Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2012年 08月 31日
歌碑いろいろ@北白川天神宮
北白川天神宮の歌碑チェックに出かけてみた。高橋昌博氏の『京都文学碑総覧』には10首の和歌が並んでいるのだが、以前に境内で確認できたのは4基のみだった。それがずっと引っ掛かっていて、いずれ確認と思っていたわけだが、そのいずれの時がやってきたということである。

と、いうわけで戦績。
-高橋リスト/後ろの○×は探索結果-
藤原定家「春といへはさえゆく風に立つなみの~」×
藤原為教「秋の夜の月も猶こそ澄みまされ~」○
藤原家隆「浪の音は松の嵐にきこゆなり~」×
西行「風あらみ梢の花のなかれ来て~」○
西行「身を捨てゝ吉野の山に入りぬるも~」○
紀貫之「百草の花のかげまでうつしつつ~」○
上田秋成「きて見ればまた白川の秋の水~」○
後京極良継「何となく春の心にさそはれぬ~」○
明治天皇「いはほきる音もしめりて春雨の~」○
古今著聞集「かけ清き花の鏡と見ゆるかな~」○


後京極良継あたりの、耳にする機会の少ない歌人だったらまだしも、定家や家隆のものが未発見で終わったことはゆゆしき事態である。しかも、前回、北白川天神宮を取りあげた時には「確認済は明治天皇と西行と藤原為教と藤原定家の4基」と書いている。これはいったいいどういうことなのだろう、と思いつつ、前回おとずれた際に撮った写真を眺めてみると、定家のものはどこにも見あたらない。ということは、どれかを定家歌碑と見誤ったのに違いない。

どれを定家歌碑と思いこんだのかは不明だが、為教歌碑のすぐ後ろにあった一基を勝手にそれと見なしたのかも知れない。その碑の文字は「昔を偲びふる里乃/よきを守り育てよう」と読める。和歌や俳句ではなく、言ってみれば標語みたいなもののようだ。ただ、上の句と下の句に分けて刻んでいそうな見てくれをしているから、一瞥だけでやり過ごしたりすると、和歌と思いこんだりするかも知れない。そんな思いこみが成長して、それを定家歌碑と見なしたということだろうか。かなりお粗末な話だ。

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秋の夜の月も猶こそ澄みまされ 世々にかはらぬ白川の水 藤原為教

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風あらみ梢の花乃なかれ来て庭に波立つ白川の里 西行

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身を捨てゝ吉野の山に入りぬるも思ひや出てん白川の里 西行

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百草の花のかけまてうつしつゝ音もかはらぬ白川の水 紀貫之
きて見れはまた白川の秋の水あすや紅葉のいろに流れむ 上田秋成
かけ清き花の鏡と見ゆるかな長閑にすめる白川の里 古今著聞集
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何となく春の心にさそはれぬ今日白川の花のもとまで 後京極良継

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いはほきる音もしめりて春雨のふる日しづけき白川の里 明治天皇御製

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昔を偲びふる里乃よきを守り育てよう
北白川保勝会
北白川伝統文化保存会
白川女風俗保存会





-----追記2012.09.05-------------------------
「後京極良継」の件。さんざん調べたが、どうしてもその姿が掴まらない。「後京極家」ということで、九条家かとは思うが、系図の片隅にちらっと出てくる人か?等々思っていたが、意外なオチ。高橋リストの誤植である。すなわち「×良継→○良経」が正解。それなら有名歌人じゃん。
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by office34 | 2012-08-31 21:34 | 歌碑・文学碑など
2012年 08月 29日
温公の瓶割り
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上御霊神社にある「清明心の像」(江里宗平・江里敏明、1979)


北宋時代の学者で政治家の司馬光(温公)の故事に「温公の瓶割り」というものがある。司馬光幼少時の出来事、数人の友だちと一緒に水瓶の近くで戯れていた時、一人が誤って瓶の中に落ちてしまった。その時、司馬光は落ち着いており、石で瓶をたたき割って溺れかけていた友だちの命を救った云々。比較的よく知られた故事で、これをモチーフにした意匠では日光東照宮の高欄彫刻が有名。他にも絵画や山車の飾り等々、いたる所で見かけるようだ。京都に引きつけていえば、祇園祭の山鉾に「瓶割鉾」なるものがあったとしても不思議ではないくらいのポピュラーさだったと思えばいいだろう。

だいぶ以前、手水鉢の話題を扱った際に、手水鉢の類型で「温公型」と呼ばれるものがあることを知った。割れたかのような歪みのある手水鉢をそういうらしいのだが、それも上の故事に因んでのことなのである。その手水鉢の時はあまり深入りもしなかったので、故事の方もさほど記憶には残らなかったのだが、このほど、この故事を改めてチェックする必要が生じてきた。

