Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2014年 02月 23日
京都景観賞
なんでも聞くところによると、森下仁丹と仁丹楽会が「京都景観賞」の特別賞として表彰されるとのこと(参考までに)。それはそれで大変素晴らしいことだし、とりわけ仁丹楽会の方々による町名看板の啓蒙・保全活動には敬意を表さねばならない。しかし、その一方で前回記事のように消えゆく仁丹町名看板があることを報告せねばならないのは痛恨の極みである。かつてあった場所から町名看板が消えていたりすると、まずは盗難の可能性を疑ってしまうわけだが、もちろんそう即断できる話ではない。何者かが看板の価値に対して自覚的でない家主から買い取ったということだって考えられる。維持経営が難しくなった寺院仏閣より古い仏像が闇ブローカーに流れてゆくのと同じ構図である。

しかし、そうしたことが起きるのは仁丹の町名看板に対するコレクター的な需要が一方にあるからだろう。もちろん他人様の物欲や所有欲を否定する権利が当方にあるわけではないのだが、こと町名看板についていえば、あれはしかるべき場所に掲出されているがゆえに価値があるということも忘れないでいて欲しいと思う。錦鯉がきれいだからといって、その鱗をはぎ取ってしまっては元も子もない。

ともあれ、失われたものは致し方ないと諦めざるを得ないのだが、今回の「京都景観賞」などを通して、仁丹町名看板の意味がもっと周知されることが望まれるばかりである。

おまけネタ(レプリカ仁丹発見)
a0029238_2259584.jpg

こちらについての詳細は、また改めて……
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by office34 | 2014-02-23 23:05 | 町名看板
2014年 02月 21日
仁丹町名看板「下椹木町通千本東入」ご昇天
前回の未確認情報に関する続報。結論からいえば、件の町名看板はなくなっていた。

「下椹木町通」とは、丸太町通の一筋北側の通りである。したがって仁丹町名看板に記されていた「下椹木町通千本東入」とは、千本丸太町の交差点を北へ上がり、一筋目を東へ入った場所になる。看板それ自体は、南東角の木造家屋に貼られていた。それが見事に消え失せている。建物は健在なので町名看板だけが取り去られたようだ。

仁丹楽会の方々の活動もあって、最近は認知度も高まってきているように思っていたが、取り去る輩はいるということなのだろう。

a0029238_19532420.jpg
白い部分ではないけど、近づけば町名看板があったことを示す“跡地”がわかる

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ありし日の仁丹町名看板「下椹木町通千本東入」




a0029238_19392730.jpg

千本丸太町の交差点、北西角のシャッターには「神の心」を訴える文言が書かれていた。残念ながらメッセージは千本通を隔てた向こう側には届かなかったらしい。
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by office34 | 2014-02-21 19:58 | 町名看板
2014年 02月 19日
レプリカ仁丹
たまには、仁丹の町名看板ネタでも。

というのも、通りがかりに目に留まり、思わずなんか変だなと思ってしまったから。それがこれ。
a0029238_14171574.jpg

見ての通り、非常にシンプルな体裁となっている。碁盤目の外側で有無を言わせない場所なら不思議にも思わなかったが、坊城通を四条から上がったところだから、坊城通四条上ルとあってもおかしくないはずである。それによく見ると「中京区」となっている。それで気になって調べてみたところ、マニアの方たちの会話で「模造品のある『壬生御所ノ内町』」なる発言がなされていることを知った。なるほど、レプリカだったか、というわけで一件落着(こちらのコメント欄)




あと余談を少しばかり。住宅のリフォームが始まっていたので、どうなるか気になっていた松ヶ崎の一枚。新しくなったお宅に無事収まっている模様。
a0029238_1417196.jpg



もう一つ、気がかりネタ。走行中のバスからの一瞬だけだったので見間違いの可能性も大きいが、もしかすると下椹木町通千本東入の一枚が無くなっているかも知れない。あったはずの場所にそれらしきものが見えなかったのだが、単に見間違いであることを願うばかり……。
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by office34 | 2014-02-19 14:18 | 町名看板
2014年 02月 15日
曾根崎心中・道行き(通釈)
足取り重たげに歩く二人づれ。その姿はこの世に残す未練の現れか。けれども夜は更けて、二人に残された時は少ない。死出の道を歩む二人の姿を喩えるなら、それは化野の道にかかる夜の露、一足歩めばもう消えている。まるで夢の中で見ている夢のよう、はかなくも哀れな姿だった。

どこからか聞こえてくる鐘の音。数えてみると、夜明けをつげる七つの鐘、その六つ目が鳴り終えたばかり。されば残る一つはこの世で聞く最後の鐘ということか、迷いも消えてさぞや穏やかに聞こえよう。鐘ばかりではあるまい。目に留まる草も木も、空のありさまさえもこの世の見納めなのだ。しかし見上げてみると、夜の雲も静かな水音も、二人の思いなど知らぬげにいつもと変わらない。川面に映る北斗の光は荒涼としていて、あたかも天の川に妹背の契りを約しているように見える。もしこれが天の川だというのなら、目の前の梅田橋は銀河にかかる鵲の橋といったところだろう。この世での命が尽きたとしても、二人は夫婦の星となっていついつまでも夜空に輝くはず、来世はきっと寄り添うことができるはず、そう言って互いに寄り添っているのである。二人の間でこぼれる涙によって、川の水かさも高くなることだろう。

