Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 06月 29日
対嵐山房 ~山中静逸(3)
信天翁山中静逸の話をもう少し。山中が嵐山に居を移したのは明治十年頃のようだ。場所は大堰川左岸(渡月橋北側)の上流域、現在の嵐山に当てはめれば「吉兆」や「らんざん」のあるあたり。
いしぶみデータベースによれば「明治天皇行在所山中邸阯」という石碑が建つという(現物未確認)。データベースには「京都年金基金センターらんざん内」とあり、これは現在の「ご清遊の宿らんざん」のこと。

嵐山は、小沢魯庵の歌にも詠まれていることからわかるように(参考までに)、江戸時代にはすでに行楽の場所として認知されていた。現在のような喧噪の巷ではなかったろうが、下鴨に比べると賑わいはあった場所と思われる。つまり、より静かなところへ隠棲したというわけではなく、嵐山の情景を求めてこの地に転居したということだろう。山中の営んだ対嵐山房に関する記述には次のようなものがある。
翁、既にして嵯峨に卜居す。邸外低く土堤を繞らし、上にさゝやかなる生垣あり、外より俗塵の侵すに由なく、内より花葉の眺めを遮らぬほどの心しつらひと知られたり。若し夫れ、山房の園に入れば、春暖うして芳草階に盈ち、秋寒うして落葉扉を敲き、庭には芝生の緑濃きところ、奇石の塊然たるあり、松樹の偃蹇たるあり、径尽きて室雅に、窓明にして机浄く、書剣豪興を遣り、詩画清韻を楽む、客至れば則ち園後の木瓜もて醸せる木瓜酒をすゝめ、報国の丹心を披瀝して、高風真に欽すべし。さて又、月挙ぐれば、嵐山の佳景宛ら一幅の書画の如く、淡冶咲ふが如きもの、蒼碧滴るが如きもの、浄潔〓ふが如きもの、瀟散睡るが如きもの、一望の下眸中に入り来たりて、情景述ぶべからず、はた、記すべからず。
〓:コメヘンに女、「粧」と同義。
『信天翁』(大正四年,信天翁会編)
対嵐山房の詳細を正確に報告する文章なのか、文章を記した人間が己の筆に酔っているのか、判別しがたいところ無きにしも非ずだが、近世の遺風を継承した明治の文人らしさはよく伝わってくる。

そうした対嵐山房であるが、山中は時が経って屋敷が失われることを気に掛けていた。明治天皇の行幸を迎えた場所、すなわち聖跡が汚されることを望まなかったということなのだが、明治18年に宮内省に屋敷の譲渡を申し出ている。この申し出は、結局受け入れられることはなく、そればかりか、その上京の途次に病を得て本人も死んでしまうのだが、山中本人にとって思い入れの深い場所であった。


・・・・少し話がかわって、「嵐峡」という言葉は、やはり信天翁の書画に用いられていた。
   嵐峡舟中
尋花共酌一壺醇 両扇篷窓對故人
紅雨峰頭雲氣合 東風峡口鳥聲頻
狂波拍堰如雷吼 恠石當舟似鬼瞋
回棹又逢明日霽 重看萬樹更妝春
内容はややわかりづらいところもあるが、大堰川で舟遊びをした折りのものと考えて、おおよそ間違いない。大堰川に舟を浮かべて故人を憶う、峰には雲がかかり雨が花を濡らしている、砕ける波の音は雷のごとし、舟にぶつかる怪石は鬼の怒れるさま、棹を返して明日の晴天を期待する、晴れれば山の木々は春の装いとなるだろう・・・・・・ってかなり胡散臭い解釈のような気がするが。調べ直して、後日、少しはマシな通釈と訓読を示す予定。


