Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2011年 07月 31日
存在意義を問う
仁丹のものがその代表格と見なされている町名看板だが、そもそもああいうアイテムはなんのために存在しているのだろう。と、そんな素朴な疑問を抱かせる1枚に遭遇した。

森下仁丹の仁丹歴史博物館には
町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。
という記述がみられる。いま仮にそれに従うなら、土地鑑のない人に対して現在地がどこであるかを示すものということだろう。ただ、あまりにもマイナーな地名なら、そんな名辞を突きつけられてもハテ?と首を傾げるだけだから、設置の狙いがそのまま当たっていたかどうかは疑わしい。それでも、もう一つの役割である「広告」の方はきちんと機能しているはずなので、町名看板の存在それ自体の否定にはつながらず、現在に至っているのだろう。

そうすると、即効的かどうかはさておき地名表示機能が1であり、広告機能が2であるといえる。その際、表示の仕方によって1のウェートが大きくなったり、小さくなったりするわけだが、そこに設置の狙いみたいなものが垣間見えることもある。

なんとなく回りくどいことを書いている気がするのだが、ことの発端となったのはこの1枚。
a0029238_1325837.jpg

シンプルに「中京区 大宮通」とだけである。表記のバランスからみても、なにかの要素が欠落したのではなくて最初からこれだけを書くために作成されたのは明らかである。京都の地名表記は通り名を使うと言っても、1本の通り名だけでは用をなさない。そうすると、この看板の地名表示機能が果たしている役割は限りなく0に近いことになる。もちろん「中京区」という行政区が大切だったり、いま歩いているこの道が「大宮通」であるということにポイントを置く人が皆無とは言えないから、0というのは言い過ぎでも、限りなく0に近いという言い方は許されるだろう。

そうすると、これは何のためにとなるわけだが、必然的に浮かびあがるのが広告機能であることはいうまでもない。広告のために設置された看板なのである。「存在意義を問う」などと仰々しいタイトルを掲げてしまったが(そんな文言を口にした日には、怪しげなゴタクを並べているこのブログも存在意義を問われてしまう)、広告機能に偏重した看板を難じているわけではない。ただ町名表示看板のスタイルを取りつつ、その実質的な地名表示機能が0に近いものは珍しいのではないかという観点から、チェックが入ってしまった。

ちなみに件の看板の所在地だが、当然ながら写真だけでは分からない。ということで、仁丹風のスタイルで示しておくと、「中京区/大宮通六角下ル六角大宮町」となる。
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by office34 | 2011-07-31 01:44 | 町名看板
2011年 07月 28日
ナビゲーション機能の可変要素
支持、不支持、さまざまな意見がでている様子だが、skinのCSSを書き換えれば少しは雰囲気を変えられることが分かった。それで試しに、CSSへの追加をこうやってみた。

div#bbs_preview{
font-size:12px;
margin-top:60px;
border-top:solid 1px;
}

font-size:12px;   ・・・・・文字サイズが調整できるのは確認済み。
margin-top:60px; ・・・・・記事の末端からの距離も変更可能。
border-top:solid 1px; ・・・・・指定すれば罫線の種類が変わるかと思ったが、別の罫線が加わるだけ。

a0029238_12485612.jpg


これだけの範囲だが、ユーザー側で変えられるのは、文字サイズと上端のマージンだけかな?
画像の縮尺比率に関しては、多くの人が苦情を寄せているようだし、これはそのうち何とかなるに違いない。そのうえで、表示/非表示を判断するとして、とりあえずはこのあたりでとめておこうか。これら以外で触るとしたら、本文エリアと違う背景画像を設定してみるとかなんだが・・・これはドツボなことになりそうな???


