Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
■■NOTICE■■
記事の写真(含・画像)は縮小表示されています。
写真をクリックすれば別ウィンドウが開き、原寸でごらん頂けます(別ウインドウのサイズは手動で調整してください)。
別ウィンドウは写真上でクリックすると自動で閉じます。
about 京都クルーズ
本丸はこちらです。


カテゴリ
検索
以前の記事
タグ
その他のジャンル
Skypeボタン
最新の記事
京都景観賞
at 2014-02-23 23:05
仁丹町名看板「下椹木町通千本..
at 2014-02-21 19:58
レプリカ仁丹
at 2014-02-19 14:18
曾根崎心中・道行き(通釈)
at 2014-02-15 01:07
曾根崎心中・道行き
at 2014-02-13 05:15
漢字の読み方
at 2014-02-11 06:03
鬼めぐり
at 2014-02-08 14:26
鬼の話
at 2014-02-05 23:22
献灯の刻名 ~山国隊(6)
at 2014-01-31 23:29
葵公園
at 2014-01-29 02:24
山国隊スタイル ~山国隊(5)
at 2014-01-22 21:34
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
at 2014-01-20 23:17
桜色?
at 2014-01-18 23:39
戊宸行進曲 ~山国隊(3)
at 2014-01-16 20:50
雪の木の根道
at 2014-01-12 16:55
山国隊灯籠 ~山国隊(2)
at 2014-01-09 19:01
山国隊(1)
at 2014-01-07 22:03
祇園閣・京都タワー・時代祭 ..
at 2014-01-04 03:43
時代祭、大いなる仮装行列 ~..
at 2013-12-30 16:58
本物でないということ ~キッ..
at 2013-12-28 15:48
なんとなく四字熟語
推奨ブラウザ
・Mozilla Firefox
・Google Chrome
・Opera

インターネットエクスプローラではコンテンツの一部が正確に表現されない可能性があります。
<   2013年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
2013年 05月 30日
身を知る雨(4)
前回の記事に続いて、それでは浮舟の思いとは?といったところへ入っていこう。語り手の言として「ことにいとおもくなどはあらぬ若き心地に(たいして思慮があるわけでない若い娘の思いには)」といったフレーズが挟まれるに相応しく、かなりの混乱をみせている。本文はあとで紹介するが、まずは概要を示すために、こんな比喩を作ってみた。
ハーゲンダッツに夢中なんだけど、前々から馴染んでいる羊羹もいいなって思うのは、初めて食べた甘食が羊羹だったからなのかも。でも羊羹が好きって言っていながら、ハーゲンダッツに浮気しているのがバレると虎屋さんへの就職が内定して喜んでるママがイヤな顔するかな。それにアイスがアイスがって言っても実は暑い季節だけのことかも知んないし、仮にアイス大好きっ子になっちゃったら、いろいろ面倒みてくれて虎屋さんへのコネまでもつけてくれたお姉ちゃんに悪いしなぁ・・・・・・

この通りの思考過程でないのはもちろんだが、それでもおおよその見方でいえば、こんな具合の逡巡ぶりなのである。先に紹介した、匂宮からの情熱的な走り書きを受け取った後の浮舟の反応がこうした戸惑いに描き出され、そこへ折悪しく薫からの手紙も届けられるという展開なのである。

もう少し外堀を埋めながら原文に近づいてみる。浮舟の逡巡を忠実に訳している近年の注釈書もあるが、忠実すぎて逆に文意がわかりづらくなっているものが少なくない中、現代語としての体裁を重んじながら、原文の雰囲気をうまく残しているものとして、谷崎潤一郎の訳文がある。冗長さが否めないのはそういう原文なのだからやむを得ない。ともあれ原文へのアプローチとしては非常に有効な訳文である。
筆にまかせて走り書きをなさいましたのが、却って見事で趣があるのです。格別しっかりした考かんがえなどのないうら若い身には、思召おぼしめしの程がいよいようれしく、だんだんその方へ靡なびいて行きそうになるのでしたが、前から契っていて下すった大将の君も、さすがに矢張奥深いところがあって、人柄が結構であるような気がしますのは、此のお人に依って始めて愛情と云うものを知ったからなのでしょうか。こう云う浅ましいことをお聞き込みになって、私をお疎うとみになるやうなことが出来たら、何として生きていられよう、かの君に迎えられる日を待ち侘びている母上も、さぞや意外にも情けなくも思って当惑するであろう、此のように打ち込んで下さる宮にしてからが、えらく浮気っぽい御本性でいらっしゃると開いているので、ほんの今のうちだけのことではないのか、仮にこのまま京へお匿かくまい下さって、末長く人数ひとかずの中へお入れになって下さるとしても、あの対のおん方がどうお思ひになるであろうか、何事に依らず隠しきれない世の中であるから、いつぞやにしてもあの怪しからぬ振舞をなすった夕ぐれに、ちょっとお目に懸ったことが手蔓てづるになって、斯様に私の隠れ家をお見つけになったではないか、まして私が京に囲はれていたりしたら、それがどうして大将殿のお耳に這入らずにいるものかなどと考えて行きますと、自分の方にも越度おちどがあるし、矢張かの殿に見捨てられると云うことは、溜らなく辛いであろうと思えたりして、思案に暮れているのでしたが、そう云う折しも殿からおん文の使があります。
『潤一郎新訳源氏物語』(昭和31年,中央公論社)
*歴史的仮名遣いは改めた
直接的には、心はすでに匂宮の方に傾いているのだが、初めての人だったとの理由から薫の面影を心から消すことができない、そこへ親や姉がどう思うかだの、匂宮への思いがバレたら薫に見捨てられるかも知れないだの、ゴチャゴチャした雑念が混じってしまうらしい。

