Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 10月 10日
芭蕉の見た小督塚 ~大堰川の小督塚(2)
小督塚シリーズの第1弾ということで、芭蕉の見た小督塚。
十九日 午半うまなかば、臨川寺に詣けいす。大井川、前に流れて、嵐山右に高く、松の尾里につゞけり。虚空蔵に詣まうづる人往きかひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷と云ふ有り。都すべて上下かみしもの嵯峨に三所みところ有り、いづれか慥たしかならむ。彼の仲国が駒をとめたる処とて、駒留こまとめの橋と云ふ此のあたりに侍れば、暫く是これによるべきにや。墓は三間屋さんげんやの隣、薮の内にあり。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも錦繍綾羅きんしうりようらの上に起き臥しして、終つひに藪中そうちうの塵ちりあくたとなれり。昭君村せうくんそんの柳、普女廟ふぢよべうの花の昔もおもひやらる。
うきふしや竹の子となる人の果
嵐山薮の茂りや風の筋
斜日しやじつに及んで落舎に帰る。凡兆京より来きたる。去来京に帰る。宵より臥す。
岩波文庫『芭蕉紀行文集』より(表記一部改)

元禄四年の四月から五月にかけての約ひと月、芭蕉は去来の落柿舎を借りて嵯峨野に逗留している。『嵯峨日記』と題された文章(日記)は、その滞在記である。ただし備忘録的な書き留めではなく、岩波文庫『芭蕉紀行文集』の解説でも触れられているように「文学作品としての意図のもとに書かれたもの」であるらしい。その四月十九日条に小督塚が登場している。

この日、芭蕉は臨川寺を訪れる。臨川寺は現在と場所は変わらないはずなので、描かれているのは渡月橋北詰をやや東に進んだあたりに立っての風景描写だろう。そうすると正面に大井川(大堰川)を置き、向かって右手に嵐山を眺めるところまでは普通にわかる。その後の「松の尾里につゞけり」というのは、嵐山の稜線が次第に高度をさげて松尾の方面へ続いているということでいいだろうか。視点が右へいったり、左へいったりしているので、あれ?と思わないでもないが、嵐山と虚空蔵(法輪寺)と松尾の位置関係を考えればそう理解するしかあるまい。あるいは、法輪寺も松尾の一部であると芭蕉が考えていたのだと仮定すれば、中之島から渡月橋南詰一帯も含めて嵐山のピークから東側が松尾になるので、いくぶんかは理解しやすくなる。

小督の局に筆が及ぶのはそのあとのことで、芭蕉の文章に従えば、当時は「小督屋敷」と呼ばれた旧跡が嵯峨界隈に三カ所あったようだ。そのうち「松尾の竹の中」あるのが最寄りの小督屋敷らしい。ここで現在の小督塚との関係が問われそうだ。松尾の里は芭蕉のいる臨川寺付近から見て、川向こうの東にあたる。現在の小督塚は渡月橋北詰の西側なので「嵯峨日記」にいう小督屋敷は現在の小督塚とは別の場所と見るべきだろう。ただし、その後に登場する「墓」は、まさしく現在の小督塚である。「三間屋」(三軒家)というのは、界隈で古くから営業されていた茶屋で、その場所は現在の京都吉兆や嵐山弁慶のあるあたりになるからである。

さて、いま一度、この日の足跡を整理してみよう。まず渡月橋北詰東側の臨川寺に参詣しているのは動かない。そのあとに「松尾の竹の中」にある「小督屋敷」への言及があるのだが、これは実際に訪れているかどうかは定かではない。続く「墓」に比べると、叙述があまりにも素っ気ないからである。むしろ、東の方を遠望してあのあたりに小督屋敷があるんだろうなと想像してみただけなのかもしれない。そして、実際に足を伸ばしたのが、現在の小督塚の場所であると考えておきたい。

この十九日条のメーンテーマ、それはわれわれがいうところの小督塚にあると言っていい。さほど長い文章ではないのだが、それでも後半がずっと小督の局に関する記述になっている以上、目の前の小督塚に触発されて、さまざまに思いを巡らせたとみていいのではないか。それでは、その思いとはどのようなものだったのか。ここで、現在の視点との不一致が浮かんでくるように思う。というのは、小督の局に関するイマ風の説明は平清盛に疎まれてといった要素が大きく取り上げられているように思えるからである。位人臣を極めた清盛の横暴、それを物語るエピソードとして薄幸の美女・小督の局が呼び出されているように思えるのである。それに対して芭蕉の文章では、高倉天皇の寵愛を受けた立場から嵯峨への隠棲を強いられる運命の激変に主眼があるようだ。「かしこくも錦繍綾羅の上に起き臥しして、終に藪中の塵あくたとなれり」の一節は、そうした転変をいうものである。また「昭君村の柳、普女廟(巫女廟)の花」というのも、美女の形容としてシンボリックに語られるフレーズであることを踏まえれば、いにしえの美女がこの粗末な石塔の下に眠っていると思うと運命の儚さを感ぜずにはいられないといったあたりに感慨が収束しているといえそうだ。
うきふしや竹の子となる人の果
の句は、掛詞や縁語など和歌の修辞法を駆使しているところが指摘されがちだが、そうしたところより「人の果て」という言葉に重みを感じてしまうのは気のせいだろうか。




