは映画の撮影所であり、蚕ノ社の「ゼーオー」も同じ。まさに銀幕スタアが輝いていたころなのである。個別の名前は記されていないが帷子ノ辻の右下にある撮影所は、場所的にいえば現在の映画村だろうか。昭和11年だから東映自体が発足していないので、その前身になるいずれかの施設だろう。

嵐山バスの方でも御陵や撮影所が目立つのも、やはりそういう時代ということである。しかし、こちらのページではそれ以上に目を引くのは、嵐山バスの枠の隣に出ている「嵐山ヤトナ倶楽部」ではないだろうか。ヤトナという言葉自体が歴史語彙なのでアレなんだが、どういう分野のものかは添え書きから推測もできる。ちなみに10年ばかり時代が下がって「嵐山ヤトナ倶楽部」のヤトナと同義になるかどうかは定かでないが織田作之助の「それでも私は行く」にはヤトナをめぐる記述がある。ぼかすことなくはっきりと書かれているので読めばイメージが固まるはずである。

ともあれ『観光の嵐山』は歴史資料としても面白いという話である。このパンフレットには30ページそこそこのボリュームしかないこともあってPDFにして全部紹介してみたいところだが、それはさすがに要許諾の領域だろう。
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by office34 | 2013-03-28 09:06 | 京都本・京都ガイド
2013年 03月 21日
石の声を聴け
『風の歌を聴け』のパロディではない。響きは似ていても村上ワールドはまったく関係しない。あるいはこんなタイトルを掲げるとスピリチャルなものを連想する人がいるかも知れない。パワーストーンに手をかざして、あちらとのチャネリング云々をこうした言い回しでする方もいるようだが、ここではそんな話も出てこない。出てくるのは石碑であり、松尾芭蕉である。

松尾芭蕉の『奥の細道』は幻想の旅だったという。旅の途次、各所での思いを綴った紀行文、俳文であるかの体裁をとっているが、実際に芭蕉が訪れた行程と『奥の細道』の中で文章化されている足跡とは重ならないらしい。その意味では『奥の細道』は大いなるフィクションだったということもできる。しかし、そのことは『奥の細道』を貶めることにはならない。むしろイメージ世界より紡ぎ出された言葉の結晶として、その完成度の高さこそが注目される。杜甫の「春望」を介在させながら「つはものどもが夢の跡」の句を導く、かの「平泉」の段はその最たる事例かと思うが、ここでは少しずらして「佐藤庄司の旧跡」の段を取り上げてみる。

佐藤庄司こと基治もとはるは奥州藤原氏の家臣。源義経に従って奮闘した継信つぐのぶ・忠信ただのぶ兄弟の父で、佐藤庄司旧跡は旅が瀬上の宿(現在の福島市瀬上町のあたり)にさしかかったところに登場する。
これ庄司が旧館也。麓に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家いつけの石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先まづあはれ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂ぬらしぬ。堕涙だるいの石碑も遠きにあらず。
『奥の細道』に描かれたこの場面は曾良の日記にも記録があり、芭蕉たちが実際に訪れていることは確かめられる。また「かたはらの古寺に一家の石碑を残す」というのも、曾良がいうところの「堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有」云々と符合する。佐藤一族の菩提寺である医王寺に足を運び、境内の石碑を見て伝説の主人公に思いを巡らせたのだろう。続く「中にも二人の嫁がしるし」については潤色が含まれるらしいが、興味深いのは「石碑」から想像の翼が大きく広げられて「堕涙の石碑」にまで及んでいる点である。

「堕涙の石碑」は「羊公碑」ともいう。三国志に登場する晋の武将羊〓ようこの顕彰碑で、その遺徳を偲ぶ人々が碑の前に涙したことが名前の由来。そのエピソードは唐詩にもたびたび引かれており、日本でも広く知られていた。『奥の細道』は、佐藤一族の菩提寺において継信・忠信兄弟の奮闘やその死を悲しんだ母のエピソードが涙を誘い、さながら堕涙碑のごとしといった文脈でまとめられている。
*〓:シメスヘンに古

