Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2009年 08月 31日
秀次事件~『太閤記』より(6) 秀次公切腹
秀次切腹の段である。常識的に事件を俯瞰するのなら、この段落がクライマックスとなってしかるべきなのだが、甫庵の筆はどこまでも淡々と進む。素っ気ないとの印象さえ抱いてしまうくらいの淡泊さである。実は甫庵の筆がもっとも生気を帯びてくるのは、秀次の死を描くこの場面ではなく、若君や妻妾に対する処刑のシーンである。もしかすると、甫庵には、そちらこそがこの事件の核心という思いがあったのかも知れない。ちなみに、この段の最後には秀次事件の総括とも読めそうな一節があり、そこでは秀次の謀反容疑については真相は藪の中という形で放置される。この段落での解釈不能は丸毛不心斎のくだり。「丸毛不心は相国寺門前にて、老腹なれば、しは事外よりたるとて、同じくは首を打てたび候へと云」とある。「老腹」は「追ひ腹」つまり許可のない後追いの云いで、自死を拒否する発言と思うが、次の「しは事外よりたるとて」についてはお手上げである。「死は事の外より垂る<人の死は外からやってくるものだ>」とか「志は事の外より足る<公を敬う気持ちは他の事で十分に示しておる>*」とも考えてみたが、ともに強引すぎるので解釈から省いておいた。
*後者の解釈でいけば、自らの妻を秀次に献じていることを指すとも解せるが……はて?




秀次公切腹

 高野山に籠もってからの成り行きは、秀次公もおおよそは予測の範囲だった。そのため一日二日前から遺言をしたためるなどのことを始めており、十五日のこの日は、それらの用事もあらかた片づいていた。福島正則らによって一度は乱された気持ちを落ち着かせ、公は行水を求めた。雰囲気を察してすでに準備をしていたのだろう、すぐに用意は整えられた。
 浄めの儀を終えたところで、殉死を申し出ている者たちが希望を述べた。
「お供にあたっては後に従うのが慣習ですが、同じことであればお先に行かせていただきたく存じ上げます」
「いっそのこと、殿に介錯をしていただけないでしょうか」
「私めは雀部に」
 それらが玄隆西堂から伝えられると、秀次公は「もっともなこと。それでは我が手にかかり、閻魔帳に華やかに書かれるがよかろう」と言った。そして秀次公および近習たちの切腹が始まった。
 一番手は山本主殿助十八歳。公より国吉の脇差が与えられた。拝領するやそのまま左の脇へ突き立てて右へ回す。そしてすぐさまに首が落とされた。
 二番手は山田三十郎生国播磨の国、三木の住人、十八歳厚藤四郎の脇差が下され、それで腹を十文字にかっ捌いて首を出したところで、公がそれを打ち落とした。
 三番手、不破万作生国尾張の国、十八歳 この若者には鎬藤四郎が与えられた。不破は、
「父母より頂いた体に自ら傷つけるは不孝とはいえ、忠義のためなればお許しください」
とつぶやき、みごとにやりおおせた。これも介錯は秀次公が行った。
 四番手には玄隆西堂。西堂は雀部重政に介錯を頼んでいたのだが、公が自らその役を務めようと言い、これも無事にし終えた。
 これら四名に続いて、秀次公が腹を切った。正宗の脇差を置き、心穏やかな様子で儀に臨む。えいと一声、そして「打て」。愛刀の浪游兼光が振り下ろされた。享年二八歳。
 雀部重政も後に続いた。かねてより賜っていた国次で自害し、介錯は服部吉兵衛によって行われた。
 この雀部重政は摂津の国は尼崎の住人で、篤き信義と猛き武勇をもって知られていた。このたびの件でも細やかな心配りがなされていたので、秀次公ともども世間からの誹謗を免れたのである。秀次公に仕え始めた頃は公からの思し召しも一際のものだったが、のちにはそれほどでもなくなっていた。それでも公が伏見を出てから高野山に到っての最期を迎えるこの日まで、恨みの言葉を口にすることはなかった。信義はかくあるべしと、人々は口々に語り合ったのである。

 福島正則、福原長堯、池田秀氏らは、十六日の晩、伏見城に戻った。切腹の様子を殿下に報告した後、
「秀次公の御首はいかがいたしましょうか」
と尋ねると、殿下からその返事はなく、
「木食もあっけなく切腹させたものよ」
と、少し涙ぐんだ様子だった。

 十五日の秀次公に続いて、侍臣たちも陸続と命を絶った。まず木村重茲が摂津の国、五ヶ庄大門寺で切腹した。木村は日頃召し使ってきた者たちに刀や脇差などを与えたのだが、家来の一人、大崎長行が殉ずる心づもりでいるのを察して言った。
「大崎よ、もしおかしな真似をしようものなら、墓場の下に行っても貴様のことを恨んでやるから、そのつもりでおれ。それとも、この場で供はしないとの起請文を書くか、どうだ」
 そうして大門寺の住職に牛王宝印を用意させて、誓紙を取ったのだった。それから住職には金子五枚の謝礼を与え、庭に畳を敷かせて屏風で取り囲み、屠腹に及んだ。他に死に様を見せなかったのは、腹を切る際の不手際を怖れ、名声を惜しんだのに違いない。
 白江成定は、京都四条の貞安寺で切腹した。その妻は、四条道場で自害したのだが、一首したためている。
心をも染し衣のつまなれば同じ蓮の上にならばん
(あの方は思いを法の道に託しました。いつも身につける僧衣の褄のように、私はあの方の妻でもあるので、来世は同じ蓮の上に並んで生まれましょう)
 熊谷直之は嵯峨二尊院での自害となった。七月十六日の夜明けに、二尊院を訪れて和尚と対面した。
「このような巡り合わせから、腹を切ることとなった。恐れ多いことだが、御寺を汚させていただきたい」
「わけのないことです。ご安心なさるがよろしい。事を致すにあたって何か御用があれば仰せつけてくださいませ」
「かたじけない。来世のことを宜しく頼んでおこうと思う。年来、親しくしてきたわけでもないのに、御寺を汚すのは恐縮の限り。わずかこればかり何にもならぬが、黄金三十両並びに刀脇差を納めるので事後の事を型どおりに取りはからっていただきたい」
 そう言って、品々を差し出すのだが、和尚は袈裟の袖に涙を落とすばかりだった。秀次公が高野山へ入って以来、自らの命運も悟っていたのだろう、ここ二三日でさまざまの所用を片づけており、今は気が紛らわされることもなく、穏やかな切腹となった。辞世の歌が残されている。
あはれとも問ふひとならでとふべきか
  嵯峨野ふみわけておくの古寺
(私のことを痛ましいと思ってくれる人でなければここを訪れる者もいないだろう。ここは嵯峨野を踏みわけてやってきた奧の古寺なのだ)
 粟野秀用は粟田神社前の鳥居小路での切腹である。「秀次公には御謀反の心は微塵のなかった」と、そう大声で叫んでから腹を十文字に掻き切って事果てた。おあこの御方の父である日比野下野守と、お辰の御方の父山口少雲は北野天満宮の近くで切腹した。東殿の夫だった丸毛不心斎は相国寺の門前で「許しを得ておりませぬゆえ、切腹はできませぬ。どうせなら首を刎ねてもらいたい」と言って討たれた。これらの人々はお側仕えの縁故である。その後、一柳可遊を始めとして、国々の大名に預けおかれていた人々にもことごとく切腹が言い渡されたのである。

