Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 12月 11日
古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(2) ~キッチュ愛(8.2)
-エリア単位で特徴的なもの(岡崎)-
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京都市美術館[昭和3年/前田健二郎]
帝冠様式(日本趣味)。寺院風の屋根が取って付けられたように載っているのが特徴。昭和初期にはこうした形で和を主張する意匠が相次いで建てられたらしい。


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京都会館[昭和35年/前川國男]
モダニズム。この建物はモダニズム建築の典型とも昭和の名建築とも紹介されるが、全景を捉えた写真はあまり見かけない。疏水ごしの西側壁面や正面ピロティだけを撮った写真なら当方の手許にもあるものの、全容がわかる写真はない。近くに鳥瞰できるスポットがないこと、同じ平面上からでは街路樹に遮られて全体の構造が積極的に意識されづらいこと、そういったあたりが原因で写真への記録が少なくなったのだろう。4枚目の写真は蹴上から大文字山に至るハイキングコースより望遠で捉えた岡崎界隈。なお現在は再整備のためにリフォーム中だが、「京都会館」という名前での施設は公式には閉館となっている。リニューアル後の名前は「ロームシアター京都」。


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京都府立図書館[明治31年/武田五一]
施設東面に旧館の正面がファサード工法で保存されている。


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京都国立近代美術館[昭和61年/槇文彦]モダニズム。京都タワービルや京都会館と、様式の上では同じカテゴリーに入ることになるが、見た目の印象はかなり違う。おそらく「モダニズム」の範囲が広いことや様式の定義が人によって異なるためだろう。






【キッチュ愛】
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by office34 | 2013-12-11 00:05
2013年 11月 12日
岡崎あたりの紅葉
気がつくと、疏水べりはそれなりの色合いになってきているようだ。個人的には慶流橋からの眺めが気に入っていたりするので、それを貼ってみる。あと、オマケで神宮道の銀杏と三条通のハナミズキ。

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今回もキッチュはお休み・・・第三節はアヴァンギャルドとキッチュの関係みたいな話になっていて、面白いのだが少し充電が必要になるかも。
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by office34 | 2013-11-12 18:55 | 街角の風景
2013年 02月 16日
徳成橋の親柱
徳成橋の話は以前にも書いたはずと思っていたが、検索をかけてみると記事が見あたらない。どうやら勘違いだったようだ。ということで、今回は徳成橋を取り上げてみる。

昨日の記事は、知恩院門前の白川、つまり門前橋のたもとに古い橋脚と思われる石材が置かれていることを取り上げた。石材の素性はつかめないのだが、市内各所で時折、目に留まる旧三条大橋の橋脚ではあるまいか?と色めきだってしまったのだが、冷静に考えると、白川畔だから白川に掛かっていた橋の一部が保存されているとするほうが可能性は高そうだ。実際、そうしたケースの事例としてあるのが徳成橋である、・・・・・・という主旨の内容である。

徳成橋とは、東大路通が疏水を越えるところに掛けられている橋である。幹線道路の一つである東大路通と疏水の幅を比べると致し方ないのだが、橋というよりは道路の一部として受け取ってしまう。それでも四月になって桜が散り始めるタイミングには、疏水に舞う桜吹雪を眺めるには格好のポジションを提供してくる。そんな徳成橋だが、東大路通と一体化してしまったのは、東大路通が拡幅されて幹線道路の一つになった時からだろう。それ以前はもっと橋らしい雰囲気もあったに違いない。それを窺わせるかのように、現在の徳成橋の北東のあたりに、掛け替えられる前の親柱が残されているのである。道路が拡幅され、車がぶんぶん通るようになり、みなが諸手をあげて「便利になったぞ、ばんざ~い」と言っているのだとすれば、こんな感じで古い親柱が保存されることはないだろう。あれこれの事情で道を太くせねばならないのはやむを得ない、それに伴って風景に馴染んでいた古い橋が消えるのも・・・・・・残念だけど仕方ない、そんな感傷めいた気分から親柱の保存が図られているのではないだろうか。

以上は、あくまでも想像にすぎないのだが、徳成橋でそうしたことがあったのだとすれば、白川畔の橋脚めいた石材に似たような文脈があっても不思議ではない。
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奥の大通りが東大路通。手前に旧橋の親柱が置かれている

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by office34 | 2013-02-16 23:33 | 橋のはなし
2012年 03月 15日
三条広道について
昨日の予告をうけて「三条広道」の話をしてみる。そもそも、この三条広道とはどこなのだろう。ある程度、京都に地理に通じている人なら分かるかも知れない。いや、「ある程度」レベルでは難しいかも知れない。京都の地名表記は東西のグリッド表記を使うという知識があれば、「三条」と「広道」と合成語だろうとの推測は働くだろうが、三条通はさておき、広道って何?となってしまうからである。ご近所さんしか知らない細い路地なんじゃないかというと、さにあらず、普通の乗用車なら楽々通ることができるぐらいの幅員はある。ただ難をあげるとすれば、普通は「岡崎通」という名前が一般的といった注意事項がつくことである。

