Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
S M T W T F S
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2013年 10月 25日
ひさしぶりに葵橋
祭の日葵橋ゆく花がさのなかにも似たる人を見ざりし
シチュエーションが分からないから、意味もなかなか見えてこない。

時代祭の話に触れて三条大橋を取り上げたついでみたいな感じなのだが、葵祭の方に視線をもっていくとピックアップされるのは葵橋である。もっとも現在の葵橋は出町橋-河合橋のさらに上流に架かる橋の名前なのだが、祭の行列が通った葵橋となると、今でいうところの出町橋-河合橋のはずである。上に引いた一首は、与謝野晶子の歌で明治37年刊行の「恋衣」に載るものだから(上記引用は岩波文庫『与謝野晶子歌集』)、明治の終わり頃の事情に照らして考えねばならない。現在の葵橋の場所に橋が架かったのは、正確には覚えていないが、もう少し遅くなるはず。過去に取り上げているネタだから、ブログ内の過去の記事を調べれば、少しは確定的なことが言える気もするが、「もう少し遅かったと思う」という言い方でごまかしておこう。ともあれ、上の歌にある「葵橋」はデルタのところを横切る橋のはずである。

出町柳のどのあたりかは分からないが、あの付近で行列を眺めつつ詠んだ歌という前提で考えると、ではどうなるだろう。シチュエーション次第で解釈が替わるのは「似たる人」である。探している人に似ている人なのか、自分と同じような気持ちでいる人なのか、それとも『源氏物語』を念頭において光源氏に似た人とでも言っているのか、いろいろ可能性は浮かびはするが、そこで打ち止めである。シチュエーション次第で替わるということは、要するにシチュエーションが分からないと解釈もお手上げになるからである。

時代祭ネタからのついでで煮え切らないお題を一つ、埋め草として。
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by office34 | 2013-10-25 03:13 | 橋のはなし
2011年 05月 13日
与謝野晶子歌碑@蹴上浄水場(続報)
蹴上浄水場の敷地内にある与謝野晶子歌碑、
御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院
         いでて見たまへ 紫の水
についての話。近くに設置されている解説板では、歌は明治三十四年の春、辻野旅館で鉄幹と過ごした時のものとなっているが、先に触れた折りには、それに疑問を呈しておいた前回記事。その後、府立図書館蔵書の範囲で初出の確認はとれたので、ちょこっと報告してみる。
御目みめざめの鐘かねは知恩院ちをゐん聖護院しやうごいん
        いでて見たまへむらさきの水みづ
                  ----脚注----
                       [初]耳無草-藝苑 明治39.2
                       [新](3)眞如堂
                       [改](3)方廣寺

『定本與謝野晶子全集』第一巻 歌集一
  (昭和五十四年、講談社)
さて、脚注の意味するところだが、それは以下の通り。
  • 初出誌は「藝苑」(明治39.2)で、「耳無草」という標題の稿
  • 新潮社版『晶子短歌全集』(大正八年~九年刊)では第三句が「眞如堂」
  • 改造社版『與謝野晶子全集』(昭和八年~九年刊)では第三句が「方廣寺」

 専門家のマネをしてさらに調べるとすれば、「藝苑」という雑誌がどういうもので、「耳無草」がどういう内容の稿なのかも見なければならないだろう。しかし、それは投げてしまった。また二種類の全集本で第三句が改変されている件については、新潮社版の方は確認できたが、改造社版の方は未見である。ちなみに、蹴上を基準にすれば、知恩院はおよそ南西方向、聖護院は北西、真如堂は北、方広寺は南西方向で知恩院より三倍遠い、といった位置関係になる。鐘が聞こえる方角を問題にしたのか、「院」「堂」「寺」の響きを問題にしたのか、よくわからない改変である。

ともあれ、一応の予想として示しておいた、歌それ自体は明治三十九年の新作ではないかという線が濃厚になったようだ。三十四年につくった歌がなにがしかの理由で温められており、五年後に……という可能性がまったく無いわけではないが、常識的には考えづらい。思うに、蹴上といえば「みだれ髪」の誕生秘話の地という思いこみから、「御目ざめの」の歌を辻野旅館に結びつけて明治三十四年作としてしまったのが、問題の解説板ではないだろうか。
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by office34 | 2011-05-13 00:34 | 歌碑・文学碑など
2011年 05月 04日
与謝野晶子歌碑@蹴上浄水場(補足)
昨日の続き。歌碑の近くに設置されている解説板の内容に疑問を感じているのだが、手順として、その文面を書き出すところから始めてみよう。
與謝野晶子歌碑
    御目ざめの鐘は知恩院聖護院
           いでて見たまへ紫の水

