Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2014年 02月 23日
京都景観賞
なんでも聞くところによると、森下仁丹と仁丹楽会が「京都景観賞」の特別賞として表彰されるとのこと(参考までに)。それはそれで大変素晴らしいことだし、とりわけ仁丹楽会の方々による町名看板の啓蒙・保全活動には敬意を表さねばならない。しかし、その一方で前回記事のように消えゆく仁丹町名看板があることを報告せねばならないのは痛恨の極みである。かつてあった場所から町名看板が消えていたりすると、まずは盗難の可能性を疑ってしまうわけだが、もちろんそう即断できる話ではない。何者かが看板の価値に対して自覚的でない家主から買い取ったということだって考えられる。維持経営が難しくなった寺院仏閣より古い仏像が闇ブローカーに流れてゆくのと同じ構図である。

しかし、そうしたことが起きるのは仁丹の町名看板に対するコレクター的な需要が一方にあるからだろう。もちろん他人様の物欲や所有欲を否定する権利が当方にあるわけではないのだが、こと町名看板についていえば、あれはしかるべき場所に掲出されているがゆえに価値があるということも忘れないでいて欲しいと思う。錦鯉がきれいだからといって、その鱗をはぎ取ってしまっては元も子もない。

ともあれ、失われたものは致し方ないと諦めざるを得ないのだが、今回の「京都景観賞」などを通して、仁丹町名看板の意味がもっと周知されることが望まれるばかりである。

おまけネタ(レプリカ仁丹発見)
a0029238_2259584.jpg

こちらについての詳細は、また改めて……
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by office34 | 2014-02-23 23:05 | 町名看板
2014年 02月 21日
仁丹町名看板「下椹木町通千本東入」ご昇天
前回の未確認情報に関する続報。結論からいえば、件の町名看板はなくなっていた。

「下椹木町通」とは、丸太町通の一筋北側の通りである。したがって仁丹町名看板に記されていた「下椹木町通千本東入」とは、千本丸太町の交差点を北へ上がり、一筋目を東へ入った場所になる。看板それ自体は、南東角の木造家屋に貼られていた。それが見事に消え失せている。建物は健在なので町名看板だけが取り去られたようだ。

仁丹楽会の方々の活動もあって、最近は認知度も高まってきているように思っていたが、取り去る輩はいるということなのだろう。

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白い部分ではないけど、近づけば町名看板があったことを示す“跡地”がわかる

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ありし日の仁丹町名看板「下椹木町通千本東入」




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千本丸太町の交差点、北西角のシャッターには「神の心」を訴える文言が書かれていた。残念ながらメッセージは千本通を隔てた向こう側には届かなかったらしい。
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by office34 | 2014-02-21 19:58 | 町名看板
2014年 02月 19日
レプリカ仁丹
たまには、仁丹の町名看板ネタでも。

というのも、通りがかりに目に留まり、思わずなんか変だなと思ってしまったから。それがこれ。
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見ての通り、非常にシンプルな体裁となっている。碁盤目の外側で有無を言わせない場所なら不思議にも思わなかったが、坊城通を四条から上がったところだから、坊城通四条上ルとあってもおかしくないはずである。それによく見ると「中京区」となっている。それで気になって調べてみたところ、マニアの方たちの会話で「模造品のある『壬生御所ノ内町』」なる発言がなされていることを知った。なるほど、レプリカだったか、というわけで一件落着(こちらのコメント欄)




あと余談を少しばかり。住宅のリフォームが始まっていたので、どうなるか気になっていた松ヶ崎の一枚。新しくなったお宅に無事収まっている模様。
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もう一つ、気がかりネタ。走行中のバスからの一瞬だけだったので見間違いの可能性も大きいが、もしかすると下椹木町通千本東入の一枚が無くなっているかも知れない。あったはずの場所にそれらしきものが見えなかったのだが、単に見間違いであることを願うばかり……。
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by office34 | 2014-02-19 14:18 | 町名看板
2012年 07月 28日
右京区の仁丹2枚
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ついでネタ。千代の古道を確認すべく南の方から北上を試みたものの、三条通でルートがわからなくなって中断。帰ってから改めて調べてみたところ、案の定、三条~丸太町間は石碑も置かれておらず、実質的には千代の古道には当たらない模様。強引に線引きした結果を昨日示したおいたものの、あくまでの机上のお絵かきに過ぎない。それはそれでどうでも構わないのだが、帷子ノ辻の界隈を歩き回った副産物というべきか、かの界隈における仁丹町名看板の確認ができた。存在していることは他の方が挙げている情報によって知ってはいたが、通り名グリッドでない分、なかなか確認が出来ていなかった。それが右京区表記の二枚、「秋街道町区域」と「嵯峨野神ノ木町」の二枚である……と、言った報告を挙げたところで、これらも詳細な場所は示すべきではないらしいので、写真を貼っておくだけにしよう。
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by office34 | 2012-07-28 12:49 | 町名看板
2012年 07月 04日
一乗寺地蔵本町(ご昇天報告)
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またしても仁丹町名看板の追悼を書かねばならないらしい。

