Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 04月 06日
春の嵐
a0029238_2141041.jpg
花のトンネル(賀茂川左岸)も見納め?

ニュースによれば、この週末の「春の嵐」は昨年に匹敵する云々とのこと。なんとなく聞き流していたのだが、そういえば昨年も台風並みの低気圧が通過してどうたらこうたらのことがあったように記憶している。そして、折しも桜シーズンだったこともあって、それが花の具合にどう影響したかという内容でつらつら書いたような書かなかったような。

細かいことはさておき、今回はおそらく、この「春の嵐」が花散らしになるのは間違いない。一昨日、昨日と近くを通った折に見かけていた、出町の河川敷に広げられていたブルーシート、あれはたぶん週末のどんちゃん騒ぎを予定しての場所取りだったに違いないが、この雨風だからどうなったのだろう。せっかくの場所取りもお天気には勝てませぬというわけで急遽撤収、そして"花散らし"も屋根のある別の場所でといったことになっているのかも知れない。

ところで、春の嵐ということで、小澤蘆庵の歌を一つ、紹介してみる。
又ある時、周伊の訪ひきて嵐の花見んとあるにうちつれてゆく。雨いたうふりいづ。道もあしかりなんとて家に帰りしが、夕つけて晴れげに見えける時、かの人の言へる、春雨の雲の晴れゆく嵐山日はたけぬともおもひたたばや
かへし
よしさらばこよひは花の陰にねて嵐の桜ちるをだに見む
「春雨の雲の晴れゆく嵐山日はたけぬともおもひたたばや」という和歌に対して、返歌として詠まれたのが蘆庵の「よしさらば」の歌である。春雨の歌は、雨が降ってきたからといって嵐山探訪を諦めて帰ってきたのに、そのとたんに晴れてきた、日が高くなってからでも改めて出かけたいものだ、といった内容。それに対する蘆庵の返歌、
よし、それなら行こうじゃないか、今夜は花陰で過ごして嵐山の桜が散るさまだけでも楽しもう

ここでいう「嵐」は、直接的には地名の嵐山なのだが、季節的なことも考えると、桜を散らせる春の雨風も響かせているはずである。そして「嵐の桜ちる」とは、吹き乱れて花びらが舞い散るさまをイメージしているように思う。直訳すれば「嵐山の桜」としかならないし、含意をふまえても「嵐のように桜が散る」としかならない。それなら、いっそのこと「嵐の桜ちる」と原文のままイメージをふくらませた方が味わいが出てくる気がする。

貫之や定家といったビッグネームと比べると、小澤蘆庵なる江戸時代の歌人は知名度もたいしたものではない。それでもそのその歌風を慕って敬仰しつづけたのが大田垣蓮月だということを聞かされると、すこしはこだわってみたくもなる。ちなみに、大田垣蓮月の歌ということでよく紹介される一首、
宿かさぬ人のつらさを情けにておぼろ月夜の花の下臥し
も、「嵐の桜ちる」とシチュエーション的に重なるような・・・・・・というとこじつけすぎか。
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by office34 | 2013-04-06 21:07 | 街角の風景
2012年 12月 08日
大田垣蓮月、二首の辞世
概説書や略伝に依っていると、要約や省略によって話が捻れてしまうこともあるので、可能なかぎり原典にあたるのが望ましいと思っている。大田垣蓮月の件である。

昨日の記事でも触れたように、蓮月の辞世として世間に広まっているのは「願くはのちの蓮の花の上にくもらぬ月を見るよしもがな」である。自らの遺骸をくるむべく、生前より用意していたという白木綿の一反風呂敷に書かれていたとのエピソードとともに語られるもので、蓮月尼の面影を彷彿とさせる一首である。ところが、それに対して、大正10年に建てられた西賀茂西方寺の「故蓮月尼紀年碑」には「露塵毛心爾懸雲茂無今日乎限乃夕暮廼空(露塵も心に懸かる雲もなし今日を限りの夕暮れの空)」という和歌が、生前より用意されていた辞世として刻まれている。この歌を辞世と扱う根拠がどこにあるのかといったあたりが気に掛かっていたのだが、案外あっさりと解決をみたようだ。結論をいうと、両歌とも「辞世」なのである。

蓮月の評伝としては、杉本秀太郎氏著『大田垣蓮月』(淡交社,1976/桐葉書房,2004復刊)がよく纏まったものとしてある。しかし、杉本氏も記している通り、村上素道編『蓮月尼全集』(昭和2年)が「最も重要」な史料である点は動かない。杉本氏の評伝も、全集をふまえたうえで、再考すべきところは再考しつつまとめられたものである。したがって、ダイジェスト的に把握するにおいては杉本氏の『大田垣蓮月』が重宝されるのだが、なにがしかの問題に突き当たったとすれば、やはり『蓮月尼全集』にまで戻らねばならない。

今回、蓮月尼の辞世をめぐる問題でも、通り一遍の理解でいくのなら、『大田垣蓮月』の第四章「蓮月と鉄斎」から「明治八年」の節を引くことになる。
 明治八年、十二月十日の夕刻、蓮月は八十五歳で歿した。
 無用の者が消えてゆくのに多用の人を煩わすにはおよばないから、だれにも知らせてくれるな、ただ、死んでしまってから富岡にだけ伝えてもらいたい、と蓮月はかねて神光院の人びとに頼んでいた。鉄斎が駆けつけたとき、蓮月はもう浄土にむかっていた。
 この二箇月ばかり病床に付き添っていた寂黙という尼が、蓮月に教えられていたとおり、遺体を包む白木綿の一反風呂敷を押入から出してひろげると、蓮と月の画があり、画賛に辞世の歌がしるされていた。
  ねがはくはのちの蓮はちすの花のうへに
    くもらぬ月をみるよしもがな
 十数年のむかし、蓮月に乞われて、白い風呂敷に蓮と月を描いたのを、鉄斎は思いだした。白布に包まれたなきがらは、これも蓮月がかねて用意していて、普段は米びつに使っていた棺桶に収められた。
 翌日、蓮月は、神光院より西数町の丘の上、西方寺横の小谷墓地に葬られた。お棺のあとを、村中の人びとがみな泣きながら歩いた。
 墓は一本の桜の大樹の下にある。瓜ざねの形をした石に、大田垣蓮月墓とだけ、鉄斎の筆をそのまま刻んだ、なんの飾りもない、つつましいお墓である。
杉本秀太郎『大田垣蓮月』(桐葉書房,2004)

物語的にもよくまとまったくだりであり、「無用の者が消えゆくのみ、富岡にだけ知らせよ」という遺言と併せて、あちらこちらで紹介される場面である。この場面の印象がかなり強いがために、蓮月の辞世=一反風呂敷に書かれた「願わくば」の歌、という認識に固まってしまうのは、ある意味、やむを得ないところだろう。

しかし、より原典に戻るというスタンスで調べてみると、『蓮月尼全集』の「和歌の部、拾遺」に、
辭世
ちりほどの心にかかる雲もなし
けふをかぎりの夕ぐれのそら
ねがはくはのちの蓮の花のうえに
くもらぬ月をみるよしもがな
増補『蓮月尼全集』(同朋社,昭和55年復刊)による
と出ている(語句の異同は不問)。蓮月尼の作は、家集の「海人のかる藻」にまとめられている。全集に載る「拾遺」の歌は、「海人のかる藻」に載らないものであり、村上素道の「例言」によれば「『類題和歌鴨川集』に準拠して編纂した」むねが記されている。ここでいう「類題和歌鴨川集」の実体はもとより、「拾遺」として拾われている全てが「類題和歌鴨川集」に収められているのか等々、分かりかねるところもたくさんあるのだが(*)、「彼の集は稍や同時代の編纂に係るもの」とも記されているので、明治前期の蓮月尼没後ほどなくに出版されたなにかの歌集に準じているものと思う。そうして、「ちりほどの」と「ねがはくは」の両方に掛かるかたちで付けられている「辭世」という詞書も「類題和歌鴨川集」にそうあったのだろう。もちろん、さらに厳格を求めるのなら、「辭世」の詞書を付けたのが「類題和歌鴨川集」の編者である可能性についても検討せねばならないのだが、歌の内容からいって、蓮月が生前より用意しておいた「二首の辞世」と見ておいてもいいのではないだろうか。



(*)「類題和歌鴨川集」という書名の歌集については、書誌的な報告もあるが、『蓮月尼全集』例言に名前の挙がっている本と同じものかどうかは不明。
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by office34 | 2012-12-08 15:20 | 明治人物志
2012年 12月 07日
故蓮月尼紀念碑@西方寺
先月の22日と今月の1日に大田垣蓮月に関する記事を投稿しておいたのだが、ふと気がつくと、両方とも同じ文章になってしまっていた。いったい、何が起きたのか分からないが、どこかで混乱が生じたのだろう。本来であれば、小谷墓地を管理する西方寺で「故蓮月尼紀念碑」なる石碑を見かけたことに触れたのが11/22付の記事であり、神光院の茶所に掲げられている桜井知足の額および西方寺の記念碑の碑文を紹介したのが12/1のものである。それなのに、両方ともが茶所の額と西方寺の碑文、つまり12/1に投稿した文章になっていた。

