Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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タグ:北野天満宮 ( 12 ) タグの人気記事


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2014年 02月 08日
鬼めぐり
鬼の話にふれたついでということで、街歩きツアーでの鬼巡りをするとすれば、どんな感じだろう。絶対に外せないポイントで挙がるのは一条戻り橋である。有名すぎるとかなんとかの声が出るかも知れないが、晴明神社とセットにしての一条戻り橋、これは目玉商品にせねばならない。

次に挙げるとすれば、北野天満宮である。前回の文章でも紹介したように、渡辺綱vs茨木童子で、茨木の腕を切り落としたあと、綱が落っこちた場所が北野天満宮であり、境内には渡辺綱が奉納したと伝わる灯籠もある。また朝比奈義秀伝説だろうか、鬼との力くらべをモチーフにした絵馬が絵馬所に掛かっていることも忘れられない(参考までに)。さらにいえば、鬼の範疇を魔物全般にひろげるのなら土蜘蛛塚が楼門前の境内摂社あるのも要チェックである。ほかの有名スポットを加えるには、距離的な問題がネックになってしまうので、天神さんと晴明神社・一条戻り橋を軸にするのがベターである。そしてこの二つをつなぐのに、百鬼夜行の通り道、一条通を使えばOKである。

あと補足的な肉付けで、大内裏それ自体が鬼スポットであったことを念頭において、千本丸太町上ルの「大極殿址」、さらに千本出水西入の「宴の松原」といったあたりを加えておく。そして平安京の全体像をあらかじめチェックするという意味で京都アスニー内の平安京創生館に展示されている「平安京復元模型」。これらをずらっとつないでみれば、コースとしてもまとまりが出てくるはずである。つまり、こんな具合に。

1・平安京創生館(スタート)
    ↓
  丸太町通(経由)
    ↓
2・大極殿址
    ↓
  千本通(経由)
    ↓
3・宴の松原
    ↓
  七本松通・御前通(経由)
    ↓
4・北野天満宮
    ↓
5・一条通(経由)
    ↓
6・晴明神社・一条戻り橋(ゴール)

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by office34 | 2014-02-08 14:26 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 31日
献灯の刻名 ~山国隊(6)
山国隊による献灯の件、少し補足。

先に紹介した折(参考まで)、「『隊員名を刻んだ』とあるが、これについては詳細不明」と書いた。このほど改めてチェックする機会があったのだが、確かによくよく確認すると下から二段目の台座に文字らしきものが刻まれている。しかし彫りがかなり浅いこともあって、文字として解読できるものは一字もない。そこに名前が刻まれていると指摘されれば分からなくはないが、自然に気づく類いのものではない。したがって、もし文字を認めることができるとすれば「藤野斎」か「水口市之進」ぐらいはチェックしておこうという目論みは、むなしく崩れてしまった。いずれ機会を作って京北町の山国護国神社に行くつもりにしているのだが、その際に瑞垣に戦没者名が刻まれているという話なので、そちらの方で我慢することにしよう。
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灯籠の台座(下から二段目)。肉眼で見ればかろうじて漢字っぽいものがわかる程度

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by office34 | 2014-01-31 23:29 | 京都本・京都ガイド
2014年 01月 09日
山国隊灯籠 ~山国隊(2)
a0029238_18442779.jpg

山国隊が奉納した灯籠である。4段重ねの台座の一番上に「山国隊」と大きく刻まれている。北野天満宮に山国隊の灯籠があることは、かねてより聞いてはいた(「京都の映画文化と歴史」)。しかし、それが境内のどこにあるのかは知らなかった。探すには探してみたのだが北野天満宮である。灯籠は無数にあるといっていい。一の鳥居から楼門を経て、三光門の前あたりまでは一つずつ見ていたのだが、見つからないものだから諦めていた。それが、仲村研氏の『山国隊』を読んでいると詳しく紹介されているくだりがあり、初めて実物を見ることと相成ったというわけである。
北野天満宮と山国隊
明治二年元旦の早朝、山国隊は北野天満宮に参拝した。隊員にとってはなつかしいところである。東征準備のため、この近辺にある椿寺前の茶畑ではげしい調練を繰りかえしたが、その往反にはかならず天満宮へ敬礼をして行ったものである。出陣がきまったとき、武運長久を祈願したのも、この天満宮であった。
 正月二十九日に藤野らは千燈を奉納した。十人の奉納者のなかに「牧野家内」の名があり、この人が牧野省三の母親であることはまちがいない。こののち二月五日(ママ)、八十六両を投じて隊員名を刻んだ石燈籠を同宮に奉献したのは、大願成就のお礼の意味であった。今日でもこの石燈籠は天満宮北西のすみにひっそりと立っている。
『山国隊』(仲村研氏,学生社,昭和43年)
仲村研氏の『山国隊』は、写真をカットする形で中公文庫にも入っているのだが、今回は図書館から借りてきて初版の学生社版で読んでいる。学生社版の方には石灯籠の写真も添えられており、そのキャプションには「北野天満宮本殿北西隅にある山国隊の献燈」とある。山国隊の灯籠の件を初めて知った「京都の映画文化と歴史」を改めてみてみると「北野天満宮の境内奥に」となっているので、一の鳥居や楼門まわりは最初から無視しておいて、いわゆる「奥」の方から探せば見つかったのかも知れないが、ともあれ「本殿北西」とピンポイントで教えてもらって、ようやく実物にたどり着けた。