こうした大枠の確認を踏まえて、ようやく本文を提示することができる。一応、ひとまとまりの思いに相当する部分をわかりやすくするため、便宜的に数字を入れておいた。
筆にまかせて書き乱り給へるしも、見所あり、をかしげなり[1]。ことにいとおもくなどはあらぬ若き心地に、いとかゝる心を思ひもまさりぬべけれど[2]、はじめより契り給ひしさまも、さすがにかれは猶いともの深う人柄のめでたきなども、世の中を知りにしはじめなればにや[3]、かゝるうきこと聞きつけて思ひ疎み給ひなむ世にはいかでかあらむ[4]、いつしかと思ひまどふ親にも、思はずに心づきなしとこそはもてわづらはれめ[5]、かく心焦られし給ふ人、はた、いとあだなる御心本性とのみ聞きしかば、かゝるほどこそあらめ[6]、又かうながらも京にも隠し据ゑ給ひ、ながらへてもおぼし数まへむにつけては、かの上のおぼさむこと[7]、よろづ隠れなき世なりければ、あやしかりし夕暮れのしるべばかりにだに、かう尋ね出で給ふめり、ましてわがありさまのともかくもあらむを聞き給はぬやうはありなんや[8]と思ひたどるに、わが心もきずありてかの人にうとまれたてまつらむ、猶いみじかるべし[9]、と思ひ乱るゝをりしも、かの殿より御使ひあり。
ひらがなで記されているところに漢字を宛てたり、句読点を施したりの行為は、後の時代の注釈に他ならないのだが、原文は「ことにいとおもくなどはあらぬ若き心地に」から切るに切れない文がだらだらと続いている。以下、番号に従っておおざっぱにまとめてみると、
[1]匂宮の手紙に対する批評(語り手の言)
[2]思慮の足りない若い娘だからこんな手紙だけで熱くなってしまうようだが(語り手の言)
[3]薫は立派だということ、そう思うのも初めての相手だったから(語り手の言とも浮舟の心ともつかない)
[4]そんな立派な薫に嫌われたらどうしよう(浮舟の心)
[5]母親からも愛想を尽かされるかも(浮舟の心)
[6]夢中になってくれている人=匂宮は、実は浮気っぽいというから先々のことはちょっと不安(浮舟の心)
[7]匂宮にかくまわれることになったら「かの上」=姉・中君がどう思うか(浮舟の心)
[8]匂宮にかくまわれることになったら薫にもすぐにバレるに決まってる(浮舟の心)
[9]匂宮に惹かれること自体が「わが心のきず」だから、かくまわれる云々以前に、薫に嫌われてしまう、どうしよう(浮舟の心)
といった感じである。「いとかゝる心を思ひもまさりぬべけれど[2]」のあたりから、なんやら雲行きが怪しくなって、思いの定まらないさまを露呈する。文章的にも、本来は語り手の位置からの浮舟評だったはずが、いつしか浮舟の心中に同化してしまい、心に浮かぶままに不安要素を羅列してしまっているといったところだろう。現代社会の枠組みにはめ込むのなら、おバカちゃんの一言で片付けるしかない。もっとも、少しはマジメな分析をするのなら、こうした文体こそが『源氏物語』によって獲得された仮名散文の特性となるのだが、そちらへ持って行くと、話はさらにややこしくなる。

原文にこだわりすぎて本筋がボケてきているので強引に軌道修正。要は「身を知る雨」という言葉を浮舟が使う前提をきちんと確認する必要があったということで、その心の中が錯綜を極めていたということである。次回、浮舟の歌に立ち返って「身を知る雨」を検討する。


身を知る雨(1)/身を知る雨(2)/身を知る雨(3)/身を知る雨(4)/身を知る雨(5)/身を知る雨(6)
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-30 23:48
2013年 05月 29日
身を知る雨(3)
『源氏物語』の浮舟巻に、
つれづれと身を知る雨のをやまねば
     袖さへいとゞみかさまさりて
という歌が詠まれている。コードネーム「浮舟」なる姫君が身の憂さを嘆くくだりで出てくる一首である。乱暴に状況を整理すると、イマをときめく二人の貴公子から思いを寄せられた挙げ句、右に左に揺れながら私って何なの?とこぼすバカ女といったところか、と、こうしたまとめ方はいくらなんでも乱暴すぎるわけだが、あたらずといえども遠からずだろう。

