Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
■■NOTICE■■
記事の写真(含・画像)は縮小表示されています。
写真をクリックすれば別ウィンドウが開き、原寸でごらん頂けます(別ウインドウのサイズは手動で調整してください)。
別ウィンドウは写真上でクリックすると自動で閉じます。
about 京都クルーズ
本丸はこちらです。


カテゴリ
検索
以前の記事
タグ
その他のジャンル
最新の記事
京都景観賞
at 2014-02-23 23:05
仁丹町名看板「下椹木町通千本..
at 2014-02-21 19:58
レプリカ仁丹
at 2014-02-19 14:18
曾根崎心中・道行き(通釈)
at 2014-02-15 01:07
曾根崎心中・道行き
at 2014-02-13 05:15
漢字の読み方
at 2014-02-11 06:03
鬼めぐり
at 2014-02-08 14:26
鬼の話
at 2014-02-05 23:22
献灯の刻名 ~山国隊(6)
at 2014-01-31 23:29
葵公園
at 2014-01-29 02:24
山国隊スタイル ~山国隊(5)
at 2014-01-22 21:34
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
at 2014-01-20 23:17
桜色?
at 2014-01-18 23:39
戊宸行進曲 ~山国隊(3)
at 2014-01-16 20:50
雪の木の根道
at 2014-01-12 16:55
山国隊灯籠 ~山国隊(2)
at 2014-01-09 19:01
山国隊(1)
at 2014-01-07 22:03
祇園閣・京都タワー・時代祭 ..
at 2014-01-04 03:43
時代祭、大いなる仮装行列 ~..
at 2013-12-30 16:58
本物でないということ ~キッ..
at 2013-12-28 15:48
なんとなく四字熟語
推奨ブラウザ
・Mozilla Firefox
・Google Chrome
・Opera

インターネットエクスプローラではコンテンツの一部が正確に表現されない可能性があります。
<   2010年 08月 ( 17 )   > この月の画像一覧


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
2010年 08月 29日
町名標石
a0029238_32570.jpg

 伏見界隈で目に留まる町名板というと、仁丹版の伏見市バージョンが当方の関心を一番刺激してくれるのだが、数量的なことをいうと、郵便局版かメンソレータム版が多いような気がする。郵便局版は今世紀に入ってからのものだが、メンソレータムの方はいつ頃のものだろう。「世界之家庭薬」という書きぶりには年代感が漂っているので、現在の商標所有者であるロート製薬の仕業ではない。たぶん近江兄弟社時代のものだろう(近江兄弟社がメンソレータムを扱っていたのは、大正九年[1920年]~昭和四十九年[1974年]*ウィキペディアによる)。

 今回、丹波橋のあたりをタラタラ歩いていた中でも、案の定、郵便局版はここかしこで見受けられたし、メンソレータム版も、素っ気なく「石屋町」との三文字だけが書かれたものが目に留まった。近くには郵便局版の石屋町町名板もあり、そちらには区名や郵便番号などの付随する情報も掲示されているので、それとの対比で「石屋町」という三文字だけの町名板が新鮮に思えてしまった。

a0029238_32492.jpg

 そうした郵便局版やメンソレータム版、あるいは仁丹版の伏見市バージョンは想定の範囲内だが、おもわずホォと思ってしまったのは、石の町名板である。町名板というと不正確で、町名表示の標石というのが正しい。詳しい情報は持ちあわせていないでの、単純に町名を表示するためだけの標石なのか、あるいは灯籠かなにかの残存部分なのか、その辺も不詳である。分かるのは表面に刻まれた文字だけで、下部はコンクリート舗装の下に埋没して、まだなにかの文言が続いているのかも知れないが、「桝形町」の部分までは地上で確認できる。背面は刻字の有無もよくわからなかったが、西面(正面から向かって右側)には「皇紀二千六百年記(紀?)」と読める。昭和十五年(1940年)の皇紀二千六百年記念行事の一環で据えられた標石なのだろう。他の場所で、このような町名表示の標石を見た記憶はなかったので、おそらく桝形町の町内組織が単独で設置したものと思う。この標石に関しては、これ以上掘り下げるネタもないので、とりあえずこういうブツを目撃しましたという報告だけに留めておく。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-29 03:05 | 町名看板
2010年 08月 28日
丹波橋、あるいはちょっとした僥倖
a0029238_133644.jpg

 丹波橋で丹波橋を見てきたというお話。京阪の丹波橋駅で降りて、丹波橋通をたらたらと歩いていた。すると、いかにも城下町を思わせるお濠のような川に差しかかった。カクっと屈曲した姿は見るからに人工河川であり、川端の石組みにも船着き場の痕跡らしきものもある(写真クリックで拡大)。