堕涙碑は言うに及ばず、佐藤一族でさえ影が薄くなっている現代である。そうした事情を併せると、想像力の飛翔も「平泉」の段ほどの鮮やかさは感じられない。しかし鮮やかさの欠落は芭蕉の責任ではない。鍵となるエピソードから遠のいてしまった現代人の悲しさにすぎない。芭蕉の中では、眼前の石碑を契機としてイメージの世界が大きく広がっている。それは石の声が芭蕉の耳に届いたからに他ならない。

先日、愛宕山に登る機会があった。愛宕神社表参道の往復だったが、下りてきて渡猿橋の袂に梅の花が咲いている場所があった。年配の方を案内してのことだったので、ちょうどいいかと思って記念撮影を勧めてみた。そして、もののついで程度のノリで傍らの徳冨蘆花「自然と人生」碑を紹介したところ、思いの外、喜んでくれた。なんでも「僕らの世代なら蘇峰や蘆花は特別だから」とのこと。ご年配とはいえリアルタイムで徳冨兄弟を知っているとも思えないのだが、徳冨兄弟は昭和三十年代ぐらいまでなら幅広い層からの支持があったのだろう。四十年代や五十年代でいえば亀井勝一郎だったり小林秀雄だったりのポジションに徳冨兄弟がいたということか。当方にすれば知識として知っているに過ぎない蘆花碑だったが、その方には琴線に響く何かがあったようだ。「石の声を聴け」に引きつけて言えば、当方には届かない声がその方には聞こえたのである。

清滝の蘆花碑に限らず、京都には面白い石碑がたくさんある。歴史関係の記念碑や歌碑・句碑など文学関係のもの、あるいは生活史的な色合いが濃い石碑もある。最近は愛宕灯籠に興味をもっているのだが、石碑の概念を少し広げれば、あれも生活史的な石碑のうちに含めることもできるだろう。

最後にPRを一席ぶたせていただこうと思う。
ちなみに、ここでいうPRとはPuerto Ricoのことではない、って当たり前か。

4/13に「まいまい京都」さんのところで北白川を舞台にした石巡りツアーを実施します。北白川エリアは古くから石工の里として有名だっただけあり、界隈を歩けばユニークな石造アイテムがいろいろと目に飛び込んできます。それらを題材にして、石の声へのアプローチをしてみましょう。

クダクダこ難しいものにするつもりはありません。知れば知るだけ深みにはまる石の世界、ひとつご一緒にいかがでしょうといったところです。







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by office34 | 2013-03-21 00:32 | 京都本・京都ガイド
2013年 02月 14日
第一期京都策の時代 ~木屋町をあるく(エピローグ)
木屋町界隈をネタに、第一期京都策の時代を眺めてきた。具体的には、幕末から明治一桁代の京都を語る上でポイントになるスポットを、石碑や遺構を通じてざっとおさらいしてみた感じである。千年の都とは名ばかりで、明治一桁代を取り上げられた日には京都はスポットライトの中心にくる機会が少ないのでちょうどよかったのではないだろうか。とはいえ、ちょっとマニアックに走りすぎたところがあるかも知れない・・・・・・などなど、あれこれゴタクを並べてはいるものの、今回の企画は、今年のNHK大河が明治の京都へのアプローチをかけてくれるはずとの期待から、それを当て込んでいるのも事実である。しかし、そんな下心は別にして、いずれは取り組まねばならない課題でもあったから、その意味でもちょうどよかったと思う。最後にエピローグに替える意味で、写真を落とし込んだgoogleマップ(マイプレイス)でも作っておこう。


ところで、たらたらゴタクを並べつつ、第一期京都策の勧業策はほとんどが失敗だったとするスタンスで進めてきたが、この点についてはもう少し慎重に考えた方がよさそうだ。槇村が表舞台から退場した後、三代目の府知事となった北垣国道によって勧業策のほとんどが中止ないしは民間払い下げとなっているのは事実である。しかし、そのことだけで失敗と呼んでよかったのか、という問題である。確かに、府の財力のほとんどをつぎ込まねば琵琶湖疏水の開削はなかったろうし、琵琶湖疏水によって京都の針路は一変した。京都の街がその後に経験する飛躍の多くを琵琶湖疏水に負っているのは確固たる事実なのである。その意味でいえば、北垣が疏水開削に舵を切ったのは正しい判断だったのだが、その一面で「正しかった」と評価するのは、単なる結果論であるようにも思える。