事情はよく分からないが、とりあえず記事のバックアップに原稿が残っていたので、11/22の方をもとの文章に差し替えておいたのだが、同一文章が異なる日付に二カ所に出ていたのだとすれば、あまり格好のいいものではない。それをこの一週間ほど気づかずにやっていたということなのだろうか。ま、終わったことは仕方ない。

ともあれ、西方寺の「故蓮月尼紀念碑」の文章が放置モードになっているので、片づけておこうと思う。この文章で問題になるのは、きちんと読みとれない文字がいくつか残っていることを除けば、蓮月尼辞世歌が一般に言われているものと異なっている点だろう。蓮月尼の伝記等でよく紹介されるのは以下のストーリーである。
尼が七十時代かと憶ふ。白木綿で一反風呂敷を製し、それに月と蓮とを畫けと命ずるから、言ふがまゝに描くと、只だ疊んで仕舞つて置く。何にするのかと、其のまゝ忘れてゐた。處が歿くなつた時、村の者が尼の遺骸を湯灌して、さうして彼の風呂敷を出して包む。見ると月と蓮との間に自筆で辭世「願くはのちの蓮の花の上にくもらぬ月を見るよしもがな」が書いてある。そこで拙者も方ママめて解り、成程自分の名の如く始終を完うして、今世も後世も、身も心も清く潔く、高く明らけくあらんと念願したものである。而して此念願は、一朝一夕の念願でなく、十數年前より其念願で、此支度、此辭世が出來てゐたのである(鐡齋翁直話)
増補『蓮月尼全集』(村上素道編、昭和55年増補復刻、同朋社)


三条大橋でのエピソードや七卿都落ちを見送ったとする話同様、蓮月尼に関するエピソードの中では、これまた有名な部類らしく、他での引用も多々見受けられる。それに対して、西方寺の「故蓮月尼紀念碑」では「辞世」と明記して「露塵も心に懸かる雲もなし今日を限りの夕暮れの空」を記している。このあたりの事情がどうなっているのか、というのが大きな課題となりそうな気配なのである。

ということで、さしあたっての作業として、「故蓮月尼紀念碑」の碑陰を読み下しておく。本文は、その後、いしぶみデータベースに登録されていることが判明したので、そちらを参照
尼、初め名を誠のぶ、太ママ田垣伴左衛門光古てるひさの女むすめなり。光古、旧鳥取藩士にて来りて京師に住み、知恩院に仕ふ。子無ければ彦根藩士古川重次郎を得て、誠の配とするを以て嗣と為。子女を多く挙ぐれど、皆夭わかじにし、夫も亦尋ついで歿ぼつす。乃すなはち与ともに薙染ていしし、父は西因と号し、誠は蓮月と号す。常に国歌を好み、武技を能くす。旁かたはら、陶器を造り、詠む所を以て彫る。極めて韻ゐん有れば、久しく争ひこれを求む。尼、その煩を厭ひ、終つゐに洛北神光院中に移る。明治八年十二月十日歿。年八十五。西鴨小谷に葬る。尼、歿するに先だち辞世有り。今、刻して以て銘に代ふ。贅を復たとせずして曰く、
露塵も心に懸かる雲もなし今日を限りの夕暮れの空

結局のところ、碑が建立されるにあたって、蓮月の辞世歌に別伝みたいなものが語られていたと思うしかなさそうである。
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by office34 | 2012-12-07 18:48 | 歌碑・文学碑など
2012年 12月 01日
蓮月画賛@神光院茶所
先月に続いて再び神光院と西方寺を訪れてみた。前回よりは紅葉の見栄えもよくなっているだろうし、西方寺で見かけた故蓮月尼記念碑の碑陰文字もきちんと確認しておかねばならない等々の目論見からである。

神光院の紅葉は、まあこんなもんだろうといったところだが、茶所に掲げられている奉納画がちょっとおもしろいかなと思えたので、その詞書を写してみた。
a0029238_22154994.jpg

(右側)
明治戊辰の役官軍の先陣を承つて京都を発する島津公の行列が三条大橋にさしかヽつた時その公の馬前に進みでヽ一葉の短冊を公に捧げようとする一老尼があつた公の背後に居られし西郷南洲はその尼の前へ進みよつて「そなたは誰で何の用かあつてのことか」と訊くと「めでたき御出陣のほど承はり腰折一首さし上げたいと存じまして・・・・・・私は蓮月と申す尼でございます」とて水茎のあとも床しい和歌であつた「あだみかたかつもかくるもあはれなりおなじみくにのひとヽ思へは」 南洲はくりかへし■■(踊字)いくども口すさんだ後深くうなづいた「よく分かりました必ずよいやうに取り計ひますから安心しておかへりなさい私ハ西郷吉之助でごわす」尼はひたすら喜んで帰つた これこそ当時洛北神光院の茶所に隠棲する勤王の歌人大田垣蓮月尼その人であつた
之によって西郷の心も官軍の鋭鋒も柔らいで海舟と談笑の中に平和に江戸城あけ渡しが成立したと云うふ
(左側)
歌人大田垣蓮月尼逝いて七十七年仝尼追恭回向の為当神光院に於て仝尼の法要並遺作展覧会開催せらるヽに当り本額を記念として奉納するもの也
   昭和廿六年十二月二日
     京都市上京区北野白梅町
              桜井知足
画の右側に記されているのは、いわゆる蓮月伝説の中でもよく知られた三条大橋でのエピソードである。史実かどうかについては言うに及ばないが、蓮月尼美談として有名なものの一つであったがゆえに、こういう額が制作されて奉納されたのだろう。昭和二十六年という年次からも、大田垣蓮月のネームバリューがまだ大きかったことを窺わせる。

西方寺では「故蓮月尼記念碑」の碑陰確認が課題である。前回は一応写真に収めはしたものの、確認できない文字が少なからずあったので、そのチェックである。実際のところ、摩滅が著しく読みとれない文字もあったが、写真でみるよりはかなり改善されたので以下に書き出しておく。
尼初名誠太田垣伴左衛門光古女也光古旧」鳥取藩士来住京師仕知恩院無子得彦根藩」士古川重次郎為嗣以誠配馬多挙子女皆夭」夫亦尋歿乃与■■父号西心誠号蓮月当好」国歌能■技■造陶器■■所詠極有韻歌久」争求之尼厭其煩終■于洛北神光院中明治」八年十二月十日歿年八十五葬於西鴨小谷」尼先歿有辭世今刻以代銘不復贅曰」
露塵毛心爾懸雲茂無今日乎限乃夕暮廼空
(■は解読不能文字)

碑文に関するコメントは後日改めて。


おまけ(神光院の紅葉)
a0029238_22162898.jpg



------------------------------
【追記】2013.03.15
この記事の画像が消失した模様です。
改めてアップロードして、もとの箇所を修復してもいいのですが、エキサイトブログではこうしたデータ消失がたびたび起きていることを示す意味でも、修復はせずに別途、画像を表示することにします。

a0029238_252546.jpg
茶所に掲げられている奉納画


a0029238_252594.jpg
神光院の紅葉

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by office34 | 2012-12-01 21:33 | 歌碑・文学碑など
2012年 11月 22日
蓮月歌碑@西方寺(西賀茂)
西賀茂神光院に大田垣蓮月が晩年をおくった庵(茶所)があることはよく知られている。そして近くに蓮月の歌碑がおかれていることも有名なクチだろう。そこに刻まれている歌は、
宿かさぬ人のつらさをなさけにておぼろ月夜の花の下ふし
なのだが、これ以外の蓮月歌碑が五条木屋町や島原大門前にあることは、このブログでも紹介済みである。ところが、このほど、もう一つ、蓮月歌碑があることに気づかされた。ざっと見たところ、活字本やネットの記事で紹介されているものを見かけた記憶もなかったので、意外な感もあるのだが、どうも蓮月歌碑のようなのである。

場所は神光院からさらに西へ行ったところにある西方寺境内。神光院の茶所と併せて、このお寺の墓苑にあるという蓮月の墓がよく紹介されるので、かねてより気にはしていた。しかし、気にしていたのはお墓だけであって、境内に歌碑もあるとはつゆ知らなかったのである。

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なんだ歌碑じゃないぞ!などというなかれ。確かにパッと見た目には「故蓮月尼記念碑」としか刻まれていないが、この手の石碑で油断ならないのは碑陰すなわち裏面である。通常は建碑の事情や顕彰される人のプロフィールなどが書かれているので、石碑を見る時には常にチェックを入れねばならない。西方寺にあったこの蓮月尼記念碑も、ご多分にもれず蓮月尼のプロフィールが刻まれていたのだが、その最後の部分はこう締められていた。
尼先歿有辭世今刻以代銘不復贅曰」露塵毛心爾懸雲茂無今日乎限乃夕暮廼空
亡くなるに先立って辞世の歌を作っていたとのことらしい。辞世の歌とはもちろんそういうものであって、そのこと自体は問題にはならない。へぇ~と思わされたのは、その辞世歌を刻む石碑があったということである。漢字で刻まれた碑文に合わせるためか、尼の歌も漢字表記に改められているが、和歌であるには違いない。仮名に戻すと
露塵も心に懸かる雲もなし今日を限りの夕暮れの空
となる。蓮月の辞世とされるのがこの歌なのかどうかはチェックしていないので、その辺りが判明してから詳細を続ける。