このあたり一帯は粟田口といわれ、昔は東海道から京都への入り口にあたり、刀鍛冶や陶工が多く住んでいたことで有名なところである。
 明治三四年の新春、新詩社神戸支部と関西文学会の共催する文学同好会者大会が神戸で開かれ、鉄幹も出席した。その帰途、鉄幹は晶子と思い出多い粟田山麓の宿「辻野」で落ち合い、二泊三日の時を過ごした。
「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」
の歌はこの時の作であり、歌集「夢の華」に収められている。
 旅館「辻野」はすでになく、今その跡はこの浄水場の敷地となっている。
 ここに歌碑が建てられたのは昭和二九年十一月のことである。京都歌人協会や街道社の有志らが中心となって、さらには雲珠短歌社の協力も得て、旅館「辻野」の跡地の少し西よりのこの場に、石碑を建て、晶子自筆筆蹟を●●●晶子の五男にあたる與謝野健氏の長女、浩子さんによって除幕された。
一部撮影ミスで文字が不明になっているが、「筆蹟を写し、晶子の~」あたりだろう。

課題は「御目ざめの」の歌が作られた年代である。この歌が『夢之華』(明治三十九年九月刊、金尾文淵堂、晶子の第六歌集)に収められていることについては、上記解説板だけでなく、『京都 現代文学の舞台』(河野仁昭氏、平成元年、京都新聞社)にも触れられているので、たぶん間違いはないだろう。ただし、同書には初出に関しての明確な記述はない。確認のために該当箇所を引いておく。
与謝野晶子が詠んだ歌は四万首を超えるといわれる。京都の歌も多い。固有名詞などは詠み込んでいないが、京都での体験にもとづくものと思われる歌も少なくない。
 目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水
昭和二十九年に蹴上浄水場の敷地内に建てられた碑に刻まれている晶子の歌で、歌集『夢之華』(明治三十九年九月)に収められている。この歌だと、場所が大体推定できるが、それは東山の粟田の宿だ。
与謝野晶子と粟田 -「みだれ髪」-
『京都 現代文学の舞台』100p, 初出:「京都」昭和六十二年四月号
河野氏のエッセイは、この後、明治三十三年十一月と翌三十四年一月の二度にわたる密会について記している。三十三年秋のものは、鉄幹、鳳晶子、山川登美子の三人で辻野に泊まったものであり、翌年のものは鉄幹と晶子二人での宿泊である。
三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿
いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人と一人
秋の粟田での経験を踏まえたものとして、河野氏が紹介するのは上の二首。そして翌年春の密会の後に詠まれたものとしては
君さらば粟田の宿のふた夜妻またの夜までは忘れ居給へ
春寒のふた日を京の山ごもり梅にふさわぬわが髪の乱れ
を挙げる。さらに、続いて「このときから、晶子は堰を切ったように、いわゆる「みだれ髪」調の歌をよみはじめるのだ」と記している。

このエッセイのテーマが「みだれ髪」であり、「乱れ髪」誕生の舞台として粟田の宿にスポットを当てているのだが、浄水場敷地内の歌碑に刻まれた「御目ざめの」の歌に関する突っこんだ言及は、ない。「御目ざめの」の歌がいつ詠まれたのかに関しては、意図的に触れないようにしているようにさえ感じられる。その一方、話のとっかかりで「御目ざめの」の歌を紹介し、そこからの流れで辻野での密会に及んでいるのだから、暗にその頃の歌であるかのようにも読めてしまう書きぶりでもある。

結局のところ、三十四年一月の密会の後、「堰を切ったように」始まった一連の作歌を「明星」誌上で確認すること、そこに「御目ざめの」の歌が含まれているかどうかをみるしかない。仮に、含まれていたとすれば、その歌が三十四年七月の『乱れ髪』に収録されなかったなにがしかの理由があることになるし、含まれていなかったら三十九年の時点での新作である可能性も出てくる。粟田の辺りから京の風景を詠んだ歌というだけなら、
遠き目に比叡ひえとも見たるいただきや大文字あるおぼろ夜の山
というものもある。春霞のかかる夜の景色では比叡山と思いきや、大の字が見えたということなのだが、比叡山と大文字山が同じ方角に見えるというのであれば、これも粟田口のあたりから見た眺めに基づくものと思う。そして、この歌が収録されているのが『夢之華』なのである(後に『与謝野晶子歌集』[自選、昭和13年刊]にも再録)。粟田の宿が舞台となっているというだけで、三十四年の作と決め撃ちするのは早計すぎる。

ともあれ「明星」誌上での確認がなによりものポイントになるのだが、現時点の予想としては、「御目ざめの」の歌は三十九年時点での新作ではないかと思っている。歌の舞台が粟田口であり、そこから辻野旅館への連想が働き、三十四年の密会に際して作られたものだろうといった思いこみが、後世のいずれかの時点でなされるようになったのではないだろうか。河野氏あたりは、思うに、作歌年代が厳密には確認できないことを知っているので、エッセイの中ではわざとあいまいにしているのだと思う。

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by office34 | 2011-05-04 04:16 | 歌碑・文学碑など
2011年 05月 03日
与謝野晶子歌碑@蹴上浄水場
a0029238_23412282.jpg
このGW期間、蹴上浄水場が一般公開されている(京都市水道局の案内ページ。通常は立ち入り禁止の施設なのだが、毎年、五月上旬の数日間だけ開放されており、今年はそれをGW期間に宛てたようだ。これは水道局が毎年やっている企画で、案内ページにもあるように、敷地内にはツツジがたくさん植えられていることから、京都のツツジ名所として紹介されることもある。