童仙房開拓のような無謀な試みはともかくとして、舎密局などは大いなる可能性を秘めていた。歴史に「もしも」はあり得ないが、もしも舎密局が十分に公的援助を受けながら維持されていたらどうなっていただろう。最初の十年のみを見れば、明石博高のオモチャと言わざるを得ない結果ばかりだが、徐々に方向の修正は行われただろう。そして産業の育成にとって必要な研究分野がどこなのかが絞り込まれ、その中核を担う新しい人材が育ってくると、しかるべき結果も出していたのではないだろうか。また不運としかいいようのないトラブルによって閉鎖の憂き目に遭った伏水製作所のような例もあれば、状況的には継続の余地があったのに払い下げられた梅津製紙工場のようなパターンもある。これらを一刀両断に処理したのは、本当に「正しい」判断だったのだろうか。

青山霞村『山本覚馬』には、第一期京都策の諸政策が知事の交替とともにうち切られたことに続けて「北垣知事は槇村知事の治績に負けない事業を仕遂げる功名心とともに、琵琶湖疏水の大計画を抱いてきたのである」、あるいは疏水の功績を称えつつ「しかし北垣知事の功名心のために有益必要な事業がなおざりにせられ廃業せられるというきらいがないでもない」と記されている。このくだりでのキーワードが「功名心」であるのは言うまでもない。青山霞村『山本覚馬』に残されているこの文章が、青山本人のものなのか、覚馬の伝記をまとめるべく原稿の準備を進めていた竹林熊彦のものなのかはわからないが、第一期の政策にスタンスをおいていれば、当然のごとくに導かれる見解である。


(プロローグ)木屋町界隈をあるく / (1)高山彦九郎像 / (2)三条大橋西詰の高札場 / (番外)赤松小三郎と山本覚馬 / (3)佐久間象山遭難碑、大沢商会 / (4)木屋町の寓居碑 / (5)御池大橋西詰の「療病院址」碑 / (6)河原町御池・幕末から明治へ / (7)河原町御池その後 / (8)木屋町二条、島津の作業場 / (9)明石博高と舎密局 / (10)「木戸邸」の碑 / (11)丸太町の女紅場 / (12)鴨東の牧畜場 / (13)荒神橋の京都織物会社本館 / (エピローグ)第一期京都策の時代 /

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by office34 | 2013-02-14 00:32 | 京都本・京都ガイド
2013年 02月 13日
荒神橋の京都織物会社本館 ~木屋町をあるく(13)
荒神橋周辺の話に触れて「木屋町をあるく」シリーズの打ち止めを宣言したのだが、この周辺で予定していた話題が二つあり、一つ目の「牧畜場」が想定以上に長くなってしまった。結果、「打ち止め」とあるところを「大詰め」に改めて、あと一回の追加が必要となった。その話題とは、第一期京都策における勧業策の中で、唯一になるかも知れない成功例の話である。ここまでの流れは、第一期京都策はその勧業策の多くが失敗に帰したということになっているが、例外もあるということである。それが西陣の機織業の振興である。

第一期京都策と西陣の関連をいうときには、必ず引き合いにだされるのが、明治五年(1872年)にフランスはリヨンへ派遣された三人の留学生と彼らによってもたらされたジャガード織機のことだろう。西陣織が京都を代表する特産品であることに加え、この出来事が西陣復興というダイナミックなドラマと重なるために、詳細を伝えるサイトも多い。ではその一件が荒神橋周辺とどのように関わるのかというと、やや微妙なところもある。というのは明治一桁代の西陣とは直接には繋がらないからなのである。そもそも西陣が舞台である以上、この荒神橋付近が絡んでくる可能性は少ないはずなのだが、間接的なところを見れば関連するには違いないし、なによりも当時の遺構が現存していることがポイントになる。それが稲盛記念館の裏側に隠れてしまっている旧・京都織物会社本館(現・京大東南アジア研究所図書館)である。

