Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2014年 02月 23日
京都景観賞
なんでも聞くところによると、森下仁丹と仁丹楽会が「京都景観賞」の特別賞として表彰されるとのこと(参考までに)。それはそれで大変素晴らしいことだし、とりわけ仁丹楽会の方々による町名看板の啓蒙・保全活動には敬意を表さねばならない。しかし、その一方で前回記事のように消えゆく仁丹町名看板があることを報告せねばならないのは痛恨の極みである。かつてあった場所から町名看板が消えていたりすると、まずは盗難の可能性を疑ってしまうわけだが、もちろんそう即断できる話ではない。何者かが看板の価値に対して自覚的でない家主から買い取ったということだって考えられる。維持経営が難しくなった寺院仏閣より古い仏像が闇ブローカーに流れてゆくのと同じ構図である。

しかし、そうしたことが起きるのは仁丹の町名看板に対するコレクター的な需要が一方にあるからだろう。もちろん他人様の物欲や所有欲を否定する権利が当方にあるわけではないのだが、こと町名看板についていえば、あれはしかるべき場所に掲出されているがゆえに価値があるということも忘れないでいて欲しいと思う。錦鯉がきれいだからといって、その鱗をはぎ取ってしまっては元も子もない。

ともあれ、失われたものは致し方ないと諦めざるを得ないのだが、今回の「京都景観賞」などを通して、仁丹町名看板の意味がもっと周知されることが望まれるばかりである。

おまけネタ(レプリカ仁丹発見)
a0029238_2259584.jpg

こちらについての詳細は、また改めて……
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by office34 | 2014-02-23 23:05 | 町名看板
2014年 02月 21日
仁丹町名看板「下椹木町通千本東入」ご昇天
前回の未確認情報に関する続報。結論からいえば、件の町名看板はなくなっていた。

「下椹木町通」とは、丸太町通の一筋北側の通りである。したがって仁丹町名看板に記されていた「下椹木町通千本東入」とは、千本丸太町の交差点を北へ上がり、一筋目を東へ入った場所になる。看板それ自体は、南東角の木造家屋に貼られていた。それが見事に消え失せている。建物は健在なので町名看板だけが取り去られたようだ。

仁丹楽会の方々の活動もあって、最近は認知度も高まってきているように思っていたが、取り去る輩はいるということなのだろう。

a0029238_19532420.jpg
白い部分ではないけど、近づけば町名看板があったことを示す“跡地”がわかる

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ありし日の仁丹町名看板「下椹木町通千本東入」




a0029238_19392730.jpg

千本丸太町の交差点、北西角のシャッターには「神の心」を訴える文言が書かれていた。残念ながらメッセージは千本通を隔てた向こう側には届かなかったらしい。
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by office34 | 2014-02-21 19:58 | 町名看板
2014年 02月 19日
レプリカ仁丹
たまには、仁丹の町名看板ネタでも。

というのも、通りがかりに目に留まり、思わずなんか変だなと思ってしまったから。それがこれ。
a0029238_14171574.jpg

見ての通り、非常にシンプルな体裁となっている。碁盤目の外側で有無を言わせない場所なら不思議にも思わなかったが、坊城通を四条から上がったところだから、坊城通四条上ルとあってもおかしくないはずである。それによく見ると「中京区」となっている。それで気になって調べてみたところ、マニアの方たちの会話で「模造品のある『壬生御所ノ内町』」なる発言がなされていることを知った。なるほど、レプリカだったか、というわけで一件落着(こちらのコメント欄)




あと余談を少しばかり。住宅のリフォームが始まっていたので、どうなるか気になっていた松ヶ崎の一枚。新しくなったお宅に無事収まっている模様。
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もう一つ、気がかりネタ。走行中のバスからの一瞬だけだったので見間違いの可能性も大きいが、もしかすると下椹木町通千本東入の一枚が無くなっているかも知れない。あったはずの場所にそれらしきものが見えなかったのだが、単に見間違いであることを願うばかり……。
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by office34 | 2014-02-19 14:18 | 町名看板
2014年 02月 08日
鬼めぐり
鬼の話にふれたついでということで、街歩きツアーでの鬼巡りをするとすれば、どんな感じだろう。絶対に外せないポイントで挙がるのは一条戻り橋である。有名すぎるとかなんとかの声が出るかも知れないが、晴明神社とセットにしての一条戻り橋、これは目玉商品にせねばならない。

次に挙げるとすれば、北野天満宮である。前回の文章でも紹介したように、渡辺綱vs茨木童子で、茨木の腕を切り落としたあと、綱が落っこちた場所が北野天満宮であり、境内には渡辺綱が奉納したと伝わる灯籠もある。また朝比奈義秀伝説だろうか、鬼との力くらべをモチーフにした絵馬が絵馬所に掛かっていることも忘れられない(参考までに)。さらにいえば、鬼の範疇を魔物全般にひろげるのなら土蜘蛛塚が楼門前の境内摂社あるのも要チェックである。ほかの有名スポットを加えるには、距離的な問題がネックになってしまうので、天神さんと晴明神社・一条戻り橋を軸にするのがベターである。そしてこの二つをつなぐのに、百鬼夜行の通り道、一条通を使えばOKである。

