Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 10月 23日
いつぞやの時代祭
時代祭を見に出かけてみた。毎年行っているわけではないが、前回はいつだろうと思って過去の写真を調べてみると、2010年に記録があり、その前が2003年になっている模様。2010年の時はスライドショー仕立てにまとめた時のもののようだが、2003年のはまるで記憶がない。そこで写真の方を見てみると……

a0029238_2294172.jpg


これが平成の写真か?と思うくらいのシロモノ。銀塩で撮って、後からスキャンしたものだが、スキャナーの性能の問題か、それとも腕の問題か、いい写真でないのは確か。それにしても、三条大橋を徳川城使上洛列の毛槍が通過するところなのだろうが、橋の欄干に腰掛けた見物客いるなど、写っている中身も時代感にたっぷりに思えるのは気のせいだろうか。

ところで、時代祭に関する疑問を一つほど。
江戸時代婦人列に大田垣蓮月が登場するのだが、蓮月はどうして角隠しをかぶっているのだろう。他にも梶も角隠しだが、あのコスチュームの意味はよく分からない。和宮、阿国、吉野太夫、内蔵助妻あたりはそれぞれのエピソードを彷彿させるし、玉瀾も相応の出で立ちなのだが、角隠しの二人は意味不明である。調べてみると面白い話が出てくるかも知れない。
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by office34 | 2013-10-23 02:31 | 街角の風景
2013年 02月 15日
三条大橋の"アレ?"かな
「木屋町をあるく」シリーズのスタートは三条大橋だった。その三条大橋ネタとしてよく紹介されるものの一つに、秀吉時代に築造された橋脚がある。摂津国御影から切り出されたとされる橋脚で、天正十七年云々の刻字が認められるものは記念品的に重宝がられ、西詰や平安神宮などに飾られている。しかし、橋脚を構成していたすべての石材に刻字が施されていたわけではなく、刻字のないもの、すなわち素性は判然としないものは、橋が架け替えられた後には単なる産廃とならざるを得ない。おそらく大部分は、具体的にどういう形でかはわからないが、しかるべき方法で「処理」されたに違いない。

ところで「処理」されたに違いない橋脚の残骸?が時折、意外な場所に残っていたりすることもある。有名なものを挙げるとすれば、平安神宮の蒼龍池に設けられた飛び石だろう。臥龍橋と名付けられているのだが、その素性は池の中に埋め込まれた橋脚群である。斎館前に鎮座している天正十七年云々の刻字のあるものとは別に、平安神宮の一部に生まれ変わった三条大橋橋脚である。ちなみに灯籠や庭石など石材のリサイクルは、平安神宮の神苑を設計した小川治兵衛が好んだ手法としてよく指摘されていることであり、円山公園の日本庭園にも、橋脚かな?と思わせる石材が地面から顔を覗かせていたりする。

さて、そうした事情を頭の片隅の置いておくと、なんということのない街角で、これってもしかして?と思ってしまう石材と出会うこともある。この京都クルーズ・ブログでも何回か取り上げているのだが、またしてもその「あれ?」と出会ってしまった。場所は知恩院古門前の、白川べりである。知恩院前の交差点から知恩院方面へ進み、ちょうど太鼓橋を越える場所である。橋のたもと北側にさりげなく立っているのは、まさしくかの石材である。

a0029238_20475212.jpg
厳密にいえば、三条大橋というところまでの特定はできないし、天正のものかどうかなどもわからない。なんとなく細いかなという気もしなくはないし、堀川に掛かっていた松原橋の橋脚がどうたらこうたらという話も頭の片隅には残っている。そのあたりは刻字のないものについては共通することなので致し方ない。しかし、大胆に総括するとすれば三条大橋に代表される石の橋脚のなれの果てであることは間違いない。知恩院の門前の橋の傍らは、漬物を作るわけでもなし、機能的にその石が必要となる場所ではない。どうみても記念品的に鎮座しているとしか思えないのである。そして石材の形状に注目すると、太さといい、ジョイント部の突起といい、かつては鴨川の真ん中で踏ん張っていた柱の一部をなしていたブツと思えてしまうのである。

a0029238_20475678.jpg
表面には何か刻まれていたようにも思えるが、摩滅が著しい。文字の痕跡と言われると、そのようにも思えるし、自然にできた文様と言われるとそう思えなくもない。




[参考]
三条大橋西詰、平安神宮、京都国立博物館前庭以外では
鴨川べり(三条京阪下ル)
夷川ダム前
木屋町五条
円山公園




[追記:2013.0216]
なんとなく、行者橋とか門前橋とか、白川に掛かっていた橋の古い橋脚にも思えてきた。だとすれば、ここにあっても不思議ではないか。徳成橋の旧親柱が残されているみたいな感じで・・・・・・
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by office34 | 2013-02-15 20:52 | 橋のはなし
2013年 01月 30日
三条大橋西詰の高札場~木屋町をあるく(2)
a0029238_18305098.jpg
現在ではスタバ前のスペースとなっている西詰の「高札場」

