Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
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15 16 17 18 19 20 21
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2013年 10月 31日
祇園閣とキッチュ ~キッチュ愛(1)
かなり定義がおぼつかないのだが「キッチュ」という言葉を取り上げてみる。まずは辞書的な定義からスタートするのが決まりなので、手許にあるモノの本から引用する。
Kitsch(独)。【原義】ドイツ語の<抛りなげる、棄てる>の意からきており、大した価値のないもの、ただの生計のための美術作品にすぎないもの、大衆の趣好にただ迎合するにすぎないものをさす、軽蔑的な意味から生じた。【発展】これが次第に、ナチ時代の醜悪な新古典主義的な建築様式で、しかも大衆の感動を糾合しうるような、コケオドシの美に対しても用いられるようになった。(由良)
『文芸用語の基礎知識(88五訂)増補版』(昭和63年,至文堂)

発行年代からして、すでに年代物の記述と見られても致し方ないが、スタート地点の理解としては、大衆迎合的な俗悪趣味をいうものと見ておいていい。

これに対して話がややこしくなってくるのは、キッチュなるものを否定の対象に押し込めるのではなく、露悪趣味というべきか、ありふれた低俗さを突きぬけた超弩級の低俗さを面白がる視点が出てくるからだろう。マイナスのものでも、度が過ぎると逆にプラスになるという理屈である。

さて、こういう話を始めたのは祇園閣を取り上げた折り、かの楼閣を「俗臭」の一言で切り捨てたことがあったからである。祇園閣に登って眺める瓦屋根の町並みは、あの場所からでしか得られないすばらしいものである。その意味では、眺望スポットとしてなら好意的に捉えられるのだが、楼閣自体に対しては「俗臭」という言葉以外には適当な評価は見いだせない。それでもその俗臭さこそが魅力だと言うのであれば、そこに登場するのがキッチュ愛なるものだろう。とはいえ、京都には、京都タワーというキッチュ界の大物がいるし、時代祭というこれまたキッチュ界のビッグイベントが行われている。それらを向こうに回して、果たして祇園閣でキッチュ愛が語れるかどうか微妙に不安だが、あながち可能性皆無の視点ではないと思う。

a0029238_342467.jpg
高台寺から眺めた祇園閣








言葉での説明ではややイメージがぼやけてしまうので、試しに「キッチュ 画像」でgoogle検索を掛けてみると、なるほどと頷かされる結果を返してくれる。
a0029238_344422.jpg
参考までに……検索結果






【キッチュ愛】
祇園閣とキッチュ / 俗悪・バッタもん・キッチュ / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(1) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(2) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(3) / "AVANT-GARDE AND KITSCH"(4) / 建築様式とキッチュ / 京都の近代建築 / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(1) / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(2) / 古典・帝冠・キッチュ・モダニズム(3) / キッチュの大衆親和性 / 祇園閣のキッチュ性 / 祇園閣から京都タワーへ / 京都タワー擁護論 / 本物でないということ / 時代祭、大いなる仮装行列 / 祇園閣・京都タワー・時代祭

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by office34 | 2013-10-31 03:06 | 街角の風景
2013年 10月 01日
豐烈曜後之碑
大雲院の境内に置かれたもう一基、扁額にいう「豐烈曜後之碑」は、なかなかの難物である。まず文字数が圧倒的に多い。しかし、幸いなことに、書き取ってくれている方がおられるようなので、そちらの資料を拝借することにしたい。

ただし注釈が必要で、「道明の古文書及び金石文」と題されたそのサイトには「宮崎の歴史的資料です」とのサブタイトルがあるところから明らかなように、宮崎県内の石碑等の資料なのである。そのサイトに掲載されている事柄と大雲院とを結びつきを理解するには、「豐烈曜後之碑」の近くに置かれた副碑を見なければならない。その碑文を書き出すと以下の通り。
この、佐土原藩戦没者招魂塚および顕彰碑は、百有余年の風雪に耐えながら、中京区寺町通りの一角に、地元有志や崇敬者に温かく見守られていたが、碑石の風化荒廃甚だしく今まさに朽ち果てようとしていた。
 佐土原町は、郷土先人の遺業を顕彰し、これを後世に伝えるため、当大雲院の協力を得て、この地に碑石を復元移転しその霊を慰めるものである。
昭和五十八年十月
宮崎県佐土原町長 戸数繁樹
宗教法人 本山龍池山大雲院
「豐烈曜後之碑」の本体は、大雲院が寺町にあったころ、その境内か門前に立てられていたに違いない。しかし、その状態が悪かったらしい。そして、大雲院が現在地に移転するに伴って、ともに移された……わけではなさそうだ。副碑がいうところによれば「復元移転」されているのである。普通に考えれば、レプリカを作ってそれを現在地に置いたということだろう。それでは、本体はいずこに、となるのだが、先の「道明の古文書及び金石文」には、碑文に続いて
石塔者、京都市四条大雲寺境内に建立せしを、
昭和五十八年十二月十七日貰い受け、 
佐土原町高月院境内に移し建立されている。
昭和五十九年四月十五日伊豆道明採拓
平成元年一月十四日写之
平成二十年九月二十七日校正

