Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 01月 05日
某キャンパス?
a0029238_0254881.jpg

思わずどこの大学だろうか?と考えてしまいそうな外観である。と、こんな書き出しをした時点ですでにこれが大学でないことは告げている。そのとおり、これは大学ではなく、知恩院のシンボル、御影堂の現在である。法然上人800年大遠忌に合わせて御影堂の解体修理を始めたとのことなのだが、平成23年~30年までの足かけ8年にわたっての大工事になるらしく、現在はすっぽりと被い屋に隠されている。

工事期間中、ずっとこうした外観になっているとは思わないが、先日、久方ぶりに知恩院を訪れてみて、あまりにも違和感があったものだからチェックが入ってしまった。ちなみに、知恩院界隈でもう一つ驚かされたのは、「京都華頂大学」なる大学ができていたこと。華頂短大は昔からあるから知っていたが、2011年から短大とは別に京都華頂大学なるものが作られていたらしい。

それはさておき、話を修復工事に戻すが、東山界隈での工事ネタといえば、話題の中心はやはり清水寺ではないだろうか。ここ数年、いたるところの手直しを行っているので、いつ訪れてもどこかがトンカンやっている。ながらく塔のイラストが描かれた被いに隠されていた子安の塔が、ようやくその生まれ変わった姿を見せていたのは喜ばしいことだが、今現在は奥の院が工事シートに包まれている。それと本堂入り口にあたる轟門の
背後に控える朝倉堂も、現在工事中。轟門をバックを記念写真という方も少なくないので、そうした方々にすれば興ざめな事態となっていると言わざるを得ない。

清水寺の工事の段取りは、公式HPに以下の情報が出ている。
馬駐/北総門(2010年完工)
  ↓
朝倉堂/子安塔(2013年3月完工予定)
  ↓
阿弥陀堂/奥の院(2013年3月着工予定)
  ↓
轟門/釈迦堂※屋根の吹き替え
  ↓
本堂
奥の院が工事中というこなので、これが終わると轟門、そして真打ちの本堂へと進むということか。*記事は連載の読み物扱いなのでトップページからでは探しづらい。リンク参照
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by office34 | 2013-01-05 00:31 | 街角の風景
2011年 12月 02日
清水寺[工事中]
a0029238_144533.jpg
お約束のアングルから眺める清水寺だが……

観光シーズンのど真ん中であるにもかかわらず、ガンガン工事に入ることを厭わないあたりは、さすがに清水寺といったところか。ちょっとやそっとの工事ぐらいで拝観者が減るわけがないとの見通しがあるのだろう。事実、先月の末に覗いてみた折りには、いかにもシーズン真っ盛りの清水といった感じで、「超」が三つか四つくらい並ぶ混雑ぶりだった。

いわゆる観光寺院と呼ばれる場所で、なにがしかの工事が必要になったとすれば、一応は客足の少なくなる時期を選ぶ。夏の暑い盛りか、底冷えのする冬のど真ん中か、おおよそはそのあたりだろう。ところが、清水寺の場合は事情が違うようだ。確かに夏の盛りだろうが、冬のど真ん中だろうが、いつも賑わっているから「客足が少なくなる時期」など存在しないというのも事実である。また、1シーズンで終わるようなちんけな工事じゃないから、時期は選ばないといえば、それもその通りだと思う。しかし、そうであったとしても、一番のかきいれ時ともいうべき観光シーズンにこれほど大がかりの工事をしているのに出合うと、ちょっと感動モノである。

現在、清水寺で行われている工事は、たぶん3種類になるはずだ。一つは、子安の塔の解体修理。これは数年前からやっていて、まだ終わっていないというのが正しい。もう一つは朝倉堂。三重の塔と本堂の間にある建物群の一つで、大きすぎて近くを通るだけでは何が起こっているのかよく分からないが、少し離れて遠目でみると、これまた大規模な工事をしている。数年前までは隣の開山堂が工事をしていたが、それが終わると続けざまに朝倉堂の工事が始まり、すでに1~2年は経過している気がするが、今回、清水を訪れてみると、これらに加えて、阿弥陀堂と奥の院も修理に突入していた。