耳慣れぬ地名/耳慣れぬ地名・その2/対嵐山房/二丁塚碑陰/二丁塚読解・その1/二丁塚読解・その2/二丁塚読解・その3/二丁塚読解・その4/二丁塚読解・その5/二丁塚読解・まとめ/
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by office34 | 2013-06-29 08:40 | 明治人物志
2013年 06月 25日
耳慣れぬ地名 ~山中静逸(2)
山中静逸は明治政府が置かれるに伴って登用され、いくつかの事務官を務めていた。岩倉具視のブレーンというか、部下の一人だったようだが、経歴を見れば、内国事務局権判事(慶応4年2月)、会計官駅逓司知事(同閏4月~7月)、御東幸御用掛(同9~10月頃?*明治改元は9月)、奥羽府県取調(同11月)、東京在勤・弁官事(同12月)、民部省(明治2年4月)、桃生県権知事(同7月)、登米県知事(明治3年9月,同月依願退職)といったところが確認できる。短いスパンで転々としているのは制度自体が確定していなかったからだろう。また明治2年になって戊辰戦争の戦火が収まった東北方面*への派遣も行われているが、職務の実態は不明。
*桃生県は現在の石巻市のあたり、設置後ほどなくして登米県に編入。山中が登米県の知事を辞したのは前任者に退職を強いての知事着任を潔しとしなかったためとされる。このあたりは儒者的な倫理観によるものか。

細かい部分はともあれ、山中静逸の履歴においては、新政府発足に伴っての1~2年はその下での地位があったのは確かである。そして政府の仕事を辞した後は宮家の家令に収まっている。伏見宮、閑院宮、北白川宮などがその奉職先として挙がっているわけだが、明治6年をもってそれらも辞めて京都に戻る。「円山勝会図録序」に「自東京病帰於糺林」とあるのは、病気を理由に東京での仕事を辞し云々ということで、このあたりの事情を指す。なおこの一節に「東京」とあって、奥羽方面の地名が出ていないのは山中の意識に桃生県での職務が占めるウエートが小さいことの現れだろう。1年ほど桃生県に派遣されたが、実質的には天皇遷御に随行した東京で、政府および宮家に仕えていたという意識である。

さて、こうした流れを踏まえての本題、もう一つの耳慣れぬ地名「嵐峡」である。"耳慣れぬ"がキーワードになってはいるが、鴨水や糺林に比べると、嵐峡にはまだ馴染みがあるかも知れない。「嵐峡館」という老舗旅館があったからである。100年にわたる歴史に幕を下ろしたとはいえ(2007年休業、2009年星のや京都に再生)、嵐山にある名だたる温泉旅館であった。もちろん当方のごときシモジモが利用できるクラスではなかったが、俵屋とか柊屋とかと同じように、その名前を聞くだけで条件反射的に京都の旅館と返すことのできる一軒だった。

「嵐峡」という言葉をそのまま使っていた嵐峡館だが、実はこれも山中静逸と縁が深い。
翁、常に大工宇八を愛しぬ。或る時、相倶に、嵐山の峡谷を〓〓し、會會、礦泉の出づる所に遇へり。乃ち、爲に謀りて、宇八に温泉場を起こさしめぬ。名づけて花の湯といひ、遊人の入浴に供す。これ今の嵐峡館の前身なり。
〓〓はギョウニンベンに尚、ギョウニンベンに羊,読み「ショウヨウ」。「逍遙」と同義
大正四年刊の追悼集『信天翁』所載の逸話である。嵐山の桜を愛して下鴨より居を遷していた山中だったが、散策のおりに会々(たまたま)源泉を発見したという。発見の日時はわからないが、日記の明治10年10月3日の条には関連する記述が見られる。
大悲閣の下、礦泉に付、地所、下桂村、風間八左衛門、三百坪二百箇年借取、家内名前、十圓渡す、二十兩宇助へ、普請の爲渡す。
下桂在住の風間八左衛門から300坪の土地を200年契約で借り受けて賃貸料10円を支払ったということだろうか。この温泉場が旅館となるのは、明治末年のことだから、山中の死(明治18年)からかなりが経過してのことである。200年契約はどうなったのか、所有権が転々としたあげくに営業旅館となったらしい。