と記されている。この情報と、現在の大雲院境内にある副碑を付きあわせれば、おおよその顛末は見えてくる。オリジナルは宮崎県佐土原町の高月院に移築され、大雲院にはそのレプリカおよび招魂塚が立てられ、合わせて事情を記した副碑が置かれた(昭和58年)、ということだろう。なお大雲院の移転は昭和48年なので、あるいは10年間は寺町に取り残されていたのかもしれない。このあたりは詳細未詳である。

それはさておき、肝心の本文。「道明の古文書及び金石文」に乗っかかる形になっているわけだが、一応、写真にも収めているので、それと付きあわせたうえで以下に掲載する。

-碑文-
豐烈曜後之碑
余職於史官纂修時事毎至叙戰死士之事未嘗不閣筆而歎也鎗刀電撃彈丸雨注遇而避之者人之常情恐死在前」也然而蹈屍★血奮進勇往以身殉難視死如帰者雖三百年養士之効使之然未嘗不由義勇英烈氣之所致也自□」朝廷定大中小三等之藩佐土原固列於小藩之等而其士之勇強戰没之多反出於大中藩之右語兵之強者輒曰薩」長土曰大垣佐土原者雖其士之勇強使之然亦未嘗不由□藩公平素訓練之所致也奥羽北越之戰佐土原藩大小」七十餘戰其死事之臣擧而言之則後四月三日死於下總國船橋驛之戰者三人戰兵蓑毛直行夫卒巳之助常吉也」五月十五日死於武藏國上野之戰者半隊長能勢陣善也十六日死者戰兵青木宣雪也廿日死於筥根之戰者豆相」軍監屬御牧篤行也廿二日傷於武藏國飯野之戰而七月三日死於常陸國平瀉者小隊長谷山清理也六月廿八日」死於新田坂之戰者戰兵酒匂景道也七月十三日死於陸奥國岩城平之戰者六人戰兵牧野田成繼児玉實行壱岐」廣信夫卒新吉嘉十庄吉傷而後死者戰兵圖師秀實也廿八日死於二本松之戰者夫卒甚袈裟也八月廿三日死於」會津之戰者二人戰兵伊集院珍信夫卒萬吉也九月十五日死於青木村之戰者十九人長官新納久暢監軍検本成」及鶴田祐業分隊長籾木武徳戰兵池田直道植村從善厚地助利瀬戸口貞盈立山義方大町吉之佐藤信良間世田」儀政原能思谷山純實児玉義員工藤祐紀宇宿州治従士林清吉夫卒千太郎鐵藏也同日死於出羽國久保田境村」之戰者四人戰兵上山徳明黒木武敏成合實武間世田儀象也十六日死於上淀川之戰者四人戰兵長友貞直夫卒」冨藏徳藏龜吉也十七日死於會津之戰者四人監軍三雲種方戰兵郡司盛苗夫卒吉藏幸之助也凡十三戰而死者」四十有九人嗚乎可謂多矣〓也會津之謝罪乞降也□官軍總督賜褒状而署於薩長土大垣四藩之列也盖□公之」平素訓練也曰吾藩以祖先之功受宗藩之分封於今三百年及於吾躬未嘗顯著繼紹之績方今内訌外虞并至天下」日多事吾可報之秋至矣汝臣僚克體此意勿敢逸遑其出師也又令曰宗藩之兵勇武甲於天下伏見鳥羽之戰以徳」川氏之強大挫之於三戰之間使大坂之雄城不獲保於頃時可不謂強哉吾藩為之支族天下之所共注視而萬一兵」弱取敗非特無辭於祖先又足以辱宗藩取笑於天下是役也汝曹勉矣堂下之士皆泣既而俯伏對曰臣等之報國唯」此時為然戰而不勝國之辱也敗而奔臣等之罪也辱罪在身生還亦何為臣等雖至愚不以一生代二者也吾□公少」寛意焉又泣然則其士之勇武果□公訓練之力而巳□公聞其死也設祭諭告曰傳不言乎死於王事則賞之能執干」戈以衛社稷則賞之使爾等生而列余左右其為忠為良無容疑矣猶是臣子之常兮百官之職司其溘焉以死數尺之」碣四時之奠鬼而不餓而巳今
天子下□命朝有死事之報夕則賜葬資聞葬之畢則有賑恤之遺而祠之神之故汝等之死於余雖如失四支汝等死」而有光輝矣盖戰死士之享此祭也非特忠魂獲所依帰而為之父母妻子者亦當忘其悲哀而其幸而不死者以不死」為憾矣□公之振士氣不以術詐而以至誠者如此今又為建招魂之碑題曰豐烈耀後之碑親命余為撰其文謹案□」朝廷褒賞之□詔誥叛賊之顛末與勝敗之詳苦戰之状記於太政官日誌録於史官故不復叙而記□公之使士義勇」英烈至於此之由如此」
    明治元年戊辰十二月 徴士議政官史官薩摩水本成美撰

★:アシヘンに蝶の旁  〓:ワカンムリ+旦  □:闕字  」:行末


訓読を最初だけちょこっとやってみると、こんな感じだろうか。
余、史官に職して時事を纂修するに、戦死せし士の事を叙ぶるに至るごと、未だ嘗て擱筆せざるにあらずして歎くなり。鎗刀の電撃、彈丸の雨注、遇ひてこれを避くるは人の常情、死の前に在るを恐るるなり。然るに屍を蹈み、血を★み……