これでお分かりのとおり、「広道」とは要するに岡崎通の旧名なのである。そして三条岡崎となると、ある程度、京都の地理に通じている人なら、こう考えるはずだ。「え~と、神宮道の東側が岡崎通だから、それと三条が交差するあたりというと……ああ蹴上のあたりかな、そこまで行かないか、粟田口ぐらいかな」と。ご明察。三条広道ではどこか分からなかった人も、粟田口と言われると、おそらくは同定はできると思う。

さて、そんな広道こと岡崎通なのだが、バス停の名前だけでなく、郵便局の名前にも残っている。三条岡崎の交差点から少し西に行ったところにある普通郵便局(現行の分類では普通郵便局とは言わないかも?)が「三条広道郵便局」なのである。これらのことを思うと、旧名とはいえ、完全に息絶えた名前ではなさそうだ。とはいえ、地名の認知度からいえば、言うまでもなく「粟田口」が圧倒的に強い。加えて「広道」は大勢においては使われなくなっている。であるのなら「三条広道」という名前を残している郵便局やバス停は、歴史的遺物の一種というか、史興をチクチクと刺激してくれるアイテムと言える。

a0029238_23213621.jpgところで、ここまで広道=岡崎通ということを既定の事実のごとく扱ってきたわけだが、このことは何をもって保証されるのだろう。大正10年刊の地図(京都市街地図)なども証拠としてあげることができるのだが、それよりももう一つ上のランクで有力視できるものがある。それが昭和3年5月24日付で出された京都市公報である。「本市道路ノ路線名左ノ通定ム」として、新路線名と旧名を併記した一覧である。行政が一方的に定めたものだから実際の定着がどの程度だったかは分からないという側面があるにせよ、明確に年月日が示された上での呼称変更の記録だから、その名前の存否を問う場合には非常に価値がある。

実は、この史料を知ったのは、北山の総合資料館で紹介してもらった『京都市都市計画街路・道路』(平成12,京都市刊)という行政資料がきっかけとなっている。この資料は「はじめに」に記されたところによれば、「本書は、歴史の都・京都の都市計画街路・道路の記録を残すために、まとめたものである」という趣旨によるもので、明治時代に発令された国道・県道・里道の規定をはじめ、各種道路の拡幅に関する法令だの、疎開関連の法令だの、戦後の都市計画だのがまとめられている。ここに紹介されているものを手がかりにして関連資料を芋蔓式にたどってゆくことができるという意味で、きわめて面白い。ちなみに、先般以来ダラダラと拘ってしまった明治6年の「京都新聞」も、この本に引用されていたのが発端である。

さて、話が拡散気味になってきたので、当面の課題である広道=岡崎通に戻しておこう。昭和3年の公報に記されている内容は、以下のようなものである(赤三角の行)
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「春日北通岡崎北御所町1」から「三条通南入中ノ町194」の間が、旧名「広道」だったものを「岡崎通」に改めるというものである。該当する部分のみを貼り付けているのだが、この範囲だけでもメーンテーマ以外のネタがたくさん隠れているのがわかる。「南入ル」の実例であったり、「応天門通」「永観堂前通」「真如堂東通」といった聞き慣れない呼称がぞろぞろなどの点である。ともあれ地名オタにすれば興味も尽きないところなのだが、今回はとりあえずの話としておいて、昭和3年の時点で「広道」を「岡崎通」と改めるようにお上が決めたという事実を指摘したところで切り上げておこう。
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by office34 | 2012-03-15 23:31 | 街角の風景
2011年 01月 20日
碁盤目の範囲をめぐって
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 仁丹版町名板の話。今回のお題はこの1枚。「上京区 岡崎徳成町東大路通冷泉下ル」とある。比較的よく通る場所なのにチェックから漏れていた不思議は、先般の裏寺で発見されたものと同じ(参考1参考2。世の中には博識を誇る方が謙遜の意味を込めて使う「管見では」という言い方があるが、ザルから水がこぼれるように見落としてしまうケースはいったいどういえばいいのだろう。

 とボヤいたところで節穴は改善されるわけではないので開き直って話を進める。今回のお題とぶちあげた徳成町の1枚、仰々しくお題といえるほどはまとまっていないのだが、注目したいのは「町名+通り名のグリッド表記」というスタイルである。そんなの京都では当たり前だなんていうなかれ、当たり前と言えるのは「通り名のグリッド表記+町名」の方で、市内中心部に見られる多くは、太字でグリッド表記、小書きで町名というスタイルである。それに対して、この徳成町のものは、町名が太字で、グリッド表記が小書きとなっている。つまり中心部とは逆のスタイルなのだ。