話が少々、煩雑なところに迷い込んでしまったが、「嵐峡」という言葉も山中静逸の周辺に見られるということである。その言葉を用いている文献を具体的に挙げることはできないのだが、山中の書画等をことこまかに見ていくと、一つぐらいは「嵐峡」を用いているものがあるに違いない。なお、下鴨から嵐山に居を遷したと書いたが、下鴨時代の屋敷は「二水荘」といい、嵐山に営んだものを「対嵐山房」といった。「二水荘」というのは、高野川と賀茂川の二つが合流するところという意味で、「対嵐山房」というのは川を隔てて嵐山に向き合うという意味である。

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嵐峡館の広告(『観光の嵐山』より、昭和11年)






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by office34 | 2013-06-25 21:43 | 明治人物志
2013年 06月 24日
耳慣れぬ地名 ~山中静逸(1)
場所それ自体は有名なのだが、こういう言い方をされるとハテ?と思ってしまう地名。「鴨水おうすい」「糺林きゅうりん」「嵐峡らんきょう」etc。それぞれ現代の言い方に直すと、「鴨川」であり、「糺の森」であり、「嵐山」である。三番目の嵐峡と嵐山については、着目点の関係で完全一致とはいかないが、おおよそは重なる。そういった細かい問題はあるにせよ、要は有名な地名でも、時には耳慣れない言い方で表現されることもあるという話である。

さて、こうした耳慣れない地名表記、これらの出所には共通点がある。いわゆる漢文系の文章なのである。少し厳密にいえば近世の日本漢文というべきか。朱子学が国家の学問に位置づけられ、漢文の読み書きが教養とされた時代、純然たる日本的な地名にも漢文風でいかにもそれっぽいものがあてがわれていた。鴨川を「鴨水」と呼ぶあたりはまだ分かりやすいが、鴨川のほとりを指して鴨崖だの鴨沂だのとされるとやや戸惑ってしまう。「糺の森」という言葉が地名として普通に使われるようになったのがいつ頃かは調べていないが、「糺の神」が鎮座在すところという認識は古く平安時代から行われていたのは、よく知られている。下鴨界隈を指して「糺林」というのも、その延長線のものだろう。「嵐峡」というのは、嵐山の麓を流れる峡谷というニュアンスだから、厳密には大堰川のことであり、範囲を広めにみてもその流域だろう。現代の嵐山はエリア名として使われるのが普通だから、嵐峡=嵐山となるわけではないのだが、行楽地の嵐山を象徴するのが渡月橋界隈、中之島や亀山のあたりというのであれば、バクっと捉えて同じと言っても許されるだろう。

こうした話を持ち出してみたのは、とある文章と出会ったからである。
a0029238_258576.jpg
一瞥するだけで目まいがしそうな漢文だが、これは明治八年に書かれたもので、明治の京都復興に尽力した鳩居堂主人熊谷直孝の追善煎茶会の図録に寄せられた序文である(円山勝会図録序)。執筆は山中信天翁静逸。直孝との出会いやその人となりを語った後、府庁を辞した直孝との付き合いを語るくだりが
(熊谷酔香翁は)神楽岡に室を築き、以て隠る。余、亦東京より糺林に病帰す。神楽岡と僅か鴨水を隔つのみ。
と描かれている。直孝が神楽岡に別宅を営んで隠居した頃、ちょうど信天翁も職を辞して京都に戻り、下鴨に居を構えたということで、しきりに行き来があったようだ。



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by office34 | 2013-06-24 03:07 | 明治人物志
2013年 06月 18日
アンハッピーでないことを願うばかり
a0029238_21174339.jpg


ハッピーバス・・・ではないな。1違いでアンハッピー?ってオチは、まあ、ないと思うが。それにしても1違いというからには、ハッピーバスと同じ時期に導入された車体なんだろうが、もしかすると6667もあったりするのだろうか。