 この謀反の件は、本当のところは最後まで分からず終いとなった。自害した者は誰一人として白状しなかったし、他の誰かを名指しで責めたわけでもない。濡れ衣を着て死出の旅に出るのも因縁による宿命がつたないものだったのだと観念して終わってしまったのである。涙ぐましいことである。
(続)

予告編/秀次公豹変/聚楽と伏見/益田少将走る/国の魂/尽未来不絶の寺法
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by office34 | 2009-08-31 00:00
2009年 08月 30日
秀次事件~『太閤記』より(5) 尽未来不絶の寺法
高野山へ放逐された秀次に対して、秀吉が下した最終判断は切腹の下命だった。増田長盛や石田三成の讒言によって、その決断に至ったというのが『太閤記』の解釈だが、悪の根元を奉行衆に押し付けて、秀吉は「泣いて馬謖を斬」ったかのようになっているのは、現代の一般的な秀吉観や秀次観と異なっていて面白い。この段落で、もう一つ大きなウエートを占めているのは木食応其をめぐるエピソードである。徹底した現実主義に立って秀次を見捨てているのだが、自らの立場や組織(高野山)を守ることを主眼にした判断は現代でも方々で目に留まるものだろう。なお、この段落にも、どうにも解釈に困る一節がある。木食応其が衆議を開催するにあたってのところに「よくよく思ふに某事今日あれば今日の某なり」とある部分である。「某」には「それがし」と読みが添えられているのだが、意味不明。「なにがし」と読み替えて、とりあえず<どんな出来事でも起こったその日限りの事である>としたのだが、これは文法や語法とは関係なく、全体の趣旨を重んじて一文の解釈をそこに合わせるという暴挙によっている。つまり<秀次を守っても今日一日で終わること、それに対して寺法は未来永劫に続く云々>という方向でまとめたのだが、乱暴過ぎるかも知れない。




尽未来不絶の寺法

 讒言者らによる秀次公追及は、公が高野山に籠もってからも続いた。考えてみるに、昔から讒言者は知恵が働くものである。増田長盛と石田三成は、公が生きていると自分たちの立場が悪くなると考えて、ますます誣告を重ねたのだ。二人の奉行がもっともらしく言うものだから、殿下も次第にその方向に流されてしまい、
「可哀想だが、腹を切ってもらうしかあるまい」
と言って、福島正則、福原長堯、池田秀氏を看取り役として高野山へ派遣した。

 高野山の秀次公にも、福島ら三人がやってくるとの知らせが届いていた。
「どうやら最期の時が来たようだな。この者たちは余に恨みを抱く者どもだ。石田らめ、うまく仕組んだものよ」
 そして玄隆西堂の方を見て、笑って言った。
「お前は急いで山を下りてくれ。そして母上のことを宜しく頼む。息子はこのように惨めな末路をたどることとなったが、せめて母上には来世にも幸せになってもらいたいのだ」
 玄隆西堂は落ち着き払って答える。
「私儀西堂は最期まで殿にお供する所存でここへ参りました。その旨を粟野秀用を通して申し上げました時より、下界のことは万事抜かりなく執り行っております。ご母堂が御ため、東福寺小庵の件もきちんと段取りを済ませてここへ同道させていただいておりますので、ご安心ください。つきましては、下山の儀は何とぞご容赦賜りますようお願いいたします」
 秀次公は、その行き届いた配慮に対して謝意を述べ、殉死を許したのだった。

 福島正則らの三使は青巌寺に到着すると、住持の木食応其を呼びづけた。「前関白殿御切腹の件は太閤殿下の御意であるとの書簡が奉行人より届いている」と言って、その書状を開いて見せた。そこにはこう書かれていた。
 太閤殿下の御意として申し付ける。秀次公御謀反の件、少しも疑いなきにより、ご切腹致すがよろしいとのことである。
 その地、山住みの罪人は、弘法大師がお慈悲を下され、助命されるとの教義があるとしても、尊父秀吉公に対しての逆臣の振る舞いは、極悪非道の罪過、到底許せるものではない。かかるときは、大師様はどのようにして救われるというのか。いかなる罪障人をも助けると如来弥陀に誓っておられるのだろうか。学侶の人々、行人方、一山へその旨をお伝えいただき、早々に処置に及ばれるがよろしい。なお三人の使いから詳しい説明があるはずだから、ここでは省略しておく。畏みて謹言申し上げる。
  