 伏見の歴史は、伏見稲荷大社や御香宮などの古社を持ちだすと話はややこしくなるのだが、一応は秀吉の伏見城築城に伴う街区整備に始まると見てもいいだろう。現在の伏見区の中心部を見て、そこの町名や通り名を思えば基本的な枠組みが秀吉時代に作られたことが窺われる。川の流れも街区に沿った形になっていて、この時に目に留まった箇所もその特徴が現れている場所だった。それで、川の名前でも確認しておこうと思って、橋の親柱を見たところ「旧堀川」とある。伏見の街なかを流れる川は「濠川」だと思っていたので、ちょっとアレ?と感じたのだが、次に反対側の親柱を見た時に、そんな小さなアレ?は吹き飛んでしまった。そこには「丹波橋」とあったのである(写真クリックで拡大)。

a0029238_133662.jpg ××橋という以上、当然のことながら、それは橋の名前なのだろう。「丹波橋」という名と出合ったところで、驚くには当たらない。しかし、一般に知られている「丹波橋」は近鉄か京阪の駅名であり、さもなくば、駅周辺の地域名だろう。そして、そうした丹波橋なる地名は、地域に住んでいる人なら知っているというレベルのものではなく、おそらく京都大阪を生活圏としている人なら、おおよそ知っているに違いない有名な地名である。

 ここで、丹波橋という地名が生まれる前提として丹波橋という橋があったなんて、当たり前の説明をされると元も子もない。要は、まったく身構えていないところに「丹波橋」という橋の名前が突きつけられたということである。東京の方の事情には疎いので思いこみ先行なのだが、「新橋」とか「柳橋」とかいうと、橋の名前ではなくて飲食店街というのか飲屋街をイメージするのではないだろうか。しかし、これまた、そんな地名の前提となる橋があったはずである。そんな橋が現在も残っているかどうかも知らない。仮に残っていたとしての話で、特に橋を意識しているわけでない時、とある橋のたもとでふと親柱に目を留めると、地名となっているその名前が飛び込んできた、そういうケースなのである。旧堀川と濠川の違いもちょっと調べてみたい問題ではあったが、突然の丹波橋は、感動というと大袈裟でも、プチ感動程度の印象は残してくれた。

 ところで、上に貼った写真だが、ストリートビューで同じ場所をみると、雰囲気がまったく違っている。上の写真では水が滔々と流れているわけだが、ストリートビューのものは、どぶ川と見まがう程の貧弱さなのだ。同定する場所が違ったかなと見直してみたが、やはり同じ場所である。それでよくよく比べてみると、ストリートビューの写真には河川敷があって、川幅が上の写真の半分くらいになっている。上の写真ではそれが完全に水没しているのである。ここ数日でそんなに水量が増えるような雨が降ったろうかと考えてみたが思い当たらない。あるいは季節的な事情なのだろうか。秋から冬場にかけて水量が減るのはわかるが、かといって、これほどの差が出るものなのだろうか。ともあれ、ストリートビューで見るようなコンクリート護岸のどぶ川なら、おそらく何の感興も催さずに素通りしたことだろう。事情はわからないが、溢れるくらいの水が「お濠」を思わせたからこそ目が留まり、そこから橋の親柱へ意識が向いたのである。ほんのちっぽけなことだが、巡り合わせの幸いの一つに数えておこう。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-28 01:35 | 橋のはなし
2010年 08月 27日
伏見市東大黒町の仁丹版
a0029238_1201040.jpg

 最近、仁丹版町名板のネタが巷でも話題になることが増えた気がする。たまたまニュース番組などで取りあげられることが重なっただけという見方もできなくはないし、取りあげ方自体にも疑問がないわけではない。とはいえ、頭ごなしに難癖を付けるにはよくない。森下仁丹が二十一世紀の町名板作成に乗り出したというのはこの上もない朗報(京都琺瑯町名看板プロジェクト)だし、どういう形であれ、ニュースネタになって注目度が上がれば、夜陰に紛れて失敬してゆく輩も少なくなるだろう。また改築に際しても、改めて掲示し直そうと思ってくれる建物所有者が増えるのではないかと期待する。

 もっとも個人的な関心でいえば、単にレトロでかわいいとかいった観点だけではなく、道ばたに残された石碑と同様に、時代の残存物という見方も積極的に押し出して欲しいという思いがある。旧行政区分の表示になっているとか、通りの旧態を反映しているとかの点である。

 このうち、旧行政区分云々というのは、現行の中京区や左京区あるいは東山区に、上京下京二区時代のままの表記が残されているというのが有名だが、それともう一つ、「伏見市」表記が残っているというもの大切だろう。現在では、いうまでもなく、「伏見市」なる行政区分は存在していない。現行の区分でいうところの京都市伏見区である。しかし、仁丹版がたくさん設置された時代には、まだ伏見市は京都市に併合される以前であり、町名板の上に「伏見市」と記されているものが少なからず残っているのである。当方の活動範囲からはかなり遠いということもあって、当方のリストには「伏見市中油掛町」の一枚しか入っていないのだが、『京都・もう一つの町名史』では二十四枚の報告があり、近年の調査でも二桁は行っているようだ(T.Mさんのサイト「悠久の思い出」)。