ちなみに、本物のハッピーバスは西賀茂車庫をベースにしているので、「9」「37」「1」などに投入されるらしい。数年前に一度だけ乗る機会があったが、それ以来はご無沙汰。活動範囲は当方と重なるので、走っているのを見かけることはたびたびなのだが、こちらが利用する必要があってバス停で待っているタイミングでは、問題の6666は来てくれないのである。かといって、路線で待ち伏せるほどの酔狂はする気はないから、まあ、どうでもいいかといったところ。
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by office34 | 2013-06-18 21:33 | 変なモン
2013年 06月 14日
【PDF】『観光の嵐山』(昭和11年、嵐山保勝会)




著作権について
この冊子は「嵐山保勝会」が刊行したものであり、同会は現在も存在しています。ただし団体名義の創作物で、公表後50年(1986年)をもって著作権の保護期間は終了しています。
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by office34 | 2013-06-14 02:10 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 11日
はしがき ~『観光の嵐山』より(3)
昭和一桁代に刊行された嵐山の観光パフレット『観光の嵐山』には、「嵐山小唄」の歌詞ともう一つ、翻刻が必要になるページがある。「はしがき」と題された序文である。解読できない文字が少なからず残っているのだが、四季折々の魅力を言っているに違いない内容は、楷書で書かれた序文や英文Prefaceと比べれば推測できる。内容的に強調せねばならないところは少ないが、全ページ公開した時点での取りこぼしとなるのも胸くそ悪いので一応の作業として提示しておこう。
a0029238_2332194.jpg

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拡大

はしがき

新来の春は嵐山に明けて、あたり一帯の
名所古跡に妍爛たる桜色を賞し初夏
の頃ともなれば新緑と清[溪?]の■とに涼を
味ひ秋は楓が紅に染むる山々を探り、[雪?]に
は清[澤?]の粧をならべる。この四時の絵巻を遊
覧のしるべにとて、こゝに「観光の嵐山」と
題する案内記を弘く頒つことゝせり。
観光者の伴侶ともならば幸である。
嵐山保勝會

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by office34 | 2013-06-11 02:37 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 10日
嵐山小唄 ~『観光の嵐山』より(2)
昨日の記事で「観光の嵐山」に掲載されていた「嵐山小唄」の翻刻をしておいたのだが、原版を出さないことには検証もできない。ということで原版を貼ってみる。いずれPDFにして全ページ紹介するつもりではいるが、まだその作業ができていないから、当該ページの当該箇所のみ。
a0029238_9191395.jpg



翻刻再掲
嵐山小唄
長田幹彦氏作詩
橋本國彦氏作曲

霞がくれの嵐山
[色?]もほのかに夕ざくら
春の愁ひを紅帯に
日傘かざそよ渡月橋

晴れる村雨雲とほく
峰の青葉に虹の橋
さつきつゝぢの露わけて
保津の早瀬の下り舩

[かく?]も歌ふか山峡の
紅葉照りそふ瀧[は瀬?]に
秋を織りなす唐錦
きせて[舞?]はせん山姫に

風に暮れゆく峯つゞき
鐘も寂しき大悲閣
別れともなき盃に
泣いてさゝやく夜の露

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by office34 | 2013-06-10 05:43 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 09日
祇園小唄と嵐山小唄~『観光の嵐山』より(1)
月はおぼろに東山
霞む夜毎よごとのかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
「祇園小唄」(一番のみ)である。円山公園にはカラフルな歌碑も建っているし、この歌詞を紹介する京都本も少なくはない。でも、ふと立ち止まって小唄ってなんだろうということも考えてしまう。お座敷芸の一種で三味線の伴奏でゆるゆると口ずさむ楽曲みたいなイメージがある一方で、「お座敷小唄」や「海軍小唄(ズンドコ節)」のように、毛色がまったく違うのに"小唄"を名乗っているものもある。厳密な定義を求められるとすればお座敷芸になっている楽曲がメーンを張ることになるのだが、こまかいことをゴチャゴチャいうのは抜きにして、ちょっとしたはやり歌程度を意味する小唄もあるということなのだろう。