当方のアンテナは草花に対しては反応しないわけではないのだが、感度が鈍いのは事実である。浄水場の一般公開に関しても、そういうイベントがあることは知ってはいたが、ツツジがどうのこうの言われているうちは、さほど興味は動いていなかった。そうした状況が変わったのは、市内の歌碑めぐりをするようになってからである。与謝野晶子歌碑が、この立ち入り禁止の施設内にあることを知ったからである。

過去の記事を振り返ってみる。すると「歌碑・文学碑など」カテゴリーでは、昨年の3月5日の「祇園小唄と円山公園」が一番古い。それ以前にも歌碑ネタはあるが、集中的に扱い始めたのは、だいたいそのあたりからである。そして、その流れの中で与謝野晶子の歌碑を取りあげたのが9月11日の「与謝野晶子歌碑@岡崎、蹴上」となっている。

蹴上に晶子歌碑があることを知って探しに出かけた覚えはあるのだが、実はそれがいつのことだったかは覚えていない。あいまいな記憶をたどれば、ねじりマンポの近くで晶子歌碑のことに触れた観光案内図を発見して、浄水場の敷地内であることを知る、そしてその後で水道局に問い合わせて、実見するためには一般公開の時期を待たなければならないことを確認したような気がする。9/11の記事を読み返すと、歌碑が浄水場の敷地内にあることには触れている。そこから推測すると、歌碑を探し回ったのは、おそらくその数日前のことだろう。

a0029238_23412241.jpgそんな伏線があったわけだが、待ち望んだ一般公開がやってきたので出かけてきた。ツツジの方は五分咲きにも達していない状況で、見栄えのする株がポツンポツンと散在している程度。それでも、ねじりマンポ~インクライン~南禅寺(三門)を一つの視界で捉えるのは、浄水場の敷地内からでなければ不可能な話である。そこにワンポイントでツツジが入ってくれれば上出来といえる。

それに浄水場という施設の条件になるのかどうか分からないが、やや高度のある場所を占有しており、敷地内のあちらこちらから市内を展望するスポットがある。すぐ近くには東山展望台があって、展望の良し悪しだけでいえば、それには及ばないものの、普段は見ることのできない角度からの眺めという意味では、貴重な機会だった。

そして、真打ちの歌碑。刻まれているのは、
御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院
         いでて見たまへ 紫の水
である。河野仁昭氏『京都 現代文学の舞台』等で、歌碑に関する情報は得ていたが、やはり実物を見ると印象も変わってくる。なによりも驚いたのは、上の句を後ろに書いて、下の句を前に出している点だ。まともに読むと
いでて見たまへ  紫の水
                晶子
御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院
となってしまう。刻字は晶子の自筆らしいが、こういう書き方をしている短冊があったのだろうか、石の形状を考慮して、わざとそういう文字配置にしたのだろうか。『京都 現代文学の舞台』にも歌碑の写真は載っているものの、文字まで確認できる写真ではなかったので、実物を見て驚いてしまった。

なお裏面には歌碑の基本情報が刻まれている。それも紹介しておく。
昭和二十九年十一月文化の日建之
              京都歌人協会
建立代表者       街道社
  北島瑠璃子     雲珠短歌社
              京都市水道局
石匠  石寅
また、この歌碑のすぐ近くに解説板が設置されている。この解説板が置かれたのは歌碑設置よりかなり遅れる気配だが、詳しくは不明。

その解説板によれば、「御目ざめの」の歌が作られたのは明治三十四年の新春で、歌が収められている歌集は明治三十九年刊行の『夢之華』とのこと。明治三十四年の新春といえば、晶子の名前を一躍有名にした『乱れ髪』上梓の同年七月より早い。一方、明治三十九年は日露戦争終戦の翌年である。「君死にたまふことなかれ」でバッシングの対象となったのが日露戦争に際してのことだったのを思うと、晶子の年譜でいえば、すでに人気女流歌人としての地位を確立している時代にあたる。

解説板に従えば、デビュー以前に作った歌を、名声が確立してからの歌集(しかも、『乱れ髪』から数えて六集目になる)に採録したことになるのだが、その点については疑問を感じないわけではない。明治三十四年の作という点が正しいのかどうかは、たぶん「明星」での初出状況を確認すればはっきりするかと思うが、実際にその作業を行っているわけではないので、何とも言えない。この件は、もう少し調べが進んでから改めて触れることにする。


