Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2011年 09月 06日
街へ出る、あるいは無印都市
スクラップしておいた新聞記事を思い出した。少し昔、というか、かなり昔といった方が正しいのだが、2008.1.28付の読売新聞である。記事のタイトルは「無印都市」。そして「待ち合わせ 消えゆく名所」との見出しが付く。「平成を歩く」というシリーズの中の一章のようだ。
木曜の夕方、東京・新宿駅東口のアルタ前に立った。外壁の大きな映像モニターが目立つ、定番の待ち合わせスポットだ。かつてはみな、人待ち顔でたたずんでいた。じれったいような、心細いような顔で駅の方を見つめ、ひょっとしたら友人が周囲に紛れていないか、時々見回して確かめる--昭和58年に上京し、大学生になった記者も間違いなくその一人だった……(以下略)
と、アルタ前の待ち合わせ風景から書き起こされつつも、現在のアルタ前では大学生時代の記者が経験したような風景は見られないと続く。待ち合わせ場所を明確に決めて落ち合う習慣が近年は減っているというのである。いわく「ここで会おう、としっかり決める必要はもうなくなったのだ。移動しながら、ケータイで連絡を取り合い、どこかで合流すればよい。これをケータイ文化の研究者たちはミクロ・コーディネーションと呼ぶ」とのことである。

この記事に思い至ったのは、河原町を点描したときに、BALの影が薄くなっていると書いたのがきっかけだった。BAL前で集合というような言い回しが生きていた時代は、思えば、すでに20~30年は昔のことだろう。京都で、もう一つの有名な待ち合わせスポットの土下座前にしても、「『高山彦九郎』という名前は忘れられて『土下座』と呼び慣わされている」という話がコネタのごとく語られはしても、かの像の周辺が待ち合わせスポットとして機能し続けているかというと、かなり覚束ないと言わざるを得ない。そうした前提があって、ふと「無印都市」なる昔の新聞記事が頭を過ぎったのだった。

記事のタイトルにもなっている「無印都市」については、文中には「国際的に活躍する建築家レム・コールハースが歴史性を欠いた巨大都市をジェネリック・シティーと呼んでおり、日本では『無印都市』と訳されているという」との説明があり、「ミクロ・コーディネーション」と同様に、社会学での用語のようだ。さらにそれぞれの語には欄外注釈があり、そのまま抜き出すと以下の通り。
[ミクロ・コーディネーション]
ケータイ文化の国際研究をまとめたJ・E・カッツほか編『絶え間なき交信の時代』(2002年、邦訳はNTT出版)で使われた。時間・場所の継続的調整を指す。さらに感情的・社会的な相互作用を持つ場合、ハイパー・コーディネーションと呼ぶ。
[ジェネリック・シティー]
genericは一般的、商標未登録の、という意味。コールハースは空港のごとく均質で、世界中にある大都市をこう呼んだ。大著『S・M・L・XL』(1995年、未訳)で中心性と手を切り、日々のニーズで拡張・更新されて、表層的だと指摘している。
さて、河原町の話である。BALの影が薄くなっていることを契機にこの記事を思い出したとはいえ、ここでいう「無印都市」に河原町が変貌しているとまで思っているわけではない。BALの存在感が薄れただけでなく、丸善が消滅するなど、全般的にいって、心の中でのランドマークが失われているのが確かだが、それでものっぺらぼうの界隈になったわけではない。ここ5~6年の範囲で、河原町にコンビニや牛丼チェーンが相次いで出没したのは驚きだったし、それに先立つ2~3年は四条河原町の交差点からほど近いエリアにチェーン系のコーヒーショップが次々にオープンして時代の変化を感じたものである。そしてその前のスパンにあったエポックメーキング的な事件が京都を代表する書店の駸々堂倒産だろう。それらは確かに、一続きの大きなうねりのように感じられはしたが、それでも河原町は河原町たるなにかを主張しているように思うのである。