 同じパターンは、「聖護院山王町竹屋町通東大路西入」や「田中関田町東今出川通鞠小路東入(鞠小路通東今出川下ル)」がある。西の方に目を転じると「中堂寺西寺町櫛笥通万寿寺下ル(万寿寺通櫛笥東入)」がある。水谷リストによれば、中堂寺界隈には他にも二種類ほどあるらしいが、あいにく実見できたものは万寿寺通を挟んで向かい合う建物に貼られていた上記の2枚のみ。

 これらに共通しているのは、碁盤目の周縁部分ということだろう。もっと調べてからでないと言えない事柄がいくつも絡んでいるので、イタズラに方向付けてしまうのはよろしくないのだが、それも承知の上で少々先走ってみる。それは、岡崎だの田中だの中堂寺だのというエリアと「碁盤目」と通称されるエリアとの関係についてである。

 京都の街区構造をいうとき、大雑把に「碁盤目」と称することがある。これは街中がきれいに竪横の通りで区切られているところからの通称である。しかし、その厳密な実態については分かりづらい。市内の隅々まで竪横のグリッドが通用しているはずはない。これはどの時代をとっても同じである。ということは、碁盤目と呼ばれる範囲が、どの時代にはどのあたりまで及んでいたのかということは、なかなか明確にはできないということでもある。

 概略的にというか、かなり乱暴な扱いだと思うが、平安建都の頃の坊城図が持ちだされることもある。しかし、言うまでもなく、あのグリッド構造がその後ずっと生きながらえていたはずはない。左京が栄えて右京が衰退していったとする『池亭記』の記述もあれば、応仁の乱で焼け野原と化したこともある。また秀吉による大改造や、たび重なる火災など、何度もリセットが掛かっているのである。

 そうしたことを踏まえると、碁盤目、碁盤目と気軽に使うものの、どこまでが碁盤目に含まれるのかは、よくわからない。一方にそうした目を持っておくと、岡崎徳成町や田中関田町あるいは中堂寺西寺町は、本来は碁盤目の外なのだが、強引に組み込もうとすれば辛うじてできる境界付近の地域だったと言えるのではないだろうか。内とも外ともつかない、そんな曖昧な認識が、本来とは逆の形、すなわち町名を前に持ってくる表記スタイルに現れているのではないかと思うのである。仁丹版町名板がどんどん設置されていた頃との限定は当然求められるが、その頃の認識が表記スタイルに反映しているのではないかということである。

 もちろん、これは現段階ではなんの裏付けも得ていない。ただ上京区および下京区の拡張過程(何年ごろにどのエリアが区内に含まれるようになったかということ)を明確にすれば、現実味が出てくるかも知れないという程度の期待は持っている。
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by office34 | 2011-01-20 01:58 | 町名看板
2010年 10月 21日
温公の手水鉢@岡崎公園
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 ワグネル博士顕彰碑のある児童公園で、カップルの外国人観光客が何やらの写真をしきりに撮っていた。ワグネル博士のレリーフを撮るのならまだしも、二人がレンズを向けていたのはごくありふれた遊具の並んでいるゾーンである。そこに何があるのだろうと思い、二人が立ち去った後でその場所に行ってみたのだが、これといってめぼしいものは見あたらない。ただ公園でよく見かける水道設備があるだけである(写真クリックで拡大)。よく通る場所であり、この設備についても、よく目にしている。しかし、普段はなんとも思わない。同様に、この設備に興味をもって眺めている観光客など、かつてみたこともない。

 というわけで、何だったんだろうと怪訝に思いつつ、そのまま忘れてしまうのがよくあるパターンだ。しかし、この時はそうはならなかった。思わず、へぇ~と感心することしきりとのオチになってしまった。というのも、不思議な巡り合わせとでも言うべきか、その水道設備の姿が数十分前に調べていたテーマとピンポイントで重なってしまったからである。それが「温公の手水鉢」である。

 発端は、数日前にこのブログで触れた「梅ヶ枝の手水鉢」である(以前の記事)。「梅ヶ枝の手水鉢」関連をあれこれ調べているうちに、「梅ヶ枝の手水鉢」というのは「ひらかな盛衰記」に出自を求めるのとは別に、手水鉢の類型として用いられる呼称でもあることを知った。そこから、いわゆる類型としての「梅ヶ枝の手水鉢」とは如何なるものなのか、その類型に「梅ヶ枝」の名前が与えられたのはなぜか、そもそも手水鉢の類型にはどういうものがあるのか……などなどが気になり始めて、本腰を入れて調べてみようかと思うようになったのである。