プロローグ / 芭蕉の見た小督塚 / 小督桜/ 謡曲「小督」 / 峰の嵐か松風か
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by office34 | 2013-10-10 02:02 | 京都本・京都ガイド
2013年 07月 03日
二丁塚碑陰 ~山中静逸(4)
さて信天翁山中静逸の話もいよいよ佳境へ入る。大悲閣下にある、俗称「二丁塚」についてである。以前に触れた際(参考までに)、とにもかくにも碑陰が読めないということで放置モードにあったわけだが、かろうじて「信天翁」なる人物が書いたもののようだというあたりまでが捉えられていた。それがきっかけとなって信天翁とは何者か?、山中静逸なる人物のプロフィールは?といった方向に関心が広がったのが今回の流れである。

この信天翁山中静逸、幕末から明治前期に掛けて活躍した文人であることがわかり、嵐山に少なからずの縁があることもわかった。そうした情報によって二丁塚碑陰の文章が彼のものである必然性は十分に高まった。難読を極める刻字の翻刻も、書に詳しい方からのアドバイスも頂いて、以前よりはかなり見通しが利くようにはなっているのだが、それでも文章としての理解にはほど遠い。断片的な字句から推測して、おおよそこういった内容だろうというあたりが関の山なのである。

ともあれ、二丁塚の碑陰を再掲しておき、2013年7月現在での読解(案)を出しておこう。

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二丁塚の碑陰


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耳慣れぬ地名/耳慣れぬ地名・その2/対嵐山房/二丁塚碑陰/二丁塚読解・その1/二丁塚読解・その2/二丁塚読解・その3/二丁塚読解・その4/二丁塚読解・その5/二丁塚読解・まとめ/
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by office34 | 2013-07-03 14:47 | 明治人物志
2013年 04月 22日
嵐山の二丁塚
嵐山の大悲閣道にある芭蕉句碑について。以前に一度取り上げたことがあったのだが(参考)、碑陰が読めずに保留していた。このところ、ネタがなくなっていたこともあって再チャレンジ。書き出しが「此芭蕉翁句」であることや「明治十一年三月」という年次、そのほかいくつかの語句が読み取れるものの、文脈はわからない。それでWEBで情報を探してみたのだが、めでたく空振り。

だが、その一方でおもしろい話にも遭遇した。それは、この句碑の主役である「花の山 二丁のほれは 大悲閣」なる吟が、どうやら芭蕉のものではないらしいというお話。専門的な立場で調べると、世に芭蕉作として伝わっている中にもマユツバなものはかなり混じっているようだ。マユツバとまでいかなくても、芭蕉の真作であるとの確証が得られない吟は相当数になるらしい。いわゆる「存疑」の句である。嵐山は大悲閣道に建てられている「花の山 二丁のほれは 大悲閣」は、まさにそうした存疑の一つなのである。

以前、金福寺の芭蕉顕彰碑に触れた時、言うところの「芭蕉庵」は松尾芭蕉ゆかりのものではないことを、蕪村ら夜半亭の人々はいずれかの段階で気づいていながら、そこを舞台とする顕彰活動を推進したのではないかという趣旨のことを書いた(参考)。それに象徴されるように、芭蕉の没後百年の前後には顕彰活動がさかんに行われている。時代のムーブメントとして特筆されるぐらいのものである。そして、思うに「芭蕉=俳聖」なる認識が一般に浸透したのは、そうした一世紀後の顕彰活動の結果なのではなかったろうか。生前あるいは没後ほどなくの間についていえば、門人たちの間ではもちろんのことながら篤く崇められていたはずである。しかし門人という枠を越えるとどうだったか。限定的なグループの枠にとらわれることなく、尊敬のまなざしが世間に広く通用するものになったのが、一世紀後の顕彰活動の結果だったのではないかと思うのである。

また、そのくらいの結果を導くためには、関係者はかなりのエネルギーを費やしたはずだ。現在、「存疑」という扱いになっている吟が数多くピックアップされたのも、そうした背景があってのことではないか。本来であれば、場の芸術の宿命に従って埋もれてしまう吟に「芭蕉作」なる〝極札〟がつけられ、世間に喧伝されたと思うのである。かの芭蕉庵が松尾芭蕉ゆかりの地として喧伝されたのと同じような具合に、である。

なお嵐山の句碑は、詳しい方々の間では「二丁塚」と呼ばれているようだ。「塚」という言葉はお墓の印象が強いが、金福寺の芭蕉庵の傍らにも、樋口道立による「塚」が建てられた旨が碑文に記されていたように、「塚」を記念碑程度のニュアンスで理解しておけば、「二丁塚」なる命名にも納得はいく。そんな「芭蕉塚」をめぐっての本が、今回の記事では参考になっている。具体的には『芭蕉塚』(出口対石,長崎書店,昭和18年)と『京都の芭蕉句碑』(福井要氏,私家版,平成9年)である。そして、これらの情報をもたらしてくれたのが『花供養と京都の芭蕉』展の図録(PDF版、WEBで公開)であったことも言い添えておこう。