三条大橋西詰の北側に高札場がある。高札場とは、幕府や各藩が発する制札(法令を板に記したもの)を掲示する場所のことで、人の行き来の絶えない場所など人目につきやすいところに設置されるのが普通である。京都の場合、三条大橋西詰がそれに選ばれているわけだが、その意味するところは、三条大橋が繁華の巷であったということだろう。先に触れた高山彦九郎についても、御所を伏し拝んだという事跡が持ち上げられるのだが、その行為だけでなく、場所が三条大橋であったこともポイントである。人目に付く場所でのパフォーマンスというと言い過ぎにしても、人知れぬ形で心情を吐露するのはまったく訳が違う。

木屋町へ入る前段階として三条木屋町界隈を眺め回しているのだが、西詰の高札場を取り上げたのは、ここで起きた事件が幕末の時代相を思わせて興味深いからである。それは慶応二年(1866)の「三条橋詰制札一件」である。長州藩を名指にして朝敵とする旨を記した制札が二度にわたって鴨川へ投げ捨てられることがあり、三度目には新撰組が隠監(隠れて見張ること)を命じられていたのだが、その目の前で土佐藩士らによる取り外しが行われ、新撰組との間での斬り合いとなった事件である。

この三条大橋西詰が高札場であったことはよく知られていることだが、制札を掲げるのは市中一カ所だったわけではない。ことの顛末を詳しく記した「新撰組始末記」(西村兼文)にも「三條大橋西詰ニ兼テ制札掲示所アリ、及ビ其他各所ノ掲示所毎ニ幕府ヨリ掲ケタル制札ニ」という記述があり、何カ所あった高札場の一つが三条大橋西詰だったことが分かる。しかし、事件が起きたのが数ある高札場の一つでの偶発的なものだったかというと、そういうわけでもあるまい。もっともシンボリックな高札場が狙われたと考えるのが妥当ではないか。

この制札が取り上げているのは「(長州が)嘆願ニ托シ、其実強訴、禁闕ニ発砲」(「新撰組始末記」)したこと、つまり元治元年(1864年)七月の禁門の変である。ところが、その後の慶応二年(1866年)には二度目の長州征伐が行われたものの、すでに薩長の密約が結ばれており、軍制の近代化もなされていた長州軍に対して幕府軍は苦戦を強いられ、停戦に持ち込むのがやっとであった。この第二次長州征伐の失敗が幕府の権威を大きく失墜させたことはよく指摘されていることだが、時を同じくして起きているのがこの制札事件なのである。

幕末もこの頃になると、幕府の屋台骨がぐらついていることは衆目が認めるところとなっていたのだろう。この制札事件も、一義的には長州への同情だろうが、実態はあからさまな反幕府のデモンストレーションだったと考えられる。「新撰組始末記」には一度目は十津川郷士の中井正五郎らが行ったことと記しているが、二度目は誰の行為かは明らかにしていない。三度目は斬り合いになっているので事情が詳しく記されているが、それだけで二度目三度目が両方ともに土佐藩士によるものだったとは断定できない。藤崎吉五郎ら土佐の面々は世の風潮に乗じて、いわば調子をコイて手を出してみたところ、見張りがいてチャンバラになったに過ぎないのかも知れない。

思えば、似たような事件はこの付近でたびたび起きている。具体的に高札場がその場所であるとピンポイントに絞られるわけではないが、示威行動が三条大橋を舞台になされたことは慶応二年の制札事件が最初ではない。たとえば、文久三年(1863年)の出来事。等持院に祀られていた歴代足利将軍像のうち、尊氏以下三代の首が持ち去られて「三条河原」に晒されたことがあった。あるいは、天誅の名の下に繰り返された襲撃事件の一つで、村山たかが三日三晩にわたって生晒しにされたのも「三条河原」である(文久二年,1862年)。これらはともに、西詰の高札場と書かれた史料があったわけではない。しかし想像を逞しくすれば、高札場より離れた東詰ではなくて高札場のごく近辺、せいぜい西詰の南側あるいは西詰めの橋下と考えるべきではないだろうか。三条大橋とりわけその西詰はそのくらいの求心力がある場所だったのである。

ところで、もう一件、三条大橋西詰が舞台となる出来事がある。それが赤松小三郎暗殺の一件である。やや牽強付会な気がしなくもないが、他にはなかなか取り上げるタイミングがないので、次回のメーンテーマにする予定である。





