Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2012年 07月 31日
山本覚馬の経済観
今月は投稿数が少なくなってしまった。中旬にサボりを決め込んでいたのが最大の理由なのだが、併せて「山本覚馬建白」の方が停滞モードに陥ってしまったことが大きい。順番からいえば、覚馬の経済観について言及せねばならないくだりなのだが、そもそも経済観とはなんぞやといったところで躓いてしまっている。

よく言われるように、「経済」という言葉は「経世済民」に出自を持つものであり、語源的なところから詰めていくと儒教的な治世論に絡めとられる。一方、社会科学としての経済学となると、社会現象における原因と結果の関係を合理的に追求するものであり、儒教的な背景から導かれるものではない。日本で経済学が本格的に論じられるようになったのは、西洋の経済学の体系(古典派)が移入された明治以降であるという見方が強いのも、そうした事情によるのだろう。

そこで山本覚馬の問題だが、ターゲットは「貨幣」と題された編目である。社会における貨幣の役割や、そのあるべき姿を論じている部分なのだが、例によって残されている文章量は多いものではない。断片的な文言からの忖度を重ねなければならない。加えてベースになる江戸末期~明治初期における経済思想というものの全体像が曖昧でわかりづらいとなると、覚馬の立ち位置も決めようがない……といった愚痴っていても埒が開かないのでぼちぼち進めていく予定ではあるが、課題はとてつもなく大きいのは確実である。
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by office34 | 2012-07-31 15:44 | 明治人物志
2012年 07月 30日
京の水
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松尾大社の「亀の井」

松尾大社の話題を取り上げたが、松尾大社といえば「亀の井」がよく知られている。境内で得られる湧水のことだが、それに関連して、昔、書いた文章を載せてみる。2005年の文章で状況が変わっているところがあるかも知れないが、その辺も含みの上でご一読いただければ幸いである。


「京の水」

 明治から昭和にかけての京都が失ったもの、と言われると、街中を流れる小川という答えが返ってくることがある。新しく街並みが整えられて、道路と上下水道が整備されるのに伴って、埋められた川もたくさんあったということだ。それと同時に、かつては各家庭にあった井戸もなくなった。これらの間には因果関係があるのかどうかは知らない。でも自然の水が当たり前のものでなくなったという点では共通する。
 そんな井戸水の話。もちろん井戸水であれば無条件に美味しいというわけではないし、京都市水道局をバカにしてはいけないという声もある。しかし、京の水として有名なのは、琵琶湖の水を浄化したものではなく、三方の山から流れこんでは、地下深くにひそむ伏流水である。現在の京都で、この伏流水、つまり井戸水を自由に汲んでもいい場所はいくつかある。それらをかいつまんで見ていこう。なお”自由に”とかいたけど、あくまでも地権者のご厚意によっている。ペットボトルやタンクを持ち込むのなら、まず許可をもらうのは当たり前、加えて(いくらとは決まっていないが)いくばくかのお礼をするのは常識、さらに深夜などに車やバイクで乗りつけて近隣に迷惑をかけるのは御法度である。こうした最低限のマナーを守らない人もいるのか、”供給を止めるかも知れません”という内容の貼り紙が出ているところもある。
 さて本題にもどって井戸水の話。おそらく一番有名なのは、御所東の梨木神社境内にある「染井」だろう。これと同じ水脈とされているのが、二条通堺町上ルの堀野記念館にある「桃の井(年会費制)。伏見に移転する以前のキシン正宗を造っていた水である。地理的に近いところでは西洞院三条下ルの馬場染工業敷地内にある「柳の井」。ちなみに、この馬場染工業だが、「思い出工房」という名前のほうが知られているかもしれない。紋染め体験のコーナーを持つ黒染の老舗である。上京界隈に戻ってもう一軒、椹木町通西洞院上ルは麩嘉の「滋野井」。ただこちらの滋野井は「要煮沸」との注意書きがある。
 南へ下って四条通周辺。繁華街のど真ん中で意外な感もするけど、新京極の錦天満宮にも湧水がある。「錦の水」と呼ばれている井戸水だ。名前のある水といえば、四条通堀川東の亀屋良長の水も忘れられない。お店の横にあるのが京の三名水にも数えられていた「醒ヶ井」である。そして、そこからさらに南へ下って西大路八条までいけば、若一神社境内に「神供水」がある。
 いろいろ有名な井戸をみてきたが、水といえばやはり酒どころの伏見。大手筋界隈だけでも御香宮神社の「御香水」に、鳥せい本店の「白菊水」、月桂冠大倉記念館内の「宮水(要入館料)など、名水目白押し状態になっている。
 そのほか、さすがにタンクをもちこんだりすると顰蹙を買うのは、清水寺の「音羽の滝」だし、山下水程度の湧き水もカウントするのなら、大文字山の銀閣寺道登山道にある「中尾城の湧き水」、あるいは大原の「江文神社境内の水」(山下水については水質検査はされていない)など、その気になってさがしてみると、あちらこちらにたくさん出てくる。