奥の院というと、清水の舞台を眺める絶好の場所で、定冠詞をつけての「ザ・清水寺」と呼びうる眺めが楽しめる場所である(上の写真が「ザ・清水寺」)。現在は、その奥の院の舞台の床板が取り外されて、その周囲に回廊のような感じで臨時の通路が設けられている。そのため「ザ・清水寺」を見ることはできるのだが、厳密に突っこむと、眺めるポジションやアングルが微妙に変わっているのでいつもの「ザ・清水寺」ではないというオチがある。

ところで、そんな奥の院の現状なのだが、先月末に訪れた際には紅葉もベストに近い状態で、みなみな錦雲渓を眺めてスゴォ~イと歓声を挙げていたのだが、そこは天邪鬼、ほかの客とは180度反対側を眺めていた。というのは、工事の関係で舞台の床板が外されていることは上で触れた通りだが、床板が外されてその下の構造がのぞき込むように眺められる状態となっているのである。みな人々が見ている紅葉の方向に背を向けて反対側をのぞき込んでは、へェ~こうなってるんだ、としきりに感心していたのである。

考えようによれば、錦雲渓の紅葉は毎年眺められるのに対して、舞台下部の構造を上から見おろすチャンスなど、そうめったにあるものではない。足場となる柱の組み方など、工事技術に関する詳しい知見を持っていたら、見る価値のある箇所もピンポイントで分かったはずだが、あいにくその方面には詳しいわけではなかった。それで、ただ単純に珍しいものを眺めて、へェ~と感心するに留まっていた。

なお、珍しいものといえば、張りぼて子安の塔についても触れておこう。本堂の舞台から錦雲渓を眺めると、木立を隔ててその奧に塔が見えるのだが、その塔が現在、工事中の子安の塔である。その工事期間は、塔全体を包み込むような外枠をかけて、その外壁に子安の塔のイメージイラストを描いている。そのため、現状の眺めでいえば、本来、子安の塔が見える場所にイラストを描いた箱みたいなものが突っ立ってみるので、「張りぼて子安の塔」と呼んでいるのである。

その張りぼて子安の塔なのだが、張りぼて状態になってからは、近くにいってもあまり見るものはあるまいと考えて、近づいていなかった。ところが、奥の院で工事期間中だから面白いものが見えるということを知ったので、張りぼての方へもアプローチしてみた。すると、工事現場それ自体は当然ながら立入禁止なのだが、遠くから見てラフなスケッチ程度にしか見えなかった張りぼてに描かれている子安の塔が、かなり詳細なものであることを知ってしまった。子安の塔が工事に入ってすでに3~4年くらいは経っているんじゃないかと思うが、その間、清水寺を訪れた回数は、たぶん片手には収まらないはずである。なのに、これだけ詳細な絵を描いていたとは、ついぞ知らなかった。ある意味、発見と言っていいかもしれない。

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紅葉は確かに見るに値するが、張りぼて子安の塔が目障りか?

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木枠で覆われた建物が阿弥陀堂。その向こうが奥の院

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紅葉以上に目を惹いたのが奥の院の舞台床下


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張りぼては間近でみると、意外に精緻?

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by office34 | 2011-12-02 21:00 | 京都本・京都ガイド
2011年 07月 07日
清水寺境内の道標
清水寺の境内におかれている歌碑や句碑など、その他、石碑類の中で、かねてより気になっていた一基を取りあげてみる。所在は、本堂の舞台を通過して地主神社との分岐に来たところ。左手に進めば地主神社で、右手に進めば奥の院といったところに置かれている道標である。まずは、その写真を示してみよう。
a0029238_20411697.jpg
実際の道順を云々するのであれば、ほとんど実用に供されておらず、そのためか、関心を向けてゆく人も少ない。しかし、記されている内容をみると、それなりに興味深い。

上部に大きく「登り口」とある。これが一つ目のポイント。一般に知られている順路に照らしてみると、地主神社前のこの場所からどこかいろいろな場所へ向かうことはない。左手の地主神社か右手の奥の院かである。それ以前に、ここからどこかへ「登っ」てゆくことなど、普通には行われていないのである。それでは、この「登り口」とは、何を意味しているのか。それは、現在でこそマイナールートとなっているが、古くは普通に使われていた登り道の始発点である。清水の境内を発して山中へ続き、そのまま登ってゆくことになる山道なのである。