今度の舞台は一乗寺地蔵本町である。高野の交差点から東大路通を1ブロックばかり北上した場所、その西側の建物にその1枚は貼られていた。ところが本日、たまたま近くを通りかかって雰囲気が変わっているのに気が付く。大きな更地が出現しているのである。そういえばこのあたりに「左京区」となっていた1枚があったはず、と思い当たり、付近を探してみると見あたらない。ということは更地となったところそのものが該当スポットだったかと思わざるを得ない。帰ってから調べてみると、その通りだった。

今回のケースは建物もろともに天に召されたようなので、どこかに愚痴をぶつけるわけにはいかない。いわゆる天寿をまっとうされたわけで、来るべき日がやってきたということのようだ。新しい建物が建った時点で復活しないとも限らないから、それにかすかな期待を掛けておくしかなさそうである。

なお記事のトップに貼ったのが更地となった2012年現在の写真なのだが、googleのストリートビューをみると2009年時点での写真が出てくるので、対比の意味で拝借しておこう。それと、当方が撮っておいたものを併せて出しておく。
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ところで、もう1枚、気になっていたのが、松ヶ崎のリフォーム家屋の1枚である(参考)。一乗寺の件があったので、そちらの方はどうなったろうかと思って、廻ってみると、工事はまだ終わっていないようだが、建物の外観は残す方針のようで、従来どおりの日本家屋のままであった。そして壁には「松ヶ崎中町」の町名看板がそのまま貼られていた。
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by office34 | 2012-07-04 19:47 | 町名看板
2012年 06月 23日
町組の内と外
「花屋町通下松屋町東入突抜二町目」の町名看板を紹介した際、勇み足が過ぎる記述があった。大宮通の扱いについてである。大宮通が存在していないとするのは言い過ぎだとしても、たいした存在感のある通りではなかった、という趣旨で書いたのだが、事実に反しているようだ。というのは、現在のような大通りでないにしても、当時の状況に照らせば、界隈の中では特筆に値する重みはあったと思われるからである。

今回の一枚に関連付ければ、大宮通からほど近くにあるにせよ、仁丹設置の時代には四条大宮から南下して九条通に突きあたる道は大通りではなく、たいした存在感もなかったので、町名看板の表記も「大宮通西入」とはならない、ということである。

前回の投稿では、こう書いたわけだが、四条大宮から南下する道は、比較的太いものが七条までは延びており、これが市電の路線となっている(大京都市街地図[S3版])。そして七条から南は十条まで続いている。なお現在の大宮通も上記の記述では九条で終わっているように書いてしまったが、十条通、久世橋通を越えて南へ南へ延びているのはgoogleマップを確認してもわかることである。

問題は昭和初期における大宮通の位置づけなのだが、市電の電車道となっていることからも、しかるべき重要度は認めねばならない。したがって、大宮通の存在感がたいしたものではなかったがために「下松屋町東入」という表記となったという論法は成り立たない。町名看板に「下松屋町東入」とあるのは事実だから、大宮通ではなく、もっと細い路地の下松屋町通の方を基準としている点を問題にするべきであったわけである。では、その理由としては何が考えられるだろうか。わずかの差ではあるが、東の大宮通より、西の下松屋町の方が近いとか、そのあたりかも知れない。大宮通には十分な存在感があるので「花屋町通大宮西入」の方が分かりやすいが、実測の関係から下松屋町通を基準としたのだろう。

さて、ここまでの部分は前回の勇み足に対する言い訳である。本論はこれからになるのだが、この「花屋町通下松屋町東入」の町名看板にはまだ興味深い問題が隠されている。厳密には、この1枚だけではなく、もう1枚にご登場を願わねばならないので、花屋町通の問題とした方がいい。そのもう1枚というのは「花屋町通下松屋町東入」が掲出されていた場所から、さらに西へ進んだところの「八條二人司町花屋町通櫛笥西入」である。
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「花屋町通下松屋町東入突抜二町目」と「八條二人司町花屋町通櫛笥西入」、並べてみれば何が問題なのかはわかるだろう。同じ花屋町通にありながら、片や「通り名グリッド+町名」であり、片や「町名+通り名グリッド」なのである。つまり、この二つのスタイルを使い分ける分水嶺が2枚の間に存在しているということである。