ともあれ、訓読および通釈はおいおいそのうちにということで。


a0029238_2138544.jpg
豊烈曜後之碑(右)と招魂塚(左)


a0029238_2328975.jpg
副碑

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by office34 | 2013-10-01 23:09 | 歌碑・文学碑など
2013年 09月 30日
祇園閣碑
「豊烈曜後之碑」は後回しにしておいて、「祇園閣碑」の方から。これは漢文ではないので、文意で悩むことはないが、字体にわかりづらい部分がいくつか残っている。

-碑文-
祇園閣碑
東山の麓祇園乃隈真葛ヶ原在り先考鶴彦翁此に別墅を
営み其の域内に高閣を建て名けて祇園閣と曰ふ始め翁
齢九旬にして気益壮なり茲に記念建築を造営して永く
国運の隆昌と旧都の繁栄とを祝福せんこと我企図し工
学博士伊東忠太先生に嘱して案を作らしめ大倉土木株
式会社をして其の施工に当らしめ終世自ら之を□督す
閣三層方三十五尺高さ地を■くこと一百二十尺鉄条を
骨とし■土を筋とし石材を以て之を装ふ磴階盤旋第二
層に至れば既に洛の中外を瞰下すべく第三層に至れば
遠く摂河の平野を望むべし屋上高〓天に冲し尖頂の金
鶴翼を張て九皐に鳴かんと欲す洵に西都第一の異彩な
り翁其の竣成を見るに及ばずして歿すと雖その志や酬
ひられたりと謂ふべし閣は大正十五年七月工を起し昭
和三年六月功なる★間祇園閣の題額は西園寺公望公の
署する処上層扁して万物生光輝と曰ふは鶴彦翁の自書
に係る
     昭和四年五月 聴松大倉喜七朗誌

□:クサカンムリに重 ■:判読不能文字  〓:キヘンに棠  ★:キヘンに眉



祇園閣という建造物をどう評価するかは、それぞれの判断に任せておくべきだが、当方の感想でいうとすれば……

俗臭

この一言に尽きる。

山鉾に似せてみたり、天井に鶴を飾ったり、京に金閣銀閣があるんだからこれぞ「銅閣寺」と言ってみたり。まさに「ワシには金があるんじゃい!」といった叫び声とともに、ペシペシ(←札束で人の顔を叩く音)」と聞こえてきそうで、たまらなく素晴らしい。「祇園閣碑」の碑文に対しても、そんな視点が先立ってしまうわけだが、ひたすら手前味噌を並べての自己顕示欲が炸裂といった感じなので、同じ系列といって間違ってはいないだろう。


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祇園閣碑、扁題は西園寺公望

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by office34 | 2013-09-30 23:19 | 変なモン
2013年 09月 29日
高誉上人顕彰碑
誰も顧みることのない石碑だが・・・・中身はかなり重い気がする。

-碑文-
連年凶荒諸民流離終至饑死者不可勝計我師高誉上人坐
不忍見之救済之意念頻発然一杯之水不能救一車薪之火
茲得十万信檀之助縁天和二年正月八日始開場於当寺凡
三十有九日之間方来之饑民不論男女老少月日毎一人与
孔方十二銭其数合二十六万六千二十九人也於是建一塔
婆為二世利益之供養欲使施者受者有縁無縁並已死未死
之輩共超困苦之海同到安養之界是老師之志願也
  天和二壬戌年 三月十五日 大雲院第九世光誉真龍建


-訓読-
連年、凶荒して諸民流離し、終に饑死する者、勝へて計るべからず。我が師、高誉上人、坐してこれを見るに忍びず、救済の意念、頻りに発る。されども一杯の水は一車薪の火を救ふに能はず。茲に十万信檀の助縁を得。天和二年正月八日、始めて当寺に開場し、凡そ三十有九日の間、方来の饑民、男女老少月日を論ぜず、一人ごとに孔方十二銭を与ふ。其の数、合はせて二十六万六千二十九人なり。ここに一塔婆を建て二世利益の供養と為し、施す者、受くる者、有縁無縁、並びに已死未死の輩をして共に困苦の海を超え、同じく安養の界に到らしむ。是れ老師の志願なり。

   天和二 壬戌年 三月十五日 大雲院第九世光誉真龍、建つ




布施の功徳を自己満足的に謳っているのではなく、「施す者、受くる者、有縁無縁、並びに已死未死の輩をして共に困苦の海を超え、同じく安養の界に到らしむ」の一節はキュンとくるかも。


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高誉上人顕彰碑

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by office34 | 2013-09-29 23:46 | 歌碑・文学碑など
2013年 09月 28日
大雲院の石碑群
このところ、いろいろあれこれがあって沈黙モードが続いていた。それはそれで仕方のないことでもあったが、今日、大雲院・祇園閣を訪れる機会があったので、少しだけ書いてみる。

といっても大雲院の来歴や祇園閣の紹介だったら、他でもたくさん出ているのでパスするつもりでいる。というのも、今回のお目当ては大雲院の敷地内にある石碑だったからである。前回に訪れた時にも目には入っていたが、詳しくチェックせずに放置しておいたものである。この大雲院、普段は非公開で特別公開の時にしか入れない。そんな場所にある石碑なのだから、せっかくの機会は大切にせねばならなかったはずである。ところが前回は「いしぶみデータベース」あたりを探せば出てくるだろうとタカを括って帰ってきてしまっていたのである。結果、なにかゴチャゴチャ書いた石碑があったなという感想だけが残ってしまっていた。

