Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2008年 06月 16日
木屋町の町名
a0029238_23374458.jpg 古めかしい虫籠窓に貼られた町名板が一つ。「木屋町通四条上ル二丁目下樵木町」とある(写真クリックで拡大)。スポンサーになっているのは久邇洋裁学校で、仁丹板ではない。町名板のタイプからいえば新しい部類にはいるのだが、貼られている位置といい、その周りの雰囲気といい、なかなか年代物っぽい風合いを出している。それに木屋町の地名ということで少々いじってもみたくなった。

 京都の飲屋街として知られるのが木屋町界隈。最近ではKIYAMACHIと書いて、外国人向けのアピールもあるようだが、時代錯誤的な視線を持ちあわせている当方にとっては、木屋町界隈の町名なるものが、やたら気になるところである。どのお店が美味しいとかの話のほうが歓迎されるのかも知れないが、KIYAMACHIと聞いても、おしゃれな雰囲気を名前から拵えようとの魂胆だろうと穿ってしまう天邪鬼、グルメ情報のマネゴトはご勘弁願いたい。

 ということで本題。普通、木屋町界隈で場所を指示するとすれば、三条からどれほど下るとか、四条から上がってどれほどとかの言い方がわかりやすい。あるいは六角だの、蛸薬師だのといった、木屋町まで抜けてきている通りを基準にして説明する。なまじ、町名を持ちだしたりすと、町名じたいが一般には馴染みが薄いこともあって、逆に混乱を招く。もちろん、この傾向は京都の街なかにおける地名表示一般についても言えることで、「上ル・下ル・西入ル・東入ル」などの言い方が使われる理由にもなっている。

 その木屋町の町名だが、まずは木屋町界隈の歴史として、よく紹介される高瀬川の由来に触れておく必要がある。人口に膾炙しているネタなので詳しく言うにも及ばないのが、江戸時代の初期に角倉了以が伏見と京都をつなぐ水路として鴨川沿いに開鑿したのが高瀬川であり、水運の活性化にともなって川沿いの町々も商業スポットとして栄えてきた。こうした歴史的な背景を念頭におくと、商い関連の言葉が町名になったのも頷ける。「材木町」や「石屋町」「米屋町」などは、そういった荷を下ろす係留場が決まっていたのか、あるいはその種の荷を独占的に扱う商家があったかだろう。「柏屋町」や「北車屋町」「南車屋町」となると、これは屋号なのかも知れない。あるいは七条のあたりまでくだったところにある町名だが、「梅湊町」というのもある。これは高瀬舟の係留場に由来する名前らしい。
○梅湊町(菊浜)下京区西高瀬川筋六軒町上ル丁[ママ] 長く畑地で宝永三年家が建ち、高瀬舟の繋留所がありましたので湊町と云いました。其上の町を開拓の時斡旋した梅沢某の名をとつて梅沢町と云いました。明治七年此両町を合併して梅湊町と改めました。七条新地の一部ですが、菊浜小学校が菊屋町から明治三十九年に此町へ移つてきました。川海のない京に湊とか浜の名のある処は少ないです。(緑紅叢書5「京の町名のいわれ」田中緑紅,昭和三十二年,京を語る会)
 そうした中で、推測がつかないのが、今回とりあげた「下樵木町」である。そもそも、読み方からして「しもこりきちょう」というようで、「きこりき」ではないという具合に予測の裏をかいてくれる。写真の町名板は仁丹板ではないのだが、もし仁丹板であったとすれば、時折目にするルビ付き板になっていたことだろう。もちろん「からすまる」が「からすま」になったような、何の芸もない転訛だったりする可能性もあるのだが、ともあれ、その「樵木町」、常識的に考えて材木関連の何かという感じはする。しかし、木材業者だからそれに因む町名というのであれば、「材木町」あたりまでだろう。どういうう云われがあって樵が登場するのか、しかも単に登場するだけでなく、「樵木」となってしまうのか……なにか一捻りも二捻りもある気配だ。