ところで石灯籠が奉納された日だが、仲村氏は「二月五日」と記している。ところが灯籠には「二月念五建之」と刻まれている。そして図書館で借りてきた本には、ご丁寧に「明治二己巳歳春 二月念五建之 念=廿である」との書き入れがなされている。確かに「念」には「廿」の意味があるのだが、以前にこの本を読んだ方が現地で確認して書き込んだのだろう。なお「隊員名を刻んだ」とあるが、これについては詳細不明。台の一段目か二段目あたりにあって摩滅していたのだろうか、現地では見ることができず、撮ってきた写真でもよくわからない。

[正面(東側)]常夜燈(棹) 山国隊(台)
[右(北面)]明治二己巳歳 春二月念五建之(棹)
[左(南面)]御師 森川勘解由(棹)
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by office34 | 2014-01-09 19:01 | 京都本・京都ガイド
2013年 05月 12日
廣羣鶴かな?
北野天満宮に菅原道真詩碑があることは以前に紹介したことがある(参考までに)。碑面に刻まれているのは『菅家文草』からのもので、一応、問題は解決していたつもりだったが、そうは問屋が卸さないとなったようだ。

「神製」と題が掲げられ、二編の詩からなる本文と建碑のいわれを記した副文からなるわけだが、今回、再考が必要になったのは、一番最後に刻まれている石工の名前である。写真で撮ってきたものを見たままに読んで「東京 廣羣鵬刻」としておいたのだが、ここに問題が起きた。「廣羣鶴」ではないのかということである。
江戸時代から続いた店石屋で、その内容を多少なりとも聞けたのは広群鶴(東京都台東区谷中)だけであった。「群鶴は江戸一の大石屋」と谷中育ちの古老や明治生まれの職人達がいうように、関東でも一二を誇る大きさの石屋であったらしく数多くの碑の字掘りを手掛けている。
『碑刻』(森章二氏,2003年,木耳社)


森章二氏の『碑刻』という本を読んでいて、初めて「廣羣鶴」の名前を知ったのだが、その時にひらめいたのが、そういえば天神さんの道真詩碑にそんな名前があったような?ということだった。それで確認してみると、記事には「鶴」ではなくて「なお碑の右下には小さな文字で『東京 廣羣鵬刻』とある。石に刻んだ彫り師の名前だろう」と書いてしまっている。改めて写真をチェックしても、やはり「鵬」と読めてしまうのは、異体字に対する知見の乏しさかも知れない。あるいは、似たような屋号でまったく別人ということなのかも知れない。ともかく、よくわからないのだが問題発生ということで、写真の拡大版を出しておこう。ささやかな問題提起のつもりである。
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by office34 | 2013-05-12 03:53 | 歌碑・文学碑など
2012年 01月 10日
天満宮、もとい天神宮
間違い修正ついでにもう一つ。ターゲットは前回と同じ「北白川と瓜生山」の文章である参照。この文章は、前半では比叡山への登路について書き、後半は北白川から雲母坂への行程が話題となっていた。1/6に記したものはその前半部分に関する修正なのだが、改めて読み返すと後半部分にも直さねばならない箇所があった。「北白川天満宮」ではなくて「天神宮」なのである。

現在の公称が「北白川天神宮」となっているので明確に間違いとせねばならないのだが、少しこだわってみたいところもないわけではない。いわゆる天神信仰と天満宮との関係についてである。話のおおもとは、よく知られている北野天満宮の創建由緒にたどり着く。菅原道真が筑紫の地に憤死した後、京の都では皇孫の夭折や清涼殿への落雷など不穏な出来事が続き、それらが道真の祟りと語られるようになった。ここに醍醐天皇の崩御も重なり、いよいよその霊を崇める必要に迫られ、道真に対する赦免と位階追贈が行われ、さらに北野の地に社が建立されるに到った。これが現在の北野天満宮の創建である。