 先日、たまたま丹波橋の界隈を歩く機会があった。その折り、ふと目に留まったのが、上の一枚。仁丹版町名板の伏見市バージョンである(写真クリックで拡大)。「東大黒町」とあり、上記T.Mさんのサイトにもきちんと報告があがっている一枚なのだが、おや?と思ったのは、T.Mさんが撮った写真と比べると、バックが違っているという点である。T.Mさんの写真では土壁になっているところが、当方が見たものは板塀になっていたのである。下の方に写っている瓦の形状から判断して、同じ場所と思われるので、おそらく、ここ二~三年の範囲で建物の補修が行われたのだろう。だとすれば、その際に撤去されて行方不明となる可能性もあったわけだから、この「東大黒町」の一枚は、所有者によって大切にされている一枚と見做すことができる。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-27 12:09 | 町名看板
2010年 08月 25日
ブラットNavi®「龍馬 京の町を翔ける」
 以前、カセットミュージアムの観光音声ガイド「ブラットNavi®」の紹介をしたことがあった(以前の記事)。その時は、サンプルの部分しか聞いていなかったので、概括的な印象を述べるに留まっていたが、先日、坂本龍馬に触れた書き込み(以前の記事)をしたこともあり、またNHK大河の『龍馬伝』の方もいよいよ薩長同盟というところまできたようなので、ちょうどいいタイミングである。ブラットNavi®の「龍馬 京の町を翔ける」を聞いてみた。ナビゲータは、高松良誠、窪田涼子、笑福亭晃瓶の三名で、京都御所、二条城、薩摩藩邸、青蓮院界隈、木屋町界隈、伏見界隈などが紹介されている。

 京都市内における坂本龍馬関連史跡となると、円山公園の銅像であったり、霊山護国神社の墓であったりと、死後の顕彰に関わるスポットが有名なのに対して、生前の活動に関連するのは、伏見の寺田屋か、海援隊ゆかりの酢屋か、暗殺の現場となった近江屋ぐらいで、多くの場所が挙がるわけではない。京都は幕末動乱期には政治の中心となりはしたものの、神戸や長崎に拠点をおいて、フィクサー的な活動をしていた坂本龍馬の足跡からいえば、メインから外れるのかも知れない。

 そうしたことを踏まえた上なのか、「龍馬 京の町を翔ける」は、やみくもに坂本龍馬にこじつけるのではなく、幕末史の流れを重んじて、まずは京都御所、二条城、薩摩藩邸にスポットを当てる。いたずらに坂本龍馬をヒーロー仕立てにすれば、ただでさえ難解な時代であることに加えて、坂本龍馬のエピソードには伝説的な色合いが濃いので、史実とイメージの混乱が起きる。坂本龍馬の足跡とはストレートに結びつくわけではないが、時代の動きを知る意味でも御所等を抑えておくのは、一つの見識といえそうだ。また解説の内容も、坂本龍馬の書簡などの一次史料に重点をおいているので、実像としての坂本龍馬に近づくにはちょうどいいのかも知れない。

 もちろん観光ガイドという前提があるので、一つひとつの問題に対する掘り下げ方に物足りなさが残るのは否めない。しかし、耳で聞くだけのガイドであることを思えば、史料の解釈方法などまで小難しく掘り下げた話をされても、不親切になる。むしろ、おおよその解説をした後は、裏付けが確かなのであれば、小ネタ的なエピソードを並べておく方が、サラっと聞き流せるということもあって面白い(禁門の変に際して、長州側の木島又兵衛が倒れたのはこの付近とかの話はちょっと新鮮?)。そういう意味も含めて、幕末史のプチ案内としては上手くまとめているかなという印象である。

 歴史本コーナーだけでなく、京都本コーナーや観光本コーナーにも坂本龍馬が氾濫している今日この頃、「わしは平成の龍馬ゼヨ」とか言っている御仁に向けて、土佐の焼酎や軍鶏鍋のお店を紹介するグルメガイドの方が好評なのかも知れない。もちろん便乗と割り切って踊ってみるのも楽しいに違いないが、踊っている人が多いほど醒めた目を持ってしまうも事実。当方の趣味からいえば、史実と伝説は峻別したいし、イメージや伝説を扱うにしても、どこからそういう虚像が生まれたのかを追いかける方に面白みを感じている。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-25 04:49
2010年 08月 22日
革堂にて
 ご本尊の右側に幽霊絵馬は置かれていた。台座の上に据えられていて正確なところは分からなかったが、幅30センチ×高さ1メートルほどだろうか。左隅にはめ込まれた手鏡と、その横に描かれている幽霊画は十分に確認できる。お供えにポッキーが置かれていたのは、女児である「おふみさん」を慰めるという意味もあるのだろう。本来であれば本堂縁側から斜め方向、暗がりの奧に見ることになるのでよく分からないはずだが、幽霊絵馬のことを訊ねると、一週間前に来ていたことを覚えてくれていたのだろうか、絵馬の真ん前にあたる引き戸を開けてくれたので、絵馬を真っ正面から眺めることができたのである。