向こうに見えるのは何という宿か知らないが、二階では逢瀬を楽しんでいるらしい。灯りをともして今年の心中事件を品定め、賑やかにああだのこうだの言い合っているのだろう。そんな声は聞くだけで心も重くなる、といっても、意味も分からずに、昨日今日までは心中なんて他人事だと言っていたのも私たち。明日になると、そんな私たちが噂の種になって、はやり歌になるのでしょう。そう、歌うのならどうぞ歌ってくださいな。
聞こえるは「心中江戸三界」の歌、

(歌詞)どうせアンタは私を妻にする気なんかないんでしょ、私もアンタのことなんかどうでもいいと思っていたんだけど……

歌にあるとおり、いくら願っても嘆いても、世の中は思うにまかせぬことばかり。思いが満たされるはいつのことかと今日の今日まで過ごしてきたけれど、心が安まる夜もなく、加えて貴方が忘れられずに苦しむことになるなんて。

(「心中江戸三界」の続き) どうした縁があったやら、アンタが忘れられなくなったよう。それでも私を捨ててゆくというのなら、もう離しはしません。嫌ならアンタのその手で私を殺していってくやしゃんせ。離すまいぞと泣きつくと……

歌は他にもあろうに、よりによってその歌を、今日のこの夜に歌うなんて、どちら様が計らいか。無邪気に歌われるその歌を聞いているのは、これから死のうとしている私たち。歌になった恋人たちも、私たちと同じ気持ちなのだろうと、互いに縋りついて声も惜しまず泣いている。

いつもならさておき、今夜だけは少しでも長く続いて欲しいと思っているのに、夏の夜が短いのは当たり前。二人の心もせわしくなり、追い立てるような鶏の声も聞こえる。夜が明けると、つらくても天神の森で死のうと梅田堤を歩み行く。ここかしこにたむろする烏どもは、朝にはこの身を餌とするのだろう。

今年は徳様も25歳で厄の年。私も19で厄年を迎えました。そんな二人が惹かれあったのは厄の祟りなのでしょうか、それとも深い縁の証なのでしょうか。あちこちに掛けてきた現世でのお祈りを、いまここで来世のご利益に廻しましょう。ぜひ徳様と同じ世に生まれ変われるようにしてくださいませ。

お初が廻す数珠の玉には涙の玉が加わっている。尽きぬ哀れがあっても、まさに尽きようとする二人の命であった。ほの暗い空の下、暗澹たる思いで歩き続けて二人はついにやってきた。風も突き刺すようなその場所が天神の森である。どこで死のうかと草を払ってみるも、飛び散る夜露が我らより先に消えてゆく。無常の世の中はまさしく夜露か稲妻か。
と思ったその時、人魂が二人の傍らを飛びすぎる。

(お初)ああ、怖い、今のは何なの
(徳兵衛)あれが人魂よ、今夜死ぬのは我らだけと思っていたが、先立つ人がいたらしい。どなたか存ぜぬが死出の山をともに行くことになるのだろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……

そう言って徳兵衛が念仏を唱えていると、もう一つ人魂が飛ぶ。
(徳兵衛)おお悲しいかな。また一人旅立ったのか、南無阿弥陀仏。
女は愚かしくも涙ぐんで、
(お初)今夜は人が死ぬ夜なのでしょうか? なんて不吉な夜なんでしょう
と涙を流す。男もまた涙して言う。
(徳兵衛)二つ連れ添って飛んだ人魂を他人のものとお思いなのかい、あれはまさしく我らが魂よ。
(お初)ええそんな、じゃあ私たちはもう死んでいるのですか?
(徳兵衛)普通なら身体から抜け出してゆく魂をつなぎ止めようと嘆きもしよう。でも今は最期の時を急ぐ身。どこへ飛ぼうと、二人で魂の在処を一つにしておこう。道に迷うなよ、踏み違えるなよ。

そう言うやいなや、徳兵衛はお初を抱き寄せて肌をあわせる。そうしてがばっと伏せて泣きあっている二人の心は、不憫でならない。

流した涙が描く糸を結ぶことができるのなら、二人はきっと結び松にするだろう。いまは境内にある相生の棕櫚を連理の枝に見立てて、そこに永久の契りを誓うばかりである。そして露のごとく儚い身をこの場所で終えようと決めたのだった。 「さあ、ここで死のうか」そう言って徳兵衛が上着の帯を解いて枝に掛けると、お初も染小袖を棕櫚の上に掛ける。美しい箒にも似た棕櫚の葉は、さながら浮世の塵を払うためのもののようにも見える。

その時、お初は袖から剃刀を取り出した。
(お初)追っ手がかかった末に引き離され、徳様だけを死なせて私が生き残るなど、そんな恥ずかしい評判が立たないように剃刀も持ってまいりました。でも望みが叶って同じ場所で死ねるとは、なんと嬉しいことでしょう。
(徳兵衛)おお、それは頼もしい心がけ。そこまで冷静でいるのなら、最期の瞬間も案ずることはあるまい。しかし今際の苦しさからのたうち回って見苦しい死に姿をさらすのも口惜しい。この相生の棕櫚に身体を強く結びつけ、ふたり抱き合って潔く死のうではないか。世に類いない死に様の手本となってみせようぞ。
(お初)そういたしましょう。