<追記2011.7.29>
padding: *px *px *px *px;

一応反応はするが、FFとIEでは上下の解釈が異なる。topを0pxにしてもIEではデフォルトで余白を付けてしまうので意味なし。また画像が5枚並んだ時は左右の余白が限りなく0に近いので、paddingで設定していると5枚目がちょん切られる。よって、paddinngは使用不可。
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by office34 | 2011-07-28 12:56 | web & blog談義 
2011年 07月 27日
新機能?(追記)
一つ前の記事で書いた、ランダムリンク(ナビゲーション機能というらしい)の件、おくればせながらの公式の告知が出たようだこちら)。

目立ちすぎる印象に対しては先の記事で書いたとおりだが、機能としてはGJに一票ぐらい入れてもいい。ということで、なんとか目立ち方を抑制できないものかと探ってみた。すると、skinのcssに、

div#bbs_preview{ 
font-size:**px;
}

を加えることで対処できそうな雰囲気である。

本文の文字サイズとの比較になるが、一応、当方では12pxを指定してみた。これはいうまでもなくskin編集なので自己責任になるのだが、文字を小さくするだけで、見映えにすっきり感がもどってきたように思う。あと上下のマージンやボーダーラインなどをいじってみれば、記事から独立した内容であることがはっきりしてくるかと思う。
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by office34 | 2011-07-27 17:14 | web & blog談義 
2011年 07月 27日
新機能?
マニュアルやヘルプで探してみて、それっぽい記述もないので、正式の告知が出ていない新機能と思っているのだが、一つの記事から他の記事へランダムにリンクが張られるようになった模様である。

正確には、ブログトップでは表示されないのだが、過去の記事を表示させた場合、すなわちURLがhttp://office34.exblog.jp/*******/とでる場合なのだが、記事の下に「同じタグの記事」とか「同じ月の画像」とかが表示されている。個別の記事を表示させるのは、以前から何度もやっているが、これまで気づかなかったことを思うと、やはり新機能なのだろう。そのランダムリンクをいくつか試してみたところ、どうやら「月」「タグ」「カテゴリ」と「記事」「画像」の組み合わせが任意に作成され、そのうちの二つが表示されているようだ。

具体的には、起こりうる組み合わせは以下の6つ。
  • 同じ月の記事
  • 同じ月の画像
  • 同じタグの記事
  • 同じタグの画像
  • 同じカテゴリの記事
  • 同じカテゴリの画像
これらの中から、記事系一つと画像系一つがオマケのように現れる仕組みである。

さて、問題はこれは歓迎すべきか否かだ。一つの記事を読んでもらって、ついでにブログ内の他の記事へ飛んでもらうのは悪い話ではない。たまたまでもいいから訪れてくれた方がブログ内であちらこちら飛びまわってもらって、関心をもってもらうことには役立つはずだ。しかし、その一方でなんとなく見映えが宜しくないのも事実。ゴチャゴチャ感が漂っているのである。

当方の場合、オリジナルのスキンで一つひとつの記事の下にはoffice34のwebサイトなどへの固定リンクが画像バナーで表示されるようにしている。さらにその上にTBに関するお断りを入れている。今回、そこに加えて、同じなんちゃらの画像というのが出てくるようになったわけである。断り書きとリンクバナーだけの状態なら、まだシンプルな部類で、さりげなく「ここでお終い」というようなメッセージになるのだが、他記事リンクのタイトルと画像が加われば、それだけで一つのテーマを主張するボリュームがある。見ようによっては見苦しくなってしまうのである。
a0029238_6443156.jpg

1980年代の終わり頃だったろうか、90年代の頃だろうか、インターネットが一般にも浸透するようになった頃、やたらバナーリンクの多いwebサイトもあった。しかもそれぞれのバナーがgif画像でちらちら動いていたりするものだから、極端に見苦しい印象を受けたものである。そうしたweb草創期?に比べると、最近のwebサイトはかなりスタイリッシュになっているものが多い。web上で実現できるようになったさまざまな機能を活かしつつ、見た目の印象にも配慮がなされるようになっている。gif画像のバナーだらけというのは、今から思えば、デザイン面を抜きにして技術面だけが先行していた状態だったように思える。

今回の新機能だが、確かに機能にのみ着目すれば便利だが、機能の暴走になっている危惧もある。いろいろなパターンがランダムで表示されて楽しいとはいえ、パッと見の印象をゲソっとさせるのであれば、逆効果だろう。もちろん、<設定>→<環境設定>と進めば「他記事のテキスト表示」と「他記事の画像表示」という項目が出現しているようなので、視覚印象が悪すぎるとの判断になる場合は、それぞれを「表示しない」にすればいい。あるいはゴチャゴチャ感の根元は画像の方だけだとすれば、「他記事の画像表示」の方だけを非表示にすればいい。こういうところに一応の回避策が出ているので、まあ問題はないと言えば、その通りである。それに食わず嫌いもどうかと思うので、しばらくはお試し期間のつもりで使ってみるが、それでも、なんとなくあのひと言を添えておきたい気もする。