行き先として示されているスポットもチェックしてみよう。
成就橋半町  大日如来十町  三条大津道十五町
稚児カ池七町  高台寺十一町  知恩院十七町
将軍塚十町  円山公園十五町  都ホテル十八町
「稚児カ池」の除き、挙がっているほとんどは、現在でも観光地として知られているので、詳しい説明は要らないはずだ。あえて言えば「成就橋」と「大日如来」ぐらいだろうか。成就橋というのは、この石碑のある場所からすぐのところにある橋で、成就院に向かうルート上にある。普段は非公開の塔頭であるし、公開時でも普通は仁王門方面から向かうので、成就橋が人々の意識に立ち現れることは少ない。しかし、この道標が機能していた時代なら、普通に進む道ばたに架かる橋で、そこを通って成就院に向かうことになっていたのだろう。

 「大日如来」とは、東山ドライブウェーの終点にある青蓮院大日堂のこと。その敷地内に将軍塚があるので、大日如来への距離と将軍塚への距離が等しいのも、当然のことである。

ここでだいたい方向性も見えてきたかと思うが、ここに「登り口」とあって、その進んでゆく先にあるのが、清水寺の背後に控える将軍塚なのである。そして、そのルートから円山公園や高台寺、知恩院の方面へ下りてくることができる。その際の距離が、高台寺十二町、円山公園十五町等々の書き方となっているわけである(厳密には、現在のハイキングコースを辿れば、最初に下りてくる場所が円山公園になる。高台寺への距離が、それより短いのは、現行ハイキングコースとは別のルートがあったものと思われる)

a0029238_2041163.jpgこれら以外にも、三条大津道や稚児が池なども検討してみたいスポットなのだが、それはまた機会を改めよう。というのは、この石碑について、興味深いポイントがもう一つあるからである。それが、側面に記された歌である。
問こたへなくてものいふ此石ハ
道行人のしをりともなれ
とある。仮名を送ったり漢字を宛てたりすると「問ふ答へ、無くて物言ふ此の石は、道行く人の栞ともなれ」である。解釈も難しいものではないが、一応訳しておくと、「尋ねたことへの答えもなく、それでいてものを言うこの石は、道行く人の手引きとなるがよい」でいいだろう。この歌を刻んだ道標は、東山界隈に何基かあるようだが、なんとなく設置者の気概のようなものも伝わってくる。ただ、残念なのは、この道標が置かれた時代とは異なって、その道自体が一般的でなくなったということだろうか。そして、その結果なのだが、この道標も本来の役割を終え、側面の歌も人々に顧みられることがなくなったということだろう。
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by office34 | 2011-07-07 20:47 | 街角の風景
2011年 07月 04日
北村季吟句碑@地主神社
七夕ディスプレイでは空振りだった地主神社だが、境内では句碑が目に留まった。近くに駒札があって問題はないのだが、よく見ると、別にもう一基ある。

とりあえず、大きい方から。
地主からは / この間の 花の / 都かな
駒札によれば、北村季吟の句「地主からは木の間の花の都かな」であるとか。直接、この句碑を指して解説する内容ではないが、季吟には地主の桜を詠んだ如上の句があるとの紹介がなされている。そして、実際の句碑はきちんとした翻字ができなくとも、だいたいの推測が立てば、その句であることはすぐにわかるという仕掛けである。

ちなみに北村季吟とは、江戸時代の和学者である。あれこれの業績が紹介される中でも『源氏物語湖月抄』の編纂は、特筆ものだろう。批判的評価も多々あるが、湖月抄がなければ、源氏物語の世間一般への浸透は、今とはまったく違ったものになっていた。このあたりの議論は、油断するとすぐに面倒なところへ流れてしまうので、ここでは、北村季吟、江戸時代の物知りオジサンということにしておく。
a0029238_2412913.jpg

-気になる人のために-
ウィキペディア
芭蕉DB



で、その季吟の句のそばに、「その上の地主の桜の花の[下]恋占いの石おもしろ[き]」([]の字は判読難につき推測)と彫られた一基がある。「恋占いの石」といった用語からして、碑はもとより歌それ自体も新しいと思われる。柵つきで立ち入り禁止ゾーンに置かれていたこともあって、裏面チェックはしていない。見える部分だけ写真に撮ってきただけなので手がかりは皆無状態である。もしかすると地主神社の神主さんの一句だったりするのかも知れない。
a0029238_2411612.jpg


