Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 11月 18日
天龍寺の達磨様
天龍寺のグッズコーナーで買ってみた。

a0029238_2065281.jpg


天龍寺の拝観コース、その第一歩のところで出迎えてくれる達磨様の図柄である。非常にインパクトがあって天龍寺のシンボル的なイメージにもなるわけだが、いかんせん、写真で撮ることは難しい。撮影禁止とかの事情があるのではなく、ガラス張りの展示となっているため、ベストアングルである真っ正面に立とうものなら撮影者の姿がみごとに映り込んでしまうのである。一眼で偏光フィルターを使うなどすれば対処可能なのかもしれないが(*)、コンデジ族にしてみれば、自らの姿が入らないアングルを選ぶしかない。そうなると必然的に斜め横からの撮影しかできないという仕儀。
(*)ガラス面に正対した結果、映り込んだ撮影者の姿を消すのは偏光フィルターでもできないらしい。(参考)

それならいっそのこと買っちゃえということでこのミニクリアファイルを購入、そしてそれをスキャンしたのが上の画像である。

ちなみに原画がアートであり「真正の文化(genuine culture)」だとすれば、その見てくれを写し取っただけのクリアファイルはキッチュということになる。
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by office34 | 2013-11-18 20:07 | 変なモン
2013年 10月 09日
プロローグ ~大堰川の小督塚(1)
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小督塚について書いてみる。というか、『太平記』巻十二や大雲院・豐烈曜後之碑などが宿題になっているわけだが、そこからわざと目をそらすための措置といった方がよさそうだ。両方とも行き当たりばったりでは厄介そうなのでそれ相応に調べる必要がある、そこでまずは少し息を整えてといったところか。とはいえ、このところタダでさえ間延び気味なので、埋め草が必要なのも事実。そこで登場を願ったのが嵐山の小督塚である。

嵐山は大堰川左岸にあるかの供養塔は有名なクチに入るはず。したがって概要だけなら大概のガイドブックにも載っているし、このブログでも以前に触れたことがある(小督タグ)。今回、それを改めて持ち出すのは、そんな小督塚が従来はどういう紹介のされ方だったのかといったあたりに興味が向いたからである。そういうモニュメントが存在している事実は有名でも、それをどう紹介するかといったところには、紹介する人のカラーが反映するのは当然で、その違いに興味が向いたというわけである。

似たような事例としてあるのは、金閣寺を紹介できるかという問題だろう。概要をペラっと触れたものも含めると、金閣寺関連の記述はごまんとあるのだが、それぞれを厳密に比べてみると透けて見えてくるものが違う。大佛次郎の描く金閣寺、三島の金閣に水上の金閣……それぞれの目に映っていたものを探るのは、対象自体が有名かどうかというのとは次元の異なる問題だろう。小督塚についても、モニュメントが有名なだけに、あるいは似たようなアプローチが可能になるに違いない。

というわけでまずはたたき台となる標準的なものから。登場するのは現代の記述のひな形、竹村俊則『新撰京都名所図会』である。
小督塚は渡月橋より亀山公園に至るあいだの左岸にある。椋の老木のもとに小さな五輪石塔を置いて、しるしとする。小督局は平安末期の宮廷女性で、権中納言成範の女ともいい、また藤原信西の女とも伝える。宮廷に入って高倉天皇の寵を得たが、中宮建礼門院の実父平清盛に睨まれ、嵯峨野に身を隠した。よって北面の武士、弾正少弼仲国は天皇の命をうけて彼女の行方を求めて渡月橋のほとりまでたずねてきたところ、かすかにきこえる琴の音によって彼女をさがし出したという。これは古典平家にしるされている有名な一節であるが、これに因んで後世好事家がここを小督局の隠栖地と為し、墓をつくったものであろう。元禄年中、去来の落柿舎に杖をとどめた俳聖芭蕉は、ここを訪ねて
  うきふしや竹の子となる人の果
と一句をものしている。なお渡月橋の北詰近くに琴聞橋(駒止橋)というのがあり、また琴きき団子をうる茶店まである。
『新撰京都名所図会2』(竹村俊則、白川書院、昭和34年)

