Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2011年 09月 06日
街へ出る、あるいは無印都市
スクラップしておいた新聞記事を思い出した。少し昔、というか、かなり昔といった方が正しいのだが、2008.1.28付の読売新聞である。記事のタイトルは「無印都市」。そして「待ち合わせ 消えゆく名所」との見出しが付く。「平成を歩く」というシリーズの中の一章のようだ。
木曜の夕方、東京・新宿駅東口のアルタ前に立った。外壁の大きな映像モニターが目立つ、定番の待ち合わせスポットだ。かつてはみな、人待ち顔でたたずんでいた。じれったいような、心細いような顔で駅の方を見つめ、ひょっとしたら友人が周囲に紛れていないか、時々見回して確かめる--昭和58年に上京し、大学生になった記者も間違いなくその一人だった……(以下略)
と、アルタ前の待ち合わせ風景から書き起こされつつも、現在のアルタ前では大学生時代の記者が経験したような風景は見られないと続く。待ち合わせ場所を明確に決めて落ち合う習慣が近年は減っているというのである。いわく「ここで会おう、としっかり決める必要はもうなくなったのだ。移動しながら、ケータイで連絡を取り合い、どこかで合流すればよい。これをケータイ文化の研究者たちはミクロ・コーディネーションと呼ぶ」とのことである。

この記事に思い至ったのは、河原町を点描したときに、BALの影が薄くなっていると書いたのがきっかけだった。BAL前で集合というような言い回しが生きていた時代は、思えば、すでに20~30年は昔のことだろう。京都で、もう一つの有名な待ち合わせスポットの土下座前にしても、「『高山彦九郎』という名前は忘れられて『土下座』と呼び慣わされている」という話がコネタのごとく語られはしても、かの像の周辺が待ち合わせスポットとして機能し続けているかというと、かなり覚束ないと言わざるを得ない。そうした前提があって、ふと「無印都市」なる昔の新聞記事が頭を過ぎったのだった。

記事のタイトルにもなっている「無印都市」については、文中には「国際的に活躍する建築家レム・コールハースが歴史性を欠いた巨大都市をジェネリック・シティーと呼んでおり、日本では『無印都市』と訳されているという」との説明があり、「ミクロ・コーディネーション」と同様に、社会学での用語のようだ。さらにそれぞれの語には欄外注釈があり、そのまま抜き出すと以下の通り。
[ミクロ・コーディネーション]
ケータイ文化の国際研究をまとめたJ・E・カッツほか編『絶え間なき交信の時代』(2002年、邦訳はNTT出版)で使われた。時間・場所の継続的調整を指す。さらに感情的・社会的な相互作用を持つ場合、ハイパー・コーディネーションと呼ぶ。
[ジェネリック・シティー]
genericは一般的、商標未登録の、という意味。コールハースは空港のごとく均質で、世界中にある大都市をこう呼んだ。大著『S・M・L・XL』(1995年、未訳)で中心性と手を切り、日々のニーズで拡張・更新されて、表層的だと指摘している。
さて、河原町の話である。BALの影が薄くなっていることを契機にこの記事を思い出したとはいえ、ここでいう「無印都市」に河原町が変貌しているとまで思っているわけではない。BALの存在感が薄れただけでなく、丸善が消滅するなど、全般的にいって、心の中でのランドマークが失われているのが確かだが、それでものっぺらぼうの界隈になったわけではない。ここ5~6年の範囲で、河原町にコンビニや牛丼チェーンが相次いで出没したのは驚きだったし、それに先立つ2~3年は四条河原町の交差点からほど近いエリアにチェーン系のコーヒーショップが次々にオープンして時代の変化を感じたものである。そしてその前のスパンにあったエポックメーキング的な事件が京都を代表する書店の駸々堂倒産だろう。それらは確かに、一続きの大きなうねりのように感じられはしたが、それでも河原町は河原町たるなにかを主張しているように思うのである。

そもそも河原町とは、かつてはどういう場所だったのだろう。かなり学生目線になるが、学生層を抜きにしては河原町の性格は語れない。大学生が普段の生活を過ごすのがそれぞれの大学周辺エリアであるとすれば、そこに「学生街」なるものが形成される。百万遍や今出川界隈がそれだろう。立命館が衣笠に移転する前は、河原町広小路にキャンパスがあったこともあって、今出川通の河原町寄りは立命のエリアだったというから、今出川通に沿って百万遍から烏丸あたりまで、学生をターゲットにした店がズラリと並んでいた時代があったらしい。そんな学生街だが、需要がそのエリアだけで百パーセントみたされるはずもなく、プラスαのものが欲しくなったときに、「街へ出る」というノリで向かった場所……それが河原町だった。河原町界隈、広くいえば、寺町、新京極、裏寺、さらに木屋町まで含めたエリアがその役割を担うのだが、そこには学生どもの旺盛な食欲や知識欲に応える店もあったろうし、わけもなく時間を潰すのに適した場所もあった。本屋、喫茶店、映画館、パチンコ屋等々はまさしくそうした時代に輝いていた場所だった。

