Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2014年 01月 29日
葵公園
出町の駅前から河合橋を渡って出町橋の手前から北上して下鴨本通りに合流する。土地鑑のある人なら、これだけの記述でどういうルートかはわかるはずだが、もう少し説明を付け加えるなら、賀茂川左岸の道路を北上して葵橋東詰で下鴨本通りと合流するという形だろうか。といっても、土地鑑のある人ばかりとは限らないので地図(googleマップ)でも貼っておこう。
a0029238_1515314.jpg

さて、今回のお題はこのコースを通る時、右手に見える広場である。公園のように整備されているのはよく知られていると思うが、かといって滑り台やジャングルジムなど遊具が置かれている児童公園ではない。また地図でみると高野川と賀茂川が合流する部分に見えるが、「デルタ」の通称で親しまれているゾーンでもない。ということで、この広場の位置づけがよく見えないのだが、鴨川の河川敷全体には「鴨川公園」という正式名称があるので、件の広場も鴨川公園の一部とみられているのだろうか。

実は、当方はこの広場については「鴨川公園」のうちに含めて考えていた。「葵公園」という名前も聞くには聞いてはいたが、それも俗称だろうと思っていたのである。下鴨神社に近いこともあって、賀茂のシンボルである二葉葵を借りての俗称だろう、そのぐらいの認識だった。ところが、さにあらず、実際はこの広場を特に「葵公園」とするのが正式名称だったようだ。そのことがわかったのは、上記の道を通るだけで、普段はほとんど入ることのない広場に足を踏み入れたからである。

広場の中程に銅像があることは、近くを通る際に気づいており、それが目玉の松ちゃんこと尾上松之助であることは随分昔にチェックしていた。だが銅像のあるところからさらに奥、つまり北の方向へ進んでみることはしていなかった。「葵公園」なる名称を知ったのは、広場の奥の方へ進んだところに石碑がおかれており、そこに大きく書かれていたからである。碑陰に刻まれていた文章によれば、葵公園として整備されたのは昭和15年のことらしい。もしかすると現在でこそ「奥の方」という印象になる石碑の周辺だが、整備された頃には入り口付近だったのかも知れない。つまり北側からも普通に入れる状態になっていたのかも知れないということである。

現在では広場全体に薄暗い印象があり、まわりを垣根状の植え込みが取り囲んでいる。それだけでも近づきがたい雰囲気になるわけだが、入り口ゲートの構造がそれに輪を掛けている。北と南の両方にゲートがあるものの、見るからに通りづらそうな構造である。「入ってくれるな」という意志が伝わってくるゲートとは、こういうものを言うのだろう。

もっともこういう状態になったのも理由がないわけではない。おぼろげな記憶で恐縮なのだが、二十数年前はこの広場には放置された自転車が山のように唸っていた。現在のような進入しづらい構造になったのは、それらが撤去された後のことである。自転車の大量放置に対処すべく公園の入り口を入りづらい構造にしたのだが、度が過ぎたのか、歩行者も入りづらくなってしまった、といったところだろうか。ともあれ、「葵公園」なるゆかしい名前が正式のものであることがわかっただけでも収穫としておこう。

参考までに碑陰の文章の書き取り。例によって現場での正確なチェックを怠ってしまったので、一部おぼつかない部分がある。後日要確認。
本園ハ昭和十五年二月大澤徳太郎氏ヨリ金貳萬圓ノ寄附ヲ得テ之ヲ工費ニ充テ官府有地參千五百餘坪ヲ劃シ專ラ体教散策ニ資センガ爲曩ニ三井家ニ於テ植栽セル黒松ニ加ヘ公園施設ヲ計畫シ昭和十五年三月起工同年六月竣工ス茲ニ公園ノ一隅ニ碑ヲ建テ記念トス
  昭和十五年七月
    京都府

a0029238_1515788.jpg
自転車は整理されたが、近年は狸が集まっているようだ




-追記-
碑陰によれば昭和15年に「官府有地參千五百餘坪」が整備されたことになっている。1坪≒3.3㎡で計算すれば約11,550㎡。それに相当する広さを想定すると、通称デルタから賀茂川左岸の河川敷および松ちゃん像周辺の広場ぐらいを含むだろうか。現在の家裁以南、つまり段丘の全体である。道路によって分断されているため、現在では別個の空間のような印象になっているのだが、戦前には河川敷もデルタも含めて周辺全部が「葵公園」だったのかも知れない。それが戦後になって鴨川河川敷の上流下流、左右両岸が整備されたため、河川敷部分だけを特に「鴨川公園」と呼ぶようになったとも考えられる。仮にそうだとすれば、「葵公園」の石碑も、デルタのど真ん中とか、かつては別の場所に置かれていた可能性もある。