   文禄四年七月十三日
                         徳善院玄以  
                         長束大蔵大輔
                         石田治部少輔
                         増田右衛門尉
                         浅野弾正少弼
         木食興山上人
 木食上人は途方に暮れていた。寺法は遵守せねばならない。しかし、だからといって殿下の意向に背くわけにもいかない。十五日の明け方、執事を呼びつけて、福島正則らが持参した書状を示して、こう告げたのである。
「関白様の件はどうにもなるまい。議論はあろうが、あれこれ言っても始まらない。関白様をお守りするのは今日一日の問題である。それに拘って、未来永劫に渡って守らねばならない寺法と引き替えにすることはできないのだ。関白様には犠牲になってもらうしかあるまい。ともかく、全山の評議が必要だろう」
 木食上人に指示に従って衆議判が開かれた。席上では「寺法を根拠に公のご切腹をお救い申し上げよう」といきり立って言う者もいれば、「書状の趣旨も道理が通っている」と言う衆徒もいて、評議はいたずらに紛糾するばかりだった。一方では、三使らから全山総意の結論を早く出すよう急かされていることもあって、木食上人は衆徒の前に進み出て語り始めた。
「皆様方、そろそろまとめさせてもらってよろしいか。寺法に基づいてという声もなるほどその通りだろうが、その寺法も当山が繁栄していてのこと。この度、もしも殿下の意向に背いて、何らかのお咎めを蒙るような事態ともなると、当山の破滅にもなりかねない。関白様の御切腹を救い申すべく手を尽くすことは、かえって寺法をも破り、大師様開山の秘法をことごとく滅ぼしてしまうことになるのではないだろうか。とにかく、ここは急いで御切腹していただくということにしようではないか」
 あらかじめ決めてあった結論ではあったが、上人の口から冷徹に告げられると、衆徒はみな、疎ましげに睨みつけるばかりで黙るしかない。慈悲の心を捨てたのか、目先の利益を取ったのだろう、妻と子を殺した男らしい結論だ、肩からは煌びやかな袈裟を掛けて心は塵埃とはこのことだなど、言葉にはできない思いが衆徒面々の胸中を去来して評議の場は気抜けしたような空気に支配された。
 だが一同がどんな思いを抱いても、豊臣家との深い繋がりから権勢を誇る上人に非難の矛先を向けることはできない。ここ数年は秀次公との関係が厚かったことを思い、気心の知れた者同士で「まったく人とも思えぬ奴腹よ」と囁き合うのが関の山だった。

 金堂での衆議判が長引いていた頃、高野山としての返事がないことを理由に、福島ら三使は三千の兵で青巌寺を取り囲んだ。
「彼奴ら、何のつもりだ。」
 激怒したのは秀次公である。
「そこまで無礼な振る舞いをするのなら、こちらにも考えがある。雀部よ、連中を静かにさせてこい」
 そう命ぜられた雀部重政は木食上人に使者を送った。
「御使いの振る舞いは失礼ではないか。公は静かに御腹を召されるおつもりなのに、侍のあるべき姿を知らない不届き者だ。高野山としてはどのように対処する所存か。そもそも高野山においても、昨日までは君臣の礼儀を言って公を守っておきながら、今日になって寺法を用いないと言う。こうなっては、是の非の言ってはおられないこととなるぞ」
 強硬な態度を知らされた木食上人は慌てて三使の元に出向いて告げた。
「関白殿においても御切腹は覚悟いたしております。なのに兵士たちに命じて包囲なさるのは、このうえもない無礼な行為です。弓鉄砲を向けるような真似はなさらぬよう申し上げます」
 木食上人の口調も声を荒げたものとなっており、その強い抗議に三使は包囲を解き、軍勢を引きあげたのである。
(続)

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by office34 | 2009-08-30 01:26
2009年 08月 29日
秀次事件~『太閤記』より(4) 国の魂
『太閤記』の特徴としてしばしば指摘される「評して曰く」の段である。いわゆる歴史上の事象を並べ立てるだけではなく、作者小瀬甫庵の歴史観や思想に基づいて事件の意味を解釈する箇所である。ここでは、秀次の失脚は、関白職を蔑ろにしたことの報いであると論じているのだが、その道学先生風の口吻は措くとして、興味深いのは、所々にかいま見られる秀吉への視線である。秀次に関白職を譲ったこと自体が関白職を軽んじていると、秀吉も断罪されてはいるのだが、その一方で「ある老人曰く」とのスタイルを用い、その秀吉を弁護する意見も併せて載せる。徳川政権下での出版なので、豊臣家に対する一方的な糾弾を躊躇する必要はなかったはずである。甫庵のものではないが、淀君などは妖怪の一種として描かれることもあるくらいなので、ここでの秀吉弁護も、本来であれば必要ではない。にも関わらず、秀吉だけが悪いのではないという論理を進めるのは、思うに豊臣家と対立する勢力の治世となっても、一世の英雄として秀吉を仰ぎ見る眼差しがあったのだろう。ところで秀吉の後継として織田秀信を推すくだりは、文意不明の箇所。原文では「官職のために人を撰給(えらびたまふ)まじきならば、信長公嫡孫云々」となっており、厳密に訳すると「官職のために(=官職にふさわしい)人を撰ぶべきでない(or撰ぶつもりがない)のなら~」となり、文意が通じなくなる。ここでは「撰給まじきまらば」の箇所を誤りと判断して「撰給ならば」に読み替えた。




国の魂

 私見を陳べる。そもそも関白職は、ことわざにも、国の魂と言われている。ことのほか、高貴な職務なのである。それであるにも関わらず、太閤殿下は、しかるべき後継の人選を行わなかった。殿下が天下の実権とともにこの職を秀次に譲ったのは、私情である。私情というのは道理ではない。道理が欠けていると天命にも背く。いずれの場合でも天罰が下されてしかるべきである。
 私情に発する欲望、すなわち私欲は、これより大きいものはない。私欲のふくらみは、行く末の繁栄を表しはしない。義に背いて子孫の繁栄を心に強く願ったところで、天はけっして許さないのだ。古今の先例を鑑みても、私欲から繁栄を願った者は、その甲斐もなく子孫の途絶に至ることが多いではないか。
 もしも職責を果たしうる人選を行うのであれば、今回は信長公の嫡孫、織田秀信殿へ譲るのがもっとも適当ではなかったか。まったくそうなっていたら、かの聖代、周公旦の世が今の世に再現したと評しうるのに、どうしてわざわざ甥を捜し求めたりしたのだろう。これぞ私欲の極みではないか。
 ある賢老は、私と少し異なる考えを持っている。その方はこう言っている。太閤殿下の私欲にも、そこに至る事情があった。殿下以前には、関白職は一条院以来、五摂家で順廻しにされ、職責を重んじた人選は行われてこなかった。この聖職は人の思惑によって汚されてきたのだ。その報いが重なって、ついには秀次のような者の手に廻ってきて、さんざんに汚れ果てたのだ。何とも恐ろしいことよ。
 よくよく考えてみると、殿下の心一つから生まれた私欲は、それまで五摂家によって積み重ねられたものに比べると小さく、秀次が関白職を汚したように見えても、実はその大元は秀次以前にある。その発端は実に恥ずかしい。
 周公が太公に「何に基づいて斉を治めればいいのだろうか」と尋ねた。太公曰く「賢者を尊び、功ある者を重んじるのがよろしい」と。周公曰く「後の世、必ず主君を殺す家臣が現れるだろう」と。太公が周公に「何に依って魯を治めるのがいいのだろうか」と尋ねた。周公曰く「賢者を尊び、親族を大切にすればいいだろう」と。太公曰く「後の世、次第に国家は弱くなるだろう」と。
 我が国で起こったのは、まったくその通りのことなのだ。天下国家がよく治まるも、あるいは乱れるも、すべて原因がある。じっくり考えるのがよい。関白職に相応しい人選を行わないのは、鳥に翼がなく、盲人に杖がなく、人に魂がないのに等しい。これによって国家の政治はその要諦を失ったことになる。
(続)