比較的長文で多くの情報が詰め込まれているが、(1)小督の局のプロフィールを述べ、(2)彼女の供養塔が存在しているという事実に触れ、(3)関連する歴史的な事跡を紹介するといったあたりが基本的な枠組みのようだ。

ざっと確認すれば、小督局のプロフィールはこんなもんだろう。出典も「古典平家」(ラフに『平家物語』のことと考えてOKか)と記されているので問題はない。「藤原信西の女とも伝える」とあるのは、情報の出所がどこか気にならないわけではないが、些細なことだろう。あえて何かを添えるとすれば、小督局のエピソードが広まったのは、『平家物語』の享受からダイレクトに導かれているというよりは、エピソードの一人歩きの結果ではないか、といったあたりである。『平家物語』が広く読まれたことが前提になるにせよ、小督の物語とでもいうべき形で能楽に取り込まれたり、絵画の題材にされたり、あるいは今様に歌われたりの形で広まったのが、直接の原因とみるべきと思う。いわゆる二次生産による影響が大きいと思われるのである。このあたりの事情は要検証のことがらだが、スピンオフ的なものがたくさんあるのは事実である。

モニュメント自体、つまりかの五輪塔についてはどうか。『新撰図絵』では詳細には述べられていないが、建立者不明ながら江戸時代には建てられていたとなっている。江戸初期の案内記にすでに記述が見られるので、そのあたりまで遡らせることはできるだろう。また(3)の関連する事跡で芭蕉の俳句が紹介されているが、「嵯峨日記」に該当する句があるものの、それら以外には詳しくわからないのであれば、昭和の視点として「後世好事家がここを小督局の隠栖地と為し、墓をつくったものであろう」いう形で十分だろう。現在、われわれが見ることのできる五輪塔が、不自然に新しいことについては重要な検討課題だが、江戸時代にはすでになにがしかのモニュメントが置かれていたのは確かである。

以上、要するに大枠についてはさほど問題にするところはないのだが、この記述を念頭において、江戸時代の旅行記や案内記を眺めると、いくつかおもしろい点が浮かび上がる。微妙に毛色の違う視点が、かつては存在していたようなのである。そんな観点から、次回以降、いくつかの資料を紹介してみたい。




プロローグ / 芭蕉の見た小督塚 / 小督桜/ 謡曲「小督」 / 峰の嵐か松風か
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by office34 | 2013-10-09 14:45 | 京都本・京都ガイド
2013年 09月 18日
嵐山!元気ですキャンペーン
この記事は貼っておく必要がありそうだ。
http://ameblo.jp/menya-ranmaru/entry-11615983609.html
主旨がわかるように、ポイントを引用すれば、
ピーカン超いい天気やのに
ヘルメットかぶって長靴履いて
深刻な顔してマイク向けて・・・

それって大変さをアピールする為の
演出やんヽ(`Д´)ノ

マジで!止めい!
ということ。



ちなみに、嵐山公園・中之島地区の飲食店や旅館、および大堰川に船着き場を設けている遊船会社の被害は大きなものとなっています。これは事実です。
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by office34 | 2013-09-18 01:58
2013年 07月 24日
ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と ~イメージの嵐山(1)
しばらく嵐山の二丁塚にこだわってきたわけだが、その過程での副産物というか、嵐山の印象が時代によって変わっていることが見えてきた。『観光の嵐山』(昭和11年刊)に見られる"景勝地・嵐山"をアピールするのが一つのあり方であるとすれば、昭和期後半、おもに昭和50年(1975年)前後をピークに流行したアンノン族好みの嵐山は、それとはまったく違ったものだったようだ。現代の嵐山は、アンノン族の頃とはまた趣を変えて、"1/nの観光地"となっていることは否めない。『るるぶ』や『まっぷる』に代表されるガイドブックによるカタログ化に組み込まれた観光地、多くの中の一つという位置づけである。