(プロローグ)木屋町界隈をあるく / (1)高山彦九郎像 / (2)三条大橋西詰の高札場 / (番外)赤松小三郎と山本覚馬 / (3)佐久間象山遭難碑、大沢商会 / (4)木屋町の寓居碑 / (5)御池大橋西詰の「療病院址」碑 / (6)河原町御池・幕末から明治へ / (7)河原町御池その後 / (8)木屋町二条、島津の作業場 / (9)明石博高と舎密局 / (10)「木戸邸」の碑 / (11)丸太町の女紅場 / (12)鴨東の牧畜場 / (13)荒神橋の京都織物会社本館 / (エピローグ)第一期京都策の時代 /
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by office34 | 2013-01-30 18:03 | 京都本・京都ガイド
2013年 01月 29日
高山彦九郎像~木屋町をあるく(1)
「木屋町散策」の最初のスポットは、なんと言っても三条通だろう。スタート地点を分かりやすい場所にする必要があるので、三条大橋スタートとなっているわけだが、三条大橋はこだわり始めるとそれだけで日が暮れる。しかし、木屋町に入っていく前段階としては、その三条大橋を中心とする三条木屋町の界隈が重要な意味を持つので、それなりの触れ方も必要である。

まずは三条大橋。全般的な話まで戻ると日が暮れるというのも冗談ではなくなるから、橋の東側と西側の二カ所に絞り込んでおこう。東側というのは、高山彦九郎がひれ伏すところの三条京阪の駅前ゾーンである。ここで取りあげるのがその彦九郎像なのだが、今回はその台座と副碑に注目してみよう。西側とは、旧三条大橋の橋脚がこっそりに置かれているスタバ前のことで、ここでは高札場にスポットを当てる。そしてその二つをチェックしたあとで木屋町通へと向かうのだが、高瀬川を越える三条小橋から素直に北上しないで「三条界隈」という括りにしているのは、橋の西側にも注目したいスポットがあるからである。有名な池田屋跡(現在は居酒屋)も要チェックポイントだが、明治という時代をより意識するには、その二軒隣、現在ではロイヤルパークホテル京都の建つ場所がクローズアップされる。

ということで本題。まずは「土下座」の愛称で親しまれている高山像から。その存在感および姿格好から銅像自体は注目を集めるのだが、それと反比例するかのように、台座や副碑の方はあまり取り上げられない。しかし、よく見てみると、台座の文字「高山彦九郎正之」には東郷平八郎の署名が添えられている。そして副碑の方へ目を移すと「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」とあり、「蘇峯菅原正敬書」と添えられている。すなわち徳富蘇峰の揮毫なのである。
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ここで徳富蘇峰って誰?となると面倒になるのだが、今年の大河ドラマ「八重の桜」でも、たぶん10月か11月頃になると登場するのではないか。新島の弟子であり、新島を敬愛するあまり、その裏返しの感情から八重を冷眼視するグループの急先鋒となった人物である。面白いエピソードなのでドラマの中でも取り上げられると思うが、八重をヌエのような女と評したと伝えられているのが、他ならぬ徳富猪一郎、後の蘇峰である。しかし、そうした小ネタ的なエピソードよりも、徳富蘇峰が近代日本に果たした役割の方が、高山像の意味合いを考える上では重要になる。ただし、ここでその微に入り、細に入った説明に踏み込むと、三条大橋以上に日暮れが気になるので、簡単に、国家主義を強烈に鼓吹した人物という言い方でまとめておく(詳しくはwikipedia参照)

一方の東郷平八郎は言うまでもないだろう。日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅せしめた時の連合艦隊司令長官であり、生前には救国の英雄、死後には軍神と崇められた人物である。現在の高山像は戦後になって再建されたものだが、初代の像が置かれたのは昭和三年(1928年)のことである。この頃がどういう時代だったかは、簡単な歴史年表を開けばすぐに分かるが、そうした時代相を背負って建造されたのが高山彦九郎像なのである。そもそも、高山彦九郎が歴史上の偉人と見なされるようになったのは、たぶんに幕末の時期であり、明治になってからは、維新の英雄たちが崇めた先人という意味合いで偶像化が進められ、そこへ皇国史観のイデオロギーが加わって皇室敬仰の偉人という姿が確定したものと思う。そして、その性格を明確に語り伝えているのが台座と副碑に残された揮毫者の名前である。もちろん、言うまでもないことだが、当方はそうした高山像に対してケシカラン!、即撤去すべし!といった近視眼的な思考で接するつもりもなければ、白いペンキをぶっかけてやろうと企む度胸もない。それでも、かの銅像の意味を知ることは大切なことだと考えている。

ところで、副碑の基部に○十(マルジュウ)の紋所があることについて、東郷平八郎が薩摩の人間だから、島津の家紋を掲げているという説が一部で行われているようだが、それはたぶん間違いだろう。島津とのゆかりは分からないが、かの○十は高山家の家紋でもある。ちなみに副碑の背面をみると、鶴丸の紋所が記されており、これは彦九郎の母方の家紋らしい。