-追記2-
碑陰の文章訂正
(誤)專ラ体教散策ニ資センガ爲 → (正)專ラ休養散策ニ資センガ爲
写真に収めただけで現地での確認を怠っていると、帰ってきてから文字が読めないという事態になる。「体教」の箇所は意味不明だったが、改めて現地へ行ってみると「休養」であることが判明。
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# by office34 | 2014-01-29 02:24 | 街角の風景
2014年 01月 22日
山国隊スタイル ~山国隊(5)
“祭りの花形”というと、どういう存在を思い浮かべるだろうか。岸和田のだんじりで、あのだんじりの上で飛び跳ねるように音頭を取っている人は、まさに「花形」というに値する。しかし、同じように屋根の上に乗っていても祇園祭の屋根方は「花形」ではなさそうだ。曳手であったり音頭取の方がずっと注目されやすい。そもそも「花形とは?」と問いかけられるとすれば、目立っているかどうかというあたりが大切になってくるからである。さらにいえば、イベント全体の中での意義というか、位置づけみたいなものが、たとえ脇役であったとしても、目立っていさえすれば「花形」であるかのように思われてしまう場合もある。

たらたらと回りくどいことをいうのは止めて単刀直入に行こう。京都の時代祭についての話である。時代祭の花形といえばなんだろう。神事としての性格を重んじるのなら、神幸列の御鳳輦でなければならない。しかし、それに注目している観光客は、はっきり言って皆無である。ほとんどの人は先導する仮装行列に目を奪われる。そうして一番目立っている、もっとも注目されているという基準からいえば、先頭を進む「維新勤皇隊列」を挙げておけばいいだろう。中には江戸時代や中世の女性列、あるいはものものしい出で立ちの武者行列やコミカルな徳川城使列のパフォーマンスに注目している人もいるだろうが、多数決で決めるとすれば、勤皇隊列の方に軍配が挙がる。

そうすると、維新勤皇隊列は時代祭のシンボルであるとも言えるのだが、かの衣装については少々ツッコミがあってもいいだろう。というのは、時代祭の解説をするにあたって、黒の羽織と紺の袴が維新軍の標準であり、それを再現している云々といったルーズな説明も出回っているからである。勤皇隊列の目立ち方を思えば、勢い余ってそう言ってしまいたくなく気持ちは分からなくはない。しかし、もちろんのことながら間違いである。かの装束は、維新軍、正確には新政府軍または東征軍というべきだが、その軍に付き従った農兵隊の「山国隊」に由来している。そもそも新政府軍といっても、慶応四年(明治元年)の時点では新政府には正規軍はなく、薩長を中心とした諸藩の軍隊の寄せ集めである。実質的な行動は各藩ごとに指揮系統があり、兵の出で立ちは洋式の軍服が主流になっていたはずである。羽織・袴に胴巻きなどの武具をつけるのは、軍制改革ができていない旧式部隊のものであり、新政府軍というよりは、むしろ旧幕府勢力に多く見られたはずだ。