なんということか、お初を美しく飾るはずの浅黄の小袖にしても抱え帯にしても、死出の道具にするつもりで誂えたのではあるまいに。帯を両方に引っ張って剃刀をあてると、帯は二つにスッと裂ける。

(お初)帯は裂けても徳様と私の間が裂けることはありません。
二人はその場に腰を下ろして互いの身体をその帯で二重三重に強く結びあった。
(徳兵衛)よく締まったか。
(お初)ええ、しっかと。

お初と徳兵衛、二人は互いの死に行く姿を見つめ合い、情けないなれの果てよと言葉を交わす。そして声をあげて泣くばかりである。
ああ、泣くまいぞと徳兵衛。顔を上げて合掌する。
(徳兵衛)私は幼い時に父母と死に別れ、叔父でもある親方の世話になってきた。あれこれ面倒もかけ、やっと一人前になったのに、育ててもらった恩に報いることもなく、そればかりか、死んでからも難儀をかけるとは、言葉に余る不忠者、どうか罪を許してくださいまし。冥途におられる父母には、ほどなくお目にもかかることになろうから、ぜひお迎えにきていただきたい。

そう言って涙を流す徳兵衛を見て、お初もまた手を合わせる。

(お初)徳様は羨ましうございます。冥途に行けば親御様に会えるとのお話。それに比べ、初の父様母様は元気でこの世に暮らしておいでのお方。この次にお会いできるのはいつのことになるのやら。田舎の便りは、この春に頂いたけど、お目にかかったのは去年の秋のこと。私と徳様の心中は噂になって明日には国許にも届きましょう。そうすると父様や母様はどれほど悲しまれるやら。親たちに対して、兄弟たちに対して、これからお別れをいたします。もしも心が通じるものならば、どうか私の姿を夢にも見てくださいまし。ああ、懐かしい母様、名残惜しい父様。

お初がしゃくりあげながら大声で泣くので、徳兵衛も堪えきれなくなる。涙も枯れるばかりの悲しみ、その哀れさといえば、訳を問うのも愚かなほどにもっともなことである。

愚痴はいつまで続けていても始まらない、はやく殺してくださいましと、覚悟を決めたお初が最期の時を急ぐと、徳兵衛も承知と答えては脇差をするりと抜き放つ。

(徳兵衛)よいか、お初!
(お初)南無阿弥陀、南無阿弥陀、

そうは言ってもこの年月、愛しいの可愛いのと言って抱きしめてきた肌に刃を立てられるはずはない。目の前はまっくらになり、手も震えて狙いが定まらない。くじけそうになる心を励まして柄を握り直すも、手の震えはいっこうに治まらない。急所を突こうにも切っ先は右へ左へと流れるばかり。二度三度と虚空にむなしく燦めく剣の刃。

その時、一撃がお初の喉笛に当たる。あっと叫ぶも徳兵衛の刃は女の喉に立った。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、口は念仏を唱え続け、手は繰り返して女の喉をえぐる。お初の腕先より力が消えて、両の手がだらりと広がった。あとに漂うは断末魔の苦しみ、もはや哀れと言うも、言い尽くせるものではない。

遅れはすまい、一息で決めようぞ、とばかり徳兵衛は自らの喉にお初の持っていた剃刀を突き立てた。柄も折れるがよい、刃も砕けてしまえとの勢いで喉をかき切れば、すべては闇へと消えていった。かすかに残っていた苦しみの息づかいも、朝が訪れる頃には知死期に合わせて失せていったのだった。

誰が触れ廻ったのか知らないが、曽根崎は天神の森に吹く風の音のごとく、お初と徳兵衛の悲しき道行きは世に語り広められた。若い命を賭して貫いた恋の道、そんな二人の心は世のあらゆる人々を救いに導いてくれる。この世で報われずとも、未来いずれの世にか成仏できる時が来る、まさに疑いなき恋の手本となったのである。


原文と対照版(PDF)
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by office34 | 2014-02-15 01:07
2014年 02月 13日
曾根崎心中・道行き
“曾根崎心中”を知っているかと問われると、たいていの人は「知っている」と言うに違いない。しかし、ほとんどは「作品のタイトルなら知っている」の地点で留まっているのではないだろうか。もちろん、中には奇特な人もいる。文楽の上演を見たことがある人もいるだろうし、大学は文学部、専攻は日本の近世文学といったケースなら否が応でも近松の作品と向き合わざるを得ない。だがそうした人々を含めるにしても、いわゆる世間一般なるものを想定すれば“曾根崎心中”とまともに向き合ったことのある人は少数派になると思う。当方もその少数に入らない側、すなわち当たり前のようにタイトルは知っているものの中身は詳しく知らない側である。

しかし“曾根崎心中”のクライマックスでもある道行きは、名文との評判も高い。そんな評価自体は何度か耳にはしていたが、それでもかの道行き自体を読んだことがあるかというと、実はこれもNONであった。だが、それではいくらなんでも寂しすぎる。ということで、このほど一念発起、道行きのくだりぐらいは原文で読んでおこうと思って手を出したのだが、やはり難しい。この際、古文単語や古典文法がどうこうというのは措いておこう。そういったところは一応は理解できているつもりなのだが、その上でやはり近松は読みづらいと思う。単に読み慣れていないからだと言われると、そうかも知れないのだが、要するに浄瑠璃の台本、その独特の書き方がどうにも敷居が高いのである。ためしに岩波文庫からのコピーを貼ってみる。