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最後の二行が辞世にふれたくだり

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by office34 | 2012-11-22 23:58 | 歌碑・文学碑など
2010年 05月 29日
木屋町五条のプチ公園
 五条わたりを歩いていた折、気になったことをつらつらと。

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 木屋町五条の北西角がプチ公園のような感じに整備されているのだが、ここに大田垣蓮月の歌碑が設置されていた(写真クリックで拡大)。かつて五条通のど真ん中、分離帯のあたりに置かれていた牛若弁慶像も引っ越しをしてきているのだが、はて?と首を捻ったのは蓮月歌碑の方である。
あすも来て見んと思へば家づとに手折るもをしき山さくら花
とある。

 一応、解釈を付けてみる。明日もこの場所を訪れて見るのだろうことを思うと、今日、この枝を折って土産に持ち帰るのも惜しく思われる、そんな美しい桜花だ……、だいたいこんなところだろう。さて、この歌碑がなぜ気になったのか。歌碑が設置されるのは、そこがゆかりの場所だからというケースが多い。だとすれば、木屋町五条の辺りが蓮月ゆかりの何かがあるということなのか。そのあたりがしっくり落ち着いてくれなかったのである。歌碑の近くに駒札があるものの、そこには蓮月に関する通り一遍の説明しかない。歌の解釈はもとより、この歌が木屋町五条とどう関わるのかには一切答えてくれない。牛若丸弁慶像のように、説明不要なほど有名な事柄だというのならいざ知らず、説明がないとどうも怪訝に思えてならない。

 蓮月はその生涯において、転々と居を移している。晩年を過ごした西賀茂神光院がよくクローズアップされるが、丸太町橋の近くにいたこともあるし、大仏付近にいたこともある。大仏付近にいた事績から木屋町五条をその近辺とみなしているのかも知れないが、転々とした中の一つが大仏付近ということなので、とりたてて言うようなことかどうか。それに、この歌とこの場所がどう関わるのか、どうもしっくり来ない部分が多すぎる。もっと専門的に調べていくと、何か出てくるのかも知れないが、当方の持ちあわせている知識の範囲では、うまく説明できそうにない。

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 それと、もう一つ。木屋町通を挟んで、このプチ公園の向かい側に、それがあった。かの橋脚である(写真クリックで拡大)。場所から推して、三条大橋ではなく、きっと五条大橋の方に違いない。天正なんやらとか、摂津国御影なんやらとか、三条大橋の場合と同じような刻字のあるものが、あるものはモニュメントのごとく、あるものはベンチのごとく、はたまたあるものはお地蔵さんの祠の台座として、置かれていたのである。

 少し前のこと、かつて堀川に架かっていた松原橋の橋脚や三条・五条の橋脚が集められている公園があるという話を聞いたことがあった。その時は、教えてくれた人も、その場所をうろ覚えだったようで、綾小路かそのあたりと言っていたように記憶している。それで探してみたが、「綾小路」と「公園」というだけではデータ不足なのは言うまでもない。それらしき場所は見つからず、すぐにお手上げと相成った。そもそも、話してくれた人もうろ覚えだったから、当方もまあいっかと諦めていたわけだが、もしかすると、この木屋町五条の公園のことを言っていたのかも知れない。狭いスペースながら、その方々に石材が並べられているのである。ほんの偶然の発見だったのだが、大きな収穫だった。

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by office34 | 2010-05-29 03:55 | 街角の風景
2008年 12月 31日
太田垣蓮月のこと(再)
 一年の締めくくりだからというわけでもないが、このところ拘ってきた太田垣蓮月についてもう一度触れておこう。

 源義経がどうなのかはさておき、どうやら蓮月は京都を代表する人物であるらしい。しかし、さまざまな伝説が入り乱れはしても、その実像はなかなか掴みがたい。メディアが発達していなかった時代なのだから、信用に値する確固たる情報など望むほうが無理な話なのであって、分からないのが当たり前と見做すこともできるが、よくわからない人物像としておくのが適当だろう。

 そうした状況を前提として整理するなら、太田垣蓮月に関する話は一次情報・二次情報と分類することが有効なようだ。一次情報というのは、彼女と直接面識のあった人々が伝えている話であり、二次情報というのは、それに脚色が加わって面白可笑しく練り直された話である。いくつかの文献を見てみた範囲でいえば、大方は二次情報と見て間違いないのだが、話の出典が明示されており、それが一次情報と見做せるものも無いわけではない。理想をいうのであれば、そうした出典情報から原典に溯るのが望ましいのだが、そこはやはり物理的な制限があってままならない。

 結局のところ、ここでの話は二次情報に依拠して進めざるを得ないのだが、二次情報であっても出典が明示されていて、一次情報の面影を窺うことのできるものは貴重である。具体的には西村天囚「聞書」や黒田天外「江湖快心録」、あるいは富岡鉄斎の談話などは、蓮月尼直筆の消息文に次ぐぐらいの重きを置かねばならない。そして、当方のレベルで直接、手に出来る資料で、これらの出典情報が記載されているものとなると、村上素道編『蓮月尼全集』ということになる。

 実際のところ、昭和二年にこの『蓮月尼全集』が上梓されたことによって、蓮月尼研究の端緒が開かれたらしいのだが、その一方で当時すでに過去の人となりつつあった蓮月尼が世人の記憶に呼び起こされたのに伴って、出所不明の蓮月尼伝説も跋扈し始めるきっかけともなったようである。その『蓮月尼全集』だが、利用しやすい形での再登場となったのは、平成十六年に村上素道老師集の一冊として復刻されたことによる。当方も、この復刻版に拠っているわけである。

 さて、前振りめいた話ばかりが冗長になってきたが、太田垣蓮月をもう一度という思いになったのは、『蓮月尼全集』に収められている一文が契機になっている。引用長すぎの誹りも顧みず、今回はその文章を全文引用という形で紹介するつもりである。全文掲載してしまうと、引用の範囲を越えて著作権の問題に抵触するところだが、この文章については筆者が昭和十(1935)年にお亡くなりになっているので、非を問われることはないはずである。それは誰か言えば、現在の麻生内閣で経済財政政策の特命大臣をやっておられるお方、与謝野馨氏の御爺さま、与謝野鉄幹である。太田垣蓮月は与謝野鉄幹の父、与謝野礼厳(尚綗[=イトヘン+冏]:しょうけい)とは親しい間柄だったらしく、鉄幹も父母から蓮月尼の話を聞いていたという。そして『蓮月尼全集』が出版されるにあたって、伝記篇の序文として「蓮月尼の事ども」という文章を寄せているのである。一次資料、二次資料という分類をするなら、鉄幹は蓮月尼をよく知る人物からの話として書いているわけだから、一次資料とはいえないまでも、出所不明の二次資料ではない。いわば一・五次資料ぐらいの価値はある。そこに記されているものの中には、伝説化しているものも含まれているが、伝説化したものであったとしても、もともとの形がどういう内容だったのかということが窺われて興味深い。