-おまけ-
敷地内には「つつじのトンネル」と名づけられた小径がある。灌木のツツジなのだが、その「トンネル」では樹高があって、花の下をくぐれるようになっている。ただし、今回は、肝心のツツジがほとんど咲いていなかったので名前倒れである。それでも「トトロみたい!」と言って喜んでいる人もいた。確かにそう言われると、そんな気がしなくもないか……
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by office34 | 2011-05-03 23:59 | 歌碑・文学碑など
2011年 02月 28日
与謝野晶子歌碑@あちらこちら
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 与謝野晶子歌碑を紹介した流れから、あと四首ほど。
・清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
・年更けて歌舞練場のかがり火の雫おちんと眺めにぞ行く
・四條橋おしろい厚き舞姫の額さゝやかに打つ夕あられ
・玉まろき桃の枝ふく春のかぜ海に入りては真珠うむべき
 「みだれ髪の会」がたくさんの歌碑を設置していることは前回の投稿でも触れたとおりなのだが、そのうち写真が手許にあるのがこれだけ。所在地は上から順に八坂神社南門前、甲部歌舞練場前、四条通川端上ル、東大路通新門前東入。

これら以外で未見を列挙すると、
・御目ざめ鐘は知恩院聖護院いでてみ給へ紫の水(蹴上浄水場)
・秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手とつめたき(永観堂)
・夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘(直指庵)
・五月雨に築地くずれし鳥羽殿のいぬいの池におもだかさきぬ(城南宮)
・皐月よし野山のわか葉光満ち末も終りもなき世の如し(落柿舎)
・天地を間に置ける人と人頼みがたしと見ねば思はる
(中立売通七本松下ル)
といったあたりか。この他に短歌ではないが、「君死にたまふことなかれ」(長歌)が国際平和ミュージアムにあるとのことだが、これも未見。今回はとりあえず報告のみ。

*鞍馬寺、岡崎、清滝の碑は既出
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by office34 | 2011-02-28 03:49 | 歌碑・文学碑など
2011年 02月 23日
山の動く日
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 噴火や地震のことではない。アラブ圏で続いている政治動乱のことでもない。「山の動く日」という詩の話である。

 周知のように、この言葉は与謝野晶子の詩だ。紹介されることも少なくないのだが、wikisourceによれば、もとは「そぞろごと」という詩の一部で、一般に知られているものよりずっと長編だった模様コチラ。初出誌である「青踏」創刊号は未確認だが、『晶子詩篇全集』に収録されたときに第一節のみが独立して、よく知られている形、すなわち「山が動く日」というタイトルのものとなったのだろう。

 このブログでは歌碑関連の話も時折やっているわけであるが、「みだれ髪の会」という団体があちらこちらに建碑していることもあって、与謝野晶子もたびたび登場している。「山が動く日」を刻んだ碑も存在しており、これまたご多分に漏れず「みだれ髪の会」が作って贈呈したものである。それが上の写真である。碑があるのは東洞院通六角下ルのウィングス京都、その1Fロビー。「みだれ髪の会」の活動パターンからいえば、建碑が第一目標である。碑をつくって、それを置くのに相応しい場所を探すという順序になるようなので、「山が動く日」碑の場合は、男女共同参画センターという施設の趣旨を踏まえて、ここが選ばれたものと思われる。

 ところで、この詩を象徴する一句は言うまでもなく「山が動く」なのだが、一部ではこの言葉は土井たか子の名言として紹介されている。土井たか子が党首をしていた時に社会党が大躍進することがあって、選挙後のインタビューで土井が言った「山が動いたね」というコメントが評判になったのは事実である。その点においては「土井たか子の名言『山が動いた』」とする記述も間違いではない。しかし土井の発言自体、与謝野晶子の詩を踏まえているのは明らかであり、より正確を期すのであれば「土井たか子が口にしたことで注目された与謝野晶子の言葉」とするのがいいだろう。

 ちなみに、与謝野晶子詩の文脈では女権運動という大枠があるのに対して、土井たか子が使った時には、オリジナルにとらわれず、より広範な政治動向を意味するようになっていた。それまではウンともスンともいわず「無関心層」とされていた集団が大挙して意思表示をしたのは、まさしく「山が動いた」わけである。
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by office34 | 2011-02-23 18:05 | 歌碑・文学碑など
2010年 11月 22日
与謝野晶子歌碑@清滝
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 京都は西の雄、愛宕山の玄関口が清滝である。紅葉の名勝としても有名な清滝、そのシンボル、渡猿橋を少し上流から撮ってみた……というわけではない。この写真のテーマは歌碑なのである。

 京都の歌碑ネタをするうえで、ずっとネックになっていた一基がある。それが清滝の与謝野晶子歌碑である。
ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里
    水の清滝 夜の明けやすき
の一首を刻んだ碑があるという話はかねてより聞いてはいた。それを紹介する文章もよく目にする。しかし、なかなか実物を見るには到らなかった。その昔は岩壁に歌が刻まれていたが、それが読めなくなったので歌碑が置かれたとかのエピソードも聞く。しかし清滝のどこの壁に歌が刻まれており、現在の歌碑がどこにあるのか、そうしたことが分からないまま、時だけが過ぎていたのである。