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二丁塚の碑陰

二丁塚 同市嵐山 大悲閣門前
表 花の山 二丁のほれは大悲閣 はせを
裏 明治十一年角倉関岳及碩水雨村如山等によつて建てられた由来が信夫翁山中静逸の筆でしるされてある
『芭蕉塚』より

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by office34 | 2013-04-22 00:17 | 歌碑・文学碑など
2013年 03月 21日
石の声を聴け
『風の歌を聴け』のパロディではない。響きは似ていても村上ワールドはまったく関係しない。あるいはこんなタイトルを掲げるとスピリチャルなものを連想する人がいるかも知れない。パワーストーンに手をかざして、あちらとのチャネリング云々をこうした言い回しでする方もいるようだが、ここではそんな話も出てこない。出てくるのは石碑であり、松尾芭蕉である。

松尾芭蕉の『奥の細道』は幻想の旅だったという。旅の途次、各所での思いを綴った紀行文、俳文であるかの体裁をとっているが、実際に芭蕉が訪れた行程と『奥の細道』の中で文章化されている足跡とは重ならないらしい。その意味では『奥の細道』は大いなるフィクションだったということもできる。しかし、そのことは『奥の細道』を貶めることにはならない。むしろイメージ世界より紡ぎ出された言葉の結晶として、その完成度の高さこそが注目される。杜甫の「春望」を介在させながら「つはものどもが夢の跡」の句を導く、かの「平泉」の段はその最たる事例かと思うが、ここでは少しずらして「佐藤庄司の旧跡」の段を取り上げてみる。

佐藤庄司こと基治もとはるは奥州藤原氏の家臣。源義経に従って奮闘した継信つぐのぶ・忠信ただのぶ兄弟の父で、佐藤庄司旧跡は旅が瀬上の宿(現在の福島市瀬上町のあたり)にさしかかったところに登場する。
これ庄司が旧館也。麓に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家いつけの石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先まづあはれ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂ぬらしぬ。堕涙だるいの石碑も遠きにあらず。
『奥の細道』に描かれたこの場面は曾良の日記にも記録があり、芭蕉たちが実際に訪れていることは確かめられる。また「かたはらの古寺に一家の石碑を残す」というのも、曾良がいうところの「堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有」云々と符合する。佐藤一族の菩提寺である医王寺に足を運び、境内の石碑を見て伝説の主人公に思いを巡らせたのだろう。続く「中にも二人の嫁がしるし」については潤色が含まれるらしいが、興味深いのは「石碑」から想像の翼が大きく広げられて「堕涙の石碑」にまで及んでいる点である。

「堕涙の石碑」は「羊公碑」ともいう。三国志に登場する晋の武将羊〓ようこの顕彰碑で、その遺徳を偲ぶ人々が碑の前に涙したことが名前の由来。そのエピソードは唐詩にもたびたび引かれており、日本でも広く知られていた。『奥の細道』は、佐藤一族の菩提寺において継信・忠信兄弟の奮闘やその死を悲しんだ母のエピソードが涙を誘い、さながら堕涙碑のごとしといった文脈でまとめられている。
*〓:シメスヘンに古

堕涙碑は言うに及ばず、佐藤一族でさえ影が薄くなっている現代である。そうした事情を併せると、想像力の飛翔も「平泉」の段ほどの鮮やかさは感じられない。しかし鮮やかさの欠落は芭蕉の責任ではない。鍵となるエピソードから遠のいてしまった現代人の悲しさにすぎない。芭蕉の中では、眼前の石碑を契機としてイメージの世界が大きく広がっている。それは石の声が芭蕉の耳に届いたからに他ならない。

先日、愛宕山に登る機会があった。愛宕神社表参道の往復だったが、下りてきて渡猿橋の袂に梅の花が咲いている場所があった。年配の方を案内してのことだったので、ちょうどいいかと思って記念撮影を勧めてみた。そして、もののついで程度のノリで傍らの徳冨蘆花「自然と人生」碑を紹介したところ、思いの外、喜んでくれた。なんでも「僕らの世代なら蘇峰や蘆花は特別だから」とのこと。ご年配とはいえリアルタイムで徳冨兄弟を知っているとも思えないのだが、徳冨兄弟は昭和三十年代ぐらいまでなら幅広い層からの支持があったのだろう。四十年代や五十年代でいえば亀井勝一郎だったり小林秀雄だったりのポジションに徳冨兄弟がいたということか。当方にすれば知識として知っているに過ぎない蘆花碑だったが、その方には琴線に響く何かがあったようだ。「石の声を聴け」に引きつけて言えば、当方には届かない声がその方には聞こえたのである。

清滝の蘆花碑に限らず、京都には面白い石碑がたくさんある。歴史関係の記念碑や歌碑・句碑など文学関係のもの、あるいは生活史的な色合いが濃い石碑もある。最近は愛宕灯籠に興味をもっているのだが、石碑の概念を少し広げれば、あれも生活史的な石碑のうちに含めることもできるだろう。