『源氏物語』での人間関係やシチュエーションの詳細は他に譲るとして、要は薫大将の庇護下に置かれていた浮舟に対して、匂宮が身を偽って関係を持つのだが、当の浮舟は匂宮の情熱にほだされながらも薫に対する罪悪感に苛まされるということである。そして、たまたまのタイミングで薫と匂宮からの手紙がバッテッィングして届けられることがあり、両者に対して返歌をおくる場面、そこでの薫に対して詠まれたのが問題の一首である。こうしたストーリーが話の前提になるのだが、匂宮と薫の両者から寄せられた手紙に対して思いを巡らせるという文脈がなによりものポイントだろう。原文を見ながらそれらを確認すれば、以下のようになっている。まず匂宮からのもの、
尽きせぬことども書き給ひて、
  ながめやるそなたの雲も見えぬまで
     空さへくるゝころのわびしさ
筆にまかせて書き乱り給へるしも、見どころあり。
(イタリックの部分が文面)
手紙にはあれやこれやと思いのほどが綴られていたのだが、本文にあるのは詠歌「ながめやる~わびしさ」のみ。一方、薫の方から寄せられたものは、
後の御文には、
  思ひながら日ごろになること。時々はそれよりもおどろかい給はんこそ思ふさまならめ。おろかなるにやは。
など、端書に、
  水まさるをちの里人いかならむ
       晴れぬながめにかきくらすころ
  常よりも思ひやりきこゆることまさりてなむ。
と、白き色紙にて立文なり。御手もこまやかにをかしげならねど、書きざまゆゑゆゑしく見ゆ。
(イタリックの部分が文面)
主旨はあまり訪れることができないことへの詫びであり、そのうえで貴女の方からも手紙をくださいねという。そして「水まさる~」の歌が添えられているのだが、「白き色紙にて立文なり」とあるのは、スタイルも恋文というよりは形式を重んじた書状といった指摘である。こうしたところにも、情熱の人・匂宮と思慮の人・薫の対照が表現されているのだが、二人の間で揺れる浮舟はというと、これが一筋縄ではいかない。

思考が屈折しているといえばいいのか、定まりがないといえばいいのか、要するに何を考えているのかよくわからないのである。本文も難解を極める箇所で、訳本や注釈その他の手助けがないとまずは読めない。『源氏物語』の文章はタダでさえ難しいのだが、その中でもとりわけ宇治十帖の読みづらさ感を高めているのは、他ならぬこの浮舟の思考であるように思う。今回のメーンテーマ、「身を知る雨」も『古今和歌集』もしくは『伊勢物語』の延長線上に置かれる歌言葉であるには違いないのだが、『源氏物語』の中では浮舟の言葉として用いられているのだから、浮舟的思考の枠内で考えることになるはずである。


身を知る雨(1)/身を知る雨(2)/身を知る雨(3)/身を知る雨(4)/身を知る雨(5)/身を知る雨(6)
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-29 19:48
2013年 05月 24日
身を知る雨(2)
前回の記事では「身を知る雨」というフレーズを取り上げてみた。ややくだけた感じでやっておいたのだが、フレーズの出所となる「数々に」の歌は厳密には解釈が難しそうだ。「数々に」といった語句レベルの解釈から一筋縄ではいかないが、何よりも一番の問題は「問ひがたみ」の部分だろう。形容詞の語幹+「み」の、いわゆる「ミ語法」が用いられているところまではいいのだが、この語法によって順接の条件句が示されていると考えた場合、その帰結はどうなるのだろうか。「尋ねるのが難しい」からどうだというのか、ということである。

和歌の文言に従うなら、下の句「身をしる雨はふりぞまされる」が来るところなのだが、これが条件に対する直接的な帰結でないのは文脈的に明らかである。それではどう考えるか。和歌が限られた字数に思いを託す表現形式であるとすれば、そして文脈に単純な論理性が見て取れないとすれば、言外に省略された何かを想像せねばならない。

もっともシンプルに処理すれば、(1)「あなたに尋ねることが難しいから」→「尋ねません」といったところ。少し掘り下げるとすれば、(2)「あなたに尋ねることが難しいから」→「尋ねないで私ひとりで考えてみます」というのもアリだろう。さらにストーリーを反映させるとすれば、(3)「あなたに尋ねることが難しいから」→「私ひとりで悲しみに暮れています」といったあたりまでは許容範囲に入る。言葉の上っ面だけを嘗めるのなら(1)で留まるが、言外の思いを汲み取れば(3)のあたりまで想像も広がってくる。要は、上の句をどこまで具体化させるかによって、全体の解釈も変わってくるということである。そして、そうした幅を承けての下の句なのである。