あと補足的な肉付けで、大内裏それ自体が鬼スポットであったことを念頭において、千本丸太町上ルの「大極殿址」、さらに千本出水西入の「宴の松原」といったあたりを加えておく。そして平安京の全体像をあらかじめチェックするという意味で京都アスニー内の平安京創生館に展示されている「平安京復元模型」。これらをずらっとつないでみれば、コースとしてもまとまりが出てくるはずである。つまり、こんな具合に。

1・平安京創生館(スタート)
    ↓
  丸太町通(経由)
    ↓
2・大極殿址
    ↓
  千本通(経由)
    ↓
3・宴の松原
    ↓
  七本松通・御前通(経由)
    ↓
4・北野天満宮
    ↓
5・一条通(経由)
    ↓
6・晴明神社・一条戻り橋(ゴール)

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by office34 | 2014-02-08 14:26 | 京都本・京都ガイド
2014年 02月 05日
鬼の話
鬼の話を少しばかり。というのも節分会の行事のいくつかを見ておこうと思いつつ行きそびれてしまい、結局どこへも行かなかったから。もう少し正確にいうと、ちょっとした勘違いから、大空振りをしてしまったから。

ターゲットにしていたのは吉田神社の方相氏だった。吉田神社の節分会では節分前日の追儺式に鬼が登場、続いて方相氏が登場する、というところまではきちんと事前にチェックしていた。ところが何を勘違いしたのか、追儺式の時間と節分の日に行われる火炉祭の時間とを間違って覚え込んでいた。追儺式は2/2の午後6時より、火炉祭は3日の午後11時より。お目当てのイベントが行われるのが2日であると考えるところまではよかったのだが、時間を間違っていたので2日の10時過ぎにのこのこと出かけていくというお粗末をやらかしてしまったのである。人気のイベントの割には人出が少ないなと思いつつ、気がついた時にはすでに後の祭り……、それで嫌気がさして、次の日の2/3はどこにも出かけずお終い。

それでも、あとで調べてみて分かったのだが、30分や1時間の余裕をもって出かける程度では境内にも近づけないらしい。そもそも吉田神社の境内が狭いというのが最大の原因なのだが、10時過ぎにのこのこというのでは最初から×だったと慰めるしかなさそうだ。

とヘマ談義はこのくらいにしておいて、鬼の話である。といっても新しく書くものではなく、実は以前に頼まれて書いたものである。「京都の鬼をあれこれ紹介したい」という形での依頼だったはずだが、没になったのか、実際に使われたのかさえ聞いていない。書きっ放しというのもアレなので、とりあえず「再掲」ということにしておく。
--------------------------------------------------------


【はじめに】
 桓武天皇によって平安京が造営されたのは、西暦794年のことでした。以来、京都は政治と文化の中心地として輝きを放ち続けます。しかし、都に暮らす人々が作り出したものは、雅という言葉で括られる明るいものばかりではありませんでした。生活のすぐそばにあるおぞましいもの、おどろおどろしいものをも紡ぎだしていたのです。まばゆい光のもとでは見えないのに、ひとたび日が沈み、夜のしじまがあたりを支配するようになったときにうごめき出すもの、それもまた京都という巨大都市が生み出したものでした。そんな目に見えないものに対して、人々は一つの名前を与えました。平安時代の学者、源順は、それは隠れるという文字、オンが訛ったものであるといいます。姿を現さないように隠れているところからそう呼ばれるようになったのであると。そう、鬼です。
 昔の人々は、目に見えないはずの鬼たちの姿を、ときには物語の文章に、ときには絵巻物の上に書きとどめました。そして鬼たちが現れる場所をさまざまに伝えてきたのです。そうした鬼スポットをめぐってみてはどうでしょう。それもまた、京都を知るための切り口です。怖くないかって? さあ、どうでしょう?、明るい昼間に訪れるのなら、たぶん大丈夫なんじゃないでしょうか。でも鬼スポットへ行ってみて、変なものを連れて帰るようなことがあると……、その先は言うのを止めておきましょう、言葉にすると本当になるということもありますので。ともあれ、昔の人々が見てしまった百鬼夜行、魑魅魍魎の世界をちょっと覗きにいってみましょう。