きっかけとなったのは上御霊神社である。境内にある文学碑をあれこれ紹介したのに続いて、もう一つ、目に留まるアイテムとしてチラチラと目線を送っていたブツがある。それが本殿南側に据えられた「清明心の像」であった。最初の段階では、そういうブツがあるなというだけで留まっていて、手水鉢の時と同様、深入りしようとは思わなかったのだが、像の近くに掲げられている駒札を読んでみたところ、少し事情が変わってしまった。というのは、この故事に対する当方の理解が勘違いだったかも知れないという気がしてきたからである。駒札に曰く、
清明心の像
清明心とは清く明るく直き正しき誠の心である 中国宋代の学者司馬温公が幼少のころ数人の子どもと満水した大甕がめの周辺で遊ぶうち一人が甕かめに登り誤って水中に堕ちた 狼狽うろたえる子どもたちを尻目に公は傍らの大石をもって甕を割り友人の命を救った この故事を造型、「清明心の像」と名付け境内に奉献されましたのは、生命は物質より尊いとの精神を国際児童年に当り世界の子どもたちに改めて認識して貰いたいと云う心からであります
昭和五十四年十一月吉辰
御霊神社
宮司小栗栖憲昌
ストーリーは駒札にある通りなのだが、問題になるのはこの故事がどういう主旨で伝えられたかという点である。当方の理解は、司馬光幼少時代の活躍というか、彼が幼い頃から機転と優れた才覚の持ち主であった云々というラインである。子ども向けの偉人伝によくあるような、なんでもかんでも美化して、要するにこの人はスゴいんだということを印象づける、そんな故事だったと理解していたのである。

それに対して、駒札では「生命は物質より尊い」という点をアピールする。重心の置き方に少なからずの違和感を感じたものだから、ネットの上で見かけたこの故事に関連する記事をいくつか読んでみると、駒札と同じように命の大切さをアピールするラインでのものが多そうな気配である。当方が理解していた形、すなわち「要するに温公はガキの頃から偉かったんだ!」という持って行き方をするものはむしろ少なく、大勢は生命賛美の方向に傾いている。

こうなると、当方の理解が根本的に間違っていたのか、あるいは太古の昔は純粋な偉人伝だったものが、いずれかの時点で教育的配慮(あるいは思惑?)が加わって命の大切さをいうものに書き換えられたかだろう。実は、この故事の厳密な意味での出典は未確認である。陶器のデザインをいろいろ紹介しているサイトで『冷斎夜話』なる説話集を挙げるものがあるが(うまか陶)、原本は未見。さらにいえば、この故事が広く喧伝されるようになった時代についても、正確には理解していない。

司馬光の活躍した時代をそのまま日本史の年表に重ねると、平安時代の中期から後期に相当する。しかし、そこから平安時代にかの偉人的な故事が広まっていたかというと、やや心もとない。どちらかといえば、もっと時代が下ってからのこと、たとえば江戸時代ぐらいになって、寺子屋などの場で、幼学向けにアレンジされたネタではなかったと思うのである。だからこそ、温公は子どもの頃から偉かったんだと、純粋無垢に称賛するものが本来の姿だったのではないかと思っているのだが、はたしてどうなんだろう。
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by office34 | 2012-08-29 19:19 | 街角の風景
2012年 08月 26日
江戸時代の怨霊?
芭蕉の句碑や御杖の詞碑で取りあげてきた上御霊神社に関連して、面白い記事が目に留まったので紹介してみる。上御霊神社にまつわる怪談である。

今月は祇園夜話だの深泥池だのといった形で、怪談を意図的に取りあげてきた。今回の話もその流れに準じるのだが、上御霊神社にまつわる怪談というと御霊信仰がらみだろう、どうせ早良親王がなんちゃら井上内親王がかんちゃらといったところだろう、という方向で考えられるとすれば、ちょっと待ったと言わねばならない。手軽なガイドブックに書かれているネタを持ちだして、これ見よがしに御託を並べたりする度胸や厚かましさは、生憎持ちあわせていない。むしろ、そのネタを知った時に、へぇ~そんな話があったのかと驚かされ、それゆえに拡散させたい衝動にとらわれた話なのである。

もちろん、大枠としては御霊信仰に収束するのだが、遥か遠い平安時代の話ではない。もっと近い江戸時代、いや明治の話なのである。それは、現在の上御霊神社が早良親王らの主神とともに合祀する小倉実起おぐらさねおきにまつわる話である。

話の前提になるので、小倉実起なる人物を簡単に説明しておく必要がありそうだ。その人物スケッチだが、これはウィキペディアに委ねた方が早い。ただ小倉実起のページはあまりにも内容希薄で、実起の名前を後世に留めることとなった小倉事件のページは逆に人間関係が錯綜しすぎて、わかりづらい。

というわけで、オリジナルの説明が必要になってくるわけだが、登場人物を必要最小限に抑えてポイントを絞ることで内容を整理しよう。
[テーマ]霊元天皇と小倉実起
[登場人物]霊元天皇、小倉実起、徳川家綱、後水尾法皇
[人間関係]霊元天皇(主人公)、小倉実起(霊元天皇の第一皇子の祖父)、家綱と後水尾法皇(霊元天皇にとっての目の上の瘤)
[小倉事件]霊元天皇の後継をめぐる権力闘争が、天皇の第一皇子(妃腹ではない)の外戚粛清へと発展した事件。延宝九年(1681年)
[概要]幕藩体制が確立されるに伴って、朝廷の人事その他も江戸の許諾が必要になっていた。17世紀後半に在位した霊元天皇の頃は、徳川家綱と後水尾法皇の合意によって朝廷関連の物事が執り行われる時代だった。玉座についたとはいえ、事実上は修学院から睨みを利かせる父・後水尾院や江戸の家綱の顔色ばかりを窺わねばならない霊元天皇にすれば、彼らは目の上の瘤に他ならない。そうした不満は皇位継承問題で露呈する。延宝八年(1680年)に家綱と後水尾院が相次いで世を去る事態となり、江戸-修学院ラインで固まっていた合意が、霊元天皇によって反故とされたのである。霊元天皇は、寵愛の厚い第五皇子の立坊を画策し、代替わりのタイミングだったことも幸いして幕府からの横やりも入らず、強力な後ろ盾を失った旧・後水尾院一派の干渉も制したのだが、たまらないのは第一皇子母方の実家、小倉実起である。第一皇子を出家させようとする霊元天皇に対して、実起は強硬に抗うが、最終的には勅命違犯で流罪となり、怨嗟の情を抱いたまま世を去る。


