Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 08月 31日
鉄道唱歌
1970年前後の特異現象を軸に京都を扱った歌をみていると、戦後歌謡史の枠組みであれこれ話をする傾向になる。しかし戦前の歌、たとえば「祇園小唄」(1930)などは、祇園歌謡の先駆けとしてもう少し重視してもよさそうな感じがするし、京都の地名が歌詞に入っているという点だけで取り上げるのなら、歌謡曲草創期の大ヒット「旅の夜風」(1938)にも目配せが必要になるはずである。と、そのあたりはまた機会があればということにしておきたいのだが、京都に対する視線がどういうものだったのかを歌謡曲の歌詞から探るというスタンスからいくと、もう一つ忘れられないものがある。それが「鉄道唱歌」である。

ということで、歌詞を見ていくのだが、その前に「歌謡曲」なるものの定義が必要だろうか。「鉄道唱歌」はそのタイトルにもある通り「唱歌」であって「歌謡曲」ではないと言われると、確かにその通りでグゥの音も出ない。しかし厳密な定義を施すのではなく、自然発生的に歌われるようになった民謡の類いではない、ビジネス目的で作曲家と作詞家によって作られ、プロの歌手が歌うことで広まった歌といった程度のとらえ方をしておけば、たいていの流行歌が「歌謡曲」枠に入ってくる。「鉄道唱歌」にしても目的や広まり方こそ違えど、作曲家も作詞家もはっきりしているわけだから、「歌謡曲」に準ずる場所においてもいいだろう。

そんなわけで、前提条件のところでゴチャゴチャせねばならないのだが、京都に対する視線という意味では「鉄道唱歌(東海道篇)」(1900)の歌詞は非常に興味深い。まず第一に京都に大きなウェイトが置かれているのがポイント。「鉄道唱歌」は、よく紹介されるように、東海道線を旅しながら各地の名所を歌詞に連ねていく形式なのだが、六十六聯からなる東海道篇のうち実に八聯が京都に費やされている。これをスタートの東京と比べてみるとどうだろう。
(1)汽笛一声新橋を、はや我汽車は離れたり
  愛宕の山に入りのこる、月を旅路の友として
(2)右は高輪たかなわ泉岳寺せんがくじ、四十七士の墓どころ
  雪は消えても消えのこる、名は千載の後までも
(3)窓より近く品川の、台場も見えて波白く
  海のあなたにうすがすむ、山は上総かずさか房州か
だいたいこの辺りまでが東京圏域だろうか。四番の歌詞に登場する大森はまだしも、川崎となるともう神奈川圏域である。それに対して京都はというと、四十五番に山科と稲荷が登場するところからである。控えめに見積もる意味で、この四十五番を除外して次の四十六番からカウントする。
(46)東寺の塔を左にて、とまれば七条しちじょうステーション
   京都々々と呼びたつる、駅夫のこえも勇ましや
(47)ここは桓武のみかどより、千有余年の都の地
   今も雲井の空たかく、あおぐ清涼せいりょう紫宸殿ししんでん
(48)東に立てる東山、西に聳ゆる嵐山
   かれとこれとの麓ゆく、水は加茂川かもがわ桂川かつらがわ
(49)祇園ぎおん清水きよみず知恩院、吉田よしだ黒谷くろだに真如堂
   ながれも清き水上に、君がよまもる加茂の宮
(50)夏は納涼すずみの四条橋、冬は雪見の銀閣寺
   桜は春の嵯峨さが御室おむろ、紅葉は秋の高雄山
(51)琵琶湖を引きて通したる、疏水の工事は南禅寺
   岩切り抜きて舟をやる、知識の進歩もみられたり
(52)神社仏閣山水の、外に京都の物産は
   西陣織にしじんおりの綾錦あやにしき、友禅染の花もみじ
(53)扇おしろい京都紅きょうとべに、また加茂川の鷺しらず
   みやげを提げていざ立たん、あとに名残は残れども

五三番はいちおう「向日町」扱いになることが多いので、これまた控えめに見積もる意味で除外するにしても七聯が京都を歌っていることになる。東海道線に沿っての名所をそれぞれに歌い上げるというのが一般的な認識だろうが、実際には京都がかなり大きく扱われていることは特筆してもよさそうだ。

そして、そのうえで扱いの中身である。通り一遍に名所を列挙するパターンだとしても、その並べ方が面白い。「東山」と「嵐山」を東西に対峙する二峰としてみたり、シンボリックな桜名所が嵯峨(たぶん大覚寺のことだろう)と御室(同じく仁和寺)とするなど、現代の感覚を基準にすればツッコミどころ満載である。もちろん、これは明治の眼差しであり、平成の我々が正しいの間違っているのをいう筋の問題ではない。しかし、それだけに興味深さも大きくなるのは事実なのである。ともあれ、「歌謡曲」の定義をかなりゆるゆるに設定してのことだが、京都を扱う歌の一ページ目には「鉄道唱歌」を入れておきたいという話である。





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by office34 | 2013-08-31 23:38 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 30日
京都歌謡をめぐって
一連の嵐山ネタの中で触れ方が中途半端になったので、すこし詳しく書いてみたいのが「京都歌謡」をめぐる話。そもそも「京都歌謡」なるものは、そうしたジャンルが最初からあったわけではない。当方の知る限りでは、言葉は石川真作氏の造語である。「さすらうこころは京都に集う-京都歌謡の隆盛と衰退」(1)には、次のような記述がある。
これらを、仮に「京都歌謡」と呼んでみたい。このリストからは、一九五〇年代から六〇年代にぽつぽつと発売され、一九七〇年前後をピークとして、一九七五年以降あまり歌われなくなっていくといった流れが見てとれる。
この一文は『全音歌謡曲全集』から「タイトルに京都および京都市内の地名、あるいは京都にまつわる事象が含まれる歌を主にタイトルから判断」して抽出されたもの、さらには馬場俊明氏が「京都歌謡曲考現学」(2)の中で挙げたものを並べた後に書かれているものである。
(1)『京都フィールドワークのススメ』所収,鵜飼正樹他編,2003年,昭和堂
(2)「現代風俗'85」現代風俗研究会会報,通巻9号,1985年