『京都生活を百倍楽しむ』(2005年、南々社)より

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by office34 | 2012-07-30 23:51 | 京都本・京都ガイド
2012年 07月 29日
松尾大社
ついでのお題、その2。右京区の方は普段から訪れる機会が少ないという事情もあったので松尾大社も覗いてみた、って後で知ったのだが、松尾大社は桂川を渡った向こう側なので行政区的には西京区だとか。桂川が大きな境界線であるのは太古の昔からの定説なのだが、なるほどと今さらながら頷かされてしまった次第。

それはさておき、知名度では伏見稲荷や北野天満宮に匹敵する初詣スポットながら、普段はあまり訪れる機会がなかったのも事実。単に日常の活動範囲から遠く離れているというだけの理由なのだが、伏見稲荷は片手では数えられないくらい足を運んでいることを思えば、やはり当方にとってを引きつけられる何かがつかめていないのだろう。ともあれ、近くに来たのも何かの縁ということで覗いてみたわけである。

ただ、状況がかなりマズかったようだ。カンカンに照りつける炎天下のもとである。松尾橋を渡るだけでも気分が滅入りつつあって、平成の大鳥居をくぐってから拝殿までまだ距離があることを知るに及んではすでに鬱陶しさのバロメータがどんどん値を上げていた。結局、境内をのた~と歩いてみただけで、得るところも無く帰ってくることとなった。気分が前向きでない時に訪れても何にもならないということである。松尾大社のウリである松風苑(石組みが特徴的な三種の庭)にしても拝観料を払う気にならず関所前に来て踵を返す有様で、亀の井、霊亀の滝、酒の資料館あたりを見るのが関の山であった。

徒然草に石清水八幡宮を訪れた僧が、山上にある肝心の本殿に行かずに戻ってきた云々の話があるが、あれは然るべきガイドがいないと見るべきスポットもマトモには堪能できないという話だった。それとはやや毛色が違うが、今回のようなケースは、気分が向いていない時はどんな場所へ行ったにせよ、マトモな鑑賞は期待できない実例として残しておいてもいいだろう。

ともあれ、写真を無秩序に三枚ほど。
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霊亀の滝:滝の傍らに「天狗岩」なるものがある。一見すれば天狗の顔に見える岩ということで、現地では写真付きでの説明が掲示されていて頷きはしたのだが、撮ってきた写真で改めて眺めると、果たして天狗さまはどこにいるのやら????

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「酒の資料館」に展示されていた全国酒銘屏風なるもの。酒のラベルを屏風に貼り付けただけのものなのだが、こうやって眺めてみるとなかなか壮観。この手のパッケージラベルはそれぞれに趣向を凝らしたデザインを施すのが相場だから、屏風や襖などへペタペタ貼り付けてみると、けっこう見映えがするのだろう。

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亀の井の前に置かれていた句碑。平成になってから置かれたもののようで、手持ちのデータ集には情報は記されていなかった。ただし、刻字をたよりにネット検索をかけてみたところ、「うま酒の神の韻ある初泉」という句で、桂樟蹊子のものらしい。
桂樟蹊子(1909~1993)。京都生まれ。京都帝国大学農学部卒。京都府立大学名誉教授。俳句は1931年、水原秋櫻子門に入り、1935年、京都馬酔木会を結成、翌年馬酔木賞。1937年より同人。1947年俳誌「学苑」創刊主宰。1951年「霜林」と改題。([俳句の箱庭]より)