   あのぉ、大きなお世話なんですけど
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by office34 | 2011-07-27 06:52 | web & blog談義 
2011年 07月 26日
町名看板の誤記・・・・かも?
仁丹の町名看板における八坂通の扱いについて、以前、愚見を書いてみたところ参考までに、コメントをお寄せいただいた。通り名によるグリッド表記、すなわち「○○通××」(前にくる通り名は「通」を付けるが後ろにくる通り名は「通」を付けない)では八坂通だけは、後ろに来ても「通」をつけて「八坂通」と書くという話だったのだが、コメント氏がいうのはその現象は「御前通」でも見られるとのこと。

あわてて写真ストックで確認してみると、なるほど「今小路通御前通東入上ル」や「西ノ京両町太子道御前通西入」などがある。これはスカっと見落としていたようだ。十分に見ているつもりが案外見ていないものだと改めて反省させられたのだが、もしかして他にも見落としがあるのではとの恐れがふつふつと湧いてきた。

ということで改めて他のデータの見直しを始めたところ、まったく別の見落としがあったことを発見してしまった。町名看板の誤記である。

このブログで触れた範囲、というか当方が知っている範囲で、誤記と呼びうるのは「綾小路通西院東入上ル矢田町(西洞院)、「三条通南エ二筋目東大路西入南木之内町(南木之元町)、「下京区/田中下柳町」(上京区)の3枚である。昭和の初期の事情がどうだったかといったあたりを勘案すると、南木之元町のものなどは確証は得られていないが、町名がコロコロ変わる可能性を思うよりは誤記と考える方が確率が高い。他の二つは議論の余地無く誤記だろう。今回、新たに見つかったのは、この「議論の余地無く」のクラスで扱いたい1枚である。それが「御池通新泉苑町西入神泉苑町」である。
a0029238_12252712.jpg
眼目は通り名グリッドの後半「新泉苑町」である。グリッド表記の後半だから新泉苑町通を意味するのだが、常識的に判断すれば「神泉苑町通」だろうといいたいところである。しかし微塵程度ながら、町名の場合は神泉苑町であり、通り名の場合は新泉苑町通となる可能性も残しておく必要もある。地名表記は実際にどう用いられていたのかというのが一番重視されねばならないからである。案外、古い文書の住所表記などには「新泉苑町通」というものが出てくるかも知れない。原則的には誤りでも、慣習的にそれが広まってしまえば、そちらが正となることは十二分にありうる話なのである。

それでも、いわゆる常識的判断を前面に出すのであれば、実態以上に由来が重んじられる。そうなると、四の五の言わさずに「神泉苑」である。王城の中央に君臨して大内裏にも睨みを利かせていたかの禁苑が、その事実上の存在が消滅した後も、町名や通り名に残っていると考えるのが筋だろう。

さて、問題はどうやって確認するかだが、市役所などで土地台帳を確認するか、京町鑑のような古書とにらめっこするか、などなどいくつかの方法は考えられる。しかし、いずれにしてもかなり手間ひまのかかりそうな作業だ。そのうち、なにかの進展があれば改めて取りあげることとして、とりあえず、四枚目の誤記候補としてリストアップするに留めておこう。
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by office34 | 2011-07-26 12:36 | 町名看板
2011年 07月 24日
東山山頂公園の井上世外詩碑
a0029238_0551455.jpg
かねてより気に掛かっていた件について。将軍塚の近くに大きな碑があるのだが、何がきっかけだったのか、山縣有朋に関するなにがしかの顕彰碑だとばかり思いこんでいた。碑文をじっくり読んだわけではなかったので、どこかに「山縣」という文字を見て、そう思ったのだろう。ところが、その数年後に近くを通った際に写真を撮ってきて、碑文をみてみると、どこにもそんな文字は書かれていない。それで、一度、じっくりと検討せねばならないなと思いつつ、そのままの放置モードに落ちてしまった一件である。