「身を知る雨は降りぞまされる」を、文字通り「雨」が降っているとだけ解釈するのか、雨に見立てた「涙」に暮れているとするのか、あるいはいっそう複雑に「心象風景としての雨」をいうものなのか等々、さまざまな解釈が生まれてくる。前回の記事では出典として『伊勢物語』を紹介しておいたが、この和歌自体は『伊勢物語』にも出てくれば、『古今和歌集』にも収録されている。そして、この二つが話題にあがる時にはそれぞれの前後関係が問われるのがお約束というものである。とはいえ決定的な前後関係が論証できるものでないのは言うまでもない。この二つは、互いに影響を与えながら形が整えられていったとするのが通説だろう。しかしこのエピソードに限定すれば、『古今和歌集』の詞書きよりは『伊勢物語』の方がストーリー的にまとまっている感が強い。しかも、かなりコミカルに読むことができるように潤色されている。

前回、この歌に対して
私のことをいろいろ考えてくれているみたいですね、でもお気持ちをダイレクトにお尋ねするのは怖いような気もします。だって私への愛情がどのくらいかを教えてくれるのがこの空模様というのなら、雨脚はだんだん強くなってきているみたいですから。
という解釈を出しておいたが、これはあくまでも『伊勢物語』に即してのものである。歌を受け取った敏行朝臣が慌てふためて濡れ鼠になってやってきたというオチに結びつけるためには、女の歌(業平が代作)にはそれぐらいの強さがあってしかるべきとの解釈である。

それに対して、濡れ鼠のオチがないとすればどうだろう。女の側の悲しみの表現というだけだとすれば風合いもかなり変わってくる。
お気持ちを尋ねるのは難しいようですから、私だけが一人で涙に暮れています。外の雨はますます激しくなっているようですが、心の中の雨も同じように強くなっています。
といった具合での、雨を心象風景に捉えることもできるはずである。また端的に「身を知る雨」=「涙」とするのも、これと同じ方向のものだろう。

『伊勢物語』のフレーズとして読むか、『古今和歌集』所収歌として読むかで変わってくるだけでも面倒なのだが、それに加えてさらに話をやっかいにしているのが、時代がくだって「身を知る雨」のフレーズがどういったニュアンスで理解されるようになったかという問題が加わってくる点である。そこに登場するのが『源氏物語』は宇治十帖、浮舟の物語である。

身を知る雨(1)/身を知る雨(2)/身を知る雨(3)/身を知る雨(4)/身を知る雨(5)/身を知る雨(6)
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-24 02:51
2013年 05月 20日
身を知る雨(1)
看板文字や碑文の字体をとやかく言っていた流れからの脱線は著しいのだが、「身の程知らず」というところに絡めた話を一つしてみる。そもそものところ、まともに筆も持てない輩が文字のことをあれこれ言うことが身の程知らずなのだが、「身の程知らず」に響きのよく似た「身を知る」という言い回しから『伊勢物語』のとある章段が思い出された。

話のストーリーはいたって簡単、歌物語によくあるパターンで、男と女が歌のやり取りを通して気持ちを刺激しあうというもの。そうした大枠を前提にした流れの中、女の側が男に送った歌に、
かずかずに思ひ思はず問ひがたみ
      身を知る雨は降りぞまされる
というものがあった。

これは、それに先立つ形で男の方から送られてきていた手紙があり、そこに書かれていた「雨が降りそうだからそちらへ行こうかどうか思案しています」という内容に応えるものである。男の手紙は言葉のうわべを整えたものであり、厳密に解釈すると次のようなものである。「今にも泣き出しそうな空を見ながら途方に暮れています。もし私が幸運に恵まれているとすれば雨は降らないんでしょうけど、さてどうでしょうか」。男の側の理屈でいけば、今夜そちらへ行かないのは、私の本意ではなくて天気のせいなんですよ、という弁解である。それに応えた女から返歌が「かずかずに」の歌。さてその心は、
私のことをいろいろ考えてくれているみたいですね、でもお気持ちをダイレクトにお尋ねするのは怖いような気もします。だって私への愛情がどのくらいかを教えてくれるのがこの空模様というのなら、雨脚はだんだん強くなってきているみたいですから。
巧言令色なんとやらではないが、きれいごとを並べて付かず離れずの微妙な距離感を保とうとする男の真意を見抜いて、雨が理由で来てくれないのならあなたの愛ってその程度なんでしょうね、と突き放してみせたわけである。口先の言い訳はダメですよ、来ないなら来ない、それがあなたの気持ちということにしますからね、という形での最後通牒である。結果、男の方が降参して「蓑も笠もとりあへで、しとどに濡れてまどひ来にけり」という形となったとのこと。

このエピソードの中で、女の歌に「身を知る雨」という言葉があった。「身の程を知る」からの連想が働いたのがこの箇所だったのだが、和歌の言葉を逐語訳すれば「私のことを理解している雨」といったあたりだろうか。文脈を考慮して「私への愛情がどのくらいかを知っている雨」という形にふくらませておいたが、現代語に訳すと、それだけで輝きを失うのが古典和歌なるものなのだろう、この歌も原文のままで理解できないと面白みもわかりづらい。