 革堂の幽霊絵馬とその謂われは、みなとやの幽霊飴と並んで、京の怪談の双璧である。話のあらましも方々で紹介されているはずだから、「革堂」「幽霊絵馬」あたりをキーワードにして検索をかければ、たくさんのサイトがヒットすると思う。それでダイジェストを繰り返すのも控えたいのだが、興味深く思ったのは、幽霊飴と違って、この伝説にはバリエーションがほとんどないということである。幽霊飴の場合は、飴を買いに来る女の残していった銭が木の葉になっているので不思議に思ったとか、銭がないから小袖で購いたいと言ったとかの揺れがある。あるいは、舞台が鳥部野ではなかったりするケースもある。それに対して、幽霊絵馬の方は、革堂に伝わる話という点が動かないのはもちろん、その謂われについても、強欲な主家からの虐待で死んでしまった子守娘が両親の夢枕に立って供養を頼んだというアウトラインは、ほとんどの紹介で共通している。おそらくネタ元がかなり絞られているのだろう。

 当方が知っているのは、緑紅叢書5「京の怪談」(田中緑紅、昭和32年、京を語る会)に採録されたものになるのだが、そこでは、
話は百六十三年前文化十四年の春まだ寒い頃のことと寺町竹屋町の革堂行願寺の和尚さんは本堂の東南隅に奉納してあつたこの絵馬について寺伝を話されました。
と、直接の聞き書き形式での紹介になっている。田中緑紅が取材した内容をそういう形式に書き改めたのか、聞き書きそのままなのかは、厳密にいえば確認できない。しかし緑紅叢書のスタイルから考えれば、後者のパターンで脚色はほとんど加わっていないとみた方がいいだろう。

 最初の言い出しっぺは不明でいつしか巷間に広まっていた話なら多彩なバリエーションが生まれてくる余地もあるのだが、登場人物の名前や属性にまったく揺れがなかったり、ピンポイントで年代が指定されていたりするあたりが、この幽霊絵馬にまつわる伝説の特徴といってもいい。そのあたりのことが念頭にあったので、今回、絵馬を見せてもらっているときに、お寺の方に訊ねてみた。「この話は、噂とかのものではなくて、はっきりとした事件として伝わっているものなんですよね」。すると、予想通り、「はい、そうです」と返ってきた。また「何かの模様が幽霊に見えるとかのことではなく、はっきり幽霊として描かれているんですね」とも振ってみた。そちらの方も、即答で「はいそうです」。具体的に、古文書とかの記録が残っているわけではないようだが、相当固定的な形で伝えられてきた話であるらしい。

 もっとも、お話をうかがっている中では、供養のために「円山応挙に絵を描いてもらった」との説明があったのだが、これは後付けの部分である。確かに、絵馬の幽霊には足がないし、幽霊の足を消したのは応挙を最初とするというのは、よく言われていることなのだが、肝心の応挙先生は文化十四年ならすでに鬼籍に入っている。まさか、幽霊の絵を描くために幽霊となって戻ってきたというわけではなかろうから、応挙タッチの幽霊画がいつしか応挙作と言われるようになっているのだろう。

 ともあれ、絵そのものもほとんど消えかかって確認するのが難しくなっているとか、幽霊と言われなければわからないとかの情報もあったので、やや不安には思っていたのだが、今回は、絵馬を真っ正面から見ることができたのが幸い、間違いなく幽霊画であることがわかった。信仰心薄弱な当方ではあるが、さすがにこれに対しては、おもわず手を合わせてしまった。


a0029238_2321842.jpg
右手に見える格子(赤色の丸の部分)の向こうに絵馬が置かれていた。今回は格子を開けてくれたので、縁側からではあるが、絵馬を真っ正面から眺めることができた。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-22 23:21
2010年 08月 20日
「語り継がれる幕末・維新の京都」あるいは龍馬復活
 北山の京都府立総合資料館で「語り継がれる幕末・維新の京都」という企画展が行われている。覗いてみようと思っていつつズボラをかましていると、会期(7/22~8/22)は残り二日。ということで重い腰を上げて出かけてみたところ、いくつか興味深い展示物も目に留まった。

