Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 07月 31日
初期段階のディスカバージャパン ~イメージの嵐山(3)
検証したいのは、ディスカバージャパンのキャンペーンが動き始めたときの、リアルタイムでの雰囲気である。チーフプロデューサーである藤岡和賀夫氏の回顧録的な文章はさまざまな形のものが目に留まるが、それがリアルタイムの意識であったかどうかは確証が得られない。たとえば、次のような文章がある。国鉄からのキャンペーン依頼を受けて会議が持たれたときの様子、
さっそく会議を始めたものの、出てくるのは「万博の代りに東北三大まつりを宣伝しよう」「4人がけのボックスシートを割引で売ろう」というありきたりな案ばかり。
 私は「旅」の意味に立ち返るしかないと思った。人間にとって旅とは何か。それは景色や事物を見ることではなく、それを見ている自分が何物かを知ることではないか。60年代を鮮やかに彩ったのはテレビの登場であった。だが、テレビにうつる風光明媚な景色を見ても、自己を発見することはできない。だからこそ「旅」の意義があるのだ。
 真っ先に思いついたフレーズは「ディスカバー・マイセルフ」、私自身を発見しようというわけだった。
『DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ』
(藤岡和賀夫編著,2010,PHP研究所)より
初出「ディスカバー・ジャパン仕掛け人」(文藝春秋2005年6月号)
このあと、英単語の認知度(当時)の関係などから「ディスカバー・ジャパン」が導かれ、補足的なサブタイトルの「美しい日本と私」が生まれた経緯が語られる。ディスカバージャパン誕生を語る重要な一文であるには違いない。しかし、これがリアルタイムのものだったかを考えるとどうだろう。

文章自体は2005年に書かれたものである。したがって回顧であることが大前提である。その点はやむを得ないにしても、キャンペーン依頼をうけての会議でいきなり抽象論が話題になったのだろうか。東北三大まつりや割引シートの件であれば十分に理解できる。それに対して藤岡氏は違和感を抱いたのだろう、求められているのはそうした具体案ではあるまいと。数回、あるいは数十回かも知れないが、何度も重ねられたはずの企画会議の総括しての文章であることを割り引いたとしても、現実に展開されたディスカバー・ジャパン、あるいは1970年代を語る時代のキーワード「ディスカバージャパン」との間には、まだまだ大きな溝があるように感じられる。

『DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ』という本が刊行されている。そこには回顧文も含め、興味深い資料が多く収録されている。その中の一つ、キャンペーン企画の「お寺の宿」に関する文章に次のような一節がある。
私はたじろぎましたね。彼のお説の通りなのです。もちろん、このキャンペーンはある意味ではイメージ・キャンペーンですから、敢えて方法論は求めなくてもいいという論法はあります。しかし、彼に指摘されるまでもなく、このキャンペーンをイメージ以上に確かな手触りで盛り上げるよい方法があるのなら、私はその方法論を探していた、と言っていてもよい。
初出『藤岡和賀夫全仕事・第一巻ディスカバージャパン』(1987年)
ここに登場する「彼」とは、「お寺の宿」企画の素案を持ちこんだ利井明弘氏のこと。キャンペーンが行われた時代よりおよそ15年後の文章だが、ディスカバージャパンがイメージキャンペーンだったと振り返っている点が興味深い。当初の会議では国鉄からのキャンペーン依頼に対して具体的な企画がいろいろ発案されたが、それらを統合するコンセプトが欠けていたところから藤岡氏の違和感は生じていたのではなかったか。会議を重ねた結果、電通が国鉄に対して提示した答えは、個別の企画は二の次にしたコンセプトであり、そのコンセプトを端的に表現するコピーが「ディスカバージャパン」だったといえるのではないか。

それでは、その最初の段階で提示されたコンセプトはどのようなものだったのだろう。これも『40年記念カタログ』所載の資料だが、毎日新聞1970年10月7日付けの記事が参考になる。記事は国鉄がディスカバージャパンのキャンペーンを開始することを発表したときのものである。
国鉄は六日、役員会を開き、十四日の鉄道記念日から「DISCOVER JAPAN」(日本発見)のキャンペーンを全国で展開することに決めた。ポスト万国博の乗客減を防止する対策で、海外に奪われがちな国民の目をもう一度国内の自然美、伝統、人情などに向けさせ、鉄道旅行のブームを呼ぼうという企画。
 「単に増収だけがねらいでなく、かくれた日本のよさをみんなで発見し、それを守り育てようというキャンペーンだから、公害追放の国策にも共通する」というのが国鉄の解説。ノーベル賞作家の川端康成氏もこの趣旨に賛成し、キャンペーンの副題に「美しい日本と私」と名づけた。
国鉄がおこなった記者発表に基づいた記事かと思うが、一連の流れは以下のようなものだったろう。(1)国鉄から電通へのキャンペーン依頼→(2)電通内部での数次にわたる企画会議→(3)電通から国鉄へのプレゼンテーション→(4)国鉄内での検討~採用決定→(5)国鉄・電通による具体的な肉付け→(6)記者発表。なお上記の記事では、具体的な企画の内容に「記念スタンプの設置」「記念入場券の発売」「"D・J列車"の運転」「季刊誌の発行」といったものが挙げられている。

