Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 10月 31日
祇園閣とキッチュ ~キッチュ愛(1)
かなり定義がおぼつかないのだが「キッチュ」という言葉を取り上げてみる。まずは辞書的な定義からスタートするのが決まりなので、手許にあるモノの本から引用する。
Kitsch(独)。【原義】ドイツ語の<抛りなげる、棄てる>の意からきており、大した価値のないもの、ただの生計のための美術作品にすぎないもの、大衆の趣好にただ迎合するにすぎないものをさす、軽蔑的な意味から生じた。【発展】これが次第に、ナチ時代の醜悪な新古典主義的な建築様式で、しかも大衆の感動を糾合しうるような、コケオドシの美に対しても用いられるようになった。(由良)
『文芸用語の基礎知識(88五訂)増補版』(昭和63年,至文堂)

発行年代からして、すでに年代物の記述と見られても致し方ないが、スタート地点の理解としては、大衆迎合的な俗悪趣味をいうものと見ておいていい。

これに対して話がややこしくなってくるのは、キッチュなるものを否定の対象に押し込めるのではなく、露悪趣味というべきか、ありふれた低俗さを突きぬけた超弩級の低俗さを面白がる視点が出てくるからだろう。マイナスのものでも、度が過ぎると逆にプラスになるという理屈である。

さて、こういう話を始めたのは祇園閣を取り上げた折り、かの楼閣を「俗臭」の一言で切り捨てたことがあったからである。祇園閣に登って眺める瓦屋根の町並みは、あの場所からでしか得られないすばらしいものである。その意味では、眺望スポットとしてなら好意的に捉えられるのだが、楼閣自体に対しては「俗臭」という言葉以外には適当な評価は見いだせない。それでもその俗臭さこそが魅力だと言うのであれば、そこに登場するのがキッチュ愛なるものだろう。とはいえ、京都には、京都タワーというキッチュ界の大物がいるし、時代祭というこれまたキッチュ界のビッグイベントが行われている。それらを向こうに回して、果たして祇園閣でキッチュ愛が語れるかどうか微妙に不安だが、あながち可能性皆無の視点ではないと思う。

a0029238_342467.jpg
高台寺から眺めた祇園閣








言葉での説明ではややイメージがぼやけてしまうので、試しに「キッチュ 画像」でgoogle検索を掛けてみると、なるほどと頷かされる結果を返してくれる。
a0029238_344422.jpg
参考までに……検索結果






【キッチュ愛】
祇園閣とキッチュ / 俗悪・バッタもん・キッチュ / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(1) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(2) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(3) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(4) / 建築様式とキッチュ / 京都の近代建築 / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(1) / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(2) / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(3) / キッチュの大衆親和性 / 祇園閣のキッチュ性 / 祇園閣から京都タワーへ / 京都タワー擁護論 / 本物でないということ / 時代祭、大いなる仮装行列 / 祇園閣・京都タワー・時代祭

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by office34 | 2013-10-31 03:06 | 街角の風景
2013年 10月 25日
ひさしぶりに葵橋
祭の日葵橋ゆく花がさのなかにも似たる人を見ざりし
シチュエーションが分からないから、意味もなかなか見えてこない。

時代祭の話に触れて三条大橋を取り上げたついでみたいな感じなのだが、葵祭の方に視線をもっていくとピックアップされるのは葵橋である。もっとも現在の葵橋は出町橋-河合橋のさらに上流に架かる橋の名前なのだが、祭の行列が通った葵橋となると、今でいうところの出町橋-河合橋のはずである。上に引いた一首は、与謝野晶子の歌で明治37年刊行の「恋衣」に載るものだから(上記引用は岩波文庫『与謝野晶子歌集』)、明治の終わり頃の事情に照らして考えねばならない。現在の葵橋の場所に橋が架かったのは、正確には覚えていないが、もう少し遅くなるはず。過去に取り上げているネタだから、ブログ内の過去の記事を調べれば、少しは確定的なことが言える気もするが、「もう少し遅かったと思う」という言い方でごまかしておこう。ともあれ、上の歌にある「葵橋」はデルタのところを横切る橋のはずである。