そもそも河原町とは、かつてはどういう場所だったのだろう。かなり学生目線になるが、学生層を抜きにしては河原町の性格は語れない。大学生が普段の生活を過ごすのがそれぞれの大学周辺エリアであるとすれば、そこに「学生街」なるものが形成される。百万遍や今出川界隈がそれだろう。立命館が衣笠に移転する前は、河原町広小路にキャンパスがあったこともあって、今出川通の河原町寄りは立命のエリアだったというから、今出川通に沿って百万遍から烏丸あたりまで、学生をターゲットにした店がズラリと並んでいた時代があったらしい。そんな学生街だが、需要がそのエリアだけで百パーセントみたされるはずもなく、プラスαのものが欲しくなったときに、「街へ出る」というノリで向かった場所……それが河原町だった。河原町界隈、広くいえば、寺町、新京極、裏寺、さらに木屋町まで含めたエリアがその役割を担うのだが、そこには学生どもの旺盛な食欲や知識欲に応える店もあったろうし、わけもなく時間を潰すのに適した場所もあった。本屋、喫茶店、映画館、パチンコ屋等々はまさしくそうした時代に輝いていた場所だった。

翻って、置かれている環境だけでなく、思考パターンも行動パターンも変わってしまった現代の学生にすれば、「街へ出る」という発想、ひいてはそれを体現するかつての河原町界隈は必要ではなくなったのだろう。河原町界隈の客層が変わってゆくなかで、当時よく知られていた店が一軒また一軒と姿を消していった。映画館やパチンコ屋の退潮などは学生の変化だけに原因を求められないし、学生の変化は社会の体質変化の結果だから云々との議論になると、ヒヨコとタマゴの水掛論になってしまうので、そのあたりは深く追及しない。要するに前世紀末の90年代~今世紀初頭にかけて、さまざまな事情が絡みあって、昔の河原町は消えてしまったという話である。

しかし、だからといって、一足飛びにコールハースのいう「無印都市」がかの空間に出現しているとは思えない。ガイドブック目線で見られることの方が多い気もするが、六曜社のような名物喫茶店もあれば、インパルスだって、いまだ健在である。小さな新刊書店は軒並み退場しても、キクオなどの古本屋は残っている。虫食い的に昔の河原町が顔を出しているのである。そういう意味でいえば、地層の重なりに似ている。昔の河原町に、新しい河原町が覆い被さって、全体的に別の街になってしまったかにも見えるのだが、そのところどころに、隠しきれない古い部分が覗いている。新しい部分は「無印都市」に通じる特徴をたくさん備えている。広域流通のシステムに裏打ちされたコンビニやチェーン店などは、そこが河原町である必然性はまったくない。ところが、その新しい顔のすぐ横に昔の顔が覗いているものだから、それらが輻輳して全体的には、他にはない個性的なものとなっているといったところだろうか。
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by office34 | 2011-09-06 10:05 | 街角の風景
2011年 09月 03日
繁華街点描(3)  21世紀初頭の河原町通
四条通をネタにしてきた流れから河原町通の方も触ってみる。というよりは、四条烏丸を起点に歩いてきて、河原町の交差点に来ると普通に北上してしまっただけの話である。特になにがしかの狙いがあったわけではない。ただ単純に、四条を見てきたのと同じ目線を「では河原町はどうだろう」という具合に向けたまでの話である。

さて、その河原町、一般的な印象としては、四条通とともに「京都の繁華街」なる看板を掲げているはずだが、厳密には四条通とは性格が違う。ターゲットの年齢層が四条よりは下がっているように見える。もちろん四条通にだって牛丼屋はあるし、コンビニだってあるのだから、金持ちは四条へ、貧乏人は河原町へなんて言い方をするとカドも立つが、何となくの雰囲気を比べると、四条よりは河原町の方がチープにまとまっているといえそうだ。大丸やヴィトンがなくてジャンカラやユニクロが幅を利かせているから?、確かにそういうスポット的な物件が直感に及ぼす影響も大きいが、暗黙のうちに形成された棲み分けルールのようなものがあって、新規店舗のオープンにも影響しているように感じられる。

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[1]ファッションの話にはとんと疎い当方だが、河原町のイメージ形成に一役買っているのがこのOPAだと思う。ギャルギャルしてるから嫌だとの声も聞くが、チープシック(この言葉自体すでに死語?)の路線を目指すのなら、こんな場所がいいらしい。ちなみにOPAが出現する前は、この場所にも書店があった。京都書院という店で、往年のブックストア談と同じく、人文系のコアなニーズに対応する店だった。