さて高山像の話だけで、長くなりすぎたようなので、西側の高札場や小橋の西側スポットは、また次回ということでご勘弁。





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by office34 | 2013-01-29 16:08 | 京都本・京都ガイド
2011年 08月 30日
堀川高校前歩道橋
堀川通蛸薬師のところに歩道橋が架かっている。「堀川高校前歩道橋」というようで、その名のプレートも設置されている。名前からして、通学の便を考えて設置されたのだろう。

さて、そんな堀川高校前歩道橋だが、日常的に使っている人にしてみれば、歩道橋の上から眺める風景もさほど珍しくは思わないはずだが、ここが生活圏に入っていない者にしてみると新鮮味がある。当方の場合は、堀川通は使わないわけではないが、バスの車内にいるか、両サイドの歩道を歩いているかである。そのためと言えばいいのか、歩道橋に上がってみると、相応の高度があって眺めるアングルが変わり、見なれた景色とはまったく違うものに見えてくる。それが印象の違いとなっているようだ。

と、こんなことを言い始めたのは、三条大橋絡みのことである。三条大橋についてタラタラ書き連ねておいたが、それからも関連するネタはいくつかチェックしている。そうした中で、今は亡き、三条大橋歩道橋なるものの存在が気になってきたのである。三条大橋東詰にあって、京阪の地下化に伴って撤去された設備なのだが、歩道橋が写っている写真や、歩道橋の上から写したと思われる大橋の写真などを見ていると、現在、そうした景観を見ることができないだけに、妙に新鮮に感じられてしまった。そんな流れもあって、ふと、堀川通で歩道橋を見かけた際に、用もないのに上にのぼって周辺を眺めまわしてみたのだった。

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四車線道路もこういう角度でみると広さが分かる……というか、ハッピーバスだと言って騒ぐところだろうか

ところで、現在も頑張っている歩道橋というと、どのくらいあるのだろう。五条通と堀川通は車線の多い大動脈なのでいくつかの歩道橋が掛けられているのは知っているが、それ以外の場所となると、あまり浮かばない。南部エリアはほとんど知らないこともあって、除外しているのだが、適当に列挙してみる。
[五条通]
東山五条西入、高倉五条、新町五条、堀川五条、壬生川五条、新千本五条、五条春日、五条天神川上ル、同西入、……桂川より西はパス、太字は重複
[堀川通]
堀川小柳(北山~北大路の間)、堀川紫明下ル(天神公園前)、堀川今出川上ル、堀川蛸薬師(堀川高校前)五条堀川九条油小路*、……九条以南はパス、*京都駅より南は堀川通=油小路
[新丸太町通]
丸太町通花園(木辻通西入)、法金剛院前、双ヶ岡、嵯峨中バス停前、清滝道
[九条通]
九条河原町西入、九条油小路、京阪国道前(東寺前)、九条七本松、西大路九条(吉祥院の交差点)、西大路西国街道、……これより南はパス
[その他]
烏丸寺之内、宝ヶ池駅前、東大路通東鞍馬口、白川通真如堂

ざっと、こんなところだろうか。見落としもあるだろうし、それ以前にもっと南へ下がったり、桂や山科の方を視野に入れたりするとさらに増える。とりあえずは京都の旧市街とその周辺の範囲に絞って、googleマップから拾ってみたところ、上のような具合になったまでの話だ。五条や堀川に多いのは知っていたが、それ以外のところにも案外あるものだなというのが率直な感想である。宝ヶ池や真如堂前のものなど、知らなかったわけではないが、強くは意識していなかっただけに、そういえば……といったところだろう。また機会があれば、それぞれの歩道橋の上から、地上目線では見えない景色を拝んでみるのも面白いかも知れない。
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三条大橋東詰の定食屋、篠田屋に飾られている写真。97年ごろのものらしいが、歩道橋の残骸が写っている。ちなみに写真右隅に見える赤い看板(COCACOLA)の店が篠田屋。

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by office34 | 2011-08-30 09:31 | 橋のはなし
2011年 08月 05日
三条大橋マニアックツアー(1) ~擬宝珠はいくつ?
三条大橋について、少し粘着モードに入ってみよう。以前にも触れた通り、擬宝珠に刻まれている内容は天正年間に架けられた云々なのだが、一つだけ違うものが混じっている。昭和二十五年に橋が改修された際、その事情を記すものである。そのことを知って、あらためて三条大橋の全体像を眺めまわしてみたのだが、これがまた困ったことに、アレ?という事柄が次から次へと現れてくるではないか。世間に流布している情報の多くは安易な再生産がほとんどで、現物を見てアレ?と思ったことに答えてくれるものではない。ネットの世界ではいつものことなので言うまでもないのだが、活字化されているものでさえ、言い古されている内容を無批判に繰り返しているものが多いように思える。中には際どいところを掠めているのに問題の所在に気づいていない記述も目に付く。もちろん、当方の調べ方の稚拙さもあるに違いない。あるいは、それによるところが大きいのかも知れない。しかしそれでも、問題は問題としてはっきり指摘しておくに如くはあるまい。