 清滝は何度か訪れたことはある。ただいつもは愛宕山へ登るための通過点としての位置づけなので、清滝でうろうろ探して廻って時間を費やすことはしていなかった。清滝のバス停から渡猿橋を経て愛宕神社の表参道に入るという標準的なコースを通ってゆく中で、普通に目に留まるのなら問題はないのだが、そういう場所ではないのか、お目に掛かりえていなかった。それだけに、なにかイヤなもののような感じになって、喉の奥に引っかかってしまっていたのである。そうした事情のあった歌碑なのだが、このほどようやく実見に到った。いつまでも放置しておくのもイヤだったので、歌碑探索というテーマのもと清滝へ出向いたのである。

a0029238_3241124.jpg 京都バスの停留所には周辺の観光案内マップが掲げられている。それによれば、歌碑は渡猿橋のたもとに描かれている。その通りなら、何度も通っている場所である。ということはこちらの目が節穴すぎて、何度通っても見落としているということなのだろうか。渡猿橋を越えたところに徳富蘆花の文学碑があることは、以前に訪れた時に目には留まっていたが、それと同じような具合で晶子碑があったのに見落としていたということなのか。訝しく思いつつ、渡猿橋へ向かう。橋のたもとに駒札がある。これは知っていた。いつもは注意して読まずにやり過ごしていたのだが、今回は歌碑が目的だから、細かな字で長々と書かれている解説を読んでみる(写真クリックで拡大)

 一瞥だけで頭に収まってくれるほど単純な内容ではない。この場所を訪れたのは五~六回目くらいかと思うが、「ほととぎす 嵯峨へ一里~」と書き出されていることで、この歌の説明だと決め打ちをしてまともに読んでこなかったことが災いしていたようだ。駒札には歌碑の所在や、設置の経緯についてもきちんと説明されていた。まとめると、
(1)最初のものは昭和三十三年に作られ、三十九年に修復
(2)生誕百年*の記念事業で作り直され、右岸**岸壁に設置
  *与謝野晶子生誕百年記念は昭和五十三年
  **下流に向かっての右手を「右岸」、左手を「左岸」という

(3)それも読めなくなったので左岸に歌碑を設置
とのこと。橋の上からの目視では分からなかったのだが、左岸にある歌碑が三代目で、岸壁に刻まれた云々というのは二種類ある(「あった」と過去形にするべきか)らしい。

a0029238_3153097.jpg 駒札を丁寧に読んでやっと整理ができたので、改めて渡猿橋から清滝川の河辺に設けられた遊歩道に降り、下流方向へ少し下った場所でようやく歌碑の発見に到った(写真クリックで拡大)。その場所にあると最初から分かっているとすれば見落とすことはない大きさなのだが、《渡猿橋の近く》というだけでは発見は難しいと思う。当方の場合もそうだったのだが、普通なら渡猿橋の上から漠然と眺めまわすだけだろうし、その場合に木の陰になっているような歌碑に目が留まるかどうか、ということである。「行けばわかる」といった類の説明は論外なのだが、《渡猿橋の近く》というのも、それと大差がない。腰を据えて探すより前に通過してしまうのが毎度のことだったとはいえ、《渡猿橋から川岸に降りて、下流へ》といった程度の案内はあった方が親切だろう。

 なお歌碑の傍らにある添え書きだが、これは吉井勇による一文である。駒札にも「文字を書いたのは祇園の歌人といわれる、故吉井勇先生である」とあるが、吉井勇の手跡による晶子歌を岸壁に打ちこんだということである。添え書きの内容は以下の通り。
往年知を得たる頃のことを思ひ與謝野晶子夫人の歌をしるす
    昭和三十三年四月 洛東歌客 吉井勇
 さて、これで三代目については無事解決したのだが、初代および二代目についてはどうだろう。ここで最初に掲げた写真が問題になる。駒札によるところの情報は「渡猿橋直下右岸の自然の岸壁」とあるだけである。「直下」というのが有力な手がかりになるので、左岸のみにある遊歩道を行きつ戻りつしながら右岸の様子を探ってみると、何か文字盤めいたものがはめ込まれている。対岸からでは記されている内容までは分からないので、飛び石づたいに可能なところまで接近してみると、歌ではなさそうだ。しかし雰囲気的に前掲の吉井勇による一文のようである。ということは、その周辺に歌があったのかと思って、さらによくよく見回してみると、「ときす」「峨□□」「三」などの痕跡が認められる。そして少し離れた場所には「水」とか「晶子」とかもある。最初に目に留まった「ときす」などの文字群を基準にすると、その歌に添えられた署名とみるには「晶子」の場所が離れ過ぎているのが気に掛かるが、初代と二代目の痕跡がランダムに発見されたのか、発見できるのはすべて二代目のものだが上の句と下の句を離して打ちこまれたかのいずれかだろう。
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上流側から渡猿橋に向かって右手下方に痕跡(A~C)が認められる。A:吉井勇の添え書きと思われる文字盤。B:このあたりに認められるのが上の句か(「ときす」など)。C:下の句と「晶子」の文字(「水」など)

