Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2014年 01月 31日
献灯の刻名 ~山国隊(6)
山国隊による献灯の件、少し補足。

先に紹介した折(参考まで)、「『隊員名を刻んだ』とあるが、これについては詳細不明」と書いた。このほど改めてチェックする機会があったのだが、確かによくよく確認すると下から二段目の台座に文字らしきものが刻まれている。しかし彫りがかなり浅いこともあって、文字として解読できるものは一字もない。そこに名前が刻まれていると指摘されれば分からなくはないが、自然に気づく類いのものではない。したがって、もし文字を認めることができるとすれば「藤野斎」か「水口市之進」ぐらいはチェックしておこうという目論みは、むなしく崩れてしまった。いずれ機会を作って京北町の山国護国神社に行くつもりにしているのだが、その際に瑞垣に戦没者名が刻まれているという話なので、そちらの方で我慢することにしよう。
a0029238_2327737.jpg
灯籠の台座(下から二段目)。肉眼で見ればかろうじて漢字っぽいものがわかる程度

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by office34 | 2014-01-31 23:29 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 29日
葵公園
出町の駅前から河合橋を渡って出町橋の手前から北上して下鴨本通りに合流する。土地鑑のある人なら、これだけの記述でどういうルートかはわかるはずだが、もう少し説明を付け加えるなら、賀茂川左岸の道路を北上して葵橋東詰で下鴨本通りと合流するという形だろうか。といっても、土地鑑のある人ばかりとは限らないので地図(googleマップ)でも貼っておこう。
a0029238_1515314.jpg

さて、今回のお題はこのコースを通る時、右手に見える広場である。公園のように整備されているのはよく知られていると思うが、かといって滑り台やジャングルジムなど遊具が置かれている児童公園ではない。また地図でみると高野川と賀茂川が合流する部分に見えるが、「デルタ」の通称で親しまれているゾーンでもない。ということで、この広場の位置づけがよく見えないのだが、鴨川の河川敷全体には「鴨川公園」という正式名称があるので、件の広場も鴨川公園の一部とみられているのだろうか。

実は、当方はこの広場については「鴨川公園」のうちに含めて考えていた。「葵公園」という名前も聞くには聞いてはいたが、それも俗称だろうと思っていたのである。下鴨神社に近いこともあって、賀茂のシンボルである二葉葵を借りての俗称だろう、そのぐらいの認識だった。ところが、さにあらず、実際はこの広場を特に「葵公園」とするのが正式名称だったようだ。そのことがわかったのは、上記の道を通るだけで、普段はほとんど入ることのない広場に足を踏み入れたからである。

広場の中程に銅像があることは、近くを通る際に気づいており、それが目玉の松ちゃんこと尾上松之助であることは随分昔にチェックしていた。だが銅像のあるところからさらに奥、つまり北の方向へ進んでみることはしていなかった。「葵公園」なる名称を知ったのは、広場の奥の方へ進んだところに石碑がおかれており、そこに大きく書かれていたからである。碑陰に刻まれていた文章によれば、葵公園として整備されたのは昭和15年のことらしい。もしかすると現在でこそ「奥の方」という印象になる石碑の周辺だが、整備された頃には入り口付近だったのかも知れない。つまり北側からも普通に入れる状態になっていたのかも知れないということである。

現在では広場全体に薄暗い印象があり、まわりを垣根状の植え込みが取り囲んでいる。それだけでも近づきがたい雰囲気になるわけだが、入り口ゲートの構造がそれに輪を掛けている。北と南の両方にゲートがあるものの、見るからに通りづらそうな構造である。「入ってくれるな」という意志が伝わってくるゲートとは、こういうものを言うのだろう。

もっともこういう状態になったのも理由がないわけではない。おぼろげな記憶で恐縮なのだが、二十数年前はこの広場には放置された自転車が山のように唸っていた。現在のような進入しづらい構造になったのは、それらが撤去された後のことである。自転車の大量放置に対処すべく公園の入り口を入りづらい構造にしたのだが、度が過ぎたのか、歩行者も入りづらくなってしまった、といったところだろうか。ともあれ、「葵公園」なるゆかしい名前が正式のものであることがわかっただけでも収穫としておこう。