それが三年前だったか、四年前だったか、そのくらいの話である。そんな大雲院・祇園閣がこの夏の特別公開のラインナップに加わっていた。夏タームは七月から始まっていたが、例によってズボラをかましているうちに、九月末のタイムリミットが迫ってきていたものだから、このたび出向いてみたという次第である。

以上が前振りで、ここからが本題。

大雲院の敷地内にある石碑ということだが、目についていたのは三基である。拝観入口となっている南門から本堂前に向かう参道に一基(A)、本堂前に一基(B)、そして祇園閣の北側に一基(C)である。このうち、BとCには扁題がついているので、(B)「豊烈曜後之碑」、(C)「祇園閣碑」と呼んでいいはず。これらに対して(A)は時代が一回り古く、天和二年(1682年)建立の旨が記されている。内容をみたところ、大雲院の高誉上人が飢饉で苦しむ人々に救済を施した云々との内容のようなので、高誉上人顕彰碑と呼べばいいだろう。次回以降、これらの三基について碑文の確認しながら見ていくことにする。

あと、これらの石碑以外に、山口誓子句碑もあったことも言い添えておこう。


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高誉上人顕彰碑


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豊烈曜後之碑(右)、実はレプリカ


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祇園閣碑、扁題は西園寺公望


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洛中のいづこにゐても祇園囃子 誓子

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by office34 | 2013-09-28 21:42 | 歌碑・文学碑など
2013年 01月 17日
東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時(1)
先の記事で話の枕に使った「東山三十六峰なんちゃらほい」について、少し調べてみた。耳の奥に残っていたかの台詞の素性についてである。問題の所在を明確にするために、探索対象の言い回しをを以下のように絞ってみた。
  • 「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時」から始まる
  • 「鐘」「剣戟(もしくはそれに類する語)」を含む
  • 広く流布していたことが確認できる
そして、とりあえずのスタート地点で分かっているのは、講談か何かその手の話芸、あるいは月形半平太が関係する、といったあたりである。

さて極めて曖昧模糊とした状態なのだが、仮に講談であるとすれば、それが人気を博した演目であったとしても、一言一句がきちんと文字の記録となって残っているわけではないから、話は暗礁に乗り上げる。それに対して月形半平太関連であれば、少しは方向性が見えてくる。映画や舞台ならその脚本で探すことができるからである。というわけで、まずは月形半平太からのアプローチとなった。

そもそも月形半平太とは何か。時代劇ヒーローというだけでは不親切なので、少し踏み込んで紹介しておく。「月形半平太」とは、行友李風が「新国劇」(劇団名)に書き下ろした作品名であり、それに登場する主人公の名前である。舞台劇「月形半平太」の初演は大正八年(1919年)の京都明治座。ちなみに明治座は、新京極にあった劇場で、後には映画館の松竹座となる、すなわち現在のMOVIX京都である。劇中での設定は、幕末の尊皇攘夷運動が熱を帯びた頃の長州藩士で、秘密裡に雄藩連合を画策する剣の達人となっている。名前が重なることから武市半平太がモデルとする説が行われているが極めて不審。むしろ坂本龍馬の長州藩士版とみた方がよさそうな雰囲気である。同じく行友李風による「国定忠治」と並んで「新国劇」の看板演目となり、俳優の澤田正二郎の名前とともに大正文化を語る上では重要項目の一つである。また舞台で人気を博したことから映画作品も作られ、初期のサイレント時代のものから戦後のものまでの合計16本が製作された。映画化第一作は、大正十五年(1925年)の連合映画芸術家協会によるもので、監督・衣笠貞之助、主演・澤田正二郎。

以上が月形半平太のアウトラインなのだが、件の台詞が舞台劇「月形半平太」に関連するとすれば、その脚本にあたってト書きあたりから調べ始めることとなる。一方、映画「月形半平太」に出所があるとすれば、当時はサイレントだったわけだから、活動弁士の口上である可能性が高い。その場合は講談と同じで正確な記録が残っているかどうかは怪しい。

以上の方向性で、府立図書館に出向いて調べてみた。オンライン検索が可能な蔵書からは、実際に使われたらしい映画の台本がヒットしたのだが、あいにく戦後の東映映画(監督・マキノ雅弘,主演・大川橋蔵,1961年)のものだった。それでも、冒頭のト書きをみると、雰囲気は探し求めているものと近そうな感じもする。
春、霞たなびく東山三十六峯。
橋上に、時ならぬ騒ぎが起り、行き交う人が道をよける。
その間をぬつて、逃げて来る長州藩士数人。
京都所司代見廻組の一隊がその後を追う。町の人々、見送つてささやきあう。
遠景に東山三十六峰を配してのチャンバラと見れば、件の台詞はやはり月形半平太と考えるのがよいのかも知れない。しかし、当方が最初の段階で設定した方向からでは、ここで打ち止めになってしまう。講談もしくは活弁であれば、話芸であることから資料が残っているとは限らないし、「月形半平太」をキーワードにして調べると、この台本と大映作品のVHS版「月形半平太 花の巻 嵐の巻」(監督・衣笠貞之助,主演・長谷川一夫,1956年作品)しか出てこなかったからである。また行友李風からたどってみても、「月形半平太」以外の作品がいくつかヒットするものの、どれも昭和以降の作品群で期待薄、という形で諦めモードになっていたところ、図書館の司書さんから驚きの情報が寄せられた。