西陣織は突然の東京遷都によって顧客の大部分を失い、壊滅的な打撃を受けた。対策で打ち出された「西陣物産引立会社」(明治二年,1869)も「西陣物産会社」(同三年,1870)も十分には機能しなかったが、現状への危機感は織屋の旦那衆の間でも共有されていた。明治五年の留学生派遣はそうした流れで行われたもので、彼らのもたらしたジャガード織機は西陣織の本格的な近代化を告げるものでもあった。第一期京都策の流れに位置づければ、明治六年(1873年)に、勧業場の一角に設置された「織殿(織工場)(現日銀京都支店,既出)でのジャガード織機による製作と技術伝達、および機械じたいの模造である。

こうして製造技術の革新が行われただけでなく、西陣物産会社の後身にあたる「西陣織物会社」(明治十年,1877)が業界を統括する組織として設けられるなど、近代化も浸透しつつあったが、北垣知事となった時点で施設ともども民間への払い下げとなる。ここまでの成り行きは他の勧業策と同じだが、経営的には目処が付きつつあったことが幸いしてか、組織が転々としながらも事業は続けられた。そこへ大きな展開を与えたのが東京の資金が参入したことである。民間より府営に戻されていた織殿を、ふたたび買い取る形で引き受けたのが渋沢栄一らの出資でつくられた「京都織物会社」である。これが明治二十年(1887年)のことで、その二年後の明治二十二年(1889年)に本館として建てられた煉瓦建築が、荒神橋の稲盛記念館裏手に残されている、現在の京大東南アジア研究所図書館である。


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稲盛記念館の裏にまわると、明治以来の煉瓦建築がその全貌をあらわす。とはいえ、これは建物を後ろから見たアングル。

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正面は稲盛記念館と密着する形となり、ほとんど見えない。かつては「京都織物会社」という社名や「明治廿年創立」と記されたデザインも見えていた。上部にプレートでふさがれている箇所に社名らしきものが確認できたように記憶している。

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煉瓦建築の風格をビジュアルで堪能できるとすれば、二つの棟を連結する部分ぐらいか。





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by office34 | 2013-02-13 23:59 | 京都本・京都ガイド
2013年 02月 12日
鴨東の牧畜場 ~木屋町をあるく(12)
「木屋町をあるく」と題して、三条大橋から木屋町を北上し、木屋町が終わってからもさらに北上を続けてきたが、丸太町大橋を渡り、川端通へ入るといよいよ打ち止め大詰めである。行程の最後は、明治一桁代の鴨東エリアを一瞥したあとで荒神橋ゴールということにしておこう。ではこの丸太町大橋~荒神橋の間の鴨東、現在でいえば京大病院の関連施設や稲盛記念館のあるあたりが明治一桁代にはどうなっていたのかというと、ここにも勧業策に由来する施設があった。「牧畜場」である。

「牧畜場」とは、従来の日本には馴染みの薄かった畜産を京都府の主導で行う施設である。日文研所蔵地図データベースの「京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡」(明治九年刊)によれば、丸太町橋を越えた先の鴨東一帯は「仮牧畜」と記されている。同地図に見られる建造物は聖護院と黒谷、真如堂ぐらいなので、一帯は田野か空閑地だったのだろう。『明治文化と明石博高翁』には、旧練兵場だった場所に明治五年二月、牧畜場が開かれたとの旨が記されているが、旧練兵場の詳細は不明で、長州屋敷の跡地と同様、戊辰戦争が行われている間のみ一時的にそういう使い方をされていただけのように思われる。ともあれ、明治五年の二月に府の政策として管理棟を備えた牧場がこの地域に作られたのである。