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[2]この店と、数軒隔てた四条寄りにあるパチンコ屋、そろそろ河原町の歴史遺産に登録してもいいのではないかとさえ思う。昭和三十年代の地図を見ていると「スマートボールキング」なる店が記されているのだが、場所的にみても、業種的に考えても、この店であることには違いない。時代の要請に応じて、姿を変えつつ生き延びてきたのだろう。

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[3]太古の昔、梶井基次郎がレモン爆弾で破壊を試みたというのがこの場所。河原町通が拡幅される以前、界隈のメーンストリートが寺町通だった時代なので、雰囲気を現在の景観から推測するのは著しく困難だが、河原町拡幅直後のものであれば府立総合資料館が公開している「京都市明細図」京の記憶ライブラリで見ることができる。丸善周辺は「京都市明細図NE03」に該当しており、丸善の名前は確認できるが、他の店で現在に繋がるものがあるのかどうかはよく分からない。

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[4]丸善向かい側のこのビルも長らく管理物件だったが、なにかの工事が始まっていた。ここにはかつてパチンコ屋があった。シドニー五輪で活躍した某テコンドー選手が所属していたレジャー会社の系列店で、当時は店の内外に応援のフラッグもはためいていた。

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[5]ひと昔前は河原町のシンボル的な存在だったBALビルだが、現在はどうだろう。待ち合わせといっても、携帯が当たり前のご時世なので、××前といったような明確なスポットも必要ではない。それ以前に、テナントとして入っている店も、無印とジュンク堂はさておき、BALの看板でもあったファッション系のテナントは影が薄い印象である。その分野に当方の関心が向いていないこともあるにしても、京都を離れた人からは、BALがまだあるのかという声も出るくらいだから、時代の趨勢を感じざるを得ない。

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[6]どうでもいい一枚。どこかでニュースになっていたからペタっと。

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[7]バブルがはじけた1990年あたりから今世紀初頭にかけて河原町の顔でもあった書店群が軒並み姿を消した。記憶にあるところを並べてみると、駸々堂、京都書院、河原書房、丸善、Bookファースト(移転)……。それでも生き残っている店はしっかりと残っている。六角通西入の平安堂書店もその一軒。三条の交差点まわりにある、大学堂、京阪書房、キクオの三書肆と並んで、この平安堂は古き時代の名残でもある。

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[8]こちらが大学堂(三条下ル)

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[9]オマケ。どこまでも続く商店街……ウソ。河原町~寺町間の短い区間だが、写しようによってはこんなになってしまうというお話。

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by office34 | 2011-09-03 11:32 | 街角の風景
2011年 08月 25日
河原町三条界隈
そこにあるはずのものが消えている景観はわけもなく新鮮に思えてしまう。すでにいろいろなところで触れられているようだが、河原町三条から北側のアーケードのことだ。

アーケードが消えていることに、当方がはじめて気づいたのは、今月上旬のことだった。一部に覆いが掛けられ、キクオやムツミ堂の前など北端の一部はすでに撤去済みの状態にあった。そしてその数日後に見てみると、河原町三条の交差点より北側は完全に取り払われていた。

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アーケードの消えた風景。(左:8月上旬、 右:8月中旬)


へぇ~本当に撤去しちゃったよと思いつつ、あるいは改修を前提にした工事なのかもしれない等々考えて、道ばたの看板などを読んでみると、撤去の文字しか見あたらない。ということは、新しいアーケードはまだ予定が固まっていないということなのだろう。

などなどのことを思ったのが、実は今月の中旬あたりのことだった。それから、さらに数日が経過して、三条界隈に出てみた折に目に飛び込んできたのが、東側のアーケードがなくなっている景観だった。考えれば、西側だけ撤去して東側には手を付けずというのもおかしな話だから、東側も消えることは普通に予想できたはず。だが三条の界隈からアーケードがなくなること自体が予想の範疇を越えていたこともあって、東側は視界にもはいっていなかった。
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8月下旬には東側のアーケードも消えた。
道幅が広くなったように感じるのは錯覚か。



さて、両側のアーケードが完全に撤去された河原町三条上ルの一帯なのだが、第一印象として浮かんだのは、広いなという言葉だった。道路が拡幅されたはずもないのだが、妙に広々としている。アーケードなるものは、予想以上に見た目に圧迫感を与えているのか、それとも縦への広がりに視界が馴染んでいないからそう錯覚するだけなのか、そのいずれかだろう。そして次に浮かんだのが、電柱や電線って汚らしいなというものだった。それまではアーケードの上に隠れていたり、支柱と一体化していたりして、さほど悪い印象は与えてなかったのに、庇護者がなくなった途端に無様な姿態を衆目に晒さざるを得なくなったようだ。