出町柳のどのあたりかは分からないが、あの付近で行列を眺めつつ詠んだ歌という前提で考えると、ではどうなるだろう。シチュエーション次第で解釈が替わるのは「似たる人」である。探している人に似ている人なのか、自分と同じような気持ちでいる人なのか、それとも『源氏物語』を念頭において光源氏に似た人とでも言っているのか、いろいろ可能性は浮かびはするが、そこで打ち止めである。シチュエーション次第で替わるということは、要するにシチュエーションが分からないと解釈もお手上げになるからである。

時代祭ネタからのついでで煮え切らないお題を一つ、埋め草として。
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by office34 | 2013-10-25 03:13 | 橋のはなし
2013年 10月 23日
いつぞやの時代祭
時代祭を見に出かけてみた。毎年行っているわけではないが、前回はいつだろうと思って過去の写真を調べてみると、2010年に記録があり、その前が2003年になっている模様。2010年の時はスライドショー仕立てにまとめた時のもののようだが、2003年のはまるで記憶がない。そこで写真の方を見てみると……

a0029238_2294172.jpg


これが平成の写真か?と思うくらいのシロモノ。銀塩で撮って、後からスキャンしたものだが、スキャナーの性能の問題か、それとも腕の問題か、いい写真でないのは確か。それにしても、三条大橋を徳川城使上洛列の毛槍が通過するところなのだろうが、橋の欄干に腰掛けた見物客いるなど、写っている中身も時代感にたっぷりに思えるのは気のせいだろうか。

ところで、時代祭に関する疑問を一つほど。
江戸時代婦人列に大田垣蓮月が登場するのだが、蓮月はどうして角隠しをかぶっているのだろう。他にも梶も角隠しだが、あのコスチュームの意味はよく分からない。和宮、阿国、吉野太夫、内蔵助妻あたりはそれぞれのエピソードを彷彿させるし、玉瀾も相応の出で立ちなのだが、角隠しの二人は意味不明である。調べてみると面白い話が出てくるかも知れない。
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by office34 | 2013-10-23 02:31 | 街角の風景
2013年 10月 19日
ナゾの石材、新たに出現
a0029238_18442133.jpg


植え込みの中からつきだした石材・・・これはもしや?と閃いたのは、この場所が五条川端下ルだったから。旧五条大橋の橋脚ではないだろうか。三条大橋に関しては、西詰や平安神宮境内、国立博物館前庭のものがよく紹介されるが、それ以外にもあちらこちらに橋脚とおぼしき石材が残されている。

当方が知り得た範囲でいえば、上記のもの以外では、といったあたりだろうか。見た目は橋脚の石材であっても、厳密に三条大橋のものなのか五条大橋のものなのか(あまり言われることがないが四条大橋である可能性も……)は分からない。それでも、置かれている場所から推測して、今回のものは五条大橋ではないかと考えているのだが、はたしてどうだろう。

とはいえ、今回の石材はよくみると、埋め込まれている鉄骨が頭を覗かせている。これは三条大橋西詰や夷川ダム前のものには見られない特徴なので、全く別の場所で用いられていた新しいものなのかも知れない。あまり情報があるわけではないので判断しかねるのだが、市中に転がるナゾの石材リストにまた一つ項目が増えたようだ。
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by office34 | 2013-10-19 19:00 | 橋のはなし
2013年 10月 14日
峰の嵐か松風か ~大堰川の小督塚(5)
先の記事では、小督伝説の広まりには『平家物語』以上に謡曲「小督」が大きな力となったのではないかとの話を書いた。その中では、「峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か」という詞章がシンボリックなものであることにも触れたのだが、文言自体は謡曲「小督」が初出ではなく、『平家物語』にも登場する。
亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、片折戸したるうちに、琴をぞひきすさまれける。しばしひかへて聞きければ、まがふべうもなき小督殿の爪音なり。「楽はなにぞ」と聞きければ、「夫を思ひて恋ふ」とよむ「想夫恋」といふ楽なり。
新潮日本古典集成『平家物語』(中)より
伝本によって微妙に文言は変わっているようだが、「峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か」の部分に限定すれば、大きく変わるものではない。それもそのはずというべきか、新潮日本古典集成の頭注には、『和漢朗詠集』(*)にも載る本歌があるとの指摘がある。
(*)藤原公任が編集したアンソロジー。シチュエーションに応じて口ずさむべき詞章を和歌や漢詩から引いて紹介したもの。現代でいえば、スピーチ用のカッコいいフレーズやここ一番での口説き文句をまとめたアンチョコ本みたいなもの。
もっとも、『朗詠集』の「管弦」セクションに「琴のねに峯の松風かよふなりいづれのをよりしらべそめけむ」が載るのは事実だが、この本歌が直接的に広まっていたかどうか。むしろ『平家物語』に取り込まれることによって、さらに謡曲「小督」の詞章として切り出されることによって、「峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か」の形で人口に膾炙したとみるべきだろう。