蓮月尼の事ども

與謝野寛   

 蓮月尼に就て父母の生前に聞きつること多かりしかど、今は大方忘れたり。確かに記憶したるは、(一)西賀茂神光院の茶所へ落ちつかれたる以前、尼は幾たびも居を移されたりしかば、知る人は、よく家移りする人を「蓮月さんのやうな」と云ひし由。(二)明治維新の年、西國の或る藩士、家老格などにや、供人など連れて尼の隠栖を訪ね、短冊を乞ひけり。尼、何か心に添はぬ事ありしにや珍らしく斷られしに、藩士、謝禮として金一封を出だして、更に乞ひて止まず。其時、尼は凛然として「婆婆は風流は賣りませぬ」と云はれたり。藩士はその氣勢に愧ぢて、又多く云はずして歸り去れりと云ふ。(三)いつの年か、薩摩の公子(後の島津久光公か)が微行とは云へ、供の藩士と税所敦子とを具して尼を訪ねられしが、尼は「さる貴人に逢はじ」とて素氣なく斷られけるが、敦子年まだ若くて、心利きたる人なれば、屋外に立ちながら歌を一首書きて尼に示したるに、尼は其れに興を覺えて、姿を入口に現はし、敦子と物語して、終に公子にも逢はれき。其時、尼も返歌せられたり。其歌を父は尼より口づから聞きたれど、父が我に其れを語りしは七十歳の頃にて、既に記憶せずと云ひき。(四)尼の陶物を僞作する者、京の中に多く出で來りしに、尼は「我が眞似をして口すぎになるならば幾らにても眞似したまへ」と云ひ、その僞作する人人の中には、尼につきて、陶ものの作り方を學べる人もあり。されば尼の陶器に僞物いと多けれど、皆尼の默許しつるなりと父は語りき。(五)若き時、良人に別れて後、再婚を勸むる人多かりしが、或日、その勸むる一人の訪ひ來りしに、隣室にて、釘貫にて、きうきうと音をさせつつ自ら齒を抜き、容姿を損ひ給ふ氣はひに、其人驚きて歸り去り、それより又勸むる人も無くなりきとぞ。(六)我兄なる大圓と照幢とが未だ少年の僧にて、漢書を聲上げて素讀しをるに、その誤り讀める所を、尼は茶所より聲高く掛けて屡正されける由、これは母の語りき。(七)尼は若き日に長刀、鎖鎌などの武藝さへも修められたれば、つつましやかなる中に毅然たる風采ありしとぞ。(八)尼は女の嗜みなればとて、老いても、干菜を煮たる湯を盥に汲み、寒中にも腰湯をせられたりとぞ。(九)尼が井手曙覽と知られしは父を通じてなり。父が鐵齋先生と知りしは尼を通じてなりき。(十)尼は孝心深き人にて、自ら陶土にて父母の小像二躯を造り、時に盤に入れて温湯に浴せしめ、或は寒中には.衣服を着せられたりとぞ。(十一)洋藥を早く明治初年に輸入したる父は、屡諸種の洋藥を尼に贈りしに、尼は其れを愛用して喜ばれたり。開化の新しき事を拒ばまぬ人なりしと父の語りき。(十二)尼の歌は初め蘆菴に私淑して、後には自然なる讀み振りとなり給へる由、之も父の語りき。また尼は「源氏」と「枕草紙」を若き日によく讀まれたる人なりと父の云ひき。(十三)父は固より、母も蓮月尼を敬ひしかば、尼のやうに字を書かんとは母の願ひの一つなりき。母の遺墨を見るに、やがて尼に似たる所多し。母は尼に歌の帖を書いて貰ひ、手本のやうにして眺めゐたりしが、その帖いかにしけん、久しく我家に無くなりぬ。(十四)近年鐵齋先生みまかり給ひし後、尼に親炙せし人の世に在るは兄大圓一人の遺れるのみ。尼につきて兄の記憶にあるを悉く聞きて記るし置かんと思へど、地の隔たりたれば未だ果さず。京に住み給ふ人人、願はくは此事に當り給へかし。また尼の遺作、兄の寺に最も多く蔵せり、其れをもすべて撮影して一冊としたし。


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by office34 | 2008-12-31 18:28
2008年 12月 17日
時代祭の風俗行列
 先般の流れで時代祭の風俗行列における登場人物について調べてみた。これまで壮大なる仮装行列という見方しかしていなかったが、調べていくとそれなりに面白みも出てくる。概略的なところなら、平安神宮のHPで一目瞭然なのだが、当方が関心をもったのは登場人物の選定過程であり、内輪の話に近いネタである。この人は京都に相応しいとか、こいつはダメだとかの議論の過程が窺われたりすると面白いと考えたのである。もちろん、そこまでの話が簡単に出てくるとは思われず、とりあえずは表向きの変遷ぐらいが分かれば御の字というのが正直なところである。ということで、かの風俗行列の変遷を年代を追う形で書き出してみる。情報の出どころは『平安神宮百年史』(平安神宮百年史編纂委員会、平安神宮刊、1997)という本で、この本の刊行以後の情報などは平安神宮のHPの内容などを参照した。


明治二十八(1895)年
行列計画案が提出される。この時のラインナップは
前列/延暦文官参朝列/延暦武官出陣列/藤原文官参朝列/城南宮流鏑馬列/織田入洛列/徳川城使入洛列/平安踊/弓箭組/山国隊
このうち「平安踊」は没となり、「弓箭組」「山国組」は列外参加という位置づけとなった。

明治二十九(1896)年
行列の中心としての神幸列が加わる。この神幸列に供奉する行列が、風俗行列であり、祭儀全体の名前が「時代祭」と確定されたのも、この年である。また山国隊と弓箭隊が先頭に配され、以下は徳川城使上洛列から時代を遡り、最後に前列、調理組(後の神饌講社)、神幸列の順となった。

明治三十(1897)年
山国隊が本列に加わって行列の先頭を歩く(山国隊が先頭を歩くようになった年について、二様の記述があるようだが、当方の読み違えか?)

明治三十一(1898)年
神幸列に御鳳輦が加わる。

明治三十四(1901)年
山国隊、五年ごとの参加を提案するが否決される。

明治三十五(1902)年
山国隊、不参加。

明治三十九(1906)年
山国隊が参加、以後は五年ごとの参加となる。

大正七(1918)年
山国隊、この年から不参加。

大正十(1921)年
山国隊の代わりに維新勤王隊が参加するようになる。山国隊と維新勤王隊とでは、扮している団体も違えば、名前も違うのだが、維新勤王隊の装束が山国隊のものを継承していることから、現在の維新勤王隊の説明として「当初は山国隊だった」云々と書かれることもある。

昭和七(1932)年
楠公上洛列と豊公参朝列が追加される。

昭和十五(1940)年
この年から平安神宮のご祭神として孝明天皇を合祀される。併せて神幸列に孝明天皇の御鳳輦が加えられる。

昭和十九(1944)年
戦争の影響から行列は中止となり、祭儀は「居祭」の形で催行される。この年から昭和二十四年までは「居祭」で行われたことになっているが、これは事実上の中止である。祭儀の中でもっとも神聖な儀式は執り行われたのだろうが、行列がメインとの印象はすでに出来上がっており、行列がない以上、時代祭は「中止されていた」ことになっている。

昭和二十五(1950)年
時代祭、すなわち風俗行列が復興され、あらたに婦人列が参加するようになる。婦人列のあり方は、この年から昭和三十年までの間で少しずつ変わっていっているが、まとめると次のような具合になる。

昭和二十五(1950)年
やすらひ花踊列/女房の物詣列/醍醐の花見列

昭和二十六(1951)年
歌垣列/諸職の婦人列/小町踊列

昭和二十七(1952)年
歌垣列/女房の物詣列/醍醐の花見列

昭和二十八(1953)年
婦人列(紀貫之の娘、紫式部、清少納言、常磐御前、横笛、巴御前、静御前、阿仏尼、淀君、出雲阿国、吉野太夫、和宮)

昭和二十九(1954)年
平安婦人列(和気広虫、小野小町、紀貫之の娘、紫式部、清少納言、常磐御前、横笛、巴御前)/中世婦人列(静御前、阿仏尼、淀君、桂女、大原女)/江戸時代婦人列(出雲阿国、吉野太夫、中村内蔵助の妻、和宮)

昭和三十(1955)年
平安婦人列(和気広虫、小野小町、紀貫之の娘、紫式部、清少納言、常磐御前、横笛、巴御前)/中世婦人列(静御前、阿仏尼、淀君、桂女、大原女)/江戸時代婦人列(出雲阿国、吉野太夫、中村内蔵助の妻、玉瀾、梶、和宮、蓮月)←玉瀾、梶、蓮月が加わった。


 当方が関心を抱いた問題は、どうやら戦後になっての変遷に見られるようである。復興に伴う形で婦人列が企画されたらしいが、昭和二十八年の時点で具体的な顔ぶれが意識され始めたようだ。戦前から行われていた中でも楠公列の楠木正成や織田公列の信長など個人がイメージされるケースがあっても、それはその個人について適不適をいうのではなく、行の妥当性が優先されていたはずである。それに対して、婦人列では、この人はどうの、あの人はこうのといった感じでの取捨選択が行われたと思われる。

 昭和二十五年以降の動きを見てみると、昭和二十八年に初めて固有名が登場している。それ以前に行われていた中では、醍醐の花見列であれば、ねねとかまつとかはイメージされていたとは思う。しかし、それも楠公列の正成みたいなもので、醍醐の花見列を入れるのなら必然的にねね・淀君・まつ……あと誰だったか忘れたが、そういう顔ぶれが固定される。それに対して昭和二十八年からのケースでは、婦人列を実施することが決まっても、それからの段階で、行列を構成するメンバーが議論されたはずである。事実、昭和二十八年以後の変遷を見ると、二十八年のものが試行段階で、本格的に婦人列が完成したのが二十九年、そして三十年に三名をプラスして整備したといったところのようだ。

