Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 11月 28日
建築様式とキッチュ ~キッチュ愛(7)
東山の祇園閣に関連して「俗臭」という言葉を用い、「キッチュ」という言葉へ発展させたばかりに、言葉の本義を確認せねばならなくなった。それでしばらくグリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」にこだわってきたわけだが、あいにくグリーンバーグの時代とは社会環境が大きく変わっており、いま現在使われているキッチュという言葉の説明には馴染まない。キッチュという言葉を用いてグリーンバーグがアプローチを試みたのは、大衆文化が急速な成長をみせた1920年代のアメリカ社会あるいはヒットラーやスターリンの台頭を招いた1930年代のヨーロッパ社会である。言葉自体は、特定のニュアンスを帯びて現代にも生き残ってはいるが、グリーンバーグの使い方とは意味するところも変わってしまっている。それでもグリーンバーグのキッチュ論は文化の大勢に関する世界史的な視点を提供しているのは確かであり、現代的なニュアンスでいうところのキッチュを棚上げにすれば、1928年(昭和3年)に建造された祇園閣の性格を照らし出す手がかりになる。

こうした視点は、もちろんのことながら、当初から思い描いていたものではない。当初の見込みは、祇園閣の見てくれが金満趣味全開で俗っぽいものだから、キッチュという言葉から切り込めるのではないかというものだった。ひと月ほど前までは、キッチュ=ケバケバしくてチープなものという理解だったから、そんな見取り図を描いていたわけだが、それは見込み違いだった。しかしキッチュという言葉が文化現象全般で使われるだけでなく、とりわけ建築の分野で取り沙汰されることが多く、なおかつ日本における1920年代後半からの時代的特異性とも結びつきやすそうなので、想定外の形とはいえ祇園閣へ帰ってくることとなった。

具体的に見ていこう。建築におけるキッチュ志向は、グリーンバーグの文章にも見られる。第四節でムッソリーニがモダニズム建築を信奉しているかのように装いつつ、いつの間にか「新帝国様式」を主張するようになったのを、
(当初モダニズムを推奨していたのは)多分、ファシズムは仕えている裕福なエリート層の趣味に従いたかったのであろう。とにかくムッソリーニは、後日その支配者の文化的趣味よりもイタリア大衆のそれを満たすほうが自分に役に立つであろうと気づいたようである。大衆には、賞賛と驚異の対象をあてがわなければならない。支配者層は、そういうものはなしで済ますことができる。だから、いつの間にかムッソリーニは「新帝国様式」を表明するのである。
藤枝晃雄・編訳『グリーンバーグ批評選集』より
と説明する。ここでいう「新帝国様式(new Imperial style)」は、専門家の間で普通の使われている建築史の術語なのかどうか、詳しくは知らない。しかしナチスが主導した「第三帝国様式」のイタリア版とみておいて間違いあるまい。「第三帝国様式」に関しては、井上章一氏『戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク』(朝日選書、1995年、朝日新聞社)には「ナチス・ドイツがさかんに宣伝させた建築様式」との説明がある。そしてナチス政権下でのドイツでは「ナチス体制によりドイツの国家は生まれ変わる。世界に冠たる大帝国へと変貌する。このイメージを内外の人々に植え付けようとして、建築によるプロパガンダを断行した」とのことであるが、その際に採用された様式のことのようである。さらに詳細については「クラシック建築からディテールを削ぎ落とし、その骨格を前面に押し出した様式、いわゆる新古典主義に属する様式」ともされているのだが、要するに威圧的な荘厳さを演出した建築様式のことと解釈しておけばいいだろう。

見る者を圧するごとくの建築物を用いてプロパガンダを行うのは、教養のない大衆はビジュアル的に壮大なものに靡きやすいとの認識があってのことであり、グリーンバーグがくり返し指摘する構図とも合致する。またキッチュの話を始める最初のところで紹介した『文芸用語の基礎知識(88五訂)増補版』の記述「【発展】これが次第に、ナチ時代の醜悪な新古典主義的な建築様式で、しかも大衆の感動を糾合しうるような、コケオドシの美に対しても用いられるようになった」(参考)は、まさにこの点を念頭においてのことである。