ところで、このエピソードにはもう一つのオチがある。というのは、実はこの女は世間知らずで、和歌を通してこうした際どいやり取りなどできるタイプではなかったのである。それなのにこうした返歌が詠めたのは『伊勢物語』がいうところの「男」、すなわち在原業平がバックにいて、女に成り代わって歌を詠んでいたからである。したがって女の歌とばかり思って気持ちを高ぶらせていた通い男の方は、業平にうまく転がされていたことになる。

章段の時系列に従って説明すれば、「男(=業平)」の屋敷に仕える若い女房のもとにとある男が通うようになったところから話は始まる。女は手紙のやりとりもできないくらい世間知らずだったので、業平が代わって文案を作り、歌を詠み、女はそれを書き写すだけで恋人のもとへ送っていた。恋人の方から「長雨続きでお伺いできない日が続くと私の袖も涙に濡れてしまいます」という歌が来ると、女に成り代わった業平が「濡れるのは袖だけなのですか、こぼす涙が少なくて涙川が浅いんでしょうね、その川に流されてしまうというのならあなたのお言葉もアテにできるんでしょうけど」とやり返すなど、男の気持ちを巧妙に煽っていき、若い二人を結びつけるのである。そして二人が結ばれた後のこと、ある時、雨が理由で云々との手紙がくると、女に成り代わった業平が「かずかずに」の歌を詠んだ、というのがこの章段のあらすじである。

以下、参考までに。
[原文]
昔、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ文もをさをさしからず、言葉もいひ知らず、いはんや歌は詠まざりければ、かのあるじなる人、案を書きて、かかせてやりけり。めでまどひにけり。さて、男の詠める、
  つれづれのながめにまさる涙川
      袖のみひちて逢ふよしもなし
返し、例の、男、女に代はりて、
  浅みこそ袖はひつらめ涙川
      身さへ流ると聞かば頼まむ
といへりければ、男いといたうめでて、今まで巻きて文箱に入れてありとなんいふなる。
 男、文おこせたり。得ての後のことなりけり。「雨の降りぬべきになん見わづらひ侍る。身さいはひあらば、この雨降らじ」といへりければ、例の、男、女に代はりて詠みてやらす。
  かずかずに思ひ思はず問ひがたみ
      身を知る雨は降りぞまされる
と詠みてやれりければ、蓑も笠もとりあへで、しとどに濡れてまどひ来にけり。
『伊勢物語』百七段



身を知る雨(1)/身を知る雨(2)/身を知る雨(3)/身を知る雨(4)/身を知る雨(5)/身を知る雨(6)
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-20 01:35
2013年 05月 14日
高山彦九郎顕彰碑
お馴染みの1ショット・・・・といっても、対象自体はお馴染みでも、この部分に限定すれば、あまり注目されていないみたいだから「お馴染み」とは言えないかも知れない。それが土下座こと、高山彦九郎像の副碑である。
a0029238_22515796.jpg

石碑の碑文をあれこれ弄るのが好きだから、歌碑、句碑、文学碑、顕彰碑etcはこのブログでもたびたび取り上げている。しかし、書かれている内容がどういうことかといったところに関心が集中するので、文字それ自体に向かう意識は希薄だった。それは、実際に筆をとって文字を書くことが皆無になっていることの結果であるのは言うまでもない。自筆でまとめておけば意外に喜んでもらえるということもあるので、ちょっとした礼状なら手書きのペン字にするのがせいぜいで、ある程度のまとまった文章になるとパソコンでつくるものとの発想が最初に来るようになってしまっている。

もちろん、意識が字に向かったところで、高名な作家先生や書家様の書いた文字の巧拙をとやかく言う能力を持ち合わせているわけでもないし、ましてや字掘りの技法を議論する眼力などあろうはずがない。なんとなくの雰囲気で好き嫌いをいうのが関の山だろう。しかし、このところ看板文字をいくつか注目していて、そうした視点もあるのだなということがわかってきたのは収穫なのかも知れない。

と、例によって前置きをダラダラやってしまっているが、本題は高山像の副碑である。八ッ橋の看板文字のところでも触れたように、揮毫は徳富蘇峰。とりわけ読みづらい文字はなく、見ての通り「高山彦九郎先生皇居望拝之址」と書かれている。このほど、改めてその掘りを眺めてみたわけだが、どうやら筆圧に応じて掘りの深さを変えているらしい。全体的に縦線は豪快にかなり深く掘られており、横線は縦に比べれば相対的に浅くの傾向がある。さらに特徴的なのが「之」の字で、二画目の上から下へ払う部分は、墨のかすれを現してるのだろうか、意図的と思える掘り残しが見られる。

字掘りを見るというのがどういうことなのか、実のところ、まったくわかっていない。それを承知の上で観察してみて気づいたことを書いてみた。見る眼のある人にかかれば、論ずるに値しない戯言と片づけられるに違いないが、この手の話で盛り上がることができるとすれば、案外おもしろそうな気がする。