最後にPRを一席ぶたせていただこうと思う。
ちなみに、ここでいうPRとはPuerto Ricoのことではない、って当たり前か。

4/13に「まいまい京都」さんのところで北白川を舞台にした石巡りツアーを実施します。北白川エリアは古くから石工の里として有名だっただけあり、界隈を歩けばユニークな石造アイテムがいろいろと目に飛び込んできます。それらを題材にして、石の声へのアプローチをしてみましょう。

クダクダこ難しいものにするつもりはありません。知れば知るだけ深みにはまる石の世界、ひとつご一緒にいかがでしょうといったところです。







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by office34 | 2013-03-21 00:32 | 京都本・京都ガイド
2012年 08月 03日
芭蕉句碑@上御霊神社
先に寺町頭の阿弥陀寺を取り上げて、境内の芭蕉句碑などを紹介したことがあった(以前の記事)。その際にも触れたように、阿弥陀寺には芭蕉句碑の他に、江戸時代後期に住職を務めた蝶夢の句碑も置かれている。さらには詳細不明ながら、「常寛」なる人物の句碑(安政四年建立)もある。蝶夢が蕉風復興運動を推進した中心人物だったことが影響するのだろうが、ちょっとした文学スポット的な風合いを漂わせている場所なのである。

そんな阿弥陀寺のすぐ近くに、もう一つの隠れ文学スポットがある。上御霊神社である。暑い季節になると怪談ネタが恋しくなるものだが、御霊信仰に絡めてオモシロ可笑しく取り上げられることも多いので、そこそこの有名スポットだろう。しかし怪談ネタではなくて文学ネタだとなるとどうだろう。あまり注目されていないかも知れない。

ということで、ざっと境内を眺めまわしてみよう。西側の楼門から境内に入ると、まっすぐ舞台と本殿に向かって参道が伸びている。文学碑が点在しているのは、この参道の周辺なのだが、さほど広くはない境内で、参道の左手に芭蕉句碑と新村出歌碑、右手に富士谷御杖詞碑が置かれている。この三基で一応すべてとなるのだが、境内の狭さを思えば、けっこう濃密な文学空間と言えるだろう。

もっとも、富士谷御杖詞碑と新村出歌碑はやや新しそうなので、古くからの文学空間だったというのは難しそうだ。それでも、もう一つの芭蕉句碑は慶応元年建立となっているので、それなりの年代物である。

さて、その芭蕉句碑だが、刻まれているのは、
半日は神を友にやとし忘れ
というものである。俳句はあくまでも「場の文芸」なので、シチュエーションが分からないと解釈も覚束ないものだが、この句もその例に漏れない。そうした意味からすれば、碑の傍らに解説板が設置されているのはありがたい。それによれば、
芭蕉句碑
松尾芭蕉は元禄三年十二月に凡兆、去来、乙州、史邦ら門人を伴ひ、当社に参詣し別当家に半日を打寛ぎ、「年忘れ歌仙」を奉納した
「俳諧八重桜集」には当社を称えた歌仙や奉納発句が登載されてゐる
はせを
半日ハ
神を友にや
とし忘
慶応元年九月
一瓢社
出雲路社 花弟舎徒
建立
と記されている。この解説板だけでは、あるいは状況が混乱するかも知れないが、要するに元禄三年の年末に芭蕉一行がこの場所を訪れて歌仙(三十六句からなる連歌)を奉納し、その故事を踏まえて慶応元年に建立されたのがこの句碑である(慶応元年以下の情報は、碑の背面に刻まれている)

ところで、肝心の句の解釈だが、どうやら挨拶句であるようだ。つまり、もてなしてもらったお礼の一句であり、現代語に直すとすればこんな感じだろうか。

今日の半日はこちらでお世話いただいて楽しい句会を催すことができました。残る半日は神々と年忘れをお楽しみくださいませ



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by office34 | 2012-08-03 23:42 | 歌碑・文学碑など
2012年 07月 11日
阿弥陀寺(寺町頭)の芭蕉句碑
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阿弥陀寺の話を少しばかり……といっても、清水寺や金閣寺のように、名前だけでピンポイントに絞ることのできる寺院ではない。そもそも、このブログの範囲でさえ「阿弥陀寺」の名前で触れているのは、大原の奧、古知谷にある阿弥陀寺である。という書き方をするということは、今回の阿弥陀寺はまた別の阿弥陀寺ということになる。それが寺町頭の阿弥陀寺なのである。

寺町頭……この言葉もまた曖昧だろう。寺町通と聞くと大多数の人は新京極と並行するショッピングストリートを思い浮かべる。そんな大多数に入らず、歴史的なところに興味がある人でも、まだ御所の東側を念頭に置くのではないか。ところが「寺町頭」というと、寺町通には違いないが、今出川よりまだ北へあがったあたりの寺町通なのである。要するに、寺町通をどんどん北上し、今出川通を越えて、鞍馬口通に突きあたるあたりのことなのである。そして「寺町」の名前に恥じぬとばかり、このエリアにもまた多くの寺々が並ぶ。

阿弥陀寺はそうした並びの中の一つだが、観光物件的な視点からではけっして浮かびあがってこないこの寺に対して、当方のアンテナが反応したのは、文学碑がらみの話からである。