参考までに碑陰の文章の書き取り。例によって現場での正確なチェックを怠ってしまったので、一部おぼつかない部分がある。後日要確認。
本園ハ昭和十五年二月大澤徳太郎氏ヨリ金貳萬圓ノ寄附ヲ得テ之ヲ工費ニ充テ官府有地參千五百餘坪ヲ劃シ專ラ体教散策ニ資センガ爲曩ニ三井家ニ於テ植栽セル黒松ニ加ヘ公園施設ヲ計畫シ昭和十五年三月起工同年六月竣工ス茲ニ公園ノ一隅ニ碑ヲ建テ記念トス
  昭和十五年七月
    京都府

a0029238_1515788.jpg
自転車は整理されたが、近年は狸が集まっているようだ




-追記-
碑陰によれば昭和15年に「官府有地參千五百餘坪」が整備されたことになっている。1坪≒3.3㎡で計算すれば約11,550㎡。それに相当する広さを想定すると、通称デルタから賀茂川左岸の河川敷および松ちゃん像周辺の広場ぐらいを含むだろうか。現在の家裁以南、つまり段丘の全体である。道路によって分断されているため、現在では別個の空間のような印象になっているのだが、戦前には河川敷もデルタも含めて周辺全部が「葵公園」だったのかも知れない。それが戦後になって鴨川河川敷の上流下流、左右両岸が整備されたため、河川敷部分だけを特に「鴨川公園」と呼ぶようになったとも考えられる。仮にそうだとすれば、「葵公園」の石碑も、デルタのど真ん中とか、かつては別の場所に置かれていた可能性もある。

-追記2-
碑陰の文章訂正
(誤)專ラ体教散策ニ資センガ爲 → (正)專ラ休養散策ニ資センガ爲
写真に収めただけで現地での確認を怠っていると、帰ってきてから文字が読めないという事態になる。「体教」の箇所は意味不明だったが、改めて現地へ行ってみると「休養」であることが判明。
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by office34 | 2014-01-29 02:24 | 街角の風景
2014年 01月 22日
山国隊スタイル ~山国隊(5)
“祭りの花形”というと、どういう存在を思い浮かべるだろうか。岸和田のだんじりで、あのだんじりの上で飛び跳ねるように音頭を取っている人は、まさに「花形」というに値する。しかし、同じように屋根の上に乗っていても祇園祭の屋根方は「花形」ではなさそうだ。曳手であったり音頭取の方がずっと注目されやすい。そもそも「花形とは?」と問いかけられるとすれば、目立っているかどうかというあたりが大切になってくるからである。さらにいえば、イベント全体の中での意義というか、位置づけみたいなものが、たとえ脇役であったとしても、目立っていさえすれば「花形」であるかのように思われてしまう場合もある。

たらたらと回りくどいことをいうのは止めて単刀直入に行こう。京都の時代祭についての話である。時代祭の花形といえばなんだろう。神事としての性格を重んじるのなら、神幸列の御鳳輦でなければならない。しかし、それに注目している観光客は、はっきり言って皆無である。ほとんどの人は先導する仮装行列に目を奪われる。そうして一番目立っている、もっとも注目されているという基準からいえば、先頭を進む「維新勤皇隊列」を挙げておけばいいだろう。中には江戸時代や中世の女性列、あるいはものものしい出で立ちの武者行列やコミカルな徳川城使列のパフォーマンスに注目している人もいるだろうが、多数決で決めるとすれば、勤皇隊列の方に軍配が挙がる。

そうすると、維新勤皇隊列は時代祭のシンボルであるとも言えるのだが、かの衣装については少々ツッコミがあってもいいだろう。というのは、時代祭の解説をするにあたって、黒の羽織と紺の袴が維新軍の標準であり、それを再現している云々といったルーズな説明も出回っているからである。勤皇隊列の目立ち方を思えば、勢い余ってそう言ってしまいたくなく気持ちは分からなくはない。しかし、もちろんのことながら間違いである。かの装束は、維新軍、正確には新政府軍または東征軍というべきだが、その軍に付き従った農兵隊の「山国隊」に由来している。そもそも新政府軍といっても、慶応四年(明治元年)の時点では新政府には正規軍はなく、薩長を中心とした諸藩の軍隊の寄せ集めである。実質的な行動は各藩ごとに指揮系統があり、兵の出で立ちは洋式の軍服が主流になっていたはずである。羽織・袴に胴巻きなどの武具をつけるのは、軍制改革ができていない旧式部隊のものであり、新政府軍というよりは、むしろ旧幕府勢力に多く見られたはずだ。

さて、こうした話を前提にして、前回の最後に触れておいた藤野斎『征東日誌』の記述である。
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。
山国隊の人々は士農工商の身分制度に当てはめれば農民なのだが、時代劇で固定的なイメージのもとに描かれがちな貧困層ではない。農村や山村に隠然とした支配力をもっていた名主階級、つまり富裕層である。出征の費用も自前でまかなうことができるぐらいの階級だったから山国隊という部隊も実現させ得たわけである。とはいえ、戦闘のプロでない以上、軍装は寄せ集め品が多かったらしい。因幡藩の指揮下に入ることで旧式銃が貸し与えられているが、上記の引用にあわせて注目したいのが隊の装束である。二月二十二日、藤野のもとに届けられたのは、隊の制服となるはずの注文品だろう。「『胴腹』『三才羽織』等」とあるうちの「胴腹」とは胴丸と腹巻つまり武具のことで「三才羽織」は三斎羽織か。「シヤモの仕立方」云々とある「シヤモ」は股引のような袴の一種らしい(参考)。これらを纏った姿は、洋式軍服と並べるとかなり時代がかったものに見える。日誌に続けて記されている「且つ不恰好なり。一同、大いに不満心なるも、やむを能わずして着服す」というのも、「こんな関ヶ原みたいな格好するのか?」とかいう類いの不満だったのではないか。