 その結果、いくつかの事柄は整理できたものの、さらに分からなくなる事柄も増えてきて……といった事情もあって「梅ヶ枝」はまた別の機会となるのだが、副産物として出合っていたのが「温公の手水鉢」である。「司馬温公の手水鉢」とか「温公型の手水鉢」とかの揺れはあるにしても、比較的多くの本に解説が載っているタイプである。代表例に挙げられるのが等持院の茶室清漣亭にあるもので、水鉢の一部に割れ目を設けているのが特徴であるという。人為的に割られたように見えるその形状が、「司馬温公の瓶割り」の故事(幼い時代の司馬温公が、大きな瓶に落ちて溺れかかった友だちを助けるため、ためらわず高価な瓶をたたき割ったという話)を連想させたのか、その呼称が用いられるようになったようである。

 そうした情報が頭に残っていた時に飛び込んできたのが、問題の水道施設である。この手の設備によくあるのは、洗面台のように鉢の底に排水口があるものだが、目に留まったそれはサイドに排水溝が設けられているところに特徴が見られる。そして意識して観察してみると、本体部分も単純な方形ではなく、微妙に歪みをいれるなどの工夫も見られる。サイドの排水溝は実用的な意味合いが大きいのだろうが、全体としてみると、製作者の遊びごころみたいなものが浮かびあがる。「温公の手水鉢」を現代的なデザインに移植したとでも言えばいいのか、現代版「温公の手水鉢」だったのである。
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by office34 | 2010-10-21 03:17 | 街角の風景
2010年 09月 23日
みやこめっせの源氏物語像
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 あまり好きなタイプのものではないが、一応は歌碑であり、文学碑の一つだから取りあげてみる。岡崎のみやこめっせ(京都市勧業館)前にある源氏物語像および歌碑である。2008年の源氏物語千年紀に合わせて、京都府石材業協同組合から寄贈されたものらしい。碑に刻まれているのは、光源氏が須磨に隠退するに際して、紫の上と交わした贈答歌である。
身はかくてさすらへぬとも君があたり
            去らぬ鏡の影は離れじ
(源氏の君)
別れても影だにとまるものならば
            鏡を見てもなぐさめてまし
(紫の上)

 さて、そんな像および歌碑だが、石でできているのだから物理的な重量はあるに違いない。だが見るからに軽々しく感じられ、好きになれない。二年前の源氏物語千年紀では猫も杓子も源氏源氏と繰り返しており、その流れの中でこのモニュメントの登場である。なにゆえ岡崎の地に源氏物語なのか、それも須磨巻のワンシーンなのか、そんな疑問も加わってスタート時点で眉を顰めてしまってからのマイナス評価となっている。と、単純に好き嫌いの話をするのなら、好意的な評価はできそうにないのが本音だが、この手のモニュメントは少なくとも二~三十年くらい風雪に磨かれなければ重み云々の次元には至らない。だとすれば、この源氏物語像および歌碑は、まだまだ評価の対象外とするべきだろう。

 このあたりまでなら、あるいは言いがかりに近いかも知れない。設置者(京都市やみやこめっせ)にすれば、訳の分からぬイチャモンを付けられているようなものだ。しかし、どうにもいただけないのは、
みやこめっせのオフィシャルサイトにある紹介文である。世界平和だの思いやりのメッセージだの、このシーンと歌のどこをどういじくれば、そういうお題目が出てくるのだろうか。後付けでキレイゴトを並べたがるのはNHKや公共機関によくあることだと言って大目に見るにしても、取りあげられている離別の場面が源氏物語の中では名場面の一つと思っているだけに、お題目の浅薄さがかえって印象づけられてしまう。そもそも、この石像のモチーフになっているのはどういう場面なのだろうか。とりあえずダイジェスト風にストーリーをなぞっておこう。

 幼い頃より「光る君」と称され、世の期待を一身に受けていた光源氏だったが、元服してからは右大臣家と左大臣家の対立に組み込まれてゆく。そうした折り、最大の庇護者であった父帝が崩御するや世間の風向きは一変する。さらに対立勢力の娘で入内が内定していた朧月夜の君との情事が明るみに出て、立場はいっそう悪くなる。朝堂で冷遇されるだけでなく、帝に叛意を抱く犯罪者として指弾されかねないところに立たされてしまったのである。露骨な嫌がらせも目立つようになると、累が藤壺中宮やその子の若君(光源氏が胤を宿した不義の子)に及ぶことを恐れ、光源氏は自ら都を離れて須磨の地に退くことを決意する。そして出奔に先立つ二三日は方々に別れの挨拶にまわっていたのだが、そんな一日のこと、光源氏は邸宅の二条院で、紫の上と運命のつたなさを語らっていた。夜をともに過ごした翌朝、友人の帥の宮や三位の中将が見舞いに訪れてくれたので、光源氏は対面のために鏡をのぞき込んで髪をつくろいつつ、そこに映されたやつれ顔にため息をつく。すると紫の上も光源氏の後ろに控えて涙をたたえていた。そうしたシチュエーションで詠まれた歌が、歌碑に刻まれた贈答歌である。