さて、こうした話を前提にして、前回の最後に触れておいた藤野斎『征東日誌』の記述である。
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。
山国隊の人々は士農工商の身分制度に当てはめれば農民なのだが、時代劇で固定的なイメージのもとに描かれがちな貧困層ではない。農村や山村に隠然とした支配力をもっていた名主階級、つまり富裕層である。出征の費用も自前でまかなうことができるぐらいの階級だったから山国隊という部隊も実現させ得たわけである。とはいえ、戦闘のプロでない以上、軍装は寄せ集め品が多かったらしい。因幡藩の指揮下に入ることで旧式銃が貸し与えられているが、上記の引用にあわせて注目したいのが隊の装束である。二月二十二日、藤野のもとに届けられたのは、隊の制服となるはずの注文品だろう。「『胴腹』『三才羽織』等」とあるうちの「胴腹」とは胴丸と腹巻つまり武具のことで「三才羽織」は三斎羽織か。「シヤモの仕立方」云々とある「シヤモ」は股引のような袴の一種らしい(参考)。これらを纏った姿は、洋式軍服と並べるとかなり時代がかったものに見える。日誌に続けて記されている「且つ不恰好なり。一同、大いに不満心なるも、やむを能わずして着服す」というのも、「こんな関ヶ原みたいな格好するのか?」とかいう類いの不満だったのではないか。

仲村研氏は、このくだりを「その晩、京都から胴腹、三才羽織などがとどき、隊員に配布されたが、仕立がわるく不恰好で、全員ぶつぶつ不平をこぼしながら着用した」とまとめ、その上で藤野が京都へ送った手紙を紹介している。そこには
(さりながら)(あつら)へ通リトハ一向粗末ナル仕立様ト申、約束トハ大ニ違ヒ、三才ノ袖ノ行短ク、夫々(それぞれ)一向不揃(ふぞろい)ニテ困リ入申候……
とある。仕立て方が雑だ云々だけでなく「それぞれ一向不揃い」だのといった文句も並べられており、考えていたものとの隔たりが途方もなく大きかったことが窺われる。想像するに、制服になるはずのこれら衣類は新しく仕立てられたというよりは、形の似たものを適当にかき集めてきた?みたいな感じだったのではないか。山国隊にはのちに「(さきがけ)」の文字をあしらった熊毛の陣笠が支給されている。これが山国隊のシンボルになると同時に、隊士はその陣笠を意気に感じていたらしい。しかし三斎羽織に股引のような袴を穿き、頭に熊毛の陣笠を乗せた姿は、見る者には滑稽にも映ったようだ。『征東日誌』の慶応四年四月十七日条には、
一隊彼黒毛陣笠ヲ着シ意気鷹揚然トシテ進軍。人見テ、ガワタロウ隊ト云リ
との記述がみえる。「ガワタロウ」とは河太郎、すなわち河童のことである。カッパ隊だと笑われたと記しているのである。

この山国隊スタイルがどの時点で義経袴に変わったのかは分からない。仲村研氏の『山国隊』には、日露戦争後まもなくの頃という集合写真が掲載されている。それをみればすでに裾の広い義経袴である。実戦面での都合を考えるとシャモの方が動きやすいように思えるので、あるいは時代祭参加にあたって見映えのする姿に改めたのかも知れない。仮に三斎羽織と義経袴の組み合わせが時代祭に合わせて用意されたものであるとすれば、その姿は歴史上のいずれかの時点を再現していることにはならない。さらにいえば、現在の時代祭に登場する維新勤皇隊列は、三斎羽織と義経袴だが、山国隊のシンボルだった熊毛の陣笠は被っていない。山国隊の奏楽を改めて戊宸行進曲を作ったのと同じように、忠実に山国隊を写すのではなく、新規に維新勤皇隊列なるものを編成するという意識が働いたのだろうか。もしもそうだとすれば、維新勤皇隊列は、三斎羽織と義経袴の山国隊に輪を掛けて歴史ばなれをした架空のものということになってしまうわけだが、そこまでいうのは言葉が過ぎるだろうか。
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# by office34 | 2014-01-22 21:34 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 20日
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
はるか遠い昔、京都の難読地名ネタで「一口」だの「上終町」だのを取り上げた記憶があるのだが、いわゆる難読地名はその難読度が上がるとネタとしての面白さが高まり、その結果、いろいろな形で紹介されることになる。そうすると、実際は難読でありながら周知の地名となって、難読度が下がる。いわばジレンマみたいな状況に立ち至るのである。たとえば北海道の「長万部」。知らないと「おしゃまんべ」とは読めないが、おそらく知らない人の方が少ないので、誰でも普通に「おしゃまんべ」と読む。そういった類いのことなのだが、そもそもこんな話を持ち出したのは、有名だから大抵の人が読めるはずの難読地名「各務原」に関連してのことである。