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by office34 | 2009-08-29 00:21
2009年 08月 28日
秀次事件~『太閤記』より(3) 益田少将走る
この段落は、秀次事件全体を俯瞰すると、寄り道的な感じがないわけでもない。益田少将という人物については、その詳細は調べきれていないのだが、脇役でも、人物にスポットを当てて、そのエピソードを膨らませるのは史伝によくあるスタイルだろう。ところでこの一段は会話文と地の文の区分が判然としない。英語とは違って、会話を地の文から明確に切り分けないのは古い日本語の文体的な特徴だろうが、現代語の感覚では解釈に苦しむことがママある。この段でも、どこからともなく益田少将の語りになったかと思えば、最後は甫庵の筆で閉じられている。解釈として心許ないところだが、段落の大部分を益田少将からの聞き書きというスタイルでまとめてみた。果たしてどうだろう。





益田少将走る

 秀次公の若君と妻妾たち三十人あまりは徳永寿昌の屋敷へ移送された。七月八日の夜のことである。一行には前田玄以と田中吉政が監視に付き添い、十一日にはそこから玄以の所領である丹波の国、亀山へ送られている。その間は、他からの接触は一切禁じるなどの命令が出されており、親しい者からの便りも望めなかった。彼女たちは後には京に戻され、洛中を引きまわされた上で六条(ママ)の河原での処刑に及ぶのだが、益田少将はこれら係累の方々をめぐる事情を詳しく知っているらしいので、話を聞いておこう。
「お気の毒と言えば、これ以上のことはありますまい。こんな話を聞いたのなら、とても生きておられるものではありません。私はもとは近江国浅井郡で小庵を営んでいた坊主でしたが、秀次公が天下の跡目を譲り受けられてから、私めを三奉行の一人に加えて下さったのです。感謝しても尽くせないのは、この恩をおいて他にはありません。だからこそ、今回のことがあってからは、お見舞いと称して亀山へ参り、皆様方のお命を頂戴して引導を勤めさせていただこうと決心したのでした。私には一人娘がおりましたが、浅井の縁で淀殿をお頼りするよう言い含め、大坂へ遣りました。また妻のことは、藤井太郎右衛門という者に任せました。亀山での首尾次第では首を刎ねるよう命じておいたのです。それで、二十二日の明け方、亀山へ急いだのでしたが、生憎なことに老ノ坂には厳重な警備が敷かれておりました。見舞いの者は身分によらず、すべて追い返されていたのです。聞けば、奉行衆の命令だということでした。それでせめて亀山での様子を教えてもらおうと、警備の者に少々の心付けを渡して、私は空しく帰ってきたのでした。その後、その者から聞くことができたですが、若君たちは亀山城の本丸に閉じこめられていて、そこへはその者も立ち入ることができなかったとのことでした」
 そういう次第なので、結局、益田少将も接触を諦めざるを得なかったという。
(続)

予告編/秀次公豹変/聚楽と伏見
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by office34 | 2009-08-28 05:31
2009年 08月 27日
秀次事件~『太閤記』より(2) 聚楽と伏見
秀次事件に対する『太閤記』の視点で興味深いのは、秀吉の意図の有り様だろう。謀反の噂が取り沙汰されるようになった段階では、秀次をかばおうとする姿勢で描かれている。今年の大河ドラマ「天地人」もその一つで、秀頼に対する親バカぶりを強調するのが現在一般的な秀吉像であるに対して、『太閤記』の論理ではそうはなっていないのである。この段でも地の文では、秀次をかばって、ことを穏便に収めようしているかのように読める。ただし、堀尾吉晴との会話の段階では重大な決心を秘めた雰囲気も漂わせているので、この段階で秀次を粛清せざるを得ないと判断したというのが、おそらく小瀬甫庵の解釈なのだろう。





聚楽と伏見

 殿下は国内の動揺がこれ以上に大きくなることを怖れていた。それでこのたびの騒動を鎮めるべく、手を打った。
「いいかげんな噂が囁かれるのも、直々の対面がないからだろう。すぐに伏見に来るがよい。いろいろと言われていることについて直接に話を聞いてみたい。そして春風が凍てついた氷を溶かすように、お互いの疑念を晴らそうではないか」
 そう言って改めて迎えの使者を派遣したのである。今回の使いは、宮部継潤、前田玄以、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊の五人である。
 さて、この一行が京に向かって出立した後のこと、殿下には何か思うところがあったのだろう、堀尾吉晴を呼び戻した。そして戻ってきた堀尾に向かって言った。
「彼奴めが空気を察して、顔を出さなかったら、どうすればよいかのう」
「ご安心ください。きっといいように取り計らい申し上げましょう」
 堀尾は、そう軽々しく答えのだが、殿下はしばらく考えてから告げた。
「貴様の命を、このたびと併せて三度くれてやることになるな」
 その言葉を聞いて、堀尾はことの重大さを痛感してじっと涙するよりなかった。