翻って、置かれている環境だけでなく、思考パターンも行動パターンも変わってしまった現代の学生にすれば、「街へ出る」という発想、ひいてはそれを体現するかつての河原町界隈は必要ではなくなったのだろう。河原町界隈の客層が変わってゆくなかで、当時よく知られていた店が一軒また一軒と姿を消していった。映画館やパチンコ屋の退潮などは学生の変化だけに原因を求められないし、学生の変化は社会の体質変化の結果だから云々との議論になると、ヒヨコとタマゴの水掛論になってしまうので、そのあたりは深く追及しない。要するに前世紀末の90年代~今世紀初頭にかけて、さまざまな事情が絡みあって、昔の河原町は消えてしまったという話である。

しかし、だからといって、一足飛びにコールハースのいう「無印都市」がかの空間に出現しているとは思えない。ガイドブック目線で見られることの方が多い気もするが、六曜社のような名物喫茶店もあれば、インパルスだって、いまだ健在である。小さな新刊書店は軒並み退場しても、キクオなどの古本屋は残っている。虫食い的に昔の河原町が顔を出しているのである。そういう意味でいえば、地層の重なりに似ている。昔の河原町に、新しい河原町が覆い被さって、全体的に別の街になってしまったかにも見えるのだが、そのところどころに、隠しきれない古い部分が覗いている。新しい部分は「無印都市」に通じる特徴をたくさん備えている。広域流通のシステムに裏打ちされたコンビニやチェーン店などは、そこが河原町である必然性はまったくない。ところが、その新しい顔のすぐ横に昔の顔が覗いているものだから、それらが輻輳して全体的には、他にはない個性的なものとなっているといったところだろうか。
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by office34 | 2011-09-06 10:05 | 街角の風景
2011年 03月 26日
つだちく
a0029238_21323354.jpg
 京都には老舗と呼ばれる店がたくさんある。雑誌などその類のもので取りあげられるのは、一保堂や鳩居堂など、「ザ・老舗」とでも呼べる、いかにもなところである。それらは百年を単位に店の歴史を語るわけだから、紛うことない老舗である。そうした正真正銘の老舗と並べられた日には、弱輩どころかヨチヨチ歩き程度と言わざるを得ないのだが、物理的な年数だけなら実はウン十年という所もある。そうした方面に目を向けると、その数は、いわゆる老舗よりは、当たり前の事ながら、ずっと多くなる。中には五〇年を越え、百年に手が届くところもある。そうした数十年クラスは、他の地域なら老舗の暖簾を掲げることができるのに、京都の環境では、そういうことはできない。それゆえ、平時は注目度もさほど上がらない。

 去年の夏に撤退となった阪急百貨店の京都店(四条河原町阪急)は、開店が1976年ということだから、30年程度である。百年を基準の一つに据えると、若造もいいところなのだが、それでいて「長い歴史に幕」という雰囲気は漂っていた。報道のスタンスでそういう風合いを演出していたとしても、わずか30年程度に何やってんだかといったような違和感があったわけではない。比較をすれば、30年は短いのだが、それを長いと感じる捉え方自体は不思議ではないのだ。

 数年前に閉店した純喫茶のクンパルシータの場合は、いつのころからかは知らないが、京都の名物喫茶として名を轟かせていたこともあり、ひそかに営業をやめたときには、驚きとも感傷ともつかない声々が方々から上がっていた。物理的な年数でいえば、戦後ほどなくの開店だから、50年か60年を越えたあたりでの幕だったようだが、代替わりをせずに営むとすれば、おそらく、このあたりが限界だろう。

a0029238_21323526.jpg こうした話を始めたのは、昨日、河原町今出川の交差点付近で、おやと思う光景が目に入ったからである。交差点を少し南にくだったところにあるCDショップで工事が行われている。CDショップと表現すれば、歴史など無さげな響きだが、件の店は「つだちく」こと津田蓄音機店である。店の前には張り紙もあって「77年のご愛顧ありがとうございました」と書かれている。

 この店はかつては今出川通に面していたところにあって、いつの間にか移転していたのが気になっていたのだが(何年前の話?)、当方もかなり若造の頃に買い物をした記憶はある。当時はCDなどは普及しておらず、もっぱらLPの時代。加えて地方から出てきたばかりのガキであれば、レコードプレーヤーも持っていない、ということで音楽テープを買った記憶がある。買ったと言っても、本数にすれば、片手で数えられるくらいだから、その程度のお付き合い、端的に言ってしまえば、縁の無い店である。それでも印象の中ではかなりの存在感はある一軒で、「いつもそこにある店」程度の認識は持っている。

