京都景観賞 |
at 2014-02-23 23:05 |
仁丹町名看板「下椹木町通千本.. |
at 2014-02-21 19:58 |
レプリカ仁丹 |
at 2014-02-19 14:18 |
曾根崎心中・道行き(通釈) |
at 2014-02-15 01:07 |
曾根崎心中・道行き |
at 2014-02-13 05:15 |
漢字の読み方 |
at 2014-02-11 06:03 |
鬼めぐり |
at 2014-02-08 14:26 |
鬼の話 |
at 2014-02-05 23:22 |
献灯の刻名 ~山国隊(6) |
at 2014-01-31 23:29 |
葵公園 |
at 2014-01-29 02:24 |
山国隊スタイル ~山国隊(5) |
at 2014-01-22 21:34 |
鏡ヶ原 ~山国隊(4) |
at 2014-01-20 23:17 |
桜色? |
at 2014-01-18 23:39 |
戊宸行進曲 ~山国隊(3) |
at 2014-01-16 20:50 |
雪の木の根道 |
at 2014-01-12 16:55 |
山国隊灯籠 ~山国隊(2) |
at 2014-01-09 19:01 |
山国隊(1) |
at 2014-01-07 22:03 |
祇園閣・京都タワー・時代祭 .. |
at 2014-01-04 03:43 |
時代祭、大いなる仮装行列 ~.. |
at 2013-12-30 16:58 |
本物でないということ ~キッ.. |
at 2013-12-28 15:48 |
翁、既にして嵯峨に卜居す。邸外低く土堤を繞らし、上にさゝやかなる生垣あり、外より俗塵の侵すに由なく、内より花葉の眺めを遮らぬほどの心しつらひと知られたり。若し夫れ、山房の園に入れば、春暖うして芳草階に盈ち、秋寒うして落葉扉を敲き、庭には芝生の緑濃きところ、奇石の塊然たるあり、松樹の偃蹇たるあり、径尽きて室雅に、窓明にして机浄く、書剣豪興を遣り、詩画清韻を楽む、客至れば則ち園後の木瓜もて醸せる木瓜酒をすゝめ、報国の丹心を披瀝して、高風真に欽すべし。さて又、月挙ぐれば、嵐山の佳景宛ら一幅の書画の如く、淡冶咲ふが如きもの、蒼碧滴るが如きもの、浄潔〓ふが如きもの、瀟散睡るが如きもの、一望の下眸中に入り来たりて、情景述ぶべからず、はた、記すべからず。対嵐山房の詳細を正確に報告する文章なのか、文章を記した人間が己の筆に酔っているのか、判別しがたいところ無きにしも非ずだが、近世の遺風を継承した明治の文人らしさはよく伝わってくる。〓:コメヘンに女、「粧」と同義。『信天翁』(大正四年,信天翁会編)
嵐峡舟中内容はややわかりづらいところもあるが、大堰川で舟遊びをした折りのものと考えて、おおよそ間違いない。大堰川に舟を浮かべて故人を憶う、峰には雲がかかり雨が花を濡らしている、砕ける波の音は雷のごとし、舟にぶつかる怪石は鬼の怒れるさま、棹を返して明日の晴天を期待する、晴れれば山の木々は春の装いとなるだろう・・・・・・ってかなり胡散臭い解釈のような気がするが。調べ直して、後日、少しはマシな通釈と訓読を示す予定。
尋花共酌一壺醇 両扇篷窓對故人
紅雨峰頭雲氣合 東風峡口鳥聲頻
狂波拍堰如雷吼 恠石當舟似鬼瞋
回棹又逢明日霽 重看萬樹更妝春
翁、常に大工宇八を愛しぬ。或る時、相倶に、嵐山の峡谷を〓〓し、會會、礦泉の出づる所に遇へり。乃ち、爲に謀りて、宇八に温泉場を起こさしめぬ。名づけて花の湯といひ、遊人の入浴に供す。これ今の嵐峡館の前身なり。大正四年刊の追悼集『信天翁』所載の逸話である。嵐山の桜を愛して下鴨より居を遷していた山中だったが、散策のおりに会々(たまたま)源泉を発見したという。発見の日時はわからないが、日記の明治10年10月3日の条には関連する記述が見られる。〓〓はギョウニンベンに尚、ギョウニンベンに羊,読み「ショウヨウ」。「逍遙」と同義
大悲閣の下、礦泉に付、地所、下桂村、風間八左衛門、三百坪二百箇年借取、家内名前、十圓渡す、二十兩宇助へ、普請の爲渡す。下桂在住の風間八左衛門から300坪の土地を200年契約で借り受けて賃貸料10円を支払ったということだろうか。この温泉場が旅館となるのは、明治末年のことだから、山中の死(明治18年)からかなりが経過してのことである。200年契約はどうなったのか、所有権が転々としたあげくに営業旅館となったらしい。
(熊谷酔香翁は)神楽岡に室を築き、以て隠る。余、亦東京より糺林に病帰す。神楽岡と僅か鴨水を隔つのみ。と描かれている。直孝が神楽岡に別宅を営んで隠居した頃、ちょうど信天翁も職を辞して京都に戻り、下鴨に居を構えたということで、しきりに行き来があったようだ。