もとより、かつてリリースされたすべての曲を対象に、京都や京都の地名に触れる部分があるかどうかを調べることはできない。そのため石川氏のように全集的にまとめられた本から、タイトルを手がかりに探し出すのが常道である。しかし注意せねばならないのは、その作業自体は、京都をテーマにした歌を集中的に調べればなにがしかの傾向が見てとれるという前提があってのことである。いわば見通しありきでの造語「京都歌謡」なのである。そういう意味でいえば、「仮に『京都歌謡』と呼んでみたい」と自らの造語であることを明言する石川氏に先立って、同趣の作業を行った馬場氏の仕事の意味は大きい。その馬場論文では「京都ろまん」という歌を取り上げたのに続けて
ひと昔前、チェリッシュの「なのにあなたは京都へゆくの」など、“京都”を歌った歌謡曲が流行った。「京都ろまん」はそれ以来ではないだろうか。そこで今回、そうした戦後の歌謡曲に現われた“京都”の歌をとりあげて、現代の京都の風俗について考えてみたい。
と書かれている。そうした文脈では石川氏の「京都歌謡」のような特別な言い回しにはなっていないが、「“京都”を歌った歌謡曲」という形で、同じフレーズが繰り返し登場している。

こうやってみてくると、問題点は少しは絞れそうな感じである。1970年前後の流行歌に京都がたびたび登場しているのは事実であり、そこに有意性を指摘しようとする見通しである。確かに、年表にまとめられたものをみても他の年代に比べて登場の頻度が高い、かつ同時代的にみても他の地域よりは高密度で登場している。だがその傾向を大きく扱うのであれば「“京都”を歌った歌謡曲」(馬場氏)ないしは「京都歌謡」(石川氏)という言い方では、問題点の絞り込みが行えない。つまり、漠然と京都を扱った歌というだけでは、(a)「なぜ1970年前後だったのか」ということと(b)「なぜ京都だったのか」ということの二つの問題を十分に処理しきれないのである。それに対処するには、相応の定義付けが必要になる。また同じ京都を扱うにしても(c)「どういう内容で京都を扱ったか」も別の問題とするのなら、なおさらのことだろう。

そこで、問題点を絞り込むという意味で、「京都歌謡」なるものを再定義してみたい。すなわち京都を扱った歌謡曲の中で1970年前後にヒットした一群という形である。時代的にズレている、あるいはヒットしたわけではない等々の事情があれば、あえて「京都歌謡」から外してもいいのではないか。もちろんヒットしたか否かという定義では数字の裏付けが求められるので線引きの必然性が問われる。その点では難があるのだが『なのにあなたは京都へゆくの』や『京都慕情』あたりの知名度を一つの基準にしている。こうした形で再定義が可能だとすれば、嵐山ネタの中で触れたように、花街の舞妓を中心にした一群に「祇園歌謡」という異なる命名をする意義も出てくるし、「祇園歌謡」の枠から外れつつ、来たるべき「京都歌謡」の先駆け、いわば「プレ京都歌謡」なる位置づけを「女ひとり」に与えることもできる。さらに言えば、京都の地名を歌い込んでいるにしても、現代のご当地ソングはまったく検討の対象外にすることもできる。

ちなみに、1970年前後にヒットした歌で京都を扱ったものという意味合いでの「京都歌謡」に該当するものとしてはどういうものがあるだろうか。思いつくままに並べてみよう。

(年代的に少し早いか)
・加茂川ブルース(歌・フランク永井,詞・東次郎,曲・吉田正,1968年)
--------------------------------------------------
・京都の恋(歌・渚ゆう子,詞・林春生,曲・ベンチャーズ,1970年)
・京都慕情(歌・渚ゆう子,詞・林春生,曲・ベンチャーズ,1970年)
・なのにあなたは京都へゆくの
(歌・チェリッシュ,詞・脇田なおみ,曲・藤田哲朗,1971年)
・京都から博多まで(歌・藤圭子,詞・阿久悠,曲・猪俣公章,1972年)
・京のにわか雨(歌・小柳ルミ子,詞・なかにし礼,曲・平尾昌晃,1972年)
・加茂の流れに(歌・かぐや姫,詞・南高節,曲・南高節,1972年)
--------------------------------------------------
(年代的にピークを過ぎているか)
・京都ブルース(歌・藤圭子,詞・なかにし礼,曲・馬飼野康二,1974年)
--------------------------------------------------
(知名度不詳)
・京の恋歌(1969年)
・雨の夜京都に帰る(1971年)
・木屋町の女(1972年)
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by office34 | 2013-08-30 22:10 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 29日
エリア名の「嵐山」 ~イメージの嵐山(10)
イメージ裡に描かれる嵐山といいながら、嵯峨野の方へばかり流れているので、強引に嵐山へ引き戻しておく。おおかたでは嵐山と嵯峨野が一緒くたにされているとはいえ、区別するというスタンスをはっきりさせるとすれば、嵐山は大堰川右岸の山の名前ということが確認されるし、その山の眺めを楽しむエリアであるという説明になる。『都名所図会』あるいは『新撰京都名所図会』が「嵐山」を描くときには渡月橋の北側に立って山を眺めるのは、嵐山=大堰川右岸(渡月橋の南側)ということを念頭に置いているからだろう。なお、天龍寺や法輪寺のあるあたりは嵯峨野の一部の「下嵯峨」というエリア名が宛てられることもあるので、厳密の度合いを高めるのなら、エリア名の「嵐山」と「嵯峨野」は使われるカテゴリーが違うという方がいいのかも知れない。

ともあれ、ここではエリア名の「嵐山」がターゲットである。江戸時代および昭和中期の二つの図会を並べてみる。
a0029238_2305950.jpg
『都名所図会』(日文研DBより)

a0029238_23101.jpg
『新撰京都名所図会』(竹村俊則氏、白川書院、昭和34年)


細かいところの違いはあるものの、両方ともに、嵐山の名で呼ばれている山を中心において東は法輪寺から、西は大悲閣のあたりまでが視野に入っている。昭和の図会は測量地図を鳥瞰図チックにアレンジしたものだろうが、江戸時代のものは多くをイメージに依っているに違いない。そうしたところで描かれているのが法輪寺~大悲閣を擁する山嶺であるとすれば、それこそが「嵐山」という言葉から導かれる元来のイメージだったのだろう。