 たとえば、坂崎紫瀾著『坂本龍馬』。解説によれば「汗血千里駒」(明治十六年[1883年])の改訂版として出まわった本とのことで、刊行は明治三十三年、博文堂となっている。NHK大河の『龍馬伝』では、香川照之演じる岩崎弥太郎に龍馬を語らせる役回りの新聞記者として、ド脇役ながら登場している坂崎紫瀾だが、坂本龍馬を明治の世の中に呼びだした人物として記憶される必要がある。

 もっとも後世の龍馬像をいうのであれば、坂崎紫瀾はその先陣を切ったという意味で大切だが、より広く知らしめたという意味では「葉山の御夢」と称されるところの、日露戦争前夜の明治三十七年(1904)に明治天皇后美子(昭憲皇太后)が見たとされる瑞夢にまつわる噂話の方が重要だろう。今回の展示には、それに関連するものはなかったが、円山公園の坂本龍馬・中岡慎太郎像の写真を飾っているくらいだから、霊山護国神社にある忠魂碑の写真とその解説くらいはあってもよかったような気がする(この碑および「葉山の御夢」については、伊東宗裕氏『京都石碑探偵』に詳しい)。

 ところで、当方の認識としては、ひとたびは忘れられていた人物でありながら、さまざまな伝説や尾鰭をつけて華々しい復活を遂げた点で坂本龍馬はきわめて希有なケースという捉え方をしていたのだが、少々事情が違っていたようだ。それは、今回の企画展の中でのコーナー、「30年・60年後の幕末・維新像」に付されていた解説による。いわく、
 30年・60年後の幕末・維新像
 幕末・維新の変動の中から、天皇を中心に据える政治体制が生まれました。明治初頭の西南戦争や自由民権運動など、大きな政治的変動が終息し、日清戦争に勝利して大国意識が生まれ始めると、新政府の歩みを歴史として振り返るようになりました。また、維新から約30年を経ると、世代交代の時期にも当たりました。
 その過程で、幕末の混乱の中で死んだ同志たちを振り返る動きも顕著になります。長州の吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、土佐の中岡慎太郎、坂本龍馬などに光があたり、顕彰が始まります。当時の歴史を振り返る指標は、国家体制を反映して、如何に勤王であったかということでした。(以下略)
 これによれば、坂本龍馬だけではなく、吉田松陰にしても、高杉晋作にしても明治の当初は過去の人として記憶の隅っこに追いやられていたようである。生前に親交を持った人々が故人を忘れていたというのではなく、世間に対しては彼らの功績を正確にかつ積極的にアピールしなかったということなのだろう。明治の三傑と称される木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛も、辛うじて方向性を固めるあたりまでの存命で、軒並み明治十年前後に世を去っており、新国家の実質的な舵取りは彼らの配下にいた者たちに委ねられる。後々には元勲と呼ばれる人々である。火急の問題が連続して歴史を省みる余裕もなかったのかも知れない。あるいは生々しすぎて時期尚早だったのかも知れない。しかし、それとともに数々の手柄を故人のものにしたくないとの思いもあったようにも思われる。いずれにせよ、死人にクチなしとでも言わんばかりに、亡き人々に対する顕彰は、等し並みに後回しとされていたようだ。

 幕末維新期の群像を考えるにあたっては、書簡等のリアルタイムでの史料、明治当初における評価、あるいは明治末期や大正昭和期ないしは戦後になって作られたイメージ、これらはそれぞれに区別して扱わねばならない事項だろう。話を後世のイメージに限定するにしても、新聞に代表される出版ジャーナリズムの思惑や動向、戦後であればテレビ文化という土俵の特殊性、そういったそれまでにはなかった要素が絡んでくるので、さらに注意が必要となる。坂本龍馬についていえば、司馬遼太郎『竜馬がゆく』(1962~66)のインパクトが大きいこともあって、世に横行する龍馬像は虚像だという批判も強い。だが歴史上の実像を論じているのか、イメージをもてあそんでいるのかをハナっから区別するのであれば、そうした批判自体も無用なものとなる。もちろん、実像とイメージを混同させる方が面白くなるのは間違いないことだから、話題づくりや便乗商法といった目的がある場合は、意図的な混ぜ返しもなされている。そうした動きに対する批判というのであれば、「イカンぜよ」と声高に言うのにも一理はある。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-20 19:48 | 京都本・京都ガイド
2010年 08月 19日
8/19といえば
 歴史上の人物に対する評価は、時代とともに揺れ動く。戦後になっていきなり人気が高まったという点では、坂本龍馬や新選組の面々などが典型かと思うが、その反対、かつては誰しも知っていたが、今では誰それ?どちらさんですか?との扱いとなる「元」有名人も少なくない。