かなり雑に、かつ乱暴な要約だが、正確を期して分かりづらくするよりはマシだろう。江戸時代の京都事情など、標準的な歴史教科書ではただでさえ無視されるのに、そこへ人間関係の複雑さを加えると、とてつもなく分かりづらい記述になってしまう。要するに、小倉実起とは、皇位継承レースで外戚の地位が約されていたにも拘わらず、時のイタズラからその地位を失ってしまった人物なのである。そして、何よりも大切なのは、その不遇を託ちながら世を去ったこと、その矛先が天皇家そのものに向けられたことである。どうだろう、こうしてみると、御霊として崇めらる条件は完璧に揃っている。そして、事実としてはどうか。
 明治十四年十月十七日、京都市上京区の御霊神社において、相殿に始めて三社明神を祀った。この神は、始め中御門藤原氏の松木家の祀っていた「幸護霊社」といわれた神であったが、明治の東京遷都にともなって、公家はすべて東京に移り住むことになり、その際そのみたましろを御霊神社にあずけて行かれた。明治十四年八月に、神社からこのみたましろの祭祀について、祭祀料の下賜を宮内省に願い出たところ、それが聞き届けられて、それ以後、御霊神社の相殿の神として祭られることになったのである。この「三社明神」は、三社と言いながら、神は四座であって、それは小倉実起及びその子、公連・季広・中納言典侍局である。四座の神を三社明神という理由はわからないと、宮司の小栗栖憲昌氏は言われた。
池田弥三郎『日本の幽霊』(昭和34年、中央公論社)
要約の段階では名前を挙げなかったが、実起とともに祀られているのが小倉家の人々であり、廃嫡の憂き目にあった第一皇子の生母が中納言典侍局(実起の娘)である。そして霊元天皇の後継となった第五皇子の生母は「松木前大納言宗条の女むすめ」であると伝わっている。三柱明神の前身である「幸護霊社」を崇めていた松木家と、松木前大納言の家との繋がりは不明だが、偶然の符合ではあるまい。また池田弥三郎は先の引用のあとで、次のような記述も残している。
実起・公連・典侍の局がなくなって、一人佐渡にいた季広は、元禄八年突如召しかえされ、小倉の家の再興を許されている。日記も史書も何も伝えてはいないが、この季広の赦免と再興とは、おそらく実起父子のたたりがあっての処置だろうと想像される。

上御霊神社をネタにした文章というと、御霊信仰を持ちだしてホラーめかしたほら話を並べる傾向がある。落語よろしくで、軽妙な語り口での面白さがあれば大概は許されるのだが、それでも遠い平安時代の話ばかり持ち出されるのには、いささか食傷気味なところもあった。それに対して、小倉実起の件は江戸時代の話である。正式に合祀されたのは、さらに近く明治になってからのこと。遠い時代どころか、平成の現代にかなり近づいたところでも同じようなことが起きていたわけである。それだけに怨霊の影もナマナマしく感じられる。
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by office34 | 2012-08-26 03:50 | 京都本・京都ガイド
2012年 08月 20日
富士谷御杖詞碑@上御霊神社
上御霊神社の芭蕉句碑を紹介した時(参考)、境内には芭蕉句碑に他に、新村出の歌碑と富士谷御杖の詞碑があることにも触れた。しかし、その際に「富士谷御杖詞碑と新村出歌碑はやや新しそうなので」と書いたのだが、これはやや問題がありそうだ。