この社に「天満宮」の号が与えられたのは時代が下るのだが、清涼殿落雷の件もあって道真が天神と化したとの風説は早い段階から行われていた。そうした経緯もあり、天神たる道真を慰撫する社として作られたのが「天満宮」であるといえる。ただ、ここで道真以前より存在した古い信仰、すなわち天神地祇に対する畏敬との融合が行われていることも見逃せない。北野天満宮のことを、通称で「天神さん」と呼ぶことが普通に行われているので、天神信仰と道真信仰はイコールの関係で重なり合うように思われがちだが、「天神信仰」というと厳密には、(1)道真の霊を神格化して崇める思想と、(2)天の神を崇める思想との二つがある。この二つは本来は別個の心情なのだが、時には重なり合い、時には離れるという微妙な関係にあるので、話は混乱を来してしまうのである。

テーマを北白川に祀られている社に戻そう。この社は北白川地域の氏神であり、公称に従えば「少彦名命名を『天使大明神』(天使社)と称して祀」る北白川天神宮のHPより)。また室町時代、足利義政により創建された際の経緯をみても、道真信仰とは結びつくものではない。現在、この社の名前を「天神宮」としているのは、思うに道真崇拝を色濃く帯びる「天満宮」との差別化を意図してのことではなかろうか。

というのも、この社に関する古い記述には「北白川天満宮」と書かれているものも存在するにも関わらず、現在の公称が「天神宮」となっているからである。当方が確認した範囲では『拾遺都名所図会』がそれで、
北白川天満宮  白河村南の方にあり、土人どじん生土神うぶすなとす。例祭まつりは九月十三日、神輿しんよ一基、鳥居とりゐの額がく、道晃だうくわう法親王はうしんわう御筆ふで也。摂社せつしやは山王さんわう、春日かすが、八幡宮はちまんぐう
となっている。「土人」とは地元住民という意味であり、言葉狩りで狙い打ちされる類のものでないのはいうまでもないことだが、標題として「天満宮」と挙げられているのは注目に値する。なお江戸時代の地誌でいえば『雍州府志』にも記述があり、そこでは「白川の天王」という標題となっている。また近代以降の地図では、大正十年版の「京都市街地図」に「天満宮」とある。一方、昭和二年と昭和十五年の「大京都市街地図」を見ればともに社の名前は記していないが、十五年版には「北白川天神前」という停留所名(路線バスのものと思われる)が書かれている。

これらをみると、古くは「天満宮」と呼ばれることもあれば、「天神」「天王」といった在地の天神信仰を反映する名前で呼ばれることもあったことが窺われる。それが昭和初期のいずれかの時点で「天神」という形で公称名を固めたのだろう。北野天満宮の場合、一時期「北野神社」という名前となっていたのだが、wikipedeaの説明によれば「『宮』を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである」とのことである。北野天満宮に比べると、北白川の社は規模も小さく、目立つ要素が少なかったためなのか、お上から名前が強制されることなく、天満宮とも天神とも天王とも呼ばれる通称名がそのままになっていたものと思われる。
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by office34 | 2012-01-10 15:16 | 京都本・京都ガイド
2011年 03月 30日
公同組合@北野天満宮
北野天満宮の絵馬所には面白いブツがたくさん隠れているという話はすでにしたところだが、もう一つネタを追加しておこう。詳しく調べができてからと思っていたのだが、作業が遅々として進まないものだから、とりあえずこんなブツがありましたという報告のみである。

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見てのごとく「公同」と大書された額である。文面は、いわゆる公同組合の制度が消滅する際に、その名と精神が消えることを惜しんで云々とのこと。

公同組合とは、近代京都の自治組織なのだが、町組の後継組織的な位置づけになるといえばいいのだろうか、それとも現代の町内会の前身的位置づけと言えばいいのだろうか、このあたりの詰めが十分にできていない。秋山国三氏『近世京都町組発達史』にも詳しい説明があるのだが、いかんせん史的な流れで理解するには、当方の知識が少なすぎる。もっと厳密に江戸時代以来の町組を理解して、町組改正後の状態を知って、その上でなければ十分に読みこむことが難しい。