仲村研氏は、このくだりを「その晩、京都から胴腹、三才羽織などがとどき、隊員に配布されたが、仕立がわるく不恰好で、全員ぶつぶつ不平をこぼしながら着用した」とまとめ、その上で藤野が京都へ送った手紙を紹介している。そこには
(さりながら)(あつら)へ通リトハ一向粗末ナル仕立様ト申、約束トハ大ニ違ヒ、三才ノ袖ノ行短ク、夫々(それぞれ)一向不揃(ふぞろい)ニテ困リ入申候……
とある。仕立て方が雑だ云々だけでなく「それぞれ一向不揃い」だのといった文句も並べられており、考えていたものとの隔たりが途方もなく大きかったことが窺われる。想像するに、制服になるはずのこれら衣類は新しく仕立てられたというよりは、形の似たものを適当にかき集めてきた?みたいな感じだったのではないか。山国隊にはのちに「(さきがけ)」の文字をあしらった熊毛の陣笠が支給されている。これが山国隊のシンボルになると同時に、隊士はその陣笠を意気に感じていたらしい。しかし三斎羽織に股引のような袴を穿き、頭に熊毛の陣笠を乗せた姿は、見る者には滑稽にも映ったようだ。『征東日誌』の慶応四年四月十七日条には、
一隊彼黒毛陣笠ヲ着シ意気鷹揚然トシテ進軍。人見テ、ガワタロウ隊ト云リ
との記述がみえる。「ガワタロウ」とは河太郎、すなわち河童のことである。カッパ隊だと笑われたと記しているのである。

この山国隊スタイルがどの時点で義経袴に変わったのかは分からない。仲村研氏の『山国隊』には、日露戦争後まもなくの頃という集合写真が掲載されている。それをみればすでに裾の広い義経袴である。実戦面での都合を考えるとシャモの方が動きやすいように思えるので、あるいは時代祭参加にあたって見映えのする姿に改めたのかも知れない。仮に三斎羽織と義経袴の組み合わせが時代祭に合わせて用意されたものであるとすれば、その姿は歴史上のいずれかの時点を再現していることにはならない。さらにいえば、現在の時代祭に登場する維新勤皇隊列は、三斎羽織と義経袴だが、山国隊のシンボルだった熊毛の陣笠は被っていない。山国隊の奏楽を改めて戊宸行進曲を作ったのと同じように、忠実に山国隊を写すのではなく、新規に維新勤皇隊列なるものを編成するという意識が働いたのだろうか。もしもそうだとすれば、維新勤皇隊列は、三斎羽織と義経袴の山国隊に輪を掛けて歴史ばなれをした架空のものということになってしまうわけだが、そこまでいうのは言葉が過ぎるだろうか。
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by office34 | 2014-01-22 21:34 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 20日
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
はるか遠い昔、京都の難読地名ネタで「一口」だの「上終町」だのを取り上げた記憶があるのだが、いわゆる難読地名はその難読度が上がるとネタとしての面白さが高まり、その結果、いろいろな形で紹介されることになる。そうすると、実際は難読でありながら周知の地名となって、難読度が下がる。いわばジレンマみたいな状況に立ち至るのである。たとえば北海道の「長万部」。知らないと「おしゃまんべ」とは読めないが、おそらく知らない人の方が少ないので、誰でも普通に「おしゃまんべ」と読む。そういった類いのことなのだが、そもそもこんな話を持ち出したのは、有名だから大抵の人が読めるはずの難読地名「各務原」に関連してのことである。