ところで、この二基のように、清水寺境内(含む地主神社)には、いくつかの歌碑、句碑が隠れている。ものの本によれば、月照や西郷隆盛、平野国臣などの名前が出ているのだが、それらの所在は確認できていない。ただし、その本では北村季吟の名前もラインナップに入っていて、場所が「清水寺」としか記されていないあたりから推測するに、月照や西郷のものは成就院の境内である可能性が高い。成就院は非公開の塔頭なので、もしそうだとすれば特別公開のタイミングを待つしかない。他に、蜷川虎三の名前もあったが、これについては、筆塚の近くで発見された。
道はただ一つその道をゆく春

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by office34 | 2011-07-04 02:54 | 歌碑・文学碑など
2010年 11月 26日
清水寺へ行ってみた2010秋
知恩院でちょっと確認しなければならない事柄があって出向いたのだが、知恩院だけで帰ってくるものもったいない。かといって、青蓮院だの高台寺だのとハシゴする気にもなれないので、一番お手軽で拝観料の安い清水寺で誤魔化すことにした。

 某ニュースバラエティでは、今年の紅葉は鮮やかだのどうのといろいろ言っているが、街なかでの印象では実はさほど違っているようには感じていない。先日、清滝へ行った際には途中で嵐山を経由するコースを通ったのだが、時期が早すぎたのか、やや拍子抜けの印象さえあった。清水寺の方はといえば、曇天なのがお生憎様といったところか、秋の清水だからこんなもんだろうという程度である。晴天なら紅葉の鮮やかさも違った見え方をするはずなのだが、まあまあかなという以上の評価にはならない。子安塔や田村堂が工事中というのもマイナス要因として働いているのかも知れないが、それ以上にテレビでの騒ぎ方が仰々しすぎる感がある。

 とはいえ、せっかくの機会であるには違いない。秋の清水ということで、何枚か連貼りしておこう。
a0029238_0373364.jpg
子安塔の周りがあまりにも興ざめな一枚。

a0029238_0373420.jpg
奥の院の手前から本堂舞台を撮る。

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お約束の撮影ポイントからの一枚……田村堂の工事屋根がなんとも。

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これまたお約束のポイントから撮った三重塔。抜けるような青空なら……と悔やまれる。


 なお知恩院での話は、ネタ的には大きくなりそうなので、少し周辺の話を調べ直してから改めての報告ということにしたい。
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by office34 | 2010-11-26 01:03 | 京都本・京都ガイド
2010年 01月 06日
謹賀新年、あけましておめでとうございます
と、しおらしく挨拶をしてみたものの、すでに松の内も明けようとしている今日この頃。それ以前に、昨年は十一月、十二月とほとんど書き込みもせずに放置していたことが痛く反省させられる今日この頃。毎日の書き込みは無理にしても、せめて月に十本程度は何かのネタを挙げていけないものかと思うと、むしろそれを本年の目標としたほうが良さそうな気配さえある。もちろん投稿の数だけで良し悪しを云々されるのは気に入らないのは言うまでもない。ただそれを言い訳にして二ヶ月も沈黙しているのはイケませぬ。そういったわけで、本年の第一弾として清水寺ネタを出してみよう。

a0029238_12471119.jpg 昨年は岸駒の灯籠に刻まれた虎図のことも紹介した(以前の記事)ので、年賀状のデザインにも拝借しておいた。年明け早々に見に行った時には、参拝客は多いにもかかわらず、誰一人としてかの虎に目を向けている人はいない。寺側が積極的にPRする様子もないので致し方ないのだが、虎は依然として眠ったままだった。子年の一昨年に大豊神社を訪れた折には、お社の前に長蛇の列が出来ていたことと比べると、雲泥の差である。清水寺の場合は、なにもPRなどしなくてもお客さんは年中訪れてくれるから構わないという姿勢なのだろうが、ああいう珍しいものはもっと広く知られてもいいようにも思う。

 ともあれ、今回はお約束の撮影ポイントから三重の塔および本堂を撮ってくるだけになったわけだが、冬枯れの季節は、どうも見映えがしない。それでも、一方に桜や紅葉の頃の彩りを思い浮かべると、その落差が楽しめたりもする。観光客的な視線に立つと、そうそう何度も清水寺にばかり足を運ぶこともできないのだろうからアレだが、年間を通して観察していると、さすがに面白みも深まってくるというものである。というわけで、手許にある写真をつなぎ合わせて錦雲渓の通年バージョンを作ってみた。BGMは「夜が来る~人類みな兄弟」をDTMで打ちこんでみたが、なんか変になってしまった模様。そのあたりはご愛敬ということで、まずはご覧いただければ幸甚。