【1 一条戻り橋】
 京都の鬼スポットとして、つとに有名なのは一条戻り橋でしょう。一条通が堀川を越える場所にあるこの橋は、現代の京都を基準にすると、交通量の多い堀川通の喧噪に紛れて見落としてしまうくらいちっぽけな存在です。しかし、平安時代の戻り橋は実際の大きさとは別の重みをもって意識されていました。京の北の端にあること、目に見える境界線である堀川を越えること、そして宮廷からみて丑寅の方角にあること、これらの理由から異界との通路であるかのように感じられていたのです。都市の規模が膨張することで町並みに飲み込まれたとしても、この橋の周辺では不思議な噂が語られるようになっていたのです。
 たとえば、こんな話があります。十世紀の初頭、朝廷では三善清行という宰相が活躍していました。その清行が亡くなった折、息子の浄蔵大徳は、修行に出かけていて親の死に目に会うことができませんでした。浄蔵がそれを悲しんで祈ったところ、棺の中から清行が蘇って親子の別れを果たしたといいます。そして、この奇跡の起きた場所が一条戻り橋であり、「戻り橋」の名前は、宰相のよみがえる故であると伝えられているのです。また十一世紀の歌人、和泉式部には「いづくにも かへるさまのみ わたればや もどりばしとは 人のいふらん」という歌が伝わっています。帰り道にだけ渡る橋だからだろうか、みんなは戻り橋と呼んでいるようだ、というこの歌からは、当時の人々が一条戻り橋に抱いていた思いを感じとることができるのではないでしょうか。この他に、戻り橋で百鬼夜行に遭遇した男の話や、安倍晴明が戻り橋の下に式神を隠していろいろな術に使っていたという話など、戻り橋にまつわる伝説は、数え切れないほど伝わっています。
 しかし、多くの伝説の中でも、とりわけスペクタルに富むものといえば、渡辺綱と茨木童子の対決です。時は十一世紀、源頼光という武人がいました。頼光と聞いただけで鬼神たちも怯えたという剛の者でした。頼光の家来には、四天王と呼ばれる武士たちがおり、その筆頭に挙がるのが渡辺綱です。ある夜、綱が主人の使いで一条大宮に出向いた、その帰り道のことでした。綱が戻り橋に差しかかったところ、年の程二十歳くらいの女がたった一人で歩いていました。時が時なら、場所も場所、不審に思った綱が声を掛けると、女は送っていって欲しいと言います。綱の方も、そのつもりで声をかけたので、軽く応じて女を馬に乗せます。しかし、しばらく歩んでいたところ、女はいきなり鬼の姿となり、綱の髻を掴んだのです。そして「わが行くところは愛宕山ぞ」と叫んだかと思うと、天空へと駆け上がりました。髪をつかまれたまま空中へ連れ去られた形になったのですが、そこは頼光がもとにその人ありと言われる渡辺綱です。たまたま主人より預かっていた伝家の宝刀、髭切を一閃。すると綱のからだは北野天満宮の上に放りだされたのです。そうして地上に降りたってみると、髻には髪をがっしりと握りしめたまま、どす黒い鬼の腕がぶら下がっていたといいます。
 この話には後日譚があります。腕を切られた鬼は綱の養母に化け、ふたたび綱の前に現れては、まんまと腕を取り返しているのです。さながら痛み分けとなった形なのですが、平家物語などに語られるこの戦いは、そののち御伽草子「酒呑童子」にも取り込まれます。そこでは、かつて都で綱と渡り合ったのは茨木童子だったと名が明かされ、酒呑童子が頼光に討ち取られた後、猛り狂った茨木童子が「主を討った奴らに我が力を見せてやる」と叫ぶと、「貴様の手の程は先刻承知」と綱が応じて、三たび相まみえる様子が描かれています。宿命の対決を繰り返すこととなる渡辺綱と茨木童子、時代が下ると歌舞伎や新劇などの舞台、あるいは小説や現代のマンガなどにも再生産される二人の関係は、この一条戻り橋から始まっているのです。

【2 宴の松原】
 さて、鬼スポットの代表格である一条戻り橋ですが、宮廷からみると、ほんの近い場所でした。宮廷の東の端が大宮通ですから、二筋ほど、現代風にいえば二百メートルそこそこの距離です。平安京が造営された頃は北の端だったのですが、人家がさらに北へ東へと拡張していったからです。これは宮廷の目と鼻の先で鬼たちがうごめいていたことを意味しています。しかし、それだけではありません。鬼たちは実は、宮廷の中へも入りこんでいたのです。今昔物語集が伝える、一つの事件をお話しましょう。とある役人が朝勤めの政務に出向いた時のことです。夜が明けきる前に出勤するきまりでしたが、その日はいつもよりすこし遅くなってしまいました。通用門のところには上役の牛車がとまっており、すでに出勤しているようです。急いで庁舎の建物に入ってみると、火も灯されていなければ、人の気配もありません。不思議に思って、人を呼び、灯りを点けさせてみると、床の上には血まみれになった頭髪がところどころに散らばっていたのです。扇や沓など、その上役の身の回り品も血に染まった形で近くに残されていました。当時の人々は、鬼に喰われたのだろうと噂したとのことです。庁舎の中においてでさえ、こうしたことがおきるのですから、宮廷の中といえ、もっと人気の少ない場所になると、さらに奇怪な出来事があります。国家の歴史書として公式に編纂された書物にも、こういう記録が残されています。光孝天皇仁和三年八月十七日のこと、武徳殿の東側、宴の松原と呼ばれる場所を三人の女房が歩いていたところ、松の木陰に見目かたちの麗しい男が立っていました。その男は、女の一人を誘って木の陰へ連れていったのですが、しばらくしても戻らない、それどころか物音も消えてしまいました。残りの二人が様子を窺いにゆくと、女の腕と足が地面に落ちていたのでした。警護の者たちが改めて探しても頭とからだは見つからなかったとのことです。この出来事は、のちの時代の説話集にも引き継がれ、宮廷内の鬼スポット「宴の松原」を名前を決定づけています。なお現代では、千本通出水の交差点を西へ入ったところに、小さな石碑が当時の場所を伝えているにすぎません。