各務原。読み方は当然、「かがみがはら(かがみはら)」である。読み方の由来は古代の鏡作部(かがみつくりべ)にあることや、「鏡が『かかみ・かかむ』から『各務』となった」との説が、wikipediaに紹介されているのだが(「各務原市」のページ,2014.1.20現在)、要するに「鏡が原」が地名「各務原」の根っこにはあるようだ。と、こういった書き方をすると、周知のことをもったいぶって書いているようだが、予備知識をもたずに「鏡が原」という字面に出くわすと、聞いたこともないどこかのマイナー地名であるかのように思ってしまう。このところ、こだわっている山国隊関連の資料を読んでいた際、その「鏡が原」が出てきていたのだが、現実的な地理空間とは結びつかず、たらたらと読み流してしまったのである。そして、あとから「鏡が原」なる地名は謂われの一つ二つを持っていそうな気配だけどどうなんだろうという方向で調べ始めて、ようやく岐阜県の各務原と結びついたのである。
(慶応四年二月)廿二日。晴。六ツ刻発陣。河渡川大激流。洪水ニテ舟流レ、渡シニテ一隊々々ヲ渡ス。両岸ノ群人立錐ノ地ナシ。加納宿兵粮。新加納宿小休。此辺ハ安藤対馬守領地処、被召上尾州侯御預領地ト成ル也。此ノ間ニ鏡ヶ原ト言広野アリ。東西二里許、南北三里ト。中央ニテ野立陣休憩。近江不取敢、○赤心(マスラオ)の心を尚も磨き立鏡ヶ原にうつ里行人ト。鵜沼駅浅野彦右衛門本局泊。
『征東日誌』(仲村研氏・宇佐美英機氏編、S55年・国書刊行会)
山国隊のリーダー、藤野斎の日記『征東日誌』である。仲村研氏『山国隊』が紹介している隊の足跡は、基本的にはこの日記に準じている。二月二十二日に該当する箇所では「二十二日、晴、早朝出発。夜来の大雨で増水している河渡川の激流を渡り、加納駅で中食し、鏡ヶ原を通って鵜沼駅に宿陣した」とある。実は、仲村氏の文章を読んだ段階では「鏡ヶ原」にはまったく注意が向かなかった。それでも、この直後に出てくる装束についての記述が気になっていたので、原文との対照を試みたのである。

するとどうだろう、直後の装束関連もさることながら、鏡ヶ原に触れる箇所が何となく面白げである。一番、気になったのは、このくだりで送り仮名がひらがなになっている点。『征東日誌』の文体は訓読調の仮名交じり文で、送り仮名はカタカナなのだが、このあたりではひらがなが用いられている。深く考えずに読み流していて、なんだろう?と不思議に思ってしまったわけだが、改めてゆっくり読み直すと「そこで一首」といった感じのようだ。要するに藤野が和歌を詠んでいるのであり、和歌の言葉を地の文と区別するために送り仮名でひらがなを使っているのである。
赤心(マスラオ)の 心をなほも 磨き立て
鏡ヶ原に うつりゆく人
移動する意味の「移る」に「映る」を掛けて、さらに「磨く」「映る」「鏡」を縁語仕立てにするなど、修辞も利かせている。内容的には、後の時代の壮士調というか、いきり立っている感じに満ちあふれているが、官軍の名の下に出征していることに気持ちも高ぶっているのだろう。

ほかにも、この加納宿から新加納宿のあたりでは、この地域がかつては安藤氏の所領だったのに尾州侯の預かりとなっている云々など、山国隊の行動とは直接的に関わらないエピソードにも触れられている。そうしたところにアンテナが反応して、そもそも「鏡ヶ原」とは?という形で調べてみたところ、「各務原」と出くわしてしまった次第。

と、余談が少々長くなった。本題はこのくだりに続く、同日(二月二十二日)条の装束に関する記述である。前もって本文を挙げておく。
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。

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by office34 | 2014-01-20 23:17 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 18日
桜色?
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1/16の夜、京都タワーが桜色にライトアップされた。なんでも受験生を応援するとのお題目で、“サクラサク”のイメージにするとのことだったらしい。これに限らず、京都タワーは時折、なにがしかの色にライトアップされている。しかし、それらは大抵は一日限りであり、しかも夜あるいは翌日のニュースetcによって過去形で知らされることになる。したがって何かのキャンペーンでのイメージカラーになっていたとしても、結局は現物を見逃してしまうわけである。それに対して、今回の桜色キャンペーンは、たまたまの巡り合わせだったのか、「今夜は……」という形で事前に情報を知ることができた。それで駅ビルへ出かけてみた。撮影スポットは例によっての例の如し、烏丸広場である。

出来映えとしてはどうだろう。もう少しマシなものを期待していたのだが、設定がよろしくないのか、それとも合格色らしからぬ禍々しいくらいの不気味さに色づいていた被写体が問題なのか、はっきり言ってパッとしない。これなら後追い的にニュースで教えてもらって、ヘェ~と他人事のように流しておいてもよかったかも知れない……。
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by office34 | 2014-01-18 23:39 | 街角の風景
2014年 01月 16日
戊宸行進曲 ~山国隊(3)
時代祭の鼓笛隊すなわち朱雀学区の維新勤皇隊を取り上げて「山国隊を模した」と書いたが(参考までに)、正確ではなかったようだ。山国隊の存在を知らない場合はともかくとして、時代祭の風俗行列について調べたことがある人なら山国隊から朱雀学区の維新勤皇隊へという流れがあることはわかっているはずである。京都検定の公式テキストを標榜する本*の記述を見れば「山国隊は現在の京北町からの奉仕であったが、明治三十五年から五年に一回の奉仕となり、大正十年から現在の朱雀学区が山国隊を継いで『維新勤皇隊列』に加わるとともに第八社となった」とある。仲村研氏の『山国隊』でも、冒頭で「毎年十月二十二日、秋の日ざしをあびて、京都の都大路をねりあるくのは時代祭の行列である……必ずその先頭を切るのは、例の『錦の御旗』をいただいた山国隊である」と書き出しておき、復活版の山国隊が時代祭への参加を辞退するに至る流れのところで「けっきょくのところ、京都市内に新山国隊を結成し、代役をだすことで解決した」と記す。
(*)初版第四刷、『京都・観光文化検定試験公式ガイドブック』(森谷剋久氏監修・京都商工会議所編,淡交社,2004年)は第一回検定が実施された時に刊行されたものだが、内容の間違いや誤植が数多く指摘された。この時代祭の記述については訂正情報は出ていない。