言葉によるところを見れば『都名所図会』の書き方は面白い。
嵐山あらしやまは大井をゝい川を帯をびて北に向むかふたる山なり
ルビは原文ママ、割注略
短い記述だが、注目するのは山だけをいうのではなく大堰川とセットにしている点。主語が人でないところで使われる「帯ぶ」という動詞はやや分かりづらいが、"身につける"という意味での擬人法的な使い方とみるか、あるいは「その立山に常夏に雪降り敷きておばせる片貝川の・・・・・・」と歌った大伴家持歌を参考にしておいて、"裾野をめぐらせる"の意味で解すればいいだろう。要は「嵐山」は、その地名が出てくるだけで大堰川を含む景色となるということである。もっとも「山」を登る対象と捉えるのは、山伏や山岳修行を行う僧侶など特殊業務に携わる人々に限られるものか、あるいは山登りが普及した近代的な目線によるものと考えることもできるので、「山=裾野の河川を含めての景色」をいうのはそれほど突拍子なものでもない。

このところの一連の記事は、要するに「嵐山」という地名がイメージするものということだったが、十分な準備もなく結論ありきで進めようとして方向が拡散してしまったようだ。締めるにあたって最後にまとめみたいなことをする必要もある。「嵐山」は歌枕としても親しまれてきた地名であり、元来は大堰川べりから眺める桜や紅葉の景勝をいうものであった。ところが近接する嵯峨野エリアの人気が高まるにつれてイメージの混濁が進み、いつしか主役の座が逆転する結果となった。渡月橋まわりや嵐山公園・中之島地区にはシーズンになるとかなりの観光客が集うので、けっこうな人気スポットであることには変わらないが、嵐山・嵯峨野を一つの観光エリアとみた場合、人混みの重心は北寄りになっているのは否めない。それは嵯峨野にそれだけの魅力があることの証明だといえばその通りだろう。だが、そこまで認めたうえでもなお嵐山それ自体の魅力はもっとアピールしてもいいように思う。天龍寺北側の竹の小径が通過もままならないくらいに混み合っているのに、すぐ近くにある嵐山公園・亀山地区の展望台が閑散としているといった状況に接すると、偏った情報ばかりが溢れているんだろうなという気になってしまうという話である。

実際のところ、昔ながらの嵐山の楽しみ方といったところで、大堰川での舟遊びなどは誰でも気軽にできるシロモノでもないし、大堰川北側に並ぶお店も、京都吉兆を筆頭に高級料亭が多いとなると、う~んと唸ってしまうのも事実。しかし、工夫次第では古人が楽しんだ形に近い嵐山を堪能することもできなくはない。亀山地区の展望台や大悲閣道のあたりをぶらぶらするのは、まさにそうしたものの一例だろう。また法輪寺にしても、嵐山・嵯峨野エリアの中では影が薄いと言わざるを得ないのだが、境内には市街地を広く眺めわたす展望台もあって訪れる価値のあるスポットである。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-29 12:46 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 27日
祇王寺の話 ~イメージの嵐山(9)
現在、店頭に並んでいる某観光雑誌をパラパラめくってみると「嵐山は源氏物語や平家物語にも描かれた~」という文言が目に留まった。現代では嵐山と嵯峨野が一緒くたに扱われがちであることは以前にも触れたところなので、そのこと自体には目くじらを立てるつもりはない。しかし、一緒くたにされているというのが、実は当方の思い込みに過ぎず、世間の人々はきちんと区別しているのかも知れないという思いも少なからず残っていた。そういったところへ飛び込んできた、この文言。源氏物語や平家物語にも描かれた嵐山・・・・・・、やっぱり世間様もあまり区別していないようだ。

『源氏物語』に出てくるのは賢木巻の野宮か、松風巻に描かれる明石の君の住まいのことだろう。『平家物語』の方は、これは祇王祇女の姉妹が隠れ住んだ庵室であり、斉藤時頼と横笛の悲恋が語られる僧坊、今でいうところの祇王寺と滝口寺のことで間違いない。『源氏物語』の野宮と野宮神社との関係はやや保留を入れねばならないところもあるが、野宮神社、祇王寺、滝口寺がイメージの中心にあるのなら、その観光雑誌が「嵐山」という見出しのもとに概略を述べているのは嵯峨野のことである。実際の記事には天龍寺や宝厳院といったところも取り上げられているので、嵐山から嵯峨野にかけての界隈全体ということだろう。

さて「嵐山」という言葉が連想させるイメージという問題を延々とやっているわけだが、嵯峨野との混濁があることを前提にすることが許されるとすれば、嵯峨野エリアでの人気NO.1スポット祇王寺の導くイメージが重要になると思う。現代の祇王寺には苔が美しい寺というイメージが強い。だがそれはあくまでも平板な観光情報が普及したのちの姿ではないか。祇王寺が多くの観光客を迎えるようになったのは、ディスカバージャパンの時代であり、アンノン族の時代である。それに先立つ四~五年にはすでに人気スポット化への胎動が見られていたようなので、かのキャンペーンあるいは雑誌「an・an」や「non-no」がすべての仕掛け人であるようにいうのは当たっていないのだが、決定的な流れが作られたのは、それらの影響力が炸裂した1970年代前半のことだろう。嵐山と嵯峨野の垣根が取り払われたのもその頃のことと考えているわけで、70年代前半にアンノン族と呼ばれた人々が祇王寺に対して求めていたものが「嵐山」全体のイメージに拡張されたように思うのである。

それでは70年代の祇王寺というとどうだったろう。歴史的に語られる祇王・祇女の物語が大きな力を持っているのはいうまでもないが、現代と決定的な違いとしてあげられるのは昭和の初期から庵主を務めていた高岡智照尼の存在だろう。智照尼は、出家する以前の明治大正期には大阪・宗右衛門町や東京・新橋で嬌名を響かせていたので茶屋遊びに親しい階級では有名だった。しかし社会全体の中ではというとどうだったか。彼女の名前が階層にかかわりなく知られるようになったのは、「千代葉」や「照葉」といった源氏名でのそれではなく、元芸妓の尼としてのことである。そのきっかけを作ったのが瀬戸内晴美の『女徳』だろう。