このほど、その時の写真をつらつらと眺めていると、「井上世外」と読める箇所が目に留まった。井上世外、すなわち井上馨である。それでネット検索をかけてみると、いしぶみデータベースに「井上世外詩碑」というデータが登録されている模様。いしぶみデータベースなら、件の碑が最初に気になった折にも見ているはずだが、その際には何も見つけることができていなかった。将軍塚の近くという点で、地図による検索のみで終わったか、あるいは山縣有朋との思いこみからその名前で検索したかだろう、いずれにせよ、その時には手がかりとなるデータとは出合えていなかったのである。

さて、問題の碑だが、刻字のうつしとりが面倒だから放置していたわけだが、いしぶみデータベースに登録されているということは書き出しまではやってくれていることになる。読み下しや解釈は掲載されていなかったが、碑文があれば作業は早い。ということで、いしぶみデータベースから転載したうえで、試読をやってみる。
[西南]
山水増光 (印)(印)【白文印「邦彦王章」朱文印「?」】【以上篆額】
天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外 (印)(印)【朱文印「侯爵」白文印「井上馨之印」】
[東北]
碑陰記
碑面所勒世外井上侯句也建碑者中井慈眼翁也蓋桓武帝奠都之地山水明媚美甲于寰宇翁欲以為一大公園経営名区尽瘁不措今茲侯與春畝公来祭木戸公乃有此作翁於是卜地勒碑以培風致欲深富国之源其志美矣余惟園囿以招遠人不問雉兎芻蕘則文王之仁必達遐陬厥美更無窮極耳乃為記之
明治四十三年八月 浪華南岳藤澤恒撰文
伊勢錦山矢土勝之書
設計監督 安田時秀   肝煎 辻坂楢吉
鐫刻 芳村茂右ヱ門   運搬 松山米吉


京都フィールドミュージアム
いしぶみデータベース(HI148)より

-試読-
篆額:山水、光を増す
詩:天は海外三千界に懸かり、月は人間幾百州に満つ
侯爵井上世外


碑陰記
碑面の勒(ほ)る所、世外井上侯の句也。碑を建つる者は中井慈眼翁也。蓋し桓武帝奠都(てんと)の地、山水は明媚にして、美は寰宇(かんう)に甲(こう)たれば、翁、以て一大公園と為さんと欲し、名区を経営するに尽瘁(じんすい)して措(お)かざらん。今(いま)(ここ)に侯と春畝公、来りて木戸公を祭り、乃ち此の作有り。翁、ここに地を卜(ぼく)して碑を勒り、以て風致を培(つちか)いて富国の源を深めんと欲す。其の志、美しき矣。余(よ)(おも)えらく、園囿(えんゆう)は以て遠人(えんじん)を招くに雉兎(ちと)芻蕘(すうぎょう)を問わざれば、則ち文王の仁、必ず遐陬(かしゅ)に達し、その美は更に窮極(きわま)ること無きのみ。乃ちこれを記と為す。

訳案
碑面に彫られているのは井上世外[井上馨]侯爵の句である。碑を建てた者は中井慈眼翁[中井三郎兵衛、京都の実業家]である。桓武天皇が都をおいた地は、その山水は麗しく、その美は国内きってのものなので、中井翁はここを一大公園に整備せんとし、「名区を経営」(意味不明)するに力を惜しまなかったのだろう。今、この地に井上侯爵と春畝公[伊藤博文]が訪れて木戸公[木戸孝允]を祭ったのだが、その際にかの詩が作られたのである。中井翁は東山のここを適地と定めて碑を建て、景勝を整えて富国の源にしようとしたのである。その志しはなんとも素晴らしいではないか。私が思うには、良好な苑地が遠くから人を呼び寄せるのは、上下の区別をしないので、文王の仁[古代中国の仁政を施した聖帝、周王朝の祖]は、必ず僻遠の地まで及び、そしてその美徳が廃れることはない。ここにその趣意を記して碑文とする。