『40年記念カタログ』の前書きには、藤岡氏が行ったプレゼンテーションに対して馬渡一眞営業課長(当時)が「今日はアラカルトを食べるつもりが、フルコースを頂戴しました」という感想を述べたとのエピソードが紹介されている。同じエピソードは、同書の別のところで「私たちは軽食堂でカレーを頼んだつもりだったのに、全国キャンペーンなどというフルコースのメニューが出てきて驚いた」という形で紹介されているのだが、そこから推察するに「(1)国鉄から電通へのキャンペーン依頼」の部分は、乗客減を補う単発的なキャンペーンの提案といった程度のものだったのだろう。それが全国規模のプロジェクトという形で返ってきたものだから、驚きと戸惑いになったのに違いない。そして初期の段階で提示されたコンセプトは、記者発表の文章に反映されているものだったと思われる。すなわち「かくれた日本のよさをみんなで発見し、それを守り育てよう」である。藤岡氏の回顧するところによれば、旅を通しての自己発見という要素が初期段階から意識されていたように書かれるのだが、その部分については上記の新聞記事からでは読みとれない。裏付けの資料がない以上、推測の域を出るものではないが、旅と自己発見をつなげるのはキャンペーン主体が当初から仕掛けたものではなく、集客キャンペーンを進めるうちに形を見せ始めた社会の新しい需要だったのではないだろうか。仮にそうだったとすれば、キャンペーンに伴う後発的な企画がそうした需要に応える風合いのものになっているのも頷ける。


<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-07-31 05:08 | 京都本・京都ガイド
2013年 07月 28日
嵐山と嵯峨野 ~イメージの嵐山(2)
「嵐山へ行ってきた」という言い方で嵯峨野周辺をイメージするのは自然な展開だろう。というより「嵐山」云々と言って嵯峨野を持ち出している人に対して、「嵐山と嵯峨野は違うし」とやる方が野暮というものだ。厳密には違っていても、厳密に言わないのが普通だからである。そういう意味では「御所」と「京都御苑」を区別する野暮さに通じるところもある。

といったわけで、渡月橋周辺から野宮および奥嵯峨一帯、さらには鳥居本のあたりまで含めて「嵐山」という言い方をすることもあるのだが、そのこと自体は慣習の範囲と理解している。しかし「嵐山」の範囲がそこまで広がっていった過程というものは、ちょっとつついてみたい話でもある。「嵐山」あるいは「嵐の山」という言葉は、山名として王朝時代から使われていたものなので、そこから始めると印象の変化を示す事例は多くなりすぎるし、相互関係も複雑を極める。それに重箱の隅をつっつきすぎるのもどうかと思うので、渡月橋界隈を嵐山と呼ぶようになったあたりからスタートしてみる。

昭和11年刊の「観光の嵐山」の巻頭には「嵐山」と題して、
天下の名勝嵐山は 大堰川の清流その麓を流れ 山水相映じ風光明媚真に一幅の書画なり。
と始まる一文を載せる。この一文のみに限定すれば、「(大堰川が)その麓を流れ」とあるので、山の名前として扱われている。しかし英文による序文には、
Arashiyama,situated in the western outskirts of Kyoto, is one of the most popular resorts of the city.
とあり、エリア名として使われている。明治時代の後半から終わり頃には、嵐山温泉株式会社や嵐山電車軌道が登場しているので、すでに「嵐山」はエリア名として認知されていたようだ。

この明治末から昭和初期の見方を一つのあり方とすれば、そこでいうエリア名「嵐山」の範囲はどうだったろうか。前掲パンフレットでは「天下の絶景 四季の嵐山」と銘打って大堰川畔で撮った四季の写真を載せる。次ページからは紹介範囲が広がっていき、最終的には清滝や愛宕山あたりまでカバーされるのだが、「天下の絶景 四季の嵐山」が指すと考えられる渡月橋周辺と大堰川畔こそが「嵐山」だったようだ。そんな嵐山が、嵯峨野との境界線を曖昧にしていくのはいつ頃か。当初、思い描いていたのは1970年代、つまりディスカバージャパンとアンノン族の時代であり、観光客の視線が嵯峨野に向けられるようになったことでイメージの嵐山が拡大されていったという筋書きだったのだが、そこまで単純な話ではなさそうだ。