『女徳』は1962~63年に雑誌に連載され、連載終了後すぐに単行本化されている。以前に紹介した69年の新聞記事(参考までに)には「冬でも嵯峨野を訪れる人が絶えないようになったのはここ四、五年前からの現象。何度も小説やテレビの舞台となったうえ、ガイドブックが美しいカラー写真で四季折り折りを紹介するのが拍車をかけている」とある。ここでいう「小説やテレビ」が具体的にどれを指すのかは分からないが、年代的にみても『女徳』はその旗手的な存在だったと思われる。ちなみに『女徳』がテレビドラマとなったのは1971年のことで岡田茉莉子主演。さらに72年には同じく岡田茉莉子主演で舞台化もされている。

また『女徳』のストーリーに即しておけば、主人公の老尼(智照尼をモデルに造型)が世間に知られるきっかけとなったテレビ番組があることになっている。智照尼の自伝にも触れられておらず、現実との対応関係が不明なので深く追及するのは控えねばならないが、いずれにせよ60年代の前半には「波乱の半生を送った老尼が守る嵯峨野の尼寺・祇王寺」といったイメージが、なにがしかのメディアを通して普及していたはずだ。またこれも小説の内側のことなので現実との対応は言いづらいのだが、テレビを通じて有名になった老尼の許には人生相談に訪れる女性も多かったようにも描かれている。祇王・祇女の物語によって祇王寺には女の哀しみを背負う場所たる色彩が施されていたとすれば、智照尼の存在はそこに現実の求心力を加えるものとなっていたのだろう。「嵯峨野さやさや」が「朝の祇王寺、こけの道」と歌ったあとに「心がわりをした人を、責める涙が濡らすのか」とするのも、そうしたイメージをよりポエム調に昇華させたものであるのは言うまでも無い。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-27 22:17 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 20日
嵯峨野さやさや(1975) ~イメージの嵐山(8)
「嵯峨野さやさや」がリリースされたのは1975年である。1970~71年のあたりを京都歌謡の全盛期とみるなら、これも「雨の嵐山」(1977年)と同じく、遅れてきた京都歌謡といっていい。またリリースされた時にはそれほどのヒットには結びつかなかった点も共通している。この「嵯峨野さやさや」が広く知られるようになったのは、愛染蔵のイメージソングに採用されてテレビで盛んに流されたことによるものだろう。CMの放映開始が何年になるのか正確には調べていないが、たぶん1980年代の後半ぐらいかと思う。要するにはこの曲は今でこそ広く知られているものの、リバイバルヒットのような形で有名になったものである。

そんな10年遅れで注目されるようになったものを取り上げるのは、歌詞が秀逸を極めているからである。ここ数年のスパンで書かれたとおぼしき感想をたどってみても、この歌詞に対しては「本当に京都らしい歌です」といったコメントが少なからず寄せられているようだ。その手の感想は内容の適否を云々するものではなく、そうした反応を喚起しているという事実が大切なのである。つまり、イメージ裡に描かれた京都・嵯峨野を巧妙に歌詞へ吸い上げているのが「嵯峨野さやさや」であるということである。

あるいは、こういう評価も可能かと思う。それまで「an・an」や「non-no」を通して断片的にまき散らされていた、京都をめぐるポエム的な描写を、歌謡曲の詩という形で一つに集約してみせた、と。もう少し別な言い方をするなら、曖昧に拡散していたイメージを明確な言葉のもとに結晶させたということである。もちろん、こうしたポエム的なものがそのまま文芸的な意味での出来不出来と重なるわけではない。それでも商品としての完成度という見方をすれば、秀逸という評価には値する。そのあたりは、数多くの商用歌謡を手掛けてきた伊藤アキラの腕前といったところだろう。

もっとも、実際にヒットしたかどうかとなると、先にも触れたように不発弾に終わったようだ。だがそれは販促戦略等々、種々の巡り合わせによるものかと思われる。曲や詩の完成度が十分でもヒットするわけでなければ、その逆、なぜこんないい加減な歌が売れるの?といったことが起こるのも現実の世界である。ただ、10年ほど遅れたとはいえ、ひとたび注目を集めるようになると、詩の完成度=イメージの結晶度の高さはいやましにも強調される。遅ればせながらも「京都らしい」というコメントを集めるようになっているのも、そうした側面の現れではないだろうか。

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ところで、余談を少しばかり。80年代の前半か後半、あるいは90年代ぐらいにかけてテレビCMや有線を通してしきりに耳にしたものの、しばらく曲名が分からずモヤモヤ感に苛まされていた歌が3曲ほどある。今なら教えて系のサイトがたくさんあるので、そういったところに書き込めば即座に答えが返ってくるのだが、当時はそういうものもなく、座りの悪い感覚がずっと尾を引いていた。「嵯峨野さやさや」は、まさにそのうちの一つだった。愛染蔵のCMはよく目にしていたので曲は諳んじるぐらいになっていたが、肝心の曲名は不明だった。それが、とあるラジオ番組で紹介されたことをきっかけに「タンポポ」というグループ名が分かり、そこからすぐに曲名も導かれることとなった。これと同じように、かなり長い間、曲名不詳で耳の底にこびりついていたのがタンゴヨーロッパの「桃郷シンデレラ」。こちらは有線でよく耳にしていたが情報が得られないでいた。当方より少しだけ事情通の友人に尋ねたところ、「シンデレラの夢~」というフレーズがサビのところに出てくる云々といった流れから飯島真理の「シンデレラ」だろうとかの脱線もあったが、これもまたしばらくして何かの偶然でアーティスト名、曲名を知ることができた。