しかし、詳細な部分には目をつぶるにしても、現代ではほとんど耳にすることのない「公同」の名前がこうも大々的に残されているのは、やはり興味深い。以前に書いた文言だが、やはりこう繰り返さねばならない。天神さま恐るべし、と。
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by office34 | 2011-03-30 01:18 | 京都本・京都ガイド
2011年 02月 05日
トラディショナル綱引き?
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 詳しい事情はわからない。なんとなく気になった絵を一枚ペタっとやってみる。彩色部分がほとんど剥落していて、状態はよくないのだが、描かれている中身は分からないではない。

 お互いに足で突っ張りあって、同時に互いの首に掛けた綱を引きあっているような雰囲気だ。おそらく左は鬼で、その腰のあたりを小鬼が引っ張っている。右はよく分からないが、鬼の表情とは対照的にけっこう涼しげに構えているところをみると、剛力自慢の某かに違いない。綱引きの一種なのか、その原形なのか、おそらく日本の伝統遊戯にこういうものがあったのだろう。ただ生憎なことに当方はその方面の知識を持ちあわせてはいない。

 それでは寂しすぎるので何か一言となると、朱雀門の上で鬼と碁を打ったという長谷雄草子の一面を彷彿とさせるとでも言っておこうか。もちろん、綱引きと碁では、やっている中身もまったく違う。それでも、鬼と人間の対決という点でのこじつけが成立して長谷雄草子が頭を過ぎったわけである。

 ともあれ、この絵に関しては、本当にこれ以上は何も分からない。ということで、今後、何かの進展があって詳しく紹介できるようになれば再度ということにしておいて、もっと遠目からの説明に廻る。この絵があったのは、北野天満宮の絵馬所である。かの絵馬所に掲げられている絵馬に関しては、ほとんど紹介らしい紹介は見あたらないのだが、どうもタダモノではなさそうだとの感想をもっている。何枚もの絵馬が、文字通り、所狭しと掲げられているのだが、上の一枚もそうであるように、軒並み褪色や剥落などで劣化している。天満宮が宝物館に収めて社宝としているものと比較すると、年代的にも作品的にも格段にレベルが落ちるということなのだろう。それでなんの説明もなく絵馬所に放置されているのだと思われる。ただ、それらの中には、けっこうな年代物が混じっていたりするものだから、細かく見ればそれだけの驚きが返ってくる。

 以前、この絵馬所に触れた折りには、延享四年(1747年)の絵馬が目に留まって驚いた旨を書いた参考までに。だが改めていろいろ見て回ると、延享からさらにさかのぼって、正徳(1711~1715)や元禄(1688~1703)のものもあるようだ。これらも綱引きと同じく、詳しくは分からないので解説のマネゴトもできない。ただ一言、零すばかりである、天神さま恐るべしと。
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by office34 | 2011-02-05 04:13 | 京都本・京都ガイド
2010年 09月 15日
北野天満宮の絵馬所(続)
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 北野天満宮の絵馬所でもう一題。絵馬所の前に設置されている駒札によれば、絵馬所の建物自体が元禄年間に行われた大修理の際に建造されたものということで、市の有形文化財に指定されている。それもさることながら、奉納されている絵馬をつらつら見ていると、かなり古いものも目に留まった。明治、大正の元号が多く見られる中で、ほぉと目を惹いたのは「延享四歳丁卯正月」と記されたもの(写真クリックで拡大)。弁慶と義経だろうか、だとすれば謡曲の舟弁慶なのだろうか、絵のモチーフはよく分からないが、延享四年正月ということは1747年、吉宗の時代が終わってほどなくのあたりのようだ(吉宗の将軍在位期間は享保元年[1716年]~延享二年[1745]年)。絵馬の中央下部には「宿坊能也 講中」とあり、右隅には絵師の名前だろうか「光玟図」とあるように読める(玟は政かも?)。この絵馬についての詳細は不明だが、吉宗の頃のものが平然と掲示されていることには、少々感動させられた。このほか、古いものとしては「嘉永五年壬子二月」と記されているものがあった。この翌年に浦賀に黒船がやってきて、国内が上へ下への大騒ぎになるわけだが、かなりの年代物である。なお、昨日とりあげた「誠の絵馬」は、奉納年代が確認できなかった。


 
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by office34 | 2010-09-15 09:12 | 京都本・京都ガイド
2010年 09月 14日
「誠の絵馬」@北野天満宮
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 北野天満宮へ行ってみた。目的は、先に紹介した「戦利兵器奉納ノ記」を刻んだ砲弾を実見するため。絵馬所の裏にあるとの情報は得ていたので、さほど困ることもなく発見(写真クリックで拡大)。ただ、「裏」というよりは「奧」と言った方が正確かな?

