Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2009年 09月 27日
鴨川の三角州(糺の河原)
 正式名称ではないけど、いつしか広まった呼び名、そして結果として本来の名前が知られなくなったもの……というと、京都では「土下座」像と「鴨川の三角州」あたりが代表格だろうか。

 前者は三条京阪前にある高山彦九郎像のことで、三条京阪が市内での主要ターミナルだった頃には待ち合わせ場所としてよく知られていた。厳つい表情の高山おじさんは土下座をしているわけではないのだが、その姿格好が土下座をしているように見えるところから、「土下座前で××時」という具合の使われ方をしていた。後者は、高野川と賀茂川が合流する台地の呼び名で、地理の教科書が教えてくれる「三角州」ではないのに、いつしか「三角州」とか「デルタ」とかの呼び名が一般的になった場所である。「土下座」については、いずれ書く機会もあるだろうから措いておくとして、今回は通称「三角州」の方にスポットを当ててみる。

 まずはものごとの順番として「三角州」の正しい意味合いを確認してみると、曰く「 河川の運搬する土砂が河口付近に堆積して形成され、上流に頂点をもつ三角形の低く平らな地形。デルタ。例、エジプトのナイル川河口部」(goo辞書)とのこと。かの合流点は河口などではないし、頂点は下流にあって、低く平らどころか盛り上がって段丘状になっているわけだから、三角州の定義には微塵も適合していない。なのに「三角州」と呼ばれているのは、思うに、あまりにもきれいな三角形地形が目視できるからではなかろうか。たとえ定義に反していても、イメージがみごとに三角なので「三角州」と呼ばれているのだろう。

a0029238_3275278.jpg こんなことを考えていると、では「三角州」なる名称が広まったのはいつ頃からかといったあたりに気も向いていく。俗称であるだけに確定は無理にせよ、少なくとも「三角州」という地理学の専門用語が普及してからのこと、かつ三角形に見えるポジションが確保されてからのことだろう。義務教育の範囲に「三角州」や「扇状地」などの地形用語が入った時期は知らないから、そちらは放っておいて、合流点がきれいに三角形に見えるのが賀茂大橋の上からだということの方を重視すると、賀茂大橋が架橋された昭和六年以降のこと、といったぐらいのところまでは絞り込んでもいいと思う(写真、賀茂大橋から見た「三角州」、写真クリックで拡大)。

 ところで、そもそものところ、かの「三角州」の本来の呼び名はなんだったのだろう。現在、よく使われるもので「三角州」以外の名前では、「出町(柳)の河原」とか「葵公園」とかがある。「出町(柳)の河原」というのは、あのあたりの地名が出町だということに依っていて問題はないのだが、「葵公園」の方はどうだろう。整備された公園名でいえば、実は「鴨川公園」*である。「葵公園」は、葵橋付近に限定しているのか、あるいはこれもまた出所不明の俗称かのいずれかだろう。これらに対して、由緒正しい呼び名を探してみると、現在ではほとんど使われることがない「糺の河原」「河合の河原」などが出てくる。
*京都府建設交通部都市計画課の管理する広域公園で、課のサイトでは鴨川および賀茂川の河川敷に整備された全域を「鴨川公園」としている。

 「糺の河原」は淡交社版『京都大事典』にも項目名で掲載されており、「糺河原勧進猿楽」(1433年、1464年)が用例として紹介されている。『京雀』や『雍州府志』など、江戸時代の地誌・案内記の類はまだ見ていないが、古くからの名前というのなら「糺の河原」でいいだろう。問題は、この名前がいつ頃まで使われていたか、いつ頃から使われなくなったかなどだが、明治時代の資料に「糺の河原」という言葉が登場するものがある。それは、やや意外な感もあるが、明石博高の文章においてである。

 槇村正直・山本覚馬・明石博高のトロイカ体制で明治の京都復興を推進した、その中の一人だが、明石の著述物には「謡曲名勝考」なるものがある。これは謡曲に登場する京都の地名を解説したもので、明治三十八年に書かれている。その一節、「鉄輪」について触れたくだりに、こうある。
夜るも糺のかはらぬは 糺は下加茂の一名にて、加茂御祖神社【割注/官幣大社】の神森を糺の森と云ふ森の南方に摂社河合社在すに由る、河合を「たゞす」訓じ、又只州とも、糺とも書せり、社の南にて加茂川と、高野川合流すれば河合とは云ふなり、此会合する所の流域、之を糺河原とて、古来名所なり寛正五年に観世音阿弥太夫が初めて勧進能を興せしも此河原なり「よるもたゞすのかはらぬ」とは糺河原にかけ、又糺の川水のかはらぬとて加茂御祖の威徳、源泉滾々永く渝らぬ霊威に寄せたるなるべし糺河原を渡り、糺の森の西手を北へ上るを路とす(『明治文化と明石博高翁』所収)
 最初の「夜るも糺のかはらぬは」のところは、「鉄輪」の本文だから、明石の文章は「糺は下加茂の一名にて」以下である。「河合」と書いて「ただす」と訓むというあたりなど、他の傍証を示してもらえないうちは鵜呑みにできない部分もあるが、細かいところは目を瞑っておく。ポイントは、二つの川が合流するところを「糺河原」といい、古くからの名勝地だった、ということである。ただ、この記述自体が注釈文だという点については注意が必要だろう。古典籍に基づく注釈文である以上、この文章に基づいて、明治三十八年時点で「糺の河原」という名前が通用していた証拠とするわけにはいかない。『京都大事典』に載っているからといって、現在も通用している名前になるわけではないのと同じである。ただ漠然とした見込みとして言うのなら、「糺の河原」という名前は、室町時代まで時計の針を戻さなくても、もっと近い頃まで使われていたのではないかと予想する一助にはなってくれると思う。

 とりあえず、現在のところ手許にある資料で言えるのはここまでなので、あとは例によっての無責任な放言戯言に堕してゆく。二川の合流点は明治大正の頃までは「糺の河原」と呼ばれていたが、賀茂大橋の出現によってそのきれいな三角形が一望できるようになってからは「鴨川の三角」「鴨川の三角形」などの名前が使われるようになり、それがいつしか「鴨川の三角州」という響きの似た名前に置き換えられた……いつも以上に無謀な展開で恐縮至極。
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by office34 | 2009-09-27 03:42 | 橋のはなし
2009年 09月 23日
池田屋「階段落ち」(承前)
 池田屋階段落ちの話で、「階段落ち」という言葉を定着させ、池田屋のイメージを確立したのは『蒲田行進曲』(1982)だろうということを書いた。世の中のほとんど人がイメージできる形での「階段落ち」を広めたのは、この映画だろうとは思うのだが、『蒲田行進曲』が「階段落ち」を初めてやった映画というのは間違いである。厳密に、その手の演出をさかのぼると、いくつかの先行作品があるようだ。