というのは、嵯峨野へ向かう観光客の増大は、どうやら1970年以前に遡りそうな気配なのである。ディスカバージャパンのキャンペーンがアンノン族を生んだとする解釈には反対なのだが、時期が重なるのは間違いない。ディスカバージャパンのキャンペーンがそれまで注目されていなかった土地を観光地に仕立て上げたこと、そうした新興観光地にアンノン族が出没したこと、嵯峨野がアンノン族好みだったこと、こうしたことは事実でもそれらを直截的な因果関係で結びつけるのは短絡すぎる。

1969年12月3日付の京都新聞に「にぎわう嵯峨野路の冬」という記事が載っている。
【右京】住宅開発が急な区内にあって、昔変わらぬ静かな叙情を残す嵯峨野路は、ここ数年前からこがらし吹く冬季でも散策の「風流人」たちでにぎわっている。五、六年前までの嵯峨野路の冬は、ひっそりとしてさびしい「枯れた小径(こみち)」の風情だったが、いまでも(引用者注:12月になった今でも、の意味)行楽シーズンとほぼ変わらぬほどの「嵯峨野ファン」がひきもきらない。
という。そして「特に最近の特徴として若い女性の姿が目立っているという。一部に俗化した嵯峨野路を嘆く人もあるが、ミニスカートやパンタロン姿の女性がほの暗いイメージの嵯峨野をめぐる光景が目新しい」ともある。この1969年の記事に描かれる「風流人」「嵯峨野ファン」は、3~4年後に「アンノン族」の名で脚光を浴びる人々の姿を先取りしているのは言うまでもない。大阪万博が開催され、ディスカバージャパンのキャンペーンが始まった1970年が大きな潮目になっているのは事実である。しかし嵯峨野に関していえば、70年代の新しい傾向として注目される現象は、60年代の後半にはすでにその萌しを見せていた。潜在的なそうした動きに燃料を投下したのがディスカバージャパンのキャンペーンであり、「an-an」や「non・no」の誌上で繰り返された京都特集だったのではないか。

この69年の記事に描かれているわけではないが、旅行のスタイルが修学旅行や地域・職場の団体旅行といったパッケージ型から個人型へ移行していくのもこの頃である。個人、あるいは友人や家族といった小さな単位での旅行が増えたのは大阪万博を契機とするのだが、嵯峨野はその受け皿の一つとなっていた。そして従来型の団体旅行が得意としていた嵐山(=渡月橋周辺)での景勝観覧との混成も、この頃に進められると考えていいのではないか。

現代の用法を考えた場合、嵐山と嵯峨野はどう扱われているのだろう。大ざっぱにいえば区別しないのは冒頭にいった通りだが、すこし厳密にいえば、京都の外からのまなざしで「嵐山」という時には広範囲の認識になり、渡月橋など嵐山圏内にはいってエリアを細かくいう必要がある時には、野宮だの奥嵯峨だの鳥居本だのと区別するのが普通ではないか。あるいは圏内で細分化した場合でも「嵐山」といわずに「渡月橋周辺」というとすれば、「嵐山」とは全体に対する呼称とみるべきかも知れない。

ちなみに、いわゆる京都歌謡の定番とされる「女ひとり」(作詞:永六輔,1966年)の歌詞では「京都、嵐山らんざん大覚寺~」となっていて、大覚寺が嵐山にカウントされることになる。「観光の嵐山」でもスポット的には入っているので「女ひとり」で打ち出された新機軸というわけではない。それでも嵐山の範囲が1960年代の半ばには拡張していた明確な事例とみていいだろう。なお大覚寺の山号は嵯峨山さがさんである。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-07-28 12:36 | 京都本・京都ガイド
2013年 07月 24日
ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と ~イメージの嵐山(1)
しばらく嵐山の二丁塚にこだわってきたわけだが、その過程での副産物というか、嵐山の印象が時代によって変わっていることが見えてきた。『観光の嵐山』(昭和11年刊)に見られる"景勝地・嵐山"をアピールするのが一つのあり方であるとすれば、昭和期後半、おもに昭和50年(1975年)前後をピークに流行したアンノン族好みの嵐山は、それとはまったく違ったものだったようだ。現代の嵐山は、アンノン族の頃とはまた趣を変えて、"1/nの観光地"となっていることは否めない。『るるぶ』や『まっぷる』に代表されるガイドブックによるカタログ化に組み込まれた観光地、多くの中の一つという位置づけである。