その第一。三条大橋の欄干には風雅な擬宝珠が設置されているのはよく知られているが、その擬宝珠の総数はいくつになるのだろうか。これは実際に数えてみればすぐ分かる話で、何か驚くようなオチがあるわけではない。ところが、そんないわば自明な事柄だから、問題にならないということなのか、近年の情報では「×個の擬宝珠が設置されて」云々との記述とはあまり出会えない。それで、ついつい古いデータに目をやることになるのだが、実は古いデータに記されている数と、現在の数とでは一致していないのである。そうすると、何時、どういう事情で数が変わったのかということが問題になるはずなのだが、そこはきれいにスルーされているようだ。

とりあえず、実際の数を数えてみる。北側と南側に六個ずつ、合計十二個である。ここで古い紹介文が、十二個の擬宝珠を備えた立派な……との記述なら問題はないのだが、当初は十八個で後には十四個というのがよく見かける説明である。ここではそのサンプルとして、緑紅叢書の「京の三名橋(上)三条大橋」から引用しておく。
最初十八個あり(橋上の勾欄の分は高さ二尺八寸五分が十四個、袖勾欄の分は少しく小さくて、高さ二尺四寸七分 四個)を使用していましたが昭和十年六月二十九日の加茂川洪水の時、東から五番目の橋脚流失し、上部勾欄の擬宝珠四個もなくしてしまい、只今では十四個残っています。その中には洛陽を〓(各+隹)陽、庚寅を横書と縦書の二種あり「造之」を「造焉」としたものもあります。
この説明自体にはなんら問題はない。かの京都大水害の折、古来の十八個から十四個になったというのは、よく紹介されている内容なのである。では、この十四から十二への減少、問題はこの点である。上掲本の刊行年は昭和三十九年である。これとほぼ同じ頃のもので、当方がよく参照する本が竹村俊則『新撰京都名所図会』になるのだが、三条大橋はその第三巻(昭和三十九年刊)に取りあげられている。
元禄・明治・大正の改造を経て、昭和二十五年(一九五〇)七月にいまの姿にあらためた。現在の橋の長さは七四米、幅は一五・五米からなる擬宝珠高欄付の木造橋(ママ)で、擬宝珠は天正時代のものと昭和新造のものとを混用し、よく旧態をとどめている。ただし橋脚は鉄筋コンクリート造とし、橋上はコンクリートで固め、輻輳する交通によく耐え得るように舗装されている。
些細なところをつつくのなら、木造橋という言葉の使い方や三条大橋の改修をかなり少なく見ているのは気になるところだが、擬宝珠の個数を問題にすれば、この範囲では触れられていない。ただ同書には絵図が添えられており、三条大橋を描いたスケッチには十五~六個ほどの擬宝珠が描き込まれている。細部の省略があって厳密な個数確認はできないが、十四以上であるのは間違いない。絵図はあくまでもイメージを伝えるためのもので、数値データでないのはもちろんだが、昭和三十年代の状況をいうのであれば、おそらく「十四個の擬宝珠」としていいだろう。

そうすると、この昭和三十年代と現在との間が問題になるわけだが、大きな変化としてあるのが、昭和四十八年~九年にかけて行われた欄干の取り替え工事である。当時はヘタに体重を掛けたりすると、そのまま鴨川へ落っこちてしまうんじゃないかと危ぶまれるほどの状況になっていたらしく、欄干部分の全面改修が四十年代末に行われている。その詳細については調べが及んでいないのだが、可能性としていうのであれば、その段階で忠実な再現ではなくて、往年の風情を残しつつ新しくデザインし直したことも、あり得ない話ではない。

しかし、仮にそんなことをしたとすれば、蜂の巣をつついたような大騒ぎになったと思われるので、可能性の次元に留めておいた方がよさそうだ。むしろ、もう一つの可能性を強く推したいところである。それが、川端通の拡幅に伴って橋が短縮されたということである。もちろん、これも拡幅工事が何年のことで、具体的にどんな工事が行われたのかが調べられていないので、可能性を言っているに過ぎない。しかし、現在の三条大橋と古い時代のそれを比べると、東詰のあたりにかなりの違いが認められる。

たとえば袖勾欄。田中緑紅は「袖勾欄の分は少しく小さくて、高さ二尺四寸七分 四個」としているのだが、これは現状とは合致していない。田中緑紅のいう「袖勾欄」とは擬宝珠を戴く親柱のすぐヨコで飾り付けのようについている部分のこと思うが(建築の専門用語は不詳、親柱と控柱のことか?、参考ページ、現在の三条大橋では西詰にその構造が認められるのに対して、川端通側には見られない。つまり「四個」ではなくて「二個」なのである。また昭和二十五年の改修では「橋を鴨川と疏水の二部に分け」たというが(昭和の擬宝珠の刻文)、現在の三条大橋東詰は疏水が暗渠となっているため橋は疏水を跨がない。