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まずパッと見てわかるように、本文とは別の情報が書き込まれていて読みづらい。「フシ」とか「中」とか「スエテ」とか、小さな文字で添えられている箇所である。専門的な知識は持ち合わせていないが、これらは場面の展開や語りの口調を指示する記号といえばいいのだろう。つまり、上演にあたって必要になる情報である。しかし、道行きを文章として読もうとすると、これらの記号はどうにも目障りでならない。もちろん、これらを機械的に削除してしまうと、何を書いているのがまったく分からないシロモノになってしまうのだが、だからといって、こうした記号も併せて読むのは、なかなか高度なテクニックが求められる。

これは浄瑠璃台本の表記形式の問題であり、いわば入口である。そこでつまづいているわけだから、あとは推して知るべしといったところか。たとえば浄瑠璃の特徴としてよく指摘される台詞と所作の一体性といったあたりはどうだろう。浄瑠璃と言っても、かみ砕いてしまえば人形劇の台本だろうと言うムキもあるのだが、現代劇の脚本と同列に考えていると理解なんかできたものではない。それを端的に示すのが、台詞と所作が一体的に書かれている点である。現代劇の台本に引きつけて言うならば、登場人物の台詞としてカギカッコ付きで書かれねばならない箇所と、ト書きの部分とが、明確には区別されていないのである。ト書き(=地の文)のつもりで読んでいても、いつの間にか台詞となっていたりするし、その逆もある。

また、語り物ならではの文体という問題もある。たとえば道行きの最初の部分でいえば「この世の名残、夜も名残」となっているのだが、これは「名残」という語を重ねるのが眼目がある。観客の耳に届けられる印象が重視されることはあっても、厳密な意味での文意は存在しない。もし問われるとすれば、あとから適当に取って付けるしかない。いまあえて文章にするのなら
二人はこの世に未練を残すようにゆっくりと歩いてゆく。だが夜も更けて残された時はもう少ない。そんなわずかな夜も名残惜しいとでもいうような足取りなのである。
といったあたりだろうか。これは、いうまでもなく、文法どうこうの問題ではない。「名残」という言葉から連想を広げたうえで文章めいたものを作ったにすぎない。こうした操作は、実際の上演では「名残」という言葉を聞かされた観客が、舞台の情景を重ね合わせて、それぞれが勝手に頭の中で描くものである。したがって正解とか不正解とかが出てくるものでもない。冒頭の「この世の名残、夜も名残」ほど顕著ではないにせよ、似たような操作が求められる文章は所々に出てくる。そうすると、最初からそういった性質のものだと割り切っておかねばならない。そんなところにも、浄瑠璃本の読みづらさというものがある。

しかし、読みづらい読みづらいとばかり愚痴っていては、いつまで経っても読めない。“曾根崎心中”の道行きが名文だというのなら、その名文たる所以にも接してみたいものである。そんな方向に切り替えるとすれば、今度は、どうすれば読みやすい形に整理できるかが問われるはずである。そうした視点に立つと、全体を通してリズミカルに書かれている点は大きな強みとなってくる。語り物の文体ならではの読みづらさが一方にあるにせよ、それと同時に、語り物ならでは読みやすさというものもある、ということである。この道行きについていえば、全体が七五調ベースで書かれているのは大きい。先に貼っておいた岩波文庫のコピーのような形で突きつけられると、それだけで立ち眩みも感じてしまうのだが、そこから分かりづらい記号を取り除いて、さらに七五調で改行するとどうだろう。
この世の名残 夜も名残
死にに行く身を 譬ふれば
あだしが原の 道の霜
一足づつに 消えて行く
夢の夢こそ あはれなれ
あれ数ふれば 暁の
七つの時が 六つ鳴りて
残る一つが 今生の
鐘の響きの 聞き納め
寂滅為楽と 響くなり
鐘ばかりかは 草も木も
空も名残と 見上ぐれば
雲心なき 水の音
北斗は冴えて 影映る
星の妹背の 天の川
梅田の橋を 鵠の
橋と契りて いつまでも
われとそなたは 夫婦星
必ず添ふと 縋り寄り
二人が中に 降る涙
川の水嵩も 増さるべし
錯覚のなせるワザかも知れないが、すごく読みやすくなったようだ。ここへ漢字にはふりがなをふり、段落をわかりやすくするetcの操作があれば、もう少しわかりやすくなるはずである。

もちろん、浄瑠璃本の形式や語り物ならではの読みづらさはそう簡単にクリアできるものではない。しかし、試みの一つとしては、こういうのがあってもいいと思う。


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クリックすればpdf版が開きます



[いい加減な凡例]
・改行は七五調に適合させるためのものである。
・台詞は、文字サイズを小さくし、行を下げて、文字色も変えた。男(徳兵衛)の台詞を青、女(お初)の台詞をピンクで示している。
・地の文スタイルを保ちつつ、内容や単語が台詞っぽい箇所は、文字サイズは変えずに、字下げを施して、文字色を変え、イタリックで示した。(2頁目「誠に今年は~」など)
・台詞から地の文の移行は、文字色とサイズを変えて示した。台詞の後ろに付いている灰色小文字の「と」や「と言ひければ」がそれ。
・1頁目の「どうで女房にや~」と、2頁目の「どうしたことの~」は当時の流行歌。