さて、世界史的にも見いだしうるこうした見てくれの派手さを現出せしめたのが、キッチュに向かう大衆嗜好だったとするならば、昭和初期の日本はどんな状況にあったのだろう。この点が『戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク』で井上章一氏が分析を加えた問題であり、同時に当方の課題である祇園閣に直結する事柄である。

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花灯路でライトアップされた祇園閣(2008年)






【キッチュ愛】
祇園閣とキッチュ / 俗悪・バッタもん・キッチュ / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(1) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(2) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(3) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(4) / 建築様式とキッチュ / 京都の近代建築 / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(1) / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(2) / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(3) / キッチュの大衆親和性 / 祇園閣のキッチュ性 / 祇園閣から京都タワーへ / 京都タワー擁護論 / 本物でないということ / 時代祭、大いなる仮装行列 / 祇園閣・京都タワー・時代祭

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by office34 | 2013-11-28 06:21 | 街角の風景
2013年 11月 27日
とある京都タワー
こういったアングルも、まあ悪くはない。
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別に深い意味があるわけではないが・・・・
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by office34 | 2013-11-27 00:40 | 街角の風景
2013年 11月 22日
"AVANT-GARDE AND KITSCH"(4) ~キッチュ愛(6)
「アヴァンギャルドとキッチュ」の最終節では、キッチュと階層の関係をより鮮明に、かつより政治的に論じることになる。キッチュが大きな存在感を示す社会にはしかるべき政治的な意図があるとの主張のようだが、時代分析の適否とは別に、この文章自体にも政治的な意図を感じざるを得ない。そしてすでに何度もくり返しているが、このエッセイは20世紀の前半の社会が念頭におかれているので、「キッチュ」をはじめ、ここでの用語をそのまま現代に適用するには無理がある。真正の文化(genuine culture)を保持するのは上流階級であり、底辺はそのバッタもんであるキッチュを求めるという構図は現代の状況とは相容れないし、仮に現代に視線を向けるのであれば、あらゆる事象が物神化されている状況で真正や偽物が存在するのかどうかといったあたりからの議論になるはずである。

〓〓〓〓C・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(当方なりの要約)〓〓〓〓
社会の下層にいる人々は、真正の文化およびその延長線上にあるアヴァンギャルドではなくキッチュを選ぶ。日々の労働の上に努力を重ねて真正の文化やアヴァンギャルドを味わうより楽だからである。彼らは生まれ持った衝動で上位文化に向かうことはないので、大衆のための芸術が議論されるとすれば、それは審美的な議論ではない。なにがしかの扇動(デマゴーグ)なのである。ドイツ、イタリア、ロシアで行われている文化政策は国民扇動の要素が強い。そうした国家でキッチュが文化の主流をなし、そしてそれを国家が推奨しているのなら、キッチュこそが大衆文化であり、国民の大多数を占める底辺層に全体主義の政府が迎合しようとしているのである。そこでは大衆の文化レベルを向上させることはできないから、文化の水準を大衆レベルまで引き下げる。スターリンがロシア革命の孤立化を受け入れ、ヒットラーが資本主義の矛盾を克服せんとした時、彼らは国家を一つにまとめあげることが求められた(*)。そこで利用したのが大衆を引きつけるキッチュであり、スターリンやヒットラーが俗物だったのでキッチュが普及したわけではない。(以上、第4節)
(*)原文は「What the acceptance of the isolation of the Russian Revolution forces Stalin to do, Hitler is compelled to do by his acceptance of the contradictions of capitalism and his efforts to freeze them.」で、「国家を一つにまとめあげること」とはっきり書かれているわけではない。






【キッチュ愛】
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by office34 | 2013-11-22 02:59
2013年 11月 19日
"AVANT-GARDE AND KITSCH"(3) ~キッチュ愛(5)
グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」、その第3節。節の書き出しでアヴァンギャルドとキッチュの違いが明示的に書かれるので、この節を通してそうした内容が詳述されるかと考えたのだが、丁寧に読んでみるとそういうわけではなさそうだ。むしろ文化現象としてのキッチュが普及する前提みたいなもの、というか歴史的な過程を説いているように読める。結果、文脈が分かりづらくなってしまうわけだが、20世紀になってそれまで上位者に盲従していた市民階級がさまざまに発言力を強めていったことが、文化にも新局面を開いたということを言わんとしているのだろう。そして、そうした主旨である以上、この節でも社会的階層をめぐる発言が目立つこととなり、現代社会、とりわけ日本の状況をいう概念に「アヴァンギャルド」や「キッチュ」なるものを使うのであれば、グリーンバーグの説くところからは大きく離れねばならない。