知名度の高い観光地に文学碑を設置するのは、その人ないしは作品に対する顕彰行為である。多くの人が目にする場所にしかるべき碑を据えることで、ことさらに作者の名前、作品の名前を高らかに謳いあげる。ところが「観光」という視点から遠のいた場所にもいくらか文学碑は置かれている。当方が気になり始めたのは、そうした人知れず(?)置かれている碑の意味合いについてである。

厳密なところを追求すれば、ゆかりの場所に碑を置いただけの話で、態とらしい下心などはないといえば、確かにそうだろう。しかし、どちらかといえば、注目されやすいところにある碑の方が「らしさ」も持っている。それに対し、こんな場所に碑をおいて誰が見るんだろうと首を傾げてしまうケースなら、それだけにその碑の意味合いが気になってくるわけである。

少々、話が雑に流れすぎているが、簡単にいうと、普通なら誰も注目しないところに置かれている芭蕉句碑が気になっていたということなのである。その場所というのが寺町頭の阿弥陀寺というわけである。

問題の句碑は
春立つや新年ふるき米五升
というもので、実に意味の分かりづらい一句である。しかし「似合はしや新年古き米五升」や「我富めり新年古き米五升」といった改訂を経ているということ、「五升」とは乏しさのイメージであることなどが分かれば、自ずと句の風合いに見えてくる。年が改まっても、手許にあるのはたった五升の米なのだけど、私にはそれでも十分だよ、といったあたりのところだろう(参考)

解釈はこんな具合でいいかと思うが、それよりも大切なのは、なぜ阿弥陀寺に米五升の句碑があるのかということである。阿弥陀寺が芭蕉顕彰に尽くした蝶夢(芭蕉より半世紀ぐらい後の俳人、僧侶)の寺であることがポイントだろうし、蝶夢自身が「五升庵」なる号を使っていたあたりに解答がありそうだ。阿弥陀寺の境内には、「米五升」の句碑とともに蝶夢の「我寺の鐘と思はず夕霞」という句を刻んだ碑も置かれているのだが、そうしたところから考えると、蝶夢を顕彰すべく蝶夢その人の句碑と、彼が敬愛していた芭蕉の句碑、中でも号にもしていた「米五升」の句を選んで碑を建てたということなのではないだろうか。つまり、芭蕉句碑という見方をすると阿弥陀寺と芭蕉との関係性が見えなくなってしまうのだが、芭蕉を顕彰する碑ではなく、むしろ芭蕉を通して蝶夢を讃える碑なのではないかということである。

以上は当方の勝手な想像である。したがって碑の建てられた事情を伝える史料(それがあればだが)に当たれば、正確な背景も見えてくるに違いない。ところで、寺町頭の阿弥陀寺を俎上に載せる場合は、実はもう一つ、注目すべき事柄がある。それが織田信長との関係についてである。
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by office34 | 2012-07-11 04:49 | 歌碑・文学碑など
2012年 05月 16日
芭蕉句碑2基@清滝川
清滝は渡猿橋の畔にある芭蕉句碑について、かなり以前に紹介したことがある以前の記事1 2。その句碑に刻まれているのは、
清滝や 波に散りこむ 青松葉
という句である。ところが、この「清滝や」の句を刻んだ碑は一基ではなく、もう一つ、別の場所にも置かれている。それが落合橋畔のものである。

落合橋というのは、清滝川が桂川(大堰川、保津川)に注ぐ手前に掛かるアーチ橋である。いま、仮にこちらの芭蕉碑を「落合橋の芭蕉碑」と呼ぶようにしよう(必然的に、清滝にあるものは「渡猿橋の芭蕉碑」となる)。渡猿橋の芭蕉碑を知った段階で落合橋の芭蕉碑についても情報は得ていたのだが、現物を見る機会はなかった。それが、このほど保津峡から清滝のあたりを歩く機会があったので、両方の句碑を見ることができた。まずはそれぞれの写真を貼ってみる。
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渡猿橋の芭蕉碑、副碑の文言は前掲「以前の記事2」参照
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落合橋の芭蕉碑、揮毫は工藤芝蘭子

同じ句の碑が、近接する場所の二個所に置かれているのはなんとも興味深い。といっても、実は、うろ覚えながら、芭蕉吟にある「清滝」の場所をめぐる見解の違いが二つの碑を誕生せしめたような話も聞いたことがある。「本家」と「元祖」ではないが、ともにコチラが正解だと言いあっているようなものなのだろう。

そもそも何が問題なのだろう。ともに清滝川に沿った場所であるには違いないし、また芭蕉の足跡が確実に及んでいた落柿舎のある場所から見れば、両方ともずっと山奥の川辺という点では同じである(*)。しかし、より厳密にいえば、「清滝」がどこを指すのかというレベルに留まるのではなく、吟それ自体の解釈にも関わってきそうだ。というのは、「清滝」という言葉が、ある場所をピンポイント的に指し示すものなのか、あるいは水が激しくたぎる場所(「たぎる」は「滝」の語源でもある)を指して比較的広いエリアをイメージさせるものなのかが分かれ目になるからである。
*落柿舎は、現在の場所とは異なり、芭蕉や去来の時代には渡月橋の近くにあったらしい。