「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」の広まりを実感させるのは、この詞章が黒田節の歌詞となっていることを挙げれば十分である。福岡県の民謡で「酒は飲め飲め、飲むならば~」で始まる有名な曲である。この「黒田節」は福岡男児の猛者ぶりを歌ったものと思われがちだが、そうした理解が通用するのはどうやら一番だけのようだ。一般に紹介されている歌詞(たとえば)をみても、二番が「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か 駒をひかえて聞く程に(駒ひきとめて立ち寄れば) 爪音つまおとしるき(たかき)想夫恋そうぶれん」となっているので、酒豪ぶり猛者ぶり云々とは結びつかない。このあたりは、いわゆる「博多民謡・黒田節」なるものが世間に紹介された経緯と関わるらしく、黒田節と命名されたのは福岡地方に伝わる複数の俗謡を一曲に整理した結果だったようだ。その一番に据えられた「酒は飲め飲め飲むならば~」ばかりが有名になり、そのイメージが全体を代表するようになっているが、「峰の嵐か松風か」は他ならぬ小督伝説の詞章であり、他にも『平家物語』月見の段に引かれている今様が歌詞に取り入れられていたりする。ここから窺い知れるのは、要するに「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」の詞章が独立した今様として切り出されていたということである。それが九州にも伝播して在地の俗謡化していったのだろう。

すこし話が脱線してしまったが、小督伝説は「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」の詞章によって広く知られるようになっていたのは確かだろう。オリジナルである『平家物語』の文章として親しまれていただけでなく、謡曲「小督」の中でも“謡われ”ていたはずだから、長唄や小唄といった謡い物にもそれ相応の影響を与えていたに違いない。そして謡い物がポピュラーな芸能・娯楽だった時代には、現代人が想像するよりずっと広い範囲で「峰の嵐か松風か」の詞章は口ずさまれたものと思われる。



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by office34 | 2013-10-14 23:46 | 京都本・京都ガイド
2013年 10月 13日
一般人歌碑@鴨川
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鴨川の東側河岸、「花の回廊」に設置された歌碑。「花の回廊」は正確には鴨川河川敷に整備されたプロムナードなのだが、歌碑のあるのは川端通に沿った箇所。河川敷のプロナード部分、花壇となっている部分、そこから一段高くなって川端通との境界になっている植え込み部分まで含めて「花の回廊」の名で呼ぶとすれば、これらも「『花の回廊』に設置された」といえるのだが、どうだろう。まあ、碑陰には「『花の回廊』竣工記念」とあるので、「花の回廊」に設置との意図があるんだろう。それはさておき、碑に刻まれているのは一般公募の中から選ばれた短歌らしい。三条大橋東詰(南側)のたもとにあるのはかねてより知っていたが、五条から七条へ下る間にもあったのは、今回初めて知った。そういえば四条大橋の阿国像の近くにも、草むらの中に何かあったような。
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by office34 | 2013-10-13 23:59 | 街角の風景
2013年 10月 12日
謡曲「小督」 ~大堰川の小督塚(4)
小督の局のエピソードは『平家物語』に準じて語られるのが普通だが、自ら大堰川に身を投げたとするような、平家諸本に見られない言い伝えも残っている。これは『平家物語』の小督伝説というよりは、小督の局のエピソードが一人歩きをしていろいろな尾ひれがついた結果のことだろう。

『平家物語』が描く悲劇のヒロインには、もう一人の有名どころで横笛がいる。その横笛の方は、『源平盛衰記』によれば、大堰川の千鳥ヶ淵に身を投げたことになっているので、そのあたりとの取り違えがいずれかの時点で起き、それが訂正されることなく語り伝えられたとも考えられなくない。しかし、そうした不確かな推測を並べるよりは、『平家物語』が伝えないバリエーションも存在する事実のみに注目し、小督伝説の裾野として見る方が面白いのではないだろうか。