 朝日新聞の「ますます勝手に関西遺産」なるシリーズに、三条京阪前の高山彦九郎像が取りあげられ(asahi.com参照)、銅像それ自体は「土下座」の愛称で親しまれているが、「そもそもこの人だれ? 」という方向で紹介されていた。記事を一読して、高山彦九郎の詳細がマイナーネタになっているのは認めるが、「誰?」というのはいくらなんでも言い過ぎだろうという気になった。しかし、その一方で、読み物としてはそういうラインを強調する方が面白いとの判断もあったかな、という気も沸々と。ともあれ、この高山彦九郎のように、かつては有名人だったが、今や……という人々を探すとすれば、当方としては三条実美以下の「七卿落ち」の面々を挙げておきたい。

 幕末の尊攘運動で、一時期、朝廷を掌握していたものの、いわゆる文久三年八月の政変で長州へ落ちのびた人々である。三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉、このうち三条実美は、七人を代表するポジションにあったことや、明治政府で太政大臣に担ぎ上げられていること、あるいは梨木神社に祭神として名を連ねていること、さらには今年のNHK大河でもいくばくかのセリフが与えられていることなどから、知名度が皆無というわけではない。しかし、三条実美以外の人々になると、かなりの歴史通でないと、思いを致すことは少ないのではないだろうか。

 ところが、この七名はかつては相当なレベルでの有名人であった。それは時代祭の行列に固有名が与えられて加わっているところからも窺われる。時代祭の歴史をたどれば、尊攘派の人々が過剰なまでに持ち上げられているのは当然といえばそれまでだが、世の中の動きや価値観の変動に伴ってどんどん影が薄くなっていった人々という見方をすることができる。以前、大田垣蓮月について、あれこれ書いたことがあるが、言うならば、彼女と同じような位置づけにある人々である。時代祭は、京都の三代祭の一つと称され、現在ではたくさんの観光客を集めるイベントになっているのだが、行列を構成する一人ひとりを検証していくと、この時代祭の時代性みたいなものも見えてきて面白い。

 ところで、本日は八月十九日である。ということは、十八日のクーデターで御所から閉めだされた七卿が、ひとまず東山の妙法院に身を寄せ、それから京都を後にしたその日でもある。旧暦と新暦の違いがあるわけだから、百ウン十年前のちょうどこの日ということにはならないが、細かいことを言わなければ、メモリアルデーと言ってもいい。ということで、さりげなく一首、
さりともの頼みもきれて絲すゝき
       みだれゆく世の秋ぞかなしき
 大田垣蓮月が落ち行く七卿を竹田村で見送った際に詠んだとされる歌である。このエピソードにも、後の世の創作か、はたまた伝説かという解釈が加わっているところなのだが、メモリアルデーということで大目に見てもらおう。

a0029238_5341412.jpg

秋ぞかなしき歌の碑は、歌碑自体があるのかどうかおぼつかないので、三条実美の梨木神社繋がりから、境内にある湯川秀樹歌碑を貼っておく(写真クリックで拡大)
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-19 05:44 | 歌碑・文学碑など
2010年 08月 16日
怪談?
 夏になると怪談の一つでも欲しくなる。ということで、革堂の幽霊絵馬を拝もうかと思い立って出かけてみた。物の本によれば、お盆の三日間に公開されているとのことなので、思い立ったが吉日というわけだ。

 ところが、どうしたことか、丸太町通から寺町に入ったところで、何のためらいもなく下御霊神社の方に入り、本堂のまわりをうろうろしては、無いなあ、データも古かったし、最近は公開していないのかな、などと頭を捻っていた。挙げ句の果ては、社務所に訊ねて、当社ではありません、何の話がわかりませんと、けんもほろろの応対を受ける始末。公開の時期が違っていたり、近年は公開を止めているとかの事情があるのなら、その旨を教えてくれるハズなのに、どういうことなんだろうと訝しがりながら境内を出たところで、はたと気が付いた。下御霊神社ではなく、革堂の方だ。

 出かける時点では、はっきりと革堂に目的を定めていたはずだのに、なぜ下御霊神社に入ってしまったのだろう。しかも入っただけでなく、なぜしばらく場所が違うってことに気付かなかったのだろう。ケアレスミスとか、勘違いとかいうには、あまりにも鮮やか過ぎる。幽霊絵馬の気か何かに触れたのだろうか。これは、ある意味、怪談かも知れないと、ちょっと冷たいものを感じてしまったとか、しまわなかったとか、お粗末。

 それで本題の幽霊絵馬だが、改めて革堂で訊ねてみると、「ああ、幽霊さんね、あと一週間先ですよ、二十二日にここへ出しますから」と、本堂の傍らを指さしてくれた。

 お愛想で、以前に撮った送り火の写真を一枚、ペタっと。おぉ、なかなかお見事な心霊写真になっちゃってるじゃないか……もちろん、ナンチャッテです。
a0029238_4195951.jpg

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-16 04:27
2010年 08月 13日
ご本家「歯神之社」
 昨日、御所の歯神を紹介したが、「歯神之社」の方も少し見ておこう。場所や、その失われた経緯は、紹介しているサイトも少なくないので、あえて省くとして、『京都民俗志』での扱いを中心に見ておこうと思う。