そしてもう一つがクリフ・リチャードの「幸せの朝」である。これは、どういう経緯があってのことかは知らないのだが、地元の中学校では伝統的に三年生になるとフォークダンスで踊らされるのがこの曲と決まっていた。学校の授業で強制的に踊らされるダンスなどにマジメに取り組むわけでもなし、当時は「幸せのなんとか」というタイトルでの英語の歌、その程度の理解だったのだが、80年代の終わりか90年代になってからかの頃に、某建材会社のCMで聞き覚えのあるその曲が流れたところからフラッシュバックが起きて、やたら気に掛かるようになってしまったのである。その後、時には意識の浅いところへ浮かび上がってくることもあれば、深いところへ潜ってしまうこともある等々を繰り返していたのだが、ネット経由での調べ物ができるようになってから曲名も確定されたという一曲である。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-20 03:51 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 19日
雨の嵐山(1977年) ~イメージの嵐山(7)
嵐山と嵯峨野のイメージを流行歌の世界から見るとすれば、触れておきたい歌が二曲ばかりある。一つは、長渕剛が黒歴史として自らのディスコグラフィから抹消した(?)との噂がある「雨の嵐山」(1977年)。もう一つはタンポポというフォークデュオが歌ったらしい「嵯峨野さやさや」(1975年)。

まず「雨の嵐山」(歌詞参照)から。この歌に注目するのは、嵐山を知らない長渕がイメージだけで歌詞を作ったことが窺える点である。長渕を悪し様にいう文脈ではよく取り上げられるネタのようだが、歌い出しの「雨の降る京都の嵐山を二人、息をきらしながらのぼり始めてゆく」の部分。ターゲットになるのは「嵐山」を「のぼる」場所として描いている点であり、解説風にいえば嵐山は地名であって山の名前ではないというツッコミである。嵐山は元来は山の名前だったとか、嵐山と名づけられた標高382mの水準点が存在しているとか、実はモンキーパークを目指していたんだろうといった逆ツッコミを認めたとしても、「嵐山にのぼる」というフレーズは特殊であり、平均的な京都の常識に照らせば実地を知らない者の言葉として片付けられる。1977年リリースの歌なので、いわゆる「京都歌謡」の全盛期からは少し遅れてはいる。それでも歌詞に京都の地名を入れておき、メランコリックな印象に仕上げておけば形になると考えられていた時代を引きずっているとすれば、こうした歌詞が"生産された"ことも理解できる。

もっとも歌詞の間違いを弄るだけでは揚げ足取りで終わってしまう。問題はそうした歌詞が書かれて実際にレコードが販売されたという事実の方だろう。レコード会社がルーズな体質だったとか、新人歌手だからケアがほとんどされなかったとか、妙な歌詞のままプレスされた原因はいろいろ考えられるのだが、状況判断を優先させると70年代後半には「嵐山」という地名がデートスポットとして一人歩きしていた風潮が影響していそうだ。しかも細かいところは抜きにしてイメージだけで語られるスポット、文字面での「嵐山」はすでにそんなスポットになっていたのではないかと思われる。また本来の嵐山が景勝地であることをセールスポイントにしていたとすれば、ここに登場する文字面の「嵐山」はすでにそれとは異質なものであることも重要だろう。実地の嵐山を知らずして書かれた歌詞なので細かいところをつついても意味がないのだが、嵯峨野との混濁の果てに生まれたイメージに導かれているようにも思われる。

この「雨の嵐山」は粗製濫造された歌謡曲の一つだったに違いない。後に長渕が有名になって、その幻のデビュー曲といった見方をされることで知る人も増えたとのことだが、本来は売れなければそのまま闇から闇へ葬られる一枚だった。そんなレコードに記された歌詞であるがゆえに、逆にイメージの普遍性を窺うこともできる。斉藤光氏が「『アンノン族の京都』から『彼氏と行く京都』へ」というエッセイの中で、雑誌「an-an」の誌上に書き捨てられたコピーを手がかりに、イメージの京都がどのように変わっていったのかを追求しているのだが、その手法に倣うとすれば「雨の嵐山」の歌詞に注目する必然性は認められる。本来であれば、世間の記憶に残ることなく消えてしまう運命にあっただけに時代の実情を伝えているようにも思えるのである。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-19 06:19 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 09日
祇園歌謡と京都歌謡 ~イメージの嵐山(6)
京都を歌った流行歌のなかで、1966年の「女ひとり」が指標的な意味をもつといった主旨のことを先に書いた。花街一辺倒だったそれまでの傾向を脱したという意味では画期的であるし、加えて"京都をテーマにした歌はこんな感じ"といった方向性を示したという意味で重要であると考えている。たとえ、そこで示された傾向が従来的は枠組み、すなわち"女の側からの満たされぬ恋物語"というところを継承するものだったとしても、である。

未練たらたらの恋情といっても、そうしたテーマだからこそ物語になるのであって歌になるのだといった指摘も大切である。脳内お花畑のルンルン系では歌になりにくいというのが前提であれば、「女ひとり」が示した方向性も、その意義を割り引かねばならない。しかし、京都の歌の代表格として現在でも口ずさまれているのが「女ひとり」や「京都慕情」(歌詞参照)だというのなら、それらに共通するイメージは強調してもいい。

ところで「女ひとり」は「にほんのうた」というシリーズ企画の中の一曲である。この企画が進められた時代、1960年代後半は地方への関心も高まりつつあった時代のようだ。実は、1970年に開始されたディスカバージャパンのキャンペーンが中央志向を転換させたと考えていたのだが、かのキャンペーンはすでに顕在化していた潮流に対してわかりやすい名前を与えたにすぎない、とするのが妥当な解釈のようだ。高度成長が一定のステージに到達し、人々の心にレジャーを考えるゆとりが生まれてきた時、その視線も東京のみに向かうものではなくなっていたのだろう。日本各地の旅情を歌う「にほんのうた」シリーズは、そうした動きを捉えたものだったように思える。

そこで、改めて「♪京都、大原、三千院~」の「女ひとり」である。非・東京の一つである京都に世間の眼差しが向かうのは時代の必然だったとしても、また歌詞が花街を離れる斬新さを見せたとしても、その歌詞を通して打ち出されたイメージが従前的な"祇園歌謡"を踏襲しているのが興味深いのである。ちなみに"祇園歌謡"とは当方の勝手な造語であり、花街を舞台にして舞妓の切ない恋心をテーマにしたものと定義しておく。そういった"祇園歌謡"の基調が「女ひとり」に継承されているということは、裏を返せば"祇園歌謡"が獲得していたイメージが強大だったことの証とも言えるし、結果から言えば、花街ならでは色恋沙汰を、大原や栂尾や嵐山など京都の観光名所に拡散させたとすることもできそうだ。そして、ひいては、その絵柄が歌の世界における京都のイメージになったのではないか。「京都慕情」ぐらいになると河原町だの桂川だの、観光地枠をも取っ払って京都市内の地名であればまずはOKであり、恋の哀しみを歌うという基調を踏まえていれば、一応の形になるとの判断で書かれているようだ。