景勝を謳った戦前の嵐山、アンノン族好みの嵐山、カタログ化された現代の嵐山、これらは直線的な推移をみせるのではなく、分析者の視点に応じて複雑に絡み合う。しかし極めて大ざっぱに扱うことを許してもらうとすれば、嵐山が見せる局面の代表的なものといってよさそうである。

これらの中で、大きく取り上げてみたいのは、やはりアンノン族好みの嵐山だろうか。「~族」という呼称は、「カミナリ族」だの「カニ族」だの、あるいは「タケノコ族」だの、いろいろな造語がある。しかし、それらの中でも「アンノン族」は異彩を放っているように思う。それぞれに時代の一局面をうまく切り出した言葉であるように言われるが、「アンノン族」ほど時代全体とシンクロするものはないからである。世相史を学問的に扱う立場からの発言もいくつか見られるように、高度成長期が一段落を迎え、がむしゃらに上ばかりを見ていた人々の視線が等身大の個人に向けられた時、世の中に「アンノン族」の名で呼ばれる女性の一群があふれていたらしい。

マスメディアを利用した大規模な広告戦略が関与したのは事実である。高度成長期の到達点を象徴するのが大阪万博expo'70だったすれば、たびたび指摘されていることだが、万博終了後の客足鈍化を見据えて展開された国鉄による「ディスカバージャパン」キャンペーンと「アンノン族」の発生は見事に重なっている。しかし、それだけをもって「ディスカバージャパン」が「アンノン族」を生み出したというのは短絡的だろう。「ディスカバージャパン」は、電通の藤岡和賀夫氏らの当事者たちがリアルタイムで意識できていたか否かとは関係なく、時代の流れとたまたま重なり合うものだったのではないか。たまたまと言うとすべてを結果論に委ねてしまうことになるので、藤岡氏ら関係者の功績を過小評価することになるのだが、後の研究者が指摘するほどのタイムリー性が、同時代的に狙いすまされたものだったかどうかは定かではない。社会史の分野だけでなく、後代から見れば"時代を象徴する"と呼ばれる事象でありながら、同時代的にはその意味合いは気づかれていなかった、そうしたケースは少なくない。時をほぼ同じくして進行した「ディスカバージャパン」キャンペーンと「アンノン族」の発生、そして個に目覚めた消費者層の形成も、その一つであるように思う。

こうした視点から嵐山を検討するには、「an-an」や「non-no」の誌上で展開された京都特集がどういう調子のものだったか、あるいはそれら以外に材料を求めるとすれば、瀬戸内晴美(現在の寂聴さん)など当時の時代精神を担った作家の小説に見られる文章がどういうものだったかといった具体的な材料が必要になる。現在、当方の手許にはそうした資料がないので、ここまでの話は、おもに既刊のエッセイ等に依存するものである。それでもかなり面白そうな材料なので、今後資料を集めつつ、話を展開できれば続けてみたい。
<主要参考文献>
・馬場俊明氏「京都歌謡曲考現学」
(「現代風俗'85」現代風俗研究会会報・通巻9号,1985年)
・斉藤光氏「『アンノン族の京都』から『彼氏と行く京都』へ」
(『京都ディープ観光』所収,裏京都研究会編著,1996年,翔泳社)
・石川真作氏「さすらうこころは京都に集う-京都歌謡の隆盛と衰退」
(『京都フィールドワークのススメ』所収,鵜飼正樹氏ほか編,2003年,昭和堂)
・「ディスカバー・ジャパン」の衝撃、再び。
(新井満氏と藤岡和賀夫氏の対談,PHPビジネスオンライン衆知2011.2.7付,)



<余談>
ディスカバージャパンのキャンペーンについて調べていると、キャンペーンで用いられたキャッチコピーの一つに、「目を閉じて……何を見よう」というのがあることを知った。その時、閃いたのがディスカバージャパンの後続キャンペーンで用いられたCMソングが「いい日旅立ち」であり、作詩作曲が谷村新司、そして谷村新司の最大のヒット曲といえば「昴」で、その歌い出しが「目を閉じて何も見えず、哀しくて目を開ければ・・・・・・」。