そもそも小督の局のエピソードは、『平家物語』を除外するとすれば、どういう形で広まったのだろう。現代の時点でも確認可能なものを挙げるとすれば、謡曲「小督」がその第一である。『平家物語』に取材した曲には違いないが、小督のエピソードをどのような視点から切り取り、どのように表現したかをみるには大切な作品である。さほど長いわけでもないので、おっざぱにストーリーを紹介してみる。
■登場人物■
主役(シテ):源仲国
準主役(ツレ):小督の局
その他(ワキ,トモ):高倉帝の勅使、小督の侍女

〔前段〕舞台に登場した勅使が、小督の局が内裏を出奔したこと、帝が心を痛めて嘆いていること、小督を連れ戻すべく勅命が源仲国に出されたことなどを語る。舞台に源仲国が登場すると、勅使は、小督が嵯峨野にいるという噂が帝の耳にも届いているので探してくるようにとの勅命を伝える。仲国が探索の手がかりを尋ねると、方折り戸の住まいを探せとの旨。下賤の住まいは方折り戸が普通なのでそれでは目印にもならないが、今日は中秋の名月、小督ほどの琴の名手であればきっと月に誘われて奏でているに違いないから、その音色を探すことにしましょうと答え、仲国は嵯峨野へ馬を走らせる。
〔後段〕場面は小督の隠れ家。少しの間と思っていた仮住まいにも馴染んでしまい、世を儚む小督がせめてもの慰めにと琴をつま弾く。舞台の反対側に仲国が現れ、嵯峨野のここかしこを探しても琴の音は聞こえてこないことを語る。ところが場所を変えて法輪寺の近くにやってくると、“峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か”秋風に乗って聞こえてきたのは想夫恋の曲、仲国は確信して目の前の小家に声を掛ける。内にいる小督は、表の様子を見てくるよう侍女に言うと、門前払いで拒むのも体裁が悪いと考えた侍女が、庭の小さな扉だけを開ける。それを受け、宣旨を賜って源仲国が訪れた旨を告げ、さらにいかにその身を隠しても“袖の涙の玉琴の、調べは隠れなきものを”と迫ると、小督はかつて殿上での御遊の折りに自らの琴に仲国が横笛で合わせてくれたことを思い出す。続いて仲国が帝から手紙を預かっていると言って直筆の返事を求めると、いまだに思いを寄せてくれる帝の配慮にひたすら涙を流し、李夫人や楊貴妃の故事を引きながら自らの変わらぬ想いを告げる。小督の気持ちを知った仲国は任務を果たせたことを知り、一差しの舞を残して都へと帰っていく。
〔後段〕での、仲国と小督の応酬のところは修辞が連続する、いかにも謡曲らしい文章なので内容も捉えづらい。大意は間違ってはいないと思うが、厳密にはかなり危なっかしい気がする。ともあれ、小督伝説とでもいうべきものは、嵯峨野に小督が隠棲したといった事実関係の話ではなく、「峰の嵐か松風か、尋ねる人の琴の音か」の詞章に集約される、源仲国による小督発見にくだりといっていいだろう。月光-草むらで笛を奏でる仲国-家の中で琴をつま弾く小督、この組み合わせが錦絵でも定番モチーフになっていたことを考えても、近世には謡曲「小督」の影響力は本家である『平家物語』のそれを超えるものになっていたようにも思える。もっとも、謡曲「小督」の中でも、小督身投げ説は登場しないのだが。


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秋里籬島「都林泉名勝図会」(1799年)




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by office34 | 2013-10-12 23:54 | 京都本・京都ガイド
2013年 10月 11日
小督桜 ~大堰川の小督塚(3)
小督塚に関する芭蕉の記述の中で、現代のガイドブックと照合すれば相容れない箇所が一つある。それが「小督桜」である。「嵯峨日記」には「墓は三間屋の隣、薮の内にあり。しるしに桜を植ゑたり」とあり、小督塚の目印になるように桜の木が植えられていることになっている。

現代の小督塚はどうか。比較的立派な五輪塔が置かれていることをはじめ、瑞垣のような石の柵およびその外側をさらに鉄ゲートが守っているので、渡月橋北詰を西に進んで一つ目の辻を北に上がるその場所を外さない限り、見落としようもない。もとより周囲も刈り払われているので「藪の中」でもなければ、目印の桜が必要な場所でもない。芭蕉の時代から300年の星霜が経過しているわけだから、桜の一本ぐらい枯れて無くなったとしても不思議でもないのだが、この木には少しこだわる必要がある。というのはこの桜は、名のある木だからである。