以前、類似のケースを取り上げたことがある(参考までに)。それは花屋町通より極端なケースで、距離がほんの1メートルもないのに、2枚の間でスタイルの使い分けがなされていた。それに比べると、花屋町通のケースは距離があるわけだが、同一の通りに掲出されていて、スタイルが違うという点は同じである。

こうしたことが起きる原因として考えたのが、町組との関係であった。つまり、江戸時代から続く町組に属する場所であれば「通り名グリッド+町名」が使われており、その域外になると「町名+通り名グリッド」という表記になるのではないかという仮説である。前回の一事例だけでいうには心もとないということもあって放置モードに置いていたのだが、花屋町のケースも併せて考えると、あながち無理な説明ではなさそうなのである。

具体的にみてみよう。資料として用いるのは、日文研の地図データベースで公開されている「改正上下京区分一覧之図」である。刊行年次等は不明となっているが、三条通に上下京の境界線が入っていることから第二次町組改正以降であるのは確実。そして学区名の記入がないところから学区制導入以前、すなわち明治二十五年以前とみていいのではないか。あるいは一区、二区、三区……との表記になっていることから、明治十二年を下限とみていいかもしれない(注)。このあたりの厳密なところは、こまかく検討せねばならないが、とりあえずは「町組」の範囲を確認するものとしては有効な資料である。
(注)フィールドミュージアム京都の「町組改正と小学校」によれば「小学校については,これまでの行政単位としての町組即小学校区という方針を継続し,第何区小学校としました。さらに,区は明治12年には組,同25年には学区と改称。市制・町村制施行後も学区を維持しました」とのこと。

その「改正上下京区分一覧之図」で大宮花屋町のあたりを切り出してみよう。
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1:西とうゐん(西洞院通) 2:松はら?(松原通) 3:七条(七条通)
4:ほり川(堀川) 5:さめがゐ(醒ヶ井通) 6:松原(松原通)
7:大みや通(大宮通) 8:一くわん町(一貫町通) 9:くしげ(櫛笥通)
10:西新やしき(西新屋敷)


花屋町通は記されていないが、現在の西本願寺敷地の北辺なので、図でいえば「本願寺」の左端付近だろう。問題はそこから西へ進んだところ、図でいえば下へ下がったところである。図に「一くわん町」とあるのが下松屋町通で、「くしげ」が櫛笥通だから、「十六区」の西端が櫛笥通になっていることが確認できる。町名看板の表記に照らすと、「花屋町通下松屋町東入突抜二町目」は下京十六区の内側であり、「八條二人司町花屋町通櫛笥西入」は同区を出た場所ということになる。櫛笥通がまさしく分水嶺だったことが確認できるというわけである。

以前に触れたケースでは「改正上下京区分一覧之図」と照合しても、場所の厳密な同定が難しいので、なんとも言えないのだが、今回の場合は町組の内外によって表記のスタイルが変わっていることの裏付けになると思う。
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by office34 | 2012-06-23 03:17 | 町名看板
2012年 06月 22日
下松屋町通
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久しぶりに仁丹の町名看板をメーンテーマにしてみよう。先日、たまたま下京で見かけたブツである。大宮通を下がって花屋町通で右折したところ、そこで目に留まった。表記は「花屋町通下松屋町東入突抜二町目」とある。当方のアンテナがこれに反応したのは、大宮通からほんの少し入ったところだけなのに、表記には「大宮通」が使われていないからであった。

幹線道路と言わないまでも、けっこう大きな通りなのに、町名看板の表記で無視されている事例というと、すでに六条通で経験済みである(以前の記事)。したがって、ここでも、町名看板が設置された頃は大宮通は存在していなかった、ということなのだろう。もちろん「存在していなかった」というと言い過ぎである。大宮という名前の道それ自体は、平安京以来の歴史をもつ由緒のある大路だからだ。それでも西陣のあたりでも、現行の大宮通と別個に旧大宮通が存在するといった現象もあり、「大宮(大路)」は昔からあったにせよ、現在の大宮通とは別物と考えねばならない。今回の一枚に関連付ければ、大宮通からほど近くにあるにせよ、仁丹設置の時代には四条大宮から南下して九条通に突きあたる道は大通りではなく、たいした存在感もなかったので、町名看板の表記も「大宮通西入」とはならない、ということである。