ディスカバージャパン、ディスカバーマイセルフ、でも何も見つかりませんでした、とでも言っているような。



<イメージの嵐山>
(1)ディスカバージャパンとアンノン族と嵐山と/(2)嵐山と嵯峨野/(3)初期段階のディスカバージャパン/(4)街化する嵯峨野/(5)哀しみの系譜/(6)祇園歌謡と京都歌謡/(7)雨の嵐山(1977年)/(8)嵯峨野さやさや(1975)/(9)祇王寺の話/(10)エリア名の「嵐山」

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by office34 | 2013-07-24 23:56 | 京都本・京都ガイド
2013年 06月 25日
耳慣れぬ地名 ~山中静逸(2)
山中静逸は明治政府が置かれるに伴って登用され、いくつかの事務官を務めていた。岩倉具視のブレーンというか、部下の一人だったようだが、経歴を見れば、内国事務局権判事(慶応4年2月)、会計官駅逓司知事(同閏4月~7月)、御東幸御用掛(同9~10月頃?*明治改元は9月)、奥羽府県取調(同11月)、東京在勤・弁官事(同12月)、民部省(明治2年4月)、桃生県権知事(同7月)、登米県知事(明治3年9月,同月依願退職)といったところが確認できる。短いスパンで転々としているのは制度自体が確定していなかったからだろう。また明治2年になって戊辰戦争の戦火が収まった東北方面*への派遣も行われているが、職務の実態は不明。
*桃生県は現在の石巻市のあたり、設置後ほどなくして登米県に編入。山中が登米県の知事を辞したのは前任者に退職を強いての知事着任を潔しとしなかったためとされる。このあたりは儒者的な倫理観によるものか。

細かい部分はともあれ、山中静逸の履歴においては、新政府発足に伴っての1~2年はその下での地位があったのは確かである。そして政府の仕事を辞した後は宮家の家令に収まっている。伏見宮、閑院宮、北白川宮などがその奉職先として挙がっているわけだが、明治6年をもってそれらも辞めて京都に戻る。「円山勝会図録序」に「自東京病帰於糺林」とあるのは、病気を理由に東京での仕事を辞し云々ということで、このあたりの事情を指す。なおこの一節に「東京」とあって、奥羽方面の地名が出ていないのは山中の意識に桃生県での職務が占めるウエートが小さいことの現れだろう。1年ほど桃生県に派遣されたが、実質的には天皇遷御に随行した東京で、政府および宮家に仕えていたという意識である。

さて、こうした流れを踏まえての本題、もう一つの耳慣れぬ地名「嵐峡」である。"耳慣れぬ"がキーワードになってはいるが、鴨水や糺林に比べると、嵐峡にはまだ馴染みがあるかも知れない。「嵐峡館」という老舗旅館があったからである。100年にわたる歴史に幕を下ろしたとはいえ(2007年休業、2009年星のや京都に再生)、嵐山にある名だたる温泉旅館であった。もちろん当方のごときシモジモが利用できるクラスではなかったが、俵屋とか柊屋とかと同じように、その名前を聞くだけで条件反射的に京都の旅館と返すことのできる一軒だった。

「嵐峡」という言葉をそのまま使っていた嵐峡館だが、実はこれも山中静逸と縁が深い。
翁、常に大工宇八を愛しぬ。或る時、相倶に、嵐山の峡谷を〓〓し、會會、礦泉の出づる所に遇へり。乃ち、爲に謀りて、宇八に温泉場を起こさしめぬ。名づけて花の湯といひ、遊人の入浴に供す。これ今の嵐峡館の前身なり。
〓〓はギョウニンベンに尚、ギョウニンベンに羊,読み「ショウヨウ」。「逍遙」と同義
大正四年刊の追悼集『信天翁』所載の逸話である。嵐山の桜を愛して下鴨より居を遷していた山中だったが、散策のおりに会々(たまたま)源泉を発見したという。発見の日時はわからないが、日記の明治10年10月3日の条には関連する記述が見られる。
大悲閣の下、礦泉に付、地所、下桂村、風間八左衛門、三百坪二百箇年借取、家内名前、十圓渡す、二十兩宇助へ、普請の爲渡す。
下桂在住の風間八左衛門から300坪の土地を200年契約で借り受けて賃貸料10円を支払ったということだろうか。この温泉場が旅館となるのは、明治末年のことだから、山中の死(明治18年)からかなりが経過してのことである。200年契約はどうなったのか、所有権が転々としたあげくに営業旅館となったらしい。