 池田屋に乱入した新選組と尊攘の浪士たちの間で斬り合いが始まり、絡みの中で尊攘派の一人が階段から転げ落ちるシーン、説明的に言えばこれだけのことである。主役が敵役を仕留めるといった、最後の見せ場ではないので、一連の流れの中でやり過ごされるものだったかも知れない。しかし、巨大階段でなくても、斬られるとともに階段の上から下へ転がり落ちるのだから、危険な演出には違いない。そのため、映画関係者の間では業界用語のような形で「階段落ち」という言葉が使われていたことは想像に難くない。『蒲田行進曲』は、本来は脇の一つに過ぎないその部分にスポットを当てた作品だった。そして作品が大ヒットした結果として「階段落ち」という言葉が一般にも知られるようになり、引いては巨大階段が池田屋のイメージを象徴するものとなったのだと思われる。

 そんな「階段落ち」の中でも、『蒲田行進曲』以前には、有名なものが二つあるという。一つは、1958年(昭和33年)の佐々木康監督『新選組』で、落ち役は汐路章。鞍馬天狗や月形半平太も登場する新選組モノということで、一度は拝見してみたいのだが、生憎まだその機会には恵まれていない。そんなストーリー同様、セットで使われた階段も突拍子もないものだったらしく、この落ち役に報奨金として一万円が付けられたという(『個性派俳優列伝1 汐路章』[1996年、ワイズ出版])。ちなみに昭和35年の消費者米価は850円/10kgとなっているので、一万円というと、役名のない出演者に支払うギャラとしては破格ものだったはずである。

 もう一つは1973年(昭和48年)に放映されたテレビドラマ『新選組』(鶴田浩二主演)で、落ち役は福本清三。この作品の「階段落ち」は、動画投稿サイトにも上げられているので、当方もそのシーンを見ることができた。福本清三といえばトムクルーズの『ラストサムライ』以来、映画通ならずともその名を知るようになった有名な斬られ役である。使われているのはごく普通の階段だが、場面の切迫感を加速させる落ち方はみごとである。落ち方が云々という目で見ると、迫力のある落ち方がなんたらとご託の二つ三つは並べたくなるところだが、こ難しいことを考えずに見ていても、斬られた一人が階段から落ちることで場面の緊張感が一気に高まるので、特筆されるべき1シーンだったのだろう。

 これら以外にも、その気になって探してみると、際だった「階段落ち」はいくつか出てくるかも知れない。時代劇は、映画全盛時代には、その主流中の主流だったわけだし、中でも新選組モノとなると、いくつもの作品がある。前回の書き込みでは、この手の演出を「階段落ち」という固有名詞のもとに定着させたのは『蒲田行進曲』だったのではないかと書いたわけだが、それは言い過ぎだったようだ。少なくとも映画界では「階段落ち」という言葉とともに、特別な場面ないしは演出として意識されていたようである。ただそうであったとしても、「階段落ち」ないし巨大階段はあくまでも映画の中の話であったはずである。それを銀幕の外にまで広めたのは、やはり『蒲田行進曲』の功績と言っていいだろう。
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by office34 | 2009-09-23 03:47
2009年 09月 19日
『蒲田行進曲』あるいは池田屋の大階段
 前回の書き込みで、三条小橋に新規オープンした居酒屋に触れたついでということで、フィクションと史実とのせめぎ合いみたいな話を書いてみようと思う。

 件の居酒屋は、チラシによれば「当時の池田屋の面影を再現」というふれこみになっている。その中でも目玉商品のごとく取りあげられているのが「8メートルの大階段」である。さて、ここで問題。言うところの大階段が本当に池田屋にあったのかどうか。もちろん、答えは否だろう。狭い敷地を有効に活用する京町家を思えば、そんな化け物階段は不要である。絶対に無かったと断言するのはできないにしても、常識的に考えれば無かったと判断できる。となると、当の居酒屋は出鱈目の歴史をデッチ上げているということになるのだろうか。ところがこの問いの答えもまた否である。

 というのはチラシには「当時の池田屋の面影を再現」「大階段も復活」等々の文言が踊ってはいるが、「当時の池田屋に大階段があった」とは一言も書いていないからだ。チラシの隅々まで目を通して、揚げ足取り狙いで近い言い回しを探ると、「新選組隊士と尊王攘夷派の志士が激しい闘いを繰り広げた伝説の大階段を再現」とあるところだろうか。ただこの言い回しでも、史実として大階段があったと言っているのではなく、伝説としてそんな階段があったという形になっている。「伝説」というのなら、確かにそういうイメージは広まっているわけだから、出鱈目には当たらない。結局のところ、幕末の池田屋には大階段など無かったはずだが、かといって、チラシの方も嘘を並べているわけではない、というあたりに落ち着いてしまう。

 さて、ここからが本題。今回は件の居酒屋を攻撃するための書き込みではない。「池田屋」という名前には特定のイメージが確立されているのだから、そのイメージを集客ツールに利用するのは悪い話ではない。名義の権利云々が絡むのならいざ知らず、旅籠の池田屋があった場所に同名の居酒屋がオープンして、イメージ世界での池田屋を利用しているだけの話なのだから、それはまあ勝手にやっといてくだされといったところである。こちらのメーンテーマは、大階段とセットになった池田屋のイメージがどのあたりから生まれたのだろうかということである。

 すぐに思い付く有名どころといえば、映画『蒲田行進曲』(1982年)だろう。作品の来歴でいえば、最初にあるのがつかこうへいの舞台劇で、続いてその小説化作品(つかこうへい)、それから映画化されたもの(脚本つかこうへい、監督深作欣二)という順番になっているのだが、映画が一番有名になっていると思う。