a0029238_10056.jpg
碑陰のデジタル拓本


結局、どこから「山縣有朋」が出てきたのか分からないが、篆額の「山水増光」から「山」の字をとって、詩文から「懸」の字をとって「縣」に置き換えていたことにしようか・・・・いいかげんな
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by office34 | 2011-07-24 00:09 | 歌碑・文学碑など
2011年 07月 22日
三条大橋の刀傷
三条大橋ネタをもう一つ。「三条大橋の擬宝珠というと」という口上から「洛陽三条之橋」云々の銘へ持っていったのだが、近年の傾向からいえば、どうやら擬宝珠に残る刀傷の方が話題になる頻度が高いようだ。いわゆる「池田屋事件の痕跡」とされるものである。
a0029238_1325221.jpg
結論からいうと、かなりのマユツバで聞いているのだが、とりあえず、紹介されるままの形を抜き出してみる。ネタの出所は橋の西詰に設置されている案内板である。
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です。
 三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。
どうだろう、どういう根拠で、この傷が池田屋事件の刀傷と考えられたのか、はなはだ疑問を感じる、というのが当方の受け取り方である。可能性の次元でいうのなら、元治の大火で人々が鍋釜家財道具を背負って逃げまどった時に何かが当たった傷なのかもしれないし、昭和十年の洪水の際に流れてきた何かがぶつかった跡であるといえなくもない。そうしたものではなく、間違いなく刀傷であるというのは、刀剣の鑑定士に見てもらってお墨付きでももらったのだろうか。

なによりも疑問なのは、巷間の言い伝えを精力的に収拾した田中緑紅がその件にまったく触れていないことである。確かに、ある事象に関して存在をいうのは実例を示せば済む話なので簡単だが、非在をいうのは容易ではない。田中緑紅が紹介していないからといって、そのネタが当時語られていなかった証拠にはならないのは百も承知である。しかし、雰囲気的には、池田屋事件のもの云々というのは近年になってどこからともなく出てきたネタであるような気がしてならない。

もちろん、寺田屋の弾痕のように明確に否定される反証があっての話ではない。傷のついている擬宝珠自体は、「洛陽三条之橋」云々の銘が記された秀吉時代のものなので、それ以降の傷なら、どんな形であれ、付けられる可能性はある。池田屋事件に際しての格闘も可能性の一つに含まれるのはもちろんである。ここで問題にしているのは、そうした数ある可能性の中から、池田屋事件だけが無条件に抜き出されたのではないかという疑念なのである。

冒頭に上げた解説板では断定は避けて、「~のではないかといわれており」となっている。その点では厳密な追及は避けられるだろう。もっとはっきり言えば、捏造とかの悪意のある行為ではないかと突っこまれたとしても、逃げることはできる、ということである。しかし、責任は逃れられるにしても、やや勇み足なのではという気がしてならない。話題づくりのため、客寄せのため、と言われたとしても、強く反論するのは難しいのではないか。

そこで一つの提案になるのだが、新選組などの人気にあやかりたいのなら、いっそのこと、こういう解説にしてはどうだろう。
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に大きな傷が確認できます。何か鋭い刃物で付けたような傷です。思えば、この場所は新撰組が一躍勇名を馳せた池田屋事件の舞台と目と鼻の距離にあります。もしかすると池田屋を脱出した志士たちと新撰組が斬り合った時に付いた傷なのかも知れません。三条大橋を渡る時に、ちょっと目をやってみて、幕末の動乱に想像の翼を伸ばしてみてはいかがでしょう。

ちと、長いか……。
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by office34 | 2011-07-22 01:33 | 変なモン
2011年 07月 21日
三条大橋の擬宝珠
五条大橋の擬宝珠に触れたついでに、三条大橋にも触れておこう。三条大橋の擬宝珠というと、「洛陽三条之橋至後代化度往還人」云々で始まる銘がよく知られている。『都名所図会』をはじめ、紹介されるところは多いが、ものごとの順番ということで、ここでも取りあげてみる。
洛陽三条之橋至後代化度往還人盤石之礎入地五尋切石之柱六十三本蓋於日域石柱橋ノ濫觴乎
 天正十八年庚寅正月 日
 豊臣初之御代奉増田右門尉長盛造之

洛陽三条の橋は後代に至るまで往還の人を化度す。盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十三本。蓋し日域において石柱橋の濫觴なるか。天正十八年庚寅正月 日、
 豊臣、初の御代に奉る。増田右門尉長盛、これを造る。
訓読にはいくつか検討の余地が残るが、だいたいこんなもんといったところなら許されるはず。そして、この銘に依って、石の橋脚を備えた最初の橋であるということも、よく紹介されているようだ。