こうした説明を見れば、旧山国村から出張していた復活版・山国隊をコピーするように、装束や軍楽を継承したと思ってしまうのは当然かも知れない。しかし、厳密にはそのままのコピーが行われていたとは言えないようなのである。装束についてはかなり忠実に再現されているのかも知れないが、少なくとも軍楽については整理しておかねばならない。

京都府立資料館に『山国隊軍楽の謎と維新勤皇隊軍楽に連なる音楽』(仁井田邦夫氏著・刊、1986年)と題された小冊子が保存されている。それに昭和二年頃に「元京都女子音楽学校長 奥村静」**という方が勤皇隊理事に宛てて書いた手紙が掲載されている。
近歳は山国隊の曲を模楜せし曲を行進に使用然る時は山国隊の支部と名誉ある勤王隊を下落せしめてあるは如何なる事情あるは○(1)維新勤皇隊として貴学区(2)名誉と洪誉り(3)とする作曲がありながら山国隊を模写せしか預って(4)要領を得(5)是には(6)種々苦心あるは貴学区の名誉となるべき御話も多く有るは御尽考として申上侯……
(1)不明,(2)は,(3)不明,(4)預て,(5)不明,(6)是れに
手紙の原版に加えて、その翻刻と現代語訳も載っているのだがいくぶん不審な箇所がないでもない。上記引用は手紙の主題に触れる部分の翻刻で下線部が翻刻の疑問箇所。そして、このくだりの解釈は「近頃山国隊の曲を真似て行進をしているが山国隊支部と名誉ある勤皇隊をバカにしているのは何故か。維新勤皇隊として朱雀学区には、ほこりと名誉ある曲がありながら、山国隊の真似をしている事についてなっとくがいかないとのことを聞いている。色々と苦心があると思いますが、貴朱雀学区にも名誉となるべき多くの話しも聞いております……」となっている。しかし、この解釈では奥村氏のところに不評のいくつかが届いており、それも含めて相談したい旨に読めるのだが、どうだろう。当方が考える限りでは、「近歳は~行進に使用」することが山国隊支部と勤皇隊をおとしめることになるようだが、貴学区ではどう思っているのか、という形で奥村氏ご自身の疑問がぶつけられているように思う。

手紙の前提として、この奥村氏が勤皇隊が組織されるにあたって、当時の市長代理安川助役より作曲の依頼を受けたという事実ある。それを踏まえれば、その曲が実際に演奏されていないことに対するクレームと読めばいいのではないだろうか。もっとも、この手紙を紹介するのは「山国隊より受け継いだ頃は、全て山国隊軍楽の真似をしていたようで大変悪い批判を受けている。次に挙げる、昭和2年頃に差し出したと思われる奥村静女氏 (ママ)からの手紙で、その当時の事がよくわかる」という文脈なので、山国隊以来そのままの楽曲が使われていることに対する不評が出ていたことを示す資料と解釈すれば、大きな問題にはならない。
(**)「京都女子音楽学校」および「奥村静」については未調査。上掲冊子では女性として紹介されているが、ここでは詳細不明としておく。

これを今回のテーマに引きつければ、現在の維新勤皇隊が演奏している楽曲は山国隊のものとは別の楽曲である、ということになる。そして、その曲というのは、この冊子に譜面も掲載されている「戊宸行進曲」というものらしい。現在の維新勤皇隊の演奏は「宮さん宮さん」であるとの記述も見かけることもあるが、トコトンヤレ節に品川弥二郎が詞を付けたとする「宮さん宮さん」とはかなり雰囲気が違っていて、そのアレンジでもない。奥村静作曲「戊宸行進曲」という、まったく別の楽曲のようなのである。

なお山国隊の中でトコトンヤレ節が歌われたこともあったようだが、それを演奏しながら凱旋をしたことは資料的な裏付けはなさそうだ。山国隊凱旋にあたっては、入洛時にも山国村に帰郷する際にも軍楽を伴っていたことは、藤野斎の『征東日記』からも確認できるにしても、曲の中身まで確定できるわけではない。ちなみに時代祭に山国隊が参加した頃に演奏していた楽曲というのであれば、山国隊軍楽保存会というところが継承するものがある。京北町の秋祭りとして行われている「山国さきがけフェスタ」で演奏されているのがそれかと思うのだが、当方はその演奏は聞いたことがない(これだろうか)
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by office34 | 2014-01-16 20:50 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 12日
雪の木の根道
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鞍馬寺奥の院、通称「木の根道」である。堅い岩盤によって木の根が地中に入ることができず云々との解説が多くのガイドブックにも紹介されているところなのだが、この木の根道へは雪が降ったあとはぜひ訪れておきたい場所である。木の根がただでさえ奇妙な文様を描いているのに加えて、その上に雪が置かれることによってコントラストが引き立てられるからだ。