 『新撰京都名所図絵』(竹村俊則,昭和三十六年,白川書院)という本がある。上に引いた緑紅叢書もそうだが、これも、クラシックなデータを調べるには重宝している本であり、その「木屋町」の項には、
 木屋町は二条より三条までを、上木屋町といい、三条から四条までを中木屋町、四条より五条までを下木屋町という。いずれも高瀬川の舟運によってひらかれた街で、当初は木材業者をはじめ薪炭・しょう油等をあきなう商家によって占められていたから、木屋町とよんだ。木屋町二条下ル樵木町は、木材業者の住したところであり、三条下ル備前島町は備前国から移ってきた船頭達の住したところとつたえるなど、今なお往時をしのぶ町名が、そのまま用いられている。
とある。「中木屋町」というのは、もはや死語の部類なのではないかとも思うのだが、それはさておき、「樵木町」の云われである。確かに、ここにあるようなラインなのだが、残念ながら木材業者関連というだけでは「樵木」には直結しないのではないかと考える。何かもう少し方向性めいたものが見えてくると、改めて取りあげることになるだろうが、とりあえずは、これ以上の手がかりもないので放置モードだろうか。


---追記 08.06.18-------------------

下樵木町の件では、どうも「樵:きこり」という現代語に引かれすぎていたようだ。日が変わって、昨日の文章を読み返していて、もしかしてと思い当たるところがあった。それで、古語辞典をパラパラ繰ってみると、案の定である。そもそものところ、「木を伐る」という意味の動詞「こる」があり、これには「樵る」の漢字が宛てられる。「きこり」と言うのは、「木・樵り」のこと、すなわち「木を伐る行為、またはそれを行う人」の謂いであり、「樵り・木」というのは、「伐られた木」の謂いになる。「樵」の一字を「きこり」と訓むほうが、むしろ新しい。そうすると、「上(下)樵木町/かみ(しも)こりきちょう」というのは、転訛などではなく、ごくごく普通の命名方法となってくるわけである。一つの方向に頭が向くと、立ち止まって考え直すことができなくなるのはよくあるわけだが、今回もその一つということになりそうだ。お粗末。
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by office34 | 2008-06-16 23:50 | 町名看板
2008年 06月 14日
葵橋のこと
 通称「鴨川の三角州」と呼ばれるエリアの付近には、五つの橋が架かっている。高野川と賀茂川が合流したあとに鴨川と名前を変えるのだが、下流から見ていくと、まず鴨川をわたる「賀茂大橋」がある。次に賀茂大橋から上流を眺めたとき、高野川の方に架かっているのが「河合橋」で、賀茂川の方に架かっているのが「出町橋」。そして、それぞれのさらに上流にあるのが、高野川の方の「御蔭橋」と、賀茂川の方の「葵橋」である(土地鑑のなくてイメージできない方は、googleマップなどで、「京都府京都市左京区田中下柳町」のあたりを参照してください)。

 河合橋と出町橋は一本の道路上にあり、「鴨川の三角州」と呼ばれるのは、河合橋・出町橋・賀茂大橋に囲まれたエリアである。河原町今出川の交差点から河原町通を北上して葵橋を渡ると、通り名は下鴨本通となり、ほどなくして下鴨神社が右手に見えてくる。この下鴨神社の南側を通る道が御蔭通であり、御蔭通が高野川を越えるところに架かるのが御蔭橋である。賀茂大橋を起点にすると、河合橋および出町橋まではおよそ二〇〇㍍弱、出町橋と葵橋の間も同じくらい、河合橋と御蔭橋の間も五〇〇㍍そこそこだろうか。こうしてみると、なんとも密集した形でたくさんの橋が集まっている感もしてしまう。

 この五本の橋のうち、手元にある資料でその架橋時期がはっきり判るのは賀茂大橋である。『京の橋ものがたり』(松村博著、1994年、松籟社)によれば、「昭和六年五月に完成し、七月一〇日に渡初めが行われた」という。また同書によれば、同じころには北大路橋や高野橋も完成しており、これらは日本の鋼生産の増大に対応しているという。