 ま、本年もぼちぼちと宜しくお願い申し上げまする。

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by office34 | 2010-01-06 13:11 | 京都本・京都ガイド
2009年 06月 21日
戻ってきた坂上田村麻呂像 ~明石博高
 清水ネタの連荘モードになってしまうが、面白そうな話とぶつかったので紹介してみる。清水寺七不思議なるものが七つではなく多数に及んでいることは、先日の書き込みでも紹介した通りで、そこには「鹿間が塚」というものも含まれている。鐘楼の近くにある小高い盛り上がりの箇所がそれということなのだが、清水寺の起源となる堂宇が建てられた場所がこの鹿間が塚であるとされている。そのどこか不思議なのかと言われると、次のような謂われがある。

・ 鹿間が塚の謂われ-その1
 坂上田村麻呂が狩った鹿をこの場所に埋めて供養したと云々
・ 鹿間が塚の謂われ-その2
 田村麻呂がこの地に千手観音を祀る堂宇の建立を発願したのだが、深い山中ゆえに建立に適した平地がなかった。どうしたものかと思案していたところ、鹿が多数現れて、蹄で岩を穿ち、土を削り、平地を作り出した。田村麻呂は、その造作の間に傷つき倒れた鹿たちをその場所に手厚く葬って、堂宇を建立した云々

 「その1」の方は、特に不思議とも思えないし、七不思議を厳密に七つに絞るのであれば、除外されてしかるべき内容である。それに対して、「その2」の方は、なるほどこれなら不思議ネタになるかもといった感触はある。ただ、諸寺の創建縁起には、どこでもいくばくかの不思議はつきものなので、ことさらに取りあげるほどでもあるまいといえば、確かにその通りで、七不思議と称して額面通りに七つのネタしか紹介しないところでは、削除されている内容でもある。なお、これらの前提として坂上田村麻呂が鹿を求めてこの地に入ったという展開が必要になるのだが、そのあたりは、公式サイトは縁起のページにも詳しいので、そちらに譲っておき、鹿間が塚に関する部分だけを紹介した。

 と、この話は今回の本題ではなく、発端である。この鹿間が塚に建てられたお堂が、元の田村堂(開山堂、内部は非公開)なのだが、その中には坂上田村麻呂夫妻の像が祀られている。問題は、この田村麻呂像である。現在、祀られている田村麻呂像は、非公開であり、その詳しい来歴は判らない。だが、創建まもなくの頃に刻まれた像が長らく清水寺に伝えられており、それが祀られていたとのことである。だが、その由緒ある古像は、一時失われていたらしい。そのため、長らくは江戸時代に再彫された模品を飾っていたのだが、明治時代になって旧像が取り戻され、田村堂に奉納されたとの話になっている。その還座式が厳かに執り行われたのが、明治十三年二月一日と日付も判っているので、失われていた旧像が取り戻されたというのは、実際の話なのだろう。

 そこで面白いと思ったのは、そのあたりの事情である。長らく田村堂に祀られていた一体が、実は新しいのではないかと気に留めた人物、それが明石博高であるとのことなのである。明治時代の京都再興に尽力した人物として、府知事の槇村正直は先に取りあげたが、その手となり、足となった実働部隊、それが明石博高である。

 ある日、清水寺を訪れた明石は、田村堂を拝観することとなった。堂の中には、坂上田村麻呂の像が飾られていたが、その装束を細かく見てみると、とても平安時代のものとは思われない。それで住職の忍慶師に尋ねたところ、これは徳川家光の代に新しく彫られ、寄進されたものであり、古くから伝わっていた像は天保年間に失われたため、代わりとして祀っているのであるとのこと。そして失われた古像は、江戸のとある武家のもとにあると先代より聞いているが、詳しくは判らず、今に至っているという。

 明石は、その後、明治九年に公務で東上する機会があり、この話を思い出して、京都府博物館の武田信允を同行させた。そして、武田に調べさせたところ、現在の持ち主を突き止めることができた。しかし、持ち主は、像を公開することを許さないばかりか、自らの姓名を明らかにすることも拒んでいるという。