景勝を謳った戦前の嵐山、アンノン族好みの嵐山、カタログ化された現代の嵐山、これらは直線的な推移をみせるのではなく、分析者の視点に応じて複雑に絡み合う。しかし極めて大ざっぱに扱うことを許してもらうとすれば、嵐山が見せる局面の代表的なものといってよさそうである。

これらの中で、大きく取り上げてみたいのは、やはりアンノン族好みの嵐山だろうか。「~族」という呼称は、「カミナリ族」だの「カニ族」だの、あるいは「タケノコ族」だの、いろいろな造語がある。しかし、それらの中でも「アンノン族」は異彩を放っているように思う。それぞれに時代の一局面をうまく切り出した言葉であるように言われるが、「アンノン族」ほど時代全体とシンクロするものはないからである。世相史を学問的に扱う立場からの発言もいくつか見られるように、高度成長期が一段落を迎え、がむしゃらに上ばかりを見ていた人々の視線が等身大の個人に向けられた時、世の中に「アンノン族」の名で呼ばれる女性の一群があふれていたらしい。

マスメディアを利用した大規模な広告戦略が関与したのは事実である。高度成長期の到達点を象徴するのが大阪万博expo'70だったすれば、たびたび指摘されていることだが、万博終了後の客足鈍化を見据えて展開された国鉄による「ディスカバージャパン」キャンペーンと「アンノン族」の発生は見事に重なっている。しかし、それだけをもって「ディスカバージャパン」が「アンノン族」を生み出したというのは短絡的だろう。「ディスカバージャパン」は、電通の藤岡和賀夫氏らの当事者たちがリアルタイムで意識できていたか否かとは関係なく、時代の流れとたまたま重なり合うものだったのではないか。たまたまと言うとすべてを結果論に委ねてしまうことになるので、藤岡氏ら関係者の功績を過小評価することになるのだが、後の研究者が指摘するほどのタイムリー性が、同時代的に狙いすまされたものだったかどうかは定かではない。社会史の分野だけでなく、後代から見れば"時代を象徴する"と呼ばれる事象でありながら、同時代的にはその意味合いは気づかれていなかった、そうしたケースは少なくない。時をほぼ同じくして進行した「ディスカバージャパン」キャンペーンと「アンノン族」の発生、そして個に目覚めた消費者層の形成も、その一つであるように思う。

こうした視点から嵐山を検討するには、「an-an」や「non-no」の誌上で展開された京都特集がどういう調子のものだったか、あるいはそれら以外に材料を求めるとすれば、瀬戸内晴美(現在の寂聴さん)など当時の時代精神を担った作家の小説に見られる文章がどういうものだったかといった具体的な材料が必要になる。現在、当方の手許にはそうした資料がないので、ここまでの話は、おもに既刊のエッセイ等に依存するものである。それでもかなり面白そうな材料なので、今後資料を集めつつ、話を展開できれば続けてみたい。
<主要参考文献>
・馬場俊明氏「京都歌謡曲考現学」
(「現代風俗'85」現代風俗研究会会報・通巻9号,1985年)
・斉藤光氏「『アンノン族の京都』から『彼氏と行く京都』へ」
(『京都ディープ観光』所収,裏京都研究会編著,1996年,翔泳社)
・石川真作氏「さすらうこころは京都に集う-京都歌謡の隆盛と衰退」
(『京都フィールドワークのススメ』所収,鵜飼正樹氏ほか編,2003年,昭和堂)
・「ディスカバー・ジャパン」の衝撃、再び。
(新井満氏と藤岡和賀夫氏の対談,PHPビジネスオンライン衆知2011.2.7付,)



<余談>
ディスカバージャパンのキャンペーンについて調べていると、キャンペーンで用いられたキャッチコピーの一つに、「目を閉じて……何を見よう」というのがあることを知った。その時、閃いたのがディスカバージャパンの後続キャンペーンで用いられたCMソングが「いい日旅立ち」であり、作詩作曲が谷村新司、そして谷村新司の最大のヒット曲といえば「昴」で、その歌い出しが「目を閉じて何も見えず、哀しくて目を開ければ・・・・・・」。

ディスカバージャパン、ディスカバーマイセルフ、でも何も見つかりませんでした、とでも言っているような。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-07-24 23:56 | 京都本・京都ガイド
2013年 07月 21日
二丁塚読解・まとめ ~山中静逸(10)
一応、総括的なものを出して一連の記事の〆としておく。繰り返してきたように、翻字のレベルからして覚束ないし、解釈に至っては強引すぎるところが多々ある。しかし、誰も手を出さず放置しておいてよい類いのものでもないので、たたき台程度にでもなればとの考えから触ってみた。適正な処置をしていただける方がおられれば、ぜひお知恵を拝借したく思っております。