ところで、今回のアーケード撤去は、三条界隈における劇的な変化に入るとは思うが、こうした変化は、実際に起こった時にハタと気づくものであって、事前の予想はできない。アーケードがあった頃がどんな印象だったのだろうと写真ストックの中を覗いてみるのだが、いいアングルから撮ったものは一枚もなかった。特別な思いも持たずに眺めていただけに、ことさら写真に切り取る必要があるとも思わなかったのだろう。

a0029238_103699.jpg比較的、近いものでいえば、旧東宝公楽の建物がなくなって空閑地となった時に撮った一枚である。交差点東入の一画が主役なのだが、かろうじて交差点とアーケードが写っている。あえて比較するのなら、この一枚ということになるのだが、アーケードの有無が視界にどのような印象を与えるかの対照はできそうにない。

どうやら、もっと日ごろから目を鍛えておかねばならないという結論になりそうだ。コトが起こった後にゴタクを並べるよりは、起こる前に、ほんのちょっとなにがしかの形で手を付けておいたものがあった方が面白い調理ができる。




[おまけ]
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三条大橋に出現した牛模様の馬(ポニー)。某乗馬クラブのPR

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by office34 | 2011-08-25 01:29 | 街角の風景
2011年 03月 26日
つだちく
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 京都には老舗と呼ばれる店がたくさんある。雑誌などその類のもので取りあげられるのは、一保堂や鳩居堂など、「ザ・老舗」とでも呼べる、いかにもなところである。それらは百年を単位に店の歴史を語るわけだから、紛うことない老舗である。そうした正真正銘の老舗と並べられた日には、弱輩どころかヨチヨチ歩き程度と言わざるを得ないのだが、物理的な年数だけなら実はウン十年という所もある。そうした方面に目を向けると、その数は、いわゆる老舗よりは、当たり前の事ながら、ずっと多くなる。中には五〇年を越え、百年に手が届くところもある。そうした数十年クラスは、他の地域なら老舗の暖簾を掲げることができるのに、京都の環境では、そういうことはできない。それゆえ、平時は注目度もさほど上がらない。

 去年の夏に撤退となった阪急百貨店の京都店(四条河原町阪急)は、開店が1976年ということだから、30年程度である。百年を基準の一つに据えると、若造もいいところなのだが、それでいて「長い歴史に幕」という雰囲気は漂っていた。報道のスタンスでそういう風合いを演出していたとしても、わずか30年程度に何やってんだかといったような違和感があったわけではない。比較をすれば、30年は短いのだが、それを長いと感じる捉え方自体は不思議ではないのだ。

 数年前に閉店した純喫茶のクンパルシータの場合は、いつのころからかは知らないが、京都の名物喫茶として名を轟かせていたこともあり、ひそかに営業をやめたときには、驚きとも感傷ともつかない声々が方々から上がっていた。物理的な年数でいえば、戦後ほどなくの開店だから、50年か60年を越えたあたりでの幕だったようだが、代替わりをせずに営むとすれば、おそらく、このあたりが限界だろう。

a0029238_21323526.jpg こうした話を始めたのは、昨日、河原町今出川の交差点付近で、おやと思う光景が目に入ったからである。交差点を少し南にくだったところにあるCDショップで工事が行われている。CDショップと表現すれば、歴史など無さげな響きだが、件の店は「つだちく」こと津田蓄音機店である。店の前には張り紙もあって「77年のご愛顧ありがとうございました」と書かれている。

 この店はかつては今出川通に面していたところにあって、いつの間にか移転していたのが気になっていたのだが(何年前の話?)、当方もかなり若造の頃に買い物をした記憶はある。当時はCDなどは普及しておらず、もっぱらLPの時代。加えて地方から出てきたばかりのガキであれば、レコードプレーヤーも持っていない、ということで音楽テープを買った記憶がある。買ったと言っても、本数にすれば、片手で数えられるくらいだから、その程度のお付き合い、端的に言ってしまえば、縁の無い店である。それでも印象の中ではかなりの存在感はある一軒で、「いつもそこにある店」程度の認識は持っている。