話が少々、煩雑なところに迷い込んでしまったが、「嵐峡」という言葉も山中静逸の周辺に見られるということである。その言葉を用いている文献を具体的に挙げることはできないのだが、山中の書画等をことこまかに見ていくと、一つぐらいは「嵐峡」を用いているものがあるに違いない。なお、下鴨から嵐山に居を遷したと書いたが、下鴨時代の屋敷は「二水荘」といい、嵐山に営んだものを「対嵐山房」といった。「二水荘」というのは、高野川と賀茂川の二つが合流するところという意味で、「対嵐山房」というのは川を隔てて嵐山に向き合うという意味である。

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嵐峡館の広告(『観光の嵐山』より、昭和11年)






耳慣れぬ地名/耳慣れぬ地名・その2/対嵐山房/二丁塚碑陰/二丁塚読解・その1/二丁塚読解・その2/二丁塚読解・その3/二丁塚読解・その4/二丁塚読解・その5/二丁塚読解・まとめ/
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by office34 | 2013-06-25 21:43 | 明治人物志
2013年 06月 09日
祇園小唄と嵐山小唄~『観光の嵐山』より(1)
月はおぼろに東山
霞む夜毎よごとのかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
「祇園小唄」(一番のみ)である。円山公園にはカラフルな歌碑も建っているし、この歌詞を紹介する京都本も少なくはない。でも、ふと立ち止まって小唄ってなんだろうということも考えてしまう。お座敷芸の一種で三味線の伴奏でゆるゆると口ずさむ楽曲みたいなイメージがある一方で、「お座敷小唄」や「海軍小唄(ズンドコ節)」のように、毛色がまったく違うのに"小唄"を名乗っているものもある。厳密な定義を求められるとすればお座敷芸になっている楽曲がメーンを張ることになるのだが、こまかいことをゴチャゴチャいうのは抜きにして、ちょっとしたはやり歌程度を意味する小唄もあるということなのだろう。

ところで、祇園とならぶ京都の一大観光スポットといえば、有無を言わさず嵐山だろう。その嵐山をテーマとした「嵐山小唄」なるものも、かつては存在していたらしい。だがその「嵐山小唄」の記憶は現代にはほとんど残っていないようだ。「祇園小唄」と同じく、長田幹彦作詞によるものなのだが、嵐山の場合、祇園と違ってお茶屋がないというのが忘却に至る大きな原因なのかも知れない。小唄の本分がお座敷芸にあるとすれば、祇園とは異なって嵐山には実演の場に恵まれていないからである。それはさておき、とりあえず歌詞を紹介してみる。
嵐山小唄
長田幹彦氏作詩
橋本國彦氏作曲