[碑文翻字(案)]
此芭蕉翁句直下花字澹乎若無遠起雅切即十五字皆霊活洵為絶碣戸諸名勝有翁句則■名以傳此勝無三為憾乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山相古渠之回方同忘者得若干資都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡


[訓読(案)]
の芭蕉翁の句、直下たる花の字、澹たんなるか。雅切がせつより起はなれて遠きは無きがごとし。即すなわち十五字皆みな霊活れいかつにして、洵まことに絶碣ぜっけつり。戸(凡そ)諸名勝に翁の句有り。則すなわち■名は以もって傳つたふるに、此の勝に無し。三(三の字、不審)。憾かんり。乃すなわち大悲閣主角倉関岳と俳諧■(者)流、邨上碩水、遠藤雨村、岡如山、小山■山、相古渠之、回方して同忘(志)者若干の資を得。都上とじょう千人、某それがしも亦た頗すこぶる助じょするところ有り。以もってこれに迷いつつ、且つ此の閣に登のぼるの道標どうひょうと為す。
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡(撰)

[解釈(案)]
この芭蕉翁の句は、簡単に用いられている「花」の字に淡い味わいがある。(一見して工夫がなさそうでも)風雅なフレーズとかけ離れているわけではなさそうだ。(「ばせを」の三文字を含めた)十五字すべてに生命感がみなぎっていて、実に素晴らしい句碑なのである。そもそも(「凡そ」による解釈)各地の景勝地には翁の句碑があり、その名声が伝えられているというのに、この景勝、嵐山にはそれがなかった。残念なことである。そこで大悲閣の主である角倉関岳と俳諧をたしなむ人々、村上碩水、遠藤雨村、岡如山、小山■山、相古渠之らが諸方を尋ね、彼らと思いを等しくする人々(「志」による解釈)は若干の建碑費用を調達した。賛同した人々はしめて千人ほどであり、小生もまたわずかながらの援助をしている。そして大悲閣に至る道に迷いつつ、そこへ至る道標としてこの句碑を置くことにした。
明治十一年三月 信天翁 山中獻記す(「撰」による解釈)



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二丁塚の碑陰



耳慣れぬ地名/耳慣れぬ地名・その2/対嵐山房/二丁塚碑陰/二丁塚読解・その1/二丁塚読解・その2/二丁塚読解・その3/二丁塚読解・その4/二丁塚読解・その5/二丁塚読解・まとめ/
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by office34 | 2013-07-21 00:38 | 明治人物志
2013年 07月 19日
二丁塚読解・その5 ~山中静逸(9)
此芭蕉翁句直下花字澹乎若無遠起雅切即十五字皆霊活洵為絶碣戸諸名勝有翁句則■名以傳此勝無三為憾乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山相古渠之回方同忘者得若干資都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡


「大悲閣主角倉関岳」が人名であること確かで、村上碩水も確認できたところまではいいのだが、それ以降はわからない。「遠藤雨村」「岡如山」「小山■山」と、人名らしき並びが続き、「相古渠之」ももしかすると人名?とは思うものの根拠は得られない。というか、人名としておかないと、可能性のある解釈も浮かばない。以前に紹介した『芭蕉塚』なる本には「角倉関岳及碩水雨村如山等によつて建てられた由来が信天翁山中静逸の筆でしるされてある」(参考までに)とあった。「雨村如山」の間に一字入っているから、翻字も恣意的に行われているのかも知れないと思っていたが、碩水、雨村、如山の名前の部分を並べているとすれば辻褄も合うわけで、そうであれば、「遠藤雨水」と「岡如山」については一歩前進といったところになるのかも知れない。

ともあれ、この人名らしき並びの箇所は確定できない。とはいえ、そうばかり言ってもいられないので「相古渠之」以降に目を移す。仮に「相古渠之」が人名であるとすればという前提に立ってのことになるのだが、角倉関岳以下の面々が何をしたのかと記す動詞の部分が続くはずである。また「得若干」云々のところも動詞臭いということを踏まえると、「回方」が動詞に相当する気がする。「同忘者」の箇所も読めないのだが「忘」は「志」ではないかと言われると、そんな気もするし、「志」だとすれば「志を同じうする者」と読めてしまって都合がいい。
解釈ありきの翻字が邪道なのはいうまでもない。厳密に筆の運びを見ると、「志」よりは「忘」の方が蓋然性が高いし、その旨のアドバイスも得ている。