なお現代語での解釈は「#曽根崎心中」のサイトが非常に参考になる。
同サイト内の現代語訳のページ
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by office34 | 2014-02-13 05:15
2014年 02月 11日
漢字の読み方
「徳兵衛」

普通に考えれば、「とくべえ」でいいはずである。しかし本当にそうなのか?とツッコまれると、実は心許ない。

というのも、必要があって曾根崎心中の道行きを触っていたところ、岩波文庫の「曾根崎心中・冥途の飛脚」に付されたふりがなに「徳兵衛(びやうゑ)」となっている箇所を見つけてしまったのである。凡例に従えば、底本で使われている平仮名表記をふりがなに使っていることになるのだが、だとすれば底本は「徳びやうゑ」との表記になっているはずである。

もちろん、表記が「徳びやうゑ」であったとしても、そのことがストレートに「トクビョウエ」との読み方を意味するわけではない。「徳びやうゑ」との文字列を「トクベエ」と発音していたとも考えられるからである。「兵衛」の語源には律令の官庁名があることは確かである。「兵衛督(ヒョウエノカミ)」「兵衛佐(ヒョウエノスケ)」といった通名が背景にあり、そこからいつしか個人名に「兵衛」が使われるようになったものだろう。そうすると問題は、慣用的に使われるようになった段階でも「ヒョウエ」という発音が残っていたのか、それとも訛りきって「ベエ」と読むのが普通になっていたのかというあたりだろう。

古い時代の表記と発音の問題なので、証拠探しは出来そうにない。ただ「徳びやうゑ」と書かれている文献があるのは事実なので、「徳兵衛」を何の疑いもなく「トクベエ」と読むことには、わずかながらでも警戒心をもっておいた方がよさそうだ。

とはいえ、話を曾根崎心中に限定し、かつ現時点での読み方というのなら、ためらわずに「トクベエ」とせねばならないのは言うまでもない。

a0029238_5562674.jpg

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by office34 | 2014-02-11 06:03
2014年 02月 08日
鬼めぐり
鬼の話にふれたついでということで、街歩きツアーでの鬼巡りをするとすれば、どんな感じだろう。絶対に外せないポイントで挙がるのは一条戻り橋である。有名すぎるとかなんとかの声が出るかも知れないが、晴明神社とセットにしての一条戻り橋、これは目玉商品にせねばならない。

次に挙げるとすれば、北野天満宮である。前回の文章でも紹介したように、渡辺綱vs茨木童子で、茨木の腕を切り落としたあと、綱が落っこちた場所が北野天満宮であり、境内には渡辺綱が奉納したと伝わる灯籠もある。また朝比奈義秀伝説だろうか、鬼との力くらべをモチーフにした絵馬が絵馬所に掛かっていることも忘れられない(参考までに)。さらにいえば、鬼の範疇を魔物全般にひろげるのなら土蜘蛛塚が楼門前の境内摂社あるのも要チェックである。ほかの有名スポットを加えるには、距離的な問題がネックになってしまうので、天神さんと晴明神社・一条戻り橋を軸にするのがベターである。そしてこの二つをつなぐのに、百鬼夜行の通り道、一条通を使えばOKである。

あと補足的な肉付けで、大内裏それ自体が鬼スポットであったことを念頭において、千本丸太町上ルの「大極殿址」、さらに千本出水西入の「宴の松原」といったあたりを加えておく。そして平安京の全体像をあらかじめチェックするという意味で京都アスニー内の平安京創生館に展示されている「平安京復元模型」。これらをずらっとつないでみれば、コースとしてもまとまりが出てくるはずである。つまり、こんな具合に。

1・平安京創生館(スタート)
    ↓
  丸太町通(経由)
    ↓
2・大極殿址
    ↓
  千本通(経由)
    ↓
3・宴の松原
    ↓
  七本松通・御前通(経由)
    ↓
4・北野天満宮
    ↓
5・一条通(経由)
    ↓
6・晴明神社・一条戻り橋(ゴール)

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by office34 | 2014-02-08 14:26 | 京都本・京都ガイド
2014年 02月 05日
鬼の話
鬼の話を少しばかり。というのも節分会の行事のいくつかを見ておこうと思いつつ行きそびれてしまい、結局どこへも行かなかったから。もう少し正確にいうと、ちょっとした勘違いから、大空振りをしてしまったから。

ターゲットにしていたのは吉田神社の方相氏だった。吉田神社の節分会では節分前日の追儺式に鬼が登場、続いて方相氏が登場する、というところまではきちんと事前にチェックしていた。ところが何を勘違いしたのか、追儺式の時間と節分の日に行われる火炉祭の時間とを間違って覚え込んでいた。追儺式は2/2の午後6時より、火炉祭は3日の午後11時より。お目当てのイベントが行われるのが2日であると考えるところまではよかったのだが、時間を間違っていたので2日の10時過ぎにのこのこと出かけていくというお粗末をやらかしてしまったのである。人気のイベントの割には人出が少ないなと思いつつ、気がついた時にはすでに後の祭り……、それで嫌気がさして、次の日の2/3はどこにも出かけずお終い。