霞がくれの嵐山
[色?]もほのかに夕ざくら
春の愁ひを紅帯に
日傘かざそよ渡月橋

晴れる村雨雲とほく
峰の青葉に虹の橋
さつきつゝぢの露わけて
保津の早瀬の下り舩

[かく]も歌ふか山峡の
紅葉照りそふ瀧■[瀬?]に
秋を織りなす唐錦
きせて■はせん山姫に

風に■れゆく峯つゞき
鐘も寂しき大悲閣
別れともなき盃に
泣いてさゝやく夜の露


google先生に聞いてみると「嵐山小唄 しぐれ茶屋」なる映画が関連しそうな気配なのだが、正確なところはわからない。上の引用は、このブログでもすでに何度か登場している観光パンフレット『観光の嵐山』からのものである。一部、翻刻に苦しむ文字が含まれているが、だいたいこんな感じでいいかと思う。
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by office34 | 2013-06-09 02:57 | 京都本・京都ガイド
2013年 04月 22日
嵐山の二丁塚
嵐山の大悲閣道にある芭蕉句碑について。以前に一度取り上げたことがあったのだが(参考)、碑陰が読めずに保留していた。このところ、ネタがなくなっていたこともあって再チャレンジ。書き出しが「此芭蕉翁句」であることや「明治十一年三月」という年次、そのほかいくつかの語句が読み取れるものの、文脈はわからない。それでWEBで情報を探してみたのだが、めでたく空振り。

だが、その一方でおもしろい話にも遭遇した。それは、この句碑の主役である「花の山 二丁のほれは 大悲閣」なる吟が、どうやら芭蕉のものではないらしいというお話。専門的な立場で調べると、世に芭蕉作として伝わっている中にもマユツバなものはかなり混じっているようだ。マユツバとまでいかなくても、芭蕉の真作であるとの確証が得られない吟は相当数になるらしい。いわゆる「存疑」の句である。嵐山は大悲閣道に建てられている「花の山 二丁のほれは 大悲閣」は、まさにそうした存疑の一つなのである。

以前、金福寺の芭蕉顕彰碑に触れた時、言うところの「芭蕉庵」は松尾芭蕉ゆかりのものではないことを、蕪村ら夜半亭の人々はいずれかの段階で気づいていながら、そこを舞台とする顕彰活動を推進したのではないかという趣旨のことを書いた(参考)。それに象徴されるように、芭蕉の没後百年の前後には顕彰活動がさかんに行われている。時代のムーブメントとして特筆されるぐらいのものである。そして、思うに「芭蕉=俳聖」なる認識が一般に浸透したのは、そうした一世紀後の顕彰活動の結果なのではなかったろうか。生前あるいは没後ほどなくの間についていえば、門人たちの間ではもちろんのことながら篤く崇められていたはずである。しかし門人という枠を越えるとどうだったか。限定的なグループの枠にとらわれることなく、尊敬のまなざしが世間に広く通用するものになったのが、一世紀後の顕彰活動の結果だったのではないかと思うのである。

また、そのくらいの結果を導くためには、関係者はかなりのエネルギーを費やしたはずだ。現在、「存疑」という扱いになっている吟が数多くピックアップされたのも、そうした背景があってのことではないか。本来であれば、場の芸術の宿命に従って埋もれてしまう吟に「芭蕉作」なる〝極札〟がつけられ、世間に喧伝されたと思うのである。かの芭蕉庵が松尾芭蕉ゆかりの地として喧伝されたのと同じような具合に、である。

なお嵐山の句碑は、詳しい方々の間では「二丁塚」と呼ばれているようだ。「塚」という言葉はお墓の印象が強いが、金福寺の芭蕉庵の傍らにも、樋口道立による「塚」が建てられた旨が碑文に記されていたように、「塚」を記念碑程度のニュアンスで理解しておけば、「二丁塚」なる命名にも納得はいく。そんな「芭蕉塚」をめぐっての本が、今回の記事では参考になっている。具体的には『芭蕉塚』(出口対石,長崎書店,昭和18年)と『京都の芭蕉句碑』(福井要氏,私家版,平成9年)である。そして、これらの情報をもたらしてくれたのが『花供養と京都の芭蕉』展の図録(PDF版、WEBで公開)であったことも言い添えておこう。

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二丁塚の碑陰

二丁塚 同市嵐山 大悲閣門前
表 花の山 二丁のほれは大悲閣 はせを
裏 明治十一年角倉関岳及碩水雨村如山等によつて建てられた由来が信夫翁山中静逸の筆でしるされてある
『芭蕉塚』より