9日の夜に降雪があり、翌10日は金閣寺も雪化粧といった報道がなされていた。そして11日からの3連休は冷え込むとの天気予報。というわけで11日に木の根道へ入って撮ってきたのが上の1枚。

木の根道へ行くのはこれが最初ではないし、降雪を見計らって訪れたこともある。しかし「ちょうどいい感じ」には巡り会えていない。3年前の正月などは雪が多すぎて真っ白け。木の根が全部雪に隠れてしまって、元も子もない。それに比べると、今回はまだ積雪が少ないのは山門をくぐる時点から明らかだったので期待はしていた。しかし、結果からいえば、まだ少し多すぎたようだ。もう少し黒い部分が目立っていた方がよかったか。結局、見映えという点では、ほんの気持ち程度白いものが上にのっているぐらいがいいようだ。

ちなみに、こちらが3年前の正月。
a0029238_16491970.jpg


参考までにこちらもどうぞ


【おまけ】
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by office34 | 2014-01-12 16:55 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 09日
山国隊灯籠 ~山国隊(2)
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山国隊が奉納した灯籠である。4段重ねの台座の一番上に「山国隊」と大きく刻まれている。北野天満宮に山国隊の灯籠があることは、かねてより聞いてはいた(「京都の映画文化と歴史」)。しかし、それが境内のどこにあるのかは知らなかった。探すには探してみたのだが北野天満宮である。灯籠は無数にあるといっていい。一の鳥居から楼門を経て、三光門の前あたりまでは一つずつ見ていたのだが、見つからないものだから諦めていた。それが、仲村研氏の『山国隊』を読んでいると詳しく紹介されているくだりがあり、初めて実物を見ることと相成ったというわけである。
北野天満宮と山国隊
明治二年元旦の早朝、山国隊は北野天満宮に参拝した。隊員にとってはなつかしいところである。東征準備のため、この近辺にある椿寺前の茶畑ではげしい調練を繰りかえしたが、その往反にはかならず天満宮へ敬礼をして行ったものである。出陣がきまったとき、武運長久を祈願したのも、この天満宮であった。
 正月二十九日に藤野らは千燈を奉納した。十人の奉納者のなかに「牧野家内」の名があり、この人が牧野省三の母親であることはまちがいない。こののち二月五日(ママ)、八十六両を投じて隊員名を刻んだ石燈籠を同宮に奉献したのは、大願成就のお礼の意味であった。今日でもこの石燈籠は天満宮北西のすみにひっそりと立っている。
『山国隊』(仲村研氏,学生社,昭和43年)
仲村研氏の『山国隊』は、写真をカットする形で中公文庫にも入っているのだが、今回は図書館から借りてきて初版の学生社版で読んでいる。学生社版の方には石灯籠の写真も添えられており、そのキャプションには「北野天満宮本殿北西隅にある山国隊の献燈」とある。山国隊の灯籠の件を初めて知った「京都の映画文化と歴史」を改めてみてみると「北野天満宮の境内奥に」となっているので、一の鳥居や楼門まわりは最初から無視しておいて、いわゆる「奥」の方から探せば見つかったのかも知れないが、ともあれ「本殿北西」とピンポイントで教えてもらって、ようやく実物にたどり着けた。

ところで石灯籠が奉納された日だが、仲村氏は「二月五日」と記している。ところが灯籠には「二月念五建之」と刻まれている。そして図書館で借りてきた本には、ご丁寧に「明治二己巳歳春 二月念五建之 念=廿である」との書き入れがなされている。確かに「念」には「廿」の意味があるのだが、以前にこの本を読んだ方が現地で確認して書き込んだのだろう。なお「隊員名を刻んだ」とあるが、これについては詳細不明。台の一段目か二段目あたりにあって摩滅していたのだろうか、現地では見ることができず、撮ってきた写真でもよくわからない。

[正面(東側)]常夜燈(棹) 山国隊(台)
[右(北面)]明治二己巳歳 春二月念五建之(棹)
[左(南面)]御師 森川勘解由(棹)
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by office34 | 2014-01-09 19:01 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 07日
山国隊(1)
仲村研氏『山国隊』(学生社,昭和43年)。キッチュ論議の中で時代祭に触れた流れからこの本を手に取ってみた。