それでも、あとで調べてみて分かったのだが、30分や1時間の余裕をもって出かける程度では境内にも近づけないらしい。そもそも吉田神社の境内が狭いというのが最大の原因なのだが、10時過ぎにのこのこというのでは最初から×だったと慰めるしかなさそうだ。

とヘマ談義はこのくらいにしておいて、鬼の話である。といっても新しく書くものではなく、実は以前に頼まれて書いたものである。「京都の鬼をあれこれ紹介したい」という形での依頼だったはずだが、没になったのか、実際に使われたのかさえ聞いていない。書きっ放しというのもアレなので、とりあえず「再掲」ということにしておく。
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【はじめに】
 桓武天皇によって平安京が造営されたのは、西暦794年のことでした。以来、京都は政治と文化の中心地として輝きを放ち続けます。しかし、都に暮らす人々が作り出したものは、雅という言葉で括られる明るいものばかりではありませんでした。生活のすぐそばにあるおぞましいもの、おどろおどろしいものをも紡ぎだしていたのです。まばゆい光のもとでは見えないのに、ひとたび日が沈み、夜のしじまがあたりを支配するようになったときにうごめき出すもの、それもまた京都という巨大都市が生み出したものでした。そんな目に見えないものに対して、人々は一つの名前を与えました。平安時代の学者、源順は、それは隠れるという文字、オンが訛ったものであるといいます。姿を現さないように隠れているところからそう呼ばれるようになったのであると。そう、鬼です。
 昔の人々は、目に見えないはずの鬼たちの姿を、ときには物語の文章に、ときには絵巻物の上に書きとどめました。そして鬼たちが現れる場所をさまざまに伝えてきたのです。そうした鬼スポットをめぐってみてはどうでしょう。それもまた、京都を知るための切り口です。怖くないかって? さあ、どうでしょう?、明るい昼間に訪れるのなら、たぶん大丈夫なんじゃないでしょうか。でも鬼スポットへ行ってみて、変なものを連れて帰るようなことがあると……、その先は言うのを止めておきましょう、言葉にすると本当になるということもありますので。ともあれ、昔の人々が見てしまった百鬼夜行、魑魅魍魎の世界をちょっと覗きにいってみましょう。


【1 一条戻り橋】
 京都の鬼スポットとして、つとに有名なのは一条戻り橋でしょう。一条通が堀川を越える場所にあるこの橋は、現代の京都を基準にすると、交通量の多い堀川通の喧噪に紛れて見落としてしまうくらいちっぽけな存在です。しかし、平安時代の戻り橋は実際の大きさとは別の重みをもって意識されていました。京の北の端にあること、目に見える境界線である堀川を越えること、そして宮廷からみて丑寅の方角にあること、これらの理由から異界との通路であるかのように感じられていたのです。都市の規模が膨張することで町並みに飲み込まれたとしても、この橋の周辺では不思議な噂が語られるようになっていたのです。
 たとえば、こんな話があります。十世紀の初頭、朝廷では三善清行という宰相が活躍していました。その清行が亡くなった折、息子の浄蔵大徳は、修行に出かけていて親の死に目に会うことができませんでした。浄蔵がそれを悲しんで祈ったところ、棺の中から清行が蘇って親子の別れを果たしたといいます。そして、この奇跡の起きた場所が一条戻り橋であり、「戻り橋」の名前は、宰相のよみがえる故であると伝えられているのです。また十一世紀の歌人、和泉式部には「いづくにも かへるさまのみ わたればや もどりばしとは 人のいふらん」という歌が伝わっています。帰り道にだけ渡る橋だからだろうか、みんなは戻り橋と呼んでいるようだ、というこの歌からは、当時の人々が一条戻り橋に抱いていた思いを感じとることができるのではないでしょうか。この他に、戻り橋で百鬼夜行に遭遇した男の話や、安倍晴明が戻り橋の下に式神を隠していろいろな術に使っていたという話など、戻り橋にまつわる伝説は、数え切れないほど伝わっています。
 しかし、多くの伝説の中でも、とりわけスペクタルに富むものといえば、渡辺綱と茨木童子の対決です。時は十一世紀、源頼光という武人がいました。頼光と聞いただけで鬼神たちも怯えたという剛の者でした。頼光の家来には、四天王と呼ばれる武士たちがおり、その筆頭に挙がるのが渡辺綱です。ある夜、綱が主人の使いで一条大宮に出向いた、その帰り道のことでした。綱が戻り橋に差しかかったところ、年の程二十歳くらいの女がたった一人で歩いていました。時が時なら、場所も場所、不審に思った綱が声を掛けると、女は送っていって欲しいと言います。綱の方も、そのつもりで声をかけたので、軽く応じて女を馬に乗せます。しかし、しばらく歩んでいたところ、女はいきなり鬼の姿となり、綱の髻を掴んだのです。そして「わが行くところは愛宕山ぞ」と叫んだかと思うと、天空へと駆け上がりました。髪をつかまれたまま空中へ連れ去られた形になったのですが、そこは頼光がもとにその人ありと言われる渡辺綱です。たまたま主人より預かっていた伝家の宝刀、髭切を一閃。すると綱のからだは北野天満宮の上に放りだされたのです。そうして地上に降りたってみると、髻には髪をがっしりと握りしめたまま、どす黒い鬼の腕がぶら下がっていたといいます。
 この話には後日譚があります。腕を切られた鬼は綱の養母に化け、ふたたび綱の前に現れては、まんまと腕を取り返しているのです。さながら痛み分けとなった形なのですが、平家物語などに語られるこの戦いは、そののち御伽草子「酒呑童子」にも取り込まれます。そこでは、かつて都で綱と渡り合ったのは茨木童子だったと名が明かされ、酒呑童子が頼光に討ち取られた後、猛り狂った茨木童子が「主を討った奴らに我が力を見せてやる」と叫ぶと、「貴様の手の程は先刻承知」と綱が応じて、三たび相まみえる様子が描かれています。宿命の対決を繰り返すこととなる渡辺綱と茨木童子、時代が下ると歌舞伎や新劇などの舞台、あるいは小説や現代のマンガなどにも再生産される二人の関係は、この一条戻り橋から始まっているのです。