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by office34 | 2013-04-22 00:17 | 歌碑・文学碑など
2013年 04月 11日
祇王寺前道標より
嵐山に出かける機会があった。何度も行っている場所だが、月イチとかの頻度で通う場所ではない。そのぶん、訪れるたびに「あれ、こんなのあったっけ?」といった類いの発見が続く。以前の話だが、落柿舎を訪れた時のこと。落柿舎の敷地内および去来墓の周辺にたくさんの句碑や歌碑が置かれていることは聞いていたので、それらを見て回っていた。芭蕉句碑や与謝野晶子歌碑などに関する情報はあらかじめ確認できていたので、それらの現物チェックといったところである。ところが、それら周知物件とは少し離れた場所になにやら曰くありげな石が置かれているのに目が留まった。

近づいてみると、くずし字で俳句らしきものが刻まれている。結構な大きさの句碑なのだが、手許に用意していたデータだけでは素性は分からない。それで仕方なく写真にだけ収めて帰ってきたことがあった。後日、それは大阪商工会議所の第七代会頭を務めた土居通夫(無腸)のものであることが分かったのだが、現場でいきなり出会ってなんだこれ?と頭を捻ったことを覚えている。

嵐山周辺は、観光都市京都の中でもドル箱中のドル箱となる、超弩級の観光スポットである。そのぶん、かなりの地域情報が出回っている。しかし、その多くは既刊ガイドブックを引き写しただけのもので、量のわりには質にはさほど大きな評価は与えられないのが現実である。売れ筋云々は関係ねぇ、Going My Wayだとばかり、るるぶ的情報誌とは一線を画した路線を展開する本もあるにはあるが、膨大な情報量の中では埋没気味である。

それはさておき、このたびの嵐山行でおもわず目が留まったのがこれ。
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奥嵯峨は祇王寺手前にある道標乱立ポイントである。一乗寺の詩仙堂前にも同様に各種道標勢揃いスポットがあるわけだが、それを思わせる乱立ぶりだ。もっとも、この場所にたくさんの道標が並んでいること自体は、かねてより知ってはいた。それぞれが指し示す方向についても、それなりに知ってはいるつもりではいた。ところが、その時、ふと視線が吸い寄せられたのは右端の祇王寺道標である。着色して「祇王寺」と大きく書いている下にまだ何かの文字が刻まれているようだ。一番下の「墓」という文字は十分に読めるので、誰かさんのお墓を指し示しているのだろうといったところまでは分かったが、それではいったい誰だろう・・・・・・というところでストップである。

無腸句碑の場合のそうだったのだが、その時に用意している情報でカバーできないと、とりあえず写真だけ撮って・・・・・・という形で誤魔化してしまう。この時も、帰ってからいしぶみデータベースで調べればわかるだろうとの決め打ちが先に来て、写真だけで帰ってきてしまった。

はたして結果はというと、決め打ちもたまに外れることもあるのだが、この祇王寺道標については、きちんと情報が挙がっていた。いわく「祇王寺・久保田米僊・金子静枝墓」とのこと。刻まれている文字はこれで分かったのだが、祇王寺と久保田米僊についてはともかく、「はて?」となってしまったのは金子静枝である。はて、どちら様でしょう?

「金子静枝」でネット検索をかけると、近年亡くなられた切り絵作家の情報ばかりが飛びこんでくる。昭和4年建立の碑だから、そんなバカなと思っていたところ、同姓同名の文筆家でジャーナリストが明治時代に活躍していたとの情報もあった。プロフィールは十分につかみきれていないが、祇王寺前の道標にお墓の所在が刻まれているのは、そちらの金子静枝であるのは明らかである。

この金子静枝なる人物、なかなか面白そうな気配も漂わせているのだが、詳しく紹介できるところには至っていない。また整理ができたところから順次ということにしておこう。ともあれ、よく知っていると思っていても発見は常にやってくるという話である。そして、今回のそれは、見慣れていたつもりの道標から訪れたということである。

少々、こじつけ気味だが、石道楽の一環として・・・・・・
4/13に「まいまい京都」さんのところで北白川を舞台にした石巡りツアーを実施します。北白川エリアは古くから石工の里として有名だっただけあり、界隈を歩けばユニークな石造アイテムがいろいろと目に飛び込んできます。それらを題材にして、石の声へのアプローチをしてみましょう。