〓〓〓〓C・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(当方なりの要約)〓〓〓〓
アヴァンギャルドが先行する芸術に秘められている創造の過程を倣うのに対し、キッチュは結果のみを模倣する。この過程と結果の違いは、アヴァンギャルドとキッチュの隔たりを説明すべく取って付けられたものではなく、それぞれの本質に関わる定義でもある。それと同時に支配階級と被支配階級の隔たりでもある。社会の枠組みがしっかりしていて階層間の対立が目立たない時代なら、支配者階級の価値観は被支配者階級にも共有されていた、冷静な眼差しで信奉するのと盲目的に従うのとの違いはあるにせよ、である。中世、写実に長けた職人が芸術家たり得たのは作品の主題があらかじめ定められていたからである。しかし神話世界や宗教物語を絵画や造形といった形で再現するだけでは社会の直面する現実には追いつけない。芸術が写し取る現実と大衆にとっての現実が一致しなくなると、芸術とはお高いものと言ってどこかへ棚上げされるようになる。そうした段階ではじめて、既存の芸術から大衆の意識は解き放たれるのである。さらに芸術の属する階層すなわち支配者階級が強いてきた秩序への不満があらわになるに従い、文化批判の発言が方々で行われるようになる。かのオーストリアの絵描きもまたそうした一人なのである。社会に対する不満が反動的な色合いを帯び、復古主義、ピューリタニズム、ファシズムといった形をとるところでは、往々にして文化もやり玉に挙げられる(*)。そこでは新旧はないがしろにされ、敬神だの血の純潔だのいったわかりやすいスローガンが掲げられ、既存の価値観という偶像が破壊されていく。
(以上、第3節)
(*)文意不明。原文は「Most often this resentment towards culture is to be found where the dissatisfaction with society is a reactionary dissatisfaction which expresses itself in revivalism and puritanism, and latest of all, in fascism.」






【キッチュ愛】
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by office34 | 2013-11-19 13:53
2013年 11月 18日
天龍寺の達磨様
天龍寺のグッズコーナーで買ってみた。

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天龍寺の拝観コース、その第一歩のところで出迎えてくれる達磨様の図柄である。非常にインパクトがあって天龍寺のシンボル的なイメージにもなるわけだが、いかんせん、写真で撮ることは難しい。撮影禁止とかの事情があるのではなく、ガラス張りの展示となっているため、ベストアングルである真っ正面に立とうものなら撮影者の姿がみごとに映り込んでしまうのである。一眼で偏光フィルターを使うなどすれば対処可能なのかもしれないが(*)、コンデジ族にしてみれば、自らの姿が入らないアングルを選ぶしかない。そうなると必然的に斜め横からの撮影しかできないという仕儀。
(*)ガラス面に正対した結果、映り込んだ撮影者の姿を消すのは偏光フィルターでもできないらしい。(参考)

それならいっそのこと買っちゃえということでこのミニクリアファイルを購入、そしてそれをスキャンしたのが上の画像である。

ちなみに原画がアートであり「真正の文化(genuine culture)」だとすれば、その見てくれを写し取っただけのクリアファイルはキッチュということになる。
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by office34 | 2013-11-18 20:07 | 変なモン
2013年 11月 12日
岡崎あたりの紅葉
気がつくと、疏水べりはそれなりの色合いになってきているようだ。個人的には慶流橋からの眺めが気に入っていたりするので、それを貼ってみる。あと、オマケで神宮道の銀杏と三条通のハナミズキ。

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今回もキッチュはお休み・・・第三節はアヴァンギャルドとキッチュの関係みたいな話になっていて、面白いのだが少し充電が必要になるかも。
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by office34 | 2013-11-12 18:55 | 街角の風景
2013年 11月 10日
"AVANT-GARDE AND KITSCH"(2) ~キッチュ愛(4)
京都の話とはかけ離れてしまうことを承知のうえで、グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」を取り上げているわけだが、そもそもの課題である、キッチュとは何かということについては、このエッセイの第2節が核心に迫っているようだ。第1節はおもにアヴァンギャルドと呼ばれた芸術活動についてのダイレクトな記述だったのに対し、第2節ではアヴァンギャルドの意味を裏側から照射する意図なのか、キッチュを集中的に論じているからである。当方の持っていた当初の理解は、俗っぽくてムダにケバケバしいものをいうといった次元だった。まったくの厳密性を欠いた、それこそ言葉の上っ面だけを借りたキッチュな解釈といったところである。