なお、彫り師に関するデータは、背面に記されている。「請負人 北白川 内田鶴之助 彫刻者 岩知道忠」とのこと。

*上に貼り付けた画像は自動縮小がかかっているために、掘り方が云々といったところはわからない。ということで、原寸をこちらからどうぞ。




(おまけの小ネタ)「高山彦九郎先生」のあとにスペースがあって、次の行の頭から「皇居」と始まっているのは、文字の配置を工夫して全体のバランスを取っているわけではない。「皇居」という言葉に敬意を表するために改行を施しているからで、こうした書き方を平出という。

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-14 23:13 | 街角の風景
2013年 05月 12日
廣羣鶴かな?
北野天満宮に菅原道真詩碑があることは以前に紹介したことがある(参考までに)。碑面に刻まれているのは『菅家文草』からのもので、一応、問題は解決していたつもりだったが、そうは問屋が卸さないとなったようだ。

「神製」と題が掲げられ、二編の詩からなる本文と建碑のいわれを記した副文からなるわけだが、今回、再考が必要になったのは、一番最後に刻まれている石工の名前である。写真で撮ってきたものを見たままに読んで「東京 廣羣鵬刻」としておいたのだが、ここに問題が起きた。「廣羣鶴」ではないのかということである。
江戸時代から続いた店石屋で、その内容を多少なりとも聞けたのは広群鶴(東京都台東区谷中)だけであった。「群鶴は江戸一の大石屋」と谷中育ちの古老や明治生まれの職人達がいうように、関東でも一二を誇る大きさの石屋であったらしく数多くの碑の字掘りを手掛けている。
『碑刻』(森章二氏,2003年,木耳社)


森章二氏の『碑刻』という本を読んでいて、初めて「廣羣鶴」の名前を知ったのだが、その時にひらめいたのが、そういえば天神さんの道真詩碑にそんな名前があったような?ということだった。それで確認してみると、記事には「鶴」ではなくて「なお碑の右下には小さな文字で『東京 廣羣鵬刻』とある。石に刻んだ彫り師の名前だろう」と書いてしまっている。改めて写真をチェックしても、やはり「鵬」と読めてしまうのは、異体字に対する知見の乏しさかも知れない。あるいは、似たような屋号でまったく別人ということなのかも知れない。ともかく、よくわからないのだが問題発生ということで、写真の拡大版を出しておこう。ささやかな問題提起のつもりである。
a0029238_3461059.jpg

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-12 03:53 | 歌碑・文学碑など
2013年 05月 10日
和菓子屋看板
鼓月の看板(揮毫・山田無文)を取り上げたので(参考までに)、和菓子屋の看板をいくつか並べてみる。かつての記事では、八ッ橋の看板を紹介したこともあるが、それも含めていくつかをつらつらっとやってみよう。

ということで、まずは八ッ橋。もちろん、八ッ橋と簡単にいっても簡単でないのが京都の事情。西尾(本家八ッ橋西尾株式会社)と聖護院(株式会社聖護院八ツ橋総本店)のBIG2に加えて、後発八ッ橋屋が何軒もある。しかも看板の文字でいえば、後発の中にはBIG2となにがしかの関係がありそうなところも・・・・・・、とゴタクはさておき、一つひとつ見ていこう。

一番上のが西尾で落款は「聖護院門跡」。二つめも同じ西尾だが熊野神社北側の店舗の看板。本店のものとは字体が異なるが、左端には「聖護院門跡題」とある。三つ目が聖護院のもので鉄斎筆の看板。落款のところにあるのは「富岡鉄斎題」だろうか、最後の一字がよくわからない。聖護院も、西尾と同じく丸太町通に面した表通りに別店舗を出しているのだが、そこの看板文字は本店のものと同じである。
a0029238_219133.jpg
a0029238_2185283.jpg
a0029238_2185598.jpg


話が微妙にややこしくなってくるのが四つ目。「八ッ橋」の部分は聖護院の看板と同じ字体。落款は鉄斎外史と読めるものの、聖護院の看板に刻まれている落款とは明らかに字体が異なる。また、この「株式会社本家八ッ橋」は西尾為治相伝と掲げており、聖護院よりは西尾の方に近い雰囲気も漂わせている。現行の法人格でいえば、西尾とも聖護院とも別になるのは確かだが、系譜的な意味での関係はよくわからない。
a0029238_2185073.jpg


後発組の中からは、井筒(株式会社 井筒八ッ橋本舗)を挙げておこう。『書家の眼で見る京の書』によればこちらの看板は徳富蘇峰筆とのこと。
a0029238_2184360.jpg

蘇峰の文字といえば、三条京阪の高山像副碑で確認できるのだが、書体が異なっているため、比較は意味をなさない。ちなみに、wikipedeliaの蘇峰のページ(2013.05.10現在)には蘇峰88歳のときに書いたという達磨図が紹介されており、その落款には「八十八」と記されている。そうすると、井筒の看板で「九十二」と読める部分は蘇峰92歳の時のものということだろうか。蘇峰は94歳まで生きたようなので、特段、矛盾があるわけではないが、仮に92歳の時のものだとすれば、看板が制作されたのは昭和30年ということになるはず。