ところで、祇園とならぶ京都の一大観光スポットといえば、有無を言わさず嵐山だろう。その嵐山をテーマとした「嵐山小唄」なるものも、かつては存在していたらしい。だがその「嵐山小唄」の記憶は現代にはほとんど残っていないようだ。「祇園小唄」と同じく、長田幹彦作詞によるものなのだが、嵐山の場合、祇園と違ってお茶屋がないというのが忘却に至る大きな原因なのかも知れない。小唄の本分がお座敷芸にあるとすれば、祇園とは異なって嵐山には実演の場に恵まれていないからである。それはさておき、とりあえず歌詞を紹介してみる。
嵐山小唄
長田幹彦氏作詩
橋本國彦氏作曲

霞がくれの嵐山
[色?]もほのかに夕ざくら
春の愁ひを紅帯に
日傘かざそよ渡月橋

晴れる村雨雲とほく
峰の青葉に虹の橋
さつきつゝぢの露わけて
保津の早瀬の下り舩

[かく]も歌ふか山峡の
紅葉照りそふ瀧■[瀬?]に
秋を織りなす唐錦
きせて■はせん山姫に

風に■れゆく峯つゞき
鐘も寂しき大悲閣
別れともなき盃に
泣いてさゝやく夜の露


google先生に聞いてみると「嵐山小唄 しぐれ茶屋」なる映画が関連しそうな気配なのだが、正確なところはわからない。上の引用は、このブログでもすでに何度か登場している観光パンフレット『観光の嵐山』からのものである。一部、翻刻に苦しむ文字が含まれているが、だいたいこんな感じでいいかと思う。
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by office34 | 2013-06-09 02:57 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 06日
富岡鉄斎揮毫碑
以前、青蓮院門跡の寺標を紹介したことがあった(参考までに)。その際は青山碧雲氏の本からの転載で間に合わせていたのだが、ちょうど前を通ることがあったので、現物の写真を撮ってみた。
a0029238_12442312.jpg

青山氏の本の写真でも特徴はよくわかったのだが、こういうラフな撮り方でも天地を貫く「青」字の特徴が印象的に見える、と実はその話はそれまでなのだが、この時に目が留まったのは青蓮院の山門の近くにあったもう一基の標柱である。近づいてみると、刻まれている文字は「粟田陶隠木米記念碑」で大正九年建碑。そして碑銘の揮毫は「八十又五叟鐵斎外史書」となっている。ここでまたしても富岡鉄斎の登場である。
a0029238_12443221.jpg

鉄斎の文字は崩されると判読もままならないが、楷書なら当方でも読める。「記念」の部分を拡大してみると、筆勢の迫力が石の上によく再現されている。
a0029238_12443774.jpg

富岡鉄斎の名前はかなり知られていて書画などの軸物であれば美術館博物館に所蔵されているのだが、街なかにそのまま残されている揮毫碑や看板に関する情報は、繰り返し紹介される一部を除けば、まとまった形での紹介は多くないように思う。前掲青山氏の本によって晴明神社の社標が鉄斎揮毫であることを知って驚いたくらいである。ということで思いついたまま、ランダムに並べてみる。

寺町御池下ル「桂月堂」看板
姉小路通麩屋町東入「彩雲堂」看板
東大路春日上通東入(他)「聖護院八ッ橋」看板
寺町六角上ル(他)「本家八ッ橋」看板
今出川堀川西入・鶴屋吉信「柚餅」看板
今出川堀川下ル「晴明神社」社標
嵯峨「車折神社」社標?(鳥居扁額かも)
粟田口・青蓮院門跡前「粟田陶隠木米記念碑」
知恩院・前田正名顕彰碑
西賀茂小谷墓地・大田垣蓮月墓(神光院の顕彰碑は鉄斎撰だが書は記憶曖昧)
北白川・白幽子古跡