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左から順に、該当箇所全体、Bのあたり、Cのあたり(それぞれクリックで拡大)。

 ところで渡猿橋のたもとにあった駒札だが、「"ほととぎす自由自在になく里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里"という顕光の狂歌にヒントを得て」云々とあるが、この部分は間違い。「顕光」ではなく「頭光」である。狂歌も「なく里」ではなく「聞く里」だろう。指摘の内容は『全釈みだれ髪研究』に拠っているかと思うのだが、残念ながらネタもとからの写し間違いをしてしまったようだ。歌を評して、「誠に晶子の才気と歌の世界の素晴らしさは、絶賛に値するといわねばなるまい」と鼻息荒くまくし立てている箇所であるだけに、このような写し間違いは、う~ん残念!といわねばなるまい。参考までに全釈の該当箇所を引いておこう。
一読直ちにかの有名な頭光[つむりひかる]*の狂歌、
  ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里
を聯想させる。数詞の技巧を愛する作者は、多分この狂歌に興味を感じ、意識してその句法を借りたのであらう。例の形容詞連体止の形式は、この歌の場合特に効果的に用ひられてゐる。
『全釈みだれ髪研究』(佐竹籌彦、昭和三十二年、有朋堂)
*頭光は江戸時代後期の狂歌師。詳しくはウィキペディア参照

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by office34 | 2010-11-22 04:09 | 歌碑・文学碑など
2010年 11月 12日
与謝野晶子歌碑@鞍馬寺
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 鞍馬寺にある与謝野晶子歌碑について。金堂から奥の院参道へと進み、木の根道へ入る手前にある鉄幹・晶子歌碑は有名で、このブログでも一度取りあげた(参考までに)。鉄幹の「遮那王が背くらべ石を山に見てわが心なほ明日を待つかな」と、晶子の「何となく君にまたるるここちしていでし花野の夕月夜かな」の二基が並んでいるものなのだが、近くにある晶子書斎の冬柏亭と併せて紹介されることも多い。

 ところが鞍馬寺にはこれ以外にもう一つ、晶子歌碑があるとの話を聞いた。刻まれているのは、かのコクリコの歌らしい。冬柏亭に掛かっている軸の色紙がコクリコの歌なので、その話を聞いた最初は、あるいは冬柏亭の色紙が歌碑という形で誤って広まったのかも知れないと疑ったのだが、その歌碑から拓本が云々とか普明殿の近くにある云々とかの話なので、色紙とは別物のようだ。

 このほど、また鞍馬寺を訪れる機会があったので、普明殿近くにあるコクリコの歌碑とは?ということをテーマにすることとした。鞍馬寺の普明殿とは、簡単にいえばケーブル山門駅のことである。鞍馬寺を訪れるのは一度や二度のことではないが、いつもつづら折り参道を歩いて上っている。それでケーブル駅の周辺はノーマークになっていたようだ。今回はテーマが明確になっているので、自力で探すより先に受付で訊ねてみたのだが、駅の中にあるので入ればすぐにわかるとのこと……なんと分かりやすいお答え、と思いつつ駅舎に入ってみると、確かに目に前にデーンと据えられた大きな歌碑がある。普段利用しない施設の中だったとはいえ、これほど目立つものを知らなかったのは、ちょっと恥ずかしくもなるくらいだ。

 ところで、コクリコの歌というと、上でも触れたように、冬柏亭にその色紙が掲げられている。それなら歌碑に採られているのは、その色紙の文字を原版にしたものなのだろうか、といったあたりを気にしていると、駅内の歌碑の近くには、原版の件も紹介されていた。いわく、
與謝野晶子先生歌碑
  あゝ皐月ふらんすの野は火の色す
  君もコクリコわれもコクリコ
(鞍馬寺蔵「百首屏風」より写す、コクリコはひなげしのこと)
山上の霊宝殿(鞍馬山博物館)二階の與謝野記念室には、先代貫首の和歌の師、與謝野寛・晶子両先生の歌ごころを偲び、後学の資とならんことを願って、歌稿や遺品類を収蔵、展示しています。
また霊宝殿付近には、晶子先生の書斎「冬柏亭」や両先生の歌碑もあります。
とのことである。与謝野晶子の伝記類を読むと、やたら子だくさんであった上に、亭主の稼ぎがほとんどないことも重なって、日々の生活は苦しかったことも紹介されている。そうした中で生活費を捻出するために作られたものの一つが、この説明に出てくる「百首屏風」なのだが、これは平べったく言うと、評判の人気歌人となった頃の晶子グッズである。冬柏亭の色紙も、生活費のため、依頼されるままにどんどん作っていたといわれるうちの一枚だと思われるので別物ということになりそうだ。並べて厳密に比べてみると(写真下、右:冬柏亭の色紙、左:普明殿の歌碑)、同一人物の筆跡であるのは間違いないが、細かいトメハネは異なっており、ブツ自体は別物であることがよく分かる。なおコクリコの歌碑は、パリにもあるとのこと(晶子歌碑がパリ市内にある)。その原版が鞍馬寺のものなのかどうか、そのあたりも気になることではあるが、さすがにパリまでは行けそうにない。