グリーンバーグが説くところは、もちろん、そういったルーズなレベルではない。結論からいえば近代社会が生み出した工業製品のすべてがキッチュとの括りで捉えられそうだ。代表的な事例で挙げられている事象に、グラビア雑誌の表紙やコマーシャルアートなどがあるものだから、見た目に刺激的なケバケバしさがキッチュの特徴として語られ、その部分だけが一人歩きをしているのが、いわゆる世俗的なキッチュ観ではないだろうか。

なおキッチュを説くグリーンバーグの眼差しは、社会的階層や教養の有無といった点に多くが注がれている。前近代の話であれば、確かに強力なパトロンがいたからこそ文化や芸術が花開いた。そして19世紀から20世紀にかけて、社会の枠組みに大きな変動が起きたことに伴って、文化や芸術にも新しい動きが見られるようになったのも事実である。しかし、そんな視点だけで20世紀後半から現代の状況を語ることはできない。前回の記事で、「アヴァンギャルドとキッチュ」を読むに当たっては時代性と切り離すことができないと書いたのも、このエッセイの内容を無条件に現代に引きつけることができないからである。アヴァンギャルドに関する部分についてはまだしも、キッチュの話になるとおかしな誤解も生みかねない。ともあれ、短くまとめるのは難しかったのだが、キッチュ論の核心ともいえる第2節を、当方なりの理解で要約してみた。

〓〓〓〓C・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(当方なりの要約)〓〓〓〓
アヴァンギャルドの登場とともに、近代の文化現象で大きな意味をもつのがキッチュの出現である。このドイツ語が指し示すものは、大衆に向けられたコマーシャリズムであり、具体的にはカラー図版や漫画、ドタバタ劇や映画などである(*)。これらは産業革命がもたらしたものといえる。農村で培われていた民衆文化とは異なる、真正の文化(genuine culture)は、かつては教養と時間的余裕を持ち合わせていた階層に属していた。ところが産業革命の進展が新興都市を生み、大衆と呼ばれる新興の市民階層を作り出すと、彼らは自分たちが培った民衆文化ではない、都市の伝統文化つまり真正の文化を娯楽で求めるようになる。そうした需要に応えるべく考案されたのが真正の文化を低質化させて形を模しただけの商品(**)、すなわちキッチュである。その意味では、キッチュは偽物であり、ジャンルによって見栄えが変わってもバッタもん(simulacra)ぶりは共通しており、ひたすらに商品価値のみを追求する。
(*)原文は「popular, commercial art and literature with their chromeotypes, magazine covers, illustrations, ads, slick and pulp fiction, comics, Tin Pan Alley music, tap dancing, Hollywood movies, etc., etc.」となっており、訳文は「大衆的な、商業芸術と着色活版図を掲載した文学、雑誌の表紙、挿絵、広告、てかてかした低俗な読み物、漫画、大衆音楽、タップダンス、ハリウッド映画等々」。一つひとつの具体例を時代性から切り離して考えると誤解を招く。あくまでも1920年代から30年代のアメリカ社会で、これらに与えられていた位置づけを念頭に置かねばならない。
(**)キッチュの特性をダイレクトに記した箇所。原文は「the debased and academicized simulacra of genuine culture.」ここでいう"academicized"の意味は判然としてない。日本語に置き換える場合、少なくともアカデミズムは不可で、原語そのままのアカデミシズムとするのが限界。アヴァンギャルドの説明で、創作性を欠いて旧芸術を無批判に踏襲するだけの態度(アレクサンドリアニズム)が批判されていたが、"academicized"は、上っ面の知識や小手先の技術を形式的に借りるという意味で、それと響き合う見方なのかも知れない。