 今回、この「つだちく」が消えるらしいが、昭和9年創業ということは、京都的な基準での老舗には入らなくても、感覚的なところでは十分に老舗といえる存在感はある。ほとんど買い物をした記憶のない当方でさえ、無くなるのか、残念だと感傷的になってしまうあたりが、いわゆる感覚レベルでの老舗たる証と言っていいのではないか。
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by office34 | 2011-03-26 21:35 | 気になるお店
2010年 12月 24日
ある日の四条河原町
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 いつからこういう姿になっていたのかは分からない。夏が終わる頃に最終営業日を迎えたこと、その後しばらくして、後釜にはマルイが決まったことあたりまでの情報は得ていた。しかし、阪急の看板が取り外されていたことには気付いていなかった。案外、九月や十月頃に作業が行われていたのに当方がスルーしていただけなのかも知れない。あるいは、ほんの数日前までは在りし日の姿を保っていたのに、ということなのかも知れない。日付はどうであれ、十二月下旬の時点で「阪急」と書かれた漢字プレートが消え、「Hankyu」と輝いていたネオンサインも無くなっていることに気が付いたのである。

a0029238_78210.jpg もちろん、撤退の決まったその日から、いずれはこうなることはわかっていたのだから、特に騒ぎたてることでもないのかも知れない。たいした利用者でもなかったのに、ことさらノスタルジーめいた戯言を並べ立てる方がお調子者なのかも知れない。きっとそうだろう。だからニュースネタにはならなかったのだ。ただ、そうであるにしても、もとあった「阪急」の文字が残痕のようになった姿をさらしているのを目にすると、何か寒々としたものも感じてしまう。

 そういえば、かなり以前だと思うが、阪急の撤退が決まってから、かのビルをネタにしたことがあった参考までに。少し想定とは違う形になったようだが、まあ仕方ない。ちなみに、在りし日の勇姿というニュアンスで見るのなら、こちらの写真がベストだろう「OSAKAビル景色」より
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by office34 | 2010-12-24 07:11 | 街角の風景
2010年 02月 12日
黒い怪物
 下鴨松ノ木町の仁丹版や上賀茂神社前ロータリーの巨木が消えて云々という話をしてきたが、京都で近いうちに無くなる大物といえば、やはり四条河原町南東角のアレだろう。建物が消えて更地になるというわけではないが、河原町阪急としての営業を停止するとなると、ビル壁面に掲げられて思いっきり人目を引く広告板なども無くなって、雰囲気は一変するはずだ。入れ物は残っても四条河原町のランドマークとして存在を誇示している実態が消えることになって、夜間にはただの真っ黒な物体として佇立し続けるに違いない。

 現在の見映えを基準にして、エレベータの灯りやネオンの無い、真っ黒な固まりを想像してみると、考えてみるだけでも不気味なものがある。あたりが賑やかなだけにギャップがことさらに感じられることだろう。もちろん、阪急が無くなるわけではないのだから、「Hankyu」と書かれたネオンは灯し続けるのかも知れないし、個人的な希望でいえば、そうあって欲しいところである。ここで買い物した記憶がほとんどない人間が言うのもなんなんだが、上階のモザイクなら何回かは使ったことがあるから、まあ、許してもらうとしよう。電気代もバカにならないと思うが、あのネオンまで消してしまうと、いらぬ詮索までしてしまうというものである。
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by office34 | 2010-02-12 03:28 | 街角の風景
2008年 04月 27日
消えゆくものども
 25日、河原町六角にミーナ京都がオープンした。かつては京都宝塚劇場や京都スカラ座といった映画館が入っていた「京都宝塚ビル」で、長らく改築工事が続いていた。工事期間中は、吉田初三郎の鳥瞰図をデザインしたボードが掲げられており、時折、足を止めて絵を眺めていく通行人もいた。

 当方の趣味からいって、実はミーナ京都それ自体に関心があるわけではない。フーンの一言でスルーしてしまう部類だろう。ただ、河原町の景色が変わりゆくなかでの、一つのエポックになるという意味では、ミーナ京都のオープンは記憶にとどめておいたほうがいいのかもしれない。というのも、京都の繁華街といいながら、やたら本屋と映画館が目立っていたというのが、古い河原町のイメージであり、その後者、「映画館が多い」という印象を際だたせていたのが、その場所にあった京都宝塚ビルだったからである。このビルには、本屋のほうでも、京都における大型書店の代名詞だった駸々堂(同社倒産後に入ったのはブックファーストだったので、やはり大型書店だった)が入っていたこともあり、本屋と映画館の界隈という雰囲気を作っていた大元だったわけである。