【3 貴船神社】
 こうした宴の松原の人喰い鬼のように、その素性がわからないものに対して、生身の人間が鬼と化した話もあります。京の奥座敷こと、洛北は貴船を舞台にした謡曲「鉄輪」は、信じていた夫に裏切られた女が悲痛な思いを抱えて貴船神社に詣でるところから始まります。「あまり思ふも苦しさに、貴船の宮に詣でつつ、住むかひもなき同じ世の、中に報ひを見せたまへ」。男に対する恨み言はおのずと呪いの文言へと変わってゆきます。それを聞きつけたのか、貴船神社で告げられたのが、頭に鉄輪をいただき、その足に火をともして祈れば、呪いは果たされるだろうとのお告げでした。浅ましい心を恥じた女は、それは自分のことではありませんと否定したものの、顔色は赤みを帯び、髪は逆立ち、すでに鬼の姿となっていたのです。そして口をついて出た言葉は「恨みの鬼となって、人に思ひ知らせん」でした。丑の刻詣りとか、呪いのわら人形とかの形で世に広く知られているのは、丑三つ時、午前の二時過ぎに、憎い相手に見立てたわら人形を杉の木に釘で打ちつける呪術行為です。しかし、その作法を少し詳しく言うと、頭に鉄輪を逆さまに載せ、その足に蝋燭を結わえ付けるとか、赤い顔料で顔を染めるとかのことが含まれています。それらは、謡曲「鉄輪」に描かれた、神のお告げと重なっています。貴船神社は、賀茂の水源を守る水の神として古くから朝廷の篤い信奉を受けてきた神社です。しかし、室町時代のあたりからでしょうか、呪いの丑の刻詣りを行う場所としても、その名をとどろかせるようになっていったのです。
 謡曲「鉄輪」によれば、鬼となった女は、もとの夫を呪い殺そうとしますが、安倍晴明によって調伏されることになっています。近世になると、このストーリーに尾鰭がつき、呪い返しを受けた女が苦しんで身を投げたという井戸も語り伝えられるようになりました。堺町通松原を下がったところにある鉄輪井がそれです。現在では水も枯れているのですが、かつては縁切りに効き目のある霊水としても知られていたといいます。

【4 宇治橋】
 ところで、「鉄輪」の鬼には、そのモデルとされる鬼がいます。「宇治の橋姫」と呼ばれる鬼女です。橋姫は、古くは橋を守る女神に対する呼び名でした。十世紀の初頭に成立した古今和歌集や、十一世紀の源氏物語では、男の訪れを寂しく待つ女のイメージとして橋姫が呼び出されていましたが、時代が下がるにつれて違った姿で描かれるようになりました。平安時代末期にまとめられた和歌の手引き書には「橋姫の物語」として、このような話が紹介されています。ある男が二人の妻をめとっていました。最初の妻が病の床についた時、男は妻の求める七色の海草を探しに出かけます。ところが男はそのまま行方知れずとなり、帰ってきませんでした。男を探していた妻が、浜辺のとある小屋に泊まった夜のこと、「さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫」と歌いつつ、消えた男が姿を現したのです。そうして自分は海の神にさらわれたのだと、帰れない事情を話して一夜をともにするのですが、夜が明けると男は再び消えてしまいます。その話を伝え聞いた二番目の妻は、同じように浜辺の小屋で男を待ちます。すると同じように「衣かたしき」の歌を歌いつつ、男が現れるのですが、二番目の妻は男の心変わりを詰ってつかみかかります。すると、その瞬間、男の姿も浜辺の小屋もたちどころに消えてしまったのでした。この段階では、鬼こそ出てきませんが、女のうちの一人が嫉妬の炎にとらわれていることになっています。この炎は、平家物語の描く橋姫になるとさらに燃えあがってくるのです。すなわち、嫉妬に狂った女が貴船の神に、自らを鬼となして憎い相手を殺させて欲しいと祈るのです。そうして女は、頭には松明を結わえた鉄輪を乗せ、口にも松明をくわえて両端に火を灯し、その姿で都大路を駆けて宇治川に浸ること二十一夜、ついに本物の鬼となったのでした。そして平家物語は、これが宇治の橋姫であるというのです。ここに描かれた鬼女橋姫の姿が、「鉄輪」の女につながってゆくのは明らかでしょう。源流をたどれば、古今和歌集に詠み人しらずとして載せられている「衣かたしき」の歌になる孤独な橋姫だったのですが、中世にはいると、貴船神社に籠もり、炎をたぎらせつつ宇治橋を目指して駆け下る鬼女へと変貌してゆくのでした。