 それで問題の「階段落ち」について。映画版『蒲田行進曲』には、次のような台詞がある。
・「階段落ち」の無い新選組なんてお客が入ると思いますか?
・お前も知ってんだろ、十年前の『新選組始末記』で、「階段落ち」やったタカオカさん、まだ半身不随で寝たきりだって言うじゃないか!
 作中劇の形で演じられる「新選組魔性剣」なる映画のクライマックスシーンとしての「階段落ち」を話題にしている場面なのだが、これらの台詞を聞くと、「階段落ち」という固有名詞を伴った形での見せ場がすでに広く認知されているようにも聞こえる。小説版の方を見てみると、
しきたりなんじゃないの。新選組やるときは、暮れの二十八日の御用納めの日に、スタジオの前にパトカーと救急車待たせておいて、香典山積みにして、クレーンカメラのワンカットで、池田屋の『階段落ち』やって、大部屋一人殺すのが
という台詞まであって、認知度の確立されたシーンとしての位置づけが一層はっきりとしている。

 実際のところ、『蒲田行進曲』以前に「階段落ち」なるシーンが特別なものとして認知されていたのかどうか。これは、かなり怪しいところがあるように思う。物理的にいって、京町家の階段まわりで大立ち回りをするのなら、間違いなく一人二人は転がり落ちる者が出てくる。「梯子」とも呼ばれるくらい急勾配になっているのが普通の京町家の階段なのだから、池田屋への討ち入り→新選組と尊攘派との斬り合い→転落シーンとなるのはお約束というか、当然の成り行きなのだが、それがいざ「階段落ち」と呼ばれるほど固有名詞化されていたかどうか、つまり『蒲田行進曲』の台詞で語られるほどまでに確立されたものだったというと、どうもそうではなさそうな気配なのである。

 映画そのものは見ていないのだが、『新選組始末記』(1963年)や『新選組血風録 近藤勇』(1963年)でも、おそらくは池田屋襲撃のシーンがあって、大立ち回りの中で転落する尊攘派が映像化されているに違いない。そして、そのシーンは作品中でも見せ場の一つに設定されてはいることだろう。しかし、そのシーンが繰り返し再生産される名シーンとなっていたとの確証は得られない。「階段落ち」と固有名詞化させたのは、他ならぬ『蒲田行進曲』におけるつかこうへいの演出だったのではないだろうか。そうすると、十メートル近くの巨大階段というのも、デフォルメのようなものであって『蒲田行進曲』での初登場ということになる。

 ところで、こういう調子で書き進めていると、出鱈目の発信源として『蒲田行進曲』に矛先を向けているようにも受け取られかねないのだが、実は、個人的な感想ながら、この映画に対しては上質のコメディとして最大級の評価をしている。所々にトリックが仕込まれていて何度見ても楽しめるからである。中でも最大のトリックは、エンディングでそれまでのすべてをフィクションの世界に押し込んでしまう演出だろう。あそこまで鮮やかにひっくり返されると、作中劇で土方が龍馬の前で「明治という時代」と口走ったりするのももちろん、「階段落ち」がすでに確立された名シーンであることなども、ほんの可愛らしい嘘ということになってしまって、微笑ましくも思えてくる。

 そもそも、この作品、ハナっから嘘で塗り固めていることが宣言されていた。それはオープニングでの語り、
映画の撮影所というところは本当に奇妙で不思議な世界です。偽りの愛さえも本物の愛にすり替えてしまうようなこの世界では昼を夜にすることなど朝飯前の出来事なのです。
で予告されていたようなものであり、その徹底ぶりによって、逆に嘘と本当の境目が見えなくなってくるくらいでもある。映画が封切られてから三十年近くたって、作中のフィクションだった大階段がフィクションの垣根を食い破ってしまったのも、作品の嘘が洗練されていたことの証と言えるのではないだろうか。

 最後に余談を一つ。映画版『蒲田行進曲』には友情出演ということで真田広之が出演していて、鏡獅子の格好で立ち回りをしているのだが、なぜ鏡獅子なのだろうと考えてしまう。時代劇に登場するヒーロー役という設定なのは分かるが、鞍馬天狗とか桃太郎侍とか、そんなノリで鏡獅子が活躍する時代劇があって、こちらが知らないだけなのだろうか。それとも、作中劇の時代設定に沿い、鳥羽伏見の戦いなどでの薩長軍の格好から連想したものなのだろうか。まあ、これも数多く仕込まれている嘘の一つということにしておけばいいに違いない。ちなみに、鳥羽伏見の戦いなどでは、薩長軍の指揮官たちが歌舞伎の鏡獅子っぽいコスチューム(「シャグマの飾り」というらしい)になっているイメージがあるが、あれは歌舞伎とかとはまるで関係ないらしい。関係ない以前に、鳥羽伏見の頃にあの出で立ちになっているのも変とのこと(ネタ元は→Fishing & Pet loving has now become a craze.)。
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by office34 | 2009-09-19 05:55
2009年 09月 14日
As Time Goes By
 近くを通りがかって気が付いたのだが、河原町三条東入の東宝公楽ビルがきれいさっぱりなくなっていた。映画館の東宝公楽が無くなるという話はだいぶ以前に聞いてはいたが、現実に建物もろともに消え失せてしまうと、感慨めいたものも湧いてくる。東宝公楽に限らず、京都スカラ座(現在はミーナ京都)や八千代館(現在はWEGO)などが消える時にも、それなりに考えさせられるものがあったのだが、東宝公楽にも来るべき時が来たということなのだろう。

 この東宝公楽の場所は、昔は大沢商会が店を構えていたところだという。京都の近代史を概観する際、よく目に留まる大沢善助が創業した会社である。大沢商会の建物については、田中泰彦氏の『京都慕情』(昭和49年、京を語る会)にも写真が載っており、その説明には、
明治29年三条小橋西入で大沢商会は開かれ、金庫及び衡器と時計の販売をした。明治44年9月3万7千円で地上三階地下一階のレンガ造り、京都の商館建築として長い間市民に親しまれていたが、昭和36年頃に新町五条に移転し、大映公楽に変身した。現在は東宝公楽に模様がえをした。
とある。輸入商社の大沢商会が映画会社の大映公楽に宗旨替えをしたかのようにも読めるが、そうではない。大沢商会が移転した後、ここに大映公楽が入ったというのが正しいはずである。もとの商館がいつまで存続していたかなどの細かいところは分からないが、商館建築がそのまま映画館として活用できるとも思えないから、すぐに別の建物となったのだろう。そして昭和47年(1972)に大映が破綻した後、東宝の上映館となったのである。