各務原。読み方は当然、「かがみがはら(かがみはら)」である。読み方の由来は古代の鏡作部(かがみつくりべ)にあることや、「鏡が『かかみ・かかむ』から『各務』となった」との説が、wikipediaに紹介されているのだが(「各務原市」のページ,2014.1.20現在)、要するに「鏡が原」が地名「各務原」の根っこにはあるようだ。と、こういった書き方をすると、周知のことをもったいぶって書いているようだが、予備知識をもたずに「鏡が原」という字面に出くわすと、聞いたこともないどこかのマイナー地名であるかのように思ってしまう。このところ、こだわっている山国隊関連の資料を読んでいた際、その「鏡が原」が出てきていたのだが、現実的な地理空間とは結びつかず、たらたらと読み流してしまったのである。そして、あとから「鏡が原」なる地名は謂われの一つ二つを持っていそうな気配だけどどうなんだろうという方向で調べ始めて、ようやく岐阜県の各務原と結びついたのである。
(慶応四年二月)廿二日。晴。六ツ刻発陣。河渡川大激流。洪水ニテ舟流レ、渡シニテ一隊々々ヲ渡ス。両岸ノ群人立錐ノ地ナシ。加納宿兵粮。新加納宿小休。此辺ハ安藤対馬守領地処、被召上尾州侯御預領地ト成ル也。此ノ間ニ鏡ヶ原ト言広野アリ。東西二里許、南北三里ト。中央ニテ野立陣休憩。近江不取敢、○赤心(マスラオ)の心を尚も磨き立鏡ヶ原にうつ里行人ト。鵜沼駅浅野彦右衛門本局泊。
『征東日誌』(仲村研氏・宇佐美英機氏編、S55年・国書刊行会)
山国隊のリーダー、藤野斎の日記『征東日誌』である。仲村研氏『山国隊』が紹介している隊の足跡は、基本的にはこの日記に準じている。二月二十二日に該当する箇所では「二十二日、晴、早朝出発。夜来の大雨で増水している河渡川の激流を渡り、加納駅で中食し、鏡ヶ原を通って鵜沼駅に宿陣した」とある。実は、仲村氏の文章を読んだ段階では「鏡ヶ原」にはまったく注意が向かなかった。それでも、この直後に出てくる装束についての記述が気になっていたので、原文との対照を試みたのである。

するとどうだろう、直後の装束関連もさることながら、鏡ヶ原に触れる箇所が何となく面白げである。一番、気になったのは、このくだりで送り仮名がひらがなになっている点。『征東日誌』の文体は訓読調の仮名交じり文で、送り仮名はカタカナなのだが、このあたりではひらがなが用いられている。深く考えずに読み流していて、なんだろう?と不思議に思ってしまったわけだが、改めてゆっくり読み直すと「そこで一首」といった感じのようだ。要するに藤野が和歌を詠んでいるのであり、和歌の言葉を地の文と区別するために送り仮名でひらがなを使っているのである。
赤心(マスラオ)の 心をなほも 磨き立て
鏡ヶ原に うつりゆく人
移動する意味の「移る」に「映る」を掛けて、さらに「磨く」「映る」「鏡」を縁語仕立てにするなど、修辞も利かせている。内容的には、後の時代の壮士調というか、いきり立っている感じに満ちあふれているが、官軍の名の下に出征していることに気持ちも高ぶっているのだろう。

ほかにも、この加納宿から新加納宿のあたりでは、この地域がかつては安藤氏の所領だったのに尾州侯の預かりとなっている云々など、山国隊の行動とは直接的に関わらないエピソードにも触れられている。そうしたところにアンテナが反応して、そもそも「鏡ヶ原」とは?という形で調べてみたところ、「各務原」と出くわしてしまった次第。

と、余談が少々長くなった。本題はこのくだりに続く、同日(二月二十二日)条の装束に関する記述である。前もって本文を挙げておく。
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。

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# by office34 | 2014-01-20 23:17 | 京都本・京都ガイド