 先行していた四人に追いついた堀尾は、都に所用が出来たので先に行かせてもらうと言い、さらに馬を早めた。そうして三条で饅頭屋を営む道徹という男にもとにやってきた。
「今回の関白様の件、どうも簡単に収まりそうにない。殿下の命を承けてこれから聚楽第へ参るのだが、もし関白様が伏見へお越しになられないとのことになると、この堀尾、その場で差し違えてでも打ち果たすつもりでいる。お前には、今までいろいろ面倒なことを申し付けてきて申し訳なく思っておる。その礼として小袖など用意せねばならぬのだが、この期に及んでは何の準備もできていない。そこでこの書状をわが子忠氏に届けてくれないか。金銀も貰えるようにしたためてある」
 堀尾は、そのように言い残して、道徹のもとを去っていった。そして再び一行に合流して、聚楽第へと向かったのである。

 秀次公の前に控えて、五人の使いが登城の主旨を厳かに申し伝えたところ、ここは謹んで伏見へ参上すべしとか、いやとんでもない、そんなことをしてはいけないとか、重臣や近習たちは侃々諤々の論議となって紛糾を極めた。公の御前で畏まっていた堀尾が、一通りの発言が終わったところで公の様子を窺うと、公は何か覚悟を固めたかのようにも見て取れた。
 その時、息せき切って一人の男が飛び込んできた。摂津の国で堤防の工事を差配していた吉田好寛である。吉田は、公の前までづかづかと進み出て、一気にまくしたてた。
「伏見よりの御使いが参っていると伺い、慌てて馳せ参じました。野心の件、殿が本当にお考えであるならば、もとより伏見へ行くことはあり得ません。逆にわずかともそうしたことをお考えでないのなら、やはりここ聚楽第に居られて、何度でも物事の筋を申し上げるのがよろしいのではないでしょうか。それでもし太閤殿下よりのご容赦がいただけないのであれば、私めに一万の兵をお預けください。先陣をきって戦さを交え、忠勤を尽くしましょうぞ」
 当人はいかにも頼りになりそうな口振りで言うのだが、座は一瞬にして凍りつく。堀尾もしばらく公の反応を窺うよりなかった。秀次公が静かに口を開いた。
「もうよい、伏見へ参ろう」
 秀次公は戦さは望んでいなかったのだろう、使者たちの求めに応じることとなった。
「それでは、このままお供いたしましょう」
 堀尾はそう言って、他の四人とともに、秀次公の一行に扈従することとなった。そうして三条道徹のところへは、このたびは一命を取り留めた旨の報せを送った。

 伏見へ到着した秀次公は城へは向かわず、まずは木下吉隆の屋敷に入った。そこで殿下からの命令を待っていたのだが、届けられたのは、予想通りの内容だった。
「対面には及ばず、高野山へ急ぎ登るべし」
 すでに覚悟を決めていた公は、すぐに髪を下ろして出家の身となり、供の侍百人も静かに剃髪を執り行った。今朝までは天下の主と仰がれていた方が、見るに堪えない姿となり、七月八日の夕暮れ刻に伏見を出立した。その夜の宿りは、井手の里、玉水となった。
 伏見から玉水までは、お忍びとはいえ、馬上の侍が二三百が付き従っていた。石田三成は、そこへ見張り役として徒侍を四五人ばかり付けていたのだが、報告を受けて、
「玉水から先は、御供には馬上を二十騎、徒侍は十人でよろしいでしょう。そのように木下も指図しているはずです」
と言い、殿下にもその旨が言上された。 
 九日からは近習ばかりわずかの者が付き従っただけの寂しいものとなった。雀部重政、山岡景以、不破万作、玄隆西堂らの面々である。夜は興福寺の一坊に宿を求めた。公は、方々から見舞いの飛脚がやってきて騒々しくなることを厭い、高野山に対しては見舞いの儀は一切停止すべしとの命令を下した。通達は駒井中務少輔と益田少将を通して廻文が出され、高野山の登り口にも入山を禁じる見張りが立った。
 明けての翌十日、高野山青巌寺に到着して秀次公はついに籠居となった。寺に入ってからは、この世での命運は言うに及ばず、来世のことも望めない、哀れな身の上となったのである。中秋前夜の夕刻、虫の声も、かつて聚楽第で聞いていた優雅な趣とは変わり果て、仮寝の宿に眺める月は冷え冷えとしていた。
(続)

予告編 / 秀次公豹変
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by office34 | 2009-08-27 00:40
2009年 08月 26日
秀次事件~『太閤記』より(1) 秀次公豹変
『太閤記』によれば、いわゆる秀次事件の発端は、関白秀次の豹変から始まる。必要のない武具をたびたび弄び、謀反の嫌疑が掛けられたのである。秀次の素行の悪さは「殺生関白」という揶揄とともに語られることが多いが、『太閤記』の中でメインに取りあげられるのは、残虐行為ではなく、謀反容疑の方である。ただこの容疑にはウラがあって、秀吉に対して増田長盛と石田三成が悪意に満ちた報告を繰り返していた、ということになっている。この讒言に加えて、毛利輝元と交わしたとされる起請文など、秀次にとって不利な状況が重なって、結果として謀反人と見なされるようになった、と描かれる。なおこの段落では、鹿狩りの随行たちが武具を隠し持っていた云々のくだりが解釈に悩んだが、分かりづらいところは割愛しておおよその筋で示しておいた。





秀次公豹変

 秀次公は変わってしまった。尾張にいた頃はこんなことはなかったのに、殿下より天下の跡目を譲り受けてからというものは行いが乱れがわしく、もはや愚かとしか言いようのないありさまとなった。側近の諫言も容れず、放埒な振る舞いばかりを重ね、あげく皆人々は公を疎んじるようになってしまったのである。
 よく引きあいに出される鷹狩りの一件についても、話しておく必要がある。公は、鷹狩りだの夜興引きだの言っては、本来は必要のない武器の類を取り揃えさせていたのだ。世の中が鎮まっているとはいえ、どんな時にも戦さの心構えを忘れないと言うと、なるほど勇ましくも見える。しかし、公の狩りはそんな綺麗ごとには収まらない物々しさだった。供奉する者たちまでが余計な具足や甲などを挟箱に隠しての随行で、いつでも取り出せるように準備していたのである。
 表向きは秘密裡の準備だったのだが、こんなことが秘密裡で終わるはずがない。関白様が不穏な準備をしているといった噂はすぐに言い広められた。そうなると、都の近郊で行われる小さな御遊も、さながら敵が近くに潜んでいる出城にいるかのような雰囲気となった。
 世に囁かれ始めた関白様御乱心の風評は、殿下の耳にも届いていた。もちろん、当の秀次公がそんな大逸れた考えを持っていたはずがない。しかし、疑いを招いても仕方のないことばかりをしていては、誰もが似た話を言上するようになり、最初は聞き流していた殿下の気持ちも揺らぎ始めた。一犬虚を吠えれば万犬実を伝える。俚諺にそう言う状況が公の周囲で起こっていたのである。