回方同忘者得若干資
ではどう解釈するか。実際のところ、翻字も覚束ないし、「回方」という動詞の用例も見つからないのであれば、ムリに解釈を施すことの妥当性が問われるレベルである。近世の和製漢文には、純正漢文ではお目にかかれないユニークなフレーズが見られることがあるとはいえ、このくだりについては、素直に分からない、読めないという方が正しい。それでもあえて何か書けというのなら「回方」を”方々を回めぐる”の意味にしておいて、志を同じうする者とともに若干の資(=建碑費用)を得たという方向に持って行ってみる。

都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
強引すぎる力業の連続だが、以下も同じである。「都」は”すべて”を意味する副詞で、賛同してくれる人々しめて千人といった感じか。千人って数字は多すぎないか、誇張があるんじゃないか云々の議論は、それ以前に翻字や解釈の妥当性が問わねばならないので却下である。「某」は一人称の代名詞で、「頗」は”少し”の意味の副詞。現代語なら「すこぶる」=”たくさん”といったニュアンスになるが、ここは謙譲の意味なので、少し援助しておいたとする方がいい。「迷之」の扱いも困りものである。しかし「為登此閣之道標」は「この閣に登るの道標と為す」で落ち着くので、「これに迷いつつ、かつ~」としておく。

明治十一年三月 信天翁 山中獻諡
「明治十一年三月」以下はほぼ大丈夫か。「諡」という一字が「贈」と同じ意味で使えるのかどうかのあたりだろう。「諡」に”おくる”の意味があるとはいえ、普通は死者に名前を送る時に使う文字だからである。「山中」の下の二文字は、当初は「静逸」と考えたのだが、一字目はどうも見てみても「静」ではなさそうだ。むしろ信天翁の名である「獻」と読めそうだということもあって、保留にしておいた。そこで二文字目が碑文の〆に使うスタイルで合致する文字があれば万々歳だった。ということで「撰」はどうだろう、ムリかな?、サンズイorゴンベンがあって旁の方はハチガシラみたいだから「諡」?


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by office34 | 2013-07-19 12:35 | 明治人物志
2013年 07月 15日
二丁塚読解・その4 ~山中静逸(8)
ここまでの復習。翻字や読み下しに幾ばくか保留付きである前提でご覧ください。
此芭蕉翁句直下花字澹乎若無遠起雅切即十五字皆霊活洵為絶碣戸諸名勝有翁句則■名以傳此勝無三為憾乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山相古渠之回方同忘者得若干資都上千人某亦頗有助以迷之且為登此閣之道標
明治十一年三月 信天翁 山中獻諡

この芭蕉翁の句、直下たる花の字、澹たんなるか。雅切より起はなれて遠きは無きがごとし。即ち十五字、皆みな霊活れいかつにして洵まことに絶碣ぜっけつたり。諸名勝に翁の句有り。則ち■名は以て傳つたふるに、此の勝に無し。憾かんり。

[釈案]この芭蕉翁の句「花の山 二丁のぼれば 大悲閣」は、簡単そうに使われている「花」の字にほのかな味わいがある。風雅な表現と隔たったところにあるわけではなさそうだ。碑の表に刻まれている十五文字のすべてに生命力が漲っていて、非常に優れた石碑なのである。そもそも各地の名勝地には芭蕉翁の句が置かれている。それによって翁の名が後世に伝わっているというのに、この嵐山には句碑がない。残念なことである。


さて、問題が多発するのは、これ以降の箇所である。おおよその雰囲気では、句碑がないことを残念に思った関係者が建碑した云々ということだと考えているのだが、実際、そうしたラインで読むことができるかどうか、非常に心許ない。

乃大悲閣主角倉関岳与俳諧■流
大悲閣千光寺は角倉家とゆかりが深い。厳密なところを問うて「大悲閣主」という言い方が適切かどうかは検討の余地があるが、当時の角倉家当主(か?)の関岳が中心になって建碑を企画したのだろう。「俳諧」の後に続く二文字は、当初は「数」「流」を崩して「する」と読んでみたのだが、仮名文字が混じるのは変だとの指摘にしたがって不明としておく。それでも二文字目が「流」で間違いないとすれば「俳諧者流」という言い回しが候補として浮かび上がるが、果たしてどうだろう。
邨上碩水遠藤雨村岡如山小山■山
「邨上」以下は人名。うち「邨上碩水」(村上碩水)は『平安人物志』(慶応3)に名前が確認できる(参考)。他の「遠藤雨村」「岡如山」「小山■山」は不明であるだけでなく、人物名の区切り箇所も怪しい。さらに言えば、後続の四文字「相古渠之」もあるいは人名かも知れないというオマケ付きである。つまり「角倉関岳」と「邨上碩水」は裏が取れる(厳密には「角倉関岳」は取れていない)からともかくとして、他はどうも人名っぽいというだけで、それ以上は進めないのである。必然的に、それ以降の解読も手詰まりとなってしまう。