関田町や上七軒で時代を幻視させる町名看板の昇天が続くなか、別な1枚を見つけたとほくそ笑んでいたわけだが、ふとあることが気に掛かってきた。それはこの町名看板に書かれている「下松屋町」についてである。掲出されている位置から考えれば、大宮花屋町の交差点から西に入った一つ目の路地のことだろう(手前に南側のみの図子がある)が、空間上での同定が問題ではない。それの名前が《下+松屋町通》となっている点がポイントなのである。

松屋町通という名前の通りは西陣にある。それこそ大宮通のすぐ西にある路地であり、いかにも西陣っぽい街なかをひっそりと通っている。ただ西陣の縦小路によくあるように、松屋町通もまた二条城に突きあたって打ち止めとなる。大宮通もまた二条城で途切れるのだが、由緒があるためなのか、城の敷地をとび越えて南側にも続いている。それに対して、一筋西側の路地は二条城の北では松屋町通だが、南になると神泉苑通となっている。応仁の乱や二条城築城の事情を思うと、平安京時代の名前が継承されていなかったり、二条城の南北で状況が一変していたりするのは驚くには当たらない。むしろ、二条城の北にしか存在しなかったはずの松屋町通が、「下」の冠をつけて、下京に登場していることが興味深いのである。通り名の由来等々をつついてみると、面白そうな話題がでてきそうな気配である。

なお、件の通りの現在の正式名称はというと、「京都市認定路線網図提供システム」上での呼称に従えば「一貫町通」というものが記されている。そして、その名前は昭和三年の京都市公報にも見られるものであり、「松原通上長福寺町二一八」と「正面通突抜二丁目三八二」の間に適用されている(新旧変わらず)


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追記(2012.06.23)
この記述には内容訂正があります。23日の記事も併せてごらんください。

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by office34 | 2012-06-22 03:41 | 町名看板
2012年 05月 28日
仁丹町名看板ご昇天報告(田中関田町)
このところ、山本覚馬建白をネタにかなりダラダラやっているわけだが、少し休憩する。というのも、次の編目である「国体」「建国術」「製鉄法」が軒並み長文なので少々充電せねばならないことが理由の第一、建白を前面に押し出すようになってから目に見えてアクセス数が下降線をたどっていることが理由の第二(視聴率ばかりを汲々する民放局ではないが、アクセス数の急降下はやはり気になる)、そしてもう一つ、建白を押しのけてでも報告せねばならない喫緊の事態が生じたことが理由の第三がある。

喫緊の事態というと仰々しいが、何かというと、今日、たまたま通りすがりに気が付いた件、仁丹町名看板の、とある一枚が昇天していた件である。しかも、その一枚というのは、今出川通の旧態を伝える田中関田町のものなのである。

田中関田町の町名看板は、このブログでもたびたび取り上げてきた。それが重要なのは、仁丹町名看板一般の特徴であるレトロアイテムという性格に留まらない意義を持っている点である。すなわち、東今出川通でない場所に掲出されていながら「東今出川通」と記されているという、今出川通の旧態を伝える1枚だったのである。その意味でいえば、歴史の証人でもあった。

一般に東今出川通というと、今出川通のうちの鴨東エリアを指す。ところが、仁丹の町名看板に従えば、今出川通より一筋北側の路地、つまり百万遍と叡電出町柳駅をつなぐ路地をその名で呼んでいる。この名称のずれは、昭和三年に出された道路名の改正(昭和3年5月24日付の京都市公報)によっても裏付けられる。昭和3年時点では駅前の通りが「東今出川通」と呼ばれていたが、鴨川に突きあたって終わっていた今出川通が鴨東エリアに延伸されてからは(昭和5年)、そこが「東今出川通」と呼ばれるようになった。つまり仁丹の町名看板が伝えていたのは、昭和3年以降、5年までの状態なのである。