これらより想定できるのは、疏水の暗渠化工事というか、川端通の拡幅工事が昭和二十五年以降のいずれかの時に行われ、その際に橋の一部が端折られたのではないかということである。それによって、東詰の親柱と袖勾欄の部分に変化が生まれた(袖勾欄が撤去!)ため、それに被せられていた擬宝珠の二つが消えたのではないかと思う。もしそうであれば、十四個から現状の十二個への説明にもなってくるのだが、裏付け調査が必要なのはもちろんのことである。

ちなみに、田中緑紅が指摘する「造之」と「造焉」、および縦「庚寅」と横「庚寅」の異同は、現在の十二個の範囲では見つけられなかったのだが、あるいは見落としなのだろうか。次回はそのあたりをネチネチとやってみよう。

三条大橋マニアックツアー
(1) 擬宝珠はいくつ? / (2) 擬宝珠銘の異同 / (3) 「升本直一」って誰? / (4) 擬宝珠の謎 / (5) まとめにかえて

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by office34 | 2011-08-05 03:38 | 橋のはなし
2011年 07月 22日
三条大橋の刀傷
三条大橋ネタをもう一つ。「三条大橋の擬宝珠というと」という口上から「洛陽三条之橋」云々の銘へ持っていったのだが、近年の傾向からいえば、どうやら擬宝珠に残る刀傷の方が話題になる頻度が高いようだ。いわゆる「池田屋事件の痕跡」とされるものである。
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結論からいうと、かなりのマユツバで聞いているのだが、とりあえず、紹介されるままの形を抜き出してみる。ネタの出所は橋の西詰に設置されている案内板である。
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です。
 三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。
どうだろう、どういう根拠で、この傷が池田屋事件の刀傷と考えられたのか、はなはだ疑問を感じる、というのが当方の受け取り方である。可能性の次元でいうのなら、元治の大火で人々が鍋釜家財道具を背負って逃げまどった時に何かが当たった傷なのかもしれないし、昭和十年の洪水の際に流れてきた何かがぶつかった跡であるといえなくもない。そうしたものではなく、間違いなく刀傷であるというのは、刀剣の鑑定士に見てもらってお墨付きでももらったのだろうか。

なによりも疑問なのは、巷間の言い伝えを精力的に収拾した田中緑紅がその件にまったく触れていないことである。確かに、ある事象に関して存在をいうのは実例を示せば済む話なので簡単だが、非在をいうのは容易ではない。田中緑紅が紹介していないからといって、そのネタが当時語られていなかった証拠にはならないのは百も承知である。しかし、雰囲気的には、池田屋事件のもの云々というのは近年になってどこからともなく出てきたネタであるような気がしてならない。

もちろん、寺田屋の弾痕のように明確に否定される反証があっての話ではない。傷のついている擬宝珠自体は、「洛陽三条之橋」云々の銘が記された秀吉時代のものなので、それ以降の傷なら、どんな形であれ、付けられる可能性はある。池田屋事件に際しての格闘も可能性の一つに含まれるのはもちろんである。ここで問題にしているのは、そうした数ある可能性の中から、池田屋事件だけが無条件に抜き出されたのではないかという疑念なのである。

冒頭に上げた解説板では断定は避けて、「~のではないかといわれており」となっている。その点では厳密な追及は避けられるだろう。もっとはっきり言えば、捏造とかの悪意のある行為ではないかと突っこまれたとしても、逃げることはできる、ということである。しかし、責任は逃れられるにしても、やや勇み足なのではという気がしてならない。話題づくりのため、客寄せのため、と言われたとしても、強く反論するのは難しいのではないか。

そこで一つの提案になるのだが、新選組などの人気にあやかりたいのなら、いっそのこと、こういう解説にしてはどうだろう。
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に大きな傷が確認できます。何か鋭い刃物で付けたような傷です。思えば、この場所は新撰組が一躍勇名を馳せた池田屋事件の舞台と目と鼻の距離にあります。もしかすると池田屋を脱出した志士たちと新撰組が斬り合った時に付いた傷なのかも知れません。三条大橋を渡る時に、ちょっと目をやってみて、幕末の動乱に想像の翼を伸ばしてみてはいかがでしょう。

ちと、長いか……。
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by office34 | 2011-07-22 01:33 | 変なモン
2011年 07月 21日
三条大橋の擬宝珠
五条大橋の擬宝珠に触れたついでに、三条大橋にも触れておこう。三条大橋の擬宝珠というと、「洛陽三条之橋至後代化度往還人」云々で始まる銘がよく知られている。『都名所図会』をはじめ、紹介されるところは多いが、ものごとの順番ということで、ここでも取りあげてみる。
洛陽三条之橋至後代化度往還人盤石之礎入地五尋切石之柱六十三本蓋於日域石柱橋ノ濫觴乎
 天正十八年庚寅正月 日
 豊臣初之御代奉増田右門尉長盛造之