 この東宝公楽の二軒隣にあるのが、新選組ネタでたびたび取りあげられる池田屋跡地である。数年前まではパチンコ屋で、店の前にひっそりと石碑が建てられているのがアンバランスで面白かったのだが、そのパチンコ店も今はない。その跡地はしばらくゴースト化していたが、最近になって居酒屋フランチャイズの「池田屋」という店になっているようだ。池田屋という名前の資産価値を思うとパチンコ屋よりはだいぶ有効利用しているように思えるが、「旅籠池田屋の面影を再現云々」(同店のチラシより)とかいうのはどうだろう。ちょっとあざといかも……

 同様に時と共に移り変わるといえば、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡地もまた最近になって入れ替わった。かつては京阪交通社の営業所があり、店前の石碑がこれまたアンバランス感を醸していたが、つい先日、工事が始まっており、別の店になるのだなと思っていたところ、こちらはコンビニとなってアンバランス感をさらに増幅させていた。あまり見映えのするものではないが、何かの記録になるかも知れないので、写真でも貼ってみよう(写真クリックで拡大)。


在りし日の東宝公楽と現在
(上は三条小橋方面より撮影、下は逆方向から)
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【左】池田屋跡地(赤丸内が石碑) 【右】近江屋跡地(赤丸内が石碑)
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by office34 | 2009-09-14 01:23 | 街角の風景
2009年 09月 05日
秀次事件~『太閤記』より(まとめ) 
 豊臣秀次が粛清された事件、いわゆる秀次事件の顛末を『太閤記』からの訳出という形で紹介してきた。予告のところにも書いたように、厳密な意味での現代語訳ではなく、必要最小限の範囲で加筆や脚色も施してる。中には最小限の範囲を逸脱してしまっているところがあったかも知れないが、そのあたりはご愛敬ということでご容赦いただきたい。あるいは、それ以前に本文解釈をめぐって、たくさん問題もあるのではないかとの不安も残っている。ただ、それでも、どうにかこうにか途切れることなく最後まで来られたようだ。最初に連載宣言したこともあったので、ひとまずはやれやれといったところである。
秀次公豹変/聚楽と伏見/益田少将走る/国の魂/尽未来不絶の寺法/秀次公切腹/殺生関白/妻たちの運命/辞世の歌/虐殺

 今回、秀次事件をピックアップしたきっかけは、木屋町三条の瑞泉寺にある首塚だった。以前に触れた際、その最後のところで
もし首塚をミステリーやホラーのカテゴリーで扱いたいのなら、おそらくはこの秀次首塚が一番相応しいのではないだろうか。
といったことを書いたのだが、これは江戸時代を通じて早くから怪談ネタとして秀次事件が注目されていたからでもある。最も知られているのは上田秋成『雨月物語』所収の「仏法僧」だろう。夢然と号した隠居老人が息子の作之治を連れて高野山を訪れたおり、秀次及びその近臣らの亡霊と遭遇するというストーリーなのだが、完成度の高さから言っても、この右に出るものはないと思う。ただし、上田秋成が初めて秀次事件を怪談タッチに仕上げたというのではなく、「怪談とのゐ袋」など、秀次事件を扱った怪談にはいくつか先例があるらしい(日本古典文学集成『雨月物語・癇癪談』頭注参照)。

 なお現代語の作品としては、『雨月物語』をベースにして、現代語の小説に装いを改めた、石川淳『新釈雨月物語』の「仏法僧」がある。流麗な文体で描かれることによっておどろおどろしさが際だつ作品でもある。その最後のところだけでも紹介しておこう。
 しかし、耳のまよいか、たったいまどこかに鳥のなく声の、するどくひびいたのを聞いたようにおもった。何の鳥か、不吉な声であった。ふりあおぐと、雀一羽の影すら見えず、白昼の空まぶしいまでに澄みわたったのに、まなこくらめいて、
「ここはどこじゃ。」
「三条の橋でございます。」
 かくれもない殺生関白の悪逆塚はこのあたりと、おもうより足すくんで、夢然、橋の欄干にもたれかかると、たちまち白日の光くもって、風すさまじく、加茂のながれは谷川のせせらぎときこえ、ここはいずこの山の奥、野の末か、行きかうひとびと、みな血にまみれ、髪ふりみだして、男女のわかちなく、たがいにののしり、つかみあい、飛ぷ矢音、打つ太刀音の中に、他人の血をもとめてあらそう悪鬼のすがたをまざまざと現じた。
 面色あおざめた夢然のそばに、作之治ひとりおろおろ、しきりに介抱につとめるのを、通りがかりのひとが見かねたのか、ちかづいて声をかけ、
「御老体、どこぞおわるいか。お手だすけいたそう。」
 その親切そうなひとの顔まで、油断のならぬ鬼かとうたがわれた。
 ともあれ、無事完走ということで、一連の秀次シリーズはこれで打ち止めにしておきたい。最後に今回の訳文の全体をPDFにしたので、ご叱正等のコメントでもいただければ幸いである。

『太閤記』巻十七(訳)全文PDF
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by office34 | 2009-09-05 00:19
2009年 09月 04日
秀次事件~『太閤記』より(10) 虐殺
妻妾たちの辞世が長々と挟まれることで流れが分断されている感もあるが、前々回「妻たちの運命」からの続きで、八月二日に行われた刑の様子が描かれる。この刑は、後世には「殺戮」とか「屠殺」とか呼ばれるようにもなったのだが、それは甫庵のこの文章によるところが大きいのだろう。ただ、こうした虐殺が甫庵の創作かといえば、そうではなさそうだ。というのは、甫庵『太閤記』のネタ本とされる太田牛一『太閤さま軍記のうち』と比べると、「狗(えのこ)をさぐる如くして、二刀(ふたかたな)にさし殺す」とか「これを見るより、親々にいだきつきける姫君を、かなぐり取りに、ひんぱふて」を始め、表現の流用と言いうる記述が、他の場面よりもずっと多く見られるからだ。『軍記のうち』は、『太閤記』に比べて史料的な価値が高いとされることもあり、常軌を逸した形での執行には信憑性がある。関白職にあって、世に君臨した人物が誅されることだけでも衝撃は大きかったのだろうが、粛清の総仕上げとして行われた三条河原での刑は、そのすさまじさをもって後世に語り伝えられるものとなったのだろう。