 事の真偽を糺さずにいきなり罪を問うことなど、殿下の本意ではなかった。それで、まずは使者を送って公の考えを尋ねたのだった。聚楽第へ派遣されたのは、宮部継潤、前田玄以、増田長盛、石田三成、富田一白の五人である。
「関白様に野心がおありのよう、太閤殿下があらあらお聞き及びのご様子。そのような話はもちろん出鱈目かと存じ上げますが、もっともらしく方々から報告が上がって来ますので、奉行衆も困っております」
「何と申す。思いもよらぬ話ではないか。余がこの城に起居しているのも殿下の御芳恩より他にはありえぬ。どうしてそんな企てを思い付こうか」
「私めもそう信じております。ただ口さがない連中もおりますので。どうでしょう、ここは殿下に対しまして忠誠を誓う起請文を出されてはいかがでしょうか。七枚継ぎの誓紙にしていただければ、殿下もさぞやお喜びになるかと存じ上げます」
「なるほど、そこもとらの言うことも分からぬではない。しかし、起請文となると、書くこと自体が恐れ多いことでもあるぞ」
「殿下を軽んじる気持ちがないのであれば、この際致し方ないことと存じます」
「そうか……」
 石田三成らの申し出を受けて、秀次公はすぐさま聚楽第へ吉田神社の禰宜、兼治を呼び寄せた。そして奉行衆の目の前で神々勧請を儀をはじめ、いろいろと仰々しい儀式を執行させた。その様子は、見ている者にとっても寒気を覚えるほどそら恐ろしいものだったが、その上で、公は殿下に対してはわずかばかりも野心の存ぜぬ旨を告げるのであった。
 使者たちは誓紙を受け取って伏見城へ戻り、殿下の前に示した。
「やはりそんなことだろうと思っておったわ」
 殿下のこの一言で、騒動は穏便に収まるはずだった。不穏な動きを恐れていた国中の人々も、皆喜びあったのである。

 ところがある。淀城の普請を仕切っていた木村重茲が、いったいどんな事情があったのか、女房用の輿に乗って、七月四日の夜、聚楽第にやってきたのである。そして人目を避けるかのように女房詰所から奧へ上がり、秀次公に面会して、その夜のうちに淀へ帰っていったのだ。
 この木村重茲は、木村定重の長子である。木村定重は殿下が取り立てた重臣だったので、重茲は豊臣の家政で力を振るってもおかしくない身だった。ところがその立場を三成に奪われ、取るに足りない地位に甘んじていたのである。それでもいつか秀次公に伝手をつけることで出世し、権勢も大きくなっていたらしい。そのため増田長盛や石田三成から目を付けられていたのである。
 増田と石田らは、木村の家中に間者を送り込み、その動静を毎日報告させていた。木村はそんなことになっているとは露知らず、聚楽第へたびたび顔を出していたのである。そんな成り行きを石田たちが報告を上げたものだから、殿下の猜疑心は再び大きくなっていった。
 また七月五日になって毛利輝元より、一つの報告がもたらされた。
「先の春のことですが、秀次公より当家へ家臣の白江成定が派遣され、誓紙を取り揃えて和を結びたいとの話がありました。関白様からのお申し出なので、私輝元も誓紙を書き上げたことがございます」
 この話は石田三成を通して、その時にやりとりされた誓紙の写しとともに、殿下に報告された。このような、秀次公にとっては都合の悪い話や品物が、方々から寄せられるので、謀反の心は少しもなかったのに、公はおのずと歴代の反逆人そっくりの立場に置かれていた。
(続)

予告編
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by office34 | 2009-08-26 00:48
2009年 08月 25日
秀次事件~小瀬甫庵『太閤記』より(予告) 
 知っていると思っていたのは単なる思いこみ、実はほとんど分かっていなかったという話。以前、三条木屋町にある瑞泉寺の秀次首塚を紹介したことがあったが(以前の記事)、それに関連して、いわゆる秀次事件なるものを調べてみた。と言っても、実はウィキペで調べて小瀬甫庵『太閤記』を読んでみただけだが、それでも、知っていると思っていた内容がかなりずさんだったことを痛感させられた。

 一応、当方の理解としてあったのは、だいたい次のような感じである。豊臣秀吉は関白職を甥の秀次に譲ったのだが、秀次の素行が悪すぎて粛清をせざるを得なくなった、というのは表向きの話で、実は秀頼が生まれたために、邪魔になった秀次およびその係累の抹殺を断行した云々、そんな秀吉の決断には石田三成の讒言が大きく作用していた云々、ただし石田三成を一方的に悪者仕立にするのは『太閤記』が書かれた徳川政権下での評価が影響している云々。

 アウトラインの中でもかなり大雑把なアウトラインというのなら、これでも問題はないと思う。しかし『太閤記』を読むと、この範囲では収まらない細部が描かれている。加えてウィキペなどの情報に基づいて『太閤記』の史料的な意味合いを問題にし始めると、話はどんどんややこしくなってくる。

 たとえば秀次の高野山入りに至るまで秀吉の対応がどう変わっていったのかということや、高野山の木食応其がみせた現実的な対応といったエピソードである。あるいは妻妾らの辞世についてもアウトラインレベルでは視界に入っていなかったものの一つといっていい。もちろん、これらをすべて歴史的事実と解するわけにはいかない。『太閤記』の著者小瀬甫庵は歴史家ではなく歴史作家であるとする、ウィキペなどの指摘に則れば容易に理解できる。だが傍証となる史料が得られないとか、信憑性の高い史料と齟齬するというだけで『太閤記』の記述を放置してしまうのもどうかと思う。歴史家の文章でないにしても、歴史作家の文章であることは間違いのないことなのだから、その方向からアプローチを掛ければ、面白みも見えてくるはずである。

 もちろん『太閤記』を一級の文学作品だとまで賞揚するつもりはない。軍記物の白眉といえば『平家物語』を推すに躊躇わないのだが、あの情感のある文体に比べると見劣りがするのは否めない。また、しきりに繰り返される天道思想にも食傷感がつきまとう。ただ優劣をいう以前に、きちんと読んでみるというのも必要な作業だろう。