江戸時代までの日本では、牛は運搬や田畑の耕作で使われるのが普通であり、肉牛や乳牛として、あるいは皮革製品用に飼育されることはなかった。勧業の一環として牧畜場を設けるのは、そうした習慣を転換させ、付帯する事業を広めるためであった。「山本覚馬建白」「衣食」の編目では強健なる肉体と精神をつくるためにも肉食と暖衣の必要が説かれているが、それがすべてではない。青山霞村の『山本覚馬』には、畜産を推進する根拠となる興味深い発言が紹介されている。
山本覚馬先生は常に側近者に対し、牧畜と製革ぐらい便利で経済なものはない。なぜなれば同じ一把の藁でも直接これを使えば一足の草鞋を作るに足らないが牛を養えばその肉は食用となり、その乳は滋養となり、その骨は骨粉または細工材となり、角は装飾となり、毛は壁のすさとなり、またわずかにその一部をなめして靴が作れる。靴なら草鞋とちがって、足を汚さず数か月も使用できるし、そのうえ品格もよい。しかもこれは食料とし肥料とした残りの一部にすぎない。総じて文明とは間接に用いることをいうのである。しかるに製革は昔からわが国ではある種の人間の仕事として卑しんでいたが、そんなものではない。英国女帝の例もある。動物でも下等のものは手足がなく、また口もない。鳥に至っては嘴があり、猿ともなると手を使って食事をする。人間になると直接手を使わず箸またはフォークを用いる。総じて間接に運ぶが文明と思えと諭された。
資本を直接消費すればそれだけの価値に留まるが、商業の元手に用いれば何倍にもふくらませることができるとする説(「建国術」)にも似た論法で、いかにも覚馬らしいところである。牧畜場の開設は、こうした覚馬の思想を反映するものと思われる。ただし、実務を担当するのは、ここでも明石博高だったようだ。

稲盛記念館の敷地の北西角に、牧畜場に関連する2基の石碑が置かれている。一つは牧畜場の所在を伝える「牧畜場址」の碑で、もう一つは「牧畜場記念碑」と題された石板である。ともに昭和の十年代に置かれたものだが、石板の方には明治十三年に記された碑文が再録されている。十三年の撰文を刻んだ碑が実際には置かれることなく終わったのか、そのあたりの事情はわからないが、明治十三年の時点で牧畜場を語る史料になるので非常に興味深い。加えてその撰文が明石博高その人が行っていることも、碑文の重要性を高めているといっていいだろう。例によっていしぶみデータベースにはに紹介されているのだが、データベースにはあいにく原文が書き取られているだけである。語句のレベルでは、厳密には解釈に苦しむ部分もあるが、大意はとれそうなので要約したものを記しておこう。
牧畜場は農作業に必須であり、健康増進にも大切である。牧畜の中でもとりわけ牛と羊が重要なのだが、国産種は外国種に比べると体格も品質も劣っている。そこで優れた品種を輸入し、国産種の品種を改良すべく明治五年二月にこの施設を開き、海外の農学者を雇って講義と実習を行わせた。その結果、明治八年と九年の京都博覧会にこの牧畜場で飼育した牛を出品して表彰を受けることができた。その後、丹波に分場を設けて農業と畜産の学校を開いたり、十年には陛下に牧畜の業務をごらん頂く栄に浴するなど、事業は発展した。そして貸与規則を定め、管内の事業者への貸し出しも始めるなど、農業や畜産業の改良に大きく寄与している。
明治十三年、京都府知事槇村正直の命によって勧業課一等属明石博高が撰述する。
「明治十三年」となってはいるが、文章が作られたのは、もう少し早いように思われる。というのは、実は牧畜場は明治十二年の五月に廃止が決まり、飼育されていた家畜はすべて民間へと払い下げられているのである。明石が作成した撰文は、事業が軌道に乗ってますます拡張していくかのような雰囲気も感じられるのだが、廃止が決まるより先に用意されていたものではないだろうか。実際のところはわからないのだが、廃止の決定がなされたことにより、この碑文は実際に石に刻まれることなく、原稿の状態でどこかの引き出しに仕舞われていたのではないだろうか。いずれにせよ、他の勧業策と同じように、牧畜場もまた短命に終わっているのである。

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牧畜場関連の碑2基




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by office34 | 2013-02-12 23:45 | 京都本・京都ガイド