【5 老ノ坂峠】
 ここまで、いろいろな鬼を見てきたわけですが、現代のわたしたちが「鬼」といわれて一番先に思い付くのは、大江山の鬼こと酒呑童子ではないでしょうか。茨木童子を含め、赤鬼、青鬼、その他たくさんの鬼たちをたばねた首領、鬼の中の鬼、それが丹波の大江山を根城とした酒呑童子だったのです。それと同時に、源頼光とその家来の四天王によって退治され、頼光の武勇伝を際だたせる悪の代表にもなっています。そうした大江山の酒呑童子ですが、その拠点は丹波ではなく、洛西は老ノ坂峠付近だったという説もあります。中世の御伽草子では「丹波国大江山には鬼神の住みて」となっていて、それ以降に成立した物語や絵巻物、あるいは近代の唱歌でも鬼退治の舞台は丹波の国です。酒呑童子伝説を観光PRに活用する福知山市大江町の場合も、そうした流れをうけてのことでしょう。
 ところが万葉集の時代にさかのぼると、「丹波路の大江の山」は洛西の大枝、つまり現在の京都市西京区大枝のあたりと考えられているのです。洛西の大枝は、大きな枝と書いてオオエと読むので、サンズイのエで表される大江山の酒呑童子とは結びつきづらいのは確かです。それでも、老ノ坂峠が西国と山城をつなぐ古くからの交通路だったので、山賊集団の姿が酒呑童子のイメージになったのだとすれば、洛西説にも説得力が出てきます。また洛西の大枝に対して、サンズイのエを用いている文献があることも、こちらの説を後押ししているといえるでしょう。
 国道9号線や京都縦貫自動車道の通る現在の老ノ坂峠からは、昔の街道らしさは感じられませんが、道路を離れて山道に入ってみると、酒呑童子の首を埋めたと伝える首塚大明神が祀られています。伝えるところによれば、丹波の国で酒呑童子を討ち取った頼光一行がこの峠にさしかかった時、酒呑童子の首が突然重みを増して運べなくなり、仕方なくこの場所に埋めたとされています。大江山丹波の国説を前提にした伝説ですが、老ノ坂峠で酒呑童子伝説が語られるようになった背景には、なにがしかの意味合いがあるように思えてなりません。

【まとめにかえて】
 京都には、さまざまな鬼スポットがあります。今回ご案内したものは、その中のごく一部です。紀長谷雄が鬼から碁の勝負を挑まれたというのは宮廷の正面、朱雀門でした。また平安京の正門である羅城門も、鬼の出現スポットとして有名な場所です。これらについて、一つひとつお話をしてゆくとなると、おそらく時間はどれほどあっても足りなくなってしまいます。しかし、それは表面的には煌びやかに装われることの多い京都の歴史が、一皮めくってみるだけでその裏側に、底の見えない暗闇を抱えている証にもなるのではないでしょうか。コワいもの見たさの気持ちからでも、それをほんの少し覗いてみるのも、面白いことでしょう。ただ、くれぐれも注意してください。本当の鬼には、けっして出会わないでくださいね。

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by office34 | 2014-02-05 23:22 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 31日
献灯の刻名 ~山国隊(6)
山国隊による献灯の件、少し補足。

先に紹介した折(参考まで)、「『隊員名を刻んだ』とあるが、これについては詳細不明」と書いた。このほど改めてチェックする機会があったのだが、確かによくよく確認すると下から二段目の台座に文字らしきものが刻まれている。しかし彫りがかなり浅いこともあって、文字として解読できるものは一字もない。そこに名前が刻まれていると指摘されれば分からなくはないが、自然に気づく類いのものではない。したがって、もし文字を認めることができるとすれば「藤野斎」か「水口市之進」ぐらいはチェックしておこうという目論みは、むなしく崩れてしまった。いずれ機会を作って京北町の山国護国神社に行くつもりにしているのだが、その際に瑞垣に戦没者名が刻まれているという話なので、そちらの方で我慢することにしよう。
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灯籠の台座(下から二段目)。肉眼で見ればかろうじて漢字っぽいものがわかる程度

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by office34 | 2014-01-31 23:29 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 29日
葵公園
出町の駅前から河合橋を渡って出町橋の手前から北上して下鴨本通りに合流する。土地鑑のある人なら、これだけの記述でどういうルートかはわかるはずだが、もう少し説明を付け加えるなら、賀茂川左岸の道路を北上して葵橋東詰で下鴨本通りと合流するという形だろうか。といっても、土地鑑のある人ばかりとは限らないので地図(googleマップ)でも貼っておこう。
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さて、今回のお題はこのコースを通る時、右手に見える広場である。公園のように整備されているのはよく知られていると思うが、かといって滑り台やジャングルジムなど遊具が置かれている児童公園ではない。また地図でみると高野川と賀茂川が合流する部分に見えるが、「デルタ」の通称で親しまれているゾーンでもない。ということで、この広場の位置づけがよく見えないのだが、鴨川の河川敷全体には「鴨川公園」という正式名称があるので、件の広場も鴨川公園の一部とみられているのだろうか。

実は、当方はこの広場については「鴨川公園」のうちに含めて考えていた。「葵公園」という名前も聞くには聞いてはいたが、それも俗称だろうと思っていたのである。下鴨神社に近いこともあって、賀茂のシンボルである二葉葵を借りての俗称だろう、そのぐらいの認識だった。ところが、さにあらず、実際はこの広場を特に「葵公園」とするのが正式名称だったようだ。そのことがわかったのは、上記の道を通るだけで、普段はほとんど入ることのない広場に足を踏み入れたからである。