 『京都民俗志』には、「寛算石」の項目で「歯神稲荷」と紹介されているのだが、石の謂われを複数併記するなど、他の項目に比べて詳しい扱いとなっている。
(一)天から降った石である。東寺西院の天降石と並び称せられた。ちなみに同地は綜芸種智院の址の南に接し、東寺の勢力範囲であった。
(二)貶謫されて筑紫の鬼となった菅公が、雷と化して時平一味の藤原氏を苦しめるため京の空を鳴りひびいた。それを聞いた筑紫安楽寺の僧寛算も急ぎ雷と化して、畏敬していた菅公に和してともに鳴りとどろいた。しかし思いどおり藤原氏も衰滅する形勢となったことを看取するや、たちまち落下して畑中の落ち石となった。それがいまの寛算石であるという。寛算は菅公に関係ふかく、北野天満宮の長屋造の社のうちにも寛算の社というのがある。
(三)御所に仕えていた勧山という人が、その父を祭った旧址の石であるという。都名所図会には、寛算という山伏が恨むことがあって雷となり、落ちて石となったと見える。大鏡の三条院の条に、桓算供奉が御もののけに現れたことがあり、校註日本文学大系巻十二(昭和八年、誠文堂)の註には僧賀静をいうとある。
 寛算、勧山、桓山、官山などと書いたものもあり、平家物語にも見えるが、この石になにか関係があった人かどうかはわからない。
(四)たんなる陰陽石で、昔からいま一つあるといわれていたが、明治時代に油小路改修の際その一つを発見し、合わせ祭った。いま北西に接近してあるのがそれである。
 それぞれの説について見てみよう。まず(一)だが、天から降った云々は、(二)や(三)でいう雷となって云々というところに通じる。寛算石の正体は隕石だったとする説もあるようなので、そのあたりが関係しているのかも知れない。なお、(一)でいうところの「東寺西院の天降石」については調べが及んでいない。(二)の説は、おそらく、いま現在広く行われているものではないだろうか。かつて祠があった際に由緒を記す駒札があったのかどうか知らないが、「歯神之社」を紹介しているサイトの多くが、筑紫安養寺の寛算がなんやらとしている。(三)は大鏡など、文献に現れる「かんざん」なる人物にスポットを当てたものだろう。歴史上に「かんざん」と呼ばれた人物は数人現れているものの、寛算石との直接の結びつきは分からない。なお都名所図会における記述に関しては未見。(四)は文献等での裏付けはないものの、『京都民俗志』が出版された当時にリアルタイムで行われていた説だと思われる。在りし頃の「歯神之社」の写真をみると、それが該当するのかどうか分からないが、寛算石とされるもの以外にも、曰くありげな石がいくつか写っている。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-13 07:44 | 京都本・京都ガイド
2010年 08月 12日
御所内の「歯神」さま
a0029238_551657.jpg

 上の写真は、御所の堺町御門である(写真クリックで拡大)。ことわっておかねばならないのだが、京都で暮らしている人が「御所」というと、宮内庁の管轄下に置かれ、春秋に一般公開される場所を指すのではなくて、京都御苑全体を指すケースが多い。京都御苑と京都御所は、もちろん異なる存在である。石組みで囲われ、砂利が敷き詰められている部分や、テニスコートだのグランドだのを含めた全体が京都御苑であり、その内部にあって江戸時代に天皇が暮らしていた一画が京都御所である。したがって公式な色合いの強い発言や記述であれば、「御所」と「御苑」は使い分けねばならないのだが、個人的な感覚なのだろうか、日常会話の中では御苑という言葉を耳にした記憶はほとんどない。シチュエーション的な必要があったとしても、それを「御所」と呼び、聞く側も当たり前のごとくに判断して、御苑のことを言っているのだと考える。

 たとえば、「この道をまっすぐ行くと、御所に突き当たるから……」とか「御所のグランドに集合」とかの形である。使われるケースとしては、道案内などでのランドマーク的なものになることが多いが、そこで「御所」と出てきたところで、石組みの内側にあって普段は入れない建物のことをイメージするはずはない。おそらく市バスの運転手に対して「御所へ行きたいんだけど、一番近い停留所は?」なんて訊き方をしたとしても、「御所は普段入れませんよ」とかの返事はあり得ない。言葉の上で「御所」と「御苑」を区別して使っているか、あるいは表面的な区別はなくても頭の中で自動的に使い分けられているかの差は、京都在住者かどうかを見極めるチェックポイントの一つと言ってもいい。タクシーの運転手にも客から「テンイチの本店へ」と言われて「ハァ?」という反応をするクチもいるようだが、その手のモグリであれば「御所」と「御苑」を言葉の上でも使い分けるのに対して、感覚のレベルまで染みついていると、両方ともを「御所」としつつ、文脈で「京都御所」なのか「京都御苑」なのかを判別しているのである。