 このところ続けざまに取り上げてきた太田垣蓮月だが、昭和三十年のプラス三名の段階で加わってきている。選択の基準が、時代を代表する女性であり、京都とゆかりが深い女性というのであれば、出雲阿国と和宮は議論の余地無しだろう。また婦人列実現のためには花街の協力が欠かせないことを考えると、吉野太夫は選ばれて当然である。内蔵助の妻については、時代のファッションリーダーという意味合いがあったらしく、「着倒れの町・京都」の京都らしさを主張させるには是非必要ということなのだろう。そうなると、確かに昭和二十九年までに選ばれた顔ぶれは納得もできる。しかし、翌年になって加わった三名はなかなか判断が難しい。玉瀾と梶は花街関連といえば、そうなのだが、おそらく現時点で当方がもっているのとは異なったイメージが昭和二十年代には行われていたのだろう。蓮月についても、いわゆる「女流歌人・太田垣蓮月」という説明だけでは捉えきれない、イメージ上の蓮月尼がいたものと思われる。そのあたりが、今後の課題である。

 なお婦人列以降の大きな変化というと、坂本龍馬らが加わった維新志士列がある。これはこれで、顔ぶれの選定が大きな問題だと思う。婦人列についても、江戸時代以外の顔ぶれについて触れる必要があるし、また機会を改めてつついてみよう。

 最後に近いところでの変化を列挙しておくと、以下の通り。平成十二(2000)年、平安時代婦人列に百済王明信が正式に加わる。平成十九(2007)年、室町幕府執政列と室町洛中風俗列が加わる。平成二十(2008)年、ミスインターナショナルの各国代表がそれぞれの民族衣装で行列の前に列外として参加。最後のはご愛敬……。
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by office34 | 2008-12-17 02:02
2008年 12月 11日
大田垣蓮月のこと
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 前回に書いた内容は、大田垣蓮月とは何者ぞという話であり、現在広く行われている「幕末期の女流歌人」という評価を検証してみようということだった。正直のところ、あれこれ云々できるほど調べ上げたわけではないが、かつては「烈女蓮月尼」という認識が広くあり、近年になって学問的に見直される流れの中から「女流歌人大田垣蓮月」という姿が浮かびあがってきているのではないかという見通しである。

 その後、少し調べものが進んだので修正を含めて贅言を重ねておこうと思う。なお、今回の書き込みでは引用が多くなる。しかも、キーを握るのは一冊であり、それは昭和十八(1933)年に上梓された成瀬慶子の『大田垣蓮月』という本である。蓮月没後およそ半世紀ほどして出た評伝であり、リアルタイムで大田垣蓮月と接していた人の話も踏まえられているほか、半世紀ほど経って、評価がどのように動きつつあるのかも窺われる一節もあって、非常に興味深い本である。

 さて本題。大田垣蓮月が西賀茂神光院で八十五年の生涯を閉じたのは明治八(1875)年のこと。当方が現時点で見つけることができた資料の中で、これにもっとも近い時点で記された人物評は『平安通志』の中の一文である。後年の資料に引用として出てくるものはいくつかあるが、出典として明示できるものとしては、これになる。『平安通志』は、平安遷都千百年記念事業の一環で編纂された書物で、明治二十八(1895)年の刊。

 そこには「尼蓮月 和歌ヲ善クシ別ニ機軸ヲ出ス、高雅風流、其名甚高シ、明治初年歿」とある。「別ニ機軸ヲ出ス」の箇所は意味不明。斬新な詠風を開いたという歌論的なところに踏み込んでの発言とは思えないので、単純に新しい歌集を出版したという意味合いなのだろうか、よく分からない。この点は措くとして、和歌をよく嗜んだという点と「高雅風流」の点で評判が高かったという点は、思うに同時代的な評価だったろう。

 ただ、これとほぼ同じ時代と見ていいのだが、明治三十二(1899)年に東京で刊行された本では「歌人」としての位置づけがはっきりなされている。それは佐々木信綱編による続日本歌学全書『明治名家家集』(上巻)で、蓮月尼の歌集「海人の刈藻」が収載されている。「歌人」という肩書きと、歌集が出版されたという経歴が必要十分の関係であると言っていいのかどうかは議論も必要にもなるところだが、没後数年にして「歌人」として評価は固まっていたと考えておきたい。ちなみに『続明治名家家集』における「海人の刈藻」の解題では、蓮月尼の経歴やエピソードが詳しく紹介されている。とりあえずその一節。

尼世わたるたづきにもとて陶器作る事を学び、陶器を製して、これに日頃よみし歌を仮初に彫りしに、文字の雅致なると陶器の風致あるとによりて、買ふ者少なからねば、思の外に世を安く送りて、父は七十八歳にて身まかりぬ。のち東山の寺院のあきたるに身を寄せて、一鍋一椀の外身つくる事なく、陶器を売りて得たる銭は、はつかに饑を凌ぐのみ。其余は尽く貧しき者にとらせ、身に一銭も蓄ふる事なし。又謙遜辞譲にして人に驕る色なかりしと云。

 陶器を焼き、そこに自詠の歌を刻んだものを売って日々の糧を得るというのは、いわゆる「蓮月焼」と呼ばれて珍重されるに至る陶器類の話なのだが、蓮月焼の作り手というのであれば「歌人」というより「陶芸家」というべきなのかも知れない。しかし実は積極的に「陶芸家」と呼んではいけない事情が存在している。それは、多くの評伝で紹介されているエピソードなのだが、蓮月焼が評判になるにしたがってニセモノが出回るようになった時のことである。陶器自体は市井の職人が容易に真似できる程度のものだったが、そこに刻みつけられる歌や筆跡は再現できないので、贋作者たちは自分たちの焼いた陶器に歌を刻んでくれるよう、蓮月尼を訪れては頭を下げて頼んだ。これは贋作の公認を求めたということである。それに対して蓮月尼は、焼き物については素人の手慰みだからどうでもいいこと、自分の歌や手跡が入り用ならいくらでも書きますよと快諾した……というのである。このエピソードは、些事にこだわらないおおらかな人となりを伝えるものとして引かれるところだが、蓮月焼が珍重されたからといって当人は陶芸家としての意識は持っていなかったことも読みとれる。では、だからといって「歌人」と呼んでいいのかどうかというと、実はそれについても疑問符を付けねばならない。ここで成瀬慶子『大田垣蓮月』の一回目の登場となるわけだが、そこに引かれているエピソードの中に次のようなものがある。

ある書林から尼の歌集を出版したいといふ交渉を受けた。名聞嫌ひの尼は頑としてそれに応じなかつた。その中に和歌を蒐集して無断刊行を企てた者があることを尼は伝へ聞いて、早速鉄斎を使としてその中止交渉をさせた。その時既に版木も半以上出来上つてゐたので書林の損失も少なくない。書林の主人もしきりに懇願するので鉄斎は一応帰つて尼にその事情を報告したが、尼はその版木の損失は弁償するから断然中止させてくれと主張するので、鉄斎はまた書林に引返して遂に主人を納得させたとのことである。
 それから幾多の歳月を経て、明治の初めに尼の歌集「海人の刈藻」といふのが出版されたが、これも尼の発企ではない。

 このエピソードはどう解釈するべきだろう。歌集の編纂と出版を当人に無断で行おうとしたことに対して怒ったのではなく、「名聞嫌ひ」がゆえの行動なのである。銭を払ってでも出させないというのだから、その度合いは相当なものだったのだろう。ここでわずかでも職業歌人としての意識があったなら、おそらく違った対応になっていたのではないだろうか。先に上げた蓮月焼の贋作の話で、真贋の違いを論じない点で「陶芸家」と呼べないとするのであれば、自らの詠草を纏める意志を持たない点において「歌人」とは呼べないという論理も成り立つはずである。確かに税所敦子の言葉として「……都門の歌壇に名高かつた大田垣蓮月尼、高畠式部……」というものがあったことは成瀬慶子の本にも紹介されているが、周囲より歌人と見做されていたとしても、当人にはそういう意識はなかったのに違いない。

 比較としてはやや乱暴だが、『源氏物語』を書いたからといって紫式部を「作家」といってよいかどうか、『枕草子』をもって清少納言を「随筆家」と呼べるかどうかという話にも通じてくる。紫式部にせよ、清少納言にせよ、当人の意識としては中宮に仕える女官という自覚だったと思われる。その上での余技、その一つの筆遊みが好評を得たに過ぎない。少なくとも専門職としての作家意識などはなかったと思われるのである。蓮月尼に即するなら、こういうことである。当時の教養として、嗜みの一つで身についた詠歌の才が他人様に喜んでもらっているにすぎない、自分自身は歌人でもなければ陶芸家でもない、単に手遊びでの焼物や詠歌を弄んでいるにすぎない。そこにあるのは、肩書きや職業意識としての「歌人」とはほど遠い感覚だったと思われる。

 それでは「歌人」と呼ばないのであれば、蓮月尼をどう呼べばいいのか。突き詰めれば、蓮月尼は蓮月尼に過ぎないとなってしまうのだが、あえて何かを被せるのなら「江戸末期から明治初期に生きた尼僧」とするしかない。さらに説明の文言に相当するものが必要なら「江戸末期から明治初期に生きた尼僧で、自ら詠んだ和歌を刻んだ焼き物『蓮月焼』で評判を得る」とするあたりが妥当ではないだろうか。そして、ここへプラスαの属性が一つ、また一つと重ねられていく。