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by office34 | 2012-07-29 13:11 | 京都本・京都ガイド
2012年 07月 28日
右京区の仁丹2枚
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ついでネタ。千代の古道を確認すべく南の方から北上を試みたものの、三条通でルートがわからなくなって中断。帰ってから改めて調べてみたところ、案の定、三条~丸太町間は石碑も置かれておらず、実質的には千代の古道には当たらない模様。強引に線引きした結果を昨日示したおいたものの、あくまでの机上のお絵かきに過ぎない。それはそれでどうでも構わないのだが、帷子ノ辻の界隈を歩き回った副産物というべきか、かの界隈における仁丹町名看板の確認ができた。存在していることは他の方が挙げている情報によって知ってはいたが、通り名グリッドでない分、なかなか確認が出来ていなかった。それが右京区表記の二枚、「秋街道町区域」と「嵯峨野神ノ木町」の二枚である……と、言った報告を挙げたところで、これらも詳細な場所は示すべきではないらしいので、写真を貼っておくだけにしよう。
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by office34 | 2012-07-28 12:49 | 町名看板
2012年 07月 27日
千代の古道
いつまでも祇園祭ネタがトップに居座っているのもなんなので、ちょっと違う話を出してみよう。といっても面白そうには思えないが、そのあたりはまあご勘弁。

というわけで、言い訳モードからのスタートだが、とりあげるのは「千代の古道」なるものである。右京区のあたりをぶらぶらしていると、そう刻まれた石碑が目に留まるので、そういうものがあるのだろうということは知っていたが、その程度の知識で留まっていた。いざ真っ正面から調べようとは思わなかったのである。ところが、ちょっと必要があって右京区界隈での街なかハイキングコースみたいなものを作ることとなり、その「千代の古道」を完全トレースするのはどうだろうという方向で考えてみた。

そうなると、「千代の古道」なるものの出自や沿革などを調べねばならないわけだが、ここで大きな問題が出てくる。「千代の古道」という言葉自体は存在するものの、それが実体的に存在した古道なのかどうか、甚だ怪しいのである。いわば「夢の浮き橋」とか「雲の通い路」とか言った感じで、具体的にコレと指示する対象が一つに限定できるわけではないが、なんとなく言葉の響きで趣ありげだから使われてきたものなのかも知れないということなのである。

アンチョコ本等での紹介をいくつか引いてみよう。
千代の古道
右京区常磐から広沢へ出る古い道で、往昔、山越からさざれ石の小山の西麓を西北に通じていた道。都から嵯峨院に通じる小道であったともいわれ、「嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の千代の古道跡はありけり」(在原行平、『後撰集』)或いは「嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒」(藤原定家、『新古今集』)などの歌がしられる。また途中のさざれ石山の頂には、その名の通りさざれ石と称される細石があり、「君が代」発祥の地とも伝えられる。(滝浪)
『新装京都事典』
千代の古道
古歌にも詠まれ、平安時代から親しまれてきた古道。この道を指すとされるコースは諸説があり、一定しないが、現在は京福北野線鳴滝駅北側から、音戸山の西側に沿って広沢の池に出る道とされているようである。きぬかけの路は市バス山越停留所を越えるとこの道に合流する。
『京都・観光文化検定試験公式テキストブック』
千代の古道
平安貴族が北嵯峨に遊行の折、通った道。雙ケ岡―常盤―鳴滝―広沢池を結び、新古今集の藤原定家の歌など、多くの歌にも詠まれている。しかし、道筋は地元自称など諸説があり、定かではない。なかには歌の上だけの道とする説もある。地名に「嵯峨野千代の道町」がある。


「千代の古道」という言葉が数々の歌に登場するのは動かない事実である。したがって、そう呼ばれていた道があったというところまではいいのかも知れない。上に挙げた中でもっとも慎重な立場を取るのは「京都観光NAVI」の説明なのだが、「歌に詠まれている」という事実までの認定に留めて、実体については「歌の上だけの道とする説」もあることを併記する。「北山」や「東山」という言葉が普通に使われていたとしても、そういう名前を持つ山があるわけではないのはよく知られていることだが、「千代の古道」についても"遥かな昔からある古い道"といった程度の、普通名詞的に捉えるのがいいようにも思われる。どうだろう、あるいは古い歌謡曲にある「鈴懸の径」とかいう具合の、イメージ先行の言葉にすぎず、そのイメージの根拠となった場所をあえて具体的に挙げろといわれるとできないこともない、といった程度のものなのかも知れない。