虐殺

 刑場では他の御方々たちより先にと考えて介錯人の前へ急ぐ者もいれば、人より後にと臆した者もいて、人さまざまである。衆目にさらされたそんな動きもまた、哀れを誘ってならない。
 これからどうなるのかと見ていると、五十くらいの髭面男が進み出た。風貌以上に性根も荒々しく見えるその男が、子犬をつかみ上げるような仕草で可愛らしい若君を捕えてたかと見るや、二度ばかり刀を立てた。いきなり執行が始まったのだ。
 若君の母親やその他一同の者は悲鳴を上げた。見ている人々の間のここかしこからは嗚咽が漏れる。三歳になった姫君は、母上であるお辰の御方へ抱きついた。
「わたしもなの」
「大丈夫ですよ、南無阿弥陀仏と唱えなさい。そうすればお父上にすぐにでもお会いできるのですよ」
 お辰の方がそう言って念仏を勧めると、姫君は子どものたどたどしい口調で南無阿弥陀仏を唱え始めた。しかし十度くらい繰り返されたあたりだろうか、粗暴な河原者が割って入ってきた。
「そんなに願ったって叶わぬことよ」
 そう言って、母上の膝より姫君を奪い取り、その胸元を、こちらもやはり二度突き立てて、傍らへ投げ捨ててしまったのである。姫君のからだはまだヒクヒクと動いている。心を取り乱してしかるべきなのに、お辰の御方は気丈にも「非道なことをしないで、まず私を殺しなさい」と言って西に向かったのだが、言葉も終わらぬうちに首は身体の前に転がされた。見物者たちも正気を失って何が起こっているのかもわからなくなってしまったかのようだった。早々と八九人も手に掛け、それぞれの屍を若君の亡骸の上に積み重ねていくので、取り乱した女房が走り寄った。
「関白家のご子息さまの上に、こんなことがあったからといって、他の方の屍を重ねるとは何事か。奉行はなんのためにいるのだ。このくらいのことも止めさせられないのか」
 さんざんに罵倒すると、それからは介錯人たちの様子はためらい勝ちに見えた。
 哀れなものである。悲しいものである。見物人の間から聞こえてくるのは「こんなに痛ましいものだと分かっていたなら、見物などには来なかったのに」という悔恨の声だった。二十人あまりを切り続け、鴨川の水も色を変えていた。それとは対照的に三人の奉行は、顔色も変えず、ことさらに心を痛めているようにも見えない。鷹揚に構えているその姿は、やはり彼奴らが讒言者なのだとの誹りを招くものとなった。
 その夜、洛中の辻々に、誰の仕業か、落書が立った。
世の中は天下人一人のものではない。この世に生きるすべての人々のものだ。関白家の犯した罪は代々の関白家に対して行われた先例に則って処置されるのが正当なのに、下々の者が犯した罪でその妻子までが誅されるような、今日の暴虐は、まったくもって恣意的な取り決めである。将来にわたって栄えある政道ではない。因果の巡りがやってくることに御用心あそばされよ
と書かれ、その端に、一首の狂歌が添えてあった。
世の中は不昧因果の小車や
  よしあしともめぐりはてぬる
(この世の中は明々白々に因果の鎖が繋がっている。そのめぐりは小さな車輪のようなもので、いいことも悪いこともすぐに返ってくる。)

 私見を陳べる。秀次公は、人を殺傷することを好み、自らの手で試し切りも行っていた。盲人や乞食に酒を飲ませ、その後で「罪つくりに生きながらえるより、余の手に掛かってはどうだ」と言って、逃げようとするところを引き倒しては、脳天から切りおろすこともあったという。その因果はたちまちに返ってきたようだ。若君たちの筆舌に尽くせない悲惨な死に様は、哀れとも可哀想とも、言葉も失ってしまうほどのものだった。かの紂が忠義があって善良な者を火あぶりにし、妊婦の腹を割いた悪徳をも彷彿とさせる。

 秀次公の謀反に関与したとして、遠流に処された人々には、曲直瀬玄朔、里村紹巴、荒木元清、木下吉隆等である。たとえ秀次公に謀反を考えることがあったとしても、このような人々を連座に問うのはあり得ないことである。
 各人は、秀次公の反逆は知りも及ばなかったということを言上しようとした。しかし、増田長盛や石田三成の威に萎縮して取り次ぐ人も現れず、結局は奉行人の指図に任せて、それぞれの配所に向かったのである。
 また地方の国に預けられたのは、以下の人々である。
一、一柳可遊    江戸の徳川家康へ
一、同妻子     加賀の伊藤秀盛へ
一、服部一忠    越後の上杉景勝へ
一、同妻子     吉田清右衛門尉へ
一、渡瀬繁詮    常陸の佐竹義宣へ
一、明石元知    安芸の小早川隆景へ
一、前野長康    駿河の中村一氏へ
  同妻子     同人へ
  長子景定    同人へ

曲直瀬玄朔、里村紹巴、荒木元清は、後に赦免となった。この他はみな切腹が仰せつけられた。
(了)

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by office34 | 2009-09-04 00:00
2009年 09月 03日
秀次事件~『太閤記』より(9) 辞世の歌
秀次事件をアウトラインのみの理解で終わらせていると、完全に抜け落ちてしまうのが妻妾たちが残したとされる辞世の歌だろう。現在、一般に利用できる『太閤記』の本文は、当方も底本として利用した新大系本だと思うが、その脚注では歌の解釈は大胆にスルーされている。新大系本『太閤記』は、脚注の重点が歴史史料としての注釈に置かれているためだが、もう少し文章それ自体の解釈にも力を入れて欲しかったところでもある。というわけで、ここに並べている解釈は、愚案のレベルにとどまる。複雑な技巧を凝らして難解を極める歌は少ないが、注釈なしで完全に理解できているのかと糺されると、かなり不安が残っていることも白状しておこう。




辞世の歌

 この日に誅された方々には辞世が残されている。まず一の台の御方。この方は菊亭右大臣藤原晴季卿の娘で、他の御方々よりは上の立場にあった。享年三十四歳。増田長盛や石田三成らの讒によって、あり得えない謀反の咎に問われたのは悲しくて仕方ない。どうにもならない悔しさは辞世の歌に込められた。
心にもあらぬうらみはぬれぎぬの
  つまゆゑかゝる身となりにけり
(御屋形様が太閤殿下をお恨みいたすなど、心にもないことです。けれどもそんな濡れ衣でも、衣が濡らされた時には褄にも水が掛かってしまうのと同じように、御屋形様の妻である私もまたこのように刑場に消える身となってしまいました。)
 続いて他の御方の歌、
お宮の御方十三歳 一の台御息女