以上、一応のところという条件付きで、
すなわち大悲閣主・角倉関岳と俳諧■流、邨上碩水・遠藤雨村・岡如山・小山■山・相古渠之・・・・・・
と読んでみる。要するに角倉関岳と村上碩水と、その他の面々が集まって、ナニかをしたということである。そのナニの中身はさていかに。



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by office34 | 2013-07-15 07:26 | 明治人物志
2013年 07月 14日
二丁塚読解・その3 ~山中静逸(7)
二丁塚を続ける。

洵為絶碣戸
「洵為絶碣」についてはすでに案を示しておいたが、続く「戸」の一字が浮いたままになっている。「碣戸」なる言葉があれば丸く収まるのだがムリっぽい。実は、この一字、当初は「凡」と読んでいた。「凡」であれば、「絶碣」で文を切ればいいだけの話だが、文脈ありきで文字を決めるのは本末転倒である。加えてくずし方のパターンからいえば「戸」に見えるけどとのことで、とりあえず「戸」にしているのだが、それならそれで解釈が止まってしまう。
諸名勝有翁句
最初は「勝」の字がわからなくて困っていた箇所である。ところが「名勝」だろうとの教示を受けると、スラスラと解釈も進んでくれる。「憾」のところまで一つ続き文脈。
則■名以傳
判読のできない文字が一字残っているが、芭蕉の評判をいう文言だと思う。最初、「神」かなとも思ったが、「神名」では行き過ぎだろう。それでも隠れることのない評判というニュアンスになるはず。
此勝無三為憾
「此勝」は嵐山のこと。「無」の下の「三」はやや不審。レンガ(「無」の部首、下の四つ点)の部分を縦長に書くくずし方もあるので、もしかすると「無三」ではなく「無」の一字なのかも知れない。解釈の上ではそちらの方が都合がいい。

とりあえず、「戸」の一字はどうにもならないが、以下は、
諸名勝に翁の句有り。則ち■名は以て傳つたふるに、此の勝に無し。憾かんり。
としておく。



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by office34 | 2013-07-14 22:13 | 明治人物志
2013年 07月 10日
二丁塚読解・その2 ~山中静逸(6)
とにもかくにも、十分には読めないという現実は変わらない。大悲閣下の二丁塚碑陰についてである。ルーズな理解でもガンガン言い立てればそれっぽく聞こえてしまうといったことを書いたが、デタラメをごり押しすることが本意であるはずはない。山本覚馬関連の怪しげな記述が目立つ風潮に辟易としていたので、それに対するイヤミのつもりだったのだが、アイロニーと理解してもらえないようでは元も子もない。ということで、わかっている部分、わからない部分を明確に切り分けて、改めて二丁塚の碑文を取り上げてみる。

此芭蕉翁句直下花字澹乎
「この芭蕉翁の句は」云々という最初の五字はほぼ確定。しかし「直下花字」はわかりづらい。位置関係でいう"直下(すぐ下の意)"ではなさそうだが、ではどういう意味かと言われると、これといった候補は思いつかない。「直下たる花の字」と読んでおいて、簡単な花という言葉云々とすればいいのだろうか。そうすれば、一見すれば工夫のない単純な語だが実は「澹」である、すなわち薄味な面白さがあるという方向で解釈することもできなくはない。

若無遠起雅切
これもまた難解。翻字からして覚束ないが、書に詳しい方からこうではないかとのアドバイスもあったので、この形で解釈に進む。解釈上のネックは「遠起雅切」。古典語の範囲ではお目に掛からない言い回しである。明治の文章なので明清時代の近世語が影響しているとも考えられるし、あるいは実質的には和文だが体裁だけを漢文っぽくした文章(和製漢文というべきか?)と考えねばならないのかも知れない。もしそうだとすれば、どういう可能性があるか。「雅切」を雅な隻句としておき、そこから「遠い」ものは「無さそうだ(若無)」といったあたりか。

即十五字皆霊活
「十五字」とあるのは、碑面の「花の山 二丁のほれは 大悲閣」に「はせを」の三文字を加てのことか。数の上では合致するが、そうした数え方が妥当かどうかは心許ない。文字の数をいうのであれば、注目されているのは句の中身ではなく、筆の運び、すなわち字体ということになってくるからである。碑文はそうした方向での関心とは読めないので、「十五字」云々が気になる。とはいえ、「霊活」の箇所は間違いないと思うし、1行目からの流れで考えれば、句全体に生命感がみなぎっている云々という主旨に捉えておいていいだろう。