しかし、厳密な解釈はそれとしておいて、おおざっぱなネタの一つとして扱うのなら「ここが古歌でも有名な千代の古道ですよ」と言える物件が存在している方がありがたい。そんな立場とリンクしたのかどうかは知らないが、京都西ロータリークラブが設置した石碑は、千代の古道なるものを剛胆にも実体化させている。アンチョコ本の多くがそう書いているように北嵯峨および広沢の池のあたりを通るルートはもちろん含んでいるが、それとは別に梅津から帷子ノ辻のあたりまでも千代の古道のルートに措定されている。いしぶみデータベースによれば11基の石碑が確認されているようで、それとは別に梅宮大社の傍らにある1基と併せると、おおよそ以下の図のように線引きすることができる。
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このルートのうち、三条通と丸太町山越の間は碑もないので、厳密にいえば線でつなぐこともできないのだが、実体化させること自体がすでに強引な力業であるのなら、中間部分をつなぐこともそのついでということで許されるはずである。大覚寺を出発して南下するか、松尾大社or梅宮大社から北上するかはさておき、遍照寺などの立ち寄りスポットもあるわけで、それなりのお遊びルートにはなりそうな気配である。
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コース上のところどころにこうした碑が見られる。碑は2005年におかれた新しいもの。側面に和歌が刻まれているが、場所との関わりは不明。上の写真の和歌は、紫式部の「めぐりあひて」歌(百人一首所収)

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by office34 | 2012-07-27 13:06 | 街角の風景
2012年 07月 18日
飛龍有翼
14日の宵々々山から鉾町界隈をウロウロして龍を探してみた。もちろん、大本命は「飛龍有翼」の龍なのだが、祇園祭に登場する龍は他にどのようなのがあるのだろうという視点からの目配せもしておいたつもりである。そして、結果からいえば、かの「飛龍有翼」に合致するものは船鉾にしか見られなかった。金具まで含めてこまごまとチェックができたわけではないのだが、目に留まった多くは蟠った蛇体のものばかり。以下、いくつかランダムに選び出して写真を貼ってみよう。

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中央にいるのが船鉾の楫に施されている螺鈿細工の飛龍。やはりこれが一番だろうか。他はどうだろう。オマエ本当に龍なのか、どこかのネコが紛れ込んでいないかといってしまいそうなのもいるようだが、目に留まったところをざっと集めてみると、こんな具合である。
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by office34 | 2012-07-18 23:24 | 京都本・京都ガイド
2012年 07月 12日
織田信長墓所@阿弥陀寺(寺町頭)
織田信長の墓所と言われて、普通に思い浮かぶのは寺町御池の本能寺ではないだろうか。天正十年(1582年)六月二日におきた本能寺の変は、おそらく小学生も知っていることだろう。事実、本能寺の境内には立派な供養塔があり、「信長公廟」との額も掲げられている。

これに茶々が入るとすれば、事件が起きた時の本能寺と、現在の本能寺は別物だという声だろう。確かにその通り、現在の本能寺は秀吉による京都大改造に際して東京極(現在の寺町通)へ市中の寺院が集められた時のものである。さらにいえば、当時の本能寺は襲撃によって焼亡しており、今では「元本能寺町」「同南町」という町名に名残を留めるのみというのは、ちょっとしたコネタでも使われる話である。

予想される茶々は、それだけではない。そもそも墓所とは何ぞやという声もある。標準的な解答は遺骨を埋めている場所であり、その目印として墓標を置いているところとなろうか。ところが本能寺の変に際しては、明智軍が襲撃後に遺体の捜索をしたものの、何も見つからなかったという話がミステリー的にもよく語られる。そこから信長の本能寺脱出説などもささやかれるわけだが、ぶっ飛んだ方向へ持っていくのはヤメるにしても、埋葬されるべき遺体自体は残っていない。

秀吉が大徳寺で盛大な法要を営んだというのは有名な話である。政治利用だったとはいえ、その際には何を埋葬したのだろう。遺品か何かで代用させる、言わば形ばかりの供養だったのかも知れないが、仮にそうであれば、立派な法要を主催したという事実が大切であって、厳密な意味での墓所と呼びうるものだったかどうかは問われない。現在、織田家の菩提寺となっている大徳寺塔頭総見院にあるのは、そうしたラインでの供養塔だろう。