 実際のところ、映画館といっても、このビルにあった京都宝塚劇場と京都スカラ座ぐらいで、数量的に多かったというよりは、印象のレベルで多そうな雰囲気を醸し出していたというほうが正しい。新京極に入ると数量的にも増えたのだが、河原町に限定すれば、あとはせいぜい三条東入るの東宝公楽があるくらいである(「小屋」を入れるなら、太古の昔に息絶えた朝日シネマも河原町エリアだった)。さらにいえば、印象云々にしても、実は、映画館のシンボルだった独特のタッチで描かれた絵看板、それがが他の店を圧倒するようにドーンと大きく掲げられて、やたら目立っていたからだろう。巨大看板や各種ネオンサインなど、他業種のアピール力が大きくなり、絵看板文化が衰退しつつある中では、目立ち方そのものも小さくなっていたのも事実だから、映画の街という内実は、遙か昔の段階で死滅していたはずである。

 しかし、実態が伴わなくても、河原町界隈が映画の街であるかのようなイメージを保ち続けていたのは事実である。当方にしても、名実ともに映画の世界が輝いていた時代は知らない。それでも、河原町へ出て映画でも見ようか……といったノリは普通に理解できた。今回のミーナ京都のオープンは、同地のビルが映画とまったく関係のないものになったという意味で、象徴的なものがある。

 ところで、映画館の絵看板の話だが、MOVIXやTOHOシネマのようなシネコンでは、さほど目立っていないような気がする。いまや描き手がいなくなったのか、一本だけを大々的に取り上げるわけにいかないのか、はたまた出来合のポスターを貼っ付けておくだけで事足りる時代なのか、絵看板そのものが、もはやレトロな雰囲気を漂わせている。そんななか、京都の文化遺産としても、こっそりと推奨していた、かのカサブランカも消えていることに、最近、気がついた。

a0029238_1942620.jpg 新京極公園の向かいにあった成人向け映画の専門館、八千代館で、上映内容と関係なく、掲示されていた、映画「カサブランカ」の絵看板である(写真クリックで拡大:2004.06撮影)。昨年末に八千代館が閉館したことは知っていたが、かの絵看板がどうなるかということについては、不覚にもあまり気にしていなかった。先日、近くを通りかかったので、寄り道してみると、八千代館の建物をつかってWEGOが出来ており、カサブランカの場所には、WEGOの看板が出ていた。

 かの絵看板は、「瀬戸内少年野球団」のロケで使うために制作されたもので、「カサブランカ」上映時のオリジナルではないらしい。したがって問答無用の絶対的価値があったわけではなく、象徴的な意味合いでの価値だったのだが、それでもやはり、無くなってしまうと、残念に思わざるを得ない。

 まあ、八千代館がWEGOになり、京都宝塚ビルがユニクロのミーナ京都になるというのも、時代の趨勢を映し出しているようだが(HANJIROのビルも元々は美松劇場だったような?……記憶不確か)、消えゆくものどもに対する哀悼の意をこめて、軽いイタズラを……(写真クリックで拡大)。
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by office34 | 2008-04-27 19:07 | 街角の風景
2007年 03月 28日
久邇洋裁学校
a0029238_372034.jpg三条寺町といえば、京都に関心をもっている人なら誰でも知っている、かの三嶋亭が在す場所である。しかし、ここで注目するのは、三嶋亭でもなければ、お隣にある浮世絵屋の西春でもない。例によって例の如し、町名板である(写真クリックで拡大)。

ただ仁丹でもないうえに、地名の書き方が面白いとかの特徴もない。ややもすると、非仁丹の町名板がここにもあるなという程度の認識でやり過ごしてしまうタイプの一枚である。ところが最近になって、撮りためていた町名板の写真をパラパラ見直していると、ふとこの一枚が気になり始めたのである。そして改めて写真を撮りに出かけてみた。

なにが気になったのかというと、この町名板のスポンサーである。建物全体といっしょに撮った写真ではよく判読できなかったのだが、どうも久邇なんやらと書いているように読めたのが、ことの発端であった。ズームで撮り直して判明したところでは「久邇洋裁学校」とあり、場所は「河原町荒神口上」とのこと。