 ともあれ、捜している像が東京にあるということが判っただけでも前進したことになるのだが、その後の明治十二年十一月に状況は一変する。武田が朗報を携えて、明石のもとを訪れたのである。旧像の所有者が亡くなり、その遺品が売りに出されたとのことなのである。その連絡を聞いた明石は即座に問題の像を買い求めた。

 明石の手許に届けられた像は、丈八寸ほどのものだった。甲冑を身にまとい、頭には三山形の冠を戴いている。ハヤブサを思わせるほどの鋭い眼差しと、金糸のような髪の毛は、見るからに畏敬に価する偉容だった。さらに背には「正三位大納言坂上田村麿」と墨書されており、その道の専門家たちに鑑識させたところ、元の像に違いないとの極めが付けられたのだった。

 そうして、明石は、この像が戻ってきたことを忍海師に話して、田村堂に戻すことにした。そうして明石が一切を負担して、盛大な還座式が十三年二月一日に執り行われたのである。

 さて、こうした顛末で清水寺に戻された田村麻呂像だが、話の中で重要な役割を演じているのが明石博高であるのはいうまでもない。明石博高は、西洋の自然科学に通暁し、舎密局などを通じ、京都に近代産業を導入するのに貢献した人物だが、単なる新しいもの好きというのではなく、由緒のある古物古跡を尊重した人物でもある。若い頃は蘭学を学ぶとともに、漢学や国学歌道の教えも受けていた。後には、華族らを招いての歌会なども催していたともいうくらいなので、つまみ食い程度のものではなかったのだろう。この明石博高の尚古趣味について有名なのが、円山公園の枝垂れ桜の話だろう。明治の初年に一帯の払い下げがあった際、払い受けた人物が桜の古木を切ろうしていたのに対し、明石博高は木の代金を支払って保存させたという。それが後に円山公園のシンボルとなった枝垂れ桜である。明石博高のエピソードの中で、近代技術と関わりのない話としては、おそらく一番有名になっている話ではないだろうか。

 少し脇道に逸れてしまったが、実は話はまだ終わらない。明石博高の働きによって清水寺に戻った田村麻呂像には後日譚がある。ある日のこと、明石のもとを田村某という人間が尋ねてきた。その男が言うところによれば、先代に借金があるので返済をしたいとのこと。明石の方は、そんな話は聞いたこともなかったので、訳の分からない金は受け取れないと断った。ところが田村某は、確かな話だから受け取ってもわないと困ると言う。それで家に伝わる古い証文類を調べさせると、確かに言う通りの貸し借りが行われていた。それで納得して受け取ることにしたが、なにぶん古い話だから額面通りでなくてもいいのではないか、半額で十分と言うと、田村某はそれも承知しない。なんでも彼の家系は、坂上田村麻呂将軍に連なるものであり、信義を重んずることを家訓としてきた云々。そこまで言うのであればということで、明石の方も申し出の通りの金額を受け取ると、額は二四〇円もあった。そして、その額は先の還座式に要した経費二百三十五円とほぼ等しいものだったのである。明石はその不思議な奇縁を思いつつ、残りの五円を燈明代として清水寺に納めたという……

 さすがに、ここまでいくと出来過ぎと言われても仕方ない。どうせ出来過ぎと言われるのであれば、残りの五円と御縁を掛けるくらいの捻りがあってもいいとも思うが、まあ、そのあたりはどうでもいい。こういう話がもっともらしく語られている点の方が大切だろう。この手の同時代風のエピソードは、ベースにはその人の人となりが醸しだす「らしさ」がある。かの明石博高なんだから、きっとこんな話もあるだろうといった感じで、いろいろと尾ひれがついて広がっていたと思われるのである。大きく時代が下って平成の今日から見ると、明石博高といえば近代技術を移入した功績が大きく称えられるのだが、同時代的には、むしろその側面は従で尚古趣味の方が主のように思われていたのではないだろうか。

 ちなみに、上の話の出どころは『明治文化と明石博高翁』という昭和十七年刊行の本で、筆者は田中緑紅である。
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by office34 | 2009-06-21 06:52 | 明治人物志
2009年 06月 08日
岸駒の灯籠@清水寺
 清水寺の境内に「岸駒(がんく)の灯籠」なるものがある。紹介されることが少ないようなので、一度取りあげてみよう。