これらの理解に対して、いやいや遺骨が埋葬されている場所があるという声もないわけではない。そこで登場してくるのが寺町頭の阿弥陀寺である。そのあたりを門前に設置されている駒札から見ておこう。
阿弥陀寺
蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(1532~1554)清玉上人の開創になり当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と……(中略)清玉上人は織田家と深い親交があり、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の折、本能寺等にかけつけ織田信長、織田信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。……(後略)
京都市
本能寺等へ駆けつけた云々の部分は、いわゆる「寺伝によれば」という万能の妙薬によるのだが、墓所たりうる必然性は備わっていそうだ。そしてなによりも重要かと思われるのは、江戸時代には、この阿弥陀寺(天正十五年[1587]に寺町頭へ移転)が信長廟として広く紹介されていたという事実である。『都名所図会』は、阿弥陀寺の条で「方丈には織田信長公、同信忠公の影像を安ず。同両公の墳、其外明智光秀叛逆の時本能寺において討死の臣数輩の墓あり」といい、本能寺の条では「織田信長公塔」と記す。秋里籬島が「墳」「墓」「塔」を意図的に使い分けたのかというと、他の条目での確認も必要になる。ただ印象の次元でいえば、なにがしかの差を認めていいように思う。

現在、寺町頭にある阿弥陀寺では、塋域に入ると大きな灯籠を従えた二基の墓標が目に留まる。向かって右側、「総見院殿贈大相国一品泰巌居士」とある方が信長のもので、左側が信忠のものである。墓標のまわりに新しい卒塔婆がたくさん供えられているのは、毎年、六月に供養が行われているのだろう。そして二基の後方にある五輪塔が家臣団のもので、左手に並ぶのが森三兄弟のものらしい。五輪塔、その台座、傍らの灯籠等々に刻まれている文字を詳細に確認してくるのは怠ったのだが、灯籠には天正十三年の記年が見られ、台座はやや新しく、天保年間のもののようである。

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右・信長、左・信忠

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黒ずんで頂を欠く三基が森三兄弟の五輪塔。
奧から蘭丸、坊丸、力丸

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by office34 | 2012-07-12 20:41 | 京都本・京都ガイド
2012年 07月 11日
阿弥陀寺(寺町頭)の芭蕉句碑
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阿弥陀寺の話を少しばかり……といっても、清水寺や金閣寺のように、名前だけでピンポイントに絞ることのできる寺院ではない。そもそも、このブログの範囲でさえ「阿弥陀寺」の名前で触れているのは、大原の奧、古知谷にある阿弥陀寺である。という書き方をするということは、今回の阿弥陀寺はまた別の阿弥陀寺ということになる。それが寺町頭の阿弥陀寺なのである。

寺町頭……この言葉もまた曖昧だろう。寺町通と聞くと大多数の人は新京極と並行するショッピングストリートを思い浮かべる。そんな大多数に入らず、歴史的なところに興味がある人でも、まだ御所の東側を念頭に置くのではないか。ところが「寺町頭」というと、寺町通には違いないが、今出川よりまだ北へあがったあたりの寺町通なのである。要するに、寺町通をどんどん北上し、今出川通を越えて、鞍馬口通に突きあたるあたりのことなのである。そして「寺町」の名前に恥じぬとばかり、このエリアにもまた多くの寺々が並ぶ。

阿弥陀寺はそうした並びの中の一つだが、観光物件的な視点からではけっして浮かびあがってこないこの寺に対して、当方のアンテナが反応したのは、文学碑がらみの話からである。

知名度の高い観光地に文学碑を設置するのは、その人ないしは作品に対する顕彰行為である。多くの人が目にする場所にしかるべき碑を据えることで、ことさらに作者の名前、作品の名前を高らかに謳いあげる。ところが「観光」という視点から遠のいた場所にもいくらか文学碑は置かれている。当方が気になり始めたのは、そうした人知れず(?)置かれている碑の意味合いについてである。

厳密なところを追求すれば、ゆかりの場所に碑を置いただけの話で、態とらしい下心などはないといえば、確かにそうだろう。しかし、どちらかといえば、注目されやすいところにある碑の方が「らしさ」も持っている。それに対し、こんな場所に碑をおいて誰が見るんだろうと首を傾げてしまうケースなら、それだけにその碑の意味合いが気になってくるわけである。

少々、話が雑に流れすぎているが、簡単にいうと、普通なら誰も注目しないところに置かれている芭蕉句碑が気になっていたということなのである。その場所というのが寺町頭の阿弥陀寺というわけである。