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「君も」の「も」や、「晶子」の「子」などは、形の違いが目視で確認できる

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by office34 | 2010-11-12 04:17 | 歌碑・文学碑など
2010年 11月 05日
「晶子さんのこと」西川文子
 一月ほど前になるだろうか、とある古本屋の店先、ワゴンに積まれている雑誌類の中に「武蔵野ペン」というタイトルのものが目に留まった。正確に言えば、雑誌名に目が留まったのではなく、表紙に並んでいる論文・エッセイのタイトルに中にあった「晶子さんのこと」という文字列が目に留まったのである。与謝野晶子のことだろうと思ったのだが、「武蔵野ペン」という雑誌がどういう系統のものかは知らなかったし、「晶子さん」と言われるだけでいきなり与謝野晶子に飛んでゆく必然性はどこにもなかった。それでも、なんとなく手にとってパラパラとめくってみると、案の定、その手の文章だった。
明治三十一年の春、私の学んでいた京都府立第一高女の本科五年に、凰里子という人が編入試験にパスして入学された。五年に入学するくらいだからとても学課のよく出来る人であった。(中略)或る日、昼休みに校庭を散歩していた時、里子さんは、姉はとても偉らい人だ、蔵にある蔵書を源氏でも古事記でも増鏡でも何でも皆な読破している、と話すので私が、でも平野先生には及ばないでしゃうと云うと、「ソンナの問題ぢゃないわ、」とプンプンにおこられた。
 与謝野晶子に関する思い出録のようなもののようだが、「晶子さん」という言い方からしてそれなりに近しい人物なのだろう。その時点では筆者の西川文子という人物についての知識はなにも持ちあわせていなかったのだが、ワゴンに積まれた叩き売り状態相応のお値段でもあったので、買って帰ることにした。

 与謝野晶子とは、明治から昭和初期にかけて活躍した女流歌人である、という説明をするとすでに歴史上の人物として扱っている。実際、国文学(近代)を専攻する大学生の間では、夏目漱石や芥川龍之介と並んで、研究対象として選ばれるベスト10には確実に入るはずだから、歴史上の人物といって差し障りはない。しかし、その一方で与謝野晶子の作品、とりわけ『みだれ髪』には不思議と親近感を抱いている読者(むしろファンと言った方がいい)も少なくない。百年以上前の人物なのだから、歴史の一コマとして扱われるのは当然であるにしても、いまだ根強い「ファン」を持ち続けているのは、珍しいケースなのではないだろうか。

 かなり以前のことになるが、鞍馬寺を訪れた時、山門の受付で与謝野晶子歌碑の所在を訊ねたことがあった。鞍馬寺に歌碑があるのは知っていたが、具体的に境内のどこにあるのか把握していなかった頃の話である。その際、受付にいた方(さほどの高齢には見えない)は、あたかも直接に面識があったかのような感じで、「ああ、晶子先生のですね」という口調で応じてくれたのだが、その調子が印象に残ってしまっている。法輪寺でもお寺の方の口から小督おごうさんという言い方が出てきた場面に接したこともあるので、鞍馬寺で出会った「晶子先生」という呼び方は、鞍馬寺という空間がそうなさしめているだけなのかも知れない。しかし、そうした詮索とは別に、与謝野晶子はまだ歴史になりきっていないのだろうなという印象を抱いたのは確かである。

 「武蔵野ペン」という雑誌に掲載されていた「晶子さんのこと」というのは、与謝野晶子と直接の面識どころか、親戚付きあいのあった西川文子の文章である。後日、調べてみて、西川文子(1882~1960)とは大正期の女権活動家でかなり高名な人物であったことを知った。そうした意味では、単に親戚筋というだけではなく、大正期の与謝野晶子や平塚らいてうらとは同じ文化圏にいた人物になるわけである。このあたりはまったくの勉強不足を恥じねばならないところだが、「晶子さんのこと」という回想録は、その最晩年に記されたものである。

 ところで、この手の回想録には、故人を美化するために記され、信憑性を疑わざるを得ないものもないわけではないが、この「晶子さんのこと」という一文はそういうタイプのものではなさそうだ。もちろん、誹謗めいた物言いを連ねて貶めようとしているわけでもないし、無責任に持ち上げているわけでもない、単にタラタラと思い出を記しているといった感じのもので(駄文と言ってしまえばそうかも知れない)、それだけに与謝野晶子の素顔に近いところの興味深い記述も含まれている。

 当方は与謝野晶子に関しては、興味は抱いているものの、掘り下げた知見を持ちあわせているわけではない。したがって「晶子さんのこと」というエッセイが与謝野晶子研究においてどんな位置づけになるのかなど想像も付かない。案外、専門家たちの間ではよく知られたもの、ありふれたものというオチがあるのかも知れない。しかし、読んでみて面白く感じたのは事実である。ということで、筆者の没後五十年が経過して著作権も切れているのをいいことに、勝手にPDF化してみることにした。