そうした関田町の町名看板だが、今出川通と鞠小路通の交差点を北にあがった辻に3枚残存していた。ところが、今日、その場所を通りがかった際、そのうちの1枚がご昇天あそばしていることに気づいたのである。建物は健在なのに、町名看板のみが消えているという、個人的にはもっともイヤなパターンでのご昇天である。歴史の証人は3枚あったわけで、消えたのはそのうちの1枚である。たった1枚なんだから、大勢に影響はないといえば確かにそうだろう。しかし、単純に枚数の問題ではなく、その1枚がもっていた価値の大きさを思うと、意義深いものが消失したと言わねばなるまい。十分に意味を理解している方が、保全のために取り外したというのならやむを得ないとも思うのだが、価値の分からないコレクターが我欲を満たすため、ありふれたレトロアイテムの一つとして取り去ったのだとしたら、暗澹たる思いになってしまう。そういう最悪のケースでないことを希望するばかりだ。
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上:ありし日の姿  下:剥ぎ取られた跡が生々しい現在

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by office34 | 2012-05-28 20:10 | 町名看板
2012年 04月 18日
とある詩碑、あるいは仁丹大王?
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大悲閣道にあった石碑の話。今回のメーンテーマは黄檗高泉詩碑である。まずブツの紹介だが、大悲閣道をたどって行き、千光寺へつきあげる最後の坂道のところにある。すぐ手前に「大悲閣道」と大書された石碑があって、道の反対側に芭蕉の「花の山」句碑がある場所、そこの両脇に門柱のごとくならび立つ碑なので、見落としたりできるシロモノではない。にもかかわらず従来の文学碑案内書がこれを紹介していないのは、歌碑や句碑に対する固定観念があって、仮名文字ではない漢字がツラツラとならんでいるこの石碑は視野の外に置かれてしまったのだろう。

しかし注意してみると、両方とも十四字ずつであり、七字七字で切れば意味をなしそうな気配である。七言絶句なのである。そうした前提で近づいてみると、向かって右側の柱には「登大悲閣」と小さな文字で刻まれており、左側には「黄檗高泉題」「〓(萃?)堂書」とある。黄檗高泉が「大悲閣に登る」という詩を作り、萃?堂が書いたものを石に刻んだというわけだ。

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黄檗高泉という人物は、昨日登場の松瀬青々と同じく、名前を聞いただけでフンフンと頷いてもらえる知名度の人物ではない。当方にしても詳しいはずもなく、隠元禅師関連か、万福寺関連での調べものをした折に、小耳に挟んだことがあったような、あるいはなかったようなといった程度である。それでもウィキペディア2012.04.18現在の情報に照らすと、確かに隠元の弟子としての紹介となっているので、おそらく隠元ないしは万福寺関連で調べた際に出合ったことがあったに違いない。

ともあれ、作者のプロフィールに関してはしばらくおくとして、大悲閣道の碑が詩であることはほぼ間違いがないとすれば、それはどう解釈するのかということの方が重要だろう。
千尺懸崖搆梵宮下臨無地一谿通
何人治水功如禹古碣高鐫了叺*翁


千尺の懸崖、梵宮を搆かまえたり
下に地の無きを臨めば一谿いっけい通ず
何人なんぴとの治水、功は禹の如くたらんや
古碣こけつは高らかに鐫る了叺*翁
*:叺は以か?


試読はかなりいい加減な気もするが、意味をざっと解釈をすれば、こんな具合だろうか。
切り立った崖っぷちに立つ堂宇が一つ、眼下には一筋の谷川が走る。いったい誰が禹の功績に並ぶような治水事業を行ったのだろうか。古い石碑には了以翁の名が刻まれ、高らかにその誉を謳う。
これだけの話であれば、こんなブツがありましたという報告で終わってしまう。しかし、話はそれでは終わらなかった。それが碑陰である。写真をペタと貼ってみると、どうだろう。

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森下博、すなわち森下仁丹の創業者である。同姓同名の別人である可能性もないわけではないが、別人説は確率的には低いと思う。確かにドライに解釈すれば、碑陰に森下博の名前があったとしても、一代で財をなした人物が寄進行為を行ったケースにすぎないわけだから、不思議でもなんでもない。また正統派の仁丹マニアにしてみれば、町名看板でない以上、興味のらち外だろう。それはそれで構わないのだが、仁丹のことなどまったく頭になかったタイミングで仁丹大王(って勝手にそう呼んでしまった……)の名前が飛び込んできたことは、当方にとっては少なからずの驚きであった。
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by office34 | 2012-04-18 09:00 | 歌碑・文学碑など
2012年 03月 23日
帝国幻想、あるいは仁丹の時代
このところこだわりつづけている昭和3年の京都市公報なのだが、そもそも昭和3年とはどういう時代だったのだろう。西暦でいわれると、一般的な歴史年表にも記されている事件との照合もすぐにできるが、和暦の場合、案外、その年次だけが切り離されてしまうこともある。流れの中で考える視点が大切なのは言うまでもないことなので、少しそうした方面から昭和3年とその年に実施された道路名改正について考えてみる。