1970年と71年は京都を歌う流行歌にとっても大きな転換期となる。「京都慕情」のリリースは71年だが、世の中ではすでにディスカバージャパンのかけ声が盛大に行われていた。ディスカバージャパンが始まったのが1970年10月。国鉄がキャンペーンをスタートさせたのが10/14でも、タイアップ企画である読売テレビ「遠くへ行きたい」は月初めより放送されており、毎日新聞日曜版のグラビアページ「アングル'70」のサブタイトルに「DISCOVER JAPAN」が入った1回目は10/4付けである。なお平凡出版が「an・an」を創刊したのが同年の3月でディスカバージャパンに先立つわけだが、同誌上で国内旅行が大きく取り上げられたのは71年になってからで、京都がクローズアップされたのは72年2月の47号になる(注)
(注)古本販売サイト「Re-Make/Re-Model」掲載の目次より確認。記事本文未見。an・anには創刊時より旅を取り上げるページがあったが「女性の海外旅行」という連載だった。71年9月発行の36号に「ユリとマリの軽井沢感傷旅行:夏のかげぼうし~詩:岸田衿子~」という記事が載ったのが国内旅行に目を向けた最初だろうか。

そんな70年と71年の空気を伝える一曲が「なのにあなたは京都へゆくの」(歌詞参照)ではないだろうか。「てんとう虫のサンバ」でその名前がほぼ永久に記憶されることになるチェリッシュのデビュー曲である。この歌詞に注目するのはサビで繰り返される「京都の町はそれほどいいの、この私の愛よりも」の部分。ベタな御託を並べるなら、比較する二つのカテゴリーが違いすぎないか?と首を傾げるところであり、穿った読みをすればここでいう「京都」とはストレートに都市名をいうものではなく、京都に暮らすもう一人の女の象徴云々とかの話になる。要するにヒット曲であるのは知っていても、よくよく考えるとワケの分からない歌詞ということなのである。

ところが、よく似た疑問は他の人も抱いていたらしく、教えて系のサイトに質問が投稿されていた(参考までに)。それに対する面白い回答があり、要約すれば、字面どおりの「京都の町」と「私の愛」との比較ではなく、「京都での暮らし」と「私と暮らす名古屋での生活」が比べられているとのこと、そして当時は"とりあえず京都へ行ってみよう"という風潮だったとのこと。実際の感覚がどうだったかはともかく、歌詞の中のフィクションで捉えればそういうことなのだろう。しかし、立ち止まって考えれば、そうした内容の歌詞が共感を呼んだことの方が面白く思える。もちろん「京都」という地名を塗しておいてメランコリックな印象に仕上げておけばOK、歌詞の厳密な中身など考えられていないんじゃないかという解釈もアリだが、歌は世に連れ人に連れというのなら、それが何となくといった次元であったとしても、京都への関心が高まっていた時代ということは言えるだろう。


<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-09 03:26 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 08日
哀しみの系譜 ~イメージの嵐山(5)
馬場俊明氏の「京都歌謡曲考現学」(「現代風俗'85」,現代風俗研究会年報・通巻9号,1985年)には、とある歌謡全集から抽出したものとして、京都を歌った歌謡曲が列挙されている。「できごと」「世相・風俗」「京都文学」との対比もできるように、年表形式にまとめられているのだが、ここでは発表された年次と曲名を抜き出してみる。
S28.祇園ブギ/S37.祇園姉妹/S38.舞妓はん/S39.お座敷小唄/S40.月の舞妓はん/S41.女ひとり/S42.京都の夜/S43.加茂川ブルース/S43.京都神戸銀座/S45.京都の恋/S46.京都慕情/S46.なのにあなたは京都へゆくの/S46.雨の夜京都に帰る/S46.春の舞妓/S46.京都から博多まで/S47.京のにわか雨/S47.木屋町の女/S48.泣いて京都へ/S49.京都ブルース/S49.ひとり囃子/S52.恋の河原町/S59.京都ろまん
これらのほかにも「男の夜曲」「京都ながれ花」という曲も挙がっているが、年代不詳とのことで年表からは外されている。また年表には含まれていないが、論文の中で歌詞が紹介されているものでは「祇園小唄」(S5)がある。

こうした形で歌謡曲を列挙したのは、イメージ形成の問題との関わりからである。このところ、嵐山や嵯峨野のイメージがどうやって作られ、どう変わっていったのかを考えているわけだが、嵐山に限らず、京都のイメージ形成に流行歌が大きく影響しているのは、よく指摘されている。何かのきっかけにイメージが作られ、そのイメージに沿った歌詞が後からさかんに作られたのか、流行歌によってイメージが過剰に増幅していったのか、そういったことも厳密に区別せねばならないが、京都を歌った歌謡曲は、他の地域に比べて多いというのは京都の特徴として指摘できるようだ。

ただし馬場氏の論文によれば数の多さでは東京が群を抜く。最初に東京と東京以外と区別してもいいくらい、圧倒的な多さである。東京の場合、おそらく土地柄を歌うという枠組みには収まらない別の要素があるからだろう。したがって問題は、東京以外の中でのことになるのだが、馬場氏の数え方によれば、東京のあとは大阪・北海道・長崎と続き、五番目が京都だとのこと。歌の選定基準も分からないし、対象地域の広さもあるだろうから、数だけでは論じられないのはいうまでもないが、広島とか静岡とか、その他の地方都市を考えた場合、京都を歌った歌は相対的に多いということぐらいはいえそうだ。もっともそういう言い方をするのなら、京都より長崎の方が特徴が際立ちそうだが、本題からズレるので触れないでおく。