【2 宴の松原】
 さて、鬼スポットの代表格である一条戻り橋ですが、宮廷からみると、ほんの近い場所でした。宮廷の東の端が大宮通ですから、二筋ほど、現代風にいえば二百メートルそこそこの距離です。平安京が造営された頃は北の端だったのですが、人家がさらに北へ東へと拡張していったからです。これは宮廷の目と鼻の先で鬼たちがうごめいていたことを意味しています。しかし、それだけではありません。鬼たちは実は、宮廷の中へも入りこんでいたのです。今昔物語集が伝える、一つの事件をお話しましょう。とある役人が朝勤めの政務に出向いた時のことです。夜が明けきる前に出勤するきまりでしたが、その日はいつもよりすこし遅くなってしまいました。通用門のところには上役の牛車がとまっており、すでに出勤しているようです。急いで庁舎の建物に入ってみると、火も灯されていなければ、人の気配もありません。不思議に思って、人を呼び、灯りを点けさせてみると、床の上には血まみれになった頭髪がところどころに散らばっていたのです。扇や沓など、その上役の身の回り品も血に染まった形で近くに残されていました。当時の人々は、鬼に喰われたのだろうと噂したとのことです。庁舎の中においてでさえ、こうしたことがおきるのですから、宮廷の中といえ、もっと人気の少ない場所になると、さらに奇怪な出来事があります。国家の歴史書として公式に編纂された書物にも、こういう記録が残されています。光孝天皇仁和三年八月十七日のこと、武徳殿の東側、宴の松原と呼ばれる場所を三人の女房が歩いていたところ、松の木陰に見目かたちの麗しい男が立っていました。その男は、女の一人を誘って木の陰へ連れていったのですが、しばらくしても戻らない、それどころか物音も消えてしまいました。残りの二人が様子を窺いにゆくと、女の腕と足が地面に落ちていたのでした。警護の者たちが改めて探しても頭とからだは見つからなかったとのことです。この出来事は、のちの時代の説話集にも引き継がれ、宮廷内の鬼スポット「宴の松原」を名前を決定づけています。なお現代では、千本通出水の交差点を西へ入ったところに、小さな石碑が当時の場所を伝えているにすぎません。

【3 貴船神社】
 こうした宴の松原の人喰い鬼のように、その素性がわからないものに対して、生身の人間が鬼と化した話もあります。京の奥座敷こと、洛北は貴船を舞台にした謡曲「鉄輪」は、信じていた夫に裏切られた女が悲痛な思いを抱えて貴船神社に詣でるところから始まります。「あまり思ふも苦しさに、貴船の宮に詣でつつ、住むかひもなき同じ世の、中に報ひを見せたまへ」。男に対する恨み言はおのずと呪いの文言へと変わってゆきます。それを聞きつけたのか、貴船神社で告げられたのが、頭に鉄輪をいただき、その足に火をともして祈れば、呪いは果たされるだろうとのお告げでした。浅ましい心を恥じた女は、それは自分のことではありませんと否定したものの、顔色は赤みを帯び、髪は逆立ち、すでに鬼の姿となっていたのです。そして口をついて出た言葉は「恨みの鬼となって、人に思ひ知らせん」でした。丑の刻詣りとか、呪いのわら人形とかの形で世に広く知られているのは、丑三つ時、午前の二時過ぎに、憎い相手に見立てたわら人形を杉の木に釘で打ちつける呪術行為です。しかし、その作法を少し詳しく言うと、頭に鉄輪を逆さまに載せ、その足に蝋燭を結わえ付けるとか、赤い顔料で顔を染めるとかのことが含まれています。それらは、謡曲「鉄輪」に描かれた、神のお告げと重なっています。貴船神社は、賀茂の水源を守る水の神として古くから朝廷の篤い信奉を受けてきた神社です。しかし、室町時代のあたりからでしょうか、呪いの丑の刻詣りを行う場所としても、その名をとどろかせるようになっていったのです。
 謡曲「鉄輪」によれば、鬼となった女は、もとの夫を呪い殺そうとしますが、安倍晴明によって調伏されることになっています。近世になると、このストーリーに尾鰭がつき、呪い返しを受けた女が苦しんで身を投げたという井戸も語り伝えられるようになりました。堺町通松原を下がったところにある鉄輪井がそれです。現在では水も枯れているのですが、かつては縁切りに効き目のある霊水としても知られていたといいます。