 今回、この「つだちく」が消えるらしいが、昭和9年創業ということは、京都的な基準での老舗には入らなくても、感覚的なところでは十分に老舗といえる存在感はある。ほとんど買い物をした記憶のない当方でさえ、無くなるのか、残念だと感傷的になってしまうあたりが、いわゆる感覚レベルでの老舗たる証と言っていいのではないか。
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by office34 | 2011-03-26 21:35 | 気になるお店
2010年 12月 24日
ある日の四条河原町
a0029238_78221.jpg
 いつからこういう姿になっていたのかは分からない。夏が終わる頃に最終営業日を迎えたこと、その後しばらくして、後釜にはマルイが決まったことあたりまでの情報は得ていた。しかし、阪急の看板が取り外されていたことには気付いていなかった。案外、九月や十月頃に作業が行われていたのに当方がスルーしていただけなのかも知れない。あるいは、ほんの数日前までは在りし日の姿を保っていたのに、ということなのかも知れない。日付はどうであれ、十二月下旬の時点で「阪急」と書かれた漢字プレートが消え、「Hankyu」と輝いていたネオンサインも無くなっていることに気が付いたのである。

a0029238_78210.jpg もちろん、撤退の決まったその日から、いずれはこうなることはわかっていたのだから、特に騒ぎたてることでもないのかも知れない。たいした利用者でもなかったのに、ことさらノスタルジーめいた戯言を並べ立てる方がお調子者なのかも知れない。きっとそうだろう。だからニュースネタにはならなかったのだ。ただ、そうであるにしても、もとあった「阪急」の文字が残痕のようになった姿をさらしているのを目にすると、何か寒々としたものも感じてしまう。

 そういえば、かなり以前だと思うが、阪急の撤退が決まってから、かのビルをネタにしたことがあった参考までに。少し想定とは違う形になったようだが、まあ仕方ない。ちなみに、在りし日の勇姿というニュアンスで見るのなら、こちらの写真がベストだろう「OSAKAビル景色」より
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by office34 | 2010-12-24 07:11 | 街角の風景
2010年 11月 01日
忘れられた傑物
 高山彦九郎の話をもう少し書いてみる。高山彦九郎を紹介する文章でよく用いられるフレーズに「寛政の三奇人」というものがある。人名辞典の類を見れば、ほぼ確実に出てくる言い回しであり、林子平(元文3年~寛政5年,1738~1793)、高山彦九郎(延享4年~寛政5年,1747~1793)、蒲生君平(明和5年~文化10年,1768~1813)の三人を指している。そして、同様によく記されているのは、「奇人」とは奇行をなす人物ではなく、優れた人物の謂いである、とのこと。手っ取り早いところを引用しておけば、ウィキペディアには書きかけながら「寛政の三奇人」という独立したページが設けられ、
寛政の三奇人(かんせいのさんきじん)は、江戸時代の寛政期に活躍した、傑出した人物三人のこと。「奇」は「優れた」という意味であり、「奇妙な人物」という意味ではない。
ウィキペデイア「寛政の三奇人」(2010.11.01時点の記述)
と説明している。概説書や辞典類でも、「奇特」という熟語を引いたり、「突き出る、抜きん出る」という「奇」一字の意味を持ちだしたりなどの違いはあっても、基本的にはよく似た結論になって、異論があるようには見えない。

 もちろん、資料や関連書籍の隅々まで目を通しているわけではないので、言い過ぎると当方の馬脚を現すことにもなるが、「寛政期に活躍した三人の傑出した人物」というラインで専門家の見解は落ち着いていると言えそうだ。そして付け加えるなら、戦後になってこれら三奇人の影が薄くなってくるのと軌を一にして、世間一般では「奇行の主」という理解が強まり、その結果、人名辞典や概説書に注意書きが載るようになったと言っていいかも知れない。とりわけ高山彦九郎は、三条京阪前の銅像が「土下座」という愛称で呼ばれるようになったものだから、「奇行」という理解への傾きが強いように思われる。

 さて、ここで改めて取りあげるのは、「三奇人」の「奇」が、一般レベルで思われがちな「奇行」の方ではなく、「優れた」の方だという専門家的見解ではない。「奇人」を優れた人物と解するのはいいとしても、いったい誰が、彦九郎らを「三奇人」と唱え始めたのだろうということである。誰がと特定するのは無理でも、いつ頃からという問題意識でもいい。「寛政の三奇人」という言い回しを用いている本の多くは、呼び名の発端について詳しくは語らない。中には「当時から」とするものもあるが、具体的にどの資料に見られると紹介しているわけではない。それに元号が寛政の頃、同時代的に「寛政の三奇人」という言い回しが通用していたとは思いがたい。寛政という時代がなにがしかの形で回想の対象となったときに、「寛政の××」という言い方が生まれるのが普通ではないだろうか。寛政期に先行する特徴的な時代、たとえば仮にというのであれば元禄でも慶長でもいいのだが、そうした時代において「××の三奇人」という言い回しがあり、その現代版というニュアンスで「寛政の三奇人」と呼ばれたというのなら可能性はある。しかし、それであっても証拠となる具体的な資料が必要になるところだ。