広場の中程に銅像があることは、近くを通る際に気づいており、それが目玉の松ちゃんこと尾上松之助であることは随分昔にチェックしていた。だが銅像のあるところからさらに奥、つまり北の方向へ進んでみることはしていなかった。「葵公園」なる名称を知ったのは、広場の奥の方へ進んだところに石碑がおかれており、そこに大きく書かれていたからである。碑陰に刻まれていた文章によれば、葵公園として整備されたのは昭和15年のことらしい。もしかすると現在でこそ「奥の方」という印象になる石碑の周辺だが、整備された頃には入り口付近だったのかも知れない。つまり北側からも普通に入れる状態になっていたのかも知れないということである。

現在では広場全体に薄暗い印象があり、まわりを垣根状の植え込みが取り囲んでいる。それだけでも近づきがたい雰囲気になるわけだが、入り口ゲートの構造がそれに輪を掛けている。北と南の両方にゲートがあるものの、見るからに通りづらそうな構造である。「入ってくれるな」という意志が伝わってくるゲートとは、こういうものを言うのだろう。

もっともこういう状態になったのも理由がないわけではない。おぼろげな記憶で恐縮なのだが、二十数年前はこの広場には放置された自転車が山のように唸っていた。現在のような進入しづらい構造になったのは、それらが撤去された後のことである。自転車の大量放置に対処すべく公園の入り口を入りづらい構造にしたのだが、度が過ぎたのか、歩行者も入りづらくなってしまった、といったところだろうか。ともあれ、「葵公園」なるゆかしい名前が正式のものであることがわかっただけでも収穫としておこう。

参考までに碑陰の文章の書き取り。例によって現場での正確なチェックを怠ってしまったので、一部おぼつかない部分がある。後日要確認。
本園ハ昭和十五年二月大澤徳太郎氏ヨリ金貳萬圓ノ寄附ヲ得テ之ヲ工費ニ充テ官府有地參千五百餘坪ヲ劃シ專ラ体教散策ニ資センガ爲曩ニ三井家ニ於テ植栽セル黒松ニ加ヘ公園施設ヲ計畫シ昭和十五年三月起工同年六月竣工ス茲ニ公園ノ一隅ニ碑ヲ建テ記念トス
  昭和十五年七月
    京都府

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自転車は整理されたが、近年は狸が集まっているようだ




-追記-
碑陰によれば昭和15年に「官府有地參千五百餘坪」が整備されたことになっている。1坪≒3.3㎡で計算すれば約11,550㎡。それに相当する広さを想定すると、通称デルタから賀茂川左岸の河川敷および松ちゃん像周辺の広場ぐらいを含むだろうか。現在の家裁以南、つまり段丘の全体である。道路によって分断されているため、現在では別個の空間のような印象になっているのだが、戦前には河川敷もデルタも含めて周辺全部が「葵公園」だったのかも知れない。それが戦後になって鴨川河川敷の上流下流、左右両岸が整備されたため、河川敷部分だけを特に「鴨川公園」と呼ぶようになったとも考えられる。仮にそうだとすれば、「葵公園」の石碑も、デルタのど真ん中とか、かつては別の場所に置かれていた可能性もある。

-追記2-
碑陰の文章訂正
(誤)專ラ体教散策ニ資センガ爲 → (正)專ラ休養散策ニ資センガ爲
写真に収めただけで現地での確認を怠っていると、帰ってきてから文字が読めないという事態になる。「体教」の箇所は意味不明だったが、改めて現地へ行ってみると「休養」であることが判明。
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by office34 | 2014-01-29 02:24 | 街角の風景
2014年 01月 20日
鏡ヶ原 ~山国隊(4)
はるか遠い昔、京都の難読地名ネタで「一口」だの「上終町」だのを取り上げた記憶があるのだが、いわゆる難読地名はその難読度が上がるとネタとしての面白さが高まり、その結果、いろいろな形で紹介されることになる。そうすると、実際は難読でありながら周知の地名となって、難読度が下がる。いわばジレンマみたいな状況に立ち至るのである。たとえば北海道の「長万部」。知らないと「おしゃまんべ」とは読めないが、おそらく知らない人の方が少ないので、誰でも普通に「おしゃまんべ」と読む。そういった類いのことなのだが、そもそもこんな話を持ち出したのは、有名だから大抵の人が読めるはずの難読地名「各務原」に関連してのことである。