 二人の歌だけを切り出して現代語を当てはめるのなら、みやこめっせのページにあるような言い回し(たとえこの身は、地の果てまでさすらいの旅をつづけても、あなたの鏡の面にはわたしのおもかげがとどまって、あなたと離れはするものか/たとえあなたと別れても、恋しいあなたのおもかげがせめて鏡に残るなら、日がな一日この鏡を飽きずに眺め暮らしましょう)になってしまう。現代語訳という点では不満はないのだが、物語の流れを抑えての解釈という次元になると、どうだろう。決定的に違うと思うのは、紫の上の歌についてである。この歌で用いられている「~ば~まし」の構文が十分に踏まえられていないように思うのである。

 「~ましかば~まし」「~せば~まし」「~ば~まし」などの形で用いられ、一般には反実仮想と呼ばれる表現である。問題はこの構文が現代語で普通に用いられる仮定表現「もし~だったら~だろう」とどう違うのかということだ。意志・推量の「む」や「べし」などではなく、「まし」という助動詞になっているのだから、明確な使い分けがあると考えるのが普通である。それがどのような違いなのかということだ。これも普通に説明されるところだが、反実仮想「まし」は、現実に反する事柄を挙げて、その結果を想像するとされる。ところが、このお勉強のレベルでの説明がどうも実際の用例を十分にカバーしていない印象なのである。間違いには当たらないが、実際にはそれだけの平べったい説明で処理されるのではなく、もっと切実な思いが籠められているのではないかと考えるのだ。現実に反する事柄から導かれる結果というだけではなく、実際にはあり得ない事柄とそれに伴う残念無念な気持ち、もっと言えば、思うに任せない現実に対する恨み節ということではないだろうか。

 現代語の例文で示してみる。たとえば「ひと雨きたら、涼しくなるだろう」と「LOTO6が当たったら、一生遊んで暮らすだろう」という例文があるとする。この二つは表面上の形式は同じでも、仮定の性質自体が異なっているのは明らかだろう。これが古典文法の場合は、助動詞のレベルで使い分けられていたと考えられる。そして実際に「まし」が使われるのは後者に近いケースであり、加えて、そうならない現実が残念だなぁとか、コンチクショウ!とかの気持ちが漂っている場合と言えるのではないか。

 「まし」を説明する用例で、よく引かれる和歌に、
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
がある。古今集に採られており、伊勢物語にも見られる有名な一首なのだが、「まし」の解説と同様、非常に単純化した説明がなされる歌でもある。ところが、つきつめるとかなり屈折した心情が認められる。もとより、世の中に桜が無かったならということ自体はあり得ない仮定だが、それ以上に眼目になるのは、世の権力構造からはじき出された惟喬親王を前にして、渚の院で咲き誇る桜の花を眺めながらそうした仮定をしているところにあるのではないか。シチュエーション的な読みが求められるのである。

 春という季節は一般的には心浮かれるものとされている。加えて目に前に広がるのは、その季節の主役である桜の花である。しかし、主人の惟喬親王は心の底から世の中を謳歌する状況にはない。春に桜が無かったならという仮定には、春が、そして世の中が、こういうものでなかったならという含意があるのではないか。そうして「のどけからまし」というのは、文字面だけでいえば、のんびりできるだろうということに違いないが、シチュエーション的なところを反映させると、鬱々とした思いを抱いたまま、花を愛でねばならない惟喬親王の悔しさを代弁しているように思う。

 さて「春の心はのどけからまし」の歌はこのくらいにしておいて、今回の課題である須磨巻の贈答歌へ戻る。とりわけ「まし」の使い方に注目しているわけだから、紫の上の歌の方に目が向く。その「鏡を見てもなぐさめてまし」というところが問題なのだが、現代語に直せば、寂しさを慰めましょうとなるには違いない。しかし、そこには現実にはあり得ない仮定、すなわち鏡に光源氏の姿が留まり続けるということが踏まえられており、そんなことはあり得ないのだという思いが吐露されている。砕いた言い方に置き換えるなら、鏡を見て寂しさを慰めましょう……なぁんてね、そんなことできっこないでしょう!といったツッコミ風の解釈にでもなろうか。