 今回はせっかくの機会だったので、秀次事件のくだりだけではあるが、訳出を試みた。とはいっても、ベタな直訳調でもっていくと一文の長さや待遇表現(敬語)などで現代語に馴染まず、読みづらくなって面白みも削がれかねない。そこで現代語訳をベースにして、どころどころに補足、加筆、時には省略あるいは脚色を施す形でまとめてみた。底本は岩波書店の新日本古典文学大系の『太閤記』で、訳出箇所は巻十七の全体である。巻の章立てとして「前関白秀次公之事」「益田少将忠志之事」「秀次公御切腹之三使登山之事」「御切腹之事」「秀次公御若君姫君並御寵愛女房達生害之事」との目録が付されているが、長さや内容上のまとまりに即して、適宜分け直してみた。一応の目安だが、明日より十回の連載予定としておこう。
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by office34 | 2009-08-25 01:10
2009年 08月 16日
愛宕詣り(4)
 車のCMではないが、調べてみると××でしたというオチ。このところ「愛宕さんへは月参り」という俗諺をめぐって戯れ言を並べてきたわけだが、手元にある資料だけで誤魔化すのではなく、ちょっと本腰を入れてみたら、案の定、愛宕電車以前にもごく普通に使われていた。ということで、その報告で一連の戯れ言を切り上げておこうと思う。

 まずは用例の羅列から。
「風流比翼鳥」
有王おもひのあまり、伊勢へ七度、熊野へ三度、あたご様へは足を空になし日毎の参詣
「糸桜本町有」
どうぞあいつばかりは、まめで達者で屋敷で出世をさせたいと、コリャ伊勢へ七度熊野へ三度愛宕様へは月参りをしられたわいやい
「譬喩尽」
伊勢へ七度ナナタビ熊野クマノへ三度サンド愛宕山へは月参り
「東海道中膝栗毛」
さてもわれわれ、伊勢イセへ七度ナナタビ熊野クマノへ三度サンド、愛宕さまへは月参の大願を起し

 以上が『日本語大辞典』に出ていたもので、これ以外では『江戸語辞典』にも次のような説明と用例が載っていた。
いせへななたびくまのへみたび
たびたび寺社に参詣すること。「茶屋のおかゝに末代そはば、--愛宕様へは月参り」(歌舞伎草子)など古くから歌われた文句。<道中膝栗毛>「扨もわれわれ、--愛宕さまへは月参の大願を起し」、<滑稽富士詣>「それに旅といつたらほたる尻サ。中仙道が六十九次、東海道は五十三次、--ふじ山へ月参りをしたり」

 これら辞典類の紹介されている用例をみると、だいたい江戸中期から使われるようになり、江戸末期にはかなり広まっていた感がある。そして「伊勢へは七度、熊野へ三度」の部分が固定されていて、それに続く部分には流動性があるようだ。その中でもポピュラーなのが「愛宕さんへは月参り」で、結局のところ「伊勢へは七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」までが、まとまった俗諺と見なされるようになったのだろう。

 という次第なので、愛宕電車との関係で云々と考えた点についてはまったくの的はずれだったことになる。ただ、現在、よく言われているような”京都にはかくかくということわざがあります”というのは間違いだろう。出典を見る限りは、京都特有ではなく、ほぼ全国区であるといっていい。また、こんな俗諺があるからといって、京都では愛宕神社へ月参りするのが習わしだった云々というのも違うと思う。極端な事例を並べ立てて、度合いの著しさ(この場合は信心の篤さ)をいう言葉のように思える。言ってしまえば「嘘ついたら針千本飲ます」と言う時の、「針千本」のようなものだろう。「嘘ついたら針千本飲ます」ということわざがあるからといって、虚言の罰として針を千本飲ませる風習があったことにはならないのと同じである。

 ともあれ、この言葉が古くから使われていたということ、そして愛宕信仰が篤かったということ、それらの点については動かない、ということで〆にしよう。

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by office34 | 2009-08-16 03:24 | 京都本・京都ガイド
2009年 08月 07日
愛宕詣り(3)
 愛宕詣りネタでもう一くさり。これまでのところ、愛宕詣りや千日詣りの歴史が古いことはわかったが、問題は「愛宕さんへは月参り」という言葉である。この言葉がいつ頃から人々の口に上るようになったのかが問題、というあたりで前回は切り上げていたはずだが、その方向から少し突っこんでみたい。

 具体的に、この言葉が載っている文字資料が確認でき、その刊行年代がわかるのがあれば、一番都合がいいのだが、そうは簡単にいかないのが俗諺の俗諺たる所以だろう。とりあえず手許にあるものでいえば、かなり以前にこのブログでも紹介した「観光の嵐山」というパンフレットになる(参考までに)。嵐山保勝会によって昭和十一年に刊行されているものだ。嵐山界隈の名所旧跡を紹介する中で、愛宕山にふれるページで写真の傍らに「お伊勢七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月まゐり」と書かれている。この手の観光パンフレットに載っているくらいだから、昭和十一年の時点ではある程度はポピュラーだったのだろうが、これより溯るとなると資料も探し得ていない。したがって、昭和十一年の時点では深く定着していたとか、その頃から広まったとかの推測も立てようがない。資料が一つなのではお手上げなのである。となると、以下は根拠のない無責任発言である。

 まず、この言葉、確定的なテキストが存在しているわけではない。紹介する本によって、「お伊勢七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月まゐり」「伊勢へ七たび熊野へ三たび愛宕様へは月参り」「伊勢には七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月詣り」などなど、微妙に異なっての伝わり方となっている。そして字数は七・七・七・五である。さらに昭和の初期という年代、これらより総合すると、出所は口頭演芸の都々逸ではないだろうか。

 もし都々逸であるとすれば、それは単に七・七・七・五の音律に乗せるというだけではなく、内容的にもウィットやアイロニーがあって、それゆえに広く楽しまれた言い回しだったと考えられる。であるなら「愛宕さんへは月参り」というのも、なにがしかの捻りを予想するのがスジだろう。