東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時(1)/(2)/(3)/(4)/(5)

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by office34 | 2013-01-17 14:22 | 京都本・京都ガイド
2013年 01月 09日
「東山三十六峰」と「千代の古道」
いつごろの話か、まったく定かではないのだが、テレビのCMか何かで「東山三十六峰・・・・・・鐘の音・・・・・・闇夜に響く・・・・・・剣戟の・・・・・・」とか何とかの語句がたらたらと並べられていたのが記憶に残っている。はるか昔のことなので記憶が書き換えられている可能性なきにしもあらずだが、「東山三十六峰」という言葉を聞いた初めての時だったように覚えている。

ほとんどあてにならない記憶ながら「東山三十六峰」「鐘」「夜」といったあたりをキーワードにして調べてみると、講談の台詞だとか、「月形半平太」シリーズの冒頭に登場する口説だとかの情報が出てきた。
東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時。夜空に響く鐘の音が陰にこもって物凄く......。
この台詞だろう!と言われると、そんな気もするし、なんとなく違っていたような気もする。いずれにせよ、大衆芸能での人気台詞だったようだ。

そもそも何故にこんな話を始めたのかというと、東山三十六峰についてちょっと思うところがあったからである。どの山を三十六峰と同定するのかといった関心が強いのはネット検索をすれば見えてくる傾向だが、もともとは口調を整える言い回しのようなもので、具体的に三十六の山名が並べられるものではなかったのではないか。三十六峰のリストアップをしている小林利臣さんのサイトでも、「三十六峰」という言葉の用例確認から入り、結果、最初の段階では具体的な山名が伴っていないことも示されている。

このように、漠然とした全体の名称が最初に広まって、それから後に中身が具体化されていったものというと、東山三十六峰以外にもたくさん出てくるかも知れない。昨年、このブログでも触れた「千代の古道」もたぶんそのクチだろう(参考までに)

千代の古道については、確認できた範囲でいえば、『後撰集』所収の在原行平歌がもっとも古い。「嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世の古道あとは有けり」(新日本古典文学大系による)*1というものなのだが、作歌の背景を調べると、光孝天皇が嵯峨院の古例に倣って芹川行幸をおこなった時に詠まれたものだとか。

面白いのは、「嵯峨の山」というのは、嵯峨エリアにある山の名前ではなく、嵯峨院を山に喩えた言葉との解釈が示されている点である。行幸の目的地である芹川の禁野が現在の行政区分でいえば伏見区の方*2であることを踏まえれば「嵯峨の山」が帝の名前であるとする指摘には十分な説得力がある。

そしてもう一つ面白いのは、この歌を本歌取りする形で藤原定家が「嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒」(新日本古典文学大系『新古今和歌集』による)*3と詠むのだが、こちらでは「嵯峨の山」を地名として詠んでいる点である。定家が『後撰集』行平歌の作歌事情や芹川の詳細を知らないはずがないので、意図的な読み換えが行われたとみるべきだろう。

「千代の古道」についていえば、『後撰集』の行平歌ではいにしえの正しき政道とかのニュアンスになるのに対して、定家はそこに空間的な実体を伴う街道をイメージしている気配だが、これもまた意図的なスライドに違いない。歌枕と認知されている「千代の古道」の用例を厳密に調べなければならないので、行平歌から定家歌へ一足飛びに来ているのかどうかは即断できない。それでも本来は概念のみの言葉だったものが、時代が下った後に具体化されたケースと見なしてもいいように思う。

話を「東山三十六峰」に戻そう。どの山が東山三十六峰なのかという同定作業に対する興味や関心が理解できないわけではない。小林利臣氏のように本来の用例を踏まえたうえで、私案三十六峰として列挙するのは筋の通った操作だろうし、趣味の一斑としても楽しいことだろう。しかし、そうした行為の結論だけを拝借して正誤論争をするとすれば、こちらは不毛な議論になりかねない。

(*1)[私釈]ああ嵯峨院の御代が懐かしい。すでに行幸もおこなれなくなった芹川だが、そこには「千代の古道」すなわちいにしえの良き政道、その名残がきざまれている。
(*2)「芹河」は京都市伏見区城南離宮のあたりを流れていた川。今は絶えている。光孝天皇の行幸は仁和二年十二月十四日で、三代実録によれば、この日勅して参議以上に摺布衫(摺狩衣)・行縢(むかばき)を着用させ、辰一刻(午前七時)に野の口に至り、鷹鷂(ようよう)を放って野禽を払撃させたとある。鷹はオオタカ、鷂はハシタカのこと。(新大系本『伊勢物語』114段脚注)
(*3)[私釈]望月牧から献上された馬を栖霞寺におられる院(後白河院)にお届けすべく嵯峨の地をあるいているのですが、かの行平翁が芹川に千代の古道(いにしえの良き政道)を幻視したように、私もまた嵯峨の山々に政道ならぬ千代の古道、すなわち古来より使われてきた街道を探しつつ、露をわけて馬を引いています