 土産物屋が並ぶ門前の通りを清水寺方面に向かって歩く。まず見えてくるのが仁王門と西門およびその奧の三重塔である。通常の拝観コースに従うのであれば、仁王門をくぐって西門横の石段を登る。ここを登ると、三重塔の裏へ回り込んで本堂方面に向かうことになる。拝観受付の前を通って轟門をくぐったところが本堂で、多くの人がお目当てにしている舞台も目の前に広がっている。もちろん、一般に紹介されているコースがこの道なので、その通りに歩くのが正しいのだが、清水寺の見どころなるものは、本堂の舞台だけではない。仁王門周辺からすでに始まっている。岸駒の灯籠というのも、その仁王門エリアにあるため、あまり見向きもされなくなったアイテムの一つである。

 そもそも岸駒の灯籠とは?、と問われると、江戸時代後期の画家、岸駒が奉納した灯籠と答えるのが一番正しい。しかし、見どころを抽出した説明にするのであれば、岸駒が得意としていた「虎図」を刻んだ異形の灯籠、という説明になる。

a0029238_18251881.jpg さて、その岸駒の灯籠のある場所なのだが、仁王門をくぐったあと、そのまま石段を登るのではなく、まず西門の下へ移動する。そこで西門を正面に見上げる場所で回れ右。右手の方を向くと、なんやら訳の分からない石造物が目に入ってくるはず。上部に円い穴が開いているのが発見できればOK、それが岸駒の灯籠である。円い穴は、火を置く部分、つまり火袋らしい(写真上、クリックで拡大)。

a0029238_1826590.jpg 近寄って、よく見てみると、なるほど虎らしきものが描かれている。虎であることを前提にして見ているからなのだろう、顔の様子(写真中、クリックで拡大)も、背中あたりの縞模様も、確かに虎だと頷ける。奉納された頃からの年代を思うと、もう少し摩耗しているかと思っていたが、虎であることが分かるには十分と言っていいだろう。ただ如何せん、見づらいと言われると、確かに見づらい。よく見ると虎であることが分かるのだが、言葉を変えると、よく見ないと分からないということである。そういう苦情に備えて、虎の部分を拡大→グレースケールに変換→コントラスト強調→白黒反転ということをやってみた。いわゆる拓本の要領というか、デジタル拓本である。目線のあたりなど、結構、迫力が出ていると思うのだが、どうだろう(写真下、クリックで拡大)。
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 なおこの灯籠の意匠を、本当に拓本にとって公開してくれている奇特な方もいるようなので、その方のページにリンクを張っておく(→拓本ギャラリー



 
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by office34 | 2009-06-08 18:30 | 京都本・京都ガイド
2009年 04月 25日
轟橋
轟橋という橋がある。ネットで検索する範囲では、大分の轟橋(とどろばし)と奈良の轟橋(とどろきばし)が有名になっているようだ。前者は、写真もでていて風格のある石橋であることがわかる。後者は、所謂「奈良八景」なるものの一つだったらしい。ただ、今回取りあげようと思っていたのは、これらではなく、京都にある轟橋である。

 以前、法輪寺のあたりをうろうろしていた折り、ふと門前の橋の名前が「轟橋」となっていることに目が留まった。その時、思ったのは、へえ、この名前はあっちこっちにあるんだな、ということ。というのも、すでに清水寺の境内にある「轟橋」のことは知っていたからである。

 清水寺の場合、ほんの短い橋で、拝観券を買って本堂に入る際、最初に渡る小さな小橋がこの名前だったはず。清水寺の公式サイトでは、重要文化財になっている轟門(「普門閣」の扁額を掲げる、本堂に入るところの門)が紹介されているが、確かこの轟門をくぐる手前のところの橋がそれだったと記憶している。

 近世の旅行記によれば、「轟之橋」との名前で「参詣の人、此橋をわたりて堂に入也」(名所都鳥)とある。この本には、続けて「又の説には、三年坂の下にわたす橋なりと、いかが」ともある。また「京羽二重」には「東山清水寺の麓三年坂の下に渡しぬるはし也、いにしへはしらず、今は小石ばし也」とある。「名所都鳥」の口調では、三年坂の下の轟橋については聞いたことがあるが、はていかがなものかとのニュアンスが漂っている。長い時間が経過している今日と比べても何にもならないのだが、当時と事情は変わっていなかったように思うのは、清水の本堂に入る橋の方が存在感はあった、ということである。