以上が八ッ橋関連だが、和菓子屋の看板というネタであれば、確実に紹介されるのが鶴屋吉信の「柚餅」看板だろう。京都の看板めぐりツアーでも鉄斎筆によるこの看板を紹介するものは多い。落款の文字は「八十叟鉄斎」だろうか。もう一つ、鉄斎風の字体と決め打ちしていたのが、三条大橋西詰の船はし屋。こちらも「本家」と「総本店」が別企業で存在していてややこしいのだが、ここで取り上げているのは「本家 船はしや」の方である。ただし、看板の「五色豆」が鉄斎?と思っていたのは、どうも勘違いだったようだ。というのも、鉄斎であれば、落款を残さないはずはないから。
a0029238_2184020.jpg
a0029238_2183888.jpg


もう一枚、長久堂の看板も挙げておく。
a0029238_2184658.jpg

落款はよく読めないが、署名の下の印が「藍水」と読めるので、落款もその方向で読んでみると、「八十七堂藍水書」のようにも見えてくる。詳細不明。

最後に和菓子屋ではないが、これも。
a0029238_218313.jpg

実篤とある。武者小路実篤だろう。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-10 03:20 | 街角の風景
2013年 05月 06日
香淳皇后歌碑(再確認)
およそ一月前にくに荘前に置かれている香淳皇后歌碑に触れたことがあった(参考までに)。その際、和歌の後に添えられている一行がよく読めないと書き、改めて確認してくるようなことを書いた。しかも近い場所だから、すぐにちょいちょいと行って見てくるみたいな書きぶりをしてしまった。ところが、その後、近くを通ることはあっても、何度もスルーしてしまうという有様、それであれこれするうちに結局一ヶ月が過ぎてしまったようである。その香淳皇后歌碑、このほどようやく再確認ができたので、簡単に報告だけしておこう。

まず結論からいえば、文末の一行はなんてことない揮毫者の署名である。「二条恭仁子謹書」となっている。一ヶ月前に訪れて撮った写真はどうみても名前とは思えない雰囲気なのだが、改めて現物の前に立ってみると、どうみても名前にしか読めない。なぜこれが読めなかったのだろうと不思議になるくらいである。前回のものはやや斜めから撮っているとか、少し光量が足りなかったとかのゴタクを並べることはできるのだが、原因はそればかりではあるまい。これが写真のトリックというものか、立体感がなくなると、こうもイメージが変わるものかと呆れるばかりである。

ともあれ、今回、改めて撮ってきた写真を貼っておこう。一ヶ月前のものとは打って変わって、背景の華やかさが際立つようになっている。
a0029238_2313726.jpg

a0029238_2314274.jpg


ちなみに「二条恭仁子」なる人物だが、久邇宮多嘉王のご息女とのこと。朝彦親王からみれば孫にあたり、香淳皇后からみれば従姉妹にあたる方のようだ。
[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-06 23:05 | 歌碑・文学碑など
2013年 05月 03日
正字・誤字・異体字
今日は、といってもすでに日付が替わっているので同じ日にはならない。それはさておき、先ほど記事を書いたばかりだが、もう一くさり。

今度の話は神泉苑との関わりはないのだが、たまたま眼に留まったので忘れないうちに、というよりは書く気が失せないうちに書いておこうという魂胆である。日頃、よく通っている場所なので、この石灯籠の存在自体は知っていた。しかし、そこに刻まれている文字をきちんと読んでみたことはなかった。このほど、たまたま前で足が止まったこともあって、ついでに眼も留まってしまったという次第。
a0029238_2484917.jpg

形状からしても珍しいものではないのだが、眼が留まったのは竿の部分に掘られている文字である。ヒツジヘンに良?、さてどう読んだらいいものやら、と一瞬、眉をひそめたのだが、文脈的には「奉供養」であるのは明白、となると「養」の異体字か。確かにヒツジヘンと見たものは、細かく観察すると両側へのハライがついている。現行の「養」の上の部分を偏として書き出した形になっている。異体字辞典あたりで確認すれば、おそらく出てくる字形に違いない。

ここで終わる話であれば、ふーんの一言でスルーしてしまったかも知れない。ところが、ふと「青蓮院門跡」の話を思い出した。かの門前にある標石では「青」のタテイチが上から下まで貫通しているのである。正確に記せば、そうした話を『書家の眼で見た 続・京の書』(青山碧雲氏,2010,木耳社)が紹介していることを思い出したのである。そして、タテイチが上下を貫通する「青」が誤字ではなく異体字であり、「養」の上下を横並びにする字形が現実に用いられているのであれば、そもそものところ、正しい字とはなんだろう?といった方向へ思いが向かったのである。

厳格さを求めれば、おそらく康煕字典に掲載されている字形とかの定義にもなるのだろうが、それをベースにするにしても慣用といって許容される範囲をどこまで認めればいいのか、ということである。もちろん、闇雲に許容範囲を広げると、とんでもないことになる。そして、やり過ぎて進退が窮まると、挙げ句の果てには、エラい人が使っている字形と500年以上昔から使われていることが確認できる字形は「正しい」の範疇に入れましょうといったルーズなオチになるかも知れない。