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清水寺の背後にある清水山にて。
三角点の傍らに36峰の29番目をアピールする札が置かれていた

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by office34 | 2013-01-09 03:37 | 京都本・京都ガイド
2012年 11月 17日
長楽寺のことあれこれ
円山公園奥の長楽寺の話。数年前にここでボヤがあった時には、このブログでも取り上げたのだが(参考までに)、そうした特別な事件でも起きない限り、あまり視界には入ってこない。しかし、今年は大河ドラマ「平清盛」との関連もあってだろう、その名前を耳にする機会が増えている気がする。

その長楽寺だが、一説によれば紅葉の名所だとか。清水寺を筆頭に、高台寺にせよ清閑寺にせよ、東山の寺々はどこを取っても「名所」であるには違いない。そうした意味でいえば、長楽寺を紅葉の名所と紹介すること自体は間違っているわけではないのだが、相対的な評価、たとえば永観堂のような紅葉の名所として不動の名声を誇る場所と比べてどうかとなると、かなり心もとない。とはいえ、思い立ったが吉日、せっかくのタイミングなので足を運んでみた。

まず紅葉の方は、案の定、まだまだ時期が早すぎる。門前の様子を見たときは、あるいはと期待も動いたのだが、中へはいると時期尚早だったのが判明する。今年は例年に比べて色づきが早まりそうとの予測もあるようなので、あるいは勤労感謝の日あたりが見頃のピークになるのだろうか。年々、後ろ倒しになっている印象が強く、12月になってもまだ秋色強しの今日この頃なので、11月下旬にピークがくるだけでも「早い」といった印象になるのだろう。それはさておき、長楽寺の話。紅葉の方はやや早すぎたわけだが、それでも木々が赤く染まると、それなりに見栄えにはなるだろうとの雰囲気はある。これなら、時期を見計らってもう一度来ても悪くはあるまい。
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長楽寺門前

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本堂と鐘楼

長楽寺のもう一つの目玉商品、平家物語関連の方はどうか。壇ノ浦で一族の滅亡を目の当たりにした徳子が出家した寺がここ長楽寺ということで(「平家物語灌頂巻」)、関連する遺品もいくつか残っているらしい。公式サイトには、春に「建礼門院御遺宝特別展観」、秋に「遊行上人秘宝展」が催されることが紹介されているのだが、これらは毎年行われるものなのだろう。今年は大河ドラマに便乗できるとの事情もあってか、「大河ドラマ『平清盛』放映記念 平清盛の娘 建礼門院 秘宝展」と銘打って、建礼門院関連の展示が秋季にも行われている。同サイトには収蔵品を紹介するページもあるので、事前に一通りチェックをした上で現物の拝観という順番にしておけば、それなりに楽しめる。

以上、ざっと長楽寺の紹介をしたのだが、今回訪れてみて印象に残ったのは、実はこれらではなかった。盛大なアピールは無いのだが、境内の随所には句碑などの石碑が置かれていて、おもわず唸らされてしまったのである。そのたいていは当方も知らない方々のものなので見なかったことにしてもいいのだが、見てしまった以上は素直に取り上げてみる。といっても現時点では「こういうものを見てきました」というだけの話で、掘り下げたことは何も言えない。とりあえずの羅列のみ。
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村田橙重句碑「百八の一つをつきぬ除夜の鐘」

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不明(山にゐて・・・・・・?)

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百百確斎遊蹟之碑(左)と芦雪長沢先生塚(右)

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武元登々庵の碑「有往皆収無垂不縮」*

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長楽寺碑「東山勝景・・・・・・」*

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春琴居士碑「・・・・・・」*

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不明

*は傍らに説明板がある。なお写真撮影をしくじった気配なので、改めて撮り直しに出かけねばなるまい。

また、これらの他にも塋域の方へ行くと、頼山陽の墓や尊攘運動にかかわった諸士の墓もあり、墓銘を刻むものも少なくない。異なる時代のもので気になったのは、寺井玄渓の墓だろうか。以前、円山公園の奥にある「夢」の碑を紹介したこともあるので(参考までに)、寺井玄渓の名には自ずとアンテナが反応してしまった。
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頼山陽墓(右側は妻女墓)

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寺井玄渓墓(左側は墓碑)

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by office34 | 2012-11-17 18:18 | 京都本・京都ガイド
2011年 12月 16日
「歌の中山清閑寺」をめぐって~清閑寺(1)
清閑寺の話をしてみよう。といっても、『京都観光NAVI』にも基本情報は挙がっているし京都観光NAVIのページ、いわゆる穴場スポットとして注目されることもあれば、紹介するサイトも少なくはない。それなら、あえて何か書くまでもないかとヘソを曲げてしまうのがいつもの癖なのだが、今回はやや事情が違う。頻繁に紹介される内容であっても少し掘り下げてみたい側面が残っていたり、あまりにも意外な発見があったりと、それなりに興味深いネタとなっているのである。