さて、そうした三条大橋の擬宝珠なのだが、あえて取りあげようと思ったのは、このほど、違った記述のものが混じっていることに気づいたからである。秀吉時代のものではなく、戦後になって擬宝珠が新調された際に、橋の沿革などを記す内容となっている。曰く
三条大橋は明治/四十五年三條通/拡張のとき幅員/を倍加して一四/、五米に、橋長/は一〇一米に、/橋脚はコンクリ/ート造としたが/橋面は從来の風/格をもつ木造橋/であつた   /
たま[踊り字]昭和十/年六月の洪水に/あい橋の一部と/擬宝珠一個を流/失 この水害に/鑑み鴨川を改修/し、河底を深く/したので、天正/以来の敷石、礎//石は取除かれた/、重ねて今回こ/の橋の修築に際/し、橋を鴨川と/疏水の二部に分/け、橋長は鴨川/部七四、〇三米/疏水部一六、九/七米、幅員はい/づれも一五、五/米とし、橋面構/造もコンクリー/ト床版としてか/けかえ、この擬/宝珠も新に追補/した /
昭和二十五年一月/
 京都市長   /  神戸正雄  /
数字の小数点と読点に同じ符号を使っていたり、その符号が行頭に来てもそのままだったりするのはともかく、文章自体は平易な現代語なので読みやすい。ただ平易であっても、内容的にやや淡泊すぎる憾みもある。五条大橋の「影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和/した文化観光都市の一つの象徴といえよう」といった類のものは、肩肘が張りすぎて仰々しいかとも思うが、三条大橋のように事実関係のみを淡々と述べられても、擬宝珠の銘文としてはいかがなものかと思ってしまう。ま、どうでもいいかといえば、それまでだが……。

a0029238_071533.jpg


ところで『京の三名橋』によるところの情報だが、一つ目の銘文には「洛」「各+隹」、「造之」「造焉」、「庚寅[縦書き]」「庚寅[横書き]」の異同があるとのこと。戦後の銘でさえ気づいていなかったというのに、そこまでは到底、目が及んでいない。また改めて、どの擬宝珠がどの表記になっているのかといったあたりを調べてみよう。
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by office34 | 2011-07-21 23:57 | 橋のはなし
2011年 07月 20日
明治天皇と槇村正直
先に五条大橋の擬宝珠を取りあげた際に、明治天皇が槇村正直を問いただした云々という話にも触れた。その時の触れ方は以下のような具合である。
一説によれば、明治大帝が京都に臨幸した折に槇村正直に問いただして、槇村が青ざめた云々の話もあるようだ(このエピソードに関しては真偽および出典は未詳)。実際のところ、仮に槇村が詰問を受けたのだとすれば、明治十年の時点で即座に再設置となっていたと思うのだが、そうではない。といったあたりなど、いろいろ検討の余地を残すエピソードである。
ここでも触れた通り、このエピソードはどこかで聞いた覚えがあるといった程度で、素性については掴みかねていた。そこで、この手の話がたくさん出ているとすれば……というアタリをつけて、緑紅叢書の『京の三名橋 下 五条大橋』を読んでみると、近い記述が見られる。すなわち、
 明治十一年、五条大橋も洋風ペンキ塗りとなり、五月八日祇園先斗町のねえさん達によってにぎにぎしく渡り初めを行いました。この時高瀬川と鴨川の間の中の島が高く盛り上って、五条大橋と小橋は別々になりました。
 このころ三条大橋も洋風に改造しようという意見がありましたが、識者の反対にあい、かろうじて擬宝珠を残すことができたと伝えています。
 槙村知事によって、擬宝珠の取り去られた五条大橋は、さんざんの不評判で泉山行幸の明治天皇(明治十年一月十日、明治十三年七月十六日、二十年一月三十日)が御所へおもどりになり「擬宝珠のあった五条橋はどうなったか」とお尋ねになったという話が伝えられています。
 擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれとなり、明治二十七年二月八日、昔の通りなつかしい擬宝珠がつけられ、百六才の高橋茂兵衛氏は三浦の大助の風粧立烏帽子の大紋をつけきれいどころが加わって雄々しく渡り初めをしたと伝えています。
緑紅叢書第四十九輯『京の三名橋 下 五条大橋』(田中緑紅、京を語る会、昭和四十五年)
とあるところである。