洵為絶碣
「絶碣」の意味がわかりづらい。「絶」には保留マークを付けるにしても「洵まことに●碣??けつたり」といい、石碑の出来映えを褒めているのだろう。

とりあえず、最初のフレーズは、
この芭蕉翁の句、直下たる花の字、澹たんなるか。雅切より起はなれて遠きは無きがごとし。即ち十五字、皆みな霊活れいかつにして洵まことに絶碣ぜっけつたり
と読んでおく。



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by office34 | 2013-07-10 11:38 | 明治人物志
2013年 07月 07日
二丁塚読解・その1 ~山中静逸(5)
『八重の桜』の影響もあって、山本覚馬に言及する記事が激増している昨今である。しかし、中には「管見」あるいは「建白」を読んでいるとは思えない記述も目に付く。覚馬の先進的思想を強調したいという気持ちはわからなくもないが、「建白」を厳密に検討すれば三権分立に対する理解が覚束ないと評価せざるを得ないにも拘わらず、三権分立の思想を日本で初めて提唱した云々といった文章もちらほら。もちろん時代的な制約があるわけだから、そうした点において覚馬を貶めるのは不当である。それに当時の国際情勢を冷静に分析できている眼力には鋭いところがあるのは間違いないし、くり返し強調されている人材育成こそが急務とする思想などは、まぎれもなく先進的である。ところがそうした側面を見ずして議会制や三権分立云々という方向を持ち上げるのは基礎資料さえ読まずに書いているのだろう。そして、残念なことに、そうしたことが堂々とまかり通ってしまうらしい。

さて、今回のテーマは山本覚馬論ではない。ズボラな知識でも言った者勝ちが許されるのだとすれば、二丁塚についても同じことができるはず、ということが言いたかっただけである。二丁塚に触れるからには、最終着地点は碑文の解釈なのだが、本文が確定しないことには解釈も何もできたものではないという現実が目に前に横たわっている。幾ばくかは解読が進んだとはいえ、信憑性を問われるならモゴモゴと言葉を濁さざるを得ない。しかし、そうした曖昧な部分に頬被りをさせておいて、いかにも真実が判明したかのごとく振る舞ってみるのも面白い。ここぞ大言壮語の出番である。とはいえ、一語ずつ取り上げるとボロが出る。頬被りをする時は、バクっとした要約風に処理するに限る。わかっている部分とわかっていない部分をごちゃ混ぜにしておいて、全体を曖昧にごまかすには打って付けの方法である。ということで・・・・・・

書き出しは芭蕉吟に対する批評のようだ。「花の山 二丁のぼれば 大悲閣」という吟、現在では存疑とみなされているのだが、明治の初期はまだ芭蕉吟として疑われることもなかったのだろう。花の字に淡泊な味わいがあるだけでなく、全体がいきいきと躍動している云々。そして続いて、嵐山のこの地に今まで碑が置かれなかったことを残念に思う旨が述べられる。全国の名勝地には芭蕉吟の碑があり、その名を後世に伝えているのに、この勝地、嵐山にはそれがなかったと云々。そこで大悲閣主人角倉関岳ら俳諧を愛する人々が協力しあい、また諸方からの援助を取り付けて、この大悲閣にいたる道しるべとして碑を置いた云々。明治十一年三月、信天翁山中獻がこの文章を記し、贈るところである。ざっとまとめると、こんな具合だろうか。







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by office34 | 2013-07-07 12:14 | 明治人物志
2013年 07月 03日
二丁塚碑陰 ~山中静逸(4)
さて信天翁山中静逸の話もいよいよ佳境へ入る。大悲閣下にある、俗称「二丁塚」についてである。以前に触れた際(参考までに)、とにもかくにも碑陰が読めないということで放置モードにあったわけだが、かろうじて「信天翁」なる人物が書いたもののようだというあたりまでが捉えられていた。それがきっかけとなって信天翁とは何者か?、山中静逸なる人物のプロフィールは?といった方向に関心が広がったのが今回の流れである。

この信天翁山中静逸、幕末から明治前期に掛けて活躍した文人であることがわかり、嵐山に少なからずの縁があることもわかった。そうした情報によって二丁塚碑陰の文章が彼のものである必然性は十分に高まった。難読を極める刻字の翻刻も、書に詳しい方からのアドバイスも頂いて、以前よりはかなり見通しが利くようにはなっているのだが、それでも文章としての理解にはほど遠い。断片的な字句から推測して、おおよそこういった内容だろうというあたりが関の山なのである。

ともあれ、二丁塚の碑陰を再掲しておき、2013年7月現在での読解(案)を出しておこう。

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二丁塚の碑陰


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by office34 | 2013-07-03 14:47 | 明治人物志