【4 宇治橋】
 ところで、「鉄輪」の鬼には、そのモデルとされる鬼がいます。「宇治の橋姫」と呼ばれる鬼女です。橋姫は、古くは橋を守る女神に対する呼び名でした。十世紀の初頭に成立した古今和歌集や、十一世紀の源氏物語では、男の訪れを寂しく待つ女のイメージとして橋姫が呼び出されていましたが、時代が下がるにつれて違った姿で描かれるようになりました。平安時代末期にまとめられた和歌の手引き書には「橋姫の物語」として、このような話が紹介されています。ある男が二人の妻をめとっていました。最初の妻が病の床についた時、男は妻の求める七色の海草を探しに出かけます。ところが男はそのまま行方知れずとなり、帰ってきませんでした。男を探していた妻が、浜辺のとある小屋に泊まった夜のこと、「さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫」と歌いつつ、消えた男が姿を現したのです。そうして自分は海の神にさらわれたのだと、帰れない事情を話して一夜をともにするのですが、夜が明けると男は再び消えてしまいます。その話を伝え聞いた二番目の妻は、同じように浜辺の小屋で男を待ちます。すると同じように「衣かたしき」の歌を歌いつつ、男が現れるのですが、二番目の妻は男の心変わりを詰ってつかみかかります。すると、その瞬間、男の姿も浜辺の小屋もたちどころに消えてしまったのでした。この段階では、鬼こそ出てきませんが、女のうちの一人が嫉妬の炎にとらわれていることになっています。この炎は、平家物語の描く橋姫になるとさらに燃えあがってくるのです。すなわち、嫉妬に狂った女が貴船の神に、自らを鬼となして憎い相手を殺させて欲しいと祈るのです。そうして女は、頭には松明を結わえた鉄輪を乗せ、口にも松明をくわえて両端に火を灯し、その姿で都大路を駆けて宇治川に浸ること二十一夜、ついに本物の鬼となったのでした。そして平家物語は、これが宇治の橋姫であるというのです。ここに描かれた鬼女橋姫の姿が、「鉄輪」の女につながってゆくのは明らかでしょう。源流をたどれば、古今和歌集に詠み人しらずとして載せられている「衣かたしき」の歌になる孤独な橋姫だったのですが、中世にはいると、貴船神社に籠もり、炎をたぎらせつつ宇治橋を目指して駆け下る鬼女へと変貌してゆくのでした。

【5 老ノ坂峠】
 ここまで、いろいろな鬼を見てきたわけですが、現代のわたしたちが「鬼」といわれて一番先に思い付くのは、大江山の鬼こと酒呑童子ではないでしょうか。茨木童子を含め、赤鬼、青鬼、その他たくさんの鬼たちをたばねた首領、鬼の中の鬼、それが丹波の大江山を根城とした酒呑童子だったのです。それと同時に、源頼光とその家来の四天王によって退治され、頼光の武勇伝を際だたせる悪の代表にもなっています。そうした大江山の酒呑童子ですが、その拠点は丹波ではなく、洛西は老ノ坂峠付近だったという説もあります。中世の御伽草子では「丹波国大江山には鬼神の住みて」となっていて、それ以降に成立した物語や絵巻物、あるいは近代の唱歌でも鬼退治の舞台は丹波の国です。酒呑童子伝説を観光PRに活用する福知山市大江町の場合も、そうした流れをうけてのことでしょう。
 ところが万葉集の時代にさかのぼると、「丹波路の大江の山」は洛西の大枝、つまり現在の京都市西京区大枝のあたりと考えられているのです。洛西の大枝は、大きな枝と書いてオオエと読むので、サンズイのエで表される大江山の酒呑童子とは結びつきづらいのは確かです。それでも、老ノ坂峠が西国と山城をつなぐ古くからの交通路だったので、山賊集団の姿が酒呑童子のイメージになったのだとすれば、洛西説にも説得力が出てきます。また洛西の大枝に対して、サンズイのエを用いている文献があることも、こちらの説を後押ししているといえるでしょう。
 国道9号線や京都縦貫自動車道の通る現在の老ノ坂峠からは、昔の街道らしさは感じられませんが、道路を離れて山道に入ってみると、酒呑童子の首を埋めたと伝える首塚大明神が祀られています。伝えるところによれば、丹波の国で酒呑童子を討ち取った頼光一行がこの峠にさしかかった時、酒呑童子の首が突然重みを増して運べなくなり、仕方なくこの場所に埋めたとされています。大江山丹波の国説を前提にした伝説ですが、老ノ坂峠で酒呑童子伝説が語られるようになった背景には、なにがしかの意味合いがあるように思えてなりません。

【まとめにかえて】
 京都には、さまざまな鬼スポットがあります。今回ご案内したものは、その中のごく一部です。紀長谷雄が鬼から碁の勝負を挑まれたというのは宮廷の正面、朱雀門でした。また平安京の正門である羅城門も、鬼の出現スポットとして有名な場所です。これらについて、一つひとつお話をしてゆくとなると、おそらく時間はどれほどあっても足りなくなってしまいます。しかし、それは表面的には煌びやかに装われることの多い京都の歴史が、一皮めくってみるだけでその裏側に、底の見えない暗闇を抱えている証にもなるのではないでしょうか。コワいもの見たさの気持ちからでも、それをほんの少し覗いてみるのも、面白いことでしょう。ただ、くれぐれも注意してください。本当の鬼には、けっして出会わないでくださいね。

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by office34 | 2014-02-05 23:22 | 京都本・京都ガイド