各務原。読み方は当然、「かがみがはら(かがみはら)」である。読み方の由来は古代の鏡作部(かがみつくりべ)にあることや、「鏡が『かかみ・かかむ』から『各務』となった」との説が、wikipediaに紹介されているのだが(「各務原市」のページ,2014.1.20現在)、要するに「鏡が原」が地名「各務原」の根っこにはあるようだ。と、こういった書き方をすると、周知のことをもったいぶって書いているようだが、予備知識をもたずに「鏡が原」という字面に出くわすと、聞いたこともないどこかのマイナー地名であるかのように思ってしまう。このところ、こだわっている山国隊関連の資料を読んでいた際、その「鏡が原」が出てきていたのだが、現実的な地理空間とは結びつかず、たらたらと読み流してしまったのである。そして、あとから「鏡が原」なる地名は謂われの一つ二つを持っていそうな気配だけどどうなんだろうという方向で調べ始めて、ようやく岐阜県の各務原と結びついたのである。
(慶応四年二月)廿二日。晴。六ツ刻発陣。河渡川大激流。洪水ニテ舟流レ、渡シニテ一隊々々ヲ渡ス。両岸ノ群人立錐ノ地ナシ。加納宿兵粮。新加納宿小休。此辺ハ安藤対馬守領地処、被召上尾州侯御預領地ト成ル也。此ノ間ニ鏡ヶ原ト言広野アリ。東西二里許、南北三里ト。中央ニテ野立陣休憩。近江不取敢、○赤心(マスラオ)の心を尚も磨き立鏡ヶ原にうつ里行人ト。鵜沼駅浅野彦右衛門本局泊。
『征東日誌』(仲村研氏・宇佐美英機氏編、S55年・国書刊行会)
山国隊のリーダー、藤野斎の日記『征東日誌』である。仲村研氏『山国隊』が紹介している隊の足跡は、基本的にはこの日記に準じている。二月二十二日に該当する箇所では「二十二日、晴、早朝出発。夜来の大雨で増水している河渡川の激流を渡り、加納駅で中食し、鏡ヶ原を通って鵜沼駅に宿陣した」とある。実は、仲村氏の文章を読んだ段階では「鏡ヶ原」にはまったく注意が向かなかった。それでも、この直後に出てくる装束についての記述が気になっていたので、原文との対照を試みたのである。

するとどうだろう、直後の装束関連もさることながら、鏡ヶ原に触れる箇所が何となく面白げである。一番、気になったのは、このくだりで送り仮名がひらがなになっている点。『征東日誌』の文体は訓読調の仮名交じり文で、送り仮名はカタカナなのだが、このあたりではひらがなが用いられている。深く考えずに読み流していて、なんだろう?と不思議に思ってしまったわけだが、改めてゆっくり読み直すと「そこで一首」といった感じのようだ。要するに藤野が和歌を詠んでいるのであり、和歌の言葉を地の文と区別するために送り仮名でひらがなを使っているのである。
赤心(マスラオ)の 心をなほも 磨き立て
鏡ヶ原に うつりゆく人
移動する意味の「移る」に「映る」を掛けて、さらに「磨く」「映る」「鏡」を縁語仕立てにするなど、修辞も利かせている。内容的には、後の時代の壮士調というか、いきり立っている感じに満ちあふれているが、官軍の名の下に出征していることに気持ちも高ぶっているのだろう。

ほかにも、この加納宿から新加納宿のあたりでは、この地域がかつては安藤氏の所領だったのに尾州侯の預かりとなっている云々など、山国隊の行動とは直接的に関わらないエピソードにも触れられている。そうしたところにアンテナが反応して、そもそも「鏡ヶ原」とは?という形で調べてみたところ、「各務原」と出くわしてしまった次第。

と、余談が少々長くなった。本題はこのくだりに続く、同日(二月二十二日)条の装束に関する記述である。前もって本文を挙げておく。
同夜自京師、胴腹三才羽織等到着ス。一隊へ分付ス。シヤモノ仕立方甚粗、且不恰好也。一同大不満心ナルモ、不能止シテ着服ス。

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by office34 | 2014-01-20 23:17 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 18日
桜色?
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1/16の夜、京都タワーが桜色にライトアップされた。なんでも受験生を応援するとのお題目で、“サクラサク”のイメージにするとのことだったらしい。これに限らず、京都タワーは時折、なにがしかの色にライトアップされている。しかし、それらは大抵は一日限りであり、しかも夜あるいは翌日のニュースetcによって過去形で知らされることになる。したがって何かのキャンペーンでのイメージカラーになっていたとしても、結局は現物を見逃してしまうわけである。それに対して、今回の桜色キャンペーンは、たまたまの巡り合わせだったのか、「今夜は……」という形で事前に情報を知ることができた。それで駅ビルへ出かけてみた。撮影スポットは例によっての例の如し、烏丸広場である。

出来映えとしてはどうだろう。もう少しマシなものを期待していたのだが、設定がよろしくないのか、それとも合格色らしからぬ禍々しいくらいの不気味さに色づいていた被写体が問題なのか、はっきり言ってパッとしない。これなら後追い的にニュースで教えてもらって、ヘェ~と他人事のように流しておいてもよかったかも知れない……。
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by office34 | 2014-01-18 23:39 | 街角の風景
2014年 01月 16日
戊宸行進曲 ~山国隊(3)
時代祭の鼓笛隊すなわち朱雀学区の維新勤皇隊を取り上げて「山国隊を模した」と書いたが(参考までに)、正確ではなかったようだ。山国隊の存在を知らない場合はともかくとして、時代祭の風俗行列について調べたことがある人なら山国隊から朱雀学区の維新勤皇隊へという流れがあることはわかっているはずである。京都検定の公式テキストを標榜する本*の記述を見れば「山国隊は現在の京北町からの奉仕であったが、明治三十五年から五年に一回の奉仕となり、大正十年から現在の朱雀学区が山国隊を継いで『維新勤皇隊列』に加わるとともに第八社となった」とある。仲村研氏の『山国隊』でも、冒頭で「毎年十月二十二日、秋の日ざしをあびて、京都の都大路をねりあるくのは時代祭の行列である……必ずその先頭を切るのは、例の『錦の御旗』をいただいた山国隊である」と書き出しておき、復活版の山国隊が時代祭への参加を辞退するに至る流れのところで「けっきょくのところ、京都市内に新山国隊を結成し、代役をだすことで解決した」と記す。
(*)初版第四刷、『京都・観光文化検定試験公式ガイドブック』(森谷剋久氏監修・京都商工会議所編,淡交社,2004年)は第一回検定が実施された時に刊行されたものだが、内容の間違いや誤植が数多く指摘された。この時代祭の記述については訂正情報は出ていない。