はしがき
新来の春は嵐山に明けて、あたり一帯の
名所古跡に妍爛たる桜色を賞し初夏
の頃ともなれば新緑と清[溪?]の■とに涼を
味ひ秋は楓が紅に染むる山々を探り、[雪?]に
は清[澤?]の粧をならべる。この四時の絵巻を遊
覧のしるべにとて、こゝに「観光の嵐山」と
題する案内記を弘く頒つことゝせり。
観光者の伴侶ともならば幸である。嵐山保勝會
嵐山小唄長田幹彦氏作詩
橋本國彦氏作曲
霞がくれの嵐山
[色?]もほのかに夕ざくら
春の愁ひを紅帯に
日傘かざそよ渡月橋
晴れる村雨雲とほく
峰の青葉に虹の橋
さつきつゝぢの露わけて
保津の早瀬の下り舩
[かく?]も歌ふか山峡の
紅葉照りそふ瀧[は瀬?]に
秋を織りなす唐錦
きせて[舞?]はせん山姫に
風に暮れゆく峯つゞき
鐘も寂しき大悲閣
別れともなき盃に
泣いてさゝやく夜の露
「祇園小唄」(一番のみ)である。円山公園にはカラフルな歌碑も建っているし、この歌詞を紹介する京都本も少なくはない。でも、ふと立ち止まって小唄ってなんだろうということも考えてしまう。お座敷芸の一種で三味線の伴奏でゆるゆると口ずさむ楽曲みたいなイメージがある一方で、「お座敷小唄」や「海軍小唄(ズンドコ節)」のように、毛色がまったく違うのに"小唄"を名乗っているものもある。厳密な定義を求められるとすればお座敷芸になっている楽曲がメーンを張ることになるのだが、こまかいことをゴチャゴチャいうのは抜きにして、ちょっとしたはやり歌程度を意味する小唄もあるということなのだろう。月はおぼろに東山
霞む夜毎よごとのかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
嵐山小唄長田幹彦氏作詩
橋本國彦氏作曲
霞がくれの嵐山
[色?]もほのかに夕ざくら
春の愁ひを紅帯に
日傘かざそよ渡月橋
晴れる村雨雲とほく
峰の青葉に虹の橋
さつきつゝぢの露わけて
保津の早瀬の下り舩
[かく]も歌ふか山峡の
紅葉照りそふ瀧■[瀬?]に
秋を織りなす唐錦
きせて■はせん山姫に
風に■れゆく峯つゞき
鐘も寂しき大悲閣
別れともなき盃に
泣いてさゝやく夜の露
という歌。思い人に逢えない悲しみを詠う内容に注目するなら『古今集』や『伊勢物語』からダイレクトに来ていることになるのだが、「憂し」を響かせた「浮き雲」がキーワードになっているなど細かい言葉遣いは浮舟の世界をイメージしているように思う。何の影響がより強いかなど、客観的な測定ができる問題ではないのだが、宇治十帖を抜きにして『古今集』『伊勢物語』オンリーで「身を知る雨」を語ることには抵抗を感じる。百首歌の中に恋の心を 惟明親王逢ふことのむなしき空のうき雲は身を知る雨のたよりなりけり
過ぎにし春の比ころかとよ、旧池の乱草をはらひて、蛙楽あがくを愛することありき。(中略)そことなき水草がくれに古ふりはてぬるも、いと情けなき心地ぞするや。春雨しめやかにうちそゝぎ、晴間なき比ころは、老のあはれも数そひ、袖の水みかさもまさる心地して、ながめいだしたるに、松の戸をうちたゝく人あり。というのも紹介してみる。下線を施した「袖の水かさ」云々のところが浮舟歌の引用とされる箇所である。『古今集』or『伊勢物語』に特徴的なのが「袖(は/のみ)浸ひ」つという言い回しであるとすれば、この歌では「水みかさ増さ」るという浮舟のオリジナル文言が使われているので、浮舟歌により近いと言っていい。ただし内容は恋に絡む悲嘆や惑乱ではなく、そこはかとなく漂う雰囲気的な悲しさである。春雨そぼふる池の風情がどことなく涙腺を緩くするといい、そこへ老齢の憂いが加わってなんちゃらほいといった感じか。要するに言葉の上っ面のみを流用するケースである。内容的につながりが認められないので関係の無い事例とみなすこともできるのだが、こうした表面的な利用が行われていることの意味も考えた方がいい。ストーリーを厳密に反映させるのではなく、浮舟歌がインパクトのある言葉として後世の人々、あるいは教養人とか歌人とかに限定するべきかもしれないが、そうした人々の心に強く刻まれていることを証していると思えるからである。オリジナルの意味や内容に縛られず、一種の流行語のように、好まれたのではないか、ということである。比較の対象としては少しぶっ飛びすぎるかも知れないが、人気コミックで主人公が印象的なセリフを吐いたとする。すると厳密には文脈が云々は二の次で、なんてことないシチュエーションでその言葉を使ってみるといったような感じなら現代でもよくあるはず。古典和歌の歌言葉なるものも、もともとは難しい話ではなく、その程度のものだったのかも知れない。二条良基「筑波問答」(日本古典文学大系『連歌論集俳論集』より)
ファン申請 |
||