まず新村出の方だが、これは「新しい」と断言しても許される。新村出その人が大正~昭和の国語学者、言語学者であり、なによりも碑陰に「創祀千二百年記念/平成六年五月一日/小川氏子会」とあって、建立年が確定できる。問題になるのは、富士谷御杖の方である。パッと見の印象で、そんなに古くはないだろうと見通しを立てたのだが、碑陰には何も書かれておらず、建碑の年次を伝えるものは見あたらない。碑の側には駒札が立てられていて、碑に刻まれている詞、それが作られた経緯、富士谷御杖のプロフィールは記されているのだが、建碑の年次ははっきりとは書かれていない。詞が作られた際に同時に碑も奉納されたとするのが、社務所に尋ねた際の見解だったのだが、どうなんだろう。碑面の詞だけではなく、駒札の説明も併せてどう解釈するかというところをこちらへ投げかけられた形になるのだが、とりあえずはそれを挙げておこう。
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文字が小さいので写真では読みづらい。ということで書き出してみよう。前半部分は詞の書き写しである。碑面の文字は、くずし字であることに加えて筆致が細く、肉眼では解読が難しいので、非常にありがたい。
富士谷御杖ふじたにみつえ詞碑
底津磐根に宮はしらふと
志り高天原に氷木たかしるは
たゞかみつ世の宮づくりに
あらず いでかしこきたくみの
神のたまはる斉砥は
かしてむ 手斧とくせよ
てをのとくせよ
中臣御杖
詞の解釈については、細かい部分は検討を要するが、おおざっぱにいえば、言祝ぎといったところだろう。問題は後半部分である。
右は造営工事を励ます自筆の詞文で当社神殿大修理のため文政五年(一八二二年)三月七日仮殿遷宮が行われた当時の作詞である(因に正遷宮は文政十一年三月十六日に斉行された) 御杖は富士谷成章(儒者で皆川淇園の弟/江戸中期の国学者)の長子で明和五年(一七六八年)京都上京中立売通新町西入に生まれる 父の学を継ぎ国学者であると共に歌学者神道学者として著名である 又琴曲を能くして「雲井曲」の作がある 文政六年十一月十六日没 年五十六
文政五年にこの碑に刻まれている詞が御杖によって作られたことは分かるし、そのことは神社を寿ぎつつ工事の進捗を促す内容にも符合する。ただ明確に、その年に石碑が建立されたと書かれているわけではない。分かるのは作詞の年次までなのでそれ以上は踏みこまないといった慎重さも感じとられる。文政五年に建立されたとの理解に対しては少し慎重になりたいところだが、とりあえずは、先の記事で新村出歌碑とともに「新しそうだ」と言った点だけを撤回しておいて、詳しくは追っての課題とするしかなさそうだ。

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碑の全体を撮った写真では文字はまったく読めない

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局所的に拡大してようやく……

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by office34 | 2012-08-20 19:26 | 歌碑・文学碑など
2012年 08月 18日
とある祠@上賀茂
上賀茂の一隅に小さな祠がある。近くには由緒や云われを説明する物は見あたらない。それ以前に、ほぼ年中、扉を閉ざしているため、通行人が目を留めることはない。たまたま、格子の隙間から奧が見えた時や、偶然にも扉が開かれているタイミングで通りがかった時には、その祠に意識が向く。そして、思わずドキっとしてしまう。
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2012年元日、扉が開放されている時に初めて通りがかる

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中央拡大


小さな祠には、無数の人形が並べられているのである。手前の方に置かれているキューピー人形はよく目立っているが、素性の分からない土人形めいたものや玩具として量産されているに違いない人形もある。いったい、なんなんだろう、この祠は。長らく疑問に思っていたことだったが、このほど、その輪郭がおぼろげに見えてきた。どうやら上賀茂界隈に伝わる昔話に由来するもののようだ。

とある個人サイト(2003年頃に更新停止?)に、上賀茂小学校育友会広報紙「かみがも」に連載されていたという『かみがもばなし』なるシリーズが紹介されている。『かみがもばなし』は、上賀茂地区の郷土史家、初田耕治氏が採集した地元の昔話らしい。ただし、当方は連載されていた「かみがも」誌を実見したこともなければ、当該サイトに掲載されている内容が初田氏の寄稿を忠実に写し取っているか否かの確認もしていない。しかし、件の祠に関していえば、アウトラインだけを見ても他では聞くことのない話なので、当該サイトからスクリーンキャプチャーを取って紹介するぐらいの意義はありそうだ。
これが初田氏が寄稿したままであるとすればの前提なのだが、のほほんとした昔話口調の奧に透けて見えるのは、姑による過酷な嫁イジメの姿である。自ら命を絶つこととなった妻を弔う意味で祠を建てたとのことだが、この話に登場する祠が、冒頭の人形に囲まれた祠であるとのことは、暗黙の了解になっている。初田氏の紹介する形では、件の祠にまで話は及んでいないのだが、件の祠が話の提供者である戸田氏の邸宅に隣接している(あるいは敷地内?に建つ)ものなので、おのずとそう判断されるのだろう。

事実、件の祠を紹介したうえで、この昔話に触れるサイトもある。あるいは、上賀茂神社前の一画に、「上賀茂歴史マップ」なるボードが掲示されており、そこには、この昔話のタイトルと同じ「夜泣きの神さん」という見出しをつけて件の祠の写真が貼り付けられている(ただし、こちらは妻は身投げで命を絶つとなっている)。これらのことから考えれば、この昔話が件の祠にまつわるものであるというのは、言わずもがなのことになっているようだ。

とりあえず、そこまでのところを受け入れたうえで話を続けよう。興味がそそられたのは、供養もしくは鎮魂のための祠がいつしか夜泣き封じの願掛けスポットとなっている点である。冒頭で紹介したように、この祠には数々の人形が供えられている。これらは、新生児の夜泣きが治まらない時は、ここの人形を一つ持ちだしてお願いすべし、そして夜泣きをしなくなれば、持ちだしていた一体と併せて別の人形を御供えする云々との風習によるものらしい。そうすると、中身は違えど願掛けのパワースポットではよく耳にするパターンとは言えないだろうか。神前の霊石を借り受けて、願いが叶ったあかつきには、その石と、もう一つ別の石を奉納する云々、かの有名なパターンなのである。