 それはさておき、一応社務所の方に訊ねてみると、日露戦争の時の戦利品で、各地の神社に頒布された云々、かつては砲身もあったが太平洋戦争時に供出した云々。上賀茂神社の方でも、先日社務所で確認したのだが、奉納品自体は収蔵庫には入っていない、おそらく戦時中に供出したのだろうとのことだった。

 ところで、今回のメーンテーマは実はこの砲弾ではない。砲弾を確認するために天神さんへ行ってきたというのは、その通りなのだが、その話は「ありました」で終わってしまう。ところが、砲弾の置かれていた絵馬所の周辺は、いままで詳しく見て回っていなかったこともあり、けっこう、興味深いものが目に留まった。今回は、絵馬所で目に留まったもの、小耳に挟んだ話をつらつらと並べてみようと思っている。

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 まず目に留まったのがこれ。絵馬所の西面に「誠」の文字をあしらった巨大な絵馬が掛かっていた(写真クリックで拡大)。連想ゲームをするのなら、「誠」の一文字が突きつけられるとパブ犬的に新選組が登場するところなので、あるいはそうなのかなと隅々を覗いてみたが、目視のきく範囲では「宿坊能利」という書き入れが確認できるだけで、新選組を窺わせるものは何もなかった。その時点で関係なさそうだなと判断したのだが、ちょうどそこへ中学生らしき修学旅行生へ引き連れたタクシーの運転手が登場。そして曰く、「次はこれ、ほら、『誠』とあるだろう、これ何だと思う、新選組が奉納した絵馬だ」

 傍で聞いていた当方としては、ちょっと面食らってしまった。新選組ぐらいマニアが多ければ、仮に新選組が奉納したとかの事実が確認できる史料があろうものなら大々的に紹介されるはず。しかしそういうエピソードは聞いたこともなかった。「誠の絵馬」を見て、ちょっと連想が働いたのは事実だが、すぐに違うだろうなと考えていたところだったので、びっくりしてしまったわけだ。というわけで、そんなに断定的な言い方をしていいのかな?、中学生だったら信じてしまうんじゃないかな?、というあたりへも気が向いてしまった。

 そもそも菅公信仰には「至誠」という言葉が掲げられることがある。天神さんが発行しているパンフレットに記されている「北野天満宮の由来」という文章にも、
○文道大祖・風月本主と崇められた菅公は、和魂漢才の精神で誠の心を以て学問に勤しまれたことから、学問をはじめ、芸能・農耕・厄除け・至誠・冤罪をはらす神として奉祀されています
○菅公が生涯一貫された「誠の心」は現在も生きています
などの記述がある。絵馬にある「誠」は、おそらく天神さまの神徳で語られるところの「誠」の方だろう。

 もちろん歴史的事実として取りあげるのではなく、面白可笑しく騒ぐだけのネタと割り切るのであれば、「新選組が奉納した誠の絵馬」としてしまうのは確かに面白い。同様に、この「誠の絵馬」を近藤勇が目に留めて「誠」をあしらった隊旗を作成したともっていくのも一案だろう。しかし、これらは小説などのフィクションならともかく、その旨を明確に記したものや類推が及ぶ史料は見つかっていないはずだ(少なくとも当方は知らない)。それであれば、かくかくしかじかと言う人もいますよ、程度のオブラートをかけた方がいい。改めて、「北野天満宮、新選組、絵馬、誠」という単語で検索をかけてみると、よそのブログでも似たような話を聞いたとの報告をちらほら見かけるので、2000年頃にはかくかくしかじかのアーバンレジェンドが広まっていたとしておけば、間違いには当たるまい。