時代祭の風俗行列、その先頭を歩くのがお馴染みの鼓笛隊である。正式の名称は「維新勤王隊列」というのだが、この行列が深く関わるのが「山国隊」である。黒の羽織に紫紺の袴、時代祭の写真といえばコレとなるくらいにシンボリックな存在に思われているこの行列が再現するのが山国隊の姿である。しかし、他の風俗行列とは同等に扱うわけにはいかない。偽物であるという点では他と同じであったとしても、「本物」の延長線上にあるのである。

他の風俗列、たとえば徳川城使上洛列や江戸時代婦人列を見てみよう。これらは装束の上では考証に基づいての正確な再現がなされている。しかし江戸時代に幕府より朝廷へ派遣されていた実在の城使、あるいは出雲の阿国や和宮らのご本人らとのつながりが云々されるとすれば、そういう要素は当然ながら微塵もない。その他、豊公参朝列や織田公上洛列、あるいは室町幕府執政列や楠公上洛列等々を取り上げても事情は同じである。それに対して維新勤王隊列は、明治28年に時代祭が始まった時点では、新政府軍による旧幕府勢力征討に従軍していた人々やその係累が参加しており、名前もそのまま「山国隊」だった。

山国隊とは山国村(現在の右京区京北町)で組織された農民兵の部隊であり、時代祭の山国隊は、平安講社の呼びかけに山国村が応じて従軍部隊を再現、参加させたものである。鼓笛の演奏は、錦の御旗を掲げて帰村した時の模様を再現するものだったとのこと。ところが経済的な負担その他の事情から山国村では毎年継続的に派遣することが難しくなり、隔年にするとか五年ごとにするとかの協議がなされ、最終的には完全に代役に任されることになった。したがって朱雀学区の人たちが演じる現行の維新勤皇隊は山国隊の偽物だが、他の風俗行列とは違って本物と接点を持っているのである。神幸の本列(神幸列)に供奉する白川女献花列には、白川女保存会が直接携わっている。実物ではなくても当事者が関わっている点で本物に準ずるとすれば、山国村から派遣されていた頃の山国隊はそれと同じ性格を持っていたといえる。そうして装束や楽隊の演奏などを、その本物に準ずる山国隊から引き継いでいるのだから、朱雀学区の演じる勤皇維新隊列は本物の延長線上にある……と言えなくはないはずである。

もっとも当方は上掲本を読み始めたばかりであり、山国隊の実像についても正しく理解できているわけではない。もしかするとあれこれ書いてわりには、とんでもない勘違いをしているかも知れない。しかしそれでも、いわゆる仮装行列との誹りを受けがちな他の風俗行列とは、その由緒からして違っているぐらい発言は許されると思う。
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山国隊を模した維新勤皇隊列の鉄砲隊と錦の御旗(2013年)

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by office34 | 2014-01-07 22:03 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 04日
祇園閣・京都タワー・時代祭 ~キッチュ愛(15)
年を越して続けてしまったキッチュ論議だが、もういい加減に幕引きをせねばなるまい。最後に、出発点の祇園閣に戻り、全体の要約的な意味合いのものを書いておく。

八坂は円山公園の南側にある大雲寺、その敷地内に奇矯な建築物が建つ。名付けて祇園閣。大雲寺が現在地に移転するにあたって敷地ともども取得したもので、もとは大倉喜八郎の別荘地に立てられたモニュメント的な楼閣である。日本近代史に「政商」や「成金」の代名詞のごとく名を残した大倉喜八郎、その大倉が晩年に自らが生きた証となるモニュメントとして建築した建物である。楼閣の北側には、大倉財閥を継いだ喜七郎名による記念碑が残されている。碑文に曰く「始め翁齢九旬にして気益壮なり茲に記念建築を造営して永く国運の隆昌と旧都の繁栄とを祝福せんこと我企図し工学博士伊東忠太先生に嘱して案を作らしめ大倉土木株式会社をして其の施工に当らしめ終世自ら之を□督す」と。伊東忠太設計、大倉土木施工によるこの工事に対しては、九十路を越えてなお元気だった喜八郎は当初は陣頭指揮をとっていた(頻繁に注文をつける程度?)ようだったらしいが、昭和三年の四月にその生涯を閉じ、六月の落成を見るには至っていない。また「閣三層方三十五尺高さ地を■くこと一百二十尺鉄条を骨とし凝土を筋とし石材を以て之を装ふ磴階盤旋第二層に至れば既に洛の中外を瞰下すべく第三層に至れば遠く摂河の平野を望むべし屋上高〓天に冲し尖頂の金鶴翼を張て九皐に鳴かんと欲す洵に西都第一の異彩なり」(■:判読不能、〓:キヘンに棠)ともある。約10メートル四方の床を三層重ねた上に金の鶴を飾る尖塔を立てて約40メートルとする鉄筋コンクリート製。楼内の石段を巡って登れば二層よりすでに洛中が一望でき、三層に至れば大阪まで見渡せると云々。