とすれば……、という形で想像はさらに膨らんでゆく。祠から人形を借り受けて、別の一体を添えて返却するのが普遍的な行為であるとすれば、あるいはその風習の方が、昔話より古いのではないかという想像も成り立つ。何言ってんだ!嫁イジメがあったから祠が建てられてという順番なのだから、論理的にあり得ない、と思われるかも知れないが、そういうわけではない。昔話なるものには、その性質上、何かの事象に対しての説明を行うことが少なくない。そして、その説明は往々にして、気の利いた種明かしどころか、完璧な後付けだったりすることもある。つまり、もともとの由緒は遠い昔に忘却の闇へ沈んでしまったのだが、いつしか夜泣き封じの願掛け祠として、この場所が信仰されるようになっていた、それがすべてのスタートになるのである。そして、なぜその場所が夜泣き封じなのかという関心が高まってくるのに答えるべく創作されたのが、この嫁イジメの話ではないかと思うのである。もちろん、根拠があるわけではない。しかし、こうした考え方も選択肢の一つにあってもいい。
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by office34 | 2012-08-18 03:57 | 街角の風景
2012年 08月 15日
深泥池と清滝トンネル
緑紅叢書第五輯『京の怪談』に載る祇園夜話を取り上げてきたが、ここでその目次を示しておく。
死刑囚の幽霊/絵馬の怪/白蛇のたたり/幽霊鏡の由来/茶人宗旦狼(ママ,狐が正)/祇園夜話夜/鳥辺野へ出た偽幽霊/死んで児を育つ/バラバラ事件お政殺し/おさださんの生霊/木娘現わる/撞かずの鐘/おみつの怨霊
幽霊飴や宗旦狐など現代のアンチョコガイド本でも取り上げられる話や明治時代におきた事件がらみの風説といったところが中心になっているようだが、より現代的な視点に引きつければ興味深い点が浮かびあがる。それは、深泥池や清滝トンネルといった、現在では定番と呼ばれる心霊スポットが抜けていることである。

もちろん理由は簡単だろう。深泥池にせよ、清滝トンネルにせよ、『京の怪談』が刊行された1957年当時は注目されていなかっただけである。深泥池や清滝トンネルがリストの早いところに挙がるようになった時期は知らないのだが、当方が京都にやってきた1980年代には、すでに詳しい説明なしで通用するくらいにはなっていた。

いわゆるオカルトブームといってあれこれ騒がれたのが70年代(映画『エクソシスト』の公開は1973年)なので、バクっと10年ぐらい遡らせてそのあたりから語られ始めたネタとみていいのではないだろうか。もちろん田中緑紅(1891年~1969年)の関心が、消え行く明治大正の記憶といったところにばかり向けられていたために、リアルタイムで広まっているネタが取りこぼされているといった可能性もないではない。詳細に調べれば、『女性自身』とかの片隅に載っているゴシップ記事の形で、田中緑紅の存命中にすでに登場していたとの証拠が見つかるかも知れない。ただ、それはあくまでも可能性の話であって、おおよその見通しとしては深泥池も清滝トンネルも70年代以降の新参ネタではないかと思うのである。

それともう一つ、深泥池や清滝トンネルがあれやこれやともてはやされるようになる環境への目配せも大切だろう。明治の方に眼差しが向けられていた田中緑紅の場合は、おもに巷間伝承と言えばいいのか、年輩の人々が語り聞かせてくれる話を積極的に採集しているのだが、深泥池や清滝トンネルが華々しく登場するのは主に大学生たちがオモシロ半分でやりとりする雑談の世界だったのではないだろうか。仮にそうだとすれば、田中緑紅の存命中に深泥池や清滝トンネルの怪談が世に出ていたとしても、彼の守備網に掛かってこないのも頷ける。

ほとんど調べていないこともあって、細かいところは推測ばかりになってしまったが、緑紅叢書の伝える怪談と、平成のわれわれが普通に聞く怪談との間には、かなりの懸隔があるようだ、といったあたりを結論としておこう。最後に、当方が初めて聞いた、と記憶している形を紹介しておこう。これがオリジナルに近いものだったかどうかは全く自信がない。
[深泥池]
市内の某所で客を拾ったタクシー運転手の体験。その日は、客が少ないこともあったので、乗りこんできたその女性客がどこか妙な雰囲気を漂わせているのが気になりつつも、平静を装って行き先を尋ねた。返ってきた答えは「深泥池」。変な場所を指定するものだと思いながら、言われた通りに車を出す。そして深泥池の畔にさしかかったところで、バックミラーに女の姿が映っていないことに気づく。車を停めて後ろをみると、そこには誰もいなくて座席がぐっしょりと濡れていた……