芭蕉が「嵯峨日記」を書いたのとほぼ同じ時期に出版された案内記に「名所都鳥」(筆者不詳,元禄三年)という本がある。その記述を引いてみよう。
小督桜  葛野郡

天龍寺の西の林、三軒茶屋の東に有り。むかし小督の局は、高倉院の寵愛ありし女房なり。しかるに平相国清盛これをねたむ事ふかし。小督、つゐに宮中を出、此所に住むといへり。しかれども小督が住みし所は爰にあらず。大井川の西、法輪寺の東北、松林のある所なり。平家物語に記する、弾正の大弼仲国が尋ね来る所と符合する物なり。ある書に、此の桜は小督の局、大井川に身を投げし時、衣を此の枝にかけし桜なりと。小督の局の墓は東山清閑寺にあり。高倉院慕はせ給ふ。遺勅にまかせ、小督の局の塔のかたはらに陵をさだむ。
「名所都鳥」(新修京都叢書より、表記一部改)
「名木」の部立に、「小督桜」とのタイトルで出ている記述である。小督の局に関するアウトラインはよく知られているところと同じだが、細部をチェックすると、いろいろな形でちょっと待てよ……となってしまう。とりわけ、「ある書に、此の桜は小督の局、大井川に身を投げし時、衣を此の枝にかけし桜なりと」とする箇所は要チェックである。

桜の木に言及する芭蕉の記述に“身投げ説”が一言も出てこないのは、おそらく芭蕉は『平家物語』に直接あたっており、正確な内容を知っていたからだろう。それに対して「名所都鳥」が伝えるのは出所不明の俗説である。これは「名所都鳥」の筆者が勘違いしたというよりは、当時はそういう俗説も語られていたとみるべきだろう。「名所都鳥」より少し早い時期に出版されている「京羽二重」という案内記にも、この身投げ説は登場しているので、そうした形での説はかなり広く流布していたものかもしれない。ともあれ、芭蕉の時代には、一般には墓の所在を伝える桜の木「小督桜」によって昔が偲ばれていたようだ。ちなみに現代の「小督塚」は、小督の局が隠れていた家のあった場所という説明になっていて、お墓とはなっていない。

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少し引いて撮ってみた小督塚。前を通って見落とすことはあり得ない。




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by office34 | 2013-10-11 03:57 | 京都本・京都ガイド
2013年 10月 10日
芭蕉の見た小督塚 ~大堰川の小督塚(2)
小督塚シリーズの第1弾ということで、芭蕉の見た小督塚。
十九日 午半うまなかば、臨川寺に詣けいす。大井川、前に流れて、嵐山右に高く、松の尾里につゞけり。虚空蔵に詣まうづる人往きかひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷と云ふ有り。都すべて上下かみしもの嵯峨に三所みところ有り、いづれか慥たしかならむ。彼の仲国が駒をとめたる処とて、駒留こまとめの橋と云ふ此のあたりに侍れば、暫く是これによるべきにや。墓は三間屋さんげんやの隣、薮の内にあり。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも錦繍綾羅きんしうりようらの上に起き臥しして、終つひに藪中そうちうの塵ちりあくたとなれり。昭君村せうくんそんの柳、普女廟ふぢよべうの花の昔もおもひやらる。
うきふしや竹の子となる人の果
嵐山薮の茂りや風の筋
斜日しやじつに及んで落舎に帰る。凡兆京より来きたる。去来京に帰る。宵より臥す。
岩波文庫『芭蕉紀行文集』より(表記一部改)

元禄四年の四月から五月にかけての約ひと月、芭蕉は去来の落柿舎を借りて嵯峨野に逗留している。『嵯峨日記』と題された文章(日記)は、その滞在記である。ただし備忘録的な書き留めではなく、岩波文庫『芭蕉紀行文集』の解説でも触れられているように「文学作品としての意図のもとに書かれたもの」であるらしい。その四月十九日条に小督塚が登場している。