 シチュエーション的なところをもう少し振り返ってみる。須磨に隠退して約二年半の後、兄帝より召還の宣旨が出されて光源氏と紫の上との別離は終わる。ストーリー全体を知っている読者であれば、人生の起伏の一つ程度に解釈しがちだが、須磨巻の時点に限定すれば、当事者の感情では別れはいつまで続くのかなど予測できたものではなかった。あるいは永久の別れになるかも知れない、そんな覚悟もなされていた。まだ幼い紫の上とはいえ、そのあたりの空気は十二分に感じとっていたに違いない。「まし」を用いて「なぐさめてまし」と詠んだのは、とても慰められないことがわかっているからこその詠である。悲劇的な別れを突きつけられたことに対しての絶唱なのである。

 そういう見方をしつつ、もう一度、二人の歌を見てみる。光源氏の「君があたり去らぬ鏡の影は離れじ(鏡にわが姿を留めて、この先もかわらずあなたの傍にいましょう)」に対して、「鏡を見てもなぐさめてまし(鏡を見てなぐさめましょう……なんてことができるわけないでしょう!)」と返しているのだから、気休めのようなことは言うなとの訴えにも聞こえる。世界平和なんちゃらは噴飯物であるにしても、相手を思いやるメッセージ云々についても、到底そんなキレイゴトに落ち着くものではない。

 ちなみに、紫の上に歌に反実仮想の特徴を指摘するのは、けっして目新しい見解ではない。江戸時代にまとめられた注釈書ですでに「源ノ哥ニ鏡のかげははなれじとあり、されども影のとまる事は有まじき也、もしとまるならばさやうにてもなぐさめてまし物をと也」(岷江入楚より、濁点および読点を補う)とあり、江戸時代を通じて広く読まれた源氏物語の注釈付き本文である湖月抄にも継承されている。現代の注釈でそうした解釈が消えているわけではないが、反実仮想という特殊な仮定法が現代語の中ではより普遍的な仮定形一般に吸収されてしまったがために、紫の上の血の滲むような訴えという側面が意識されづらくなっているのではないだろうか。

 と、こういう話題になると、どうしてもタラタラやりすぎてしまうのは悪い癖だ。しかし、こういう時に限って余談もしたくなる。古典文法でいうところの反実仮想が現代語の文法では仮定法一般に吸収されていると書いたが、現代語レベルで反実仮想を表現しようとすればどうなるか。先に挙げた例文では「ひと雨きたら、涼しくなるだろう」「LOTO6が当たったら、一生遊んで暮らすだろう」の二つを出しておいたが、それに準ずるとこういう形か。「ひと雨きたら、涼しくなるのになあ」「LOTO6が当たろうものなら、一生遊んで暮らすものを」。要するに助動詞レベルではできないから、詠嘆の助詞を加えるなどの形でニュアンスのみを生かした書き換えが必要になるのである。そうしたところから見ても、現代語に反実仮想の助動詞は存在しないとまでは言えるが、反実仮想という仮定法は存在しないというと、それは間違いになる。もちろん、これは当方の一方的な考えだから異なった見解をもっている方もいるだろう。ただ品詞のレベルまで一致対応する表現が思い付かないのは事実である。

 さてさて、そうなると、今度は現代語で普通に使われている仮定法を、一般的な仮定なのか、反実仮想なのかの区別をどこでするのかということが問われるだろう。上では「のになあ」や「ものを」といった詠嘆の要素を加える例を示したが、これはあくまでも白々しいくらいに内容を顕在化させたケースである。こういう例とは異なって、目に見える形の上では区別できなくても、前後の文脈で区別をするというケースもあるはずである。そもそも助動詞の使い分けで厳密に区分されていた用法なのだから、それがなくなったのは、王朝人の時代に比べると、言語表現が退化して現代人がバカになった証とみるか、さもなくば言わずもがなのツーカーでカバーできる領域が増えた進化であるかのいずれかである。

 次のような事例を挙げてみる。
愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない
 ご存じ、平原綾香「Jupiter」の一節で、詞は吉元由美による。中越地震に際しては被災地で応援歌のごとくラジオで流されていた云々のエピソードがあるように、内容は前向きで建設的な歌である。その歌で人々の共感を得たのは、おそらく歌の中で何度か繰り返される「ひとりじゃない」という部分だろう。しかし歌詞全体を眺めるのではなく、当該箇所のみを切り出してみると、興味深い現象も浮かびあがる。この詞の全体が建設的なものであるという前提を押し通せば、この箇所も優しい励ましの言葉となるが、形式のみでいえば単純な仮定形であり、反実仮想に流れてしまう可能性も秘めているということである。露骨に反実仮想にするのなら、「起こりはしないのになあ」となるところだが、この形でも可能性の一つとして反実仮想に持っていけないことはない。もし仮に反実仮想で解釈すると、どうだろう。内容は一八〇度反転するはずだ。愛を学ぶために云々が非現実的な仮定と捉えられることになり、意味のないことなど云々の部分が、裏返しの予想で、残念無念の気持ちが籠められていることになる。すなわち、愛を学ぶために孤独があるなんて寝言をいうのならともかく、そんなふざけた話はないんだから、世の中は無意味と無駄の繰り返しだぞ、コノヤロー……といったところか。不遇を託つ人々がムンクの叫びのごとく、青ざめた絶叫を繰り返していることになる。