 賀茂大橋については、こうしたはっきりとした根拠があるので、近代の産物であることは確かなのだが、他の四本はどうだろう。現在のコンクリート橋になったのは近代のことには違いないが、その場所にいつごろから橋が架かっていたのだろう。狭い間隔に四本も架かっているだけに、相応の意味合いがあったように思われるのである。

 このような話は、少し本腰を入れて、古地図を見るなどの調査をしてみると、かなり興味深い広がり方もすると思うのだが、とりあえずは根拠薄弱な空想のレベルをあれこれ並べてみるところから始めてみよう。

 橋の来歴を考えるにあたって、まず手がかりになるのは橋の名前である。「河合橋」は、下鴨神社の摂社である河合神社の名前に依っていると思われる。河合神社の名前じたいが、二本の川が合流する地形に基づくとすれば、河合橋の方も神社名というよりは地形からとするのが正しいのかも知れない。次は「出町橋」だが、これは、ストレートに出町という地名だろう。次は「葵橋」。個人的にも好きな橋の一つでもあるし、名前も、なかなか雅かな響きもあるのだが、これは賀茂社のシンボルでもある双葉葵によるものだろう。同時に葵祭との関連も十分に予想できる。そして最後に「御蔭橋」だが、これは通り名からの命名ではないと思う。下鴨神社にとって、葵祭と同じくらい重要な祭礼である御蔭祭(葵祭の神事の一つで、本祭である葵祭のために神を迎える行事)に由来しているのだろうと思う。

 こうしてみると、出町橋を除いた三本は、下鴨神社に関連していそうな気配である。もし、仮に下鴨神社、あるいはその祭礼である葵祭や御蔭祭由来の橋であるとすれば、三本の由緒はかなり古いものであると想像できる。

 ただ、出町橋だけが新しく、他の三本が古いと考えると、その位置関係がかなりいびつな印象も与えてしまう。というのは、出町橋と河合橋は、ほぼ直線上に並んでいて、ワンセットのようにも見えるからである。ここで、仮にの話に枝葉をつけて砂上の楼閣にしてしまうことを承知で進めるとすれば、こうも考えられる。葵橋は古くからあったのだが、近代のいずれかの時期になって、現在の位置に移動させられたのではないかと。

 というのは、葵橋の東側にあるバス停の名前が、どういうわけか、「新葵橋」なのである。橋の東西はそれぞれ「葵橋東詰」「葵橋西詰」というし、そもそも橋の親柱には「葵橋」と刻まれている。しかし、近代の産物であるバス停によって殊更に「新」と言われると、じゃ「旧」か「元」があったはずと思ってしまうのである。そうした疑問と、出町橋以外は古いという推測との辻褄を合わせるとすれば、現在の出町橋あたりに、もともと一本の橋があり、それが「葵橋」と呼ばれていた、しかし街路の整備等の事情から、新しく出町橋が架けられるとともに、葵橋は少し上流に移動する形でつけ替えられた……などと考えてもみたくなるのである。

 まったくの思いつきで戯言を並べているに過ぎないのだが、葵橋の由来を考えるにあたっては、こういうのは、もしかして面白いかも知れない。もちろん、トンチンカンな的はずれである可能性も大なのだが……。
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by office34 | 2008-06-14 07:50 | 橋のはなし
2008年 06月 08日
京都の城を語る?
 ふと目に留まったページがある(→こちら)。NHKの番組紹介のようだが、その番組を見た記憶もないので、正確な内容はよくわからない。よくわからないことを前提にして、いい加減なご託を並べるのも心苦しいのだが、どうやら「城」をテーマにして、あれこれ議論をしたようだ。とりあえず、WEBにアップされている内容から推しはかるに、まず「城」の面白さを熱く語り、時にはビギナー向けに、時にはマニアック路線で、あれこれと話をつないでいったような感じが漂っている。