 さて、話がどうでもいいところへ流れてしまったが、「堺町御門」に戻る。公式にそういう位置づけが決まっているわけではないと思うが、御所の南面、そのほぼ中央にあるため、正門であるかのような門である。事実、葵祭や時代祭の行列は、この堺町御門から丸太町通へ出ているので、ここを正門と思っている人もいるとのこと。その堺町御門だが、ここから御所の中へ入ると、しばらくは砂利敷きが続き、それから芝生地に突き当たる。今回はテーマは、その芝生地にある、とあるブツなのである。

a0029238_551721.jpg この一枚は芝生地のすぐ手前から撮ったもの(写真クリックで拡大)。主役は写真の右端、立木の奧に写り込んでいる石である。不自然に大きな石がデンと鎮座している。左端の立木の奧にも、少し小さいが、似たような石が、これまたデンと居座っている。もしかすると、こちらの方が主役なのかも知れないのだが、とりあえず大きな方を主役としておこう。つまり「堺町御門の北側にある石」なるものが主役なのである。

 井上頼寿著『京都民俗志』という本がある。昭和八年(1933年)に刊行されたものだが、昭和六十二年(1987年)に東洋文庫の一冊として、利用しやすい形になった改訂版が出ている。京都の風習や民間伝承を集めたものなのだが、当初の出版が昭和初期なので、大正から昭和初期のデータとして貴重な一冊である。その中に、「石」をテーマにしたセクションがあり、「歯神」なるものが取りあげられている。南区には「歯神之社」なるものがかつて存在しており、近年、撤去された祠としてネットでも話題になった。ところが『京都民俗志』によれば、「歯神」なるものは、それだけではなく、御所の中にも存在していることになっている。
歯神
御苑内旧唐橋家跡[堺町御門北方]に岩がある。歯痛の者が願をかける風習が近年まであった。
とのことである。この「堺町御門北方」にあるという「歯神」が気になって、その所在を探しに出かけてみた。さすがに、堺町御門の北方というだけでは情報が少なすぎたし、唐橋家跡地と言われてもピンと来るものではなかった。それで、堺町御門の周りを少しだけウロウロして、すぐに管理事務所に訊ねに入ってみた。

 対応に出てくれた方は、環境省の人で、よく分からないとのこと。それで諦めて帰ろうとしたところ、ちょうど閑院宮邸跡が公開(といっても収納展示室は常時公開だ)されていた。ついでにという程度のノリで立ち寄ってみると、本日、御所に関する説明会とのことだったので、ついでのついでということでそれにも立ち会うことにした。お話は土御門第が里内裏となって以降の話で、メーンは江戸時代から明治にかけての御所の来歴。当方としても、少なからずの関心を抱いているところだったので、けっこう興味深く聞かせてもらえた。そして、その話が終わったあとで、担当の方に、今回の目的を伝えると、「ああ、そういう話があるんですか、その話は聞いたことがなかったんですけど、堺町御門の北側だったら、芝生のところに何か大きな岩がありますよ。私達もこれはなんだろうと思ってはいたんですけど、それかも知れませんね」とのこと。管轄する環境省の方でも、見るからに曰くありげながら、その由来が分からないということになっていたというのである。

 そうして教えてもらった場所に行ってみると、確かに、予想以上に大きな石、むしろ岩といった方が適切だが、それが鎮座していた。最初に探した際には、堺町御門の辺りをちょろちょろ、少し覗くにしても九条池の畔などといった程度だったので、芝生地の方は完全にノーマークになっていたのである。近くに、もう少し小振りな岩があるのは、上で触れた通りだが、ともに注連縄などが飾られているわけではなく、環境省がいうように、素性不明の岩である。果たして、これが『京都民俗志』が言うところの「歯神」なのかどうか確証を得るまでには至らなかったが、状況証拠的にかなりクロな物件としてクローズアップされたわけである。

 ここからもう少し掘りさげるとすれば、どうだろう。手がかりとしては、唐橋家跡ということだから、唐橋家について調べるということだろうか。南の方にも「唐橋」というエリアがあることを思うと、もしかすると、唐橋家の本拠はそのあたりであり、唐橋家が御所内の公家町に移転する際に勧請したとかの形で、今となっては消え失せた「歯神之社」と遠い昔のどこかで繋がっているのかも知れない。まったく推測の域を出ない話だが、万が一、そんな方向へ発展することがあれば、かなり奧のあるネタになりそうだ。


a0029238_551772.jpga0029238_551817.jpg
これが「歯神」さま? 左の写真が小さい方で、右のが大きな方(写真クリックで拡大)。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2010-08-12 06:03 | 京都本・京都ガイド