有名なタクシーに乗る女の幽霊の話で、タクシーが深泥池を通りかかった時に乗りこんできたとかのパターンも耳にする。どちらを最初に聞いたのかは判然としないが、なんとなく、行き先を深泥池とする方だったような気がしている。ちなみに、このパターンの話は、当方がもっとチビだった頃にも聞いたことがあり、今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』(1969年,現代教養文庫・社会思想社)には、駕籠に乗る幽霊とか、人力車に乗る幽霊とかの先行事例も報告されている。したがって、一部で言われているような、深泥池がこの手の類話の発祥地であるとの説は、まったくの後付けである。
[清滝トンネル]
友だち同士の四人で肝試しのつもりで清滝トンネルに向かった大学生たちの話。出る出るとの評判の場所に相応しく、近づいていくにつれてそれっぽい雰囲気になってくる。最初は元気に冗談も言い合っていた仲間たちだが、トンネルに入ってからはさすがに皆だまりこくってしまう。と、その時、ドスンという大きな音。なにかが車の上に当たったような気配がしたので、運転をしていた学生はおもわずブレーキを踏んでしまう。しかし、何かが起こる様子もない。四人はみな顔を見合わせて不気味がるが、意を決して外へ出てみることにした。ただ一人だけは、俺は怖いからといって車外へ出ることを拒む。それならということで、残る三人で外へ出て、車の上やボンネットのあたりなどを点検してみたが、異常は見あたらない。何だったんだろうと不思議に思いながら、車に戻ると、車内に残った一人は、目を剥いたまま卒倒していた……ひとり残った車内で、彼は何を見たのだろう。

落とし方にワンクッションを入れているところをみると、こちらはアレンジが加わった後のもののようだ。ネットで調べてみた範囲でも、ドスンという音がして、フロントガラスの上から女の顔が下りてくるといった話もあるので、異常音+怪異現象とシンプルな形がオリジナルに近いように思われる。






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by office34 | 2012-08-15 01:36 | 京都本・京都ガイド
2012年 08月 14日
祇園夜話もう一つ
『京の怪談』(緑紅叢書第五輯)の「祇園夜話」からもう一つ取り上げておこう。
 松本さださんが、新橋畔におつた頃、抱えの妓が数人おつたことがあります。その一人ひさという芸妓がいました。よく聘らしてくれるお茶屋からお馴染の客の席へよばれ、二人で石山から南郷ヘドライブに誘われて出かけました。この男は自殺するつもりでひさを道づれにしたもので、南郷へくると突差にひさを抱いて川へ飛び込んでしまいました。無理心中、相手にされたひさこそとんだドライブでした。丁度その時刻新橋の松本の宅へ「お母はんただいま」と慌てて帰つて来ましたのが、このひさ、見ると体中ぬれ鼠「何んえ、あんたずぶぬれてやないか」というと「すんまへん」とそのまますウーと二階え上つてしまいました、そのあとへ警察からひさとその客が南郷の瀬田川で死んだと知らされ、おさださんはゾーとしたといいました。
『京の怪談』(田中緑紅,昭和32年,京を語る会)

「松本さださん」というのは松本佐多(1873~1955)のこと。明治大正期から芸妓として評判を得、戦前戦後を通じて祇園にその人ありと鳴らした名物女将。文人たちとの交流も深く、吉井勇の歌に「京風の地唄の舞のしめやかさ芸の深さを佐多女つたふる」というものが残る。詳細は他のサイト(参考)にまかせておくが、問題の怪談は、要するに有名人から聞いた話、あるいはその近くにいた人の談話というスタイルを取る。話にリアリティを添えることを目的にして、この手の話ではよく使われる手法ではないかと思う。

話の筋の方も、いないはずの人がそこにいた系のものと考えれば、かなりポピュラーなクチである。実際、古い時代の話ではなく、平成の現在にあったことというふうに装いを改めても十分に通用する内容だ。ちなみに、この祇園夜話は一種のアンソロジーといっていいかと思うが、配列はどうやら時代順を意識しているようだ。全部で六話からなり、上に紹介した話が五つ目である。そして六つ目の書き出しは「段々時代は新しくなり昭和十二年春の話」となっている。前回に取り上げた志賀廼家弁慶のうどん屋関連の話は、第二話で、文中に「妾がまだ舞妓に出ていました時分どすさかい、五十年程にもなりますかいナ」や「この頃は自動車はおへんどした」といった記述があった。そのあたりから考えると明治中頃から終わり頃だろうか。

そして第五話のひさ女の幽霊譚、これの年代を文中の言い回しに手がかりを探すとすれば「松本さださんが、新橋畔におつた頃」なのだが、これだけではよく分からない。佐多女の活躍した時代や、第六話の書き出しで「昭和十二年」と明示されているあたりから推測して、大正末期から昭和初期とみておいていいかも知れない。もっとも、自家用車の大衆化がすでに始まっていたとはいえ、無理心中でのダイビングに使われるところまできていたかどうかは、非常に心もとない(車ごと瀬田川に飛び込んだわけではない?)。ともあれ、松本佐多の伝記にでもあたれば、杏花の開業時期やそれ以前の所属などなども見えてくるので、もう少しはっきりしてくるかも知れないが、そこまで気合いを入れて追いかける話かどうか、こっちの方も非常に心もとない。
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by office34 | 2012-08-14 10:34 | 京都本・京都ガイド
2012年 08月 12日
祇園夜話
今昔物語集には、鬼殿なるスポットに関する記述がある。三条東洞院にあるその場所は、なんでも、その場所で雷に打たれて死んだ男が悪霊となって祟りをなしている云々。平安京が造られる以前の出来事でありながら、怨念は今(=今昔物語集編纂の時代)にまで残り、その場所では不吉な出来事がよく起きているとのこと。

この鬼殿と同じように建物に怨念が取り憑いたケースとして挙げられるのが、藤原朝成の旧邸だろう。こちらは大鏡が伝える話で、藤原伊尹と蔵人頭を争っていた朝成だったが、官職レースに敗れたのみならず、のちには伊尹から辱めをうける事件もおこった云々。それがもとで朝成は伊尹の一族を呪詛しつつ病の床につき、そのまま死んで悪霊となったとの話なのだが、その朝成の屋敷が三条の北、西洞院の西にあり、藤家嫡流にとっての悪所として忌避されたというのである。