伝統の蓄積がある文化を、誰でもお手軽に扱えるようにするのもキッチュがキッチュたる所以であるし、伝統文化のもつ豊穣さからいいとこ取りをするのもキッチュの特徴である。そしてキッチュの本領をみるのは経済活動を通してのことなのだが、量産されつつ常に販路の拡大を宿命づけられているので、真正の文化を求める者に対しても手を替え品を替え、その心にすり寄ってくる。アヴァンギャルドの芸術家や作家にもキッチュとの共存を図る者が出てくるのは、そのためである。今ではキッチュは世界のあらゆる地域、あらゆる階層に広まり、普遍文化(a universal culture)となっている。しかし西洋であれソ連であれ、教育を歪める国策によって強要されているわけではない。キッチュのもつ分かりやすさが多くの支持を得ているのである。享受する側にとって消化しやすく、鑑賞に伴う努力を要さず、それでいて芸術への近道を提供してくれる、それがキッチュなのである。(以上、第2節)





【キッチュ愛】
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by office34 | 2013-11-10 23:26
2013年 11月 08日
駅ビルに映る京都タワー 付・アクアファンタジー
“キッチュ”ネタはちょっとお休みしておいて、今日は繋ぎのコネタ……

JRの京都駅ビルは、その鏡張りの外壁に京都タワーが映り込むように設計されているとか。しかし、厳密にはタワーの全景がきちんと見えるわけではなく、場所によっては上部の展望室の部分だけだったり、逆に展望室を欠いた首の部分だけだったりと、どうも煮え切らない。もちろん、タワーを映すことを何よりも優先させたわけではないのだから致し方なのだが、あちらこちら歩き回って探してみると、どこかに全景がきちんと映り込んだ景観を楽しめるスポットがあったりするのだろうか。

で、京都タワーといえば、アクアファンタジーとの組み合わせを狙う習慣が付いてしまっているわけだが、駅ビルに映り込んだタワーとの組み合わせはどんな具合だろう。

ということで、試しの2~3枚

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手ぶれを防ぐべくセルフタイマーで狙ったら、タイミングが狂ったパターン

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噴水とうまくシンクロできても展望室がないと、まったく物足りない

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せめて展望室ぐらいはと考えて場所を変えると、今度は噴水とのコラボが……

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やっぱりオーソドックスにこのパターンかな

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by office34 | 2013-11-08 02:07 | 街角の風景
2013年 11月 07日
"AVANT-GARDE AND KITSCH"(1) ~キッチュ愛(3)
キッチュという言葉とまじめに向き合うのであれば、まずはこの言葉を社会現象の分析に用いた最初のものをチェックした方がよさそうだ。C・グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」(*)という評論である。しかしながら、まじめに向き合えば向き合うほど、当初のとっかかりのルーズさも際立ってくる。定義も曖昧なまま、キッチュという言葉を引っ張り出したものだから、いくら頑張っても京都の話題に戻れなくなるのである。それは致し方ないこと、牽強付会でもなんでもいいから、いずれ京都クルーズらしい話題に引きつけてやるとの算段を練りつつ、腹をくくってキッチュの話を続けることにする。
*AVANT-GARDE AND KITSCH, CLEMENT GREENBERG 邦訳は『グリーンバーグ批評選集』所収(藤枝晃雄氏訳,2005,勁草書房)

C・グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」。これは1939年のアメリカで発表された文章なので当時の社会情勢を意識しながら読まねばならない。また“キッチュ”という言葉はもちろん、全体のテーマであり、キッチュの対立概念にあたる“アヴァンギャルド”についても、現代の日本語で使われているところとはイメージがズレる。「チェックする」と気安く言っても、実は一筋縄には行かない……とご託を並べたところで一歩も進まないので、ぼちぼちと始めることにしよう。

何が難しいのかというと、グリーンバーグの世界観が現代とまったく違っている点だろう。19世紀から20世紀への変わり目のあたりから見られるようになり、二度の世界大戦の時代には十分な存在感を示すようになった“アヴァンギャルド”と呼ばれる芸術活動がある。そして、その対立軸のような形で大衆文化ともいうべき“キッチュ”が生み出された。“アヴァンギャルド”は「前衛」と訳されて現代の日本語にもなっているが、標準的に使われるニュアンスは、ネジの一つ二つぶっ飛んだ、自己満足的な創作行動といったあたりではないだろうか。これは、言うまでもなくグリーンバーグの描くところとは重ならない。重ならないどころか、全く異なっている。加えてグリーンバーグの描く本来の“アヴァンギャルド”は、極めて政治的な色合いを持っている。こうしたあたりが話をややこしくする理由である。