まず昭和3年、すなわち1928年、西暦で記されたこの数字に対しては、満州事変の3年前かとひらめいた。1928年を大正時代の名残が続いている時代と見るか、戦争に突き進む昭和の枠組みで考えるかは、人ぞれぞれだろう。当方の場合は、満州事変が真っ先に思いついたので、どうやら後者のケースのようだ。

その昔、講談社が刊行していた週刊「日録20世紀」が手許にあるので、それで1928年の号を見てみると、表紙には「アムステルダム五輪で日本初の金」とある。中身をパラパラやってみれば、国内政治の話題としては「満州某重大事件」こと張作霖爆殺の謀略が、そして海外ネタとしては「蒸気船ウィリー」がこの年に公開されてヒットしたとのことで、ミッキーマウスのデビューが大々的に掲げられている。

しかし京都にスポットを合わせると、昭和の即位大礼がこの年の11月に挙行されていることが、何といっても重要だろう。道路名改正も、名前だけが変えられたと見るよりは、拡幅や舗装などの整備があり、それに伴う名前の改正と考える方が筋が通っている。そしてそんな改修も大礼を控えてのことだったに違いない。このあたりは、どこどこの道路がいつ舗装ないし改修されたといった具体的な事実との突き合わせが必要となるが、思いこみを先行させてもたぶん間違いではないと思う。
昭和三年は「即位」に明け、「即位」に暮れた年だった。一月一七日の「期日奉告の儀」に始まり、「斎田点定の儀」「御鍬入式」「御田植式」と、農耕民族ならではの儀式が続いていた。
 そして一一月の即位大礼となった。旧皇室典範では即位大礼は、大嘗祭とともに秋冬に、京都で行うと規定されていたのである。(中略)即位大礼は市民生活にも、少なからぬ影響を与えた。大嘗宮をはじめ御所の特設郵便局にいたるまで膨大な施設が新築されたためか、京都では物価がみるみる上昇。一一月に入り、土木建築工賃をはじめ、畳工、菓子工などの賃金が約四割高騰し、たとえば、京都土産の袋物類は、実に倍以上の値上がりを記録した
「日録20世紀」2/25・vol68、1988年、講談社
この記述をみる限りではお祭り気分が強調されているようにも感じられるが、実際はそうでもなかったらしい。奉祝ムードは確実に高まっていたし、賃金の上昇だけでなく、物価の高騰にも触れているから記述に間違いがあるわけではない。だが深刻な不景気による閉塞感が広がっていた時代であったことは、もっとはっきり書いた方がわかりやすい気がする。標準の日本史的な理解をあてはめるなら、第一次世界大戦終結に伴う戦後恐慌、関東大震災による産業の潰滅、そして昭和2年におきた金融恐慌の時代だったのである。

そんな時代の文脈を意識すると、即位の大礼は京都にとっての強烈なカンフル剤となることも期待されたに違いない。すべての事象を経済環境からの解釈で丸めこむわけにはいかないが、昭和6年に行われる周辺市町村との合併(=大京都の成立)まで同じ文脈で考えることもできるのではないだろうか。目に見える形で町の姿が変わっていき、新しい天皇が誕生し、そして市域が拡張され……、現実に直面している息苦しさの一方で、何か輝かしい雰囲気を漂わせた時代がすぐそこまで到来しているような、言ってみればそんな《帝国》の幻想を、当時の人々は抱いたのかも知れない、ということである。

町の辻々に仁丹の町名看板が設置されたのも、こうした時期と重なるようである。厳密には大正末期から設置が始まっていたとの見解もあるが、大量にばらまかれたのは、おそらく昭和初期のこの時期だろう。「出町橋通」ではなく「東今出川通」といったように、昭和3年に改正された後の通り名が記されているものなどは、設置時期の確定に役立つケースである。昭和の初期、「帝国」の幻想とでも呼べるような雰囲気が世の中にあったとするのは、あくまでも当方の推測に過ぎないのだが、時を同じくして人々の目に留まるようになっていったであろう、大礼服デザインの琺瑯看板も、あるいはそうした幻想の一翼を担ったのかも知れない。
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by office34 | 2012-03-23 04:07 | 町名看板