うきはたゞおや子のわかれと聞きしかど
  同じみちにし行くぞうれしき
(辛いことは親子の別れと聞いておりましたが、このたびは母上と同じ道を行くことができるのが嬉しうございます。)
お長の御方十八歳 美濃の国竹中貞右衛門尉息女

時知らぬ花のあらしにさそはれて
  のこらぬ身とぞなりにけるかな
(季節を知らない風によって多くの花々が散ってゆきます。私もまた他の皆様方とともに、何も残さない身の上となってしまいました。)
お辰の御方十九歳 尾張の国山口少雲息女姫君あり

かぎりあれや何を恨みんから衣
  うつゝに来たりてうつゝにぞ去る
(もとより限りあるのが人の世でしょう。こういう憂き目にあったからといって何を恨みましょうか。私など夢のうちに栄華を極め、夢のうちに消えていくだけなのですから。)
おさこの御方十九歳 北野松梅院息女若君あり

残しをくかぞいろの上を思ふにも
  さきだつ身よりわきてかなしき
(残していく父と母の身の上を思うと、先立つ我が身よりもいっそう悲しく思われます。)
中納言の御方三十四歳 摂津の国小浜殿息女

時分かぬ無常の風のさそひ来て
  花もみぢも散りにけるかな
(人の世は定めのない無常といいますが、無常の風というものは季節を決めずに吹いてきます。このたびはその風に誘われて美しき桜も紅葉もともに散ってしまいます。)
おつまの御方十七歳 四条殿御息女

故もなき罪にあふみのかゞみ山
  くもれる御代のしるしなりけり
(理由もない罪に問われている私ですが、近江の鏡山に雲がかかっているのも、鏡が曇ったさかしまな御代の証です。)
おいまの御方十九歳 奥州最上息女

うつゝとも夢とも知らぬ世の中に
  すまでぞかへる白川の水
(私が生きてきたのは御屋形様のありがたいお心ざしに満たされたところであるとともに、言われのない罪に貶められる濁った場所でした。夢か現実かも分からないそんな世の中に暮らすことなく、私も清き白川の水を求めて返ってゆきます。)
按察使殿三十一歳 秋庭殿息女

濁る世の白川の水にさそはれて
  そこの水屑となるぞかなしき
(白川の水は清く美しいと聞きます。濁り多き世の中では白川の水に惹かれはするものの、美しい水に浸ると引き替えに水底の藻屑となってしまうのも悲しいものです。)
おあこの御方二十二歳 美濃の国日比野下野守息女

濡れ衣をきし妻ゆゑにしらいとの
  あやしや先とあとにたちぬる
(濡れ衣を着せられた御屋形様の妻であるがため、私めには何も知らされておりません。知る知らぬの縁でいうと、白糸すなわち生糸が織りなす不思議のようなものなのでしょうか、先に逝かれた御屋形様をすぐ後より追うこととなりました。)
おさなの御方十六歳 美濃の国武藤長門守息女

消えてゆく身はなかなかに夢なれや
  残れる親のさぞなかなしき
(消えてゆく私自身は、かえって夢のようにぼんやりとした気持ちとなっておりますが、この世に残る親はさぞや悲しい思いに満たされていることでしょう。)
お国の御方二十二歳 尾張の国大嶋新左衛門尉息女

君ゆゑになみだがはらの白川や
  思ひの淵にしづむかなしき
(御屋形様を思うゆえに涙が溢れてまいります。涙川ならぬ、この加茂の河原で御屋形様の潔白を訴えても報われず、追慕の思いに沈むのが悲しい限りです。)
およめの御方二十六歳 尾張の国堀田次郎左衛門尉息女

千代までもかはらじとこそ思ひしに
  うつりにけりな夢を見しまに
(いつまでも変わらないと思っていたのに、すべては変わってしまいました、私が夢を見ていた間に。)
お菊の御方十六歳 摂津の国伊丹兵庫頭息女

先だつもをくるゝもみな夢なれや
  空より出て空におさまる
(先立つのも遅れるのもすべて夢なのでしょう、因縁の織りなす仮の姿より生まれて元の場所に収まるのです。)
お牧の御方十六歳 斎藤吉兵衛尉息女

妻ゆゑにきえぬる身にしかなしきは
  のこれる母のさこそと思へば
(御屋形様の妻であるがために、この身が消えてしまうのはやむを得ないと思います。しかし、悲しいのは母が悲しみを抱えたまま後に残されることです。)
おあひの御方二十四歳 古川主膳息女京衆なり

思はずも墨染め衣身に添ひて
  かけてぞたのむ同じ蓮に
(予想もしなかったことに墨染め衣を身にまとうこととなり、心から願うのは御屋形様と同じ蓮に生まれ変わることです。)
お竹 捨子

夢にしも知らぬうき世に生まれ来て
  また知らぬ世に帰るべらなり
(夢に知ることもなかった憂き世に生まれ来て、またも知らぬ世に帰って行くのでしょう。)
おなあの御方十九歳 美濃の国坪内三右衛門尉息女

いかにとも何うらみけん難波がた
  よしあしもたゞ夢の世の中
(どうしようかと言ってもいったい何を恨みましょう、「何うらむ」の何の縁で言う難波潟のヨシやアシではないけれど、物事の良し悪しはとにかく夢の中のことなのです。)
お藤の御方二十一歳 大草三河守息女なり。

父母にまみえまほしく侍れども、ゆるしなければ
(父母にお会いしたかったのですが、お許しもいただけないので)
いかにせん親にしあはぬうらみこそ
  うき世の外のさはりなりけれ
(どうしようか、親に会えない恨みこそが現世の外にも繋がる障碍です。)
おきいの御方 生国近江の国

咲けば散る花の秋風立ちにけり
  たまりもあへぬ萩がえの露
(咲けば散るのが花の命運です。そんな花にむかって激しい秋風がたつと、ひとたまりもなく消えてしまうのは萩の枝にかかる一滴の露です。)
お虎の御方二十四歳 上賀茂岡本美濃守息女