ともあれ、異体字とはなんぞやという、あの面倒な問題である。あまりに面倒すぎて、頭の片隅を掠めても、すぐに無かったことしてしまうのは悪い癖だが、とりあえずは、字形の「正しさ」なる概念はかなり相対的なものであるといったぐらいのことは言っておこう。大学入試で出題される漢字の書き取りに限らず、小学校レベルでの漢字まで視野に入れたとしても、一般に信じられている「正しさ」は何をもって保証されているのか、ということも考えねばなるまい、機会があればだが。以前、「祇園」と「祗園」の問題で似たような話をした気がするが、まあいいだろう。

a0029238_248541.jpg
分断された「養」と上下貫通の「青」

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-03 02:56 | 街角の風景
2013年 05月 02日
5月の神泉苑
神泉苑が面白そうだという噂を聞いたので覗きに行ってみた。5/3が神泉苑祭で、1日~4日には境内の狂言堂で神泉苑大念仏狂言が行われているとか。とはいえ、行われる法要に興味があるわけでもなし、面白そうだという声がちらほら聞こえてきたから、イベントの雰囲気でそれっぽくなっているに違いない境内を覗くぐらいはしてみようか程度の魂胆である。

それで実際に訪れてみると、ちょうど見頃を迎えているツツジや、神輿の前に立てられている剣鉾など、それなりの見どころは確かにある。また天邪鬼向けには「やる気がほとんど感じられない露店」など、ツッコミどころにも事欠かない。そうした意味で、面白いといえば、確かに面白い部類に入れていいだろう。「面白そうだ」といった人が、果たしてどういうニュアンスでの面白さを期待していたのかはわからないが、きっと満足できたと思う。それはさておき、当方の関心にヒットした部分を言うとすれば、やはりなにやら意味深な「石」の存在が挙げられる。それが墓標であることは、形の上からもほぼ間違いなのだが、なぜこんな場所にこんな墓標が?といった方向で興味が刺激されたのである。

具体的に見てみよう。幸い、神泉苑の公式サイトがあり、そこに境内の見取り図があるのでそれを参考にしてもらえればわかりやすい。その墓標らしきものがあったのは、弁天堂に向かって右手、鎮守稲荷社の方向へ歩いてすぐのところである。池のほとりにツツジの咲く植え込みがあり、そのすぐ横に祠と、その基部に小さな墓標が二基置かれていた。神泉苑の歴史的なところをいえば、平安時代云々の話はこの際、関係ないと明言しておくべきである。王朝時代にたびたび饗宴が催された後院の「神泉苑」とは別に、その名前を掲げて江戸時代の初期に再興された寺院の神泉苑を念頭に置く必要がある。そうすると、寺院であれば塋域をもっていても不思議ではないのではないかという話も出てくるだろう。しかし、今回、目に止まったそれは、たいていの寺院に見られる墓園ではなかった。その祠と二基の墓標だけがポツンと道ばたに置かれて、他には何もないのである。檀家を供養する云々の場所ではないということである。それで、なんだろう、これ?と視線が引き寄せられて、おもわずへぇ~と呟いてしまったのが「元禄十五午年」という年代が確認できたからである。さらに呟きが、ほぇ~に変わってしまったのが、そこに刻まれていた名前が「幻生童子」なるものだったからである。

即座に人物と結びつく名前ではない。おそらくは夭逝したか、あるいは流れたかした子供の戒名か何かだろう。しかし、たとえそうだったとしても「幻生童子」とは何とも意味深ではないか。パブ犬的に霊幻道士のキョンシーの姿が頭をよぎったものだから、必要以上に意味深に捉えてしまった部分もあるが、それでもやはり「幻生童子かぁ。ほぇ~・・・・・・」である。

ちなみに、その隣にあったもう一つの墓標は、中央の名前は解読が難しいが、文化元甲子と読める文字列が確認できた。元禄の幻生童子と年代的に離れすぎているとところから考えて、後世のいずれかの時期に、この場所に並べておかれたものに違いない。

a0029238_23393511.jpg
ツツジの季節、この眺めは素直に褒めるべきだろう


a0029238_2339322.jpg
わずか数本とはいえ、神泉苑と剣鉾の組み合わせは悪くない


a0029238_23392662.jpg
手作りスマートボール? 一等に入ればたこ焼き6個だそうな


a0029238_2339173.jpg
亀に碑を背負わせる(亀趺碑)にしても、ニュアンスが違う気がする


a0029238_2339217.jpg
蕪村句碑発見、かなり新しそう


a0029238_23391070.jpg
霊幻道士ならぬ幻生童子の墓、元禄モノでござる

[PR]


トラックバック送信元記事にこのブログへのリンクが存在しない場合はトラックバックを受け付けません。
         
by office34 | 2013-05-02 23:54 | 京都本・京都ガイド