そもそもグリーンバーグの文章は美術評論というよりは歴史評論である。歴史的な文脈に当てはめて芸術なるものを論じる以上、階級や社会的階層という問題とは切り離せない。何よりも社会の構造が大きく変わる時に芸術の分野でも目覚ましい運動が起きているのは事実だからである。したがって“アヴァンギャルド”や“キッチュ”を語源的なところで触るだけでは、その意味するところは見えてこない。しかし、だからと言って、階級闘争がどうたらこうたらの話や、資本主義社会が成熟に向かう過程で露わになってきた社会矛盾がなんたらかんたらといった問題にどっぷり浸るわけにもいかない。それらは知識で知ることはできても、実感レベルで感得するのは容易ではないからである。別な言い方をするとすれば、半端な聞きかじりを振りかざそうものなら、全共闘時代が終わって以後の学生運動がそうなったように、たちまちにして現実から乖離した神学論争に陥ってしまうということである。元来の“アヴァンギャルド”には、すでに歴史事象たる刻印が押されており、オリジナルの言葉自体は凍結保存されているようだ。それに比べると“キッチュ”の方は、大枠の解釈を変えながら裾野を広げている。それは、グリーンバーグの意図とは関係なく、“キッチュ”の方が消費社会の主役に相応しいとの認識が強くなったからなのかも知れない。

だらだらと前振りばかりを引き延ばしているわけだが「アヴァンギャルドとキッチュ」の本文の方にも当たっておこう。とはいえ、訳文はかなり難解である。むしろ原文を横に置いて読んだ方が理解が進みそうだ。ということで、作業の中間報告を兼ねて。


〓〓〓〓C・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(当方なりの要約)〓〓〓〓
ある社会がその必然性に陰りを来し始めると、そこでの文化は古い価値観を無批判に受け入れるか、社会批評や歴史批評の形をとりながら新しい創作活動を求めるかの二つの動きに分かれる。19世紀後半の西欧ブルジョワ社会に見られた情勢がそれで、アヴァンギャルドの誕生を説明する背景でもある。

ボヘミアンと呼ばれた世紀末の若手芸術家たちは、最初から政治的な活動を行っていたわけではなかったが、それでも革命思想に近づくことで「我々は××ではない」という形でのアイデンティティをもつに至った。ところが、そうした形で社会に対して一線を画すると、ボヘミアン(初期アヴァンギャルドの担い手たち)は、ブルジョワ思想のみならず革命思想をも拒否するようになった。イデオロギーとは関係なく文化を推し進めることがアヴァンギャルドの役割だったからである。そこでは表現の純粋性が求められ、芸術という形式であってもなにがしかの目的に与する主題や内容は忌み嫌われた。手の加わることのない自然がそれ自体で意味を持つのと同じように、アヴァンギャルドが目指したのは、何かに付随して意味付けされるものではなく、それ自体で価値をもつものの創造であった。「抽象」や「非具象」に向かったのもそのためであり、比喩的にいえば神を模倣しようとしたのであった。とはいえ、いくら純度を高めたところで絶対である神たり得ることは不可能である。そこで芸術や文学を創造するための修練および過程(*)が重視されることになる。(以上、第一節のみ)
(*)原文は「the disciplines and processes of art and literature themselves」。ここで用いられているdisciplinesの意味はわかりづらい。邦訳版では「規律」となっているが、教義に忠実に従うあり方やそれを実践することといったニュアンスかと思う。「教義」はあくまでも比喩であり、芸術と認められる価値体系、すなわち芸術かくあるべしという考え方のことだろう。