 PDF版「晶子さんのこと」(西川文子,武蔵野ペン第三号,昭和三十四年)
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by office34 | 2010-11-05 04:16
2010年 09月 11日
与謝野晶子歌碑@岡崎、蹴上
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 京都市内にある歌碑文学碑の中では、与謝野晶子はその設置数が多い一人だろう。以前、鞍馬寺にある鉄幹・晶子歌碑を取りあげたことがあったのだが、その後、調べていくうちに、方々にあることが知れた。上に掲げた一枚は、ウィキペディアに写真が載っていたところから所在を知ったもので、岡崎のみやこめっせにある一基(写真クリックで拡大)。敷地西端の植え込みの中にあって、意識的に探さないと素通りしてしまうが、逆に意識的に探すと見落とすことはない。

 碑の表には、
友染を なつかしむこと 限りなし
     春の来るため 京思ふため
の歌が刻まれている。裏側には、
宮崎友禅斎生誕三百三十年記(以下埋没)
与謝野晶子生誕百年記念歌碑第[略字]八(以下埋没)
一九八四年五月二十六日
みだれ髪の会   
とある。友禅染めを歌い込んでいる一首を選んでいるのは、設置の契機に友禅斎の生誕記念を加えているためだろうが、こじつけめいた印象がないわけでもない。友禅組合を巻きこんで資金面での援助を受けたとかの事情でもあるのだろうか。みやこめっせの敷地内ということだから、京都の伝統産業を歌い込んでいる一首という意味でのピックアップとも言えなくはないが、この場所に設置するのに、なぜこの歌なんだろうというのが第一印象だった。

 なぜこの歌なのか、というところを突き詰めると、鞍馬寺にある「花野の夕月夜」歌だって、なぜ?となってしまう。並んでいる鉄幹歌碑の方は、はっきりと鞍馬寺にある背比べ石を取りあげているので、その理由はわかるが、晶子歌碑の方はよくわからない。当方が知らないだけで、あるいは「花野の夕月夜」の歌が鞍馬寺で詠まれたものなのかも知れないが、ともかくなぜの一つである。

 京都市内にある晶子歌碑といえば、当方の知る範囲では他に、清滝、八坂神社、永観堂、蹴上にある。このうち、八坂神社のものを除けば実物は未見。それでも碑に刻まれている歌は調べがつく。
[清滝]
ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里
   水の清瀧 夜の明けやすき
[八坂神社]
清水 祇園をよぎる 櫻月夜
   こよひ逢ふ人 みなうつくしき
[永観堂]
秋を三人 椎の實なげし 鯉やいづこ
   池の朝かぜ 手と手つめたき
[蹴上]
御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院
   いでて見たまへ 紫の水

 清滝と八坂神社にあるものは、地名を詠み込んだもので、場所と歌の関係は明白。永観堂および蹴上にあるのは、鉄幹・山川登美子・晶子の三人で密会した際に作られた歌らしいので、その成立事情から、かの地にあるということなのだろう。ただ、蹴上のもの(正確には浄水場敷地内)は、三人が投宿した辻野旅館跡地がその付近というゆかりがクローズアップされるのだが、本当にそうなんだろうか。旅館の跡地が正確にどうこうというのではなく、その跡地を偲ぶというのが、本当の設置理由なのかどうかという疑問である。

 もし辻野旅館跡地を記念してというのが本当の理由であるとするなら、この「知恩院聖護院」の歌が選ばれる必然性がやや弱い。三人が辻野旅館に泊まった日から数ヶ月後、ふたたび鉄幹は晶子を呼び出して同旅館を訪れている。そしてその時のできごとの方が、与謝野晶子を語る上では重要になるはずだから、選ぶのであればその際の歌の方だろう。
むねの清水 あふれてつひに 濁りけり
   君も罪の子 我も罪の子*

君さらば 粟田の宿の ふた夜妻
   またの世までは 忘れ居給へ**
 ナマナマしいということで却下なんだろうな、きっと。だとすれば、「知恩院聖護院」の歌も辻野旅館跡地という要素が前面に出されるのではなく、「紫の水」と山紫水明の京都を詠んでいるという意味で浄水場に設置されたとなるのではないだろうか。そして背面の理由として、実はこの場所はかの辻野旅館が云々という具合の隠し味扱いになっているのではないかと思うが、どうだろう。

*『みだれ髪』(明治34)による。昭和8年版では「清き水 あふれてつひに 濁りけり 君も罪の子 我も罪の子」(岡島昭浩氏「日本文学等テキストファイル」より)
**『みだれ髪』(明治34)には「君さらば 巫山の春の ひと夜妻 またの世までは 忘れゐたまへ」とあり、昭和8年版にはなし。「ふた夜妻」は鉄幹宛の書簡にある歌(河野仁昭氏『京都 現代文学の舞台』より)
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by office34 | 2010-09-11 12:41 | 歌碑・文学碑など