さて、今回はイメージ形成という視点からの話である。そんな見方をすると、指標的な意味合いをもつのはデューク・エイセス「女ひとり」だろう(歌詞参照)。馬場リストの歌が京都を歌った歌謡曲のすべてではないにせよ、おおよその傾向を示すとすれば「女ひとり」以前では作詞家のまなざしは京都の街というよりは、京都の花街に向いている。そこにあるのは京都=祇園(含・先斗町etc)という認識である。それが「女ひとり」によって花街しばりから解放される。しかし強調してよさそうなのは、地域的にフリーになっても悲恋のイメージは依然として引きずったままであるということである。

ここで改めてS28「祇園ブギ」以下を眺めてみよう。挙がっている一番古いのがこれなのは困りものだが、悲恋のイメージを念頭においていると池眞理子「祇園ブギ」は例外である。歌詞を聞き取った範囲では徹底的に明るい。ブギだから当たり前で、笠置シヅ子『東京ブギウギ』、同『買物ブギー』あたりを引き合いにだしておけば分かりやすい。要するにああいう感じの曲である(後掲)。次のS37「祇園姉妹」。これがどういう歌でどういう歌詞なのかは確認できていないが、溝口映画「祇園の姉妹」の世界観に立っていそうな匂いがする。予想が正しければ明るい歌ではあるまい。花街のどろどろした因習がモチーフなのではないか。S38「舞妓はん」(歌詞参照)とS40「月の舞妓はん」は橋幸夫が歌ったシリーズで、ここに「花の舞妓はん」(歌詞参照)というのも加わってくる。「月の舞妓はん」は歌詞未確認だが、哀しい身の上話か、思いに任せぬ恋心か、そのあたりを扱っての同工異曲だろう。そして「お座敷小唄」(歌詞参照)。曲は底抜けに明るくても歌詞のモチーフは悲恋であるのはよく知られたとおり。以上、大ざっぱに流してみたところ、花街を舞台とした恋物語が歌のベースにあり、花街で生きるがゆえの哀しみを歌うものとまとめることができそうだ。リスト以外にも「加茂川夜曲」(S26,久保幸江)などは比較的知られた歌ではないかと思うが、そこでも花街の哀しみという大きな枠組みを窺うことができる。

昭和20年代~30年代がこうした傾向にあるとすれば、花街を離れた点で「女ひとり」は特筆に値する。また歌詞の主人公「恋に疲れた女」は和服を着てはいても舞妓芸妓と決める要素はどこにもない。それでも100%まったくの新種と考えることができないのは、恋の悲しみを引きずってきている点である。「京都」という響きがこの手の哀感を潜在的に併せて持っているのだろうか。というのも、この「女ひとり」は日本各地をテーマにしたシリーズ企画の中の一曲であり、最初から用意されているのは「京都」という地名のみだったからである。作品をどういう風合いに仕立てるかは、いずみたく(曲)と永六輔(詞)に委ねられていたわけだから、二人がその気になれば、例えば同じ「にほんのうた」シリーズの中で現代でも歌い継がれている「いい湯だな」のようなノリノリの雰囲気に持ってゆくこともできたはずだが、そうならずに「恋に疲れた女」の線でまとめられた。さしずめ「京都」という地名が要求する雰囲気に流されたといったところか。

こうして見てみると「女ひとり」は空間的には新機軸だったが、歌詞の内容を問うなら"祇園歌謡"の流れに囚われたままなのである。そして、そこへ主人公に少しずつアレンジを加えていくと、アンノン族時代に全盛期を迎えるいわゆる"京都歌謡"へと連なっていくのは想像に難くない。ということは、"京都歌謡"が歌う哀しみの祖先は、花街にあったといえそうだ。





    [祇園ブギ]
♪月は朧ろに東山
 ちょいと姐さん この辺は
 祇園狸がいるそうな
 可愛い舞妓はん化けてでる化けてでる
(セリフ)こんばんわ、へえおおきに
♪歌えブギ 踊れブギ
 祇園ブギウギ よいのさっさっさ

♪花見小路ででちょいと逢瀬
 鴨の河原のランデブー
 あとで?????????
 浮気するなら今のうち今のうち
(セリフ)すんまへん、かにんどす
♪歌えブギ 踊れブギ
 祇園ブギウギ よいのさっさっさ

♪恋と意地との色街に
 娘十八帯しめて
 ??が踊ればひも跳ねる
 面倒臭いこと嫌いどす嫌いどす
(セリフ)しんきくさァほっといて
♪歌えブギ 踊れブギ
 祇園ブギウギ よいのさっさっさ
ニコ動から聞き取り





<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-08 06:34 | 京都本・京都ガイド
2013年 08月 06日
京都タワーとアクアファンタジー
京都タワーとアクアファンタジーのコラボ、なんとか撮れないものかとやってみた。通常の見物場所からでは同じ方向にタワーと噴水を入れるのはムリだが、場所を探せばどうにかできないことはないといったところ。ただし、そこで問題になるのがタワーの明かりと噴水の明かりのバランス。

噴水の虹色を残しつつ、かつタワーが真っ白に飛ばない図柄を期待すれば、なかなか難しそう。コンデジでのチャレンジではどうにもならないようだが、撮影モードをあれこれイジってみたら、なんかそれっぽいのができて・・・

a0029238_23483868.jpg





どうだろ?、できているうちに入るのかな?

ダメだな。だって、は2枚の合成だし。


そのあたりは、ま、ご愛敬ということで。



【素材】
タワーの部分のみ、下のものを使ってます。2枚を重ねて、上の方から真っ白く飛んでるタワーを切り抜いたって感じですかね。
a0029238_023479.jpg