問題の句碑は
春立つや新年ふるき米五升
というもので、実に意味の分かりづらい一句である。しかし「似合はしや新年古き米五升」や「我富めり新年古き米五升」といった改訂を経ているということ、「五升」とは乏しさのイメージであることなどが分かれば、自ずと句の風合いに見えてくる。年が改まっても、手許にあるのはたった五升の米なのだけど、私にはそれでも十分だよ、といったあたりのところだろう(参考)

解釈はこんな具合でいいかと思うが、それよりも大切なのは、なぜ阿弥陀寺に米五升の句碑があるのかということである。阿弥陀寺が芭蕉顕彰に尽くした蝶夢(芭蕉より半世紀ぐらい後の俳人、僧侶)の寺であることがポイントだろうし、蝶夢自身が「五升庵」なる号を使っていたあたりに解答がありそうだ。阿弥陀寺の境内には、「米五升」の句碑とともに蝶夢の「我寺の鐘と思はず夕霞」という句を刻んだ碑も置かれているのだが、そうしたところから考えると、蝶夢を顕彰すべく蝶夢その人の句碑と、彼が敬愛していた芭蕉の句碑、中でも号にもしていた「米五升」の句を選んで碑を建てたということなのではないだろうか。つまり、芭蕉句碑という見方をすると阿弥陀寺と芭蕉との関係性が見えなくなってしまうのだが、芭蕉を顕彰する碑ではなく、むしろ芭蕉を通して蝶夢を讃える碑なのではないかということである。

以上は当方の勝手な想像である。したがって碑の建てられた事情を伝える史料(それがあればだが)に当たれば、正確な背景も見えてくるに違いない。ところで、寺町頭の阿弥陀寺を俎上に載せる場合は、実はもう一つ、注目すべき事柄がある。それが織田信長との関係についてである。
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by office34 | 2012-07-11 04:49 | 歌碑・文学碑など
2012年 07月 09日
桔梗でも
特に意味はないが、ツナギネタとして。

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渉成園でたまたま見かけたもの(二年前の写真)

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こちらは別の場所。色の鮮やかさに欠けるような印象だが、光の具合だろうか、それともこんなものなのだろうか。それはさておき、どこかというと……

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桔梗→星形→五芒星、ということで晴明神社でした。後ろにおられるのが晴明さん(撮影、2011年)

ちなみに、桔梗の名所としては廬山寺が有名、といってもこのシーズンには入ったことがないので、写真もなし。一度、覗いておかねば。
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by office34 | 2012-07-09 06:02 | 街角の風景
2012年 07月 05日
街の地層
昔の文章をさらっと挙げてみる。どういうシチュエーションだったかは、伏せておかねばならない事情もあるのだが、「街の地層」という言葉を使うようになった最初の頃のものだ。といっても、「街の地層」という言葉は、このブログの中ではあまり使っておらず、河原町の変遷に触れた際に(参考までに)、近い記述をしたことがある程度のようだ。それに、プライオリティを主張するにはやや一般的すぎる。それでも、個人的な会話等ではたびたび口にしてきた言葉でもある。

ともあれ、一乗寺地蔵本町での仁丹町名看板消失に触発されたこともあるので、もう一度、そのきっかけとなった文章を呼び出してみようと思った。

街の地層
とどまることを知らない人間の開発欲は、古きものを次々と飲みこんでいく。個性的な街並みは解体され、時代が要請する姿に生まれ変わる。それは物理的なものを取り壊すだけではなく、時間との協同作業によって記憶の抹消をも引き起こす。古い建物が破壊されるとき、惜しむ声が一時的に湧き上がりはしても、一年もするとその場所が何であったかさえ思い出せなくなる、そんなことはけっして珍しい話ではない。しかし、時には、新しい建物のすぐ隣や、生まれ変わった一画から一筋はずれた路地裏に、かつての姿の痕跡が留められていることもある。それはあたかも山肌に露出した地層がその場所がかつて海底であったことを伝えるのにも似ている。街並みを地層に喩えてみると、積み重ねられた層の一つひとつは、それぞれに輝いていた時代であり、開発から取り残されたり、何かのはずみで表層に突きだしてしまった過去の遺物は、記憶のメルクマールということができる。そうした「時の忘れ物」を手がかりにすると、失われた「あの時」が蘇ってくることもある。

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by office34 | 2012-07-05 03:00 | 街角の風景