この日、芭蕉は臨川寺を訪れる。臨川寺は現在と場所は変わらないはずなので、描かれているのは渡月橋北詰をやや東に進んだあたりに立っての風景描写だろう。そうすると正面に大井川(大堰川)を置き、向かって右手に嵐山を眺めるところまでは普通にわかる。その後の「松の尾里につゞけり」というのは、嵐山の稜線が次第に高度をさげて松尾の方面へ続いているということでいいだろうか。視点が右へいったり、左へいったりしているので、あれ?と思わないでもないが、嵐山と虚空蔵(法輪寺)と松尾の位置関係を考えればそう理解するしかあるまい。あるいは、法輪寺も松尾の一部であると芭蕉が考えていたのだと仮定すれば、中之島から渡月橋南詰一帯も含めて嵐山のピークから東側が松尾になるので、いくぶんかは理解しやすくなる。

小督の局に筆が及ぶのはそのあとのことで、芭蕉の文章に従えば、当時は「小督屋敷」と呼ばれた旧跡が嵯峨界隈に三カ所あったようだ。そのうち「松尾の竹の中」あるのが最寄りの小督屋敷らしい。ここで現在の小督塚との関係が問われそうだ。松尾の里は芭蕉のいる臨川寺付近から見て、川向こうの東にあたる。現在の小督塚は渡月橋北詰の西側なので「嵯峨日記」にいう小督屋敷は現在の小督塚とは別の場所と見るべきだろう。ただし、その後に登場する「墓」は、まさしく現在の小督塚である。「三間屋」(三軒家)というのは、界隈で古くから営業されていた茶屋で、その場所は現在の京都吉兆や嵐山弁慶のあるあたりになるからである。

さて、いま一度、この日の足跡を整理してみよう。まず渡月橋北詰東側の臨川寺に参詣しているのは動かない。そのあとに「松尾の竹の中」にある「小督屋敷」への言及があるのだが、これは実際に訪れているかどうかは定かではない。続く「墓」に比べると、叙述があまりにも素っ気ないからである。むしろ、東の方を遠望してあのあたりに小督屋敷があるんだろうなと想像してみただけなのかもしれない。そして、実際に足を伸ばしたのが、現在の小督塚の場所であると考えておきたい。

この十九日条のメーンテーマ、それはわれわれがいうところの小督塚にあると言っていい。さほど長い文章ではないのだが、それでも後半がずっと小督の局に関する記述になっている以上、目の前の小督塚に触発されて、さまざまに思いを巡らせたとみていいのではないか。それでは、その思いとはどのようなものだったのか。ここで、現在の視点との不一致が浮かんでくるように思う。というのは、小督の局に関するイマ風の説明は平清盛に疎まれてといった要素が大きく取り上げられているように思えるからである。位人臣を極めた清盛の横暴、それを物語るエピソードとして薄幸の美女・小督の局が呼び出されているように思えるのである。それに対して芭蕉の文章では、高倉天皇の寵愛を受けた立場から嵯峨への隠棲を強いられる運命の激変に主眼があるようだ。「かしこくも錦繍綾羅の上に起き臥しして、終に藪中の塵あくたとなれり」の一節は、そうした転変をいうものである。また「昭君村の柳、普女廟(巫女廟)の花」というのも、美女の形容としてシンボリックに語られるフレーズであることを踏まえれば、いにしえの美女がこの粗末な石塔の下に眠っていると思うと運命の儚さを感ぜずにはいられないといったあたりに感慨が収束しているといえそうだ。
うきふしや竹の子となる人の果
の句は、掛詞や縁語など和歌の修辞法を駆使しているところが指摘されがちだが、そうしたところより「人の果て」という言葉に重みを感じてしまうのは気のせいだろうか。




プロローグ / 芭蕉の見た小督塚 / 小督桜/ 謡曲「小督」 / 峰の嵐か松風か
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by office34 | 2013-10-10 02:02 | 京都本・京都ガイド
2013年 10月 09日
プロローグ ~大堰川の小督塚(1)
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小督塚について書いてみる。というか、『太平記』巻十二や大雲院・豐烈曜後之碑などが宿題になっているわけだが、そこからわざと目をそらすための措置といった方がよさそうだ。両方とも行き当たりばったりでは厄介そうなのでそれ相応に調べる必要がある、そこでまずは少し息を整えてといったところか。とはいえ、このところタダでさえ間延び気味なので、埋め草が必要なのも事実。そこで登場を願ったのが嵐山の小督塚である。