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by office34 | 2013-08-06 23:54 | 街角の風景
2013年 08月 05日
街化する嵯峨野 ~イメージの嵐山(4)
嵯峨野の宅地造成がいつ頃から盛んになったのかは調べてみないと分からないが、昭和三十九年(1964年)刊行の『嵯峨野』(毎日新聞京都支社)は、嵯峨野が嵯峨野でなくなっていく過渡期に立ち会った証言のように読める。同書「はじめに」にはこう書かれている。
奥嵯峨への入り口、野宮あたりの竹ヤブが切りはらわれて、谷崎潤一郎らを激怒させたのは、ひとむかしも前の話である。嵯峨野の竹は、いまではあたらから減ってしまった。小気味のいいまでに、ごっそりけずりとられて、その跡にどんどん家が建っていく。そのたびに、嵯峨野はじりじりと奥へ追いつめられていく。姿を消していく竹ヤブが、なによりも嵯峨野の変ぼうを語っているようである。野宮から落柿舎、二尊院、祇王寺にぬける竹ヤブと石仏の道は、嵯峨野のうちでもっともあわれ深いところ。それがここしばらくの間に、急テンポで変わった。
現代の観光目線でいうところの嵯峨野とは野宮神社から鳥居本のあたりをいうのが普通なのだが、他のエリアと区別するとすれば「奥嵯峨」と呼ばれるべきである。その奥嵯峨は嵯峨野の一部にすぎず、かつては嵯峨野全体が竹藪に覆われていたということのようだ。「嵯峨野はじりじりと奥へ追いつめられていく」といったフレーズなどは、短いスパンで景観が野から街へと変わっていくさまをうまく伝えている。また、同書の「あとがき」には「あとかたもなく押しつぶされた東の武蔵野にひきかえ、西にまだ残る嵯峨野には、古い歴史とともに一つの石、一本の川にも暖かい"人間臭"がある」ともある。改めて言うが嵯峨野とは、奥嵯峨だけをいうのではない。現代の町名に「嵯峨××町」「嵯峨野××町」という形で痕跡を残す広いエリアのことであり、嵐電やJR駅を基準にすれば、帷子ノ辻駅(嵐電)や太秦駅(JR)より西のことである。野宮・落柿舎・二尊院・祇王寺のあたり、すなわち奥嵯峨については、くだくだしい説明をしようものならイマサラ感が炸裂してしまうところだが、奥嵯峨も含めた嵯峨野を宅地造成によって消えていった武蔵野と重ね合わせる視点は持っていなかった。在りし日の武蔵野は徳冨蘆花の描くところからも彷彿されるし、その消滅してゆく様子はジブリアニメの『平成狸合戦ぽんぽこ』に描かれた多摩地区の変貌から推測することも可能だろう。正確には武蔵野と多摩とは違うとのことらしいが、だいたいあのアニメに描かれたような、それいけドンドンといった感じで、武蔵野も野から街へと変わっていき、野の痕跡はほぼ無くなってしまったのだろうと思われる。

そんな武蔵野の姿が嵯峨野と重ね合わせられるということ、そして人気観光地となった奥嵯峨が古来の嵯峨野の残滓であるという認識には、その時代がはるか遠くに過ぎ去っているがゆえに一種の新鮮ささえも感じられる。このところの記事で青写真的に描いていたのは、国鉄と電通がタッグを組んで展開した"ディスカバー"の波に乗って嵯峨野(奥嵯峨)に向かう客足が一気に増大したという見通しだったのだが、断片的な資料をつついただけでも人々が奥嵯峨へ向かい始めた時期はもう少し早いということが言えそうだ。そしてその前提になるような具合で、嵯峨野の街化現象があるのだろう。具体的に1950年代の話なのか、あるいは60年代の話なのかは未調査である。それでもかなり早い段階から人々の視線は嵯峨野方面に注がれるようになっていたのは確かである。イメージキャンペーンの「ディスカバージャパン」や同時代的に発生したアンノン族がその動きを決定的にしたということはできると思うが、彼らの時代、すなわち70年代に「観光の嵯峨野」の始発点を求めることはできない。

少々、話の流れが錯綜しているので整理してみる。そもそもの発端は大悲閣下に置かれていた芭蕉句碑である。そこから山中信天翁について調べた際に、明治初期の嵐山のイメージが微かに見えてきた。それと同時に、現在、嵯峨野と一緒くたにして語られがちな嵐山との落差も浮かび上がってきた。そこで興味が向いたのは、嵐山と嵯峨野はどう違うのか、地理的な違いをいうのは簡単でもイメージの次元でそれらを明確に区別する整理ができないかということだった。課題がイメージの形成過程なので世相史的な観点から事象を追いかけることになるのだが、現代の嵯峨野に対するまなざしを作り上げたのがディスカバージャパンのキャンペーンであり、アンノン族の大量発生ではなかったかという方向性で作業に取りかかった次第である。

これらは、ほんの見通しなので資料が集まれば修正される。現に、当初の目論みでは始発点からして70年代に想定していたわけだが、それはすでに覆されている。しかし、ディスカバージャパンとアンノン族の闊歩がイメージ形成に少なからずの役割を持っているのは否定できそうにない。あるいは嵯峨野と嵐山を混ぜてしまう目線が、もしかするとその70年代に生じたものなのかも知れない。ともあれ、まだまだ資料収集の次元なのだが、備忘録的な意味でポイントになりそうな事象を羅列しておこう。


瀬戸内晴美「女徳」:1963年
デュークエイシス「にほんのうた」シリーズ発表:1966年-69年(「女ひとり」は1966年)
「an-an」創刊:1970年3月20日
読売TV「遠くへ行きたい」開始:1970年10月4日
「DISCOVER JAPAN」キャンペーンの開始:1970年10月14日
「non・no」創刊:1971年5月25日
NHK大河ドラマ「新・平家物語」:1972年1月2日~12月24日
「いい日旅だち」キャンペーンへ移行:1978年10月13日

ここまでの話の中で一度も触れていないので、少し書いておかねばならないのは「女徳」と「新・平家物語」の件だろうか。これらが意味を持つのはキーパーソンがいるからである。それが祇王寺の高岡智照尼である。瀬戸内晴美の「女徳」は智照尼をモデルとした小説であり、NHK大河の「新・平家物語」は、トピックの一つに祇王の物語が取り上げられていたと思われるテレビドラマである。これらが契機になって、奥嵯峨の祇王寺、おそらく智照尼が有名になる以前は誰もその存在を知らなかった嵯峨野のボロ寺に、人々の関心が向いたのではないか。さらに踏み込んでいえば、嵯峨野に向かう人々の多くは、智照尼の波乱の半生をイメージ的に抽象化し、これまたイメージ化された祇王姉妹・仏御前の人生と併せて、嵯峨野の竹藪に投影したのではないか。このあたりは、もう少し調べねばならないか。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-08-05 01:32