とりあえず、標準的な説明として挙げるならこんな具合だろうか。清閑寺は清水寺の南にある真言寺院。古くから「歌の中山清閑寺」と言われ、広く知られた場所だが、現代の清水寺を訪れる拝観客でここまで足を伸ばす人は少なく、境内はいつも閑散としている。そのため東山に残された紅葉スポットの「穴場」として取りあげられることもある。境内には小督局(高倉天皇の寵姫、清盛に睨まれ失踪する)の供養塔や洛中を扇状に俯瞰できるところから命名された要石(扇の要に位置する石との意味)などがある。

おおそよアウトラインをいうのならこれで十分だが、実際に清閑寺を訪れてみて、思わず唸ってしまったのは、まずこの場所が与謝野礼厳ゆかりの場所であったこと。与謝野礼厳れいごんとは、晶子の義父つまり寛の父親である。寛・晶子夫婦の伝記類を読むと、当然ながら寛の出生や幼少時の話も出ており、そこには父親礼厳の名前も登場する。境内にある立て札には簡単な略歴と「年を経て世に捨てられし身の幸は人なき山の花を見るかな」という歌が紹介されている。ほう、こんな場所でレーゴンさんと出合うとは……とちょっとした驚きがあった。他に、西郷隆盛が月照と密談を重ねた場所との説明や、黒田清輝がインスピレーションを得た場所とかの説明もあり、狭い境内のあちらこちらにプチびっくりの種が仕込まれている。

そんな中、ちょっと掘り下げてみたいと思ったのは、「歌の中山清閑寺」という言葉についてである。清閑寺のことを「歌の中山」という、あるいは清閑寺の近くにある山の名前である、はたまた山道の名前である等々、いくつかの説明があるようだが、「歌の中山清閑寺」とワンパックになった言い回しが古くから使われていた。掘り下げたいのは、そうした使い方の来歴である。

清閑寺の由緒を紹介したパンフレットには、
昔、真燕僧都という坊さんがいて、ある夕方、門前に出て道ゆく人々を、なんとなく見ていると、一人の美しい女性の通りかかるのが眼にとまった。平素は禁欲の身であるが、ふと異性に対する愛情が起った。しかし、呼びかけるすべもないので思いつくままに「清水寺への道はどう行ったらよいのでしょうか」と尋ねたところ、その女性は「見るにだに迷ふ心のはかなくて誠の道をいかで知るべき」と、たしなめて、やがて姿をかき消してしまった。その女性は化人の類であるとも言われ、あるいはこの寺のご本尊十一面千手観世音の化身ともいわれるが、いずれにしても歌の戒めに因んで、「歌の中山」と呼ばれるのだと言うことである。
という解説が載っている。紹介されている話は『都名所図会』にみられるものとのことなので、原文を併せて紹介すると以下の通り。
歌中山うたのなやかまは清閑寺せいかんじの北、音羽山おとはやまの間をいふ。寺説むかし清閑寺の真燕僧都しんえんそうづといふ人住ける。ある夕ぐれ門外にたゝずみて行かふ人を見ゐたる折ふし、髪かたちめでたき女のたゞひとりゆくを見て、忽たちまち愛心あいしんおこりければ、物いひかくべき便りなくて、清水きよみづへの道は何いづれぞと問ければ。女
見るにだにまよふ心のはかなくてまことの道をいかでしるべき
といひ捨て頓やがて姿を見失ける、女は化人けにんにて侍るにや。其歌読所を歌の中山といふ。

真燕僧都にハニートラップを仕掛けた者の正体について、観音菩薩説は『名所図会』にないところだが、歌が法華経をベースにしているとされる「こしらへて仮の宿りにやすめずはまことの道をいかで知るべき」(赤染衛門)を響かせているところから考えれば、菩薩説にはかなりの説得力がある。

真燕僧都にハニートラップを仕掛けた者の正体について、パンフレットでは「化人説」と「観音説」の二つを併記しているが、「化人」とは人の姿となって顕現した仏や菩薩のことである。したがって「化人説」と「観音説」は実質的には同じ内容であり、また歌それ自体も法華経をベースにしているとされる「こしらへて仮の宿りにやすめずはまことの道をいかで知らまし」(赤染衛門,後拾遺集)を響かせているところから考えれば、『都名所図会』に「~にて侍るにや」と微妙な保留が入りはするものの、女=観音と理解するべきだろう。

ちなみに件の歌のストレートな解釈だが、「アナタは仏の道を志しているようですが、私の姿を見ただけで煩悩に囚われましたね、そんな当てにならない心掛けでは、どうすれば誠の道を悟ることができるのでしょうか、まあムリですね」といったあたりだろうか。やや砕きすぎた気もするが、ともかくこの歌に発憤して真燕さんは精進を重ねたのだろう……たぶん。

こうした縁起にまつわるところに「歌の中山」の由来があるとするのが一応の定説なのだが、それでは、その説はいつ頃から言われているものなのだろうか。『都名所図会』は言うまでもなく近世後期のものなのだが、「歌の中山」という言葉、あるいはもっとはっきり言えば「歌の中山清閑寺」というワンパックとなった言葉はもっと古くから使われている。七音+五音になっているところからも分かるように、単なる通称ではなく、節回しを伴ったフレーズなのである。そしてその古い用例として、今のところ、見つけ得たのが謡曲「田村」と「融」である。
(続)