 こうしたぶっ飛んだ解釈もできる余地があるわけだが、それをさせていないのが、たぶんに楽曲と平原の歌唱力だろうし、歌詞全体の流れだろう。裏返して言えば、そうした文脈がなければ、トンデモな解釈はいくらでも可能になるということである。源氏物語の須磨巻の贈答歌から、世界平和云々を引っ張り出しているのは、あるいはそれに近い行為なのかも知れない。
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by office34 | 2010-09-23 02:01 | 歌碑・文学碑など
2010年 09月 11日
与謝野晶子歌碑@岡崎、蹴上
a0029238_12335973.jpg

 京都市内にある歌碑文学碑の中では、与謝野晶子はその設置数が多い一人だろう。以前、鞍馬寺にある鉄幹・晶子歌碑を取りあげたことがあったのだが、その後、調べていくうちに、方々にあることが知れた。上に掲げた一枚は、ウィキペディアに写真が載っていたところから所在を知ったもので、岡崎のみやこめっせにある一基(写真クリックで拡大)。敷地西端の植え込みの中にあって、意識的に探さないと素通りしてしまうが、逆に意識的に探すと見落とすことはない。

 碑の表には、
友染を なつかしむこと 限りなし
     春の来るため 京思ふため
の歌が刻まれている。裏側には、
宮崎友禅斎生誕三百三十年記(以下埋没)
与謝野晶子生誕百年記念歌碑第[略字]八(以下埋没)
一九八四年五月二十六日
みだれ髪の会   
とある。友禅染めを歌い込んでいる一首を選んでいるのは、設置の契機に友禅斎の生誕記念を加えているためだろうが、こじつけめいた印象がないわけでもない。友禅組合を巻きこんで資金面での援助を受けたとかの事情でもあるのだろうか。みやこめっせの敷地内ということだから、京都の伝統産業を歌い込んでいる一首という意味でのピックアップとも言えなくはないが、この場所に設置するのに、なぜこの歌なんだろうというのが第一印象だった。

 なぜこの歌なのか、というところを突き詰めると、鞍馬寺にある「花野の夕月夜」歌だって、なぜ?となってしまう。並んでいる鉄幹歌碑の方は、はっきりと鞍馬寺にある背比べ石を取りあげているので、その理由はわかるが、晶子歌碑の方はよくわからない。当方が知らないだけで、あるいは「花野の夕月夜」の歌が鞍馬寺で詠まれたものなのかも知れないが、ともかくなぜの一つである。

 京都市内にある晶子歌碑といえば、当方の知る範囲では他に、清滝、八坂神社、永観堂、蹴上にある。このうち、八坂神社のものを除けば実物は未見。それでも碑に刻まれている歌は調べがつく。
[清滝]
ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里
   水の清瀧 夜の明けやすき
[八坂神社]
清水 祇園をよぎる 櫻月夜
   こよひ逢ふ人 みなうつくしき
[永観堂]
秋を三人 椎の實なげし 鯉やいづこ
   池の朝かぜ 手と手つめたき
[蹴上]
御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院
   いでて見たまへ 紫の水

 清滝と八坂神社にあるものは、地名を詠み込んだもので、場所と歌の関係は明白。永観堂および蹴上にあるのは、鉄幹・山川登美子・晶子の三人で密会した際に作られた歌らしいので、その成立事情から、かの地にあるということなのだろう。ただ、蹴上のもの(正確には浄水場敷地内)は、三人が投宿した辻野旅館跡地がその付近というゆかりがクローズアップされるのだが、本当にそうなんだろうか。旅館の跡地が正確にどうこうというのではなく、その跡地を偲ぶというのが、本当の設置理由なのかどうかという疑問である。

 もし辻野旅館跡地を記念してというのが本当の理由であるとするなら、この「知恩院聖護院」の歌が選ばれる必然性がやや弱い。三人が辻野旅館に泊まった日から数ヶ月後、ふたたび鉄幹は晶子を呼び出して同旅館を訪れている。そしてその時のできごとの方が、与謝野晶子を語る上では重要になるはずだから、選ぶのであればその際の歌の方だろう。
むねの清水 あふれてつひに 濁りけり
   君も罪の子 我も罪の子*

君さらば 粟田の宿の ふた夜妻
   またの世までは 忘れ居給へ**
 ナマナマしいということで却下なんだろうな、きっと。だとすれば、「知恩院聖護院」の歌も辻野旅館跡地という要素が前面に出されるのではなく、「紫の水」と山紫水明の京都を詠んでいるという意味で浄水場に設置されたとなるのではないだろうか。そして背面の理由として、実はこの場所はかの辻野旅館が云々という具合の隠し味扱いになっているのではないかと思うが、どうだろう。