「清滝川」という川の名前であれば『出来齋京土産』にも出ている旨が、渡猿橋畔に立つ案内板にも記されている。『出来齋京土産』は芭蕉が宗匠としての名声を確立し始める頃に刊行されたものなので、芭蕉が「清滝」を地名として認知していることは動かないと思う。それが、川の名前をいうものなのか、それともピンポイントに絞られる場所の名なのかが問題なのである。芭蕉が清滝川のいずれかの場所を実際に訪れたのかどうかは調べていない。流れの激しい川辺のどこかに立って、この吟を作ったのか、それとも噂に聞く清滝川のイメージから生まれたものなのかは不明である。仮に、現在の清滝と同じように、清滝という名のある集落を訪れて、そこで「清滝や」と吟じたのであれば、渡猿橋の芭蕉碑の方がもっともらしいのだが、イメージの中で作り上げたものであるとすれば、落合橋の方に軍配を上げることになる。

ここであえて無責任な思いこみであることを前提に個人的な感想を言ってみよう。それは、保津峡のあたりのイメージが「波に散り込む」というフレーズに繋がっているのではないかということである。実際に保津峡の景観を見たばかりだから、そういう気になるだけなのかも知れない。あるいは具体的に芭蕉の足跡をたどっていないから、イメージの産物という思いこみを優先させているのかも知れない。突っこまれると、いや、その、こちらの勝手な思いこみです……と言葉を濁してしまうのだが、清滝の渡猿橋畔で「波に散り込む」と言われてピンと来なかったものが、保津峡を眺めたトタンに、ああ、これなら!と合点してしまってからは、落合橋の方に説得力を感じているのである。

-本日のおまけ-
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保津川の屈曲点付近、前方に見えるのは保津川下りのボート

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by office34 | 2012-05-16 04:22 | 歌碑・文学碑など
2012年 04月 17日
大悲閣道にて
桜も見ごろを迎えると東山や嵐山はおおぜいの観光客で賑わう。人混みが苦手と思っている人たちは、このシーズンになると超人気スポットには背を向けてしまう傾向もあるのだが、嵐山にせよ東山にせよ、先入観で嫌うのではなく、マジメに向き合うと楽しめる余地は十分に残っている。観光ラッシュで混雑が発生するのは事実なのだが、それでもうざっとさの目盛りが急上昇するのは、渡月橋まわりとか、清水界隈とかの形で、スポット的には限定される。したがって東山なら青蓮院であったり清閑寺であったり、嵐山なら千光寺であったり亀山公園の展望台であったりといったところを狙えば、季節の味わいも堪能でき、ゴミゴミ感に苦しめられることもない。

そんな目論見から、千光寺大悲閣を目指して嵐山を訪れてみた……すると、渡月小橋を渡ったところに、拝観できませんの告知。よくよくみると工事中とのこと。どうやら建て替えをしていて日曜のみ一部拝観可らしい。なんじゃそりゃと思いつつも、そう言われたからと言ってパッと踵を返すのもバカバカしい、可能なところまで行ってみようと考えて大悲閣道をたどることとした。そもそも根本的な狙いは大悲閣そのものではなく、大悲閣道にあると情報のみで知っていた文学碑なのである。モノの本によれば、芭蕉句碑2基と、大須賀乙字と松瀬青々の句碑1基ずつ、それに「露営の歌」碑があるとのこと。それなりに密集ゾーンめいていて、かねてより気にはなっていたのである。

それで大悲閣千光寺の門前まで行って折り返して来た範囲での探索結果はというと、芭蕉句碑1、松瀬青々句碑1、「露営の歌」碑1、黄檗高泉詩碑1の4基であった。芭蕉句碑のもう1基と大須賀乙字句碑については所在不明。本によっては「大悲閣みち」とするものもあれば「大悲閣」とするものもあるので、あるいは現在は入ることができなくなっている境内の中にあるのかも知れない。平成二十五年に法要が云々と書いた張り紙がされていたところから判断するに、おそらく千光寺の改修工事が来年まで続くかと思うので、拝観可能となってから改めて探してみることとしよう。

さて、それはそれとしておいて、今回、発見するに至った碑について。

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まず芭蕉句碑だが、今回は大悲閣道の終点、すなわち千光寺山門の手前に「花の山二町のほれは大悲閣」が見つかったのみである。碑陰になんやら難しそうなくずし字で文言が刻まれている。文字が摩滅しているわけではなく、形は十分に確認はできるのだが、くずし方が流麗すぎて手強い。いずれ解読ができれば報告したい。

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松瀬青々句碑は、「門下一同」が昭和二十八年に建立した旨が碑陰に記されている。松瀬青々はウィキペディア2012.4.17現在版によれば子規門下の俳人だったとのことで、明治・大正・昭和初期にかけて活躍したようだ。碑に刻まれているのは、文字の判読は難しいが「鶯や日は上にあるあらし山」と読むらしい。碑自体もやや崩壊気味であり、全体に黴が生えているなど、状態は劣悪である。建立に携わった「門下一同」がお元気だった頃はたぶんそうではなかったのだろうが、時代も変わって顧みられる機会が減った結果、待遇も悪くなっているのだろう。