こうした説明を見れば、旧山国村から出張していた復活版・山国隊をコピーするように、装束や軍楽を継承したと思ってしまうのは当然かも知れない。しかし、厳密にはそのままのコピーが行われていたとは言えないようなのである。装束についてはかなり忠実に再現されているのかも知れないが、少なくとも軍楽については整理しておかねばならない。

京都府立資料館に『山国隊軍楽の謎と維新勤皇隊軍楽に連なる音楽』(仁井田邦夫氏著・刊、1986年)と題された小冊子が保存されている。それに昭和二年頃に「元京都女子音楽学校長 奥村静」**という方が勤皇隊理事に宛てて書いた手紙が掲載されている。
近歳は山国隊の曲を模楜せし曲を行進に使用然る時は山国隊の支部と名誉ある勤王隊を下落せしめてあるは如何なる事情あるは○(1)維新勤皇隊として貴学区(2)名誉と洪誉り(3)とする作曲がありながら山国隊を模写せしか預って(4)要領を得(5)是には(6)種々苦心あるは貴学区の名誉となるべき御話も多く有るは御尽考として申上侯……
(1)不明,(2)は,(3)不明,(4)預て,(5)不明,(6)是れに
手紙の原版に加えて、その翻刻と現代語訳も載っているのだがいくぶん不審な箇所がないでもない。上記引用は手紙の主題に触れる部分の翻刻で下線部が翻刻の疑問箇所。そして、このくだりの解釈は「近頃山国隊の曲を真似て行進をしているが山国隊支部と名誉ある勤皇隊をバカにしているのは何故か。維新勤皇隊として朱雀学区には、ほこりと名誉ある曲がありながら、山国隊の真似をしている事についてなっとくがいかないとのことを聞いている。色々と苦心があると思いますが、貴朱雀学区にも名誉となるべき多くの話しも聞いております……」となっている。しかし、この解釈では奥村氏のところに不評のいくつかが届いており、それも含めて相談したい旨に読めるのだが、どうだろう。当方が考える限りでは、「近歳は~行進に使用」することが山国隊支部と勤皇隊をおとしめることになるようだが、貴学区ではどう思っているのか、という形で奥村氏ご自身の疑問がぶつけられているように思う。

手紙の前提として、この奥村氏が勤皇隊が組織されるにあたって、当時の市長代理安川助役より作曲の依頼を受けたという事実ある。それを踏まえれば、その曲が実際に演奏されていないことに対するクレームと読めばいいのではないだろうか。もっとも、この手紙を紹介するのは「山国隊より受け継いだ頃は、全て山国隊軍楽の真似をしていたようで大変悪い批判を受けている。次に挙げる、昭和2年頃に差し出したと思われる奥村静女氏 (ママ)からの手紙で、その当時の事がよくわかる」という文脈なので、山国隊以来そのままの楽曲が使われていることに対する不評が出ていたことを示す資料と解釈すれば、大きな問題にはならない。
(**)「京都女子音楽学校」および「奥村静」については未調査。上掲冊子では女性として紹介されているが、ここでは詳細不明としておく。

これを今回のテーマに引きつければ、現在の維新勤皇隊が演奏している楽曲は山国隊のものとは別の楽曲である、ということになる。そして、その曲というのは、この冊子に譜面も掲載されている「戊宸行進曲」というものらしい。現在の維新勤皇隊の演奏は「宮さん宮さん」であるとの記述も見かけることもあるが、トコトンヤレ節に品川弥二郎が詞を付けたとする「宮さん宮さん」とはかなり雰囲気が違っていて、そのアレンジでもない。奥村静作曲「戊宸行進曲」という、まったく別の楽曲のようなのである。

なお山国隊の中でトコトンヤレ節が歌われたこともあったようだが、それを演奏しながら凱旋をしたことは資料的な裏付けはなさそうだ。山国隊凱旋にあたっては、入洛時にも山国村に帰郷する際にも軍楽を伴っていたことは、藤野斎の『征東日記』からも確認できるにしても、曲の中身まで確定できるわけではない。ちなみに時代祭に山国隊が参加した頃に演奏していた楽曲というのであれば、山国隊軍楽保存会というところが継承するものがある。京北町の秋祭りとして行われている「山国さきがけフェスタ」で演奏されているのがそれかと思うのだが、当方はその演奏は聞いたことがない(これだろうか)
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by office34 | 2014-01-16 20:50 | 京都本・京都ガイド