嵐山は大堰川左岸にあるかの供養塔は有名なクチに入るはず。したがって概要だけなら大概のガイドブックにも載っているし、このブログでも以前に触れたことがある(小督タグ)。今回、それを改めて持ち出すのは、そんな小督塚が従来はどういう紹介のされ方だったのかといったあたりに興味が向いたからである。そういうモニュメントが存在している事実は有名でも、それをどう紹介するかといったところには、紹介する人のカラーが反映するのは当然で、その違いに興味が向いたというわけである。

似たような事例としてあるのは、金閣寺を紹介できるかという問題だろう。概要をペラっと触れたものも含めると、金閣寺関連の記述はごまんとあるのだが、それぞれを厳密に比べてみると透けて見えてくるものが違う。大佛次郎の描く金閣寺、三島の金閣に水上の金閣……それぞれの目に映っていたものを探るのは、対象自体が有名かどうかというのとは次元の異なる問題だろう。小督塚についても、モニュメントが有名なだけに、あるいは似たようなアプローチが可能になるに違いない。

というわけでまずはたたき台となる標準的なものから。登場するのは現代の記述のひな形、竹村俊則『新撰京都名所図会』である。
小督塚は渡月橋より亀山公園に至るあいだの左岸にある。椋の老木のもとに小さな五輪石塔を置いて、しるしとする。小督局は平安末期の宮廷女性で、権中納言成範の女ともいい、また藤原信西の女とも伝える。宮廷に入って高倉天皇の寵を得たが、中宮建礼門院の実父平清盛に睨まれ、嵯峨野に身を隠した。よって北面の武士、弾正少弼仲国は天皇の命をうけて彼女の行方を求めて渡月橋のほとりまでたずねてきたところ、かすかにきこえる琴の音によって彼女をさがし出したという。これは古典平家にしるされている有名な一節であるが、これに因んで後世好事家がここを小督局の隠栖地と為し、墓をつくったものであろう。元禄年中、去来の落柿舎に杖をとどめた俳聖芭蕉は、ここを訪ねて
  うきふしや竹の子となる人の果
と一句をものしている。なお渡月橋の北詰近くに琴聞橋(駒止橋)というのがあり、また琴きき団子をうる茶店まである。
『新撰京都名所図会2』(竹村俊則、白川書院、昭和34年)

比較的長文で多くの情報が詰め込まれているが、(1)小督の局のプロフィールを述べ、(2)彼女の供養塔が存在しているという事実に触れ、(3)関連する歴史的な事跡を紹介するといったあたりが基本的な枠組みのようだ。

ざっと確認すれば、小督局のプロフィールはこんなもんだろう。出典も「古典平家」(ラフに『平家物語』のことと考えてOKか)と記されているので問題はない。「藤原信西の女とも伝える」とあるのは、情報の出所がどこか気にならないわけではないが、些細なことだろう。あえて何かを添えるとすれば、小督局のエピソードが広まったのは、『平家物語』の享受からダイレクトに導かれているというよりは、エピソードの一人歩きの結果ではないか、といったあたりである。『平家物語』が広く読まれたことが前提になるにせよ、小督の物語とでもいうべき形で能楽に取り込まれたり、絵画の題材にされたり、あるいは今様に歌われたりの形で広まったのが、直接の原因とみるべきと思う。いわゆる二次生産による影響が大きいと思われるのである。このあたりの事情は要検証のことがらだが、スピンオフ的なものがたくさんあるのは事実である。

モニュメント自体、つまりかの五輪塔についてはどうか。『新撰図絵』では詳細には述べられていないが、建立者不明ながら江戸時代には建てられていたとなっている。江戸初期の案内記にすでに記述が見られるので、そのあたりまで遡らせることはできるだろう。また(3)の関連する事跡で芭蕉の俳句が紹介されているが、「嵯峨日記」に該当する句があるものの、それら以外には詳しくわからないのであれば、昭和の視点として「後世好事家がここを小督局の隠栖地と為し、墓をつくったものであろう」いう形で十分だろう。現在、われわれが見ることのできる五輪塔が、不自然に新しいことについては重要な検討課題だが、江戸時代にはすでになにがしかのモニュメントが置かれていたのは確かである。

以上、要するに大枠についてはさほど問題にするところはないのだが、この記述を念頭において、江戸時代の旅行記や案内記を眺めると、いくつかおもしろい点が浮かび上がる。微妙に毛色の違う視点が、かつては存在していたようなのである。そんな観点から、次回以降、いくつかの資料を紹介してみたい。




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by office34 | 2013-10-09 14:45 | 京都本・京都ガイド