 こうしたことを言い出してみたのは、当方の思いこみが先行しているのかも知れないが、高山彦九郎らを仰々しく称揚したのは幕末の尊皇家たちが最初になるのではないだろうかと感じたからである。さかのぼるにしても、高山彦九郎らから一つ下の世代の頼山陽までが関の山であり(実際、頼山陽は「高山彦九郎伝」という漢文体の史伝を残している)、寛政の世の同時代的な大勢に照らすとヘンな奴、妙な奴という目で見られていたのではないだろうか。河原町商店街の吊ボードが高山彦九郎を幕末ネタとして扱っているのは、高山彦九郎の再発見が幕末期になされたということを暗示しているようで興味深い。

 歴史研究者の中にも、「寛政の三奇人」は、寛政期のものではなくて幕末期から維新期、明治期にかけての意識だと指摘する人もいる。野口武彦氏は「寛政の三奇人」というエッセイの中で、高山彦九郎らの三人が揃いも揃って悲劇的な人生の結末を迎えたことをこう解釈してみせる。
(共通の運命が訪れたのは)三人のそれぞれに先駆的な政治的信念が、三人を自然に反体制的な立場にまで押し出し、当然のことながら、幕府の忌諱のみならず、迫害を招くところへ行きついてしまったからである。高山彦九郎の勤皇思想と、林子平の対外政策論。そして、この二つはより若い世代の蒲生君平のうちに合流しようとして、業半ばにして途絶する。これが、後世「寛政の三奇人」なる名目のもとに三人を結びつけたきずな原文傍点であった。いまうっかり後世などと書いてしまったが、じつをいえば、わたしはこの呼び名は、勤皇思想と対外政策問題とを結びつけた論調が時代の主流になる幕末より後に、ことによったら明治になってから、できあがったもののような気がしてならないのである。
「寛政の三奇人-林子平・高山彦九郎・蒲生君平」     
『江戸人の歴史意識』(朝日新聞社,1987年)所収
 ここで「幕末より後に、ことによったら明治になってから」と言っているのは、「寛政の三奇人」というまとまったフレーズのことである。頼山陽の「高山彦九郎伝」でも「爲人白皙精悍、眼光射人、聲如鐘。有奇節。」(WEBサイト「日本漢文の世界」より)という形で「奇」の文字は用いられてはいるし、久坂玄瑞の文章にも「議する者曰く、高山彦九は奇人或は狂人なり、竟に狂を以て死すと。是れ皆仲縄先生を知らざる者、何ぞ共に語るに足らん」という形で、「奇人」と用いられている(三上卓『高山彦九郎』所引「俟采択録」)。このうち、後者の事例などは、世間一般での評価が芳しくない意味での「奇人」であることを窺わせるもので、幕末期にその評価が一転したことを思わせる。

 現在の高山彦九郎は、繰り返し言うまでもなく、土下座のオジサンに成り下がっている。この凋落は、これまた言うまでもなく、太平洋戦争での敗戦を機に起きたことだ。そしてその背景を推測すれば、明治以降に鼓吹されて民間レベルにまで浸透していった皇国史観の消長が色濃く反映しているように思われる。五・一五事件の三上卓が伝記をまとめているというのも象徴的なことであるが、維新の時代が憧れの眼差しで眺められていた頃には、高山彦九郎は紛れもない崇拝の対象だった。

 余談だが……、三条京阪にある「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」の碑は、碑文が意味深でもある。その末尾に曰く「偶々大東亜戦争勃発シ金属供出ノ国家的必要ニ迫ラレルヤ即チ国士ノ心ヲ体シ召ニ応ス 時ニ昭和十九年春季皇霊祭ノ日ナリ」と。昭和十九年、戦時中の金属供出に身を以て応じたことが讃えられている……なんていうと少し解釈が遊びすぎになるか(詳細はフィールドミュージアム京都のいしぶみデータベース参照)

 なお銅像の横にある「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」の碑についてだが、ネット上には「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」という名前が広まっているようだ。これには少々疑問がある。碑の表側にあるのは「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」という刻字であり、背面には石碑の由来が記されている。石碑の名称として用いるのであれば、題字として掲げられているものがあればそれを用い、ない時には一番目立つところの文言を利用するのが普通である。いしぶみデータベースでも「高山彦九郎先生皇居望拝趾」としている(「之」を省いていることは不問)のだが、ネット上で多く目にする「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」というのは、石碑の建立主体の名前である「高山彦九郎先生銅像趾跡記念建碑会」から勝手に作られたもののように思われる。そしておそらく、それを最初にやったのはウィキペディアの記述であり、多くの人が無自覚無批判にそれをコピーしてしまっている結果、石碑の名称として広められているのではないだろうか。「土下座」という愛称は、間違いとわかっていても、時代の風潮を映し出しているようで面白いから、当方もわざと使ったりするのだが、「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」という恣意的な命名はいただけない。