 プラスαの属性、その一つめとしては「清貧」という点が挙げられる。上に引用した『明治名家家集』の中でも「一鍋一椀の外身つくる事なく、陶器を売りて得たる銭は、はつかに饑を凌ぐのみ。其余は尽く貧しき者にとらせ、身に一銭も蓄ふる事なし。又謙遜辞譲にして人に驕る色なかりしと云」とあり、蓮月焼の贋作問題も性格のおおらかさというだけでなく、見方を変えれば、名利をゼニカネに結びつけなかったとなるわけだから、清貧の人なりと見做すことができる。もっとも高家の出身であることや若くして仏門に入ったことなどから、下層民が否応なく直面するぎりぎりのところでの餓えとは無縁の、いわゆる高踏的な次元での清貧だったのは間違いない。

 歌の才があり生き様も清貧でありとなると、話は出来過ぎではないかとの方向に傾くのが普通である。加えて蓮月尼には美貌という属性も備わっていた。これだけのプラス要件が並ぶと、そこに傷を求めたくなるのはいつの時代でも同じだろう。現代のタブロイド紙や女性誌のような、それをもっぱらとすることに対する世間様からの風当たりはあるにしても、その手の与太話を面白がるのもまた世間様である。この蓮月尼についても、この手の与太話的な話柄は、早い時期から出ていたようである。『明治名家家集』の中でも、実は引用しなかった部分に、剃髪後にも言い寄ってくる男がいたので自らの歯を抜き取って云々という、以前の書き込みで取り上げた『京男・京おんな-京都人の気質と意識』の中にあるエピソードが紹介されている。没後二十数年の時点において概略的に人生を紹介する記述の中に取り上げられるくらいだから、相当インパクトが強く、言い方を変えれば、面白可笑しく喧伝された話なのだろう。一応、確認の意味も含めて『明治名家家集』における文言を引用しておく。

尼容貌うるはしかりければ、書をおくりて挑む者あり。尼打泣きて、かゝる事聞くもかたちにこそよるなれとて、釘抜もて自ら歯を抜とりしに、其音きしきしと鳴りて、血出る事おびたゞし。媒する者大に恐れてのがれ去りしと云

 先日引いたところの、「烈婦すなわち千斤の秤を引き云々」とは文言が異なってはいるのだが、『明治名家家集』の言い回しについては、その出所は推測可能である。昭和三十三(1958)年刊行の『蓮月尼之新研究』(徳田光圓、三密堂書店)には、非常に近い文言でこのエピソードが紹介されている。それによると、

又依田学海の伝には、
容貌美はしければ、人皆これを見て心を動かし、文など送りて挑む者あり。尼うち泣きてかゝる事聞くもかたちにこそよるなれ、やうこそあれと、釘抜というものをもて、自ら歯を抜き取りしに、其音きりきりと鳴り……人其操節に感じて後は自ら敬ひ尊みてみだりなることを言ふ者無かりき。

とある。これを比べると、依田学海(天保四[1833]年~明治四十二[1909]年)あたりが下手人かともなるところだが、確固たる証拠となるものは得られていない。依田学海の著作のうち、「譚海」「談叢」などの中で人物評らしきところでは蓮月尼に関する記述を見つけることはできなかった。それに文言が厳密に一致するというわけでもないので、同じ資料に基づいて依田学海と佐々木信綱が蓮月尼伝を書いたとも考えられる。むしろ、その可能性の方が高いかも知れない。というのは、『蓮月尼之新研究』の中では、このエピソードについては、三つの資料が提示されており、依田学海によるものは、その一つに過ぎないのである。あとの二つとは、

林鶴梁長孺の記に、
然るに天然の美容、故態尚ほ存す、狡佻の少年或は艶書慇懃を送る。烈婦乃ち千斤の秤を引き自らの歯を抜く、一歯を抜く毎に粛々声あり。滴々血を迸らす、観者大いに驚き、皆曰く烈婦烈婦と。これより敢て挑む者なし。(原漢文)
これで見ると、尼は前歯を幾本も抜いたようである。

続けて

又「菅政友の記」には、
されど美しき匂ひの尚残りて、いたづら人の心動かす者少なからず、或いは玉章に心の程を知らせ、あるは人無きをりのかごとのいと繁くして、逃れ難く覚えたれば、ある日竊かにいと重き秤々もて己が歯にかけて抜く、歯の抜けし声と、血の迸る音を聞きつけて、人皆つどひつゝ驚きあへけり。
とあり、これも一、二本は抜いたように聞こえる。

とあって、依田学海以外にも、林鶴梁や菅政友あたりが誹謗中傷発信の容疑者として浮かびあがってくるのである。ともに原典は未確認につき重要参考人程度の扱いなのだが、蓮月尼とは年代的に重なってくる人々に嫌疑が掛かってくるということは、ゴシップ的な話柄は生前から語られていたと考えていいだろう。それに現代の風潮と重ねてしまうわけだが、これも有名税なるものの一種とすれば「清貧の尼僧、美貌の裏側に血塗られた過去」とでも題した与太話が方々で語られたとしても十分に頷けてしまうのである。なお、調べが行き届いてはいないのだが、依田学海にしても林鶴梁にしても菅政友にしても、いずれの場合においても蓮月尼との直接の交流があった痕跡は見出せていない。いわば無責任に書き散らせる立場でもあったと考えられる。

 さて以上の歯抜きエピソードだが、ただ美しき清貧の才女という評判の代償だったというだけなのだろうか。自らの歯を抜くというのは具体的な行動なのだが、結果として伴われるのは「烈婦」というラベルである。このラベルを導くために、でっち上げられた話が歯抜きのエピソードだったとは考えられないだろうか。だとすれば、「烈婦」なる評判を導きかねない素地は他にあったのではないかと思われるのである。そこで浮かびあがってくるのが、蓮月尼の交流や経歴である。成瀬慶子『大田垣蓮月』の「はしがき」をそのまま引用してみる。

はしがき
 畏くも光明八紘を照らします 天照大神は、御武勇絶倫の御方であらせられたが、平時は極めて御優しく在して、常に機殿にお籠もり遊ばされ、織り紡ぎの業にいそしみ給うと承る。
 この御徳の流れを汲む、わが日本女性は、鞏個なる意志と、純美なる感情をと兼備した特質を持つて居る。
 大田垣蓮月尼は、明治維新の大業成る前後の、動静はげしい時代に人となつた女性である。その紛乱の巷であつた一隅に住んで、名利を求めず、富貴に願はず、自詠の和歌を書いた風雅な陶器を焼き、それをたづきのわざとして、他に尽くすこと厚く、自らは乏しくつゝましく暮して来たのであつた。
 尼はまた勤王の志士達から、慈母の如くに敬はれ慕はれながら、聊も表立つことなく静かに時勢の推移を見つめて生きて来た。おほどかなその態度は、内に勇気と仁愛があればこそである、
 尼は女性としてあらゆる悩みを味ひつくし、受けはたしてきた素直な雄々しい人であつた。多難を砥して自己を磨き上げてきた寂光の人であつた。日本女性伝統の諸徳が、尼を通して燦然と輝いてゐる。この精神は現代の私共日本女性の、骨髄の中にも流れて通つてゐる筈である。
 明治維新の変動にも劣らぬ大変動である今日、この心深い歩み方をしてきた、偉大なる先人の足跡をふりかへりたいと考へて、この伝と歌と文とを蒐集して一巻とさせてもらつた次第である。

 いかにも戦前に書かれたことを窺わせる時代がかった口吻はそれだけでも面白いのだが、それは別問題である。ここで注目するのは、第四段の「尼はまた勤王の志士達から、慈母の如くに敬はれ慕はれながら」という点、さらに第五段の「尼は女性としてあらゆる悩みを味ひつくし、受けはたしてきた素直な雄々しい人であつた」という点である。まず後者から。これは経歴の問題である。結婚生活の破綻、子供すべての夭逝という悲劇の主人公でもあった蓮月尼なのだが、それでいて清貧に生きたことで、逞しさや、成瀬慶子の言葉を借りれば「雄々しさ」を感じさせるということなのだろう。前者は、勤王の志士たちとの交流という事実があって、そこから醸し出されるイメージが勇猛な姿だったということではないだろうか。実際、交流のあった志士たちとなると、成瀬慶子は梁川星厳や春日潜菴の名前を挙げている。しかし、実証の必要のない噂の世界であれば、三傑(桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通)らとの勇ましいやりとりが想像されたとしても不思議ではない。歯抜きエピソードと同じレベルでの、面白可笑しく都合のいい空想譚である。事実、『京男・京おんな-京都人の気質と意識』にあった西郷隆盛に歌を送ったという話は、成瀬慶子によれば官軍が三条大橋に差しかかった時、一人の尼が群衆の中から飛び出してきて西郷に短冊を渡したという内容の伝説があるとして紹介されており、二人が知己の関係だったとはなっていない。時代がくだって、この伝説がさらに改変され、二人の距離がいっそう接近したものと考えられる。