この旧朝成邸は、伝える本によって三条の北であったり、南であったり、あるいは三条東洞院であったりと揺れがあるのだが、後世の本になると鬼殿との混乱も生じている。つまり旧朝成邸と伝えられる場所が鬼殿の場所として語られるようになるのである。思うに、いわゆる祟りをなす屋敷としての側面が一人歩きして、厳密にそれがどこかということが注意のらち外に置かれた結果だろう。結局のところをまとめてみると、ことの発端は平安京以前のことかも知れないし、もしかすると平安時代のことかも知れない、要するに遠い昔の話、三条の北か南か分からないし、東洞院か西洞院かも判然としない、京内のどこかそのあたりに凶宅があったとさ、という話なのである。

さて、こういう風にまとめてみると、どうだろう。なんじゃそりゃ?という感想になるに違いない。何も分からない、とにかく曖昧なところだらけの話だからである。しかし、おそらく唯一といっていい、確固たる事柄がある。それは「昔、××で事件があり、その影響で今でも不思議な出来事が起きている」と持っていく話の枠組みである。事件の内容や、関係する人物名、さらには肝心の地名までが、その時々の状況や語り手の気分次第で揺れ動くことがあるにしても、場所に対して因縁を語りたがる傾向は遠い昔から変わっていない。

毎年、夏の暑さがピークを迎える頃になると、待ってましたとばかりに聞こえてくるのは、蝉の声だけではない。出所不明の怪談もその一つだろう。テレビ番組が有力な媒体となって以来、話の筋以上に語り口やライトの当て方といった演出面が幅を利かせる傾向にあるとはいえ、某所についての因縁話というラインで考えると、そのグループに分類されるものはかなりの数にのぼる。自らの経験譚であったり、伝聞であったりと前提からさまざまだが、奇妙な出来事をもっともらしく語った後、その場所では実はかくかくしかじかの事件があったそうな……という方向へもっていくケースは、まさに場所に対する因縁話である。実際のところは、電波の影響力を考慮してのことだろう、具体的な地名は伏せたりするのだが、番組が地名を伏せられたりすると、ネットを中心に詮索がはじまり、無関係なところも含めてあれこれの場所が、いかにもといった感じで語られるようになるのは、場所についての因縁話を人は好むということの現れだろう。

前回の記事で取り上げた志賀廼家弁慶のうどん屋なるものも、実はこの手の話なのである。現存する弁慶とは関係ないことが望ましいと書いたのも、こうしたところに理由がある。それでも、記事として触れた以上は、ネタの出所ぐらいは正確に報告せねばなるまい。それは大正・昭和期に巷間談話を積極的に蒐集した田中緑紅のものである。緑紅叢書の第五輯は「京の怪談」と題されたものであり、その中で取り上げられている「祇園夜話」の一節である。とあるお茶屋でおきた殺傷事件、「先生」と呼ばれていた客がひいきの舞妓を訳もなく斬りつけたというのである。そしてその時に飛び散った血が壁に残り、何度塗り替えても消えないと云々。結局、その後、家の持ち主も転々とした挙げ句、「その家は今、弁慶というおうどんやはん、ソレ志賀廼家淡海一座の人気者やった、弁慶はんどす、この人がおうどんやはんをやっていやはるのどすえ」との文脈となるのである。

最近は見かけることがなくなったが、数年前までなら夏になるとコンビニの雑誌コーナーに「関西怨念地図」なるムック本が並んでいた。読者からの投稿による実話の怪談集というのが建前となっていた本なのだが、そんなガセネタの戦前版といっていい話なのだが、フッと吹くまでもなく、時間が経てばそれだけで消えるような巷間談話であるだけに、活字になったものはある種の記録としての意義はある。
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by office34 | 2012-08-12 20:12 | 京都本・京都ガイド
2012年 08月 10日
弁慶という名前のうどん屋
「弁慶」というお店の話。業種でいえば、割烹、料亭、日本料理、うどん、定食屋……と、要するに飲食店には違いないが当方は把握していない。とりあえず、そういう名前のお店が気になった。

iタウンページで調べてみると、飲食店の他、ひっこし業者や釣り堀も引っ掛かってくるわけだが、とりあえずうどん屋、少し広めに考えて飲食店というラインで絞る必要がありそうだ。そうなると候補に残るのは、ガイドブック等でもよくお目に掛かる五条大橋東詰のうどん屋「辨慶」か、嵐山は渡月橋畔にある料亭「嵐山辨慶」だろう。とはいえ、業種カテゴリーでうどん屋となっているところが他にも数軒あるし、食堂、お好み焼き屋となっているものも視野に入れておかねばならない。さらにそれ以上のネックは、当方の探している「弁慶」なるうどん屋が、現存している保証はない点である。