限りある身をしる雨の濡れ衣よ
  そらも恨みじ人もとがめじ
(雨が降って衣が濡れるのが当たり前なら、人の命に限りがあるのもまた当たり前でしょう。それを知っているので、たとえそれが濡れ衣だといっても、雨を降らした空を恨みはしないのと同様に、わたくしは他人様に恨みを向けることはいたしますまい。)
お小督の御方二十一歳 和泉の国淡輪息女

生まれきてまたかへるこそみちなれや
  雲のゆききやいともかしこし
(人の世に生まれ落ちて再び戻ってゆくのが御仏の教えであるのなら、生じては消える雲のありようはなんともありがたいものでしょう。)
おこほの御方十九歳 近江の国鯰江才助息女

是は儒道のあらましを聞き得しとなり
(この人は儒教の概要を聞き知っているらしい)
我はただみだの誓ひも頼まじな
  出づる月日の入るにまかせて
(私は阿弥陀の誓いも当てにするつもりはありません。月や太陽が昇ったあとにまた沈んでゆくように、このたびのことは自然のごく当たり前のことなのです。)
少将 生国越前

あめつちのそのあひだよりうまれきて
  同じみちにし帰るべらなり
(人はみな、天地の間に生まれて、また同じところにもどってゆくのでしょう。)
おこちゃの御方二十一歳 最上衆なり

濡れ衣をきつつなれにしつまゆゑに
  身は白川の淡と消えぬる
(御屋形様に濡れ衣が着せられたのであれば、衣に馴染む褄のごとく、妻として御屋形様のお近くにおいていただいておりましたゆえに、この私も清い白川に浮かぶ儚い沫のごとく消えてゆきます。)
左衛門の督三十八歳 河内の国岡本彦三郎母なりけり
これよりは万御用人也
(これからは諸事にわたる使用人たちである。)
なかなかに花のかずにはあらねども
  つねなき風にさそはれにけり
(私めは御屋形様のお側にはべる麗しい方々と並ぶものではありませぬが、普通ではない激しい風にあって花々が散るように、一緒に散らされてしまいます。)
右衛門の督三十五歳 播磨の国村善右衛門尉妹なり

とてもゆくみだの御国へいそげただ
  御法の船のさをなぐるまに
(これから向かうことになる阿弥陀の国へどうあっても急いでもらいたいものです。救済の船の棹が投げられるとともに、浄土に到るわけにはいかないのでしょうか。)
お今四十三歳 近江の国高橋息女

生国と名をよみかなへし事神妙なり
(生国と名前を歌に詠みこんだのはみごとだ。)
何事のとがにあふみの今なれや
  むしもあはれをなきそへにけり
(いったいこのわたくしはどういう咎めにあったのでしょうか。近江の今という名前ではありますが、罪にあった身の今この時となっては、虫の声も悲哀を添えているように聞こえます。)
東殿六十一歳 美濃の国丸毛不心斎女房

夢の間に六十あまりの秋にあひて
  なにかうき世に思ひのこさむ
(あっという間に六十回を余す秋に会って参りました。この年になっていったいどのような未練を、こんなつらい世の中に残すというのでしょうか。)
 これらの歌は、かねてより覚悟を決めて皆々方が詠んでおいたのだろう、それを一巻にまとめて出されたものである。
(続)

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by office34 | 2009-09-03 13:12
2009年 09月 02日
秀次事件~『太閤記』より(8) 妻たちの運命
秀次の切腹、重臣らの殉死に続いて、若君や妻妾たちが刑場の露と消える。この段落では、刑が執行される前日、当事者や縁者の悲哀が物語風の筆致で描きだされる。微妙な時間の推移や細部に立ち入った心情表現など、甫庵の筆も徐々に熱を帯び始めてくるところでもある。ここに至って、甫庵は歴史叙述者ではなく、物語作家となっていく様子が見て取れる。




妻たちの運命

 若君や愛妾ら係累の処刑は、前田玄以、増田長盛、石田三成が執行役となって行われたのだが、どのような思惑があったのか、兵士三千に武具を着けさせ物々しい準備が整えられていた。
 八月二日、三条河原には二十間四方の穴が掘られ、鹿垣が周囲を取り囲んでいた。橋の下の南側には三間の塚が築かれ、そこに秀次公の首が西向きに据えられた。寵愛二十余人の女たちに拝ませるがよいとのお達しが出されていたのである。またその早旦の聚楽第では、荒くれだった河原者どもが南惣門の西側に立錐の余地なく並び立っていた。具足や甲を着け、太刀長刀を抜き身で構えている者、弓に矢をつがえてている者など、ぞっとする眺めである。

 これに先立つ一日前、京内の徳永屋敷は重苦しい空気に包まれていた。秀次公寵愛の方々は、公の高野山入りとともに丹波の国亀山に送られていたが、七月末日に徳永寿昌の屋敷へ移っていたのである。儚い命は今日で終わるか、それとも明日までか、そんな最期の時を迎えていたので、禁じられていた近親からの手紙もたくさん届けられた。鶏の声もたて続けに聞こえるようになり、八月一日の空も霧がかった中でも明るくなってきた。知己の人々からも別れの手紙も届けられる。文を預かってきた使いの女房は、便りを渡した後も、それを入れていた文箱の片づけもせず、蓋を片手に持ったまま、目も赤らめて別れを惜しんでいる。そんな別れの場面は、傍らにいる者もどうしてよいのかわからなくなってしまう。
 一日はさまざまな悲哀の中で時間が過ぎてゆき、ほどなく日も暮れた。行水の事、経帷子の事、遺物の事などより他に行うこともなく、平家が没落した時以来の悲しみだろう。
 ある賢人が言っていた。係累の方々に及んだ哀しみの数々は、秀次のちっぽけな心のうちに端を発している。後々、国家を治める人は、この事態を深く胸に刻み、天助天罰の訪れは確実であることを肝に銘じておかねばならない。