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要石の場所から見た京都市街


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清水寺南側ゲートから5分ほどで「歌の中山清閑寺」の道標に到着する


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by office34 | 2011-12-16 00:41 | 京都本・京都ガイド
2011年 12月 02日
清水寺[工事中]
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お約束のアングルから眺める清水寺だが……

観光シーズンのど真ん中であるにもかかわらず、ガンガン工事に入ることを厭わないあたりは、さすがに清水寺といったところか。ちょっとやそっとの工事ぐらいで拝観者が減るわけがないとの見通しがあるのだろう。事実、先月の末に覗いてみた折りには、いかにもシーズン真っ盛りの清水といった感じで、「超」が三つか四つくらい並ぶ混雑ぶりだった。

いわゆる観光寺院と呼ばれる場所で、なにがしかの工事が必要になったとすれば、一応は客足の少なくなる時期を選ぶ。夏の暑い盛りか、底冷えのする冬のど真ん中か、おおよそはそのあたりだろう。ところが、清水寺の場合は事情が違うようだ。確かに夏の盛りだろうが、冬のど真ん中だろうが、いつも賑わっているから「客足が少なくなる時期」など存在しないというのも事実である。また、1シーズンで終わるようなちんけな工事じゃないから、時期は選ばないといえば、それもその通りだと思う。しかし、そうであったとしても、一番のかきいれ時ともいうべき観光シーズンにこれほど大がかりの工事をしているのに出合うと、ちょっと感動モノである。

現在、清水寺で行われている工事は、たぶん3種類になるはずだ。一つは、子安の塔の解体修理。これは数年前からやっていて、まだ終わっていないというのが正しい。もう一つは朝倉堂。三重の塔と本堂の間にある建物群の一つで、大きすぎて近くを通るだけでは何が起こっているのかよく分からないが、少し離れて遠目でみると、これまた大規模な工事をしている。数年前までは隣の開山堂が工事をしていたが、それが終わると続けざまに朝倉堂の工事が始まり、すでに1~2年は経過している気がするが、今回、清水を訪れてみると、これらに加えて、阿弥陀堂と奥の院も修理に突入していた。

奥の院というと、清水の舞台を眺める絶好の場所で、定冠詞をつけての「ザ・清水寺」と呼びうる眺めが楽しめる場所である(上の写真が「ザ・清水寺」)。現在は、その奥の院の舞台の床板が取り外されて、その周囲に回廊のような感じで臨時の通路が設けられている。そのため「ザ・清水寺」を見ることはできるのだが、厳密に突っこむと、眺めるポジションやアングルが微妙に変わっているのでいつもの「ザ・清水寺」ではないというオチがある。

ところで、そんな奥の院の現状なのだが、先月末に訪れた際には紅葉もベストに近い状態で、みなみな錦雲渓を眺めてスゴォ~イと歓声を挙げていたのだが、そこは天邪鬼、ほかの客とは180度反対側を眺めていた。というのは、工事の関係で舞台の床板が外されていることは上で触れた通りだが、床板が外されてその下の構造がのぞき込むように眺められる状態となっているのである。みな人々が見ている紅葉の方向に背を向けて反対側をのぞき込んでは、へェ~こうなってるんだ、としきりに感心していたのである。

考えようによれば、錦雲渓の紅葉は毎年眺められるのに対して、舞台下部の構造を上から見おろすチャンスなど、そうめったにあるものではない。足場となる柱の組み方など、工事技術に関する詳しい知見を持っていたら、見る価値のある箇所もピンポイントで分かったはずだが、あいにくその方面には詳しいわけではなかった。それで、ただ単純に珍しいものを眺めて、へェ~と感心するに留まっていた。

なお、珍しいものといえば、張りぼて子安の塔についても触れておこう。本堂の舞台から錦雲渓を眺めると、木立を隔ててその奧に塔が見えるのだが、その塔が現在、工事中の子安の塔である。その工事期間は、塔全体を包み込むような外枠をかけて、その外壁に子安の塔のイメージイラストを描いている。そのため、現状の眺めでいえば、本来、子安の塔が見える場所にイラストを描いた箱みたいなものが突っ立ってみるので、「張りぼて子安の塔」と呼んでいるのである。

その張りぼて子安の塔なのだが、張りぼて状態になってからは、近くにいってもあまり見るものはあるまいと考えて、近づいていなかった。ところが、奥の院で工事期間中だから面白いものが見えるということを知ったので、張りぼての方へもアプローチしてみた。すると、工事現場それ自体は当然ながら立入禁止なのだが、遠くから見てラフなスケッチ程度にしか見えなかった張りぼてに描かれている子安の塔が、かなり詳細なものであることを知ってしまった。子安の塔が工事に入ってすでに3~4年くらいは経っているんじゃないかと思うが、その間、清水寺を訪れた回数は、たぶん片手には収まらないはずである。なのに、これだけ詳細な絵を描いていたとは、ついぞ知らなかった。ある意味、発見と言っていいかもしれない。

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紅葉は確かに見るに値するが、張りぼて子安の塔が目障りか?

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木枠で覆われた建物が阿弥陀堂。その向こうが奥の院

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紅葉以上に目を惹いたのが奥の院の舞台床下


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張りぼては間近でみると、意外に精緻?

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by office34 | 2011-12-02 21:00 | 京都本・京都ガイド