少し話を整理しておこう。まず捜し物を始めたきっかけは次の文章である。
その家は今、弁慶というおうどんやはん、ソレ志賀廼家淡海一座の人気者やった、弁慶はんどす、この人がおうどんやはんをやっていやはるのどすえ
祇園で小耳にはさんだこととの建前になっている文章であり、ここに登場する「弁慶」が問題のお店なのである。この「弁慶」は、今も存在しているのだろうか?、現存するとすれば、どこにあるのだろう?、すぐに思いつくところの五条大橋東のうどん屋「辨慶」と関係があるのだろうか?等々の問題である。

この文章から導かれるのは「弁慶」という屋号だけではない。オーナーが弁慶なる役者だったこと、その弁慶なる役者は志賀廼家淡海一座の座員であったことである。役者については志賀廼家弁慶という名前で映画に活躍を場を移したのだろうか、「志賀廼家弁慶」でネット検索をかければ、映画関係のページを中心に確認がとれる。なんでも森繁久弥の「夫婦善哉」にも出ていたとのこと。また志賀廼家淡海の方から攻めてみると、もう少しはっきりしてくる。志賀廼家淡海は大正~昭和にかけて活躍した喜劇役者ということで、出身地ゆかりである大津歴史博物館のページは人物の輪郭を知るうえで参考になる。そして、そこから枝葉を広げていくと、志賀廼家淡海の弟子筋にあたるのだろう、博多淡海という喜劇役者の名前も引っ掛かってくるし、その三代目を継いだのが木村進であるとなってくると、当方もリアルタイムで知る話とリンクしてくる。

ともあれ、喜劇役者弁慶の店であるうどん屋「弁慶」がどうなっているのだろう、というのがテーマである。五条大橋のうどん屋「辨慶」は、かなり昔のガイドブックによれば、祇園界隈で働く人たちの行き付けみたいな書き方もされていたから、案外、探している店と直接的なつながりがあるのかも知れない。一~二度くらいなら覗いたこともあるのだが、それほど強い印象は残っていないのが実際のところである。それでも今回のような流れがあった以上は、少しは見直す必要があるだろう。

なお、ことの発端となった文章の詳細は、また改めて……というか、結論からいえば、五条大橋の「辨慶」はじめ、現存する「弁慶」はまったく関係ありませんとなるのが望ましい類のものである。
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by office34 | 2012-08-10 12:10 | 気になるお店
2012年 08月 03日
芭蕉句碑@上御霊神社
先に寺町頭の阿弥陀寺を取り上げて、境内の芭蕉句碑などを紹介したことがあった(以前の記事)。その際にも触れたように、阿弥陀寺には芭蕉句碑の他に、江戸時代後期に住職を務めた蝶夢の句碑も置かれている。さらには詳細不明ながら、「常寛」なる人物の句碑(安政四年建立)もある。蝶夢が蕉風復興運動を推進した中心人物だったことが影響するのだろうが、ちょっとした文学スポット的な風合いを漂わせている場所なのである。

そんな阿弥陀寺のすぐ近くに、もう一つの隠れ文学スポットがある。上御霊神社である。暑い季節になると怪談ネタが恋しくなるものだが、御霊信仰に絡めてオモシロ可笑しく取り上げられることも多いので、そこそこの有名スポットだろう。しかし怪談ネタではなくて文学ネタだとなるとどうだろう。あまり注目されていないかも知れない。

ということで、ざっと境内を眺めまわしてみよう。西側の楼門から境内に入ると、まっすぐ舞台と本殿に向かって参道が伸びている。文学碑が点在しているのは、この参道の周辺なのだが、さほど広くはない境内で、参道の左手に芭蕉句碑と新村出歌碑、右手に富士谷御杖詞碑が置かれている。この三基で一応すべてとなるのだが、境内の狭さを思えば、けっこう濃密な文学空間と言えるだろう。

もっとも、富士谷御杖詞碑と新村出歌碑はやや新しそうなので、古くからの文学空間だったというのは難しそうだ。それでも、もう一つの芭蕉句碑は慶応元年建立となっているので、それなりの年代物である。

さて、その芭蕉句碑だが、刻まれているのは、
半日は神を友にやとし忘れ
というものである。俳句はあくまでも「場の文芸」なので、シチュエーションが分からないと解釈も覚束ないものだが、この句もその例に漏れない。そうした意味からすれば、碑の傍らに解説板が設置されているのはありがたい。それによれば、
芭蕉句碑
松尾芭蕉は元禄三年十二月に凡兆、去来、乙州、史邦ら門人を伴ひ、当社に参詣し別当家に半日を打寛ぎ、「年忘れ歌仙」を奉納した
「俳諧八重桜集」には当社を称えた歌仙や奉納発句が登載されてゐる
はせを
半日ハ
神を友にや
とし忘
慶応元年九月
一瓢社
出雲路社 花弟舎徒
建立
と記されている。この解説板だけでは、あるいは状況が混乱するかも知れないが、要するに元禄三年の年末に芭蕉一行がこの場所を訪れて歌仙(三十六句からなる連歌)を奉納し、その故事を踏まえて慶応元年に建立されたのがこの句碑である(慶応元年以下の情報は、碑の背面に刻まれている)

ところで、肝心の句の解釈だが、どうやら挨拶句であるようだ。つまり、もてなしてもらったお礼の一句であり、現代語に直すとすればこんな感じだろうか。

今日の半日はこちらでお世話いただいて楽しい句会を催すことができました。残る半日は神々と年忘れをお楽しみくださいませ



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by office34 | 2012-08-03 23:42 | 歌碑・文学碑など