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「露営の歌」は、タイトルだけでピンとくる人は多くはないと思うが、唄いだしのフレーズを出せば、あの歌かと合点してもらえる。「勝ってくるぞと勇ましく~」の歌である。いわば軍歌のスタンダードといってもいい。君が代に対してでさえアレルギーを起こす人々がいるらしいが、そんな方たちならこの碑を見せられると卒倒するかもしれない……なんて茶化してはいけないか。

そして、あと一つ。案内書には触れられていなかったが黄檗高泉詩碑がある。これについては、稿を改めて詳しく紹介せねばならない事情があるので、今回はこのあたりで切り上げておこう。


おまけ
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亀山公園の展望台から大堰川上流を眺める・右岸(下流に向かっての右手、すなわち写真では左手)には工事中の大悲閣が写っている

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by office34 | 2012-04-17 12:12 | 歌碑・文学碑など
2011年 10月 07日
芭蕉顕彰碑@金福寺(補遺)
ちょこっとつまんで、すぐにポイっと捨てるのが当方の悪い癖のように思われているかも知れない。確かに、一瞬の興味に惹かれてあれこれ調べることはあるが、それを長く追い続けているかというと、怪しい面が多々ある。最近取りあげたネタの中では三条大橋関連なんかは、もう忘れたのかと思われているかも知れない。三条大橋を連続して扱った直後に、芭蕉庵の顕彰碑問題とぶつかったから、ついついそちらへ意識が引っ張られて三条大橋ネタがほとんど登場しなくなってしまったからである。

しかし、調べものの方も進展を見ていないという事実もある。ビックリマークを5つも6つも並べるような事実に出合ったら状況は一変するが、現状はそうなっていない。それで、ブログネタとしての登場が少なくなっているわけである。

それと同じように、芭蕉の顕彰碑についても、連載形式で碑文の読解にチャレンジしたものの、詳細不明を山積したまま放りだしている感がある。これについても「さては飽きたな」と思われているかも知れないが、まあ、飽きたわけではないと言い訳ぐらいはしておこう。

と、その言い訳ネタではないが、ご紹介いただいていた論文との突き合わせをしておきたい。金福寺にある問題の碑文を真っ正面から取りあげて、その全文の解読をしてくれているものは、まだ読むに至っていないのだが、清水孝之氏の「蕪村一派と金福寺芭蕉庵-芭蕉復興精神の形成と崩壊(上)(下)」は、部分的に解釈を示してくれている。御論中では碑文を引用して、部分的に訓点を施す形での解釈となっている。該当箇所を引用すれば、以下の通りである(引用は日本文学研究資料叢書『蕪村・一茶』[日本文学研究資料叢書刊行会編、有精堂出版、昭和50年])
「蕉翁以諧歌海内。……翁没七十余年。高士韻人。与夫諧歌者流。思慕称讃不已。翁冢所在有之。姪道卿新建於東山詩仙堂南金福寺中。請予銘焉。」と★叟の序は始まる。
このように推断された論拠は、「予儀祖伊藤坦庵先生。亦与翁交。坦庵集中。有翁邀飲。亦可以想翁為一レ人。」という芭蕉の教養と人格に存したらしい。
「儀祖」はママ。碑文は「義祖」。
当今の俳人達が、「牛鬼蛇神。眩耀蒿目。打油釘鉸。脂韋莠口。」の二異端に走り、
「野服葛巾」の形だけは仙の如くであるが、明人の謂わゆる「那白雲。常飛卓程屋上。」ぶていの低俗ぶりに堕するのと違い、
翁の作品は「清新不俗。澹有骨力。」と讃え、その理由を「庶幾詩家陶韋。抑又上援杜陵。下伴香山。」という漢詩的教養に基づき、加うるに翁の風神は千里の旅泊によって技を進めたと説いた。
「慧而不苛。介而能円。多諸技芸。其於諧歌。盖亦有師受淵源云。」といわれる道立は、やはり多技多芸の点で柳里恭を追う文人であった。
養父卜斎が「倭歌聯歌」を学んだ(碑銘)こと以外に、残念ながらその俳諧の師受を明らかにし得ないが、「道卿与翁。生不世。出処異轍。而心酔不已。至斯挙。蓋有臭味相契於衷。」が、俳人道立の形成を最も正確に物語るものであろう。
「蓋」はママ。碑文は異体字「盖」
四言十六句の銘の末尾は、「……維斯名寺。風水充。卜高士。魂其帰蔵。雖桑梓。維之郷。」と結ばれ、金福寺丘上こそ、骨は朽ちても言と誉とは永久に香る蕉翁の魂の帰蔵するに、最もふさわしい地だとする。
帰蔵はママ。「帰蔵」の誤植か
送り仮名が付けられているのは銘文の箇所だけだが、レ点や一二点だけでも十分にありがたい。また具体的な読み下しはされていないが、通釈が示されている箇所も非常に参考になる。「千里の旅泊によって技を進めたと説いた」とあるあたりがそれである。当方は二つの案を示しはしても、両方ともしっくりこないし、それ以前に読み方が怪しいということで不明マークを付けざるを得なかった箇所である。それを明快に、旅を栖とした芭蕉の人生を言っているのだ解釈してくれたのは、眼から鱗ものである。