久邇という言葉に荒神口という地名が合わさると、KKR京都くに荘のこともあって、久邇宮家を連想するのが当然のなりゆき。案の定、この「久邇洋裁学校」も久邇宮家ゆかりの学校らしい。ネットで検索をかけると「2004年7月26日 第2回MKCRセミナー」なるページがヒットしてきて、そこには、
(戦後の洋装化は)戦前から続く洋裁文化とそれに隣接する文化の戦後への翻訳という側面からも理解しなければいけない。京都には皇族の親戚の久邇静子が設立した久邇洋裁学校という象徴的な学校も存在しており・・・

という一節もある。この一節については、久邇洋裁学校のどういう点がどういう意味合いで象徴的なのかなど、専門外の分野なので理解できないのだが、戦後の洋裁文化はアメリカに対するにわか羨望ではなく、とりわけ京都では戦前から上流階級で育まれていた服飾文化の一形態であり、それが一般にまで広まったものであるという意味で捉えておく。

この久邇洋裁学校が現在どうなっているのかは、まったく調べていないし、今後、たぶん調べることもないだろう。ネット上のみでの調査でいえば、久邇洋裁女学院という専門学校が大阪にあるところまでは判明したが、その学校が久邇洋裁学校改組後のもの、もしくはその後継団体であるかどうかまでは不明。とりあえずは、これまた例によって例のごとくと言おうか、ちょっとつまみ食いしただけでの投げ出しモードで終わってしまうわけだが、京都にはかつて久邇宮家ゆかりの洋裁学校が存在していて、それが町名板に名前を残しているという事実は確認できた。昨日、「かわる河原町、かわらぬ河原町」という話題を取り上げたついでとして付け加えておくとすれば、荒神口の久邇洋裁学校もまた河原町に刻まれた記憶の一コマということになるのだろう。
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by office34 | 2007-03-28 03:13 | 町名看板
2007年 03月 27日
かわる河原町、かわらぬ河原町
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またしても怪しげなつぎはぎ写真を出してみよう(写真クリックで拡大)。前回の高島屋版とは違って、今回の写真は微妙に水平移動しながら撮った写真をつないだシロモノである。で、この風景についてだが、ノスタルジックな香り漂う家並みといって、どこかの地方都市なんて思ってはいけませぬ。これは紛れもなく京都の一風景、しかも京都の繁華街の代名詞でもある河原町通なのである。

もっとも繁華街として知られる河原町通とは、三条以南・四条以北に限定すべしというのであれば、この写真の河原町今出川下るのあたりは繁華街エリアからは外れている。とはいっても、郊外なんてものではなく、街中もド街中に入っているのは確かである。

今回この写真を取りあげたのは、この五軒の並びが頑なに昭和を主張しているのが、かねがね気になっていたからである。五軒のうち、ど真ん中は「みつばち」という甘味処で若い人向けの情報誌にもたびたび紹介される比較的新しいお店である。だが「みつばち」を除いた両サイドの四軒はかなりのベテラン選手。左から順に、「野村商店」、「大黒屋地図店」、一軒おいて「安藤電機」、「アリゾノ運動具店」と並ぶ。中でも目を惹くのは、安藤電機が大々的に掲げる「ポンパ」の看板だろう。この文字面にピクピク反応したり、飛行船の話題を持ち出したりするのは大阪万博世代と相場が決まっているのだが、そのポンパの大看板がまだまだ現役で頑張っているあたりがポイントなのである。仁丹の町名板と同じように、街角にさりげなく(というより、かなり派手に・・・)残る年代物といっていいはずである。

そして、これが河原町通においての話だから、なおさら面白い。三条以南の河原町は、ひっきりなしに新陳代謝を行っており、丸善やスカラ座といったシンボル的な存在だけでなく、以前とりあげたヘップバーンのいる甘栗屋もつい数ヶ月前に消えてしまった。新・景観条例との絡みもあって、現時点で目新しさを謳っている建物も数年のうちに模様替えをして、取り繕ったシックさを主張するようになるに違いない。そんなことを思うと、かわらぬモノの存在感を改めて感じさせてくれる風景でもある。
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by office34 | 2007-03-27 03:22 | 街角の風景