 その手の番組については、どうのこうの言うほどの感想も持たないのだが、「城」をテーマにした時には、京都はほとんど問題にされないのだなぁと感じさせられた。確かに、姫路城や大阪城といった立派な天守閣の聳える城郭が残っているわけではない。あるいは山城探検が実践できる場所もない。そういう意味からすると、標準的な城マニアの目線に、京都は引っかかってこないのだろう。古寺巡礼や仏像行脚とかのテーマなら、京都は必須のスポットになるのだが、こと「城」に関してであれば、簡単にスルーされてしまうらしい。しかし、しかしである。京都には、二条城という城がある。しかも、これは世界文化遺産「古都京都の文化財」のラインナップにも名前を列ねている。なのに、「ファンが選んだ好きな城ベスト10」なるランキングにも登場してこないのである。

 と、どこか挑発的な物言いになっているのだが、実は、この二条城、当方にとってもかなりのやっかいな代物となっている。というのは、なまじ世界遺産なんかに入っているものだから、その魅力をわかりやすく簡便に伝えねばならないのだが、なんとなく手に余るのだ。まず何と言っても天守閣の聳える典型的な城郭ではないので、「城」として語るのが難しい。櫓や石垣から往年を姿を想像しましょうと言ったところで、あまり芳しい反応は期待できない。それではということで、「城」であることは棚上げにして、二の丸御殿の障壁画をメインテーマにしてみると、中途半端な蘊蓄ショーに流れるか、さもなくば「ね、綺麗でしょ」と言った程度の、屁の突っ張りにもならない感想の羅列で終わってしまう。二の丸庭園にしてもしかり。

 そもそも、なぜ二条城が「古都京都の文化財」を代表する物件に入っているのだろう、ここからして、実はしっくりこないものを感じている。宇治上神社や醍醐寺五重塔のような、年代的な古さがあるわけではない。二つの賀茂社や、東寺、延暦寺、西本願寺のような、宗教的な側面での求心力があったわけでもない。竜安寺や西芳寺のような、作庭のモデルケースだったわけでもない。あるいは、清水の舞台や金閣のように、ガイジンさんにもわかりやすい特異な建造物があるわけでもない。要するに、十七ある世界遺産物件の中では、どうにも中途半端さが拭えないのが二条城なのだ。徳川幕府による京都支配の象徴だったという側面に注目して、延暦寺や西本願寺などを《聖》のシンボルとして位置づけるのに対して、大政奉還の大号令が下された場所でもある二条城が《俗》のシンボルだったといった感じでの、付け焼き刃のような説明(この解釈が二条城に対して正しいか否かは、?が三つくらい)をしておいても、誤魔化せそうなところはあるが、やはりしっくりこない。

 最初にふれた「城」の話にも共通することなのだが、マニアックな領域に足を踏み入れた人であれば、阿吽の呼吸で二条城の魅力も感じ取るのだろうが、その魅力は一般的にして普遍的なものとはかなり隔たっているように思える。修学旅行などでも、金閣寺や北野天満宮とともに、定番スポットになっているらしいが、何が面白くて二条城に来ているのか、一度、聞いてみたいところもある。よもや、ウグイス張りをキュキュいわせるのが楽しいとかではあるまい……。

 もっとも、二条城は、ここを取っかかりにして、いろいろな方面に話を広げていくのなら、かなり有効なアイテムである。たとえば、「城」という点に拘るのであれば、もともとの天守閣が焼失して再建されなかったという事実から、天守閣の役割はなんだったのかとか、あるいは、それ以前に、京都に聳え立っていた城でありながら、ほとんど幻の世界に消え失せている聚楽第(聚楽城と呼ぶ人もいるようだ)へ飛んでみるとか、はたまた、京都という街じたいが城だったという発想を検討してみるとか……とにかく、いろいろな方向への可能性は開いてくれる。ちなみに、「城」という枠組みを取っ払って、二条城の周りをうろうろしてみると、これまた思わぬ方向への発展も期待できる。一つは、今や、うどん屋のイメージが強い神泉苑関連、一つは、「二条城西南櫓下」に作られたという横田商会の京都撮影所関連(明治四十三年に作られた映画の撮影所で、京都の映画発祥の地ともいえる場所。現在は近くに記念碑があったはず)、これらのネタも、「二条城という地名」からジャンルの壁を越えて広がってくる話なのである。
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by office34 | 2008-06-08 05:49 | 京都本・京都ガイド