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写真左:高山土下座像と皇居望拝之趾の碑(奧。写真クリックで拡大)
写真右:皇居望拝之趾の碑の背面(写真クリックで拡大)
 
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by office34 | 2010-11-01 17:51 | 街角の風景
2009年 10月 07日
古い絵はがき
 世の中には「絵はがき」なるものが存在しているらしい。有名観光地へ行くと、土産物屋の軒先に何セットか並べられているということだ。たとえば清水門前は五条坂に軒を連ねる土産物屋、あるいは新京極の店々などにおいてである。その手の観光絵はがきは、旅先から便りをしたためる際に使われたのか、あるいはお土産ないし記念品として買い求められていたのだろう。しかし、この絵はがきなるもの、たぶんにその役割を終えている。実用面から言えば、手紙やはがきが通信手段の主役から転落してすでに久しいし、写真という側面で見てもコンパクトなデジカメや携帯電話のカメラが当たり前になって世の中の皆人々がカメラを持ち歩いているのなら、他人の撮った写真を買い求めて何するよりも自分で撮ってしまえというのが普通である。

 そういうご時世だからなのだろうか、今や絵はがきなるものはアンティークグッズとして扱われている。といっても、そういう扱いを受けるのは、絵はがきが出まわり始めた明治大正頃のレアものから、せいぜい昭和三〇年代四〇年代頃までのものであって、いま現在、店先に並んでいる絵はがきなるものには、果たしてどのような需要があるのだろう。絵はがきが売られているその界隈が観光名所であることを示す小道具?、せいぜいそのあたりなのではなかろうか。

 現代の絵はがきはさておき、当方も、京都限定ながら、古い絵はがきなるものには興味があって、かつて数点、買い求めたことがあった。いわゆる「京都の観光名所」を撮ったもので、清水寺や金閣寺などお馴染みのラインナップが並ぶものである。それらをパラパラ見ていて、ふと気になった。なるほど写真としての出来がいいからはがきにしてみたいと思えるものがある傍ら、説明がなければ何を撮っているのか分からないようなものもあるのだ。売り物になっていたのだから、前者のパターンがほとんどと考え勝ちだが、実際のところ、後者のケースも少なくない。そこには、たぶんに「絵はがき」なるものが成立する事情が絡んでいるのだろう。

a0029238_12494949.jpg たとえば金閣を撮った一枚(写真クリックで拡大)。放火事件以前のものと思ってはいるのだが、根拠はない。それはともかく、これなどは写真としての出来はいいと思う。カラー写真に慣れていると味気なく思えてしまうのは仕方ないところだが、前面に鏡湖池を入れて湖上に浮かぶ金閣をうまく表現している。現代の写真でも同様の構図が多いところを見ると無駄口を叩くまでもなく、良し悪しを言うのなら良いの方に入れて問題は無いはずだ。同様に嵐山を借景に渡月橋を撮ったものなどもまたいい写真である。現代的な評価では陳腐な構図と言われたとしても、嵐山および渡月橋のイメージがその一枚で十分に表現されるからである。

a0029238_12504862.jpga0029238_12515053.jpg
 一方、小振りな唐門めいたものが写っている一枚(左)、およびどこかの社殿と思われる一枚(右)、これらはどうだろう。東大谷御廟だと言われるとなるほどと頷けるし、平野神社だと言われると、ああそうだったかとなってしまうのだが、言葉を変えると、そういう説明がないと、どういう意図による写真なのかが分からない。言うなら、写真だけでは自立できていない写真なのである。

 いわゆる観光絵はがきなるものには、この手の自立力に乏しい写真がまま見受けられる。こういうことは判断基準を明確にし、かつ厳密な統計処理をしなければ、無責任な放言に終わってしまうのだが、当方の印象レベルでいえば、そうなっている。どうしてだろう。思うに、観光絵はがきを成り立たせる、もう一つの力が大きかったからではないだろうか。それが、ネームバリューという力である。

 東大谷御廟などまさしくその一つ。親鸞上人の墓とされるこの場所は、写真的にアピールするものがどうのこうのではなく、「東大谷御廟だ」というだけ十分なのである。信者にとっては置き換えのできない聖地としてのネームバリューがあるし、他の宗派の者にも四の五のを挟ませない存在感は持っていたことだろう。平野神社もそうで、現代では早咲きの桜名所として喧伝される場合も多いが、昔はそういった側面よりも、官幣大社であるとか式内社であるとかの、格付けの高さや由緒で知られていた場所である。それだけのネームバリューがあるからこそ、ビジュアル要素はなくてもそんなのどこ吹く風、「平野神社だぞ」というだけで絵はがきになり得たと考えられる。昭和の初め頃と思われる絵はがきセットを見ていると、桃山御陵(明治天皇陵)や乃木大将墳墓などが入っているのも、似たような事情からだろう。