 大分の轟橋のように、橋自体にパッとした見映えがあるわけではなく、清水寺の従属物に過ぎないのだが、それでも、清水の観音様の重みによって、この橋の名前も広く知れ渡っていたのではないか。

 そんな轟橋なのだが、法輪寺の門前の橋も轟橋となっていて、ちょっと驚かされた。たまたまの一致なのか、それにしても、お寺に入る前にある橋に、同じ名前が使われているとすれば、「轟橋」というネーミング自体に何か教義的な意味合いがあるのかも知れない。先に触れた「名所都鳥」には、橋の傍らにあった慈心院が「轟の坊」と呼ばれていたから、橋も「轟之橋」となったとするのだが、僧坊の名前から橋の名前なのか、橋の名前から僧坊の名前なのか、ちょっと判じかねる。法輪寺の件がなければ、何の疑いもなく、轟の坊→轟之橋説に乗っかかるところだが、門前という空間と、「轟く」という言葉に、何か繋がりがあるような気がしてならない……考え過ぎだろうか?

 ちなみに、奈良の轟橋については、
『奈良曝』(1687年)では、「轟橋。雲井坂の南ニみどりか池のほとりにわづか成はしあり。車三りょうならぶゆへにかくいふとかや」と説明する。
とのこと(「奈良歴史漫歩 No.065 「彷徨う轟(とどろき)橋」 橋川紀夫」 よりの孫引き)。
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by office34 | 2009-04-25 11:34 | 橋のはなし
2008年 12月 01日
京都の秋(12) 哲学の道~清水寺12/1版
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 南座にまねきが掲げられ、清水寺の拝観券が冬バージョンになったとしても、季節の色は秋で踏み止まっている。というか、方々のところで、いよいよ本格的に秋を主張し始めたという感じである。旧暦と現代の季節がずれていてもさほど驚きはしないが、ついに風物詩と季節感が一致しなくなったということか。夏の代名詞のように言われる鴨川の床が、実際は一年の三分の一以上は掛けられていることを思えば、もはや驚いてはいられない。

 それはさておき、具体的にはどうなのかというと、哲学の道の場合、十一月の最終週あたりから紅葉が本格化し始めて、今がピークといったところだろう。お約束のアングルとはいえ、一枚くらいは自分で撮ったものを手許に置いておきたいと思っていた「秋の安楽寺山門」も、やっとのことで見映えのする感じになってくれた(写真クリックで拡大)。清水寺にしても、写真を見せられてこれが十二月の清水だと言われると、妙な感じを抱いてしまうほど、今が秋たけなわである。テレビの紅葉情報でもサンプルスポットにも選ばれながら、今年は遅いですと繰り返し言われていた下鴨神社に至っては、やっとのことで秋めいた景色が多くを占めるようになったといった具合である。

 もちろん朝晩の外気温はかなり厳しい。それでも昼間は暖かいし、この調子はあと数日は続くとのこと。十二月になったから秋色探しはお終いというのではなく、もう少し遊べそうな雰囲気なのである。

 今年は、京都の秋をいろいろなところで切り取っておこうという目論見があったので、あっちこっちを回ってしまった。観光客が大挙して押し寄せる季節に有名観光地に踏み込むのは好きではないので、これまでは意図的に避けてきたところもあったが、東山にしても、嵐山にしても、東福寺にしても、有名観光地には場所それ自体の魅力によって、観光客を集めるだけのものは備えているという、当たり前のことを今更ながらに感じさせられた年でもあった。

 ともあれ、京都の秋はまだまだ続くというのが実情ではあるが、報告は今回で打ち止めにするとして、最後に何枚かの写真をペタペタとやっておく(写真クリックで拡大)。

一段目左:南禅寺山門、右:水路閣
二段目左:錦雲渓、右:清水寺本堂舞台
三段目左:舞台に集う観光客たち、右:いい時期に来た修学旅行生
四段目左:下鴨神社糺の森、右:下鴨神社泉川
五段目左:上賀茂神社楼門、右:荒神口付近の河原町通(11/28)

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by office34 | 2008-12-01 21:56 | 街角の風景