クダクダこ難しいものにするつもりはありません。知れば知るだけ深みにはまる石の世界、ひとつご一緒にいかがでしょうといったところです。

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by office34 | 2013-04-11 23:43 | 街角の風景
2013年 04月 10日
滝口寺の歌石碑
滝口入道と横笛のエピソードは有名なので繰り返さないが、滝口寺にある歌石碑、その側面に刻まれている歌についてはデータが見当たらない。ということで試読・・・・

うたかきし血しほのあとは残のこらねと
あかき心こころそ千代ちよも消えせぬ 吉明
横笛が指を切って血で歌をしたためたというその痕跡は残っていないけど、彼女の丹心(嘘偽りのない誠の心)は永世にわたって消えることはない


どうだろう、かなり覚束ないので、解読のできる方はぜびご教示のほどをお願いします。

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by office34 | 2013-04-10 01:24 | 歌碑・文学碑など
2013年 03月 28日
観光の嵐山
愛宕山談義を続けてきた流れから、どうしても触れたくなるのが『観光の嵐山』。嵐山保勝会が昭和11年(1936)に刊行したパンフレットである。手許にある関係上、過去にも部分的に取り上げてはいるのだが、改めて眺めてみると新しい発見が出てくる。石碑や歌碑など石造記念碑に残る時代の証言もさることながら、この手のパンフレットにも、なるほどそういう時代だったかとの思いを起こさせてくれる記述が見つかることは少なくない。

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今回、紹介するのは、嵐山電車と嵐山バスの広告ページ。嵐山電車は明治末期開業の鉄道会社だが、大正期に京都電燈会社が吸収し、戦時統制で京電が解散する際に京福電鉄となった。京福の愛称「嵐電」は現在も普通に使われているが、事業主体とは関わりなく、嵐山電車時代から定着していたものと思われる。嵐山バスの方は未調査。それでも現在の京都バスの路線と重なる部分が多いことを思うと、嵐山界隈をカバーしていた地域バスが京都バスに吸収されたものだろう。

これらアクセスマップを眺めてみて面白いのは、観光の目玉スポットが現代のそれとかなり違っていることだろう。嵐山電車の広告が典型的で、「観桜・観楓」に先立って「御陵参拝」があり、地図には宇多野の点在する御陵が詳細に記されている。また山ノ内の近くに記されている「角ノ坊」、これは親鸞上人往生の地とされる場所で敬虔な信徒にとっては聖跡・聖地になるのだが、現代の観光雑誌で取り上げられることはまずない。あるいは映画関連のものからも時代相を見ることができる。帷子ノ辻周辺に「プロダクション」と書いて建物イラストが並んでいるのは映画の撮影所であり、蚕ノ社の「ゼーオー」も同じ。まさに銀幕スタアが輝いていたころなのである。個別の名前は記されていないが帷子ノ辻の右下にある撮影所は、場所的にいえば現在の映画村だろうか。昭和11年だから東映自体が発足していないので、その前身になるいずれかの施設だろう。

嵐山バスの方でも御陵や撮影所が目立つのも、やはりそういう時代ということである。しかし、こちらのページではそれ以上に目を引くのは、嵐山バスの枠の隣に出ている「嵐山ヤトナ倶楽部」ではないだろうか。ヤトナという言葉自体が歴史語彙なのでアレなんだが、どういう分野のものかは添え書きから推測もできる。ちなみに10年ばかり時代が下がって「嵐山ヤトナ倶楽部」のヤトナと同義になるかどうかは定かでないが織田作之助の「それでも私は行く」にはヤトナをめぐる記述がある。ぼかすことなくはっきりと書かれているので読めばイメージが固まるはずである。

ともあれ『観光の嵐山』は歴史資料としても面白いという話である。このパンフレットには30ページそこそこのボリュームしかないこともあってPDFにして全部紹介してみたいところだが、それはさすがに要許諾の領域だろう。
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by office34 | 2013-03-28 09:06 | 京都本・京都ガイド