 こういった具合に地名に伴う価値は、目には映らない歴史であることも多いが、時にはその逆、視覚的に見映えのするものであることもある。鏡湖池に浮かぶ金閣や嵐山を借景とした渡月橋などはその一例だったことになる。絵はがきという媒体が視覚に訴える側面が強いから、金閣や嵐山が絵はがき的に成功していて、東大谷御廟や平野神社が奇異に思えるだけで、実は根っこのところでは同じだったのかも知れない。観念的な歴史なのか即物的な視覚なのか、いずれにせよ、絵はがきに採用されたのは、ネームバリューのある所、すなわち「名所」だったのは確かである。
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by office34 | 2009-10-07 01:04 | 京都本・京都ガイド
2009年 09月 14日
As Time Goes By
 近くを通りがかって気が付いたのだが、河原町三条東入の東宝公楽ビルがきれいさっぱりなくなっていた。映画館の東宝公楽が無くなるという話はだいぶ以前に聞いてはいたが、現実に建物もろともに消え失せてしまうと、感慨めいたものも湧いてくる。東宝公楽に限らず、京都スカラ座(現在はミーナ京都)や八千代館(現在はWEGO)などが消える時にも、それなりに考えさせられるものがあったのだが、東宝公楽にも来るべき時が来たということなのだろう。

 この東宝公楽の場所は、昔は大沢商会が店を構えていたところだという。京都の近代史を概観する際、よく目に留まる大沢善助が創業した会社である。大沢商会の建物については、田中泰彦氏の『京都慕情』(昭和49年、京を語る会)にも写真が載っており、その説明には、
明治29年三条小橋西入で大沢商会は開かれ、金庫及び衡器と時計の販売をした。明治44年9月3万7千円で地上三階地下一階のレンガ造り、京都の商館建築として長い間市民に親しまれていたが、昭和36年頃に新町五条に移転し、大映公楽に変身した。現在は東宝公楽に模様がえをした。
とある。輸入商社の大沢商会が映画会社の大映公楽に宗旨替えをしたかのようにも読めるが、そうではない。大沢商会が移転した後、ここに大映公楽が入ったというのが正しいはずである。もとの商館がいつまで存続していたかなどの細かいところは分からないが、商館建築がそのまま映画館として活用できるとも思えないから、すぐに別の建物となったのだろう。そして昭和47年(1972)に大映が破綻した後、東宝の上映館となったのである。

 この東宝公楽の二軒隣にあるのが、新選組ネタでたびたび取りあげられる池田屋跡地である。数年前まではパチンコ屋で、店の前にひっそりと石碑が建てられているのがアンバランスで面白かったのだが、そのパチンコ店も今はない。その跡地はしばらくゴースト化していたが、最近になって居酒屋フランチャイズの「池田屋」という店になっているようだ。池田屋という名前の資産価値を思うとパチンコ屋よりはだいぶ有効利用しているように思えるが、「旅籠池田屋の面影を再現云々」(同店のチラシより)とかいうのはどうだろう。ちょっとあざといかも……

 同様に時と共に移り変わるといえば、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡地もまた最近になって入れ替わった。かつては京阪交通社の営業所があり、店前の石碑がこれまたアンバランス感を醸していたが、つい先日、工事が始まっており、別の店になるのだなと思っていたところ、こちらはコンビニとなってアンバランス感をさらに増幅させていた。あまり見映えのするものではないが、何かの記録になるかも知れないので、写真でも貼ってみよう(写真クリックで拡大)。


在りし日の東宝公楽と現在
(上は三条小橋方面より撮影、下は逆方向から)
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【左】池田屋跡地(赤丸内が石碑) 【右】近江屋跡地(赤丸内が石碑)
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by office34 | 2009-09-14 01:23 | 街角の風景
2008年 11月 07日
不思議な建物(ヒラメビル)
a0029238_174940100.jpg 久しぶりに「変なモン」カテゴリーのお話。百万遍近くに「アイワオート」というバイク屋がある。お店の方はごく普通のバイク屋だが、その建物はかなり目を引くものになっている。まず、第一に京都の街なかでも時おり目にとまるレトロなコンクリ建造物である点。レトロ建造物マニアたちの目にも時折とまっているらしく、WEB上にはいくつか報告が挙がっている。当方も調査はしていないので勝手に想像するところだが、昭和初期ごろだろうか、ともあれ、上の写真は、その建物を正面から撮ったものであり、レトロ建造物らしい重厚さも漂っている(写真クリックで拡大)。

a0029238_17532524.jpg この手の建物は機能性とは無縁の装飾に特徴があるのだが、この建物もその例にもれず、上階部分に施された文様風の彫刻や、中央の三つの窓と左右それぞれ三つずつの窓で、取り囲む装飾が違っていたりと、細かく観察すると、なるほどなぁと頷かされる要素はここかしこに認められ、確かにマニアたちを満足させるのもよくわかる(写真クリックで拡大)。


a0029238_1821442.jpg ところが、この建物を評するならば、実はそのレトロ性を前面に押し出すのではなく、建物の持つ奇妙さを強調したい。というのも、建物全体として眺めると、なんとも奇妙なオブジェに見えてしまうのだ。それは前面からの写真ではわからない。そこで、左前から撮った一枚、そして右側から撮った一枚(写真クリックで拡大)。