ただ当方が考えたところと合わない部分も、いくつかあるようだ。近世文学の碩学がまとめたところの御論なので抗うことなど許されないのだが、なぜそうなるのか分からない箇所については、素直に分からないと言っておきたい。たとえば「明人の謂わゆる~」の部分などは、「那白雲常飛卓程屋上」の内容が判然としない限りは、一二点で示してもらったところで理解はできない。推測するに清水氏の指摘は「今之諧歌」と「翁作諧歌」が対比の文脈になっていて「今之諧歌」に含まれるものが「牛鬼蛇神眩耀蒿目」「打油釘鉸脂韋莠口」「野服葛巾風標如仙而明人所謂那白雲常飛卓程屋上」と描かれているということなのだろう。当方は「野服葛巾」は芭蕉のことと判断して、「明人所謂那白雲常飛卓程屋上」は好意的表現ではないかと考えている。このあたりは「那白雲常飛卓程屋上」をどう読み、どう解釈するかによるはずである。その他、いくつか細かく考えてみたいところもあるのだが、そうした箇所があるということだけを言い添えて「補遺」としておこう。いつか、なにがしかの進展があれば、改めて取りあげることとする。
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by office34 | 2011-10-07 09:00 | 歌碑・文学碑など
2011年 09月 20日
芭蕉顕彰碑@金福寺(1) 概略
洛北は一乗寺、詩仙堂の南に金福寺という寺院がある。古く平安時代に創建されていたと伝わるが、長らく荒廃していたようで、江戸時代の鉄舟が再興して現代に到っている。この金福寺が世に知られるようになったのは、江戸時代の後半、与謝蕪村を中心とする夜半亭の一派が、ここを松尾芭蕉ゆかりの地としてもり立て、たびたび句会等を催すようになったからで、明治以降も蕪村の流れを汲む俳人画人たちのゆかりの地として親しまれている。

とりわけ、広く知られているのは、境内奧の小丘の上に設けられた芭蕉庵だろう。金福寺に芭蕉真筆の短冊が伝わっている等の明確な証拠はないものの、芭蕉とのゆかりを思わせる「芭蕉庵」なる草庵が境内に営まれていた。蕪村の時代になると、その草庵も荒廃気味となっていたのだが、帰るべき先哲として芭蕉を仰ぎ見ていた夜半亭の面々は、芭蕉の名を冠するその草庵を尊んで整備再興するとともに、その傍らに芭蕉の業績を顕彰する碑をおいた。それが、今回のテーマとなる金福寺の芭蕉碑である。

まず碑の本文を書き出してみる。一行四〇字の一二行からなる碑文で、最終行には建碑の年次と書家名が宛てられているので、実質的には一一行、すなわち四四〇字からなる碑文である。以下の本文は、現地で確認したものをベースに、『金福寺芭蕉庵由来記』(大正2年、佐座宗侃[金福寺住職]著)に載せられた碑文と校合して修正したものである。
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特徴としては、芭蕉を「翁」と呼び、その前を闕字としている点が挙げられる。天皇や皇后など尊崇すべき固有名の前に闕字を添えるのはよくあるケースだが、ここではそのスタイルが芭蕉に対して適用されている。ただ「江戸」という地名についても同様に闕字が用いられているので、あるいは敬意の基準が形式的かつ広範に及んでいるのかも知れない。また、碑文の後半六分の一は四言一六句からなる銘となっている。

碑文の筆者は「越国文学播磨清 絢撰」とある。この人物は、穎原退蔵「道立」によれば、儒者の「清田絢」とのこと。姓名を漢風に表記するのは江戸時代の儒者が好んだところなので「清絢」が名として記されているようである。「越国文学」とは、清田絢が奉職していた越前福井藩の文学(儒学をもって藩に仕える学者、御用儒学者)のことで、「播磨」は清田の出生地。つまり、署名の意味するところは【越前国の文学である、播磨出身の清田絢が文を撰した】といったところだろう。

本文のアウトラインは以下の通り。
第一段「芭蕉翁以諧歌~思慕称賛不已」(芭蕉の略歴)
第二段「翁冢所在有之~翁為人矣」(建碑の経緯)
第三段「今之諧歌~于技者矣」(芭蕉顕彰)
第四段「道卿名敬義~予豈漠然」(建碑者[樋口道立]評)
第五段「銘曰~維翁之郷」(芭蕉顕彰銘)
以下署名

段の区分は内容判断によるもので、厳密さには欠ける。「建碑の経緯」「道立評」のように、明らかに前後で流れが変わる箇所は問題も少ないのだが、「芭蕉顕彰」とした百字ほどの部分は、あるいは「現今の俳句批判」と「芭蕉顕彰」とに分けた方がよいのかも知れない。次回以降、個々の段落について検討してゆく。
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(1)概略 / (2)芭蕉略歴 / (3)建碑の経緯 / (4)俗流と翁風 / (5)本朝の大詩人 / (6)樋口道卿 / (7)銘に曰く / (8)まとめ

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by office34 | 2011-09-20 09:20 | 歌碑・文学碑など