【キッチュ愛】
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by office34 | 2013-11-07 01:33
2013年 11月 02日
俗悪・バッタもん・キッチュ ~キッチュ愛(2)
深く考えずにキッチュという言葉を持ち出したものの、掘り下げてみると底が見えないくらいに深そうな気配がしている。原義で示されているケバケバしい俗悪趣味をいうまではいいが、その先の広がりが多岐にわたり、落としどころが見えてこない。
キッチュという言葉は、品物の形をさす場合もあれば、人間と物との関係を意味する場合もあって、必ずしも定義しやすい概念ではない。しかしキッチュは、ブルジョア社会のどんな地域、どんな文化にも生じる普遍的な現象であり、繁栄する社会でしだいに主役にのし上がってきた凡庸な人間の美的態度、生活術と結びついている。真正な芸術を俗化する点では反芸術に近く、無償的である点では現実よりも芸術に近い。キッチュは、文学、美術、建築、音楽など広範な領域にひろがるが、いわば陳腐な画一主義と創造的な作品の中間に位置するといえよう。したがって、驚異や奇矯さもひとつの特徴として含むが、さりとてそれによって現状を乗り越えていこうとする態度をもつわけではない。
『世界百科大事典』(項目執筆:多木浩二氏)
全文引き写すとたいへんなことになるので、とりあえず中核になりそうな部分だけを引いてみた。この難解な解説を是とするか非とするかはともかく、押さえねばならないポイントは消費社会や大衆文化を読み解く概念ということだろう。そして「真正な芸術」と対置される価値というのも大切だろうか。あるいは「驚異や奇矯さもひとつの特徴」というところもチェックした方がいいかも知れない。

「必ずしも定義しやすい概念ではない」とあるように、めぼしいポイントをピックアップしたところで、それらを満たして初めてキッチュに該当するといった方向にもっていくことはできない。当方の理解が大雑把すぎるのだろうか、複製のきかない1点モノでありながら、従来的な芸術の範疇に収まらない奇矯さで目を引くようであれば十分にキッチュの文脈で検討せねばならないからである。あるいは北野天神絵巻や風神雷神屏風画であってもオリジナルに対するレプリカの方に着目するならキッチュの要素を見なければならないはずである。

ともあれ、定義自体が途方も無く難しいのは確かである。しかし、これなら完全無欠のキッチュになるだろうというものを具体的に取り上げておき、そこから微妙に揺れの幅を広げていけば、いくらかはイメージも固まったくるだろう。

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まずはこれから。某大型店の免税コーナーで見かけたもの。あざといくらいに「日本らしさ」をアピールする飾り皿etc。他にも新京極の土産物屋に並んでいる金銀の糸で竜虎図を刺繍した掛け軸とか、その類いを挙げるのもいいだろう。これらはいうまでもなく工場で量産されるチープな商品である。“ザ・バッタもん”を示すに当たっては、こういったところから始めておけば、たぶん異論はないだろう。

このように、俗悪さを前面に押し出してキッチュを否定的なところから捉えようとすれば“ザ・バッタもん”がちょうどいいサンプルになるのだが、それではこの手の飾り皿に描かれている絵が、横尾忠則やアンディ・ウォーホール原画だとすればどうだろう。オリジナルで描いているわけではなくプリントものである。ケバケバしい色彩を使っている点では“ザ・バッタもん”に引けは取らないし、量産品という点でもキッチュの特徴は備えている。しかし、いわゆる“ザ・バッタもん”の飾り皿とは、微妙に違う扱いを受けるのではないか。あるいは横尾忠則やアンディ・ウォーホール「風」の原画だったらどうなるか。原画を描いたのは、実際のところ、どこの誰だか知らない絵師である。二束三文の手間賃との交換で、巨匠のタッチを模してはいてもパクリにはならないレベルの図柄を描いて云々。評価の確立している巨匠であればアートであり、そうでなければキッチュとするのだろうか。それなら、無名の絵師が秀逸な出来映えの絵を描いたとしたら……。横尾忠則にしても、ウォーホールにしても、それなりの習作時代があったはずだから、有名かどうかは本質的には関係ない(そうしたところでしか区別ができないのだとすれば、消費社会の病理を別な意味で指摘できるだろう)。こうしたケースを考え始めると、キッチュを否定概念で捉えるのであれば、アートとの線引きが困難になるのは火を見るより明らかである。キッチュの範疇に入るものでも、一概に否定ばかりではないといった方向に舵を切らねばならなくなるのは、こうしたケースが多々出てくるからだろう。

祇園閣や京都タワーの話に入る以前のところでかなり手間取っているが、もう少しキッチュの輪郭を整理してから本題に進むことにしたい。




どうでもいいけど文字ばかりだと味気ないので

アン・京都タワー
ドゥ・京都タワー
トロワ・京都タワー  ……先っぽが入らネェ!
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by office34 | 2013-11-02 01:46 | 街角の風景