 こうやって並べると、もう見当も付くだろう、古い建物の前面部分だけが取り残されたかのようになっているのである。左前からの一枚から判断すると、そこに写っている幅が、仮にもとの姿を伝えているとしても、マッチ箱のようにかなり薄っぺんぺらな印象が残る。この近所にある古い建物、たとえば進々堂の店舗などと比べてみても、異様に奥行きが短い。言ってしまえば、表通りに面している部分だけを重厚に取り繕ったかのような感じなのである。それに加えて、右側にまわると、そこにあるのは、マッチ箱どころか、あ、ヒラメビルだ!という発見、本当に表面だけを取り繕ったのかどうかさえ知らないのだが、その取り繕った部分だけが残ったかのような感じで、今出川通に面した部分だけが薄く取り残されている。

 まあ、こんな建物の傍らに仁丹さんでも貼られていたら、ふさわしい場所にふさわしいものがあるもんだと納得してしまうに違いない(ちなみに、ここから最寄りの仁丹さんは、今出川通を渡ってすこし北上したところにある、田中関田町のもの)。
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by office34 | 2008-11-07 18:11 | 変なモン
2008年 04月 27日
消えゆくものども
 25日、河原町六角にミーナ京都がオープンした。かつては京都宝塚劇場や京都スカラ座といった映画館が入っていた「京都宝塚ビル」で、長らく改築工事が続いていた。工事期間中は、吉田初三郎の鳥瞰図をデザインしたボードが掲げられており、時折、足を止めて絵を眺めていく通行人もいた。

 当方の趣味からいって、実はミーナ京都それ自体に関心があるわけではない。フーンの一言でスルーしてしまう部類だろう。ただ、河原町の景色が変わりゆくなかでの、一つのエポックになるという意味では、ミーナ京都のオープンは記憶にとどめておいたほうがいいのかもしれない。というのも、京都の繁華街といいながら、やたら本屋と映画館が目立っていたというのが、古い河原町のイメージであり、その後者、「映画館が多い」という印象を際だたせていたのが、その場所にあった京都宝塚ビルだったからである。このビルには、本屋のほうでも、京都における大型書店の代名詞だった駸々堂(同社倒産後に入ったのはブックファーストだったので、やはり大型書店だった)が入っていたこともあり、本屋と映画館の界隈という雰囲気を作っていた大元だったわけである。

 実際のところ、映画館といっても、このビルにあった京都宝塚劇場と京都スカラ座ぐらいで、数量的に多かったというよりは、印象のレベルで多そうな雰囲気を醸し出していたというほうが正しい。新京極に入ると数量的にも増えたのだが、河原町に限定すれば、あとはせいぜい三条東入るの東宝公楽があるくらいである(「小屋」を入れるなら、太古の昔に息絶えた朝日シネマも河原町エリアだった)。さらにいえば、印象云々にしても、実は、映画館のシンボルだった独特のタッチで描かれた絵看板、それがが他の店を圧倒するようにドーンと大きく掲げられて、やたら目立っていたからだろう。巨大看板や各種ネオンサインなど、他業種のアピール力が大きくなり、絵看板文化が衰退しつつある中では、目立ち方そのものも小さくなっていたのも事実だから、映画の街という内実は、遙か昔の段階で死滅していたはずである。

 しかし、実態が伴わなくても、河原町界隈が映画の街であるかのようなイメージを保ち続けていたのは事実である。当方にしても、名実ともに映画の世界が輝いていた時代は知らない。それでも、河原町へ出て映画でも見ようか……といったノリは普通に理解できた。今回のミーナ京都のオープンは、同地のビルが映画とまったく関係のないものになったという意味で、象徴的なものがある。

 ところで、映画館の絵看板の話だが、MOVIXやTOHOシネマのようなシネコンでは、さほど目立っていないような気がする。いまや描き手がいなくなったのか、一本だけを大々的に取り上げるわけにいかないのか、はたまた出来合のポスターを貼っ付けておくだけで事足りる時代なのか、絵看板そのものが、もはやレトロな雰囲気を漂わせている。そんななか、京都の文化遺産としても、こっそりと推奨していた、かのカサブランカも消えていることに、最近、気がついた。

a0029238_1942620.jpg 新京極公園の向かいにあった成人向け映画の専門館、八千代館で、上映内容と関係なく、掲示されていた、映画「カサブランカ」の絵看板である(写真クリックで拡大:2004.06撮影)。昨年末に八千代館が閉館したことは知っていたが、かの絵看板がどうなるかということについては、不覚にもあまり気にしていなかった。先日、近くを通りかかったので、寄り道してみると、八千代館の建物をつかってWEGOが出来ており、カサブランカの場所には、WEGOの看板が出ていた。