まだ他にもあると思うが、とりあえず思いついた範囲のみ。
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by office34 | 2013-06-06 22:44 | 街角の風景
2013年 06月 02日
身を知る雨(6)
「身の程知らず」という言い回しからの連想で「身を知る雨」というフレーズにこだわってみた。古典和歌にたびたび見られるもので、いわゆる歌言葉とよばれるヤツである。『源氏物語』の本文がどうのこうのと、うざっとい方向に流れすぎた感もある。もう少し軽快にストーリーのつまみ食いで終わらせた方がよかったかも知れない。

書き方の善し悪しはともあれ、「身を知る雨」というフレーズは『源氏物語』浮舟巻にでてくる一首を抜きにしては語れないと考えている。いわゆる歌言葉であれば、その最初の用例である『古今和歌集』or『伊勢物語』が取り上げられるのは当然だが、それだけで終わってしまうのはどうだろう。浮舟の歌によって色合いが決定的となり、そのインパクトに乗っかる形で、後々の時代にも再利用されていたのではないだろうか。

たとえば『新古今和歌集』の
百首歌の中に恋の心を  惟明親王
逢ふことのむなしき空のうき雲は
身を知る雨のたよりなりけり
という歌。思い人に逢えない悲しみを詠う内容に注目するなら『古今集』や『伊勢物語』からダイレクトに来ていることになるのだが、「憂し」を響かせた「浮き雲」がキーワードになっているなど細かい言葉遣いは浮舟の世界をイメージしているように思う。何の影響がより強いかなど、客観的な測定ができる問題ではないのだが、宇治十帖を抜きにして『古今集』『伊勢物語』オンリーで「身を知る雨」を語ることには抵抗を感じる。

あと一つ。「身を知る雨」から離れるとテーマ自体が微妙にずれてくるのだが、浮舟歌の影響力を思わせる事例として、
過ぎにし春の比ころかとよ、旧池の乱草をはらひて、蛙楽あがくを愛することありき。(中略)そことなき水草がくれに古りはてぬるも、いと情けなき心地ぞするや。春雨しめやかにうちそゝぎ、晴間なき比ころは、老のあはれも数そひ、袖の水かさもまさる心地して、ながめいだしたるに、松の戸をうちたゝく人あり。
二条良基「筑波問答」(日本古典文学大系『連歌論集俳論集』より)
というのも紹介してみる。下線を施した「袖の水かさ」云々のところが浮舟歌の引用とされる箇所である。『古今集』or『伊勢物語』に特徴的なのが「袖(は/のみ)浸」つという言い回しであるとすれば、この歌では「水かさ増さ」るという浮舟のオリジナル文言が使われているので、浮舟歌により近いと言っていい。ただし内容は恋に絡む悲嘆や惑乱ではなく、そこはかとなく漂う雰囲気的な悲しさである。春雨そぼふる池の風情がどことなく涙腺を緩くするといい、そこへ老齢の憂いが加わってなんちゃらほいといった感じか。要するに言葉の上っ面のみを流用するケースである。内容的につながりが認められないので関係の無い事例とみなすこともできるのだが、こうした表面的な利用が行われていることの意味も考えた方がいい。ストーリーを厳密に反映させるのではなく、浮舟歌がインパクトのある言葉として後世の人々、あるいは教養人とか歌人とかに限定するべきかもしれないが、そうした人々の心に強く刻まれていることを証していると思えるからである。オリジナルの意味や内容に縛られず、一種の流行語のように、好まれたのではないか、ということである。比較の対象としては少しぶっ飛びすぎるかも知れないが、人気コミックで主人公が印象的なセリフを吐いたとする。すると厳密には文脈が云々は二の次で、なんてことないシチュエーションでその言葉を使ってみるといったような感じなら現代でもよくあるはず。古典和歌の歌言葉なるものも、もともとは難しい話ではなく、その程度のものだったのかも知れない。






身を知る雨(1)/身を知る雨(2)/身を知る雨(3)/身を知る雨(4)/身を知る雨(5)/身を知る雨(6)
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by office34 | 2013-06-02 19:58