洛陽三条の橋は後代に至るまで往還の人を化度す。盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十三本。蓋し日域において石柱橋の濫觴なるか。天正十八年庚寅正月 日、
 豊臣、初の御代に奉る。増田右門尉長盛、これを造る。
訓読にはいくつか検討の余地が残るが、だいたいこんなもんといったところなら許されるはず。そして、この銘に依って、石の橋脚を備えた最初の橋であるということも、よく紹介されているようだ。

さて、そうした三条大橋の擬宝珠なのだが、あえて取りあげようと思ったのは、このほど、違った記述のものが混じっていることに気づいたからである。秀吉時代のものではなく、戦後になって擬宝珠が新調された際に、橋の沿革などを記す内容となっている。曰く
三条大橋は明治/四十五年三條通/拡張のとき幅員/を倍加して一四/、五米に、橋長/は一〇一米に、/橋脚はコンクリ/ート造としたが/橋面は從来の風/格をもつ木造橋/であつた   /
たま[踊り字]昭和十/年六月の洪水に/あい橋の一部と/擬宝珠一個を流/失 この水害に/鑑み鴨川を改修/し、河底を深く/したので、天正/以来の敷石、礎//石は取除かれた/、重ねて今回こ/の橋の修築に際/し、橋を鴨川と/疏水の二部に分/け、橋長は鴨川/部七四、〇三米/疏水部一六、九/七米、幅員はい/づれも一五、五/米とし、橋面構/造もコンクリー/ト床版としてか/けかえ、この擬/宝珠も新に追補/した /
昭和二十五年一月/
 京都市長   /  神戸正雄  /
数字の小数点と読点に同じ符号を使っていたり、その符号が行頭に来てもそのままだったりするのはともかく、文章自体は平易な現代語なので読みやすい。ただ平易であっても、内容的にやや淡泊すぎる憾みもある。五条大橋の「影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和/した文化観光都市の一つの象徴といえよう」といった類のものは、肩肘が張りすぎて仰々しいかとも思うが、三条大橋のように事実関係のみを淡々と述べられても、擬宝珠の銘文としてはいかがなものかと思ってしまう。ま、どうでもいいかといえば、それまでだが……。

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ところで『京の三名橋』によるところの情報だが、一つ目の銘文には「洛」「各+隹」、「造之」「造焉」、「庚寅[縦書き]」「庚寅[横書き]」の異同があるとのこと。戦後の銘でさえ気づいていなかったというのに、そこまでは到底、目が及んでいない。また改めて、どの擬宝珠がどの表記になっているのかといったあたりを調べてみよう。
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by office34 | 2011-07-21 23:57 | 橋のはなし
2011年 03月 01日
京都の地名表記-通り以外の基準-
 仁丹のものではないが、町名看板を二枚ほどペタペタと。

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 左側は奥まったところにある上に、写真がぶれぶれなので分かりづらいが「三条通大橋東入三丁目」である。右側は「高瀬川筋松原上ル」。片やアケゴコロで、片やスポンサー名も読めないといった具合で、一見すれば共通点のない二枚のようだ。

 そんな二枚を並べたのは、地名表記の方法に関して思うところがあったからである。京都の習慣としてよく言われるのが、東西の通りと南北の通りのグリッドで地名を表記するということなのだが、その例外ケースについてである。かつて仁丹の町名看板の中に、通り名とは思えない表記があることを指摘したことがあるのだが、その際、実例として挙げたのが「一条通紙屋川東入」「七条通高瀬川西入」「六軒通加茂川西入」「大宮通西裏御旅所下ル」だった。参考1,参考2,参考3,参考4

 紙屋川については「紙屋川通」、加茂川については「加茂川筋」という呼称がないわけではない。しかし広く通用しているとは思えないという理由で河川名と判断した。また高瀬川と並行する西側の通りには「西木屋町通」という名前があるのだから「高瀬川西入」も河川名を基準としているのだろうと考えた。

 ところが、ここにきて登場したのが「高瀬川筋」という通り名である。理屈の上では成り立つのだが「木屋町通」や「西木屋町通」という名前がある上に実見したことがないという理由で却下していた「高瀬川筋」なる呼称だったのだが、仁丹のものではないとはいえ、実見してしまった以上は根拠の一角が崩れてしまったことになる。この高瀬川西入は、河川名を基準とする表記の存在を強く裏付けると思っていただけに、かなりの痛手であることは認めなければならない。

 一方、通りでも河川でもなく、ピンポイントの一地点を基準とするケースに関しては「御旅所下ル」はかなり強力な実例と思っている。こちらも理屈だけでいえば「御旅所通」という通り名なのかも知れないという可能性は残っていて、その点では高瀬川筋と同じなのだが、さすがにこちらは実見に到っていない。