 かの絵看板は、「瀬戸内少年野球団」のロケで使うために制作されたもので、「カサブランカ」上映時のオリジナルではないらしい。したがって問答無用の絶対的価値があったわけではなく、象徴的な意味合いでの価値だったのだが、それでもやはり、無くなってしまうと、残念に思わざるを得ない。

 まあ、八千代館がWEGOになり、京都宝塚ビルがユニクロのミーナ京都になるというのも、時代の趨勢を映し出しているようだが(HANJIROのビルも元々は美松劇場だったような?……記憶不確か)、消えゆくものどもに対する哀悼の意をこめて、軽いイタズラを……(写真クリックで拡大)。
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by office34 | 2008-04-27 19:07 | 街角の風景
2007年 03月 27日
かわる河原町、かわらぬ河原町
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またしても怪しげなつぎはぎ写真を出してみよう(写真クリックで拡大)。前回の高島屋版とは違って、今回の写真は微妙に水平移動しながら撮った写真をつないだシロモノである。で、この風景についてだが、ノスタルジックな香り漂う家並みといって、どこかの地方都市なんて思ってはいけませぬ。これは紛れもなく京都の一風景、しかも京都の繁華街の代名詞でもある河原町通なのである。

もっとも繁華街として知られる河原町通とは、三条以南・四条以北に限定すべしというのであれば、この写真の河原町今出川下るのあたりは繁華街エリアからは外れている。とはいっても、郊外なんてものではなく、街中もド街中に入っているのは確かである。

今回この写真を取りあげたのは、この五軒の並びが頑なに昭和を主張しているのが、かねがね気になっていたからである。五軒のうち、ど真ん中は「みつばち」という甘味処で若い人向けの情報誌にもたびたび紹介される比較的新しいお店である。だが「みつばち」を除いた両サイドの四軒はかなりのベテラン選手。左から順に、「野村商店」、「大黒屋地図店」、一軒おいて「安藤電機」、「アリゾノ運動具店」と並ぶ。中でも目を惹くのは、安藤電機が大々的に掲げる「ポンパ」の看板だろう。この文字面にピクピク反応したり、飛行船の話題を持ち出したりするのは大阪万博世代と相場が決まっているのだが、そのポンパの大看板がまだまだ現役で頑張っているあたりがポイントなのである。仁丹の町名板と同じように、街角にさりげなく(というより、かなり派手に・・・)残る年代物といっていいはずである。

そして、これが河原町通においての話だから、なおさら面白い。三条以南の河原町は、ひっきりなしに新陳代謝を行っており、丸善やスカラ座といったシンボル的な存在だけでなく、以前とりあげたヘップバーンのいる甘栗屋もつい数ヶ月前に消えてしまった。新・景観条例との絡みもあって、現時点で目新しさを謳っている建物も数年のうちに模様替えをして、取り繕ったシックさを主張するようになるに違いない。そんなことを思うと、かわらぬモノの存在感を改めて感じさせてくれる風景でもある。
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by office34 | 2007-03-27 03:22 | 街角の風景
2007年 02月 01日
時代の変わり目の景色
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 特に何かの狙いがあったわけではないが、通りがかりついでに四条河原町で高島屋の写真を撮ってみた(写真クリックで拡大)。四条河原町の東北角から南方向の一枚と西方向の一枚、その二枚を張り合わせて超広角風にしてみたのだが、ヒラメでもないかぎり、捉えきれないワイドな視界になるだけあって妙に新鮮に思えてしまう。現実に高島屋の前を通っても、そこはアーケード下の人ごみだらけという印象しかないのだが、こういう風にあり得ない目線での遠望をかけると「高島屋ってこんなにでっかかったのか」と驚かされてしまうのである。

 それともう一つ、こういうアングルでの写真を作ってみて改めて感じ入るのは、角地三軒の奮闘ぶり。高島屋そのものの巨大さがクローズアップされるだけに、「新雪」「尾州屋老舗」「池善」の三軒が実際以上に大きく見えてくる。買収を拒否してン十年ということになるのだろうが、高島屋のリニューアルは角地三軒のレトロさを強調することになり、その結果、剥がすに剥がせない吹き出物のような存在感となっている。そういえば、確か烏丸今出川南東角のビルも似たような状況に立ち至っているハズだが、ある意味、時代の変わり目の景色と言っていいのかも知れない。
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by office34 | 2007-02-01 21:00 | 街角の風景