*『みだれ髪』(明治34)による。昭和8年版では「清き水 あふれてつひに 濁りけり 君も罪の子 我も罪の子」(岡島昭浩氏「日本文学等テキストファイル」より)
**『みだれ髪』(明治34)には「君さらば 巫山の春の ひと夜妻 またの世までは 忘れゐたまへ」とあり、昭和8年版にはなし。「ふた夜妻」は鉄幹宛の書簡にある歌(河野仁昭氏『京都 現代文学の舞台』より)
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by office34 | 2010-09-11 12:41 | 歌碑・文学碑など
2009年 10月 15日
平安神宮の一番星
a0029238_20304318.jpg

 平安神宮大鳥居の上に一番星が出ていた。ほんの偶然で、それ以上でも、それ以下でもない、ただそれだけの話なのだが、宵闇の色合いといいバランスに見えたのでシャッターを切ってみた。ただ、こういうケースでは往々にして目に見えた色彩が再現されていないことが多い。条件を変えて何枚が試してみた中で、一番まともなのがコレ(写真クリックで拡大)。露出の補正を-2にしただけで、あとはオート設定のものだが、まあ上出来な部類だろう。他のは印象より明るすぎたり、目が粗かったりなどでダメダメパターンである。難を言えば、手前に立木の入らない立ち位置を探すべきだったことだろうか。そうしたことも念頭に置いておき、またの機会があればチャレンジしてみよう。
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by office34 | 2009-10-15 20:32 | 街角の風景
2009年 06月 26日
道の名は
 先日紹介した仁丹版にもう少しこだわってみる。前回の観点は地名表記の長さにあったが、今回は表記の中身そのものについてである。

 まず何が問題かといえば、「岡崎通」という名前についてである。件の道は、平安神宮の東側を通っている道路のことであり、丸太町通の少し北から南は三条通に出るあたりまでを言っているようだ。一応、GoogleMapで確認してみると、確かにその辺りに「岡崎通」との記述がある。当方も、この仁丹版を初めて目にした時は、何の違和感も感じてはいなかったのだが、貼られている場所を説明しようとした時、あれ?ということが生じたのだった。

 「岡崎通三条北裏……」、要するに三条通と岡崎通の交差点を上がったところだろ、と、簡単に捉えていたが、そこでふと思い付いたのが石碑マニアの間ではちょっとは有名になっているはずの道標の存在である。

a0029238_19193479.jpg 岡崎通が三条通に出るところにある一基で、黒ずんだその姿は見るからに古そうな印象を与えている。しかし、刻まれている内容が「三条通、大津道、黒谷、真如堂」などと並んで「動物園」とある。見てくれは古そうでも、江戸時代モノではなく、明治三十六年に動物園が開園した後に設置されたものなのである(写真クリックで拡大)。

 それで、何が問題なのかと言えば、この道標の通称が、設置されている場所に因んで「岡崎道三条(または三条岡崎道)の道標」と言われる場合があるのだ。フィールドミュージアム京都のいしぶみデータベースによれば、設置場所が「東山区三条通岡崎道東北角」となっているので、当方が勝手に「岡崎道」と言っているわけではなさそうだ。そしてもう一つ、市バスの停留所名なのだが、丸太町通と岡崎通の交差点近くにあるバス停は、「岡崎道」である。

 問題点を整理すると、「岡崎通」と「岡崎道」の二つの名前があるのだが、これらの関係はどうなっているのだろう、ということである。時代によってどちらが優勢だったかという問題なのだろうか。それとも停留所名なら「岡崎道」で、道路名なら「岡崎通」とかの感じで、シチュエーションによる使い分けでもあったのだろうか。あるいは、まったくのランダムなのだろうか……等々いろいろな可能性が浮かびあがる。

 こういう問題の調べ方は、どんどん資料を集めていくしかない。古い地図やガイドブック、案内記あるいは新聞記事、どんな形でもいいから、この道路のことが触れられているものを探し出して、使われ方の中に傾向めいたものがないかと、コツコツやっていくしかない。実証的アプローチというヤツだ。それで正解が見つかるかどうかは分からないが、手順としてはそれしかないと思う。

 ということで、とりあえず手許にあるものを見てみよう。「大京都市街地図」(昭和二年)を開いてみると、え?、広道通?。そう言えば、三条通にある郵便局は「京都三条広道郵便局」だった。これでは「岡崎道」「岡崎通」「広道通」と三すくみではないか。どうも問題が一層複雑になっちまったようだ。困ったものだ。
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by office34 | 2009-06-26 19:23