碑文が「西都第一の異彩」と称揚するのは、祇園閣碑自体がこの建築を顕彰すべく造られたものなので当然至極のことなのだが、刻まれた褒め言葉とは裏腹に、現代の目線からすれば「奇矯」という形容詞を送らざるを得ない。そこへ大倉喜八郎の人生を重ねると、俗臭の極みを感じないわけにはいかない。確かに碑文がいうように、眺望においては見るべきものがある。「遠く摂河の平野」は言い過ぎでも、八坂界隈の瓦屋根群を間近に俯瞰できる場所はここをおいて他にはないことを思うと、それだけでも貴重な建築であることは認めるべきだろう。しかし建築の存在には成金趣味の俗物性を見てしまうのである。

ところでこうした奇矯な建造物に接すると、とある概念が頭をよぎる。それがキッチュなるものである。この言葉は時代時代によって意味するところが拡散するので、厳密に定義するのは容易ではないのだが、低俗さ、ケバケバしさ、贋物性といったところを大きく絡め取る言葉ではある。前提にそうした曖昧さが残ることを認めても、祇園閣にはその属性のかなりの部分がキッチュ論議のカバーするところに含まれているようだ。たとえば、大倉喜八郎が自らの人生のモニュメントとして最初に要求したデザインが、伊東忠太をも唖然とさせた逆番傘タワーだったことを思えば、建物のベースに俗物性があることは確認できる。また第二案となった現状のデザインについてもしかり。祇園祭に繰り出す山鉾を模すことがすでにキッチュなのである。山鉾は町衆がひたすらに豪華さを競い合った末に生まれたものである以上、幾分かはキッチュ的なところがあるが、その見てくれを借りてくるという発想はキッチュを地で行くものといっていい。もちろん、伊東忠太の設計というフィルターをくぐることで、発想に含まれるキッチュ性は軽減されてはいる。楼閣建築の設計で山鉾の姿をそのままに巨大化させただけであれば弁護のしようもないが、山鉾風にという施主のリクエストを踏まえながらモニュメント建築たるぎりぎりのところに妥協点を求めているあたりは設計家の仕事である。もっとも伊東忠太が昭和の初期に盛んに手がけていた帝冠様式と呼ばれる和風テイストのデザインは、それ自体が大衆迎合的なキッチュであるとの評価もあるわけだが、それは山鉾を模するところのキッチュ性とはニュアンスが異なる話である。

さて祇園閣とキッチュの話をしていると、京都にはもっとキッチュらしさを振りまいているアイテムがあることにも気づかされる。京都タワーなどその一つだろう。京都タワーを取り上げて、デザイン的なところで苦言を呈するとすれば、異様な白さとケバいまでの橙がやり玉に挙げられる。しかし当方が京都タワーにキッチュ性を感じるのは、あの建築が昭和30年代になされているという事実に対してである。というのは高度経済成長のシンボルとも語られる東京タワーに刺激されるかのように、各地に高層展望台が出現したのが昭和30年台の後半から40年代にかけてのことだからである。デザインの上では、東京タワーを真似ているのではないのは明らかでも、存在に東京タワーに対する贋物性を感じてしまう。贋物性といっても、極度に高められたコピー精度だったり、洗練された臨模技術だったりによって、本物でないという前提の上で新たな価値を生み出すケースもあるが、生憎ながら京都タワーにはそうした斬新さは見られない。ゆるキャラブームに乗っておらが街にもといった感じで生まれてくる後発キャラのような、大衆迎合的な性格を感じてしまうのである。

あるいは時代祭の風俗行列にも、キッチュの大きな要素である贋物性を認めることができる。時代祭は京都を代表する観光物件なのだが、あの風俗行列が本物でないことは論を俟たない。その意味では出発点においてキッチュであると断じることができるのである。しかしながら、本物でない、偽物である、といったところを出発点にすれば、時代考証の正確さや装束の作り込みなど、風俗行列の成り切りぶりには見るべきところが多い。キッチュであると認めつつ、キッチュであることそのものが眼目になってしまうのが時代祭の風俗行列なのである。

思えば社会現象においてキッチュをめぐる議論がなされ始めた頃、すなわちC・グリーンバーグが「アヴァンギャルドとキッチュ」というエッセイを世に問うた頃であれば、キッチュであることはすなわち否定的価値だった。ところが大衆文化に対する分析が精細になってゆくにつれ、キッチュと呼ばれる属性は近代社会の必然であるように見なされるようになる。そうなってくると、キッチュなるものも否定一色で扱われてしかるべきものではなくなる。キッチュ論議のややこしさは、こうした分析する側の目線の多様さに依っているようだが、時代祭にせよ京都タワーにせよ祇園閣にせよ、それぞれにキッチュ性を指摘することはできる。だが、だからといって即座に切って捨てるには当たらない。もちろん、それぞれにおいて、否定と肯定を逆転させる基準は一様ではないのだが……。



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by office34 | 2014-01-04 03:43