 林鶴梁らに嫌疑の掛かっている歯抜きエピソードは生前より語られていたとも思われるが、志士との交流という事実が勇ましい形に脚色されたのもかなり早い段階だったように思われる。その点に関しても成瀬慶子がコメントしている部分がある。かなり長くなる部分ではあるが、重要なので引いておく。

 文久三年八月十九日の未明、妙法院をあとに雨ふりしきる中を、ひそかに西に向つて落ちてゆく七卿が、竹田村を通過する時路傍の木蔭に身を隠すやうにして一人の尼がよそながら見送つてゐた、それは蓮月であつたと云ひ伝へられてゐる。
  さりともの頼みもきれて絲すゝきみだれゆく世の秋ぞかなしき
といふ歌はその時尼が詠んだ歌であるといふ。
 尼は単なる世捨人ではなかつた、時勢の推移に深い関心を寄せ、やがて来るべき維新の黎明を心秘かに待望してゐた一人に相違ない。しかし、尼は飽くまでも、つゝましやかな人である。被を深くかぶり、雨にぬれつゝ、木蔭に身をひそめてよそながら七卿を見送つたといふところに、却つて燃ゆる情熱を胸に秘めた、いかにも日本女性らしい謙虚な姿を発見して一層尼の人格がなつかしくなる。
 ところが、それに引きかへて、別にかういふ一つの伝説がある。
 鳥羽伏見の戦に大勝した官軍が、破竹の勢をもつて江戸を焼打にするといふ噂の高い時であつた。
 有栖川征討総督宮の率ゐ給ふ官軍が、隊伍堂々と三条の大橋にさしかゝつた時、群衆の中から蓮月尼が出て来て、時の参謀西郷隆盛に、
  うつ人もうたるゝ人も心せよおなじみ国のみ民ならずや
といふ歌を書いた一葉の短冊をさし出したといふのである。そしてその歌が西郷の胸を打つて、やがては皇軍先鋒の諸将を動かし、遂ひには幕臣山岡鉄舟、勝海舟などをも動かして、江戸城明渡しの折衝に大きな影響を与へたといふ。一寸芝居がゝつた話である。
 いかに国を憂ひ人を思ふの余りとは云へ、謙虚な物静かな尼が、それほど積極的な行動に出たとは思へない。
 然しこの歌には信仰深い尼の差別感を越えた同胞愛が盛られてゐる。うつ人もうたるゝ人も一天万乗の大君の赤子ではないか、赤子同士が相討つことは大に宸襟を悩ませまつることゝなる。何とかして戦はずして済ましたいをいふ止むに止まれぬ念願が脈打つてゐる。
 当時尼は、梁川星厳、春日潜菴等の志士と交際をしてゐたことであるから、その短冊が何等かの伝手で西郷に送られたかも知れない。そしてその歌のこゝろが西郷の心を動かし、やがて国事の上にもそれが隠然として動いたかも知れない。何にしても、もつと穏当な方法で西郷の手に渡つたものと思ひたい。
 兎に角これも幕末史の挿話として、劇的に修飾されて人口に膾炙されるに至つたのであらう。
 今一つこれは尼が美人であつたことゝ、尼が道心堅固であつた事とを証せんが為めに作られた話柄であらうと思ふ。それは、
 尼の容貌が余り麗はしいので、髪をおろしても尚何時までも若く見えて、世の浮薄な男性達が心を寄せて困るところから、自ら前歯を引き抜いてわざと顔に傷をつけたといふ話である。如何に心ない男性がうるさいからとて、こんな残酷なことまでしなければその誘惑から逃れる事が出来ないやうな、尼はそんな小人ではなかつた筈である。
 尼をえらく見せやうが為めに、ともすれば、烈女扱ひにしたがる人がある。けれどそれはむしろ贔屓の引倒しである。幾多の家庭的苦難に逢うても、取り乱すことなく、社会的動乱の時代にあつても、騒ぎ迷ふことなく、凛然としてあくまでも日本女性らしく静かに清く高く生きぬいてきた尼である。そこに尼の真実がある、そこに尼は光つてゐる。その偉大なる尼を単に小さな烈女型にはめ込んでしまふことは、尼のたゞさうした一面だけを眺めてゐるに過ぎない人のひがめである。

 歯抜きエピソードなどは結果的には蓮月尼の身持ちの堅さをいうことにはなるにせよ、狙いはウケ以外の何物でもないと考えているので、成瀬慶子のいう「えらく見せやうが為めに」云々とは解釈が違ってはいる。しかし、目的がどうであったかはさておき、蓮月尼を「烈女扱ひにしたがる人がある」という指摘は重要である。史実を検証するのではなく、死後数年のうちに、それぞれが考える都合のいい形の蓮月尼像が作り始められていたのである。「烈女蓮月尼」というのは、そうした偶像化の中で、広く受け入れられたものの一つだったのではないだろうか。

 そんな偶像の話をするとすれば、たとえば角屋の係員の人から聞いた話として紹介した、蓮月尼が島原歌壇の中での中心人物だった云々という件、実はあれも伝説色が濃いように思える。角屋に蓮月尼の短冊が残っているのは事実だが、だからといって蓮月尼がたびたび角屋に出入りしていた……となるのだろうか、大いに疑問が残る。

 近年「歌人大田垣蓮月」という姿がクローズアップされつつある。それは「烈女蓮月尼」という偶像があまりにも一方的に膨らみすぎたことに対する揺り戻しであるかのようだ。確かに歌集や消息文などの一次資料に依拠して大田垣蓮月なる人物の姿を再構築することが重要だというのは的を射た指摘ではある。しかし、その一方で、伝説の中を縦横無尽に歩いていた蓮月尼なる存在もいたわけで、その足跡を辿ってみるのも、違う分野からのアプローチとしての可能性を孕んでいる。

 ところで、先日の書き込みで、一番最後に

現代人で蓮月尼に関心を持つのは、どういう経緯があってのことだろうか。いわゆる研究者としての王道的アプローチなのか、紅葉の名所としても知られる神光院の紹介から大田垣蓮月の名を知ってそれをきっかけに調べ始めた口なのか、あるいは料亭の蓮月茶屋に行ったことがきっかけで意識するようになったのか、それともまだ明治を意識できるご高齢の御仁か、さまざまなパターンが考えられるが

と書いた。そう書いた時、実はまったく頭に浮かんでいなかったことで、重要な事実があった。失念していたとかの次元ではなく、まったく知らなかったのである。しかもそれは京都の歴史に直結する問題でもある。それは、何なのか。時代祭の登場人物、である。時代祭の風俗行列は、当方としては、単純に各時代の装束を再現した時代絵巻と解していた。確かにそうなのだが、もう一つ重要な要素がある。それは、時代ごとに具体的な登場人物がいるという点である。これはすべての時代についてではなく、幕末志士列、江戸時代婦人列、豊公参朝列、織田公上洛列、中世婦人列、平安時代婦人列に限っての話なのだが、誰を選んでいるのかというあたりに嘴を突っこむと、面白い問題が浮かびあがる。

 昨年からだったか、「朝敵」の足利某が加わって云々と話題にもなったが、古くから選ばれていた人物の一人に蓮月尼が入っていたのである。江戸時代婦人列の中の一人であり、それすなわち蓮月尼は江戸時代を代表する女性の一人だった、少なくともそう考えられていた時代があったということである。この風俗行列を漫然とではない見方をしていたのなら、「誰あれ?」「どちらさん?」「何した人?」などの形で意識の中に飛び込んでくるはずだったが、残念ながら以前に見た折にはそこまで意識はまわらず、ふうん仮装行列か……としか見ていなかった。

 参考までに江戸時代婦人列の登場人物を列挙しておくと、以下のとおり。皇女和宮/大田垣蓮月/中村内蔵助の妻/玉瀾/梶/吉野太夫/出雲阿国  選ばれた時点では、「江戸時代を代表する女性たち」のはずなのだが、どうだろう。どういう意味で代表しているのか、果たして即座にわかるだろうか、現代的な感覚に即すると、その有名度もかなり危なっかしくなってしまうのではないだろうか。和宮、出雲阿国はともかく、あと吉野太夫あたりはまだしも、その他は……、正直、かなり苦しい。もしかすると、蓮月尼だけでなく、他の人々も現代的な感覚からは縁遠くなってしまっているのではないだろうか。この辺りの話も、いろいろな方向に広がっていきそうなので、また機会を改めて触れてみたい。

 最後に余談を一つ。成瀬慶子の『大田垣蓮月』を読んでいると、栞が挟まっていた。押し花のように干からびた四つ葉のクローバーだった(写真クリックで拡大)。
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by office34 | 2008-12-11 04:50
2008年 12月 05日
「蓮月尼」と「太田垣蓮月」
 歴史学者の近藤秀樹が『宮崎滔天・北一輝』(中公バックス日本の名著)の解説で、次のような文章を書いている。宮崎滔天や北一輝があまり知られていないという文脈に続く一節である。