 もう一枚の写真「大橋東入」だが、これは「御旅所下ル」と同様、ピンポイントを基準とするケースである。水谷リストによれば仁丹の町名看板にも「大橋東入」があったらしいが、すでに失われたのだろうか、当方は実見していない。今回、アケゴコロのものながら「大橋東入」を発見できたことは、不幸中の幸いといえるかも知れない。ちなみに、三条大橋以外の橋で、地名表記の基準となっているものは「白川橋」がある参考5[このページの余談]
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by office34 | 2011-03-01 22:45 | 町名看板
2010年 10月 31日
高山彦九郎歌碑@三条京阪
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 河原町商店街のアーケードに、イラストで幕末の動乱期を紹介する吊ボードが下がっている。京都新聞にも取りあげられたが(記事参照)、実はこの手のものにはあまり好感が持てない。池田屋事件だの近江屋事件だの、どこぞの国営放送の人気番組に便乗した感じが漂って、浅ましく思えるからだ。

 しかし、そんな中で、ほぅと思わせられたのものがあった。それが高山彦九郎の一枚である(写真クリックで拡大)。いわゆる「幕末」を黒船来航より後に設定するのであれば、高山彦九郎はその時代の人間ではない。「寛政の三奇人」に数えられる内の一人というところからもわかるように、幕末に先立つこと約半世紀の人物である[参考:寛政(1789~1801)]。それであるにもかかわらず、幕末ネタの吊ボードで取りあげられているのは、高山彦九郎を歴史の中から掬い上げる条件として幕末期における眼差しが必要との判断があったのだろう。河原町や木屋町にほど近い三条京阪前に巨大な銅像があるというのも重要なファクターだが、それだけであれば幕末ネタとして云々する理由にはならない。あえて幕末ネタとして扱っているところに感心したということである。

 「人は武士、気前は高山彦九郎」との標題とイラストに続く文章は、
三条大橋の東詰に、御所に向かってひざまづく武士の銅像がある。江戸中期の尊皇家・高山彦九郎である。幕末には勤王の志士たちの憧れの的であった。
となっている。標題に掲げられている文言は「さのさ節」(俗謡。法界節の変化したもので、明治三〇年ころから流行。一節の最後に「さのさ」という囃子詞がつく。:大辞泉より)の歌詞として歌われたものである。「気概は高山彦九郎」「気前は高山彦九郎」の二様が流布しているようだが、前者がオリジナルではないだろうか。「気前」の方は、勘違いからいつしか広まったものではないかと思っているのだが、詳しくは不明。本文の方は、呆れるくらいに平板にしている点はともかく、真木和泉や久坂玄瑞ら、尊皇アジテータたちによって行動規範と意識されていた先人だったのは確かである。

 幕末期には、諸士が鑑と仰ぎ、明治になってからは俗謡にも歌われ、ついには巨大な銅像までが建てられた高山彦九郎なのだが、戦後にはその影はどんどん薄くなる。御所を遙拝したというエピソードも、土下座したという形に置き換えられるようになる。当然ながら銅像の由緒も忘れられ、ハチ公前のような感じでの分かりやすい待ち合わせ場所となった。そして平成の現在では、修学旅行生などから「あのコワい顔したオジサン、誰?」と言われる始末である。そんな高山彦九郎を、龍馬伝が流行っているご時世、その便乗商品のごとく登場した吊ボードに紛れ込ませるのは、ある意味、見識と言えるだろう。どうせやるのなら、頼山陽も取りあげて「幕末の志士たちが愛読したベストセラー作家だった」というような紹介をしてくれれば拍手喝采ものだったが、そこまでには到っていないようだ。ヤリスギは禁物、何事も塩加減が大切ということなのだろう。

 ところで三条京阪前の高山像だが、同じ場所に高山彦九郎の歌碑(写真クリックで拡大)もあるので、歌碑文学碑ネタとして紹介しておこう。日記(寛政京都日記?)からだろうか、自筆歌を石碑に写し取ったもので、傍らにはそれを翻刻した石標も建てられている(一部、用字が合致していないような気もするが……)
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寛政三年三月十五日
恐れみ畏れみ恪み謹みて
よめる  正之
われをわれとしろしめすぞや
*の玉のみこへ**のかゝる嬉しさ
*すめろぎ    
**正しくは「こゑ」

 光格天皇の拝謁を賜った時の感激を詠んだもので、戦時中に編纂された「愛国百人一首」(昭和18年,1943年)なるものにも採られた有名な一首とのこと(ウィキペディア「高山彦九郎」のページより)。

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「顔がコワい」と、表情に注意を払ってくれるだけでもハナマル級?

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by office34 | 2010-10-31 03:46 | 歌碑・文学碑など