 かつて京都検定が初めて行われた時、某テレビ局がニュース番組で京都検定を取りあげた流れの中で、金閣寺を建てたのは西園寺公望だと言っているガイドをスッパ抜いたことがあった。京都は観光業が主要産業の一つになっているので、観光ガイドの質を向上させることが大切だから、こういう検定を実施することになりましたという主旨だったようだが(テレビ局によるこの説明もかなりうさんくさい……)、「誠の絵馬」をめぐる一件は、当時から状況は変わっていないのかも知れないという思いを抱かせてくれた。ちなみに、これは別の日の出来事だが、本殿前の「渡辺綱奉納の灯籠」の前で、これまた修学旅行生に対して、「これは渡辺綱が酒呑童子をやっつけた時に、そのお礼で奉納した灯籠」と言っているガイド氏を目撃したことがある。おや?、酒呑童子だったかな?、伝承では茨木童子となっていなかったっけ? まあ源頼光による酒呑童子退治には渡辺綱も加わっているのだから、関係がないわけではない。このあたりは口がスベった程度なのかも知れないが、けっこうルーズな案内をしている輩も多いなという思いを抱いたのを覚えている。
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by office34 | 2010-09-14 18:40 | 京都本・京都ガイド
2010年 06月 26日
天神さんの日
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 毎月25日、北野天満宮に市が立つ。俗にいうところの天神さんだ。21日に開かれる東寺の弘法さんと並んで、有名な月例行事なのでガイドブックなどでもよく紹介されている。怪しげな露店など、その手の雰囲気を楽しみたい人には面白いのかも知れないが、そうした方面に興味のない人にとってはどうだろう。エサ類はいうに及ばす、その他ゴミ類などなどには食指は動かないというムキには、到底お奨めできるものではない。年末年始の、終い天神や始め天神などであれば、出物にも季節感がただようので、見物ぐらいには出かけてもいいと思うが、まあ、言ってしまえばその程度のものだ(写真クリックで拡大)。

 もちろん決まった日に決まったお宮さんへお参りする習慣がある世代であれば、露店にならぶ品物が目当てでなくても出かけるきっかけになっているはずだ。
寺院の縁日といえば老人と子供、ときめてかかるむきには天神の縁日風景は意外に映るだろう。確かに老人と子供は多いが、働き盛りの男、それも明らかに京都市内の人が少なくないのだ。
 京都の土地柄、歴史的風土というべきものだろう。自家営業の人が多いのだ。自家営業だから昼間から縁日にでかけるひまがある、なんていう消極的なことではなく、おさい銭をあげ、帰りに露店をのぞいてこなければ月々のけじめがつかない気がするのだ。
『京都百話』(奈良本辰也ほか、昭和59年、角川書店)
「北野神社」の項
 章段のタイトルが「北野天満宮」ではなく、「北野神社」となっているくらいだから、けっこう古い時代である。北野神社から北野天満宮へ変わった、正確には戻された年次は調べていないのでよく分からないが、描かれている空気は奥付の昭和59年よりさかのぼるような気がする。とりあえず、ばくっと昭和の中頃というような捉え方をしておくが、その頃の空気をよく伝えている一節だと思う。最近のガイドブックの類なら、たとえば「堀出シものを探す人たちで賑わっています」云々といった類の書き方になっているケースが目に付くが、少なくともそんないい加減なものではない。

 さてそんな天神さんの日だが、人出の増える日に合わせて開かれる宝物殿(紹介ページ[北野天満宮公式サイトより])は、大きく取りあげてもいいと思っている。恒例の出し物は、天神絵巻(「北野天神縁起絵巻」承久本[国宝])や、「鬼切」と伝えられる伝説の宝刀だろうか。天神絵巻の方は、実はレプリカなのだが、レプリカといって侮るなかれである。ヒューレットパッカードのデジタルアーカイブによるということで、素人目には分からないくらい精密なレプリカなのである。しかも、本物の場合であれば、博物館での特別展ぐらいでしかお目にかかれないわけで、そこでは黒山の人だかりになるのは間違いない。そのため、単純に本物とレプリカの比較というだけではなく、本物であってもクソ高い入場料を払ってざわめきと雑踏の中で見るシチュエーションとの比較になる。結果、レプリカとはいえ、絵や筆遣いをじっくり眺めて堪能できるというメリット、さらに梅の季節や観光シーズンを外した市の日なら静けさ付きとメリットも付いてくるのだから、レプリカの方に軍配を上げたくなるというものだろう。

 天神絵巻がレプリカ展示になっているのは、本物が国宝に指定されていることによるらしい。それに対して指定が重文程度のものであれば、現物が展示されている。今回、展示されていた中では、長谷川等伯筆の大絵馬(昌俊弁慶相騎図絵馬[重文])が目を惹いた。展示スペースの壁一面を占有するくらい大きさが図抜けていたことに加え、ガラス越しではなくてストレートに対峙できたことも印象を強くしたことの理由である。以前に入ったときは見た記憶がないので、この大絵馬が恒例の展示なのかどうかは不安だが、こういうものが常々拝めるのなら、何度足を運んでもいいと思えるシロモノである。



 
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by office34 | 2010-06-26 04:03 | 京都本・京都ガイド