滔天、北一輝はともに日本史では今だに二流ないしは傍流の人物視されているというのが実情である。具体的な例をあげれば、家永三郎著『検定不合格日本史』(三一書房)は、もともと高等学校用の日本史教科書として書かれた著書であるが、二・二六事件は当然のこととして触れられているが、そこに北一輝の名はない。まさか文部省によって削られたわけでもあるまいが。
 となると、これからの日本の後継世代は北一輝などという人物とどこでいつめぐりあうこととなるのであろうか。ついに北一輝とはめぐりあうこともなく、ある日突然に第二、第三の“北一輝”と対面する、日本の歴史はそういう具合に進行するものなのであろうか。
 そうであっては困る、それはふたたび歴史学徒が若い世代を賊うことになりかねない。誤り導くことになりかねぬ、という危惧が、この解説を引き受けた立場である。

 現在より遡ること三十年近く昔に書かれた文章なのだが、当時でさえすでに宮崎滔天は言うに及ばす、北一輝の名前も忘れられつつあったようだ。第二第三の北一輝を生み出さないために云々と続く、歴史家の使命感を熱く語る口吻は措くとしても、時代の風潮によってクローズアップされる人物、忘却される人物がいることを知らされて興味深い一節でもある。

 堅苦しい書き出しになってしまったが、こういうところから始めたのは、先日触れた西賀茂神光院の関連で太田垣蓮月について少し触れてみようと思ったからである。太田垣蓮月を紹介することに関しては、近藤氏のような使命感に駆られているわけでもないが、放っておくのは少々もったいない。というのは、太田垣蓮月を追いかけてみると、図らずも「時代によって変わる人物像」という視点が浮かびあがってきて面白いからである。

 まず、大前提としての概要、すなわち現在広く行われている人物像だが、太田垣蓮月は幕末から明治初期に活躍した女流歌人とされている。新装版『京都事典』(東京堂出版、1993年)では「幕末期の歌人」となっており、京都で活躍した歴史上の人物を紹介する『千年の息吹[京の歴史群像]』上・中・下(京都新聞社、1993~94、上田正昭・村井康彦編)には、杉本秀太郎氏の文章によって下巻に掲載されている。そのタイトルは「太田垣蓮月 多芸-才色兼備の女流歌人」で、ここでも太田垣蓮月は歌詠みなのである。実はこのブログの本丸でもある京都クルーズでも蓮月尼はすでに取り上げていて、そこでも「江戸時代末期から明治初期に生きた女流歌人」となっている。

 私家集もあり、歌人であることには違いないのだが、歌人である側面ばかりがクローズアップされるようになったのは、実は最近のことなのではないだろうか。もちろん、最近といっても、新装版『京都事典』や『千年の息吹』があるのだから、1990年代あたりを意識してのことであり、おおよそ80年代か90年代かそのあたりで「女流歌人太田垣蓮月」との認識が定着したのではないだろうか。厳密にいつごろからどう変わったと追跡するのは困難であるにしても、少し時代をさかのぼったところでこの人物に触れる文章をみると、「歌人」とは異なる部分が強調されている。

 それはいわゆる「烈婦」としての側面である。『京男・京おんな-京都人の気質と意識』という本があり、昭和四十三年に京都新聞に掲載された記事を一冊の本に纏めた同書には、「幕末の烈婦で歌人」として紹介されている。「烈婦」の方が「歌人」の前に来ているのは、チェックを入れておいてもいいだろう。それにこの記事自体がかなり興味深い記述でもある。以下に引用しておく。

蓮月尼
 幕末の烈婦で歌人。二度結婚に破れ、子供も二回死なせた。三十三歳で黒髪を切り、亡夫と来世の契りをむすぶ。だが、絶世の美ぼうをしたい、いい寄る男が絶えない。このため「烈婦すなわち千斤の秤を引き、自らの歯を抜く。一歯を抜くごとに粛々声あり。滴滴血ほとばしる……」
 つまり、亡夫への貞節を誓って、クギ抜きで一本一本、自分の歯を抜き取り、自らの美ぼうを傷つけたのだ。俗念を払うため、自分の両耳をそぎ落とした明恵上人の例はあるが、日本女性では珍しい。彼女は余生を和歌、陶芸、社会事業にささげた。
 慶応四年(1868年)、幕府追討の官軍が、まさに京を立とうとした時、蓮月尼は西郷隆盛に、つぎの一首を短ざくに書いて渡した。
  あだみかた勝つもまけるも哀れなり
  同じ御国の人と思えば
 おかげで江戸城は、無血開城されたという。

 この記述は、「京おんなの恋」という章の中で触れられているものであり、歴史的にも京都の女性は芯が強いということを言いたいようだ。引いている事例が、小督局、常磐御前、祇王、横笛、袈裟御前、静御前と、かなり偏っているわけだが、平家物語を中心にピックアップしてきたように見受けられるラインナップに対して、いきなり蓮月尼が加わってくる。事例の正当性や、それ以前に主張の妥当性にコメントをするつもりはない。ただ蓮月尼についての一節に関しては、いくつか注目に値する内容が含まれている。

 まず「」付きで引かれている「烈婦すなわち云々」の部分、ここに関しては出所の調べはついていないが、恐らくは講談か立川文庫のような形で巷間に流布していた話ではないかと思われる。そして、仮に講談系の読み物で取り上げられる話だったとすれば、昭和の中頃には烈婦としての性格付けが一般であったこと、蓮月尼という存在自体が一般の意識と近い場所にいたことなどが窺われる。これらは明らかに現代の太田垣蓮月の人物像とは異なっている。冒頭に触れた「傍流の人物視されている」北一輝の事例ではないが、現代風にいえば坂本龍馬や土方歳三といったレベルでの身近さを持っていた、つまり誰しもが知っていた「烈婦」だったのかも知れない。

 また、最後に付加的に添えられている西郷隆盛との一件であるが、蓮月尼のおかげで江戸城の無血開城が行われたという文脈になっている。「という」と付いているので、これが文章の筆者の歴史認識というわけではない。むしろ巷間に流布していた見方の一端がこうした文章に窺われるという捉え方をするべきだろう。そうすると、世間一般が持っていたと思われる蓮月尼に対する近しさの裏付けであるようにも読める。

 現代では、それこそ積極的に調べ物という意識で取り組まないと出会うことも無くなっている感じのある太田垣蓮月だが、それこそ半世紀ほど時計の針を巻き戻すと、烈婦蓮月尼として、もっと身近な場所に鎮座していたと思われるのである。

 ちなみに、西郷隆盛と蓮月尼の交流についてであるが、これは島原の角屋を舞台に展開されたサロンにおけるものだろう。西郷隆盛が角屋に出入りしていたこと、島原サロンの中で蓮月尼が重要なポジションにあったことなどは、角屋に残されている調度や短冊などから窺われるらしい。これについては、曖昧な記憶なのだが、かつて角屋を見学したおりに、そういう主旨の説明を受けた覚えがある。

 さて、現代では「歌人太田垣蓮月」として、ある種の好事家や文学研究者が意識するところなのだが、誰もが知っている「烈婦蓮月尼」だった時代もあった、ということを言いたいのだが、実は当方としても、そこまで言い切るほど調べ上げているわけではない。むしろつまみ食い的に断片的な資料を漁っているにすぎない。したがって足りない部分は空想妄想あるいは思いこみという万能接着剤を使っている。それを白状した上で続けるのなら、つまりはこういうことである。

a0029238_483374.jpg 世間の人々が明治を身近に感じていたうちは、維新の英雄たちも人々の意識の中で生き生きと活動していた。講談風に脚色されたものも含めると、その生き様は、憧憬や憎悪など、さまざまな心の動きとも一体化しうるものでもあった。そして、彼らの周囲にいた人々にもそれなりの役割としかるべき場所が与えられていた。しかし時間が経って明治の影が薄れていくにつれ、一人また一人と忘却されていった。「烈婦蓮月尼」などはまさにそうした形で消えていった一人である。この人物に再び脚光が当てられた時、そこに浮かびあがったのは研究者が研究対象として取り上げる「歌人太田垣蓮月」という、かつての姿とは別のものであった。

 西賀茂神光院には、晩年の蓮月尼が過ごしたという茶所が残されている。現代人で蓮月尼に関心を持つのは、どういう経緯があってのことだろうか。いわゆる研究者としての王道的アプローチなのか、紅葉の名所としても知られる神光院の紹介から太田垣蓮月の名を知ってそれをきっかけに調べ始めた口なのか、あるいは料亭の蓮月茶屋に行ったことがきっかけで意識するようになったのか、それともまだ明治を意識できるご高齢の御仁か、さまざまなパターンが考えられるわけだが、思うに第二のケースが一番多くなっているのではないだろうか。もちろん自分自身を含めた上での、あくまでも思いこみの話である。

写真は神光院境内にある「蓮月尼舊栖之茶所」の碑(クリックで拡大)
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by office34 | 2008-12-05 04:13