 二日の朝、日も高くなってくると追い立ての役人たちが「ぐずぐずするな」と口々に言って急がせる。痛ましい光景である。何を言っても逃れられない命運に近づいていることを、各々は知っているのだ。二十余人の方々がよろよろと歩き出すと、心得のない河原者が、腕を掴んで引き立てては牛車一台に二三人ずつ押し込んでいく。御方々に対する不作法も涙ぐましいのだが、若君や姫君に対する荒っぽい仕打ちに到っては、苦悶の声を挙げない者はいない。処刑される自身のことは言うまでもなく、幼い息子や娘に向けられた仕打ちを見ては御方々の目には涙が溢れてくる。縁のない見物も、貴賤の隔てなく泣きだし、しばらくは収拾のつかない状況となってしまった。
 秀次公の寵愛を得ていた頃は華やかに着飾っていたのに、今日はうって変わって、白い帷子より他にまとうものはない。若君や姫君を乳母にも預けず、それぞれの母親が自らの膝の上で抱いている。子どもたちは罪のない声で「御乳もここへ呼んでよ」と言っているさまの愛らしさ、それだけに伝わる痛々しさは、これに以上のものはあるまい。
 一行が三条河原に到着すると、御方々は牛車から引き出された。皆人々は目の前に晒されている秀次公の首の前へはらはらと近寄った。
「ああ御屋形様、おいたわしや、今すぐにお供いたしましょう」
 声にならない声を挙げながら、伏し拝む様子は痛切の極みである。
(続)

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by office34 | 2009-09-02 00:00
2009年 09月 01日
秀次事件~『太閤記』より(7) 殺生関白
再び「評して曰く」の段。増田長盛や石田三成の讒言が事態を大きく進めたとしつつも、根本的な原因は天道による因果応報よるところが大きいと論じる。そうした流れの中で、控えめながらも石田三成らをかばう姿勢を覗かせているのは面白い。また後世には、そればかりがクローズアップされることになる秀次の暴虐行為、いわゆる「殺生関白」のエピソードは、この段落で初めて描かれる。



殺生関白

 私見を陳べる。秀次公が讒言にあったのは、とにかく関白という聖職を蔑ろにして、すべてにおいてその法制を違えたからだろう。早かろうが遅かろうが同じであり、天罰が下るのは自明のことである。そうなると、増田長盛や石田三成の讒言にも少しばかりは意味があったのかも知れない。
 秀次公の悪行の一つに、正親町上皇崩御の際に行った鹿狩りの件がある。院がお隠れになってまだ七日と経たぬうちの鹿狩りなどは以ての外で、関白にあるまじき行為である。本来は諒闇といって深く喪に服するところなのだ。昔は天下の臣民すべてが精進を心掛け、故院を偲ぶ気持ちがたいそう深かった。関白職ともなると、他の位階とは異なって、ことさら深い物忌みについたと聞く。なのに秀次公は殺生禁断の比叡山に押し入って鹿狩りをしてしまった。しかも誰憚ることなく大っぴらに行ったものだから、鉄砲の音も四方に響き渡っていたのである。
 当時、洛中の辻々に落書が毎夜掲げられた。
院の御所手向けのためのかりなれば
  これをせつしやう関白といふ
(院の御所の手向けとして行う狩りなので、それを行うお方を摂政関白ならぬ殺生関白という)
 上皇崩御と同じ年の六月八日、秀次公は比叡山へ女房たちを引き連れ登っていた。一昼夜を通しての遊興はふだんよりも、その悪行が並はずれていた。昼は一日中狩りを続け、夜は一晩中夜興を引き、鹿だの猿だの、餌食となった生き物の数は膨大であった。
 「この山は桓武天皇の御草創以来、殺生禁断、女人結界の山ですぞ。分別のある行動をしていただきたい」
 山の衆徒たちが木村重茲を通して苦言を呈したところ、公より返ってきたのは思いも寄らぬ言葉だった。
「余の領地である山において、余が遊興に耽っているだけではないか。それのどこが悪いのだ。それとも何か、天下人を他の誰かと交代するがよいということなのか」

 また南光坊に宿した際、料理の味付けがひどく不味そうだったことがあった。すると、公は、貧僧たちが細々と蓄えてきた味噌の中へ、こともあろうか、魚や鳥の肉を入れて汚してしまったのである。その他、放埒な行為は、常識を逸しており、まさに愚の骨頂だった。
 こういうこともあった。同様に比叡山での御遊の折、激しい雨が続いて下山予定の日を過ぎても山での滞留となったことがあった。その時、料理を担当している横田という者が院主に向かって言った。
「米を五石貸してくだされ」
「この山は昔から、そうした備蓄は多くは致しません。坂本より運ばせましたところ、量が揃わないとのことです」
 用意してあった食糧も底をつき、その晩は供人たちも空腹のあまり兵糧掛かりの横田を口々に罵倒し始めた。すると横田は自らの責を逃れるためなのだろう、ここの院主が不行き届きだとのことをわめき散らしたのである。それは秀次公の耳にも届き、公は「この山も自ずから亡びる時が来たようだ」と言って比叡山に対する憎しみは深めたのだった。

 同じ月の十五日、秀次公は北野へ向かった。盲人が一人、杖をついて通っているのを見つけ、秀次公は「酒でも如何かな」と声を掛けた。そして盲人の手を取った瞬間、右の腕を切り落としたのである。
「誰か、人はいないか、ならず者めが人殺しをしている、出てきてくれぇ、助けてくれぇ、お侍さんよぉ」
 盲人は大声で騒ぎたてたのだが、熊谷直之から「そんな姿になってまだ助かりたいと思うのか」と尋ねられて、さては殺生関白の辻斬りに出くわしてしまったのだと察した。
「前世に犯したどんな悪行の報いでこのような盲いとなったものか、目が見えなくなることだけも悲しいのに、腕まで切られて長生きなどするものか。さっさとこの首を刎ねて殺生関白の名を後代にまで伝えればよかろう。貴様は敵の首を取ることなど考えもしないのだ。関白という職にあって、天下の邪法を正すどころか、自らが邪法を行うのは、桀紂の再来であるぞ。因果はすぐに巡ってくるに決まっとるわい」
 悪罵を連ねた盲人だったが、秀次公の太刀によってその場で切り刻まれてしまったのである。

 私見を陳べる。不昧因果(因果の巡りは明らか)など言うどころではない。物事の道理なのである。これらの悪行と秀次公の滅亡には、符合することがある。秀次公は六月八日に比叡山に登って狼藉を欲しいままに行っているのだが、七月八日には高野山で憂き目に遭っている。六月十五日に北野で盲人を切ったことも、その刀で介錯を受けているのだ。昔は「因果を思って行いを正しなさい、因果は孫に及ぶか子に向かうか、それとも我が身に返ってくるものか」などと言ったものである。今ではそんな悠長なものではなく、「因果は皿の端や針の先を巡る」と言う。これは世俗の諺だが、なるほどその通りだろう。
(続)

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by office34 | 2009-09-01 00:00