刊行年が昭和四十五年と新しいが、『京の三名橋』シリーズのうち「三条大橋」以外は、田中緑紅の死後、息子の泰彦氏によって刊行されたようである。そして「四条大橋」の前書きにあるのだが、遺稿の中から四条大橋、五条大橋関係のものを整理、校訂して『京の三名橋 中 四条大橋』『京の三名橋 下 五条大橋』がなったとのことである。そうであれば、刊行年の昭和四十五年という年次はあまり深く考えるには及ばない。むしろ、田中緑紅が精力的に活動していた昭和十年代~三十年代あたりに語られていた話が活字となって残されていると思っていいのではないだろうか。

さて、肝心の内容の方だが、冒頭に引いた話とは少し違っている。槇村正直が明治天皇から直接の詰問を受けたかのように伝わっているのに対して、田中緑紅が伝えるところでは、そうした接点は見られない。槇村が指示して五条大橋が西洋風に一新されたのだが、後日、明治天皇が「擬宝珠のあった五条橋」という形で気に留めていたというだけのストーリーである。どちらが正しいとかを議論をするには資料が少なすぎるが、蓋然性のレベルでいえば、後者の方がありそうな印象である。それが、いつの間にか、明治天皇による直接の尋問であるかのように伝えられたのだろう。

なお、余談だが『京の三名橋 下 五条大橋』には、千本えんま堂の前で雨ざらしとなっている擬宝珠に関する言及はない。
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by office34 | 2011-07-20 02:20 | 橋のはなし
2011年 07月 15日
新町通の電線
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まずはペタっと1枚貼ってみる。場所は、新町通三条のあたり。旬のネタに合わせた言い方にするなら、「八幡山のあるあたり」となる。この季節、京都の四条界隈とりわけ烏丸から西のあたりは山や鉾を抜きにしては、場所の説明もままならない。

さて、そう言う割には上の写真には山も鉾も写っていない。当然である。八幡山のあるあたりから北側を撮ったのであって、山や鉾が狙いではないからである。この場所、すなわち新町通には、船鉾や南北の観音山など、見映えのする山や鉾が並ぶ。そのため、宵宵山や宵山の日にぶらぶらするとすれば、お奨めのスポットとなるのだが、それも三条通を少し下がったところにある八幡山までの話である。それであれば、上の写真は何を狙ったのか。答えは電線である。

電信柱に黄色の覆いが掛けられているのは、背の高い鉾が至近距離を通過しても触れないように配慮しているのだろう。その点については、京のドル箱たる祇園祭を支えるべく、関電の秘かな努力に拍手の一つでも送っておきたいのだが、実は、この写真を撮るにあたって、大きな勘違いをしていた。それは、「関電は祇園祭に合わせ、毎年毎年、電線を片づけている」と思っていたのである。

狭い路地でも電線が縦横に張り巡らされていると、けっこう目立つ。しかし、日本ではそれが当たり前の景色になっているので、中空を無様に分断する電線の姿に特段の違和感は覚えなくなっている。そうした前提があるものだから、新町通でみかけた黄色い覆い付きの電柱と、電線に遮られずに通りを貫いて見渡せる光景からは、祇園祭の巡行(四条通、河原町通、御池通を進んだ山鉾は、最後は新町通を経て、それぞれの町内へもどる)に備えて、毎年、関電が電線を片づけているのだろうと思ったのである。仮に、この一大イベントのために毎年やっているのであれば、拍手の一つどころではなく、喝采ものだろう。上の写真を撮った時は、そうした思いがあったのである。それで、つらつら駄文をこしらえて、一度はブログに公開した。ところが、その直後にはたと思いついた。もしかして……新町通には最初から電線は張っていないのではないか?

そこで、記事をいったん引っ込め、改めてストリートビューで確認してみた。すると案の定、新町通には最初から通りを横切る電線など張られていない。新町通と並んで山や鉾の多い室町通はと言うと、菊水鉾が聳えるのが錦の南のあたりで、他は丈の低い山ばかりだから大丈夫という判断からなのか、それなりに横断型の電線も確認できる。それなら、あんまり騒ぎたてることもないか……といったところか。関電に対しては、黄色の覆いを被せている分だけ、ほんの少しの小さな拍手ということにしておこう。
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by office34 | 2011-07-15 02:48 | 街角の風景