 夏目漱石『三四郎』には、都々逸を披露することで口頭試験を免除してもらいたい云々の話題が出ている。
与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その一人が一人に向かって、口答試験を都々逸で負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、粋なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。
 「粋なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたい」というのが都々逸なのだが、ここでは話題になっている試験が簡単にはパスできないものだから、それを捻って笑い飛ばすという流れなのだろう。

 こんな調子で「愛宕さんへは月参り」を考え直すとどうだろう。伊勢神宮や熊野大社が信仰の対象として、一種のステータスをもっていたのは間違いがない。愛宕神社もそれに匹敵するくらいのものだったのだろう。しかも三者ともに簡単にはお参りができない、お参りをするのならそれなりの覚悟が必要という前提を据えてみる。そうなると、お伊勢さんなら死ぬまでに七回くらいはお参りしておきたい、熊野なら三回くらいかな、となる。

 それに続く愛宕神社のケースで捻りが入ってくるのだが、ポイントは昭和の初期という点にある。ここまでのところ、山の上のお社なので愛宕神社への参拝が困難としてきたが、昭和四年から十九年の間は例外期間である。というのは、いまや「幻の軌道」として好事家の間では、その痕跡が探検の対象にさえなっている愛宕鉄道およびケーブルが活躍していた期間なのである。前掲のパンフレットでもそうなのだが、愛宕神社へのお参りはケーブルを使ってホイサッサというニュアンスで捉えられないだろうか。参拝するのがたいへんと言われている場所を三つ並べておき、前の二つは評判どおりの難しさだから死ぬまでに七回とか三回とかしおらしく言っておいて、あとの一つは文明の利器をつかってパッパと片づけちまおうか、と落とすわけである。

 当然ながら、もしも「愛宕さんへは月参り」という言葉が、愛宕鉄道以前から存在していたとすれば、まったくの的はずれになってしまうのだが、それを承知の上で言えば、こんな感じだろう。

 行きたくてもなかなか行けないのがお参りの道、それでも一念発起すればお伊勢さんなら七回くらいは行けるかな、熊野はもうちょっと厳しいから三回くらい。あと一つ、昔からお参りするのもたいへんだった愛宕さん、こちらは近ごろ電車ができたから、便利になっちゃった。でもって毎月でも行けちゃうよ……




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by office34 | 2009-08-07 06:06 | 京都本・京都ガイド
2009年 08月 05日
愛宕詣り(2)
 昨日の続き。「愛宕さんへは月参り」という言い回しをめぐって、これが本当に月イチの参拝を言っているのかどうかということである。山上にある愛宕神社なので、いくら参道が整備されていたとしても、月イチの参拝は負担が大きすぎるのではないか、というのが出発点である。少し気になったので、辞典類に当たって、愛宕山、愛宕神社、千日詣などなどを調べてみた。面白い記述があったのは以下のようなところ。
七月三十一日夜半から八月一日にかけて参拝すると、千日分の功徳に相当するとされる。昔は山上の当社まで参拝が自由にできなかったため生まれた風習ともいう。
 淡交社版『京都大事典』(1984)の「愛宕山千日詣」の項にあった一節。「ともいう」となってはいるが、これによれば参拝の困難さが千日詣に繋がったとのことなので、当方が抱いた疑問と通じるところがある。
俗に「伊勢には七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月詣り」といわれ、全国に分祀されるもの八百におよぶ。
 竹村俊則『新撰京都名所図会2』(1959)の愛宕神社の項には、神社の沿革を述べたあとで件の俗諺を引いて、上のように言う一節がある。深読みが過ぎるのかも知れないが、「"愛宕さんへは月詣り"と言われるくらい、愛宕神社は全国に分社が多い」と言っているようにも読める。だとすれば、月参りの対象は山上にある愛宕神社とは限らないということにもなる。ただ、街なかの末社までカウントするのなら、逆に月イチでは少なくないか?
水無月下の四日を。千日詣とて。夜とゝもに行つたふ人々。松明をとぼしたて九折よぢのぼりしまゝに。かの酔翁亭記に書る。負者歌于塗行者休于樹前者呼後者応(負ふ者は塗に歌い、行く者は樹に休い、前者は呼い、後者は応ふ)とはこの時の興ならしと。ありありしう覚に侍りぬ。
【訳】水無月の最後の四日を千日詣といって、夜とともに、愛宕に行き集う人々は、松明を灯してつづら折れを登る。かの「酔翁亭記」に書かれている「負[お]ふ者[もの]は塗[みち]に歌[うた]い、行[ゆ]く者[もの]は樹[き]に休[いこ]い、前者[さきなるもの]は呼[よば]い、後者[あとなるもの]は応[こた]ふ」とは、この千日詣の風情のようで、欧陽の世界が眼前にあるかのごとく思われた。
 千日詣に関する記述で、目に留まった中では一番古いのがこれ。京都叢書所収の『洛陽名所集』(寛文四[1664]年版)の「愛宕」の項である。七月と水無月の違いは新暦と旧暦の違いというだけで許容範囲に収まるが、三十一日に限定されている現代の千日詣に対して、寛文の頃は「下の四日」となっていて、幅が持たされている。なお「酔翁亭記」(欧陽修の詞篇)については、千日詣の雰囲気が「酔翁亭記」の描く風情と似ているというだけで、欧陽修と千日詣が直接結びつくものでないのは言うまでもない。ただ、千日詣の雰囲気を言うのに、「酔翁亭記」を引き合いに出したのは、『洛陽名所集』作者の卓見だろう。事実、現代の千日詣でも、黙々と登っている人もいれば、ベンチと見るやすぐに腰を下ろしている人もいて、それぞれのペースで気ままに歩いている。あるいは、一つのグループの中で先行している人がいると、遅れている人を待っては声を掛けていたりして、「酔翁亭記」のようだとするのは、言い得て妙である。

 さて、とりあえず目に留まった資料のいくつかを並べてみたわけだが、この範囲では千日詣が江戸時代の初期には行われていたこと、愛宕の参拝自体が容易に行われるものではなかったこと、あたりが読みとれる程度で、当方が抱いた疑問に答えてくれるものは見あたらない。ただ、問題を絞っていくと、件の俗諺がいつごろから人口に膾炙し始めたのかというのが、一つのポイントになりそうな気もする。

参考:「酔翁亭記」(pdf版)




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by office34 | 2009-08-05 21:11 | 京都本・京都ガイド